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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

キリストには代えられません


キリストには代えられません
世の宝もまた富も
このお方がわたしに
かわって死んだゆえです

世の楽しみよ去れ
世の誉れよ行け
キリストには代えられません
世の何物も


キリストには代えられません
有名な人になることも
人のほめる言葉も
この心を引きません

世の楽しみよ去れ
世の誉れよ行け
キリストには代えられません
世の何物も


キリストには代えられません
いかに美しいものも
このお方で心の満たされてある今は

世の楽しみよ去れ
世の誉れよ行け
キリストには代えられません
世の何物も
(聖歌521番「キリストには代えられません」)

 しばらく寒い日が続いていたが、暖かさが戻って来て、庭には祖母が植えた花々がいっぱいに咲き乱れている。愛犬が亡くなった時に咲いていた花がもう今はない。今咲いているのは、牡丹、大手鞠、小手鞠、小さなガーベラ、珍しい菖蒲…。庭の花の移り変わりを記憶にとどめておくためだけに、新しいブログを作りたいと思うほどに美しい。
 近々、旅行に出る予定だ。きょうだいとの平和な交わりとなるだろう。積もる話が沢山できることだろう。幼い頃から、正しい信仰を求めて教会に通っていたが、教会の唱える教えから背くことに脅迫的な恐れを感じていたその頃には、我が家には全く平和がなかった。家族のほとんどがクリスチャンだったにも関わらず、信徒の交わりの名に値する絆さえなかった。

 私はカルト化教会で、それまでに持っていた夢の全てを失い、まるで罪人のように教会の会堂から放逐された。非道な事件に対する解決も得られなかった。絶望と怒りと悲嘆が心に押し寄せ、孤独の中で生きる意味もなくなったと思い、軽蔑と怒りと憎しみをどう処理して良いかも分からず、私の生活はもう死んだのだと考えた。
 それからずいぶん経って、今、焼け跡から木の芽がちらりと顔を出すように、新しい生命の息吹が私の人生に芽生えている。否、私の人生にではなく、一家全体の生活に芽生えた。そして私が置かれたこの場所と、与えられつつある新しい交わりの中に、新しい息が吹き込まれた。

 ああ、そうだったんだ、このことが必要だったんだな、私が死ぬことが…。そう納得させられた。
 思い出すと悲しいことが限りなくある。いなくなってしまった親友(下に書いた人ではない)、なくなってしまった希望。何事もなければ、きっと今、つかんでいたはずの成功…。写真をめくる度に、取り戻せない宝が目に飛び込んで来るので、悲しい気持ちになる。裏切られたと思う人々もたくさんいる。
 だが何よりも、愚かな人生を送っていた間に、私自身が率先して取り返しもつかないほど傷つけてしまったある人のことが思い浮かぶ。石を飲み込んだように心が重くなる。あの人はきっと私以上に苦しんだだろう。どう謝罪しても、許されることはないだろう…。この失敗は私の人生最大の汚点として残るだろう…。
 当時の私の生き方を振り返ると、自分の苦労のことしか考えず、何一つ、大切なものが見えていなかったことが分かる。その頃の幼い私が抱えていた問題の大きさと、そして追い詰められたゆえにしでかした過ちの大きさを考えると、叫び出したい気持ちになる。どうすれば良かったのか、他にどんな選択肢があったというのか。主よ、愚かな私にはあの時、あれ以外の行動には至りようがなかったのです。今頃になって、そのことの意味が分かったのです。罪を犯していることが分かりながら、どうしようもなかったのです。
 「主よ、お許しください、彼らは何をしているのか自分で分からないのです」、そう祈ってもらわなければならないのはまさにこの私である。しかし、そう思う時に、すでに十字架が与えられている憐れみを思い出す。罪は許されている。後は、和解の作業に踏み出さなければならないだけだ…。たとえどんなに謝っても、決して、許されないとしても、それでも和解の努力をせねばならない…。
 しかしそこでもまだ、完全に自己に死ぬことにためらっている自分を見出す。

 昨日、色々と思い巡らしている時、ふとこの賛美歌を思い出した。「キリストには代えられません」。この曲は、旋律と日本語の歌詞が絶妙に一致しているため、少しも翻訳の不自然さがなく、多分、最も美しい賛美歌の一つとして、この先も日本のクリスチャンの間で歌い継がれるだろう。

 ロックバンドのような騒がしい奏楽の下では決して歌えないだろうこの曲。
 静かな、静かな、わずかに聞こえる程度の伴奏で良い。全ての喧騒から遠ざかって、ただ主が十字架上で成してくださったことだけを思いながら、歌いたい。

 真の信仰とは、神ご自身を見上げ、主を中心として生きることだ。
 私の言い訳と自己義認の全てが、主の義の前で焼き尽くされるだろう。
 この賛美歌の英語の作詞者は、耳に挟んだところでは、自分の家から焼け出された後に、「やっとキリストと二人きりになれた」と言ったそうだ。
 もっともっと、キリストと二人きりにならなければ。もっともっと、いっぱい、聖霊に叱られなければならない。その痛みを乗り越えて、今度こそ、キリストの愛する花嫁と呼ばれるにふさわしい新しい門出へと踏み出そう。ただ自分ひとり、正しい信仰を自己満足的に守るためではなく、私と共に生きてくれる愛する人たちと手を取り合いながら生きるために。
 いつか来るべき日に、キリストがしみもしわもない汚れない花嫁衣裳を私のために調えてくださるだろう。十字架で流された血だけが、全ての汚れを取り除くことができる。私の正しい選択が、私を義へと導くのではない。

 何もかも失ったが、キリストを失わなくて良かった。

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