忍者ブログ

私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(8)

8.見えるものを神とする――汎神論化された偽りのキリスト教

①死の否定

サンダー・シングの教えは、ただ裁き主としての神を否定し、万物に定められている滅びを否定するだけにはとどまりません。彼は何よりも、「死」という概念そのものを骨抜きにすることによって、旧創造と新創造の切り分けを否定し、朽ちるものと朽ちないもの、見えるものと見えないもの、神に属するものと、そうでないもの、一時的なものと永遠に至るものの切り分けを否定しようとします。

一言で言うならば、十字架の切り分けを否定して、朽ちるものと朽ちないものとを混同するこのような教えは、結局、目に見えるものこそ神であるという主張へとたどりつくのですが、まず最初に、サンダー・シングが、朽ちるすべてのものが経なければならない死という概念を、どれほど歪めて解釈しているかを見てみましょう。まず、彼の書物の冒頭の文章を引用します。

「ただ一つの生命の源――無限かつ全能の生命――がある。その創造の力が、生きとし生けるものすべてに生命を与えたのである。全被造物はその中に生き、未来永劫にわたりその中に留まり続ける。この生命の源は、違った種類の、発展段階も異なる、数知れぬ生命を創造した。人間はその一つであり、神ご自身の姿に似せて造られた。それは、人が神の聖なる臨在の中で、永遠に幸福であり続けるためである。」(p.34)

まず、この文章を通して、サンダー・シングが事実上、目に見えるものの永遠性を主張していることがお分かりになるでしょうか? 彼は言います、神こそが全ての生命の源であり、神が全ての被造物を創造し、「全被造物はその中に生き、未来永劫にわたりその中(筆者――神の命の内)に留まり続ける」と。これは、創造の初めから今に至るまで、罪によって神と断絶した被造物は一つもなく、従って、被造物は創造からこの方ずっと神の命の中にあり、滅びを経ることなく、これからも未来永劫に、神の内にとどまり続けると言っているに等しいのです。

しかし、このような主張は「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続く」(Ⅱコリント4:18)という御言葉に反しています。人の罪のゆえに全ての「被造物が虚無に服し」、「滅びの束縛」の中に置かれたこと、神の子供たちがこの朽ちゆく肉体の中にあって、からだの贖われるときを待ち望んでいること、「被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしている」(ローマ8:20-23)ことを否定しています。

サンダー・シングは全被造物には
罪のために死が入り込み、被造物が神と断絶したという事実を認めません。そして彼は「朽ちるものは、朽ちないものを相続できません」(Ⅰコリント16:50)という御言葉を無視して、被造物が持っている朽ちる命が、そのままで神の命に等しく、永遠に続くかのように主張しているのです。これは見えるものと見えないものの切り分けの否定であり、朽ちるものと朽ちないものとの混同、一時的な滅び行くものと、神の永遠の命に属するものを混同する教えです。

このような異常な考え方に立つと、新創造とは何かを理解する根拠が全く失われてしまいます。ここには旧創造と新創造を切り分ける十字架が全くありません。

さらに、サンダー・シングの使っている「発展段階」という言葉は、彼の教えが進化論の影響を受けていることを物語っています。サンダー・シングは、人は「神ご自身の姿に似せて造られた」けれども、「違った種類の、発展段階も異なる、数知れぬ生命…の一つ」に過ぎないと言っています。つまり、それぞれの生命には種類を超えた「発展段階」があると示唆しているのです。

しかし、聖書は、神がそれぞれの生命をその「種類にしたがって」(創世記第一章)造られたことは記述していますが、それぞれの生命に種類を超えた
「発展段階」があるとは全く述べていません。ですから、この言葉からも、私たちはサンダー・シングの教えが聖書に基づかず、決して神から来たのでない別の起源を持っていることをさらに明確に理解するのです。

さらに、朽ちゆく命が決して滅びを経ることなく永遠に神の内にとどまりつづけるという、絶対にあり得ない事柄を主張するために、サンダー・シングが「死」という概念をどのように骨抜きにしているかを見て下さい。


「生命は変化することはあっても、決して滅ぼすことはできない。死とは、ある存在形態から別の存在形態へと変化することを指すのであり、生命を終わらせることを意味するのでも、生命を加えることを意味するのでも、ましてやそこから何かを取り去ることを意味するものでもない一つの存在形態から別の存在形態へと生命を移すことにすぎないのだ。あるものが目にみえなくなっても、それは存在しなくなったのではなく、別な形と状態の中でまた現われるのである。

この宇宙の中でかつて滅ぼされたものは何一つなく、今後もそうである。それは、創造主が破滅のためにものをお造りにならなかったからである。滅ぼす意志があれば、初めから創造することはなかったであろう。被造物が何一つ滅ぼされないとすれば、被造物の極みにして神の形に造られたという人間が、どうして滅ぼされよう。神は神ご自身の形を滅ぼすことができようか。あるいは、それ以外のどのような被造物にも人間を滅ぼすことができるだろうか。決してできないのである。人が死をもって滅びないとすれば、次のような問いが起こってこよう。人は死後、どこにいるのか、どのような状態にいるのか……。」(p.34-35)


ここでも、サンダー・シングは再三に渡り、神は絶対に人間を滅ぼしたりなさらないと、万物に定められた神の滅びの刑罰を否定せずにおれないわけですが、それはさて置き、ここで「死」という概念そのものが事実上、骨抜きにされ、否定されていることに注目して下さい。「死とは、ある存在形態から別の存在形態へと変化することを指すのであり、生命を終わらせることを意味するので…もない」と彼は言います。

このような詭弁を許すならば、死はもはや死ではなくなってしまいます。オースチンスパークスは『人とは何者か?』の中で、死についてこう述べています。「アダムのときにこれが起きた時、死が入り込みました。死の性質は、この語の聖書的意味によると、神との霊的結合からの分離です。」

人が罪を犯した時、人の霊は堕落し、神に対して死んでしまいました。全被造物も人の罪のゆえに神と断絶し、サタンと暗闇の軍勢に引き渡されました。これが死の意味です。死の真の意味は、霊的な死を指しており、神に対して死んでいるということです。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23) 肉体の死は罪が最終的に結ぶ実に過ぎません。一人の人の罪のゆえに全被造物に死が入り込んだのです。

生まれながらの人は、アダムの命にあって、人の目にはあたかも生きているかのように思われますが、それは、肉と罪とこの世(サタンと暗闇の世)に対して生きているのであって、神に対して彼は死んでいます(「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって…」(エペソ2:1))。「ひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになった」(ローマ5:17)。生まれながらの人は「一生涯死の恐怖につながれて奴隷」(ヘブル3:15)となって、死の支配下にあります。

もろもろの罪に対する解決策は赦しであり、それは神の子羊なるキリストの尊い血潮によって得られますが、死に対する解決法はただ一つ、復活しかありません。それはキリストのよみがえりの命によります。それは人が今まで生かされていたアダムの命に対して死んで、神の霊によって新しく生かされることです。復活は神の側からの奇跡以外の何ものでもなく、それはただキリストの達成された御業です。アダムの命からはどんなに努力しても、死以外のものを生み出すことはできません。ですから、人が神に対して生きるとは、ただキリストの十字架の死とよみがえりによる以外にはないのです。

「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」(エペソ2:4-6)

「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4:25)

「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(ヘブル3:14-15)

「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ3:5-6)

「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:24)


このように信仰により、キリストの十字架の贖いを受け入れ、神の霊によって新しく生まれなければ、誰も神の国に入ることはできず、死の支配から解放される手立てはないのです。

しかし、サンダー・シングは生まれながらの人が一人の例外もなく、罪のゆえに神に対して死んでいることを認めず、信仰によらずとも、被造物の朽ちる命の永遠性を主張します。そして、人が罪のゆえに刈り取らなければならない最後の報酬である死さえも事実上、否定して、死とは「別の存在形態へと生命を移すことにすぎない」と、魔法のように言い換えるのです。こうして、アダムの朽ちる命のままで、人が永遠に至る道があるかのような偽りを教えるのです。


②肉の思いは死である

しかし、驚くべき結果に注目しましょう。このような詭弁を用いて、人の命は決して滅ぼされないと主張しているサンダー・シングの関心は、結局、どこへ誘われていくのでしょうか?

「人が死をもって滅びないとすれば、次のような問いが起こってこよう。人は死後、どこにいるのか、どのような状態にいるのか……。」


この問いの後、サンダー・シングの物語は、彼が瞑想中に出会ったとする様々な「死者との交流」、「死後の世界」に没入していきます。

なんと不健康極まりない発想だろうかと呆れ果てるのです。まさに「肉の思いは死であり」(ローマ8:6)というパラドックスが見事に表れているのではありませんか? これは彼の自己矛盾です。一方では、「被造物の極みにして神の形に造られたという人間が、どうして滅ぼされよう」と、旧創造の死を否定しながら、他方では、彼は生きている者についてではなく、死者について語らずにいられないのです。

この矛盾はまさに、「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:39)という御言葉の成就ではないか思います。朽ちるアダムの命に定められている滅びを否定して、アダムの命を惜しみ、主と共なる十字架の死を拒んで、自らの力で復活の領域に達し、永遠に至ろうとすると、人はこうなるのではないでしょうか。思いは死にとらわれ、ずっと死の周辺をめぐり続け、生きているうちからまるで死者のように、死の支配にとらわれて、黄泉の国に誘われていくのです…。

補記:「悟りの道から迷い出る者は、死者の霊たちの集会の中で休む。」(箴言21:16)

断じて、クリスチャンはこんな問いに誘われて、死者との交流というテーマに立ち入るべきではありません。義人であろうと罪人であろうと、生きている者が死人にお伺いを立てることを、聖書がどれほど禁じているか振り返ってください。

「あなたがたのうちに…占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならないこれらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。あなたは、あなたの神、主に対して全き者でなければならない。」(申命記18:10-13)


③見えるものを神とする

さて、このように十字架の切り分けを否定して、朽ちるものと朽ちないもの、見えるものと見えないもの、旧創造と新創造との切り分けを否定すると、最後には、全てのグノーシス主義の教えがそうであるように、目に見えるこの物質世界こそが真のリアリティであり、見えるものこそ神であるという主張に至りつきます。サンダー・シングは次のように述べます。

「真の、全能かつ永遠の唯一神がいること、現世はその被造物であるというのが真実なのである。この物質世界は、ヴェーダーンタ学者やソフィストのいうがごときマーヤー(筆者注――幻影)ではなく、現に存在するものである。被造物は神そのものではなく、神から離れてもいない。神は全被造物の中に現臨するのである。『人は神の中に生き、動き、存在を得る」(p.393)

ここまで来ると、完全にキリスト教とは別の宗教が成り立っているとしか言えませんが、ここでサンダー・シングが言おうとしていることは、「神はすべての見えるもの(被造物)の中にいます」という結論なのです。これはほとんど汎神論と呼んで差し支えないと私は思います。

ここにもサンダー・シングの自己矛盾があります。一方では、彼はまことしやかに、彼一人だけが「霊眼」によって見たとする、(聖書にも反し)誰一人として存在を証明できない目に見えない死後の霊界について語りながら、他方では、目に見えるこの全宇宙こそ、まことのリアリティであり、「神は全被造物の中に現臨する」と宣言しているのです。

聖書によれば、悪魔は「偽りの父」であって「彼が偽りを言うとき、いつも本音を吐いている」(ヨハネ8:44)のですから、偽りの父を起源とする異端に、自己矛盾、支離滅裂がつきものなのは当然のことです。今しがたあれほど確信を持って述べたことを、次の瞬間には、平然と自分で否定していたとしても不思議ではないのです。

「実際、神は万物に在り、万物は神に在る。だからといって、神イコール万物でも、万物イコール神でもない、創造者と創造物を混同する人間が無明に沈み込むのである。」(p.175)

サンダー・シングは、被造物イコール神なのではない、とあくまで注釈をつけていますが、そうであるからといって、サンダー・シングが「神は万物に在り、万物は神に在る」と言って、信仰によらずとも、全ての被造物が神の命の内にとどまっているかのように主張し、キリストの体を、見えない霊の体としてとらえず、むしろ、目に見える宇宙(物質世界)と同一視し、目に見えるこの世の被造物に神の現われを見出そうとしている事実は否めません。

朽ちる命と、朽ちない命の切り分けを否定し、見える一時的な世界と見えない永遠の来るべき世とを混同する結果は、結局、見えるものを神として祭り上げる結論の他にないのです。このようなサンダー・シングの言説が、キリストは宇宙の全ての被造物の中に満ちており、人格を持たない木や石の中にさえおられるとしたグノーシス主義の一部の教えと非常に共通していることにも、注意を払いたいと思います。

以下は、『トマスによる福音書』、荒井献著、講談社、p.302から、

「イエスが言った、『私は彼らすべての上にある光である。私はすべてである。すべては私から出た。そして、すべては私に達した。
 木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう」(七七)

 イエスは「光」として、覚知(グノーシス)者にとっては、そこから出てそこに帰る「すべて」のもの――人間のみならず、木にも石にも内在する。――こうして、「父」と「子」(イエス)と「子ら」は、「光」にあってその本質を一つにする。そしてこの「光」は、語録六一において「一人」あるいは「同じ者」と言い換えられるのである。」

このような主張は、神が唯一の神であって、キリストが人格を持っておられることさえも否定している点で、その荒唐無稽さに呆れる他ないのですが、しかし、サンダー・シングの主張もほとんどそれと変わりません、彼もまた目に見える物質世界に神の現われを見出そうとしているからです。

しかし、聖書は、サンダー・シングが万物を神の位置にまで押し上げているのとは逆に、万物こそ、キリストの足の下に従わねばならないことを述べています。聖書はキリストは万物の上に立つかしらであると述べています。(エペソ1:20-23 参照)

「…それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。『彼は万物をその足の下に従わせた。』からです。…万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神がすべてにおいてすべてとなられるためです。」(Ⅰコリント15:24-28)

このような文脈で、次の御言葉も述べられています。

「…すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ11:36)

聖書は、万物を支配する一切の権限が御子に委ねられていることを示しています。「父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。」(ヨハネ3:35)「…万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ1:16-17)

「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」(ヘブル11:3)

聖書ははっきりと、見えるものは、見えない神の言葉によって成ったのであり、見えるものは目に見えるものから出来たのではないことを示しています。

しかし、サンダー・シングは、万物が御子の支配に服従せねばならないことを否定して、むしろ、万物を神の地位にまで引き上げようとするだけでなく、聖書によれば、見えないものこそが真のリアリティであって、見えるものはすべて、真のリアリティによって作り出された影のようなものに過ぎないという事実を決して認めようとしません。彼の書物の中には、「神(ブラフマン=絶対者)」を除いてはすべてが「マーヤー(幻影)」であるとするインドのヴェーダーンタ学派を彼が非難しているくだりがありますが、なぜ彼がヴェーダーンタ学派の「マーヤー」という考え方に激しく反対したのかも、これまでの文脈からほぼ明らかとなります。

聖書によれば、”I AM”と言われるお方だけが真のリアリティであり、全ての造られたものは、まことの神のリアリティに比べるならば、影のようなものであって、真のリアリティとは言えません。天に属するもの、すなわち、御子の十字架を経て、神の永遠の命に属し、永遠に至るものだけがまことのリアリティであり、それ以外は一時的な、滅びゆくものに過ぎないのです。そして、見えるものも見えないものも、すべての造られたものが、見えない御子によって、御子のために造られ、御子の支配に――神の霊なる支配に――服さなければなりません。サンダー・シングにはそのこと――見えるものが目に見えるものから出来たのではなく、万物が見えない御子によって成り、御子の支配に服さねばならないこと――が認められないのです。

聖書は言います、「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方」であり、「万物は、御子にあって造られ、御子のために造られたのです」(コロサイ1:15-16)、律法の定めや色々な決まりごとだけでなく、造られたすべてのものは――被造物も含め――次に来るもののであって、本体はキリストにある」(コロサイ2:17)のです。

ところが、サンダー・シングは「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続く」(Ⅱコリント4:18)という事実、目に見えるものは、「次に来るもの影」であるという事実を思わせるような主張には、(たとえそれがヴェーダンタ哲学であっても)、異議を唱えずにいられないのです。彼は言います、「目に見える被造物は夢でもマーヤーでもなく、現実のものなのである」(p.395)と。つまり、見えるものこそが、真のリアリティであると彼は言いたいのです。

これが見えるものと見えないものの秩序をさかさまにした偽りのキリスト教であることはすでに述べましたが、このような主張は結局、見えるものを神としている点で、(まことの神を否定して物質を神とする)唯物論、また、物質に神性を見出そうとする汎神論となり、聖書からは全くかけ離れた別の教えになるのです。


④ 神の国をこの世と同一視する

こうして、見えるものと見えないものの順序をさかさまにし、朽ちるものと朽ちないものを混同し、霊によって把握すべきことを魂によってこの世の領域に還元し、地に属するものと天に属するものを混ぜ合わせようとした結果、サンダー・シングはキリストのからだを見えない霊のからだとして理解せず、むしろ、キリストを見える世界そのものに見出そうとして、ほとんど汎神論と言っても良い主張に陥るだけでなく、彼は神の国というものも、目に見える世界に還元し、神の国をこの世と同一視しようとするのです。

「全宇宙は体である。四肢はどれも全身につながっているので、一部にでも痛みが生じれば、全身にそれが響く。血清が体の一部に使われれば、全身がその作用を感じる。それと同じく、キリストはこのみえる、そしてみえざる宇宙の一部たる地球で十字架に付けられたにもかかわらず、全宇宙がキリストの死から影響を被った。また、キリストは世の救いのためにただ一つの場所(エルサレム)で十字架にかけられたにもかかわらず、今も全世界はキリストの犠牲を共にしている。霊が全身に満ちているように、神は全宇宙に存在している。」(p.291)

ここでも、「神は全宇宙に存在している」という汎神論的主張が繰り返されています。その上、サンダー・シングがここでもやはり、信仰の必要性を否定していることが分かるでしょうか。ここで彼は、まるで全世界の被造物が、歴史を通じて、キリストの十字架と自動的に一体であり、キリストと絶え間なく苦しみを共にして来たかのように述べています。しかし、きちんと聖書に戻るならば、この言説がまるで嘘であることがよく分かるのです。

「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:9-12)

ここにははっきりと書いてあります。「世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった」と。「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」と。世は自分を救うために遣わされたキリストを受け入れることを拒み、彼を十字架につけて殺したのです。

にも関わらず、サンダー・シングは世が御子を拒んで十字架につけた罪には一切触れずに(上記の文章の続きのくだりでも、キリストの十字架は罪人に対する神の一方的な愛のボランティアに過ぎなかったことにされ、世が彼を十字架につけて殺したその罪については一言の言及もありません)、まるで全世界が初めから彼の犠牲に哀悼の意を表し、全宇宙がキリストと自動的に一体であるかのように述べているのです。これでは、世の犯した罪も、信仰の必要性も否定されてしまいます。

聖書ははっきりと述べています、「…この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」と。

このように、個人的な信仰によらなければ、誰もキリストの十字架の贖いを受け取ることはできず、神に受け入れられることもないにも関わらず、サンダー・シングは、あたかも信仰によらなくとも全世界がキリストの十字架により自動的に贖われているかのように主張し、信仰による救いを否定し、そのようにして、御子を拒んだ世の罪を覆い隠し、帳消しにして、この世をむしろ名誉回復させようとしているのです。

ですから、このようなことを考え合わせるならば、サンダー・シングが述べている全宇宙に存在している神とは、とどのつまり、この世の神を指していると言って良いのではないかと思います。
「私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。」(Ⅰヨハネ5:19)。人の堕落とともに、この世、旧創造はサタンに引き渡されました。ですから、「この世の君」(ヨハネ12:31)とはサタンのことに他なりません。それらの文脈を一切を無視して、サンダー・シングは目に見えるこの世があたかも創世の初めから神に背いたことなど一度もなく、キリストの十字架以来、絶えず彼と苦しみをともにして来たかのように主張し、世の罪というものを認めないのです。これでは結局、彼はこの世の神をまことの神として逆転させようとしていると言っても過言ではありません。

「…この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」(Ⅱコリント4:4)

サンダー・シングの次のような言説も、すべてをさかさまにしているため、決して惑わされないように注意しなければなりません。

「神が存在するところには、天国あるいは神の国がある。だが、神はどこにも存在するので、天国はすべての場所にある。このことを知っている真の信仰者はどこにあっても、どのような状態にあっても、苦しみや困難に見舞われているときも、友の中にいるときも敵の中にいるときも、現世にあっても来世にあっても幸せである。彼らは神の中に住み、神もまた彼らの中に永遠に住まわれる。これこそ神の国である。」(p.304)

注意して下さい、このような主張は東洋人の好みに非常に合致しているがゆえに、日本人の耳にとても良さそうに響くのです。日本人の文化的・精神風土には、「知られない神に」(使徒17:23)と刻んだ祭壇を拝んだアテネの人々のように、「神(々)はどこにでも存在する」という考え方が脈々と流れています(聖書の神は遍在されますが、この時空間の中に住まわれるのではなく、また、被造物の中に神性として宿っているのでもありません)。私たちは幼少期から、八百万の神や、石で作った道ばたの地蔵にも神が宿っているといったような考え方に慣らされて、神を人格としてとらえないことや、あたかも目に見えるどんな被造物の中にも神が宿っているかのような考えを受け入れやすい精神的土壌が作られてしまっているのです。

しかし、きちんと聖書に戻りましょう。神の国はどこにあると聖書は言っていますか?

神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:20-21)


この記述に照らし合わせるならば、「神はどこにも存在するので、天国はすべての場所にある」というサンダー・シングの主張が完全に偽りであることがよく分かります。彼の主張とは逆に、聖書は、神の国の所在をきわめて限定しています。神の国はこの世の時空間に存在するあれやこれやの場所や、あれやこれやの被造物の中にはなく、ただ御子を信じる者のただ中に存在すると聖書は言っています。ですから、サンダー・シングの述べている地上天国の夢がどんなに良さそうに響いたとしても、聖書に反して、神の国をこの地上の時空間内(全ての被造物の内)に見出そうとしている点で、それがむなしい偽りの夢に過ぎないことが分かるのです。それは地上に作り出された神の国の幻(模造品)に過ぎず、その偽りの夢を作り出したのは、ただこの世においてのみ活動を限定的に許されている者たち(暗闇の勢力)なのです。

最後に、もう一度、確認しましょう、キリストはどこにおられるのでしょうか? 「木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう」と、果たして主は言われたのでしょうか? 「神は万物に在り、万物は神に在る」「神は全被造物の中に現臨する」、それが聖書の教えなのでしょうか? 

いいえ、まず、神については聖書はこう述べています、

「神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。」(Ⅰテモテ6:15-16)


(そうです、この御言葉にも、死のない方はただ神お一人しかおられないということが示されているではありませんか。) そして、キリストのおられる場所は、次の御言葉が示している通りです。


「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ1:27)


 

PR