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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(2)

2.唯物論化された擬似キリスト教

サンダー・シングが神の刑罰の存在を否定していることはすでに見ました。すると一つの疑問が浮かび上がります。もしも神が人を地獄に落とされることはないと彼が考えているのだとすれば、それでは、サンーダ・シングの言う天界と地獄とは、一体、どこからやって来たものなのでしょうか?

自らを地獄に突き落とすのは罪人自身の誤った生活である。生が終わり天界と地獄が迫ってくるはるか以前に、善悪の性質に応じて各人の心の中で自分自身の天界か地獄が形作られている。それゆえ、あの永遠の苦しみから救われたいと切に望む者は、心底悔いて心をわたしに明け渡すがよい。わが現存と聖霊の働きによって、永遠に神の御国の子供となるためである。」(p.210)

これはサンダー・シングの自己矛盾です。一方では、彼は地獄にさえも救いはあると説きながら、他方では、地獄には「永遠の苦しみ」が存在すると述べているのです。しかし、異端につきもののこの種の支離滅裂は今は気にせず通りすぎ、もっと重要な部分に注目しましょう。

ここで見落としてはならないのは、サンダー・シングが「天界」「地獄」もともに人の心の中で形作られるもの、つまり、天国も地獄も神の創造されたものではなくて、むしろ、人の心が生み出す「状態」であるとしていることです。

「天界と地獄は、霊の領域にある相反する二つの状態である。人間の心の中にその起源はあり、その基礎が築かれるのもこの世界である。」(p.247)

これは驚くべき発言です。サンダー・シングは天界も地獄も、「人間の心の中にその起源はあ」ると述べているのです。天界とは、彼の呼び名であって、クリスチャンにとっての御国、神の国に相当するのですが、彼は神の国も地獄も、神の創造したものではなく、被造物である人自身から出て来るもの、人の心の状態や性質が決定するもの、ひいては、この世でその基礎が築かれると言っているのです。

お分かりになりますか? これは唯物論の始まりと言って差し支えないのです。論理が飛躍していると思わないで下さい。これは神の国と地獄に対する唯物的解釈と言えるのです。なぜならば、ここでは目に見えるものと目に見えないものの順序がさかさまになっているからです。サンダー・シングは、神の国と地獄という目に見えないものは、目に見えない神ご自身に起源がある絶対的なものではなく、目に見えるもの(この世、被造物である人間)によって作り出される相対的な状態に過ぎないと言っているのです。「その基礎が築かれるのもこの世界」という彼の言葉は、神の国と地獄はこの世によってその基礎が規定されると言っているに等しいのです。

このような考え方を極みまで推し進めると、「下部構造は上部構造を規定する」というマルクス主義の主張が出て来ます。少なくとも、ここには根底に同じ(さかさまの)発想があることはお分かりいただけるでしょう。

しかし、聖書は何と言っているでしょうか、「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」(ヘブル11:3) 

聖書の述べている正しい順序は、目に見えないものこそが全ての造られたものの起源であるということです。この目に見えないものとは、神の言葉であられる御子キリストです。聖書は言います、全ての目に見えるもの目に見えないものは御子によって造られたと、御子によって造られなかったものは何ひとつとしてないと。

「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです万物は、御子によって造られ、御子のために作られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ1:15-17)


「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネ1:1-3)

にも関わらず、サンダー・シングはこの秩序を逆にひっくり返してしまうのです。彼は天界と地獄が見えない御子によって造られたとは認めません。むしろ、目に見えるこの世と目に見える人間の心の状態が目に見えない天界と地獄を規定すると言うのです。

このさかさまになった秩序、目に見えるもの(この世)こそが全ての造られたものの起源であるという主張こそ、唯物論なのです。しかし、これはサタンの秩序です。

以前にも書きましたが、まことの神の働きは、常に見えない神の霊から出発して、霊→魂→肉体の順序を取ります。しかし、サタンの働きは、常に外側からで、肉体(この世)→魂→霊です。神は目に見えない霊の領域から全ての物事を始められますが、サタンはその秩序を否定してさかさまにし、すべては目に見えるこの世から出発し、目に見えるこの世に帰着して終わると主張するのです。

神の事実は、見えないものが見えるもの・見えないもの含めて、全ての造られたものを規定するというものですが、サタンの主張は、見えるものが、見えるものも見えないものも含めて全ての造られたものを規定するというものなのです。サタンは見えない神の言葉であられる御子による支配がすべてを超越することを決して認めません。彼にあっては、自らが統治する暗やみの世が最高の権威でなくてはならず、従って、この世こそ全ての起源であり、アルファでありオメガであり、目に見えるものが全ての造られたものの根源であると主張するのです。サタンには、万物が見えない御子によって生まれ、万物が御子の霊的統治に服さなければならず、御子こそがこの世においても来るべき世においても永遠に最高の権威であることが絶対に認められないのです。

このことを考慮すれば、天界と地獄の基礎がこの世にあるとするサンダー・シングの主張がどのように聖書に反しているのかが分かるだけでなく、
「下部構造は上部構造を規定する」という唯物論者の主張が、まさにサタンによって息吹かれた思想であることも分かるのです。


サンダー・シングの教えをあと一歩、突き詰めるならば、無神論となります。唯物論者はサンダー・シングよりもさらに先を進んで、天界や地獄だけでなく、神そのものも、しょせん人間の心が作り出した心の状態に過ぎないと言い切っています。

参考までに、唯物論者が神をどう定義しているかを挙げておきます。

「自然の諸力の擬人化によって最初の神がみが生じた。この神がみは、諸宗教がさらに発達していくうちに、ますます世界外的な姿をとるようになった。ついには、[人間の]精神が発達していくにつれて自然に生じてくる抽象作用の過程<…>をつうじて、多数の<…>神がみから、一神教的諸宗教の唯一神という観念が人間の頭のなかに生じたのである。」(『フォイエルバッハ論』、エンゲルス著、大月書店、p.28)

この主張が誇らしげに述べようとしているのは、神が人間を創造したのではなく、人間こそが神を創造したのだ、ということです。この主張は創造主を否定しています。神はこの世界を造られた、万物を超越して支配する唯一の見えないパースンなのではなく、人間の心の状態が作り出した産物に過ぎない、と言っているのです。従って、これによれば、人間を離れて神は存在せず、神は人間の付属物、もしくは人間によって作り出された被造物、神は人間によって規定されるもの、ということになります。

これは何という冒涜的な考えでしょうか。すべてがさかさまです。唯物論は、見えるものこそ真のリアリティだと言うのです。見えないものが見えるものを規定するのではなく、見えるものが見えないものを規定し、神ですら、物質世界としてのこの世と目に見える人間が造りだした産物に過ぎないと言うのです。

しかし、サンダー・シングの主張も唯物論者の主張からそう遠く離れていません。サンダー・シングは神そのものまでが人間の想像の産物であるとまでは言っていませんが、しかしながら、彼の主張はその一歩手前まで来ています。

もう一度、サンダー・シングの言う「神」とは何かを振り返ってみましょう。それは、聖書のリアリティから遠くかけ離れた「神」です。それは人間に都合の良い神、人間を決して罰したり、滅ぼしたりしない神、決して人間にとって脅威にならない神です。この「神」は何によって規定されているのでしょうか? 人間の思いによってです。目に見える人間の心の欲望によってです。確かに、サンダー・シングの「神」は、人間の心によって規定されたものだと言えるでしょう。彼の教えにおいては、天界や地獄だけでなく、神までも人間の心によって規定されているのです。目に見える人間の心の欲望が見えない神を定義しているのです!

(人間自らが神を定義しようとすることの愚かさを認め、そのようなものは人の心の作り出した幻、偽りに過ぎないと言い切っていた点だけに注目するならば、唯物論者はサンダー・シングに比べればまだ幾分か正直だったと言えるかも知れません。)

どんなに「神」や「キリスト」、「神の国」などのさまざまな用語を使っていたとしても、人が聖書の御言葉から逸れて、神を自分の思いによって定義し、推しはかろうとすればするほど、そこからはまことの神のリアリティが失われていきます。そこにあるのはただ人間の心によって作り出された幻、形骸化した概念だけです。そんなものは人間の欲望に過ぎず、神ではありません。”I AM”と言われるまことの神のリアリティはそこにはありません。

被造物に過ぎない人間が自分勝手な思いによって神を定義してはならないのです。それは神に対する驕りに満ちた挑戦となります。それは人が神に服するのではなく、むしろ、神を人間に服させようとすることですから、神に対する反逆です。人が神を自分に都合良くおしはかろうとして御言葉を曲げると、その主張から、ただ”I AM”と言われるまことのお方のリアリティが失われるだけでなく、結局、そのような主張の最後に行き着く先は、まことの創造主なる唯一の神の否定であり、「神はない」という結論の他にないのです。

「悪者はおのれの心の欲望を誇り、
 貪欲な者は、主をのろい、また、侮る。
 悪者は高慢を顔に表わして、神を尋ね求めない。
 その思いは『神はいない。』の一言に尽きる。」(詩篇10:3-4)

「主を恐れることは知恵の初め、
 聖なる方を知ることは悟りである。
 わたしによって、あなたの日は多くなり、
 あなたのいのちの年は増すからだ。

 もし、あなたが知恵を得れば、
 その知恵はあなたのものだ。
 もし、あなたがこれをあざけるなら、
 あなただけが、その責任を負うことになる。」(箴言9:10-12)



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