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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

カルト化教会の被害者のために―哀歌 第三章より―

「わたしは彼の怒りのむちによって、
悩みにあった人である。
彼はわたしをかり立てて、光のない暗い中を歩かせ、
まことにその手をしばしばかえて、
ひねもすわたしを攻められた。
彼はわが肉と皮を衰えさせ、
わが骨を砕き、
苦しみと悩みをもって、わたしを囲み、
わたしを閉じ込め、
遠い昔に死んだ者のように、
暗い所に住まわせられた。<略>

わたしは叫んで助けを求めたが、
彼はわたしの祈をしりぞけ、
切石をもって、わたしの行く道をふさぎ、
わたしの道筋を曲げられた。<略>

わが魂は平和を失い、
わたしは幸福を忘れた。
そこでわたしは言った、『わが栄えはうせ去り、
わたしが主に望むところのものもうせ去った』と。
どうか、わが悩みと苦しみ、
にがよもぎと胆汁とを心に留めてください。
わが魂は絶えずこれを思って、
わがうちにうなだれる。

しかし、わたしはこの事を心に思い起す。
それゆえ、わたしは望みをいだく。
主のいつくしみは絶えることがなく、
そのあわれみは尽きることがない。
これは朝ごとに新しく、
あなたの真実は大きい。
わが魂は言う、『主はわたしの受くべき分である、
それゆえ、わたしは彼を待ち望む』と。

主はおのれを待ち望む者と、
おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。
主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。<略>

彼は悩みを与えられるが、
そのいつくしみが豊かなので、
またあわれみをたれられる。

彼は心から人の子を
苦しめ悩ますことをされないからである。
地のすべての捕われ人を足の下に踏みにじり、
いと高き者の前に人の公義をまげ、
人の訴えをくつがえすことは、
主のよみせられないことである。」(哀歌3:1-36)
 

 前回の記事では、青年期にカルト団体に入信した多くの人々が、幼い頃から何らかの家庭問題を抱えており、そのことが宗教詐欺に利用される心理的弱点となっていることを書いた。だが、このように説明してみたからといって、被害者の誰一人として、納得することはないだろう。
 それは、弱点を抱えている人たちがなぜ何度も何度も食い物にされなければならないのか、その苦しみをどうとらえれば良いのかという疑問に答えがないからだ。
 しかも、蜘蛛の糸のようにからまって、逃げようにも、逃げ出す方法も分からない家庭の問題に打ちひしがれ、せめてもの逃避の場所と、救いを求めて宗教に走った人たちが、そこがカルト団体であったことが分かり、多くのものを失って失意のどん底に突き落とされた後になって、さらに、「あなたがカルトにはまったことは、あなたの罪なのですよ」と、追い討ちをかけられることほどつらいことはないだろう。

 中には怒ってこのように言い返す人もいるに違いない、「幼い頃から苦労に苦労を重ねて来たこの私が、青年時代になって、何とかそこから逃れようとしたのに、またしても悪い人々に騙されて、さらに虐げられる結果になったなんて、どう考えても、受け入れられないし、許しがたいことです。もしも私に何らかの弱さがあって、それが悪人どもに利用される弱点になったのだとしても、どうしてあの頃の私がその弱点を自力で克服できたでしょうか。
 歪んだ家庭に生まれ育ったことは私の罪ではありません。悩める青年を狙いうちして、カルトに引きずりこんだ悪人にこそ罪があります。まさかあなたは、カルト団体に味方して、こうなったのは皆、私のせいだと言って、弱い私に全責任をなすりつける気ではないでしょうね。弱者ばかりがつけこまれ、餌食にされなければならない、正義を見失ったこの世の中こそ、裁かれ、非難されるべきではないでしょうか。

 弱者の権利は守られなければなりません。弱者を守ることが社会にとっての正義のはずです。人の弱みにつけこみ、食い物にするような人間は許せないし、そんな強者は打ち倒されて当然です。卑劣な人間こそが罰を下されて苦しまなければならないのであって、弱者がこれ以上責められて苦しむべきではありません。だから私はカルト団体に引き込まれたことが自分の罪だとは認めません。むしろ、この不当な仕打ちを世に訴え、正しい裁きを要求し、被害者の権利を守るために今後も堂々と闘うつもりです…」

 これまでの人生で辛苦をなめつくして来たカルトの被害者が、悪徳団体に騙されたことまで自分の責任として他人から責められたらたまらない、と思う気持ちは、私にも痛いほどよく分かる。もしもそんな結論が出るならば、被害者には一切の面目も、立場もなくなり、死んだ方がましだと感じることだろう…。

 しかし、ここで人に優しい言葉を語るのではなく、聖書は何を教えているかを考えてみなければならない。弱者の正義とは一体、何だろうか。それを考える上で、話が飛ぶようだが、以前にも触れたドストエフスキーの『罪と罰』についてちょっと語ってみたい。
 

***


 ニートの青年ロジオン・ロマーヌィチ・ラスコーリニコフは弱者の正義を訴えようとして、誰でも知っているあの老婆殺しという行為に及んだ。ラスコーリニコフは自分が本来、優れて高い能力を持った人間であることを知っていた。若く、才気溢れる青年であった彼は、チャンスさえ与えられるならば、ナポレオンに比するほどの偉業が成し遂げられるという自負さえ持っていた(おそらくそれはただの自惚れと思い込みだけではなかっただろう)。

 ラスコーリニコフは並外れて自尊心の高い人間であったが、同時に、敏感な感受性によって、弱者の痛みを我が事のように感じ取ることができた。子供の頃、たまたま見かけた動物虐待の場面を、大人になっても夢に見てうなされるほど、彼は生き物の痛みを見過ごせない性格だった。弱者が虐げられることや、他人の痛みをあってはならないこととして感じることができたラスコーリニコフは、利己的な野心家ではなく、冷徹な革命家でもなく、高潔な魂を持った、温かい血の通った人間の一人だった。彼は自分の能力を活かして働き、これ以上、差別や不正のない世の中に生きたいと願うだけの、一人のありふれた青年だった。

 しかし、格差が極限まで広がった、言論の自由もない、不公平かつ、時代遅れな帝政ロシアの社会で、ただ貧乏人の生まれであるという理由だけで、ラスコーリニコフには将来にほとんど希望が持てなかった。キャリア官僚は特権的上流貴族階級で占められているため、庶民の彼が大学を卒業して、官庁に勤め、一生懸命働いたとしても、行き着く先はたかが知れている。どんなに彼が仕事の上で有能だったとしても、家柄と、コネによって全てが決められる社会では、曲がったことの嫌いな人間に出番などあるはずがない。
 こうして、エリートになるための条件である法学部に入っては見たものの、前途に立ちはだかる壁が明確に見えて、打ちのめされていた頃、さらに悪いことに、実家で資金繰りができなくなって、学資の仕送りが途絶えた。下宿の家賃の支払いも滞り、金品を質に入れねばならなくなり、ついに彼は大学を中退せねばならなくなった。

 家庭教師のアルバイトをすればある程度の学資はもうけられるはずであったが、ラスコーリニコフには、もうこれ以上、あがいてもあがいても蹴落とされる蟻地獄のような社会で、わずか明日という短い時間を生き延びるためだけに、他人と競争したいという気が起きなくなっていた。アルバイトなどは急場しのぎに過ぎず、どうせ働いても、働いても、一生、貧乏と不遇につきまとわれるだろうことは分かっている。卒業して就職してみたところで、それが薄給のサラリーマンでは、今日も明日も明後日も、どうせ金のことだけで心をすり減らす毎日が待っているだけなのだ。しかも、ラスコーリニコフ家の財政は、すでににっちもさっちも行かないところまで来ていた。

 一家の財政を支えるために、郷里にいる彼の妹ドゥーニャが、身売り同然に、資産を持っている野心家の男に嫁ごうとしているという報せがラスコーリニコフのもとに届いた。首都で兄に勉強を続けさせるために、誇り高い彼の妹が自主的に不幸な結婚に飛び込もうとしていた。そのことに、ラスコーリニコフは耐えられない義憤を感じるが、かといって、彼女を救うために自分が何をしてやれるわけでもない。妹と同様に、ラスコーリニコフ自身の肩にも、一家を食いつながせるという重責が担わされている。実家は彼の立身出世に全ての期待を託している。兄として、彼は勉学を修め、きちんとした勤めについて、一刻も早く、老いた母と妹を貧乏の淵から救い出してやらねばならない。だが、その彼が生きるために、今や妹が犠牲にならなければどうしようもないのだ。まるで食物連鎖のような犠牲がどこまでも続いている。一人が生きるために、別人が苦労させられ、あるいは死ななければならないような世の中。結局、金、金、金…、金がなければ何一つ、問題は解決しない世の中なのだ…。

 ロシアの作家たちの間では、水の都、ペテルブルクに対して伝統的に二つの見方があった。フィンランド湾に面した、至るところに運河の走るこの石造りの都を、美の象徴、エキゾチズム溢れる詩的な街として讃える作家がいる一方で、ペテルブルクを人工的な冷たい街、死んだ街として嫌う作家たちがいた。ピョートル大帝が沼地を乱暴に埋め立てて建設したこの都は、初めは居住には少しも向かず、しかも建設の過程でおびただしい犠牲者が出た。ドストエフスキーはペテルブルクをまるで呪われた都のように、精神をやつれさせる、陰鬱極まりない街とみなしていた。

 私にはこの19世紀末のペテルブルクが現在の東京を思い起こさせるような気がしてならない。あらゆる官庁、国家機関の建物が一都に集中し、肥大した官僚組織の象徴のようになっている街。首都に一歩、足を踏み入れるだけで、この街全体がいかに分厚い暗雲に閉ざされて光を拒んでいるかを証拠立てるように、いくらでも精神異常者にお目にかかることができる(ペテルブルクは北極に近いため、冬は日中でも夜のように暗い)。たとえば、首都圏のいずれかの駅のプラットホームに、ものの10分も立っていれば、呆けた表情の若者が、視線を空中に泳がせながら、むさくるしい格好で、ぶつぶつと聞き取れない言葉をつぶやき、老人のように徘徊している姿が目に飛び込んで来るだろう…。

 不平等の行き渡った、自由のない、押しつぶされて窒息しそうな社会で、自分の未来に与えられている蟻のようにちっぽけで閉塞的な生活が、ラスコーリニコフには嫌で嫌でたまらなくなった。彼は傷心のあまり、鬱状態になって、部屋に引きこもった。アルバイトも放棄し、着る物にも、食べる物にも構わず、日がな殺風景な部屋の中で、暗澹たる気持ちで、思念だけをめぐらせるようになった(ロシア文学の主人公が辿るお決まりのコースである)。ふらりと散歩に出ることがあっても、独り言をつぶやきながら、あてどなく彷徨い、まさに精神異常者の一歩手前といった風情となった。

 長椅子とテーブルと椅子以外にはろくに家具もない狭い部屋に引きこもりつつ、ラスコーリニコフは考えた。自分はまだ若いのに、なぜこんなにも希望のない毎日を送らねばならないのだろうか。この堂々巡りの、窒息しそうな人生に、何か一つでもいいから、光明を与えてくれる材料はないのだろうか。もうこれ以上、貧乏という蟻地獄の中でもがき続けるだけの非人間でいるのは沢山だ。人間らしく生きるために、保障された明日を手に入れるために、これ以上、貧しさに由来するしみったれた不安に心脅かされずに生きるために、何か一発逆転の方法はないものだろうか。ひと思いにこの状況を終わらせ、幸せへと抜け出せる策はないのだろうか…。

 博打打ちが一攫千金を夢見るように、錬金術師が金を作り出そうとするように、ラスコーリニコフは一つの賭けにすがりついた。この世の中の不公平をひと思いに覆す、一発逆転の理論を彼は考案した。

 彼の結論はこうだった。自分たちがこんな風に苦しまねばならないのは、結局は、社会における富の不公平な分配のせいなのだ。富を独占している一部の悪者のせいで彼は不当に追いつめられている。だから一人の富の独占者を排除すれば、無数の弱者が人間らしく生きられるようになるはずである。そこでもしも、富の独占の象徴のような、彼が知っている一人の人間、けちで思いやりがなく、身内にさえ冷たく、金を貯めることの他に何の生き甲斐もなく、あの世に片足をひっかけながら、なお、がめつく貧乏人の生き血を吸って生きているような、有害な、高利貸しのばあさんが死んで、その老婆の金で、ラスコーリニコフと同じような無数の、思いやりもあり、前途もある、人から必要とされており、社会に有益な仕事ができる社会的弱者が生きられるようになるとすれば、その法則をどうして実地に適用しない理由があるだろうか? それで彼の妹が身売りせずに済み、母が借金に追われずに済み、自分は不安なく大学を卒業して、きちんとした勤めについて、身なりも整えてそれなりの職につけるとすれば、なぜそれを実行しない理由があろう?

 ラスコーリニコフが発見した法則は、まさに錬金術のようないかさまの理論だった。殺人によって彼は社会正義を生み出そうとしていた。悪から善を生み出そうとしていた。それが正攻法ではなく、常軌を逸した方法論であることは分かっている。宗教や倫理や道徳にかまけている臆病な小市民には、こんな恐ろしい考えは、とても実行できないだろう。ラスコーリニコフは自分に問うた、彼は弱者を生かすという信念のために、必要な犠牲を払えるだろうか? 倫理の一線を踏み越えてでも、雄々しく肩を上げて、世の中のあらゆる法律や制度を塗り替えてきた大物政治家や革命家と同様に、大胆に新しい秩序を打ち立て、弱者を救う英雄になることができるだろうか?

 ラスコーリニコフは高利貸しの老婆を殺すことによって、一躍、弱者から強者への転身をはかろうとした。 彼は運命の歯車に無惨に押しつぶされていく資材として生きるのではなく、運命の歯車そのものを動かす英雄になろうとした。彼はこの殺人を英雄的行為であるとみなした。食物連鎖の中で、これまでただ従容として食われる側に立っていた人間が、俄然、勇気を奮い起こし、強者を食らう側に回ることができる事実を彼は表そうとした。自分には選ばれた人間として、自分だけの独立した良心に基づいて、社会の不公平な制度を飛び越えて、私刑を実行する勇気と自負があることを彼は示そうとした。この賭けに彼は残る全力を、傷つけられたプライドの全てを、名誉挽回の意図をこめた。ラスコーリニコフは痛めつけられた弱者の汚名を晴らすために、正義の名の下に、私刑を実行し、他人から財産を奪い、力を得ようとした…。生き延びるために、彼は闘うことを選んだ…。

***

 さて、読んでいない人への種明かしになるといけないから、『罪と罰』の筋書きの説明はここまでにしよう。本題に戻ると、この話を引用したのは、虐げられた弱者を解放するという「社会正義」に基づいた名誉挽回の試み、弱者から強者への立場の逆転の試みは、どんなものであれ、全てラスコーリニコフの殺人と同じ危険な要素をはらんでいるということを言いたいがためである。

 心ある人間が、不当に苦しめられれば、誰しも一度はラスコーリニコフのような心境になるだろう。
 私はカルト化教会を去って後、抑えがたい怒りを心に感じた。「不条理だ! なぜ弱者がこうまで辱められ、愚弄されねばならないのか? なぜ苦労して生きてきた人が、なおこんな目に遭わなければならないのか? 黙って重荷を背負っている人が、なぜさらに苦労ばかり背負いこまされなければならないのか? どこまで弱い人だけが徹底的に責められ続けなければならないのか?
 強い者のうち誰が、私と同じくらい厳しく責められただろう? 力のある者はやりたい放題、弱者だけが果てしなく重い罪に問われる。こんな不公平な曲がった世の中のどこが生きるに値するだろう? これが私がこの世で黙って受けるべき分だというなら、私にはもう神も仏も要らない。」云々。

 まず何とかして、物事をあるべき秩序におさめたいと願った。自分の名誉を取り戻し、自分が無実であることを世に証明し、悪人には当然の裁きを受けてもらい、秩序ある社会の状態を自力で取り戻したいという願望が起こった。ラスコーリニコフが考えたように、何かしら突飛な方法を用いてでも、自分にかけられた濡れ衣と汚名をそっくりそのまま、相手に注ぎ返す方法はないだろうかと考えた。

 確かに、悪人はいつか裁きを受けなければならないことが聖書に定められている。だから、カルト化教会の指導者には放っておいても幸せな未来はないだろう。正しい裁きを待ち望む気持ち、悪人に相応の裁きを受けてもらいたいと願う気持ち自体が誤りなのではないと私は思う。
 しかし、不正に対する怒りの感情だけにとらわれていた間は、ここには他人ばかりでなく、私自身も対峙しなければならない問題があることをはっきりと見つめることができなかった。その問題とは、私が自分の名誉が傷つけられることに対して弱く、たとえそれが主の御心によって許されたことだとしても、耐え忍ぶことを知らず、常に自分の考えた解決の方へ安直に走って行こうとする不従順であった。

 いわれのない悩み苦しみを受ける時、人は何とかしてそこから逃げ出したいと願う。たとえ自業自得の苦しみであっても、それを甘んじて受けられるほどに覚悟のできている人はほとんどいない。

 だが、聖書を見れば、ヨブもヨセフも罪がないのに、苦しみや恥辱を受けねばならなかった。もちろん、彼らも苦しみを終わらせるために何か良い手はないかと精一杯、模索したことだろう。神に祈り、人にも助けを求めて叫んだだろう。しかし、神は定められた時まで、彼らの祈りを聞かれなかった。
 カルト化教会の被害者に起こったこともこれとほぼ同じだろうと私は思う。正しい教えを知らなかったことについて被害者に全く罪がなかったとは言えないが、それにしても、あまりにも多くの言われなき苦しみが、被害者にふりかかったことは確かである。
 冒頭に挙げた聖句をもう一度、引用しよう。

「わたしは彼の怒りのむちによって、
悩みにあった人である。」

 哀歌に表現されている苦難は、信徒が耐え忍ぶべき「神の怒りのむち」として与えられたものであった。

「主が命じられたのでなければ、
だれが命じて、その事の成ったことがあるか。
災いもさいわいも、いと高き者の口から出るではないか。

生ける人はどうしてつぶやかねばならないのか、
人は自分の罪を罰せられるのを、
つぶやくことができようか。
われわれは、自分の行いを調べ、
かつ省みて、主に帰ろう。」(哀歌3:37-40)

 ここではっきりと、聖書は教えている。たとえどんなに不当で理不尽な事件が身に降りかかろうとも、主が許された事柄に対して人はつべこべと反対できる分際にはないと。人は全て原罪を背負った死すべき人間であり、自分の罪が罰せられることに対して、どうして不平を言う資格があるだろうか、と。
 さらに、その前にも、言葉を失うような台詞が続いている。

「人が若い時にくびきを負うことは、良いことである。
主がこれを負わせられるとき、
ひとりすわって黙しているがよい。
口をちりにつけよ、
あるいはなお望みがあるであろう。
おのれを撃つ者にほおを向け、
満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。
主はとこしえにこのような人を
捨てられないからである」(哀歌3:27-31)
 
 「おのれを撃つ者にほおを向け」よとはどういうことだろうか? 確かに、自業自得の苦しみならば、黙って受けるべきだろう。しかし、そこに言われのない苦しみが含まれていても、人間にはやはり文句を言う資格がないと聖書は教えているのか? 
 答えはYesだ。まさに、そのような不当な苦しみについてさえ、聖書は「満ち足りるまではずかしめを受けよ」と、平手打ちのような言葉を返しているのだ。

 ここで要求されているのはあくまで神の前での徹底的な従順である。自分が信じてきた義が(弱い者が虐げられることは許せないという正義の感覚も含めて)、神の義に焼かれて完全に砕け散るまで、苦しみの中にクリスチャンがあえてとどまらねばならない時があるということが示されているのだ。望んでも、望んでも、解決が得られず、苦しみと辱めをただ黙って耐えるしかない時があるということだ。

 ただし、ここで注意しなければならないのは、これは決して、カルト的な誤った宗教団体に入信した人が、そこで指導者からどんなに苦しみを受けても、逃げ出そうとせず、指導者の命ずるままに、ロボットのように自分を差し出しなさいということが言われているのではないことだ。この聖句は、人間が人間を無限に辱めることを正当化するために語られているのではない。
 人が人に盲従する行為の裏には、必ず、肉なる人によって自己義認されたいという欲望が働いており、神の前での真実の悔い改めはない。人から認められることによって、手っ取り早く自分の罪責感から逃れ、自己義認の確証を得たいという欲望は、神の義を己の義にすりかえようとする傲慢である。従って、人の唱える正義にふりまわされて、いつまでも嘲弄される立場に耐えることが必要なのではなく、神の前に罪を深く悔いてひざまずき、己の正しさを放棄して、時が来るまで、甘んじて苦難を受けることが必要なのである。

「われわれは天にいます神にむかって、
手と共に心をもあげよう。
わたしたちは罪を犯し、そむきました。
あなたはおゆるしになりませんでした。
わたしたちを追い攻め、殺して、あわれまず、
また雲をもってご自分をおおい、
祈を通じないようにし、
もろもろの民の中に、
わたしたちをちりあくたとなさいました。

敵はみなわたしたちをののしり、
恐れと落とし穴と、荒廃と滅亡とが、
わたしたちに臨みました。
わが民の娘の滅びによって、
わたしの目には涙の川が流れています。

ゆえなくわたしに敵する者どもによって、
わたしは鳥のように追われました。
彼らは生きているわたしを穴の中に投げ入れ、
わたしの上に石を投げつけました。
水はわたしの頭の上にあふれ、
わたしは『断ち滅ぼされた』と言いました。」(哀歌3:41-54)

 この聖句は、カルト化教会を脱会した信者には全く説明の必要がないだろう。指導者に付き従っていた間は、指示に従ってさえいれば、罪の意識を避けて通ることができたので、悔やむ必要もなかったが、そこから抜け出た後になって、それまで留保されていたすさまじい罪の意識と、恥辱感と、後悔と悲しみが、心に押し寄せてくる。
 被害者は幸福の意味さえ忘れるほど悲しみにくれ、来る朝、来る朝、自分に起こった惨事と、二度と戻らない過去の平和な生活を思って、嘆き悲しむ。涙は尽きない川となり、魂は絶えず苦しみにうちひしがれる。容姿はやつれ、見違えるほど歳を取ったように見える。しかも、弱り目に祟り目で、無情な人々が、四方八方から責めて来て、いわれのない非難さえ受けなければならない。
 誤った教会に残っている人々は、脱会した自分に起こった苦しみを噂し合っては、さぞあざけり、ののしり、高笑いしていることだろう。彼らは私は死んだとさえ思っているだろう。そして、祈っても、祈っても、平安も、喜びもなく、極度の痛み苦しみだけが続いていく。どうして主はこの苦しみを取り除いて下さらないのか? なぜあの悪人を私がこの手で成敗してはいけないわけがあるだろう? もはや祈るべき課題もなくなり、望む気力もなくなり、祈る気力さえ尽きてくる…。

 もはや神は私の祈りをかえりみては下さらないのだ、私は神に見捨てられて、人生は破滅し、全ての希望が死に絶えたのだと思う他ない、深い深い絶望の穴の中に落ち込んだ頃、哀歌では、ようやく神の沈黙が終わり、祈りに対する応答がやって来る。

「主よ、わたしは深い穴からみ名を呼びました。
あなたはわが声を聞かれました、
『わが嘆きと叫びに耳をふさがないで下さい』。
わたしがあなたに呼ばわったとき、
あなたは近寄って、『恐れるな』と言われました。
主よ、あなたはわが訴えを取り上げて、
わたしの命をあがなわれました。」(哀歌3:55-58)

 迫害され、絶望の果てに行き着き、死人同然になって力尽き、正義を呼ばわる声さえ出なくなった時、初めて、神は「恐れるな」と優しく人に声をかけて下さり、人の訴えを取り上げて、痛めつけられた人の正義をかえりみて、彼の命を回復されるのである。
 まさに神がぎりぎりの限界まで人を試されている様子が分かる。それは人が自分のためだけに振りかざす義に死ぬためのレッスンだった。

 そしてようやく、厳しい裁きの代わりに、神の憐れみがその人に注がれる。神のいつくしみ深さに触れて、人はやっと安心して自分の正義を主に訴え、悪人の破滅をさえ願い出ることができるようになる。

「主よ、あなたはわたしがこうむった不義を
ごらんになりました。
わたしの訴えをおさばきください。

あなたはわたしに対する彼らの報復と、陰謀とを、
ことごとくごらんになりました。
主よ、あなたはわたしに対する彼らのそしりと、
陰謀とを、ことごとく聞かれました。
立ってわたしに逆らう者どものくちびると、
その思いは、ひねもすわたしを攻めています。<略>

主よ、彼らの手のわざにしたがって、彼らに報い、
彼らの心をかたくなにし、
あなたののろいを彼らに注いでください。
主よ、怒りをもって彼らを追い、
天が下から彼らを滅ぼしてください』。」(哀歌3:59-66)

 ここで初めて、悪人にはふさわしい裁きを、という人の感情が主に受け止められるのである。
 この章が示しているのは、どんなに不当に苦しめられても、人が己が正義に頼らず、ただ主の義にだけ望みを置くことの重要性である。ラスコーリニコフのように、世の中の不平等から来る苦しみに対して、性急に自分の理性と力によって立ち向かい、自分の手で正義を取り戻そうとするのではなく、どんなに理不尽な状況にあっても、そこからの解決をただ神ご自身だけに求めて、時が来るまで、待ち望むことの重要性である。

 たとえ人が頭の中で思い描いた最高の正義であっても、神の義には遠く及ばないどころか、それは主の前では悪でさえあるのだ。従って、どんな苦難の中にあっても、主の正しさと、いつくしみ深さを信じて、神を信頼して人生の主人となっていただくことができるかどうか、クリスチャンは必ず一度は試される時が来るだろう。自分の正義に完全に死ぬまで、神の前に徹底的に打ち砕かれ、人生の操縦権を奪われ、己を焼き尽くされることが要求される日が来るだろう。

「それゆえ、わたしは望みをいだく。
主のいつくしみは絶えることがなく、
そのあわれみは尽きることがない。
これは朝ごとに新しく、
あなたの真実は大きい。
わが魂は言う、『主はわたしの受くべき分である、
それゆえ、わたしは彼を待ち望む』と。」

 誰しも、自分の受くべき杯として、御心を受けねばならない。それは苦すぎる杯に思われることもあるだろう。しかし、不遇と、いわれなき苦難の中にあっても、忍耐強く主を待ち望む全てのクリスチャンには、時間はかかっても、必ず時が来れば、主の憐れみが注がれる。
 弱者の正義により頼んで自力で名誉挽回をはかろうとするのをやめ、自分の心をすみずみまで省みて、罪があれば十字架で悔い改め、全ての訴えをただ主に向けて、静かに主を待ち望む者となりたい。

「主はおのれを待ち望む者と、
おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。
主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。」

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