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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

カルト被害者がカルト専門家ではない理由

動物番組などでよく見かける、猛獣が草食動物を狩るシーン。
ライオンなどの獣は、群れの中で弱い者、逃げ遅れた者を狙って餌食にする。
人の群れの中でも、起こることはそれと同じである。

カルト団体に入信する人達には大概、何らかの心理的弱点がある。
冒頭から種明かしをしてしまえば、第一に、彼らは自分の心を受け止めてもらえない歪みのある家庭環境で育った場合が多い。
第二に、いじめや受験教育、会社でのパワハラなどにより、社会で無力感や孤立感を味わっていることが多い。
第三に、その結果として、社会の不正や歪みに対して鋭い義憤を覚え、弱者の痛みを我がことのように感じ、世直しを願う強い気持ちを持っていることが多い。

カルト団体に入信する若者は、入信以前から、家庭や、世の中において、強い圧迫感、不公平感、孤立感、疎外感を味わっている場合が多く、太刀打ちできない問題から来る無力感、むなしさ、抑圧を解決してくれそうな理想的イデオロギーに惹かれて、宗教団体に入る場合が多い。

つまり、若者が日頃から感じている疎外感、孤独、不公平感、義憤、などが、宗教詐欺をもくろむ者から見て、絶好の足がかりとなっているのである。心理的弱点があればこそ、彼らは狙われたのである。
このことを、カルト団体から脱会した被害者たちはあまり認めたがらない。

「騙された人は被害者なのだ。騙された側に責任があるようなことを言うべきではない。
騙された人を責めることは二次被害につながる。
騙された人間に罪はない。騙した方にこそ罪があるのだ。」

なるほど、一見その通りである。レイプや通り魔の被害者に向かって、「被害に遭ったのはあなたが弱かったからだ。その弱さはあなたの責任である」とは誰も言えないだろう。それは残酷極まりない台詞だ。
しかし、詐欺にかかった場合には、話は別である。

曲解しないで欲しい、私は宗教詐欺の場合、被害は被害者の自己責任であり、加害者に罪はないと言っているのではない。
宗教も含め、たとえどんなに悪質な詐欺が行われたにせよ、被害者は、自分がなぜターゲットにされたのか、どこが狙い目となる弱点であったのか、自らの弱さを冷静に直視し、その弱さをもたらした条件を克服するようつとめなければ、何度でも同じ被害が起こりうることの恐ろしさに気づいた方が良いと言いたいのだ。

カルト宗教詐欺の被害者が、自分はただ被害者として世間からの同情さえ乞うていれば良いという態度で、弱者のレッテルの上に居直ってしまい、自分の置かれている環境の改善を何も行わなければ、その人の弱点は今後も残り続け、その人は何度でも同様の被害をこうむってしまいかねないことの恐ろしさに気づいてもらいたいのだ。

たとえば、有名な豊田商事の詐欺事件において、狙われたのは独り暮らしの孤独な老人だった。
詐欺のターゲットとなった人々には、孤独という弱点があり、そこが狙い目となった。
もちろん、老人が孤独な環境に置かれていたのはその人だけの責任ではない。大都市への人口集中や、核家族化といった、社会をあげて取り組むべき構造的問題がここにある。

だが、いずれにせよ、孤独な環境がどれほど人の判断を鈍らせるか、その危険性をこの事件がはっきりと証明している。

大家族で住んでいれば誰でも、突然、訪ねて来る知らない人間に対する警戒心を失うようなことはないだろう。しかし、長い間、話し相手もいない孤独な環境に耐えて暮らしている人の心には、訪ねて来る人なら誰でもいいから歓迎したいというほどの人恋しさがおのずと生じる。話し相手が欲しい、自分に注意を払ってくれる人が欲しいという気持ちが強くなるにつれて、よく知らない訪問者に対する警戒心が正常に機能しなくなるのだ。

それは、極度の飢餓状態に陥った人間が、たとえ道端に捨ててある残飯であろうと、腐っていようと、毒が入っていようと、食べられるものなら何でも食べようとするのと同じである。
これは本能的な条件反射であるから、理性によって抑制できるものではなく、同じ条件下に置かれれば、十中八九、誰にでも同様の現象が起こると考えるべきである。もし健康な人間を数ヶ月間、看守以外には口を利く相手もいないような独房に監禁すれば、よほどその筋の専門教育を受けた人間でなければ、見も知らない面会者が訪ねて来た時、どんなことでもすすんで語ろうとする危険な心理状態になっていることだろう。

従って、豊田商事のような詐欺に遭わないために最も必要なことは、訪ねてくる人に警戒心を持つことではなく、まず、孤独にならない環境を作ることなのだ。

同様に、カルトに入信した人が同様の被害に二度と遭わないために考えるべきことは、どのような弱さのために、自分がその団体の餌食にされたのかを発見することである。
もちろん、真理そのものについて、聖書から学び、真理と偽物を区別できるようになることは大いに必要だが、それに加えて、私が強調したいのは、その人に特有の弱点、特に、家庭環境に歪みがある場合には、そこから来る心理的な弱さを自覚し、時間をかけて、克服していくことの必要性である。
騙しのテクニックについて学習することも有意義ではあるが、それよりももっと必要なことは、騙された側にはどのような特徴があり、弱点があったのかを自覚することである。

誤解しないで欲しい、私は何らかの弱点を抱えていたことが、カルト被害者の責任だと言って責めようとしているのではない。自分の力ではどうしようもない問題にひしがれ、育った人も多くあるだろう。

だが、事実として、どんなにしつこく勧誘されたとしても、自分側に何一つ動機がないのに、カルト団体に入信する人間はいない。何らかのつけこまれる隙、弱点があればこそ、被害者が詐欺にかかるという結果が生まれるのである。この問題を直視せず、ただ騙した側の責任だけを問い続け、被害者側の弱点を自覚しようとせず、無防備に放置し続けた場合の悪影響の大きさは、はかり知れない。

被害者がカルト団体に入信する際の重要な要因の一つが、すでに述べたように、家庭問題である。家庭的に問題のある環境に育った子供が、成人後にも、様々な問題に巻き込まれやすいことは言うまでもないし、家庭問題ほど、人の人生に生涯に渡る悪影響を及ぼすものは他にないと言っても過言ではない。それが宗教詐欺にかかってしまう心理的弱点につながっているのである。

子供時代に何か大きな心理的・肉体的抑圧を経験した人の中には、概して、成人して生育環境を離れた後になっても、無意識のうちに、かつて子供時代に受けた抑圧をはね返すことだけを人生課題として生きている人が多い。
一言で言えば、家庭的な問題のためにトラウマを負った子供は、それをきちんと処理できなければ、成人したずっと後になっても、子供時代に自分を苦しめた家庭の問題という亡霊につきまとわれながら、生涯を送らなければならなくなる。しかも、自分が何に追われ、何を恐れているのか、何に対処しようとしてもがいているのか、それに気づくこともなく、問題を別のものにすりかえて、自分の弱さをごまかしながら生きていることが多い。いくつかの分かりやすい例を挙げよう。

例1) 幼い頃、家庭で抑圧されて育った人が、青年時代にカルト宗教団体に入信し、全人類の救済という世直し的な活動に従事する。
→ その人が全力を挙げて当たるべきは自分の家庭の問題という個人的問題の克服であるのに、それを社会全体、人類全体の問題にすりかえている。しかも、世直しに携わることによって、自分の弱さから目をそらし、自分が飛躍的に強く、偉くなって、正義の味方となれるかのように錯覚している。
 このあべこべな方法を用いる限り、彼が自分の心の問題に向き合うことはないので、それは解決せず、周りにとってもはた迷惑な結果だけが生まれる。

例2) 幼い頃、家庭や社会で抑圧されて育った人が、相応の職業的訓練を十分に受けないまま、カウンセラーを名乗り、家庭や社会の問題で苦しんでいる人の治療に当たる。
→ 人が専門的なカウンセラーになるためには、少なくとも5~10年近い職業訓練が必要である。だが、きちんとした訓練の過程を経ず、他人の治療に携わる資格がないどころか、本人こそがもっと治療を受ける必要があるにも関わらず、その事実から目をそらし、他人のカウンセリングに携わっている人たちが存在する。
 彼らは自らの弱点を直視したくないがゆえに、自分にはもう問題はないと思い込み、自分は治療される患者という弱い立場にはなく、治療する側に立つ立派な先生であると自分に嘘をつくことで、心の平安を得ようとしている。
 このあべこべな方法によっては、彼はクライアントを自分の人生のダシにすることしかできないし、自分の心が本当に求めているものに達することもできない。

例3) 青年時代にカルト団体に入信していた人が、脱会後、相応の職業的訓練と心理的弱点の克服の訓練を受けないまま、カルト団体からの信者の奪回・救出活動に携わる。
→ 上記の例と同じく、救済すべき対象が、他人ではなく、まず自分自身であることの認識が足りない。このような救済活動は盲人による盲人の手引きとしかならない。

自分の家庭に問題を抱え、そこから抜け切れていない人が、牧師や教師になることや、カウンセラーになることの弊害は昔から指摘されている。指導者になるには、温厚でバランスの取れた調和的な人格が不可欠だが、家庭に問題を抱えたままの人には、到底、調和的な人格は望めないからである。
さらに、カルト団体で深刻なマインドコントロールを受けた人が、きちんとした専門的な治療と、職業訓練を受けていないのに、自らの被害体験を専門知識であるかのように誤解して、カルト被害者をカウンセリングしたり、奪回・救出活動に携わることは大きな危険をはらんでいる。

誰かが他人の心理的な指導やカウンセリングに当たるためには、その人自身の心の傷が癒されており、習慣化した心理的な弱点が克服されていなければならない。心に深い傷を負ったままの人が、他人の指導やカウンセリングに携わると、他人を自分の鬱憤晴らしの道具にしてしまうだけでなく、自分と同様の傷を他人に与えてしまうことになりかねない。

カルト被害者はただの被害者であって、カルトの専門家ではない。被害体験は犯罪を証言するための材料にはなっても、専門家になるためのパスポートには決してならない。被害からは、トラウマが発生しこそすれ、有益な学びが得られることはまずない(被害をきちんと振り返って整理し、長い時間をかけて克服したその後になってみれば、それが有益な体験に変わることはあるにせよ)。にも関わらず、被害体験や、その克服過程を、専門的な職業訓練と同一視することは誤りである。自分が被害を受けたということが、他の被害者を救済するための前提にはならない。

しかも、もしもいつまでもカルト被害者が「私は弱者である、被害者である…」と居直って自らの弱点を克服せずにいれば、その人はこの先も、同様の被害に二度、三度と遭ってしまいかねない。このことを忘れず、カルト団体の元入信者は、決して、被害者というレッテルを専門家のようにひけらかしたり、弱者の美名の下に安住するようなことがないようにしたい。
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