「わたしは恨みをおく、
おまえと女とのあいだに、
おまえのすえと女のすえとの間に。
彼はおまえのかしらを砕き、
おまえは彼のかかとを砕くであろう。」(創世記3:15)
「あなたは苦しんで子を産む。
それでもなお、あなたは夫を慕い、
彼はあなたを治めるであろう。」(創世記3:16)
「地はあなたのためにのろわれ、
あなたは一生、苦しんで地から食物をとる。<中略>
あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る」(創世記3:17-19)
1.聖書に見る生活苦と男女不平等の起源
『聖書に見る夫と妻の人間関係』、リチャード・L・ストラウス著、唄野隆訳、いのちのことば社、1996年、という本が今、私の手元にある。
男女の、あるいは夫婦の人間関係をテーマとしたクリスチャン向けの書物の中には、あまりにも理想主義的であったり、禁欲主義的であったり、あるいは男尊女卑的であったり、ハウ・ツー的な側面がありすぎたりと、なかなか現実にそぐわず、混迷を極めた現代において人間関係に悩んでいる人たちの心の琴線に確かに響くような、納得できる書物が少ない。しかしこの本は男女の関わりにおいて、悩めるクリスチャンの心を確かにとらえることができる内容ではないかと思う。
聖書に登場する最も美しい男女の出会いの一場面として、創世記におけるイサクとリベカとの出会いが挙げられる。日曜学校や礼拝において、きっと、語られないことはないテーマだ。イサクの忠実な僕が、神の導きを求めながら、主君のために伴侶を探し、主人に最もふさわしい無垢な娘、リベカを探し出す劇的な場面。
映画のような美しい情景が目の前に思い浮かぶ。若く美しいリベカは、親切心に溢れた謙虚な女性だ。彼女はまだ夫となるイサクの顔かたちを一目たりとも見ていないのに、ただ信仰だけに基づいて、イサクの妻となることに同意する。
ルックスへのこだわりや、財産への執着や、家柄へのこだわり、情欲など、この世における結婚にはほとんどつきものと言っていいような、まがまがしい利己主義を一切、排除したところで、ただ神の導きにより、夫婦となるべく定められたこの美しいカップルの物語は、教会では理想的な男女の出会いの場面として、よく語られることだろう。
しかし、このような理想的な男女のめぐり合いを現実に経験するクリスチャンはほとんどいない。恋人や、許婚や、伴侶のために、現実には毎日のように悩みが押し寄せてくるという人の方がむしろ多いのではないだろうか。中には、イサクとリベカの美しい物語を読むたびに、「ああ、私の人生とはあまりにも違う」と感じて、過去の挫折体験を思い出し、心が痛むという人もあるかも知れない。
信仰に関する無知や、エゴイズムや、環境の貧しさや、軽薄なこの世的な価値観のために、男女の関わりにおいて苦い挫折を思い知らされた経験のない人の方が少ないのではないだろうか。そのような人から見れば、教会がさかんに勧める、汚れない男女の出会いの物語は、現代を生きる人々には決して手の届かない高みにある、非現実的かつ理想主義的な物語のように思われてならない。それは世俗の世界の汚れから守られて生きる特権を与えられたごく一部の人間だけにしか通用しない、現代を生きる人々にとって何の処方箋にならない、嫌味のように非現実的な物語に思われるかも知れない。
夫婦間、パートナーとの問題で、悩みの最中にある人々は、理想主義的な話を聞きたいのではなく、自分達が置かれている現実の問題に答えを与えてくれるような話を探し求めている。だが、前述の『聖書に見る夫と妻の人間関係』は、そんな悩み多き人たちにとっても、魂の安らぎとなり得る本ではないかと私は思う。
この本の中では、男女の理想的なあるべき姿をただお説教的に述べるという調子はない。むしろ、聖書に登場する男女のカップルを例に取り上げながら、この本は、彼らが陥った苦悩や、醜い争いのことをためらうことなく取り上げる。聖書に登場する夫婦は、ほとんど全て、男女の関わりにおける悩みと無縁ではなかった。前述のイサクとリベカさえも…。神の導きによって成し遂げられた美しい結婚であったはずのイサクとリベカとの生活は、どういうわけか途中で、初めの愛とは、全く別のものへと変質してしまう。
ストラウスの著書はこう述べる、「どこかで、この結婚は腐り始めました。次に、彼らの関係の悲劇的な低落に目を留めましょう。問題が何であったのか、はっきりはわかりません。愛がなかったからでないことは確かです。」(p.43)
リベカとイサクの相性は抜群だった。だから二人には見合い結婚にありがちな性格の不一致や、生まれ育った環境の違いから来る理解不能状態はなかったはずだ。にも関わらず、二人の結婚は「腐り始めた」のだ…。
どういうわけか、この「理想的なカップル」は、毎日、子どもを巡って対立するようになった。イサクは長男エサウを味方につけ、リベカは次男ヤコブを味方につけて互いに争う毎日となった。一体、どうしてそんなことになったのか。山の頂上で、父アブラハムによって燔祭に捧げられそうになった時でさえ、神を信頼してゆるぎなかった幼い日のイサクの信仰はどこに消えたのだろうか。「らくだにも水を飲ませましょう」と優しく下僕に語りかけたリベカの謙虚さはどこへ消えたのだろう?
とにかく、二人の家庭では、子どもを道具にすることで、夫婦どちらが偉いかを競いあう争い、暗黙の対立が日常となった。そしてリベカは次男ヤコブと共謀して、ついに夫イサクを欺いて出し抜き、家内クーデタを起こしてしまった。
旧約聖書の時代には、現代よりはるかに強い家父長制があった。にも関わらず、リベカは夫を自分の下に置き、夫の名誉を貶めたのだ。リベカのこの行為の裏には、きっと日頃からの夫イサクへの何らかの恨みがあっただろうと想像できる。
そして息子ヤコブもまた、母に倣って、父と兄を軽んじるようになり、兄を欺いて、彼から長子の権威を奪った。そして次には父を欺いて、兄が受けるはずだった、父からの祝福を不当に受けた。ヤコブがそうしたのは、母からの指示に従ったのであり、自分だけの考えではなかった。だが、ひょっとすると、ヤコブは父が兄をえこひいきしたことで、父に対する恨みが募っていたのかも知れない。
この家内クーデタはリベカに束の間の勝利以外に何ももたらさなかった。エサウは恨みに燃えて弟を殺そうと思いつめ、ヤコブは兄の怒りを避けるため、家出しなければならなかった。しかも、それがリベカとお気に入りの息子との最期の別れとなった。
さらに、ヤコブにもその後、この事件は手痛いツケとなってはね返ってきた。人を欺いたヤコブは、自分自身も人に欺かれ、信頼できない主人に仕えさせられ、家庭では二人の妻が絶えず争い合うようになり、ついぞ気が休まる時がなかったことだろう。
イサクとリベカという、理想的だったカップルの理由不明な対立。この現象を何よりも説明できるのは、ただ創世記におけるみことばのみである。
創世記においては、この地上における男女の関わりが堕落したものになった原因は、アダムの原罪にあることが示されている。
エデンの園で創られた最初の人類、アダムとエバは、今日、誰もが知っているように、神の戒めを破ったことにより堕落した。すなわち、神と対等の存在になるために、知恵を手に入れようと、人は神に食べてはならないと命じられた木の実を食べることを選んだ。
ある音楽家が語ってくれた言葉を思い出す。その人はある楽器の奏者であったが、伴奏者の中には、自分が単なる伴奏者として扱われることに我慢がならず、ソロを弾く楽器と「対等に」演奏したいと言い出す人があって困るという話であった。その人は言った、「もしも伴奏者が、『私はあなたと対等に演奏したいんです』なんて言い出すことがあったら、私はその人には決して伴奏をお願いしないことにしているよ。『あなたと対等になりたい』と言うような人は、心の中では必ず、相手以上の存在になって、相手を打ち負かしてやろうと考えているんだからね。それじゃあ、協奏曲が"競争曲"になって、音楽でなくなってしまう。」
対等の、という言葉の中には、必ず、あわよくば相手以上の存在になろうとする隠れた意図がある。人が神と「対等の」存在になろうとしたその時、罪が人間に入り込んだ。
これから何度も語ることになると思うので、この時、サタンが人間を誘惑するために使った文句をしっかり覚えておきたい。
蛇に扮装したサタンはアダムとエバを誘惑するためにこのように言った、禁じられた木の実を食べても、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3:4-5)。
悪魔の言葉はいつも半面の真理である。アダムとエバはその実を食べたことにより、確かに「善悪を知る者」となった。だが、彼らがその実によって新しく知ったのは、善ではなく、悪だけだった。(なぜなら、二人はその実を食べる前から、すでに善のことはよく知っていたからである。)二人は神の戒めに背くことにより、神に従って調和の中に生きるという、以前から知っていた善に加えて、神に背くという悪を体験的に知ったのである。
アダムとエバはその時が来るまで、ただ善のみの存在する一元論の世界に生きていた。だが、この堕落の時点から、二人の知識には悪が増し加わり、人類は善悪二元論の世界に生きることを運命づけられた存在となった。
確かに、蛇の言うように、二人は木の実を食べてたちどころに死ぬことはなかった。だが、実際には、ただちに死ななかった代わりに、老いという緩慢な死が始まったのである。
悪魔と共謀した人間の裏切り行為を神は厳しく罰せられた。神は蛇(サタン)を呪って言った。「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう。」
「女のすえ(=末裔)」という言葉は、教会では、御子イエスを指すと解釈される。正統とされる教義を信じているクリスチャンなら誰しも認めるように、イエスは肉による父ヨセフによって生まれたのではなく、聖霊によって乙女マリヤより生まれたため、「女の末裔」なのである。そこで、この文章は、肉の父に属さない「女のすえ」である御子イエスが、いずれサタンのかしらを打ち砕き、アダムによってもたらされた原罪による呪いを終わらせるが、その時、サタンはただイエスの踵にかみつくことしかできず、イエスは悪魔を打ち負かされるだろうという意味で説明される。
しかし、それに加えて、「おまえのすえ(蛇の末裔)」とは、ただサタンそのものだけを指すのでないものと思われる。なぜなら、サタンに強い影響を受けた人間たち、つまり、イエス時代に生きていた律法学者、パリサイ主義者たちを、イエス自身は「まむしの子らよ」と名指ししているからである(マタイによる福音書23:33)。そしてさらに、終末の時代に、地上に投げ落とされたサタンは龍というシンボルの形で黙示録に登場する(ヨハネの黙示録12:9)。蛇=まむし=龍、これらが同じ系統に属する悪魔的な存在として、象徴的に描かれているのである。
アダムは神によって、一生、生きるために苦役せねばならないことが言い渡された。作物を実らせ、家族を養うための労苦は一生、男について回る。アダムが神に背いた原罪に対する呪いとして、人類に生活苦がもたらされ、人生は、苦しみに満ちたものに変わったのである。
「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る。あなたは土だから、土に帰る。」
わずかな自由のために、うんと苦役して働いた後で、望まない死がやって来る。人生の喜びは短く、身体は老いて、土に帰る。この生老病死の苦しみを、聖書は、原罪の招いた呪いとして人間に下されたものとしているのである。
他方、神は女に対して言われた、「あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。子宝を授かるという、夫婦に与えられた恵みは、この時から、女にとって、恐ろしい苦痛を伴うものとなった。いや、これはただ女性の生理的苦痛や、産みの苦しみが増したことだけを指しているのではないと私は解釈する。
男が額に汗して生きねばならなくなり、女が苦しんで子を産まねばならなくなったことは、要するに、子育てが夫婦両方にとって、非常な苦痛と不安の伴う、重い負担となったことを意味する。
そして妻はどんなに夫を愛しても、夫と決して対等の存在になれず、夫は妻を思いやりを持って扱うどころか、むしろ妻を残酷に治めようと(支配しようと)してかかってくることが言い渡された。家庭内で、夫は妻に君臨しようとし、他方、妻はそのことで夫に不平を持ち、夫と妻との調和は失われ、この時から、たとえどんなに愛し合った夫婦でも、争いを免れられないことが運命づけられたのだ。
クリスチャンの中には、エバがアダムの肋骨をもとに創られたという聖書の記述を根拠にして、男尊女卑、すなわち妻に対する夫の優位性が神の御心にかなった自然な関係であるかのように説く人々がいるが、きちんと聖書を読むなら、そのような見解が大きな誤りであることが分かるだろう。
夫が妻に対して優位を誇るようになったのは、アダムとエバの原罪の結果としての呪いが原因であった。夫が妻を「治める」(支配する)という現象は、夫と妻の本来的な、自然な関係ではなく、むしろ人間の罪が招いた、不自然で、歪んだ関係なのである。
このようにしてアダムとエバ以来、人類は老いや病に脅かされる、死すべき存在へと変わった。生きることは苦役となり、子育てはつらいものとなり、美しいものであったはずの夫婦関係、家庭までが歪んだものに変わってしまった。今日、家庭内暴力などの問題が、社会問題として盛んに取りざたされるようになって久しいが、もしも、読者の中に、家庭において一切の歪みを味わったことがない人がいるならば、それは本当に奇跡的な幸運であると言えよう。
何しろ、聖書においては、なんと最初の人類、アダムとエバの家庭から、すでに家庭内暴力があり、殺人があり、家庭崩壊が起こっていたのだから…。
こうして、原罪のために、人間関係には残酷な支配と対立がつきものとなった。今日、人間社会における支配関係は、余剰生産物の争奪戦を機に始まったとされる説がまことしやかに語られているが、聖書を基準に見るならば、あらゆる支配関係は原罪に起因すると考えることが可能だ。まず、男の女に対する支配が始まり、それがあらゆる支配の原型となっていったのではないかと私は考えている。
アダム以来、人間関係には暴力や陰謀による支配と、謀反による対立がつきものとなった。アダム以来、全ての人間関係が呪われ、歪んだものへと変えられてしまったと言っても過言ではない。
イサクとリベカという美しい夫婦の陥った腐敗は、このような文脈でとらえるならば、何ら特筆すべき出来事ではなく、驚くべき異変でもなく、人類の宿業としての悲劇であったと言えよう。
物語はリベカの動機を伝えていません。贈り物に目が眩んだとか、ラバンの下に居ることに嫌気が差したということを疑うこともできます。
いずれにせよ、理想のカップルとか理想の結婚として捉えるものではないように思います。
本題とずれていて申し訳ありません
私がこれを「理想の結婚」と呼んだのは、まず第一に、イサクとリベカは神の導きが与えられた上での混乱のない結婚に至ったからです。今日、神の導きを求めてどんなに祈ったとしても、なかなかこんな風には導きが与えられないで悩む信仰者も多い…、そういう意味もこめてです。
第二に、ただ神の導きがあったというだけでなく、リベカは美しく、品行方正で、思いやりもある娘であり、イサクの妻になるに真にふさわしい娘だったと思われるからです。
>物語はリベカの動機を伝えていません。
その通りですね。旧約聖書の時代は家父長制だったゆえだと思いますが、女性の心理に焦点が置かれた記述というのがあまり見当たりません。結婚に至るまでのリベカの心中は、(女性から見ればかなり重要なことのはずなのに)ほとんど記述において無視されている感じがします。
リベカの内心ははっきり記されていないわけですけれども、それでも、リベカを迎えに行った僕は、もし娘が着いて来ることを拒否するなら、連れ帰らなくとも良い、という約束だったわけですから、リベカ自身には、結婚する意志があったということになりますね(創世記24:58でリベカが同意してます)。
ではどんな動機で彼女が結婚に同意したのかという点ですが、神がイサクのために選ばれた女性であり、アブラハムの親族から召しだされた女性です、少なくとも、異教徒・異邦人から選ばれたわけでない女性ですので、恐らくは、リベカにもアブラハムに通じる(同じ神への)信仰があったのではないかと想像できます。
「ラバンとベトエルは答えて言った、『このことは主から出たことですから、わたしどもはあなたによしあしを言うことができません。リベカがここにおりますから連れて行って、主が言われたように、あなたの主人の子の妻にしてください』」(創世記24:50-51)
この記述を読むなら、この時点でラバンとリベカの父ははっきりとアブラハムと同じ神への信仰を持っていたことが分かります。
ラバンはその後のエピソードから、かなり心変わりする人物であったことが分かりますが、リベカとの兄妹仲が悪かったという記述はありません。そこで、少なくとも、この時点で、リベカ自身は「贈り物に目が眩んだ」とか、「ラバンの下に居ることに嫌気が差した」から結婚したのではなく、父と母の信仰にならって、主の導きに信じて従ったのだと考えるのが一番自然だと私は思います(さらに、それができないようであれば、彼女はイサクにふさわしい妻とは全く言えないし、わざわざアブラハムが同族の女性を探し出させた意味がなくなってしまうからです)。
アブラハムが息子イサクのために心から願い、祈っていたことが、まさに(結婚当時はですが)ほぼ完全な形で成就した、アブラハムが願い、僕が祈った条件が全てかなった上で、イサクに最良の妻が与えられた、(イサクはリベカを愛することができたので、二人の相性も良かった)、そういう意味で、二人の結婚は理想的だと言えると思うのです。
それは、今日における男女の出会いの観点から見て、相性の合った理想的なカップル、という意味でなく、信仰的な観点から見て、二人はまさに理想的なカップルとして始まった、という意味です。
私は、過酷な家庭環境で育ちました。
私が幼少の頃から、両親は、お互いに離婚すると言い張って、ひどい争い方をしていました。
父親は、毎日のように酒に酔って、幼児の私のことを、投げ飛ばしたり、柔道の技を使って転倒させたり、耳を持って上体を持ち上げてから床に叩きつけたり・・
私の体には、いつも、生傷や青あざがありました。
私の姉は、高校1年生の時に精神病(非定型精神病)を発症し、10数回、医療保護入院になりました。
私は、そういう過酷な家庭に生まれ育ってしまったことを、本当に、つらく思っていました。
人間関係がうまくできないのも、生まれ育った家庭環境の影響ではなかろうか?と思います。
『アダルト・チルドレンと家族』(斉藤学著)を読んで、機能不全家庭で育った自分は、きっとアダルト・チルドレンだから「生きづらい」に違いないと考え、カウンセリングを受けたこともあります。
しかし、私の「生きづらさ」は、まるで改善されませんでした。
ヴィオロン様の「聖書に見る生活苦と男女不平等の起源」を拝読して、「アダルト・チルドレンだからどうのこうの~」という勉強をしたり、カウンセリングを受けたところで、いつまでたっても問題は解決しないな、と思いました。
アダムとエバの堕落と家庭の崩壊。
この根本に、まず目を向けるべきだと思いました。そして、自分の生まれ育った過酷な家庭は、格別異常ではない。という、事実の認識をする必要があると思わされました。
しかし、「女の末裔」である主イエス・キリストが、ただ一度、ご自身を十字架にささげて下さり、御血を注がれて、サタンのこうべを踏み砕いて下さったので、ただただ、主に感謝するほかありません。
この十字架にこそ、家庭で傷ついた心を、本当の意味で癒す神の力が働いていると思いました。
アダムとエバの堕落の血筋である全人類には、多かれ少なかれ、家庭での問題があるのでしょう。
そして、心の傷ついた人々が、キリスト教の教会に癒し(救い)があるのではないかと感じて、教会に行くケースは、少なくないと思います。
私も、その一人でした。
教会では、「十字架による神の家族」という、非常にありがたい言葉を聞かされ、私はそこに、どっぷりと浸っておりました。
ですが、私の行っていた教会は、キリストの十字架からどんどん離れ、キリスト教ではなく、聖霊教になってしまい、それゆえか?組織の勢力の拡大に傾き始め、私はそこを離れました。
キリスト教の「教会」こそ、十字架の福音に堅く立って、多くの心傷ついた人々にとってのシェルターであってほしいな、などと、未だに甘い幻想を抱いてしまう者であります。
コメントへの返信が大変遅くなってすみません。
>自分の生まれ育った過酷な家庭は、格別異常ではない。
>アダムとエバの堕落の血筋である全人類には、多かれ少なかれ、家庭での問題があるのでしょう。
おっしゃる通りですよね。さらに今日の社会構造の歪みのため、社会の最小単位である家庭には、大きな負荷がかかっていると思います。ですから、家庭の歪みに耐えている方は、本当に多いことでしょう。
>しかし、「女の末裔」である主イエス・キリストが、ただ一度、ご自身を十字架にささげて下さり、御血を注がれて、サタンのこうべを踏み砕いて下さったので、ただただ、主に感謝するほかありません。
>
>この十字架にこそ、家庭で傷ついた心を、本当の意味で癒す神の力が働いていると思いました。
アーメンです。私が長年、苦しんで来た家庭の問題から本当に解放されたのは、私自身が、たった一人で神と向き合い、神に現状からの救いを叫び求め、キリストと共に十字架で死ぬということを経験してからのことでした。エクレシア(神の教会)は、私がこのキリストの十字架の死と復活を実際として経験するための手助けになってくれましたが、教会が私にとってシェルターとなることはありませんでした。
私がキリストと共に本当に十字架につけられて死んだのだということがはっきりと個人的に、内的に分かった時、それまでの家庭での過酷な対立が、キリストの十字架の元で永久に廃棄されて、止んだのです。この世のすべてを死に至らしめたキリストの十字架の霊的な力が、この私の信仰を通して、家族にも及び、長年の対立を無効にしたのだと思います。そして私と私の家族には、キリストの復活の命の効力が及び、私たちは新しい関係の中で生かされるようになったのでした。
とはいえ、まだ私の家族は全員が福音を信じたわけではありませんし、急に私たちがドラマのように仲良くなったということもありません。それぞれの性格も、がらりと変わったわけではありません。けれども、明らかに、あの殺意にまでいたりかねない恐ろしい敵意は、十字架により永久に廃棄されたのだということがはっきり分かります、私たちは今は普通に家族として連絡を取りながら暮らしていますが、それはかつての関係の中では決してできないことでした。
ルルさんが抱えておられる問題も、キリストの十字架にこそ解決があります。キリストと共なる十字架の死と復活の命を、実際として経験するクリスチャンがさらに現れますように祈ります。
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