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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

十字架に戻れ!(1)

今日、神の子どもたちに対して、サタンは何と巧妙に彼らが直面している霊的な戦いの実際と、その唯一の解決方法である十字架を隠そうとしていることでしょう。今日のクリスチャンたちの弱々しい様を見ればそれは明らかです。今や、クリスチャン同士が各地で互いに争い、傷つけ合い、教会は目を覆いたくなるほどの邪悪な事件に見舞われています。

 幼いクリスチャンたちは、十字架についてのより深い認識が欠けているため、神を信じた後になっても、自分の内に残る古き人(旧創造、肉と魂)を十字架で死に渡す経験がありません。そこで、彼らの全く対処されないままの古き人は、サタンにとってどれほど絶好の作業場となっているでしょう!
 たとえば、私たちの魂の持つ怒りっぽさや、性急さ、頑固さや、妬みや、自己憐憫、自惚れ、功名心などを考えてみるだけでよいのです。私たちの内側に残る数え切れないほどの利己的な性質が、外側からの邪悪な勢力の働きかけによってあまりにも簡単に敵に利用されています。その時、ほとんどのクリスチャンは、自らがサタンによって利用されていることを知るよしもなく、心の赴くままに従って、互いに裁き合い、互いに挑み合い、噛み合って、虚栄に生きているのです。

 サタンはこうしてクリスチャンたちの内側にある、十字架で対処されていない古き人の領域を足がかりにして働くことにより、クリスチャンを罪に陥れようと絶え間なく試みているだけでなく、外側からも、邪悪なこの世的な空気を用いてクリスチャンを汚染しようとしています。堕落した映像や言葉、価値観が、私たちの目にひっきりなしに飛び込んで来ます。また、日常生活にも、あらゆる困難を降り注ぐことによって、サタンはクリスチャンを消耗させます。私たちが暗闇の勢力に対する戦いに積極的に踏み出すならば、困難や誤解がひっきりなしにやって来ることを経験するでしょう。

 これら光の子らをひっきりなしに襲っている困難が、どこから来たのかを明確に見分け、また、どのようにしてその試練に立ち向かうのかを知らなければ、私たちはそこで訳が分からずに、ただ消耗し、絶望し、意気消沈する他なく、敗北を避けられません。
 チャールズ・アシャーは「十字架に戻れ!」のメッセージの中でこう言います。

「イエス・キリストは十字架へと行かれた時、わたしたちの罪のために償いをされただけでなく、わたしたちの霊的な敵であるサタンを打ち破られました。これは、カルバリにおけるキリストの働きの最も重要な部分です。

なぜなら、人は内側で罪に縛られているだけでなく、外側でサタンにも縛られているからです。イエス・キリストの働きのこの面を見失うことは、悪との戦いにおける立場を非常に弱めます。カルバリの勝利においてのみ、神の子供は、今日広がりつつあるサタンの力の現在の活動に立ち向かうことができます。

 サタンは、教会が天に向かって前進する道を彼の力によって遮り、こうしてキリストが地上で王として支配するために戻ってくるのを遅らせています。これらの力は霊的で、邪悪なものであり、霊的武具によってのみ対抗することができます。」(ウォッチマン・ニー全集第一巻『クリスチャン生活と戦い』、付録一、p.249-250)

 クリスチャンをいかにしてサタンが弱体化させ、キリストの再臨をいかにしてサタンが遅らせているか、その真の原因を、今日の聖徒たちは、ほとんど理解していません。クリスチャンは、むしろ、本質的な原因とは何の関係のない地上的な事柄に熱中することによって、再臨を早められるかのように誤解しています。たとえば、ある人たちは、地上にまだ教会の数が少なすぎることが、再臨を押しとどめているのだと思い、もっと多くの教会を建てようと運動に励んでいます。ある人々は、クリスチャンの小規模な集まりが必要であると思い、家庭的な規模での集会を増やそうと励んでいます。ある人々は、信徒を弟子として訓練することによって成熟させることが必要であると思い、弟子訓練プログラムを導入することに熱中しています。ある人々は、聖書の勉強会を開き、ある人々は、カウンセリングによってクリスチャンの心の傷を癒すことに熱中し、ある人々はカルトを取り締まり、キリスト教界を浄化することに必死です。

 しかし、これらの人為的な方法は、いずれも、私たちの地上の持ち物や、魂の知識を増し加えることはあったとしても、クリスチャンが敗北している真の本質的な原因には触れていませんし、それに対する何の処方箋ともなっていません。教会が天に向かって前進し、地上にキリストの支配をもたらすために、このような人為的な方法は何の役にも立ちません。なぜならば、再臨を遅らせている本質的な原因は、クリスチャンとサタンとの霊的な戦いにおいて、クリスチャンが勝利が得られていないことにあるからです。

 さらに、もっと悪いことに、暗闇の勢力との霊の戦いを主張している人々でさえ、その多くは欺かれて、無意味な戦いに時間をむなしく費やしています。ある人々は、ただいたずらに他宗教に敵対して、宗教の霊に対して戦いを挑んだり、悪霊追い出しの祈りに熱中していますが、これらの方法は正しくありません。

 クリスチャンはまず、私たちに敵対している勢力とは、あれやこれやの特定の霊力に限られたものではなく、その背後にいて彼らを操っているこの世の君(サタン)であることをまずはっきりと認識しなければなりません。そしてサタンと戦う方法はただ一つしかないこと、十字架を離れて私たちは敵に勝利できないことを認識すべきです。

「しかし、ある人は問うことでしょう、『どのようにして悪魔は、キリストが戻ってこられるのを遅らせることができるのでしょうか?』。
 それは、教会を敗北させておくことによってです。<…>

 神の民の多くは地的な事柄に注意を奪われているため、霊的な領域の事柄は彼らにとって全く聞きなれないことです。
 もう少し霊的な思いを持っている他の人も、絶えず打ち破られています。なぜなら、邪悪な力との戦いに立ち向かうための装備が貧しいからです。悪魔は、彼らの働きを絶えず侵害し、その労苦において彼らを悩ませることができます。そして彼らは、その攻撃がやってくる源がわからず、屈服し、こうして打ち破られてしまいます。
敵は彼らの働きを妨げるだけでなく、彼らの個人的な生活もまた敵の憎悪の対象となります。家庭問題、不和、誤解が次から次へと起こり、ついには彼らが絶えず消耗させられる状況が生み出されるに至ります。<…>
 わたしたちがそれらに抵抗しない理由は、その攻撃の真の原因を認識していないからです。わたしたちは、わたしたちの問題のひそかな、巧妙な源であり、わたしたちの考えの及びもつかない者であるサタンをそのままにしておきました。

しかし、わたしたちの目が開かれて敵を見いだす時、わたしたちはやみの力との個人的な霊的戦いへと召されたことに気がつきます。わたしたちはまた、教会に反対し、この世を支配している邪悪な力について、より広い幻と神聖な理解を得ます。そして、それらが超自然的で、サタン的なものであり、よみがえられた主との結合の中にある神の子供が抵抗しなければならないものであることを認識します。」(p.250-251)

 そうです、教会と個々のクリスチャンをあらゆる面で消耗させ、敗北させている真の原因はサタンであることをまず知らなければなりません。私たちはよみがえりの主を信じた瞬間から、望もうと、望むまいと、そのような戦いの中にすでに一歩を踏み出しているのです。では、その戦いに打ち勝つためにはどうすれば良いのでしょうか。「サタンよ、出て行け!」と大声で叫べばよいのでしょうか。悪霊追い出しの祈りに何時間も、熱中すれば良いのでしょうか。家の隅々の暗い一角に向かって悪霊払いをすればよいのでしょうか。そのような考えは完全に誤っています。

「しかし、どのようにして神の子供は、悪魔とその軍勢を征服することができるのでしょうか?
 ただイエス・キリストとの生き生きした結合を持つことを通してであり、サタンが完全に屈服される場所であるカルバリを霊的に認識することを通してです。

何と敵は注意深くこれを隠そうとしてきたことでしょう! また彼は何と巧妙に、自分が辱められ、敗北した場所から信者を引き離そうと企てていることでしょう!
」(p.251-252)

 そうなのです、今日、キリストの十字架こそがサタンの敗北の場所であるという明らかな事実が、クリスチャンの目から巧妙に隠されています。多くのクリスチャンが霊的な戦いを完全に誤った角度からとらえ、十字架の外にある誤った方法でサタンと対決しようとしては、敗北しています。それは敵による欺きなのです。クリスチャンが悪魔とその軍勢に打ち勝つことができるのは、ただ御子の十字架、すなわちカルバリだけなのです。

「ヨハネによる福音書第十二章三一節と三二節では、キリストが上げられることがサタンを追い出すことであることを、はっきりと教えています。
『今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう』。

どこに上げられるのでしょうか? 御座にでしょうか? 違います! 十字架にです。三三節は明白に告げています。『イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとしていたのかを、お示しになったのである』。<…>
 キリストの死は、サタンとその軍勢を完全に屈服させます。しかし、その勝利がわたしたちの中にもたらされるためには、わたしたちは十字架に戻り、やみの力に対抗してそれを行使することを学ばなければなりません。そのやみの力は、この世でサタンを王座に着けるために熱心に労しているのです。」(p.252)

 クリスチャンは、十字架におけるキリストの死に常に立ち戻り、御子の十字架の死と復活の命へと自分自身を常に結合することによってしか、闇の力に打ち勝つことはできません。御子イエスは、地から上げられ、彼の十字架へと私たちを引き寄せて下さっているのです。私たちは彼の十字架の中に住まなければならないのです!
 もしも私たちが、自分はすでによみがえりの命をいただいたので、もはや十字架のキリストの死は必要ないと考え始めるならば、それは私たちに敵に勝利する力を失わせます。

「『わたしたちは十字架を離れて、よみがえられたキリストとの結合へと進むのでしょうか?』とは、神の民の多くが尋ねる質問です。そして、キリストの死を継続して生活に適用する必要があることを告げられると、彼らは言います、『しかし、わたしはよみがえられたキリストの中にいます。そして、わたしが必要とするのは生けるキリストであり、死んだキリストではありません』。

このような誤解の多くは、この祝福に満ちた真理を霊の中ではなく、文字の中で取り扱うことによります。『文字は人を殺し、霊は人を生かす』(Ⅱコリント三・六)

 キリストの霊はカルバリの霊です。十字架上のキリストの死は、キリストの命の最高の表現でした。あなたが彼の命にあずかる時、キリストの十字架の霊は、あなたの命の原則となります。
 パウロはよみがえられた主とのさらに深い結合を求めた時も、十字架を越えて進むことはしませんでした。生けるキリストとの結合が深まれば深まるほど、さらに深くキリストの死の中へと沈み込まなければならないことを、彼は見ました(ピリピ三・十)

 キリストと共によみがえらされ、生ける信仰によって彼の中に住むことは、あなたがキリストの死にあずかることを意味します。
 勝利を得るクリスチャン生活の条件は、キリストとの結合です。
 罪に打ち勝つ唯一の方法は、イエス・キリストと結合した生活によります。
」(p.240-241)


 わたしたちは、信仰によって、主の死と復活とに自分自身を結び合わせなければなりません。キリストの死だけでなく、復活だけでもなく、絶えずキリストの死と復活に結合されなければならないのです。これは私たちが一時的な過程として通り過ぎることのできるものではなく、日々、継続的に行われなければならない永遠の霊的な結合です。「主につく者は、主と一つの霊になるのである」(Ⅰコリント六・十七)。私たちは日々、この永遠の結合へと絶えず戻って行く(その結合の中にとどまる)必要があるのです。

サタンの願望は、信者を十字架から引き離すことです。そして彼は、よみがえらされた主と結合した生活を求めるよう人を駆り立てて、しばしば最も大きな成功を収めます。悪魔は、十字架を外にしては、また十字架から離れては、真の結合がないことを知っています。それで彼は、その代わりとして偽物の経験を与えるのです。

 パウロはローマ人への手紙第六章で、生ける信仰によってよみがえらされたキリストに結合され、彼の中に住むことは、わたしたちが彼の死にあずからなければならないことを意味すると、はっきりと教えています。『キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである』(ローマ六・三)
 彼はまたわたしたちに、キリストとのより深い結合は、わたしたちがより一層深い十字架の認識を持つ時にのみ可能であることも教えています。
ピリピ人への手紙三章十節を見てください。『すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり』

これが、わたしたちの知る必要のあることです。それは神学や感情においてではなく、実際の経験においてです。そしてその結果は、力に満ちた生活であり、罪、サタン、病、死、この世に対する勝利の生活です。これは、わたしたちが十字架に戻る時にのみ可能です。」(p.243)

 私たちは十字架のより深い認識を持ち、それを実際に経験する必要があります。神学的に十字架を知ることや、思いや感情、知識の中で十字架を知るだけでは、役に立ちません。私たちは十字架の経験を実際に持つことによって、個人的に、十字架をより深く知らなければならないのです。私たちの古き人が十字架によって実際に死に渡されるという経験を持つ必要があります。十字架のより深い認識について、次回に見ていきましょう。
<つづく>
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