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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

御霊に導かれて歩む(1) 霊によって体の働きを殺す

なぜ霊的先人の書物を読む必要があるのか?

 全てのクリスチャンの働きはそれぞれに異なっています。人真似によって得られるものは何一つありません。たとえば、ある人が今日、全財産を捨て、職業を捨てて、主に従うことを選んだとしても、別の人が今日、それを模倣することによって、御心に従うことができるわけではありません。誰もが宣教師の召しを与えられているわけではありませんし、誰もが教師になる必要もありません。私たちは人真似によって神の御心に従うことはできません。
 とはいえ、クリスチャンの働きと、信仰生活の原則とは別物です。働きはそれぞれに異なっていますが、信仰は一つです。従って、神の御心に従って前進したいと願う全てのクリスチャンは、霊的先人たちが辿って来た、信仰生活に共通した原則に注意を払うべきです。

 私は以下のコメントで使用したいささか不用意な言葉を訂正したいと思います。もしも私がクリスチャンとして、より霊的に深められた生活を送りたいと望むなら、たとえば、多くの霊的先人たちのメッセージと同様、ウォッチマン・二ー兄弟の述べている原則に、私は注意を払わなければなりません。たとえ、ニー兄弟の述べていることの多くが、初めのうち、私には理解できなかったとしても、だからといって、性急に、それは彼だけに必要なことであって、私には必要ないと決めつけることは愚かです。私が彼と同じ人生行路を辿る必要はありませんし、また、彼の言葉に妄信的に従う必要もなく、また、一時に全てを理解することは不可能でしょうが、少なくとも、彼が述べている信仰生活の原則が、私にも、全く同じようにあてはまるものであることは、認めなければなりません。

 私たちは、先人の残した著書を読んだからといって、ただちにそこに書いてある全ての真理と経験を我が物とすることができるわけではありません。しかし、ウォッチマン・ニーは、御言葉に基づいて、全てのクリスチャンの信仰の成長にとって曲げられない原則を明記しました。ですから、私たちは、彼が著書で述べていることを全て理解できるようになることを、主に願い求める必要があります。


全てのクリスチャンは、十字架のより深い働きを知る必要がある

 さて、なぜ今日のクリスチャンは、これほどまでに力を失っているのでしょうか。なぜ私たちのうち多くのクリスチャンは、いつまで経っても、罪にからみつかれたまま、それに打ち勝つこともできず、同じところを行ったり来たりして、前進のない信仰生活を送っているのでしょうか。私たちは、いかにして御霊によって導かれるクリスチャンとなることができるのでしょうか。この問題について考えたいと思います。

 アダムは創造された時(まだ堕落していなかった時)、神と交わることのできる霊を与えられていました。それは神の霊(聖霊)ではなく、人の霊であったけれども、アダムはその霊によって神に従い、神と交わり、彼の魂と肉体は、彼の霊に服従していました。神と交わることのできる霊を与えられていること、それが、あらゆる被造物と人間とのはっきりした区別でした。アダムの中では、崇高な霊が最も高い地位を占め、それに魂と肉体が従うという優先順位が守られていました(霊→魂→肉体)。

 しかし、アダムが堕落した後、人の霊の機能は死んでしまいました。それ以後、生まれながらの人の霊は神に対して全く閉ざされた状態となり、人の霊の正常な機能は死んでしまい、むしろ一部の人々にあっては、悪霊に対して開かれているような、異常で堕落した状態となりました。その結果、人の霊と魂と肉体の優先順位は全く狂ってしまいました。人の中では、肉が王様となりました。人は罪の奴隷となり、魂は、罪にそそのかされるまま、肉体を使ってあらゆる罪を犯すようになりました。

 また、神のいましめに逆らって善悪を知る木の実を選んだことにより、人の魂は神に頼らない独自の知識によって高ぶりました。人の魂は自ら善悪を判断するようになり、あらゆる知識を導引して、己が知性を誇るようになりましたが、魂の知識は人をただ暗闇へと導くだけで、何の救いももたらしませんでした。堕落した肉が人の中で最高位を占め、真理を知らない魂が次なる地位を占め、肉→魂→霊、と、優先順位が逆転しました。霊の機能はないも同然となり、人は神から遠く引き離されました。その結果、人の人生にはあらゆる悲惨や混乱がつきものとなり、暗闇の中で、罪と死に至るだけになりました。再生されていない人は、どんな努力によっても、その状態を変えることはできません。

 人が悔い改めて、御子イエスの十字架を信じると、あらゆる罪から贖われ、聖霊がその人のうちに住まわれることによって、人の霊も再び生かされます。しかし、多くのクリスチャンは、その時点では、御霊が我がうちに住まわれたことをただ信仰によって信じているだけで、聖霊の導きをまだはっきりと内に感じることはありません。彼は霊によって導かれる人にはまだなっていません。また、肉の罪に打ち勝つことができる力もほとんどありません。そのような時点でのクリスチャンは、まだ肉的なクリスチャンであって、ある日、涙ながらに、罪と訣別する決意をしても、翌日には、また罪に戻っているような有様です。

 また、そのような時点でのクリスチャンの中には、一生懸命に聖書を読み、御言葉を知識として蓄積し、主のために多くの活動をする人たちがいますが、依然として、彼の活動の内には、聖霊の命が働いておらず、そのため彼の働きは実を結ばず、死んだように力がありません。

 この時点でのクリスチャンは、まだ、肉→魂→霊という転倒した優先順位の中で生きています。御霊に導かれる人となるためには、この順位を覆し、肉体と魂を霊に服従させ、人の中で、霊を真の主人とならせることが必要です。そのために、私たちは、肉と魂の古い性質を、御子の十字架を通してさらに死に渡す必要があります。しかし、多くのクリスチャンは、それを経験することなしに、この地点で立ちどまってしまいます。それは、彼らが、これが非常に初歩的な段階であって、まだ先があることを知らないためです。彼らは御子イエスの十字架が、私たちの罪からの贖いのためであることは知っていますが、私たちの肉と、古き人を対処するために、十字架に、より深い働きがあることを知らないのです。そのことが、多くのクリスチャンの生活が少しも前進しない理由となっているのです。

 ウォッチマン・ニーは、十字架には客観的な面と主観的な面があると言います。

 十字架の客観的な側面とは、御子イエスが全人類の罪の贖いのために十字架にかかられることにより、私たちのために救いを達成されたという事実です。この十字架の贖いは、約2000年前にキリストによって完全に成就され、私たちはそれに何一つ付け加えることはできませんし、また、付け加える必要もありません。
 一方、十字架の主観的な側面とは、私たちが御子の十字架をただ私たちの罪の贖いのために受け取るだけに終わらず、さらに、それぞれの人生において、御子の十字架をどのように深く経験していくか、ということを指しています。

「事実、十字架の働きは絶対的に、完全に、永遠に達成されました。それは、もうそれ以上深めることはできません。しかしながら、この事実をクリスチャンが経験していく過程は、一歩また一歩と深くされていくことができるのです。少しずつ、聖霊は信者たちにこの十字架の原則についてさらに教えるのです。<…>
 これは、十字架は客観的な面では絶対であり、何もそれに付け加えることができないことを意味しています。しかしながら、主観的な面では、それは漸進的であり、さらに深く進歩することができるのです。」(ウォッチマン・ニー著、『霊の人』、第一巻、p.184)

 多くのクリスチャンは、御子が達成された十字架を、ただ罪からの贖いとして受け取るだけで終わってしまうのですが、実際には、私たちは、御子の達成された十字架を、聖霊の導きに従って、それぞれの人生でより深く経験していく必要があります。そうすることによって、初めて、私たちの肉と魂の古い性質が死に渡され、キリストの復活の命が私たちのうちで実際により深く、より力強く働くようになるのです。十字架のこの二つ目の(主観的な)側面を知らない信者は、十字架を半面だけしか理解していない信者と言えるでしょう。それだけに、彼らは永遠の命をもってはいても、この地上における信仰生活において、多くの経験できるはずの恵みを失い、勝利するチャンスを奪われてしまうのです。


肉は何の役にも立たない!

 さて、私たちは肉が罪なる性質を持っていることを知っています。御言葉はこう述べます。
「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、享楽、および、そのたぐいである。」(ガラテヤ5:19-21)

 これらの肉の働きが邪悪なものであることはあえて説明する必要もないでしょう。クリスチャンは、これらの罪からの分離がどれほど完全にできているかに関わらず、とにかく、このような肉の働きが不義であることを認めています。ですから、これらの肉の悪なる働きについて詳しい説明は不要でしょう。しかし、私たちがうっかり見落としてしまいがちな点があります。それは、肉は不義をなすことができるだけでなく、善を成し遂げることもできるということです!

「聖書によれば、『肉』の働きは二種類に分類されます<…>。それは不義と自己義認です。肉は罪だけでなく義も生み出します。肉は卑しいものだけでなく、非常に高貴なものも生み出します。肉は欲があるだけでなく、良い思想もあります。」(p.164)

 一般的なクリスチャンの多くは、一生懸命に日曜礼拝を守り、徹夜・断食・早天祈祷に参加し、献金を捧げ、トラクトを配り、考えうる限りの良い活動に真面目に参加しようとしています。彼らは外面から見れば、まっとうなクリスチャンのように見えるかも知れませんし、自らそう信じ込んでいる人々も多く存在することでしょう。彼らは自分たちは世の罪人よりははるかにましな生活を送っており、自分達は肉的でないとさえ思っています。しかしながら、多くの場合、彼らには、神の命の現われがありません。むしろ、実際に、信仰生活の前進のなさに悩んでいることさえ多いのです。あれやこれやの活動にいそしんでいながら、何十年経っても、幼子のようなレベルにとどまっている信仰者が多くいます(悲しむべきことに、私もそのような一人でした)。なぜそのようなことが起こるのでしょうか。

 それは、その人が依然として、肉に頼って善行を行っているだけであり、肉により頼んで、聖霊に従おうとし、肉により頼んで、神を喜ばせようとして、むなしい努力をしているからなのです。彼らは肉そのものが神の目に忌むべきものであることを自覚せず、また、自らの肉が御子の十字架ですでに死に渡されたという事実に堅く立ってもいません。私たちは、肉には邪悪な働きがあるだけでなく、一見、善のように見える働きもあるということをも、覚えておく必要があります。しかし、善のように見えようと、悪のように見えようと、依然として、「肉から生まれる者は肉」(ヨハネ3:6)であり、「肉にある者は、神を喜ばせることができない」(ローマ8:8)のであり、「肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反する」(ガラテヤ5:17)のです。

 クリスチャンは、肉において礼拝を捧げ、肉において祈り、肉において賛美をし、肉において奉仕をし、肉において献金をしたりするということが実際にあり得る(むしろ、大いにあり得る!)ということに注意せねばなりません。いかにそれが人の目に敬虔な礼拝のように見えようと、もしその礼拝が肉によって捧げられているならば、それは神の目に忌むべき礼拝なのです。肉による善は、肉による不義ほどまでに、汚れたものに見えないかも知れませんが、実際には、神から見て、肉による悪と同じように、滅ぼされるべき、呪われた「肉」なのです。そのことを知らないで、依然として、肉による善行に頼って生きていることが、多くのクリスチャンが信仰生活において敗北する原因となっています。

 私たちは肉の邪悪な働きだけでなく、肉の「善良な」働きも全て含めて、私たちの肉そのものが、御子イエスと共に十字架につけられて、滅ぼされなければならないものであり、また、それがすでに死に渡されたという事実を知り、それを信じ、それに立脚する必要があります。十字架を、私たちの罪の贖いとして信じ、それによって、再生されたというだけでは、私たちが肉の働きに対して完全に死ぬには不十分なのです。私たちは、肉の邪悪な働きに対して、死ぬ必要があると同様に、肉の善良な働きに対しても、死ぬ必要があります。どちらをも容赦してはなりません! 肉そのものが滅ぼされなければならないのです! そうなるためには、十字架のさらなる深い働き、十字架のさらなる意味を理解することが必要です。もしそれがなければ、どれほど長い信仰暦を持っていたとしても、私たちはずっと、「幼子」のようなクリスチャンにとどまってしまうでしょう!

 再生されたばかりの信者は、まだ肉的なレベルにとどまっており、肉の支配の力に勝利することができないでいます。

神の目的は、肉を改良することでなく、むしろ肉を滅ぼすことです。神は再生の時にご自身の命を人に与えられますが、その目的はご自身の命を通して肉の自己を滅ぼすことです。神が人に与えてくださる命は非常に力があるのですが、新しく再生された人は幼子のようであるにすぎません。彼は新しく生まれているのですが、まだまだ非常に弱いのです。しかし、肉はそのように長い間支配してきたので、その力は極めて大きいものです。なおまた人は信仰による神の全き救いを十分了解していません。

ですから、この時すでに新しく生まれてはいますが、肉的でないことは難しいのです。肉的であるとは、今なお肉によって支配されていることを意味します。最も哀れなことは、再生されて天的な光に照らされた人が、肉は忌むべきであることを知り、心からそれに打ち勝ちたいのに、自分の力があまりにも弱く、打ち勝つことができないということです。このような時、多くの涙と多くの悲しみがあります。なおまた再生された人はみな、神を喜ばすため罪を除き去る新しい願いを持たなければなりません。しかし、その意志はそれほど強くないので、多くの場合は肉に打ち負かされます。その結果、勝利することはめったになく、敗北が多いのです。このような時、人はどうして自分自身を憎まないでおれるでしょうか?」(p.127)

 多くの信者たちは、自力で肉を征服することによって、肉の働きを何とか殺そうと四苦八苦していますが、その試みには何の成功の見込みもありません。

「多くの信者は神の救いの道を理解していないので、彼らは戦うことによって肉に打ち勝とうとします。彼らは、勝利か敗北かは、力が大きいか小さいかの問題であると思っています。ですから彼らは、神がさらに大きな霊の力を賜り、肉に打ち勝たせてくださるようにと切に望んでいます。このような戦いは長く続くかもしれません。しかしながら、常に勝利よりも敗北があります。そして完全に肉を征服する、目に見える見込みもありません。」(p.142)


 私たちは自分で肉と闘って肉に打ち勝つことはできません。一つ一つの肉の働きや、一つ一つの罪に打ち勝とうとして、どれほど苦闘してみたところで、私たちは自分の肉そのものに対して勝利を得ることは絶対にできません。滅ぼされなければならないのは、私たちのあれやこれやの行いでなく、私たちの肉そのものだからです。たとえ一つの罪を犯さないように自分を制することができたとしても、それによって、私たちが自分の肉そのものを死に渡すことは決してできません。私たちが肉に対して真に死ぬためには、十字架のより深い意味を私たちが理解し、それを自分に適用することが必要不可欠なのです。


霊によって体の働きを殺す

 さて、十字架のより深い理解と適用とは何でしょうか。それは、私たちの肉は、すでにキリストと共に十字架につけられて死んだ、という事実を信じ、それを信仰によって自分に適用することです。

「ガラテヤ人への手紙第五章で使徒は、肉の多くの項目について語った後、続けました、『キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである」(二四節)。これが救いの道です。<…>
 キリストにある幼子は、まだ肉に属する者ですから、さらに深い十字架の意味を知るべきです。神の働きは、信者の古い人をキリストと共に十字架につけることであり、キリストに属する者は『肉をその情と欲と共に十字架につけてしまった』のです。どのような肉であれ、肉の欲がどのように強くても、それらは共に十字架につけられています。

過去において、この十字架を通して罪人は再生され、彼らは主によって罪から贖われたことを知りました。今また、肉に属する赤子のようなクリスチャン(たとえ再生されて何年経過していても)は、この十字架を通して肉から救われ、肉の支配から解放され、もはや肉によって歩まず、聖霊によって歩むことができるようになります。こうして間もなく彼は霊的な人になります。<…>

 『キリスト・イエスに属する者』とは、主を信じるすべての者を指しています。すべて主を信じた者、再生された者は、主に属する者です。この人の霊性がどうあれ、その働きがどうあれ、罪から解放されていてもいなくても、全く聖別されていてもいなくても、あるいは肉の欲に勝利していても勝利していなくても、すべて問題ではありません。ここでは、この人が命の中でキリストに結合されているかどうかです。言い換えると、再生されたでしょうか? 主イエスを救い主と信じたでしょうか? もし信じたなら、その人の現在の霊的状態がどうであれ、勝利であっても敗北であっても、この人は十字架の上で『肉を十字架につけてしまった』のです。」(p.147-148)


 私たちは御言葉に基づいて事実を堅く信じる必要があります。ここで言う事実とは、御子イエスが十字架にかかられ、肉体に死なれた時、御子を信じる私たちの肉も、彼と共にはりつけにされて死んだ、という事実です。私たちが自分の肉を十字架につけるために、新たな十字架を作り出す必要は全くありません。それはすでに御子が達成されたのです! 御子イエスが十字架において、その肉体に死なれた時、彼はご自分の肉の中に、私たちの全ての肉を含められました。彼はご自分の肉の中に、滅ぼされるべき全ての肉を含まれた、という事実を私たちは信じなければなりません。その事実は、私たちの現在の状態とは全く関係ありませんし、私たちにその実感があるかどうかとも関係ありません。私たちが生きている時代が、御子の歩まれた時代とどれほど遠かろうとも関係ありません。御子イエスの十字架は永遠に達成された事実なのです。ですから、私たちは永遠の中から、信仰によって(!)、その事実を今の自分に引っ張ってきて適用すべきであり、自分の現在のみじめな状態を見つめて、それを事実として信じられるかどうか判断すべきではありません。ただ、御子イエスが、すでに私たちの肉を十字架上ではりつけにし、死に渡された、という事実を信じるべきです。

「…もしキリストに属するなら、その人は十字架の上で『肉を十字架につけてしまった』のです。十字架につけつつあるのではありません、またこれから十字架につけるのでもありません。そうではなく、彼はすでに十字架につけてしまったのです。
 わたしたちは焦点をはっきりさせなければなりません。この節は経験の事柄を語っているのではありません。あなたの経験がどうあるかではなく、神の事実を述べているのです。強くても弱くても、『キリスト・イエスに属する者』は、『肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまった』のです。

あなたはなお罪を犯している、と言うかもしれません。しかし、あなたはすでに十字架につけてしまった、と神は言われるのです。あなたは自分にはまだ短気があると言います。しかし、神は、あなたはすでに十字架につけてしまった、と言われるのです。あなたは、自分の欲は強いと言います。けれども神は、あなたの肉はすでに十字架につけてしまったと言われます。

どうか今は、あなたの経験に注意しないでください。まずあなたに対する神の語りかけに注意を払ってください。もし神の言葉に耳を傾けず、神の言葉を信じないで、ただ毎日あなた自身の経験を見ているだけなら、あなたは決して肉が十字架につけられた経験を持つことはありません。あなたの感情や経験に注意を払ってはなりません。神があなたの肉を十字架につけてしまったと言われるのですから、肉は本当に十字架につけられているのです。わたしたちはまず神の言葉に耳を傾け、神の言葉を信じなければなりません。そうすれば経験があるでしょう。

神はあなたに、『あなたの肉はすでに十字架につけてしまった』と言われました。あなたは『アーメン! そうです、わたしの肉は十字架の上につけられています』と答える必要があります。このようにすれば、あなたは自分の肉が本当に十字架につけられていることを見るでしょう。」(p.149-150)

 キリストの十字架上で私たちの肉が死んだことを信じ、その事実が経験となることを願うならば、言葉において、声に出してそれを宣言し、自分に適用することも有効であると私は思っています。そのようにして、主の死を自分の死として信じ、自分の肉を、主の十字架上で死に渡すならば、私たちはある時、十字架を経由して、本当に、自分の肉の働きが死んでしまった、ということを実際に経験するでしょう。

「神はすでにご自身がなし得るすべてを成し遂げられました。すでに神はすべてを達成されました。今、唯一の問題は、わたしたちが神の行われたことをどのように取り扱うか、神が達成されたことに対してどのような態度を取るかです。彼はわたしたちの肉を十字架につけてくださいました。これは言葉だけでなく、実際です。もしわたしたちが信じ、わたしたちのために神が達成されたことを意志を働かせて選ぶなら、そのすべての事柄はわたしたちの経験となるでしょう。

わたしたちはそれを達成する必要がありません。なぜなら神がすでにいっさいを達成されたからです。わたしたちが自分の肉を十字架につける必要はありません。神はすでに肉を十字架につけてしまわれたからです。今、問題は、これが事実であることを信じるかどうか、命の中で達成されたことをわたしたちが欲するかどうかです。それを信じ、それを欲するなら、わたしたちは聖霊と共に働いて、これを自分の経験とする必要があります。

コロサイ人への手紙第三章五節は言います、「だから、地上の肢体……を殺してしまいなさい』。これが経験する方法です。<…>肉を殺すためには、まず共に死んだことを理解しなければなりません。共に死んだことを理解したなら、肉を死に渡すことを実行しなければなりません。これらの二つは共に進み、互いに支え合うのです。」(p.152)


 あなたは御子イエスの十字架のこのような理解とその適用(実行)によって、自分の肉の欲が死んだように鎮まり、肉の罪なる性質から解放されたという経験を持つかも知れません。それは肉に対して霊的な死が適用されたことを意味します。しかし、一旦、そのような経験があったからと言って、そこで、あたかも自分が全く聖なる者とされ、肉から完全に解放され、もはや肉を死に渡す必要が一切なくなったかのように思うべきではありません。そのような油断は、肉の蘇生を招くでしょう。油断してはなりません。私たちが常に目を覚まして、御霊によって導かれ、「霊によって体の働きを殺す」(ローマ8:13)ことを続けないならば、肉は再びその力を盛り返し、私たちは再び罪の中へ落ち込んでいくでしょう。

「このような霊的な死は、一度限りではありません。いつでも信者が注意していないと、あるいは信仰を失うと、肉は再び活動します。もし信者の全存在を主の死と一つにならせたいなら、必ず彼は肢体の行いを死に渡し、それを霊の中で身体にまで至らせなければなりません。<…>

 信者の肉がキリストと共に十字架上で釘づけられたことは、達成された事実です。再び十字架につける必要はありません。それにもかかわらず、体の邪悪な行いが働こうとしているように見える場合、そこに死を適用する霊があります。主イエスの十字架はわたしたちのために達成されており、その邪悪な行いは主の死の力によって殺されるのです。

いつでも、どこでも肉の邪悪な行いは、わたしたちの体から出て行こうとしており、また現れようとします。ですから、その霊が信者を主イエスの聖なる死の力で力づけない限り、信者は打ち勝つことができません。もし信者がこのようにして行いを殺すことができるなら、内住の聖霊は罪の体を無効とならせて、神の目的を達成することができるでしょう(六・六)幼子の信者がこのようにして十字架を認識するなら、彼らは肉の支配から自由にされ、復活の命の中で主イエスに結合されます。」(p.154-155)

 私たちは地上にある限り、肉体という幕屋から逃れることはできません。しかし、だからと言って、そこで悲観したり、絶望したりする必要はありません。主イエスは十字架を通して、私たちの生涯に渡って、肉の問題への完全な解決を与えて下さいました。キリストの十字架の死にとどまり続けるならば、私たちは、肉の情と欲に支配されることなく、再び罪の奴隷として生きることはありません。主の十字架上の死を通して、私たちは肉の働きを死に渡し、肉を霊に従わせ、御霊に従って生きることができるようになるのです。
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