忍者ブログ

私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

エクレシアと一つ

 私が勧められてウォッチマン・ニーの著書を真剣に読むようになったのはごく最近のことだが、不思議なことに、それと時期を同じくして、今まで誰にも知られていなかった獄中でのW.ニーについての証がSugarさんのブログ獄中のW.ニー(1)から発表された。
 W.ニーの優れた著書や、メッセージの記録を、自分たちの権威として巧みに利用しようとする団体がある一方で、この素朴な証は、何と誠実に、飾らず、W.ニーの人となりを正直に証し、彼の内におられたキリストを率直に証していることだろう。この証を知ってから、私はニー兄弟を含め、先人たちの存在を、どれほど身近に感じるようになっただろうか。

 当初は、亡くなった人を身近に感じるなんて、私は変なのでは?とも思った。けれど、兄弟姉妹に尋ねてみると、それは少しも不思議なことではない、との返事。私たちは永遠に一つのエクレシアに連なっているのであり、霊において、先人たちとも交わっているのですよ、と教えられた。ほら、イエスが山に登られた時、モーセとエリヤが彼の前に現れたのを覚えているでしょう?

 それから間もなく、私は先人を身近に感じるだけにとどまらず、自分が本当にエクレシアの只中にいることを発見した。これまで、私は真実なエクレシアを常に尋ね求めてきた。教会と名のつくところでは、ただ虚偽の交わりしか見つけられなかった。もちろん、私一人でもエクレシアの一員であるということを疑ったわけではない。だが、どうにかして、真実なエクレシアをどこかに見いだせないだろうか、真実な兄弟姉妹との交わりを見つけられないだろうか、と願って来た。

 そうして、あちこち尋ね求めているうちに、ふと、気づくと、私は自分がすでにエクレシアの只中にいることを発見した。しかも、太い鎖ががっちりと組み合わされるようにして、二度と切り離されることのない確かな形で、私はエクレシアに組み込まれていたのだった。しかも、そのエクレシアとは、イエスが天に昇られ、聖霊が信徒の上に下って以後、時を超えて、今日まで脈々と続いて来たものであり、先人たちを含めて、無数の兄弟姉妹が連なっている見えない共同体である…。

 以下は、私と、あるキリスト者の兄弟姉妹(計3人)のメールから抜粋(一部改訂)。

 「今まで、私は一生懸命に『神の御前での単独者』を生きようと苦心して来ました。環境面でも、私は長らく兄弟姉妹との交わりから遠く引き離されたところに住んでいましたから、いつも、信仰上の困難に、たった一人で立ち向かわなければならないというプレッシャーがあったのです。その上、教会という教会の中で、真実な交わりを見つけられなかったため、本当のエクレシアとは何なのか、どこに真実のエクレシアが見つけられるのか、ずっと探していました。一言で言えば、あれも、これも違うという違和感だけが重なり、確かなものを自分が掴んだという実感がなかなか沸かなかったのです。

 けれども、なぜか今日、不思議なことに、突然、亡くなった先人たちを含めて、あらゆる兄弟姉妹と共に、私は今、確かに、キリストの御身体の一部を生きているのであり、もはや私一人の人生は終わった、と分かったのです。今後、私がどこへ行って何をしようとも、あるいは、兄弟姉妹と接触していない時でさえも、私の一挙手一投足の全てが、エクレシアと共にあり、それはエクレシアのためなのであり、エクレシアと私とは二度と切り離すことができないものである、という確信がやって来たのです。

 ちょうど、あの手記の著者が獄中でニー兄弟と出会って、彼らの縁がそれ以後、二度と解かれることがなかったのと同じです! 私たちはとかく、ニー兄弟という一人の有名人にばかり注目しがちですが、獄中で神は彼をエクレシアの只中に置いたのですね。そこで与えられた素朴な交わりは、試練の最中にあって、彼にとって至福となったことでしょう。そうやって、彼の苦しみは分かち合われ、十字架は分担して背負われたのです。W.ニーは獄中でも、キリストの身体の一部としての役割の中を生きたのであって、決して一人、壮絶なまでに孤独に十字架を負ったわけではなかったのですね。
 
 これは決して、W.ニーの受けた試練を、安易な気休めで薄めようとして言うのではありません。あるいは、仲間意識とか、友情、連帯、助け合いを賞賛するという話でもありません。この時代にあって、私たちはみすぼらしい、苦痛に満ちた十字架を背負うことでしか、神の栄光をあらわすことが出来ません。私たちのために用意されているのは、キリストが飲まれたのと同じ、苦しみに満ちた杯であり、この道は、隠された、地味な、さえない、苦しみの道です。けれども、神は私たちに、決してそれを一人ぼっちで最期まで耐えぬくようにとは願っておられない。それは最大の苦痛をすでにキリストが負って下さり、それを私たちがもはや負う必要がなくなった、あるいは、神が私たちの苦痛を軽減するために兄弟姉妹を与えて下さったので、私たちはもはや一人でなくなった、というだけの意味だけにとどまらず、それは、一人の打ち傷が、全員の打ち傷となり、エクレシアが一つとして機能するためなのです。

 言い換えるなら、私たちはこの時代にあって、決して、ただ個人であることを許されていない、私たちのやることなすこと全ては、この時代、そして、それに続く時代のエクレシアとつながっており、そこから切り離されることはあり得ないのです。このエクレシアは なくなるどころか、今後、さらなる広がりを見せながら、キリストの身体としてのリアリティを増していくことでしょう。私はもう一人ではあり得ないのですね!」

「あなたにそのような光を送られた主を賛美するのみです。 『あなた一人が 単独なキリストと一つ』と言う光を基軸として その光が 『単独のキリストの無限への拡大、無限への延長としての 今日の奥義的な天地のキリストと 時空を超えて あなたは総てのキリスト者達と共に 少なくとも今 霊の中では一つである』と言う光へと あなたの中で発展したのでしょう。それを 真理があなたの中でそのツルを伸ばした、『御言葉があなたの中で成長した』とも言えるかも知れません。
 
 もともと その命は一つ 光も一つであり、それが総て今日においては 『あの大きな人』 の中にしか存在していないのですから、私達が分けられることはもう不可能です。それが可能な時があると仮定すれば、それは キリストの体が分解(or解体)される時に限られます。(分解とは死ですが、彼はもう二度と死ぬことは不可能であり、従って 御からだに解体はもはやあり得ません。)
 
 メールの後半で言われていることは 多分パウロの言う『私は あなた方のために、受ける苦しみを喜びとします。そしてキリストの体のために 私の身をもって、キリストの苦しみの欠けた所を満たしているのです。』(コロサイ1の24)と言うことでしょう。 
 パウロはここで 突然 異端者になったのではなく、永遠の中における『原型としての』キリストの苦しみは、更に彼の体の中、時空の中においても、(私達やパウロやW.ニーの肉体においても)あの二千年前にあったのと全く同じ死が 時空を超えて再現されなければならないことを言っているのでしょう。

 もしそれが今、時空の中で私達において再現されないならば、やはり『キリストの苦しみはまだ欠けている』ことになります。総ての永遠の真理は 『聖書に書いてある』だけでなく、時空の中で再現されなければなりません。それこそが、今日のキリスト者において欠落している最大のことです。」

「エクレシアと一つ。これは実に不思議な力のようですね。W.ニーでさえ過去の人ではなく 今もエクレシアの一員。こうなると パウロも ペテロも すでに天に上げられた人々さえ エクレシアの一員。そして見えないそれらの人々に 雲のように囲まれている。う~~ん 素晴らしい・・・」

 本当に、これは素晴らしいことです。いや、想像を絶するほどのことです。私が生きて出会ったことのない信徒とさえ、時空を越えて、主にあって、永遠に私たちは一つに結びつけられているのですから!

「時空を超えて 『あの監房の三人』と私達がつながっているとさえ 感じます。それが、またパウロの監房とも!」

 
アーメン! ぜひそうあって欲しいものです。キリストの苦しみを満たすという光栄な仕事を、どうか主が私たちに最後まで勇気を持って貫徹させて下さいますように。


ーーーー

2016年。この記事にも追記しておく。キリスト者は、エクレシアに入る前、その敷居のところで、自己を焼き尽くされて死んでいなければならない、というのはMr.Sugarの言葉であった。

筆者はこのことに今も完全に同意しているし、その他にも、多くのことを同氏から学んだ。しかし、関東に来て分かったのは、戸口で自己を焼き尽くされていないのに、エクレシアの一員を名乗っている人々があまりに多いことであり、そうした人々が入りこんでくると、エクレシアはエクレシアでなくなり、悪魔の思うままに翻弄される肉の集まりにしかならないということであった。

今現在、筆者は、KFCのDr.LukeからもMr.Sugarからも距離を置いている。そして、ウォッチマン・ニーの著書についても、部分的に徹底的な精査が必要であると感じている。(むろん、だからと言って、キリスト教界に逆戻りする、という意味でもないのである。筆者の交わりは、その時、その時で、主がふさわしい人々を送って下さった。今もそうである。)
 
Dr.Lukeの言説が異端化したことについては、最近の記事で触れているので繰り返さないが、Mr.Sugarについても、触れておかねばならないことがある。

ウォッチマン・ニーの著書に書かれている事がらは、確かに非常に深く、キリスト教界ではお目にかかることもできないような深さがあり、その中に、極めて重要な真理が含まれていることは確かだと思う。そして、筆者自身も、キリストと共なる十字架の死、復活、などの言葉を、Mr.Sugarを介して聞いたことにより、初めて、それまでキリスト教界では知ることもできなかったキリストとの一体性を実際に知るきっかけを得たのである。そこで、この経験は、主が備えて下さったものであり、その意味では、彼らとの出会いも、なくてはならないものであったと言える。

その意味では、筆者に限らず、ローカルチャーチ出身の二人の兄弟が果たした功績というものは、確かに存在するものと今でも考えている。キリスト教界では、聖書の真理についてあまりに多くの事柄が失われてしまったので、ローカルチャーチを介してしか、伝達できないような事柄が存在したのである。しかしながら、同時にここに大きな危険性、もしくは落とし穴があるのは、ウォッチマン・ニーの著書の影響を受けた人々には、多くの場合、「神と人とが混ざり合う」というローカルチャーチの教えの悪影響が残り続けており、ローカルチャーチに関わっていなかったとしても、『権威と服従』という年功序列の絶対化の教えの悪影響が残っているということである。

まず、Dr.Lukeは2016年現在、自分は神であると宣言するに至り、ローカルチャーチとほとんど変わらない異端的確信に至っている。他方、Mr.Sugarがとうに書き辞めたが、ネットには残っているブログも「山暮らしのキリスト」という、自分自身とキリストをあたかも同一視するような標題となっていたことが気がかりである。

Mr.Sugarとはローカルチャーチの異端性について幾度か口論めいたやりとりをしたことがあるが、Sugar氏の家庭では、長いローカルチャーチでの集団生活の影響を受けて、息子のうち二人は心の病に陥り、うち一人は自殺に至っている。一時は、家庭内のすべてが危機に瀕していたと言われる。しかしながら、Sugar氏は子供の死がローカルチャーチの異端の教えに由来するものだとは、決して筆者の前で認めようとはしなかった。

その心の病は、要するに、ストレスや宗教が原因で生じるようなものでは決してあり得ないと言うのである。しかしながら、当時から、ローカルチャーチとSugar氏をよく知るDr.Lukeは、同氏とは全く異なる見解を持っており、ローカルチャーチで子供を育てれば、子供は絶対に気が狂うだろうと予め確信していたので、自分は「あえて宗教団体には子供を入れず、エジプト(この世)で育てたのだ」と公言していた。

筆者もまた、Sugar氏の見解とは全く相容れないながらも、異端の教えを奉ずる宗教団体で子供を育てれば、子供の心にははかりしれない悪影響が残ると確信するのにはわけがある。

筆者はゴットホルト・ベック氏の集会をも観察した。そこでも、KFCと同じように、ウォッチマン・ニーの著書が熱心に愛読されていたのだが、その団体にも、子供を自殺や不幸な形で失った親たちがたくさん詰めかけていたのであった。そして、この団体を観察しているうちに、筆者に分かったことは、この親たちは、子供を不幸に追いやってしまった自分自身の過失から目を背けるために、ウォッチマン・ニーの著書を利用しているのではないかという可能性であった。

なぜなら、ウォッチマン・ニーの『権威と服従』のような教えは、年功序列を絶対化する教えのため、年長者にとっては極めて都合が良いのである。そのような教えを振りかざして自己を絶対化・美化すれば、年長者は、自分は何をしても、従わない年少者が悪い、という理屈に逃げ込めるので、親たちはただ子供に絶対服従を求めるだけで、いかなることについても、自己反省をしなくて済むようになる。そのような浅はかな思考は、特に、子供を痛ましい形で失ってしまった親たちにとっては一種の現実逃避的な慰めをもたらすので、特にそのような人々を惹きつけるのだと考えられる。また同時に、そのような教えを奉じたがために、今も痛ましい抑圧が起き続けているのだと言える。

筆者が最初にSugar氏と決裂に至ったのは、別の記事でも記したように、2009年秋のデッドライン君の登場がきっかけであった。このデッドライン君(仮称)は、筆者のブログを読んで筆者にコンタクトを取り、エクレシアの一員になりたいと告白して来たのだが、この信者をSugar氏に紹介するや否や、あっという間に、彼はSugar氏に「弟子化」されてしまった。そして、以後、何年間も、彼はあたかもSugar氏の徒弟のように行動を共にすることになる。

筆者は当時、家庭にリビングルームも持っておらず、救いのために熱心に祈るべき家族の成員も身近にいなかったことから、Sugar氏とデッドライン君の交わりから、あっという間に、半ば弾き出されたような恰好となった。それをきっかけにSugar氏に疑問を呈したところ、あっさりと交わりから放逐されてしまったのである。

その後、KFCを出たことをきっかけに、Sugar氏と再開し、再び交わりを持ったりしたのだが、そこから得られるものも、むろんあったが、常に、そこには何かしらの望ましくない陰(いうなれば『権威と服従』の悪影響)のようなものがつきまとっていることが感じられた。つまり、何よりも、交わりそのものに、結局は、年少者が年長者に弟子化されて行くという、筆者が最も願っていない序列が出来上がってしまうのであった。筆者は、牧師や教師のような指導者が固定的に交わりに存在することを願っていなかったし、当時、Sugar氏もそのような交わりこそ理想だと公言していた。にも関わらず、誰かをSugar氏に紹介すると、たちまちその人が同氏の信奉者(要するに弟子)となってしまい、以前のようなあけっぴろげで対等な交わりがもはや成立しなくなるということの連続なのである。

Sugar氏は、Luke氏のように野蛮な形で反対者を批判したり追放したりということはしなかった。物静かで上品な外見であり、人との対立を極度に嫌っていたが、そうであるがゆえに、早々に好ましくない事件に巻き込まれることを避けてブログも公開しなくなり、また、Luke氏に対しても、陰では相当な批判を浴びせながら、一度も、公然と決別宣言をすることがなかった。

このように、自分が人間関係を傷つけたり、憎まれ役になりたくないばかりに、人と公然と対立することを避け、公に議論せず、激しい戦いを戦いぬいて自分の信仰告白を守り通したり、忌むべきものに対して断固とした決別宣言を公に出せない、という臆病さは、ある意味、大変、恐ろしい危険でもあるのだと筆者は考えている。一見、それは人間に対する思いやりや、優しさに見えるかも知れないし、対立ばかりしている不器用な生き方とは異なる「スマートな生き方」に見えるかも知れないが、要するに、それは保身の思いから出たもの、もしくは見栄から出た行動であり、どっちつかずの不忠実さをもたらすものであって、決して、真の優しさではあり得ないのだ。もし信者が世間体を重視するなら、それと同時に、全ての人を偽りとしてでも、神を真実な方として、キリストだけにつき従うことはできない相談である。人間の理解や同情や賛同をすべて失ってでも、神にのみつき従い、ただ神だけの顔色を伺うという純粋さが、信者にはどうしても必要だと筆者は思う。
 
だから、同氏の家庭で起きた痛ましい事件を振り返るにつけても、どうにも人間とは見かけではないという気がしてならない。

Sugar氏が息子を失った時に、それを信仰の勝利であるかのようにKFCで証したことは、関係者の間でではよく知られている。その時のメッセージは、KFCのメッセージ集に収められているという。筆者はそれを聴いたことがないが、これを耳にして深刻な違和感を覚え、抗議した信者も当時から存在していた。しかし、KFC関係者はすべてDr.LukeとSugar氏の面目を傷つけないために、その疑念を黙殺したのである。

筆者が最初にSugar氏に疑念を覚えたのは、同氏の山小屋で最初に交わりを持った時のことであった。その時、幼い子供たちを連れて山小屋に来ていた家族があったが、子供たちが遊んでいるうちに、勢い余って、山小屋の備品であったランプを壊してしまった。当然、親は子供をSugar氏の前に立たせて厳しく叱責し、謝らせた。子供たちは泣いて謝っていた。その時、Sugar氏は子供たちに向かって幾度か尋ねた、「わざと壊したんじゃないですよね?」と。

その質問が、筆者に強烈な違和感を生じさせた。なぜなら、元気いっぱいで遊びたい盛りの男の子たちが何人も集まって部屋の中で過ごしていた様子を、筆者は目の前で見ていたからであり、そこにはいかなる故意も悪意も存在しないことを確かに知っていたからである。

このことから筆者が何を言いたいかを察することのできる人はよほど勘の鋭い人であろう。

世の中には、子供たちに存在しない悪意を読み込んででも、自分は正義の担い手であるかのように、彼らを上から目線で指導し、矯正し、罰し、抑圧することに、一種の悦楽を覚える思想の持ち主が存在するのである。そして、そのような考えの持ち主は、とにかくあれやこれやの正論をふりかざして、人の上に立ちたがり、自分のサディスティックな願望や、上に立ちたいという欲望を正当化するために、教師や、牧師や、指導者となって、人々の上に君臨し、人間を弟子化することにより、序列を作り出し、自分の配下にいる人間を、自分が「正しい」と考える鋳型に半強制的に押し込んで、懲罰を繰り返すことによって、自分の意のままに服従させようとするのである。多くの場合、それは信仰を口実になされるが、そうした人格矯正の結果、人間性を否定された「弟子」は人格破綻に至る。そのような例は、カルト団体ではいくらでも見られることであるし、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密のような牧師の提唱する「カルト監視機構」という発想なども、結局は、「正義」を口実にして、人間の内面を人間が強制的に取り締まろうとしている点で、上記と全く同じ残酷な発想なのである。

筆者はSugar氏の内面についてあまり多くのことは知らないので、同氏が上に述べたような人格の持ち主なのだと主張しているわけではないが、ただ同氏に起きた以上のような出来事だけを通しても、見えて来るものは確実にあると言える。Dr.Lukeも、Sugar氏も、教師という職業に就いていた。そして、聖書は「あなたがたは先生と呼ばれてはならない」と教えている。もしかすると、これは牧師を指しているだけでなく、教師をも含んでいるのかも知れないと、筆者には感じられることがある。教師でありながら、自分が栄光を受けず、他人の内面の自由を完全に尊重するというのは、極めて難しいことだからである。
 
いずれにせよ、『権威と服従』の悪影響が信者たちの内面に相当深刻に残っていることは断言できるだろう。筆者は、今の曲がった世の中を「子殺しの時代」と表現している。旧約聖書で背教のはびこった時代、神を捨てた背信の民は、自分の娘息子を偶像の生贄として捧げたのである。なのに、どうして今日にだけは、異端の教えを奉じても、信者の家庭にはそのような結果は決して起きないと断言できようか。

筆者は、背教から来る殺人に加担したい願いは毛頭ないので、信者の家庭にそのような痛ましい害悪をもたらす悪しき異端の教えとはことごとく早期に手を切りたいと考えている。その上で、どんなに危険だと忠告しても、過去を反省することなく、その教えと公然と手を切ることもしない信者とは、残念だが、筆者の方からどこかの時点で訣別しなければならないと考えている。人間的には、常に相手の存在が惜しまれるし、エクレシアに抱いていた憧れが消え去ることへの無念もある。だが、異端の教えが入って来ると、もはやそのようなものはエクレシアではあり得ないのだ。

主に従う道は、この意味で、決して安易とは言えない。信仰生活は義理でも人情でもなく、
「汚れたものとは分離せよ」という聖書の原則に基づいていなくてはならず、神に忌み嫌われるものにあえて接触し続けると、信者は必ず痛手を負うことになる。Dr.Lukeの危険性について筆者に最初に忠告したのはSugar氏であったが、Sugar氏は自ら知っていたことについて、様々な責任を負っていたはずである。

ベック氏の集会には、立派な家と立派なリビングルームと立派な家族を持つ多くの信者たちが集まっていたが、にも関わらず、多くの家庭に癒されない不幸があり、その繁栄がすなわち幸福ではないということを筆者は確認したので、今となっては、そのような地上の富を持たないことに対する引け目もなければ、それに対する憧れもない。

筆者の全ての望みと目的は、信仰を口実にして、地上で優れた人間関係を築き上げて壮大なネットワークを拡大することにはなく、あくまで見えない神お一人だけに従い抜くことである。「まず神の国とその義を第一とせよ」、その条件が満たされて初めて、信者の諸々の地上的幸福などなども付随して与えられるのである。

PR