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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

内なる人と外なる人

先日、尋常ならぬ引越しに要した並々ならぬ気力・体力がついに限界に達したのか、原因不明の体調不良に見舞われた。昨日は、めまぐるしく浮き沈みを繰り返す気分のために、片時も、落ち着く間がなかった。

 体調が悪くなると、それに合わせて、さまざまな恐れ、不安、ネガティヴな思念が発生してくる。昔は、それが「呪われた死の身体」から発生する雑音であると気づくことさえなく、私は諸々の不機嫌や不安のなすがままに振り回されていた。

 けれども、今は、それらの不安定な感情と思惑が、私の外なる人、(主として)滅びゆく肉体から発生するノイズであり、私の内なる人、内側にある霊とは関係のない事柄であるのが分かる。そこで、それらと少しだけ距離を置けるようになった。だが、依然として、外界や、魂や、肉体の雑音に全く左右されずに、私が内なる平安を保てる人間になったというわけではない。ただ「真のリアリティであるキリストの命とは、こういうもののことではない」と思いながら、それらを何とかやり過ごすだけだ。その間、そのうるさい雑音によって、内なる平安はほとんどかき消されてしまう。

 不快な感覚の中で私は思った。なぜ私の信仰は、こんなにも外的条件に左右されるのだろうか。こんなにぐらつきやすい信仰で、この先、やっていけるのだろうか。どうして、ある日は平安に座していても、他の日には平安に座すということができなくなるのだろう。そんなにも安定がないのはどういうわけだろう。

 不安の中にいると、兄弟姉妹から、的確な助言や励ましをもらった。別段、私の方から、相談したわけでないのに、ある姉妹から、まさにそのテーマについてのメールをいただいた時、ああ、エクレシアは、一つなんだな、と改めて感じさせられた。あるいは、言い換えるならば、これはそれほどまでに、あらゆるクリスチャンにとって、重大問題なのかも知れない。

 今日、神の働きを最も妨げているのは、私たちの外なる人が、御霊によって十分に打ち砕かれていないことである、とW.ニーのある本は告げている。外なる人が、内なる人の働きを妨げる際に発する雑音とは、何も、肉体の弱さや、恐れや、不安や、不機嫌、疲労、多忙、外的な刺激から受ける諸々の影響ばかりではない。また、強情や、おしゃべりや、怠惰や、厚かましさや、高慢などの、あからさまに否定的な性格ばかりが、外なる人の性質を表すのではない。ある人にとっては、陽気すぎる性格、活発すぎる性格が、内なる人の妨げとなるだろうし、ある人にとっては、持ち前の正義感、頭脳明晰さ、善意、優しさ、そんなものが障害となる。外なる人の生まれつきの性質は、人によってそれぞれであるが、いずれにせよ、生まれつきの性質は、御霊によって、砕かれなければならない。

 外なる人は、もし聖霊によって砕かれるならば、もはや内なる人が働く妨げとはならない。外なる人と内なる人との間に調和が生まれ、両者は一致して同じ目的のために(神の御心のために)働くようになるだろう。だが、一粒の麦が地に落ちて死ななければ、麦を覆うその固い殻が、発芽を邪魔し、実を結ぶことは決してない。私たちの外なる人の生まれつきの頑なな性質がそのまま残るならば、それは、生ける水が川々となって、私たちから外に流れ出るのを常に邪魔する。御子イエスは、御霊を制限されることはなかったが、私たちは、救われて御霊をいただいたにも関わらず、魂や肉体、生まれ持った自己の性質という固い殻が覆いとなって、神の地上での自由な働きをほとんど阻害してしまっている。

 そこで、御霊の自由な現れのためには、ヤコブがもものつがいを外されたように、私たちも、聖霊の取り扱いを受けて、生まれつきの性格を処理されなければならないのだが、それがほとんどないために、御霊は監禁状態に置かれ、私たちの中から外に出ることもできなくなっており、恵みの川の代わりに、ただよどみだけがあるというのが、今日の教会の一般的な姿だろう。

「四福音書の根本的な教えは、神が一人の人の中におられたということです。書簡の根本的な教えは、神が教会の中におられるということです。福音書は、神はただ一人の人の中におられたと告げます。神は、イエス・キリストの中におられるだけでした。書簡は、神は教会の中におられるだけであることを見せます。<略>

 全能の神がキリストの中に住んでおられた時、神はやはり全能な方でした。神は、どんな方法によっても、制限されたり、減少されたりすることはありませんでした。今日、神の望みと目的は、教会の中で全能者、すなわち、無限な方であり続けることです。神は、キリストの中で表現されたように、ご自身を教会の中で、自由に表現したいのです。もし教会が制限されると、神は制限されます。もし教会が無力であれば、神は無力です。これは非常に深刻な問題です。<略>

要約すれば、わたしたちの中のどんな障害物も、神に対する障害物となるということです。わたしたちの中のどんな制限も、神に対する制限になります。もし、神が教会を通して解放されなければ、神には前進する道がありません。今日、神の道は、教会を通してです。

 なぜ聖霊の訓練はとても重要なのでしょうか? なぜ、魂を霊から切り分けることがとても重要なのでしょうか? なぜ、外なる人が聖霊の訓練する働きによって砕かれなければならないのでしょうか? それは、神がわたしたちを貫く道を持たれる必要があるからです。決してわたしたちは、このことを、単なる個人的な、霊的な啓発に過ぎないと思ってはなりません。それは、単なる、個人的な、霊的な経験ではありません。それは、神の道と働きに、深くかかわりがあります。これは大きな問題です。

わたしたちは、神を制限すべきでしょうか? 神は、わたしたちの中で、自由を持っておられますか? わたしたちが対処され砕かれてはじめて、神はわたしたちの中に完全な自由を見いだされます。

 教会が神に高速道路を与えるためには、わたしたちは、神がはぎとられることを経験し、神がわたしたちの外なる人を砕くことを許さなければなりません。このことでの最大の妨げは、わたしたちの外なる人です。もし外なる人の問題が解決しなければ、神の水路としての教会の問題は、決して解決することはありません。わたしたちの外なる人が神の恵みによって砕かれるなら、神がご自身の働きへの水路としてわたしたちを採用してくださる方法には、何の制限もありません。」
(ウォッチマン・ニー著、『霊の解放』、日本福音書房、p.89-90)
<つづく>
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