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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

天幕と祭壇

「神はアブラハムに現れました。それでアブラハムは祭壇を築きました。
この祭壇は罪のためのささげ物のためではなく、全焼のささげ物のためでした。罪のためのささげ物は贖いのためですが、全焼のささげ物は神に自分自身をささげ物とします。

この祭壇は、わたしたちの身代わりになられた主イエスの死を指していません。それは神に自分自身をささげ物とすることを指しています。それはローマ人への手紙第十二章一節で語られた祭壇でした」
          ウォッチマン・ニー、『祭壇と天幕の生活』、JGW日本福音書房、p.6

 「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」ローマ12:1

(JGWの翻訳では回復訳が使われているようでしたので、口語訳聖書から改めて聖句を引用し直しました。)


* * *

 今日、どれほど多くの人が、自分のからだを神に喜ばれる生きた聖なる供え物として捧げる、ということの意味を本当に知っているでしょうか。聖書は、それが、私たちがなすべき霊的な礼拝であると告げており、言い換えるならば、それ以外の礼拝は、霊的な礼拝と呼ぶには値せず、私たちが神の御前に行うべき礼拝ではない、ということを教えているのです。

 「全焼のささげ物が祭壇の上に置かれた目的は何でしょうか? それは完全に焼かれるためでした。わたしたちの多くは、自分を神にささげたのは神のためにあれこれ行うためであると思っていますが、神がわたしたちに求めておられるのは焼かれることです。神は神のために畑を耕す雄牛を必要とされません。神は祭壇の上で焼かれる雄牛を欲しておられるのです。神はわたしたちの働きではなく、わたしたち自身を求めておられるのです

神はわたしたちが自分自身を神にささげて、神のために焼かれることを望まれます。祭壇は神のために何事かを行うことを表徴するのでなく、神のために生きることを表徴します。祭壇は多忙な活動を持つことでなく、神のために生活することを意味します。どのような活動や働きも祭壇に置き換わることはできません。祭壇は完全に神のための生活です。

新約のささげ物は、完全に焼かれた旧約のささげ物のようでなく、ローマ人への手紙第十二章で言われているように生きた犠牲として体をささげることです。わたしたちは日々祭壇の上で焼かれますが、日々生きています。わたしたちは生きていますが、焼き尽くされます。これが新約のささげ物です。」(p.7 太字は筆者)

 今日、自分は神のために奉仕している、と思っている人々のほとんどが、祭壇で神のために焼かれる、ということの意味を少しも知りません。残念ながら、実に多くのクリスチャンが、あれやこれやの活動にいそしむことこそが、祭司として神に仕えることであると誤解し、その活動内容が多ければ多いほど、それが徹底的な献身であると思い込んでいます。実は、そんな活動は、全て祭壇と天幕の外で行われるむなしい人間的な活動に過ぎず、そんな活動によっては、彼らは自分自身の魂のほんのわずか一部さえも、神に捧げることはできないし、それによって聖別されるわけでもない、ということを知らないのです。

 神に仕えるとは、私たちがひっきりなしに、自分が正しいと思い込んだ宗教活動にいそしむことではありません。神に仕えるとは、まず、私たちが全身全霊をいけにえとして、まるごと神の御前に置くこと、自分を神の御前にまるごと、祭壇の上のいけにえとして投げ出すことを意味します。私たち自らが、自分が神の御前に焼き尽くされることを望んで、自分自身を祭壇に横たえることを意味します。それは静止であって、活動ではありません! 私たちは自分の意志、自分の計画、自分の願い、自分自身そのものを祭壇に横たえ、天から下る聖なる火によってそれらが焼き尽くされるのを待ち、自分が死ぬのを待つのです。
 まことの礼拝はその死の後にのみ、可能になります。

 神によって焼かれるというこの経験、聖なる光に照らされて起きる自己の死という経験を待たずして、私たちは神に喜ばれる礼拝を捧げることはできません、また、自分自身を真に聖別された生きた供え物として神に捧げることもできません。つまり、神によって自分自身が焼かれなければ、私たちは祭司として神に仕えることができないのです。

 さて、焼かれるとはどういうことでしょうか。本当に死んでしまうまでに焼かれなければならないのでしょうか。けれども、もし私たちが死んでしまえば、もはや神に礼拝を捧げることもできません。
 ですから、神によって焼かれるということは、死には違いありませんけれども、その死には、場合によって、多少の違いが伴うでしょう。再び、W.ニーの引用です。

「祭壇でアブラハムは彼のすべてを神にささげました。それ以後、アブラハムは衣服や持ち物、すべての物をはぎ取られたでしょうか? いいえ! アブラハムは依然として牛や羊、その他の多くの物を所有していました。しかし、アブラハムは天幕に住む者となりました。祭壇の上で焼き尽くされなかった物だけが天幕の中に置かれました。

ここに一つの原則を見ます。わたしたちが持っているすべては祭壇の上に置かれるべきです。しかし、それでも残されるものがあります。これらの物はわたしたちが使うためです。しかしながら、それらはわたしたちのものではなく、天幕の中に残されているのです。
わたしたちは覚えていなければなりませんが、祭壇を経過していないものは天幕の中に置くことができません。しかし、祭壇を経過した物はすべて焼き尽くされるわけでもありません。多くは火によって焼かれ、何もなくなります。わたしたちが多くの物を神にささげるとき、神はそれらを受け取って何も残されません。しかし、神は祭壇にささげた物のうちいくらかをわたしたち自身のために残されます。祭壇を経過した物で天幕の中に残されている物だけ、わたしたちは使うことができます。」(p.9)

 私には個人的な体験から、このことがよく分かるように思います。以前、私は多くの所有物を持っており、この世の人々と同じ生活をしていました。物だけではなく、行きたい場所へ行き、なりたいものになる望みも、私の所有でした。当時、私は自分が将来、研究者になるものと思っていましたし、行楽的な行事があれば、大勢の人たちと一緒に、退屈をまぎらすためにそこへ駆けつけていました。そして、そんな生活が永遠に続くものと思い込んでいました。覚えていますが、ある年のクリスマスには、神戸のルミナリエに向かう長蛇の列の中に、私は友人と妹と一緒に並んでいました。ありふれた無邪気な楽しい生活でした。その友人が将来、自分の伴侶になるものと私は思っていたのです。

 しかし、ある時、神は私の生活をまるごと焼き尽くされました。何よりも大事にしていたペットの痛ましい死がありました。次に、友人は取り上げられ、家族の中にも剣が投げ込まれました。信頼していた人に裏切られ、親子・姉妹関係は極度に悪化し、将来の夢も微塵に壊されました。
 魂による愛は全て焼き尽くされて、失われていきました。私が憧れていたものも、忌まわしい偶像であったことが暴かれました。私が宗教心だと思っていたものにさえ、卑しい自己顕示欲が含まれていたことが判明しました。通っていた教会は、私をさんざん愚弄した挙句、私を追い出しました。助けを求めた教会もまた私を拒絶し、私の教会籍は悪徳牧師によって地上から消滅させられました。私が敬虔な信仰心だと思っていたものが、どれほど深い虚偽にまみれていたかを、その事件があってようやく、私は知ったのです。

 災いに災いが重なり、ついに、お気に入りの家からも、退去せざるを得なくなりました。高い値段を出して買って、大事に使ってきた家具が、リサイクル業者によって解体されて回収されていきました。私は何事にも抗う力がなく、ただ運命に翻弄されるしかありませんでした。

 そうなってもまだしばらくの間、私はただ自分の願いが砕け散ったことを悲しむばかりで、神が私の生活を聖別するために、私の生活の中に剣をもたらし、私の魂が執着していたものすべてを私から切り分け、不要なものを完全に焼き尽くされようとしているとは知りませんでした。私はさらなる死へと向かっていました。私はまだ人並みの生活に復帰することを願っていましたが、そういう願いそのものが、徹底的に焼かれなければなりませんでした。そして、その死が頂点に達し、自己が殺され、奪い去られるものがもうなくなったという地点にまで達した時、私は、御霊によって、はっきりと悟ったのです。それらのものはすべて、私の自己満足によってかき集めた無用な装飾物でしかなく、私が祭司として神に仕えるに当たり、忌まわしい障害物にしかなりえなかったことを。私が神の御前にどれほど多くのものを所有し、神以外のどれほど多くのものに心を向けて、それらを魂の愛で愛し、それらがどれほど、まことの礼拝の妨げとなっていたかを。ペットや友人や家族への愛でさえ、神を愛することの妨げとなっていたことを。ああ、家族への愛ですら、神への愛の前には、捨てねばならない障害物となる、聖書にははっきりと書かれているその言葉の意味を、今日、どれほど多くのクリスチャンが真に知っているでしょうか!

 今は分かるのです。次の御言葉の意味が。

「わたしをあなたの心に置いて印のようにし、
 あなたの腕に置いて印のようにしてください。
 愛は死のように強く、
 ねたみは墓のように残酷だからです。
 そのきらめきは火のきらめき、最もはげしい炎です。
 愛は大水も消すことができない。
 洪水もおぼれさせることができない。
 もし人がその家の財産をことごとく与えて、
 愛に換えようとするならば、
 いたくいやしめられるでしょう。」(雅歌8:6-7)

 私たちの心の中には、神への愛と並び立つもの、神への排他的な愛の妨げとなるものは、何一つあってはなりません。カナンの地に至るまでの荒野で、モーセに導かれながら、どれほど多くの民が、神への愛を裏切ったために、剣や、疫病や、災いによって命を落としたでしょうか! どれほどの悲劇が彼らを見舞ったでしょうか。神の愛はねたむ愛です!

 イエスがこう言われたことを、私たちは思い出すべきです、
「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。」(マタイ10:34-35)

 まことに神の愛は排他的な愛です。それは魂の愛と、霊の愛とを切り分け、人が常に賛美しようとする魂の愛(家族愛、夫婦愛、親子愛、友愛、自己犠牲、等)を、神への愛の障害物として退けるのです! まことの光が来る時、私たちは、自分が魂の愛で愛していたものが、神の御前に呪わしい偶像であることを知るのです! そうして、魂の愛と、霊の愛とが対立するのです。
 神の愛は、あらゆる偶像に対して、洪水や、焼き尽くす炎となって残酷に燃え上がります。ノアの時代の堕落した人々に対して、神の愛は洪水となって押し寄せました。神よりも世を愛する者に対して、神の愛はどれほど残酷な結果をもたらすでしょうか! 神の御前に、不純物は全て、朽ちない炎によって、永遠に焼かれなければなりません。ですから、私たちは、二度と神の愛から離れてさまようことのないよう、御霊によって、自分の心の中に、御心を印のように押される必要があります、私たちの心が、神の掌の中に彫り刻まれて、両者は二度と別れることのないよう、堅く結びつけられなければならないのです。

 まことに、神と私たちとの愛の中には、他のものは何一つ入り込む余地がありません。神の私たちへの愛は、すべてを焼き尽くすほどに残酷で、恐ろしいまでに排他的な愛なのです。神以上に何かを愛したために、それらのものを奪い去られる苦悩を、私たちのうちどれくらいが、経験したことがあるでしょうか。神が私たちの愛の真実性を試すために、私たちからすべてを奪い去られる試練を、どれくらいの人々が真に経験したでしょうか。
 神は私たち愛する者をヨブのような究極的な試練の中に投げ入れます、そして、ご覧になるのです、私たちが本当に、心の底から、ただ神だけを愛し、求めているのか、それとも、あれやこれやの財産、家族、平和、豊かさがあったからこそ、一時的に、神を賛美していただけなのかを。

 神の歓心をお金で買うことはできませんし、活動によって買うこともできません。私たちは「神のために」自分が盛んに奉仕している時、それによって神を喜ばせていると思うかもしれません。しかし、私たちは知らないのです、自分が、財産や活動によって、神の歓心を買おうとしているだけの卑しい商売人であることを! 神は私たちのあれやこれやの部分的な捧げ物や、活動によって、喜ばれるような方ではありません。まるで道端のお地蔵さんに供え物をするようにして、私たちが自分の活動と供え物をちょっとだけ捧げて、それが神を喜ばせるだろうと考えるべきではありません。

 神はあなたのすべてが欲しいのです! あなたのすべてを要求されるのです! あなたの心のすべてがただ神にだけ注がれることを神は願われるのです。他のものにあなたが一瞬でも目を向けることを、神は望まれないのです。あなたのすべてをまるごといけにえとして神に捧げることだけが、神を満足させる供え物となり得るのです。そこにあなたの家族はいるべきではありません。あなたの財産もあってはなりません。あなたの将来の夢もありません。ただあなた一人だけが、裸一貫で神の御前に立ち、あなたの最大の捧げ物であるあなた自身も、御前に完全に焼き尽くされるのです。あなたの捧げ物は、何一つ、この世にあなたの手柄として残りません。むしろ、そうして自分を捧げる毎に、あなたという人は、まるでこの世から消えていくかのようです。あなたはますます世から遠ざかり、世のことを気にも留めなくなり、あなたの捧げ物は、この世ではその痕跡さえ残らないほどに、徹底的に焼き尽くされ、ただ見えない永遠へと移されて行くのです。

 しかしながら、捧げられてなお、残されるものがあります。今、私の天幕の中に、神は多くのものを残しておられます。なくなったものもありますが、再び与えられたものもあります。まず、絶体絶命にあった私自身が生き残りました。次に、家族関係が良好になって、再び上から与えられました。私の家具もいくらか残りました。一年の間、全く誰にも使われることなく、ガレージに雨ざらしになり、くもの巣が張っていたガスコンロが、再び私の家で使われています。電源を入れられることもなかった冷蔵庫も、再稼動しました。愛していた小鳥の一羽は残っています。その他、いくらか、私の持ち物は残され、いくらかのお金も与えられました。偽教会の虚偽の交わりの代わりに、新たな兄弟姉妹との交わりが与えられました。

 けれども、私は知っています、それらが決して私の所有物にはなり得ないことを。それらは祭壇を経過して、天幕に残されたもの、あるいは後に主によって与えられたものです。それらの物は私が自由にできるものではなく、私の財産でもありません。ただ神にお仕えする生活の中で、必要最低限、使用するために、私に与えられたものであり、私は二度とそれらのものに心惹かれ、しがみついてはならないのです。
 ですから、家族関係が良好になっても、やはり、私は神の御前に家族を捨てて、旅立つのです。ペットにも未練を持ちません。将来の夢も捨てました。著書を発行して、名を馳せようとか、立派な研究者になりたいとかいった夢はもうありません。私の職業は祭司(神に仕えること)であって、その他の職業を持ちたいとも思わないのです。私は何ものをも所有しておらず、それらに執着することは二度とありません。そんな私は、世間には、冷たい人、変人と思われるかも知れませんが、私は全焼のいけにえとなって御前に捧げられたのです。私の心には、もはや神以外のものは、何もあってはならないのです。

「祭壇がある時、もはやわたしたちの物は何もありません。祭壇を経過して残った物はすべて天幕の中に置かれました。もはやわたしたちの心を支配する物は何もありません。
わたしたちの良心には神の御前で平安があります。そしてわたしたちは大胆に神に言うことができます、『わたしはあなたに対して保留しているものは何一つありません』。

こうして天幕は祭壇に導き戻します。もしわたしたちの持ち物が根づいて、それらを落とすことができず、もはや動かせないなら、わたしたちはこれらの物によって縛られ、決して第二の祭壇は存在することがないでしょう。」(p.11-12)

 どうか主の御前に、私たちが何かを所有しようとすることがありませんように! 私たちの持ち物が、地に根を張り、それによって私たちが再び縛られ、この地に根づいてしまうようなことがありませんように!

 「天幕とは何でしょうか? 天幕は移動できるものです。それはどこにも根を張らない生活です。」(p.7)

 ある兄弟が遊牧民になりたいと言いました。しかし、私たちクリスチャンはまさに遊牧民も同然です。私たちは、この世では寄留者なのです。地での生活が、私たちが根を張る場所となることは決してないし、また、あってはならないのです。 

はかりしれないコントラスト

引っ越して来てから、幾人かの兄弟姉妹にお会いした。
その中のある方が、先日、私に尋ねた。
「それであなたは 毎週、そこの日曜礼拝に通ってるんですか?」

それは私の住処から最も近いところにある、とある素敵な集会を指す。
私は いいえ、と答えた。
引っ越してから一度も、私は日曜礼拝に出たことはありませんし、
出たいと思ったこともありません。

その方はちょっと驚いておられるようだった。
エクレシアのために、関西から関東まで大がかりな引っ越しを決行したと言っておきながら、
引越し後も、どこの日曜礼拝にも通っていないなんて!?
どこの集まりにも正式に属していないなんて!?
じゃあ、この人は何のために一体、この土地まで来る必要があったのだろう!?

もの問いたげな兄弟の眼差しを見つめながら、私は思った、
そうだろうなあ、これが普通の反応なんだろうなあ、
世間はきっと、そういう風に受け止めるんだろうなあ。

でもね、どう説明したらいいか分からないけれど、
私にとってのエクレシアって、全く、そんなんじゃないんです。
私が日々、神の御前で主イエスのまことの命を生きる、
それだけがエクレシアの始まりなんです。

* * *

最近、主にあって、些細だがとても重要な仕事の一端を任された。
その大任を 喜びのうちに 全力で果たそうと思って、
ちょっとだけ 以前の学究生活を思い起こさせるような不眠不休の時間を送った。

ところが せっかちな私がどんなに努力しても
いつも 判明するのは 過ちの連続ばかり。
私の常識が 真実には届かないことを思い知らされるばかり。

なのに、自分の限界を知らされることがとても嬉しい。
主は決して栄光を人にはお与えにならないと、
神の知恵はいつでも人の知恵にまさって高いのだと、
それを知らされることが なぜこんなにも嬉しいのだろう。

さらに嬉しいことがある。
三人集まれば文殊の知恵 ということわざがあるが
主にあっての二、三人は 軍隊にも勝るのだ。

一人では全力を尽くしても越えられないはずの限界を、
主にあっての二、三人が集まるときに、
私たちは 軽々と飛び越えていく。

まるで宇宙を足の下に踏みしだいているかのように
一人分の知恵と力ではどうにもならなかった限界をはるかに高く飛び超え
世からは半ば見捨てられたような ちっぽけな存在に過ぎない二、三人が、
誰も思いもつかなかった ありえないような事柄を達成している。

主にあって生きるとは 何と面白いことだろう。
この興味のつきない 終わりのないコントラスト!
固い殻に覆われて 自力では芽吹くことさえできない
一粒のからし種に過ぎない私と
永遠に豊かな実を結ばせる はかりしれない イエスの力ある命!

たとえ自己を焼き尽くされ、何も残らないのだとしても、
それでも燃え盛る炎のような光の中に 私たちは飛び込んで行く。
焼き尽くされるべきものすべてが焼き尽くされて
ただイエスの復活の命だけが 御前に残りますように!
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