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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

へりくだって生きるとは

クリスチャンと話していて、時々、気が重くなることがある。
それは、相手の話しぶりから、「私(こそ)は正しい信仰に立っているのだ!!」という気負いがひしひしと迫ってきて、まるで宣戦布告でもされているような気になるときだ。
クリスチャンの中には、いや、クリスチャンであるからこそ、常識をかなぐりすてて、極端な自己正当化をはかり、他人の思いなど一切かえりみず、人を平気で愚弄することができるような人々が実に多いこと、この嘆かわしい事実が、生きるにつれて分かって来た。

互いにクリスチャンであれば、本来は、兄弟として和やかに話ができるはずだが、あにはからんや、クリスチャンと対面する時、まるで試合の土俵にさしむかいで立っているように、相手から敵意のような圧迫が迫ってくるのを覚え、闘いを挑まれているのだから、こちらは応戦しなければならない…という気にまでさせられる時がある。
もちろん、応戦は不毛だ。だからそういう時は挑発に乗らず、黙って土俵から立ち去ることが肝心である。

本来、信仰とは他人に向かって我が身の正しさをひけらかし、どちらが正しいかを競い合ったり、我を張り合ったり、比べあったりするために与えられているものではない。しかし、キリスト教会で育てられたクリスチャンには、何が何でも、我が身の正しさを他の信徒に向かって証明しなければ気がすまないという、何か強迫観念のようなものが心に深く植えつけられているように思う。そのため、自分の信仰が他者に比べて相対的に勝っているということをあらゆる機会にひけらかさずには気がすまず、無意識のうちに、他の信徒に対して、敵対意識、ライバル意識を持ち、あわよくば説得してやろうと身構える傾向がある。

それはおそらく、悲しいことに、その人が所属していた教会で、いつも、いつも、指導者が信徒に対して、クリスチャンらしい立派な振る舞いをするようにはっぱをかけ、愛することをおざなりにして、信仰的行いだけがノルマのように課せられ、信徒達が、決して、教会の中で自分の現状に満足して安らぐということができなかったことの惨めな結果であろうと私は想像している。
模範信徒であらねばならないという亡霊に、その人は絶えず苦しめられており、「あなたの振る舞いはクリスチャン失格である」と言われることに絶えずおびえているのである。(私達は皆自分の力ではクリスチャンになれるはずもないし、自力でクリスチャンを続けられるはずもないのだが、根本からその点を見誤っている。)

先に書いたように、日曜学校から教会で育ってきた私にも、無意識のうちに、そのような強迫観念がどこかしら今も抜けないでいるのだろうと想像する。そして教会に属している信徒の中には、こうした対抗意識を非常に強く持っている人達が多いことをじかに見てきた。それはまず、自己の信じている教えへの無謬の信頼から始まり、他教会、他の牧師、他教会の信徒たちへの対抗意識となって現れる。次に、他宗教への対抗意識、真理を知らない「未信者」への見下しの混じったあわれみの気持ちとなる。

私が様々な教団の教会を訪ねていた頃、「あなたは過去にアッセンブリーにいたからねえ…」という含みのある言葉を何度も信徒たちから聞かされた。それはとどのつまり、「あなたは別の組織の人間だから、我々の仲間ではない」という意味であった。また、アッセンブリーの門を私が再び叩いた時でさえ、「あなたは他の教団にいたんだから(約半年間)、アッセンブリーの教義を学びなおした方がいい」という言葉を指導的立場にある人から聞かされ、各教団教派の間に横たわる越えがたい溝と敵対意識を痛感し、私は心底、うんざりした。(幼少期から成年に至るまでの長い月日をアッセンブリーで過ごしてきた人に、その言葉がどのような意味になって響くかということに思いが至らないようでは、その人に常識があるとは言えない。)

そのような、自己の信仰(本当のところを言えば、自己組織の理念への信仰)の正しさを異常なほど強調する人々にとっては、私が彼らとは別の教団に所属していた過去が「前科」のように思われ、矯正しなくては気がすまないばかりか、もしも私が、今日の教会に誤った教えが流入していることや、そのために救いさえ見失われているような現状があることを指摘すれば、それはもう彼らに対する個人的な宣戦布告のようにしか聞こえないだろう。

だから、他の方々も指摘されているように、このような内省の力を失った、自己の信仰の無謬性という幻想にとりつかれた、やたらに上から物を言う、好戦的な信徒と真っ向から勝負することは決して勧められない相談である。自分も不完全な人間の一人であるにもかかわらず、己が正しさを信じて疑わないような人々とは、何を議論しても始まらない。いや、人間として、そのような人達を相手にすべきではない。私自身も、自らの正しさを主張するためだけに、他人に対抗しようという願いを起こしてはならない。

そこで、このブログでは、現実に生きている特定の人間や、特定の教団、特定の教会を斬り捨てるようなことは少しもめざしていない。私が真に闘いを挑んで、斬り捨てようとしているものがもしもあるとすれば、それは、誤った教えに惑わされた人達を背後から動かすイデオロギーであり、誤った教えそれ自体である。

すなわち、イデオロギーの欠陥を暴きだし、その教えのどこに破綻があるのかを誰の目にも分かるように明らかにすることさえできれば、おのずと、その教えは人を惹きつける力を失って行き、その団体も結果的に滅亡へ向かう。人を惑わし、人を苦しめておきながら、反省もないような団体に、元々、長く生き残ることなどできようはずがない。

そのために、まず、目を見開いて真っ先に指摘すべきは、誤ったイデオロギーが現実に結んだ実である。教会カルトの専門家たちは、プロテスタントの教会内でカルト化した教会の年表のようなものを作ってはいかがだろうか。それを見るだけでも、教界の憂うべき現状が浮き彫りになるだろう。
次に、そのような実は個別の結果の現れでしかないから、その教会の実践してきた理論における根本的な破綻原因を見つけ出す作業が必要となる。

これは多くの人々が協力して行うべき作業である。そして、何度も言うように、決して、個別の誰かや教団をターゲットにして打ち倒すためにそんな作業をするべきではない。これはカビの生えたパンからカビを取り除くような作業で、誤った教えを正しい教えから切り分けることが本来の目的である。

正直、こうして大風呂敷を広げながらも、私にはこの先どれだけ記事を書き続けられるかよく分からない。ここ半年間ほど、重大な問題にかかりきりであるし、その上、今は接続環境さえ思うようにならない状況だ。だが、すべては御心のままに。偽りは必ず暴かれることだろう。
 

* * *

 祖母の家に統一教会員が訪ねてきた。なんと、初めから「統一教会です」と名乗ったと言う。カルト宗教に向けられたあまたの非難に学んで、やり方を変えたのだろう。なかなかやるではないか。時代の子らは、しばしば光の子より狡猾である。キリスト教界は世間の動向にも気を遣わず、教会に座して手をこまねいて待っているだけで、どんな明るい未来が期待できるというのだろうか。

 幾人かの専門家が指摘していることだが、終わりの時代に、裁きは「主の家」、すなわち、教会から始まるだろうという説がある。私もそうなると固く信じている。もしも真の預言者と言うべき人がいるならば、現在の厭うべき状態にある教界に向かって、どうして悔い改めを迫らないでいられようか。
 したがって、「レムナント」と呼ばれる聖潔の人々が、教会組織を中心として生まれるだろうとは私には考えられない。(もちろん、だからと言って、「教会の中には救いがない」とまで言い出すのは極端であろうが。)
 
 ブルース・バーンズ牧師率いる教会を、終末の世界の舞台の中心に据えて話を展開させる『レフトビハインド』シリーズですら、はからずも、教会を少しも魅力ある姿で描けていない。なぜ、日曜学校も、教職活動も、何一つ、この著作では詳しく触れられることなく、素通りされているのだろう? クリスマス・オラトリオ、イースター、私達が知っている今日の教会活動の全てが、物語で無視されているのはなぜだろう? ブルース・バーンズには人間的な魅力が乏しいし、重要な教会員、ロレッタに至っては、正気さえ疑われる有様だ。アイリーンのような妻をもった夫は、どうして妻がカルトにはまっていると危惧せずにいられるだろう? それが間違った感覚だというのだろうか?

 物語はニコラエ・カルパチアとの非日常的な闘い、世界をまたにかけるジャーナリスト、バック(キャメロン)・ウィリアムズの活動や、終末に起こる大惨事に焦点を当て、ダイナミックな事件の描写にばかり没頭する一方で、平穏な日常生活の中にある輝きをほとんど説得力ある形で描写していないし、平穏な教会活動の中にある幸福についてしっかりした描写ができていない。
 私はこう思わずにいられない。きっとそれほどまでに、著者にとってこの宗教を魅力的に見せかけるための実際的な材料が、教会の中に見つからなかったのだろう。著者自身が、きっと教会を愛していないか、教会活動にかかわっておらず、それを心から賞賛できないと感じているために、教会活動に関して踏み込んだ描写が何一つできなかったのではないか。

 とにかく、今日の教会にどれほど魅力があり、愛があるかについては、現実がはっきりと答えを示している。教会が繁栄ではなく、荒廃へ向かいつつあるという危惧が出されて久しい。自己正当化の根拠を得るために信徒が教会に通い、隣人愛を実践することを避けて、自らの心を喜ばすイベントに出席するために教会に通い続けているようでは、その信仰はむなしい。
 この終わりにあって、組織によりすがった人とのつながりは死んでいくか、あるいはカルト的な強制力にまで悪化していく一方で、人工的な力によらない、別の結びつきが生まれてくる。必ず、主にあるほんとうの兄弟姉妹としてのつながりが生まれて来るだろう。

 最近、『罪と罰』を再読した。大学を中退して何の肩書きもなくなり、金を工面する苦労に疲れ、世の中に絶望しかかったニート、ラスコーリニコフが引きこもって暮らしている棺おけのように殺風景で気の滅入る部屋に、立派な職業に就いている大人たちも含め、全ペテルブルクのあらゆる登場人物を結集させたドストエフスキーの力には脱帽する。この物語が、大都市の栄えある劇場や、様々なきらびやかな施設に見向きもせず、誰一人本当ならば注目するはずもない、一引きこもりのみじめな部屋を中心として話を展開させ、そこに街中の人々を集めてしまったところに、著者の創作力の偉大さと、ちょっとしたジョークと、秘密とがある。
 世界の大舞台には目もくれず、真に小さき者の取るに足らない無益な、(いや、有害な)営みにも、じっと忍耐強く、温かいまなざしを注ぎつづける筆者の筆に、上からの配慮が感じられる。ドストエフスキーが犯罪者ラスコーリニコフに送るまなざしには、一人として滅びることを望まない主なる神が、人間に注ぐ、無限にへりくだった、愛なるまなざしが重なって見える。
 
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