忍者ブログ

私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

はかりしれないコントラスト

引っ越して来てから、幾人かの兄弟姉妹にお会いした。
その中のある方が、先日、私に尋ねた。
「それであなたは 毎週、そこの日曜礼拝に通ってるんですか?」

それは私の住処から最も近いところにある、とある素敵な集会を指す。
私は いいえ、と答えた。
引っ越してから一度も、私は日曜礼拝に出たことはありませんし、
出たいと思ったこともありません。

その方はちょっと驚いておられるようだった。
エクレシアのために、関西から関東まで大がかりな引っ越しを決行したと言っておきながら、
引越し後も、どこの日曜礼拝にも通っていないなんて!?
どこの集まりにも正式に属していないなんて!?
じゃあ、この人は何のために一体、この土地まで来る必要があったのだろう!?

もの問いたげな兄弟の眼差しを見つめながら、私は思った、
そうだろうなあ、これが普通の反応なんだろうなあ、
世間はきっと、そういう風に受け止めるんだろうなあ。

でもね、どう説明したらいいか分からないけれど、
私にとってのエクレシアって、全く、そんなんじゃないんです。
私が日々、神の御前で主イエスのまことの命を生きる、
それだけがエクレシアの始まりなんです。

* * *

最近、主にあって、些細だがとても重要な仕事の一端を任された。
その大任を 喜びのうちに 全力で果たそうと思って、
ちょっとだけ 以前の学究生活を思い起こさせるような不眠不休の時間を送った。

ところが せっかちな私がどんなに努力しても
いつも 判明するのは 過ちの連続ばかり。
私の常識が 真実には届かないことを思い知らされるばかり。

なのに、自分の限界を知らされることがとても嬉しい。
主は決して栄光を人にはお与えにならないと、
神の知恵はいつでも人の知恵にまさって高いのだと、
それを知らされることが なぜこんなにも嬉しいのだろう。

さらに嬉しいことがある。
三人集まれば文殊の知恵 ということわざがあるが
主にあっての二、三人は 軍隊にも勝るのだ。

一人では全力を尽くしても越えられないはずの限界を、
主にあっての二、三人が集まるときに、
私たちは 軽々と飛び越えていく。

まるで宇宙を足の下に踏みしだいているかのように
一人分の知恵と力ではどうにもならなかった限界をはるかに高く飛び超え
世からは半ば見捨てられたような ちっぽけな存在に過ぎない二、三人が、
誰も思いもつかなかった ありえないような事柄を達成している。

主にあって生きるとは 何と面白いことだろう。
この興味のつきない 終わりのないコントラスト!
固い殻に覆われて 自力では芽吹くことさえできない
一粒のからし種に過ぎない私と
永遠に豊かな実を結ばせる はかりしれない イエスの力ある命!

たとえ自己を焼き尽くされ、何も残らないのだとしても、
それでも燃え盛る炎のような光の中に 私たちは飛び込んで行く。
焼き尽くされるべきものすべてが焼き尽くされて
ただイエスの復活の命だけが 御前に残りますように!
PR