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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

蘇生する自己

さて、皆さん、お久しぶりです。

関東に来てからしばらく、ブログを更新するという重荷からも逃れて(笑)、夢のように解放的で充実した日々を送っていました。長らく記事を書いていなかったので、私のブログ読者は半分以下に激減したようですが、それもかえって嬉しく感じられます。過去にためこんだあれやこれやの荷物をきれいさっぱりと捨てて、日々の十字架だけを背負って、つつましい、新しいスタートを切ることができるのは、またとない幸いです。

人に言わせると、「ヴィオロンは著しく変わった」のだそうです。本当にそうなのでしょう。去る8月25日、紛争の絶えなかった我が家と、その我が家のために、救いがたく病んでいた私に、神が大いなる憐れみを注いでくださったその時から、私は十字架上で、御子イエスと共に自己に死に、イエスの復活の命をいただいて、御霊によって生きるように変えられました。以来、筆舌に尽くしがたい不思議なことが周りで起き、それからわずか1ヶ月の早さで、私は我が家を離れ、今住んでいる土地へとやってきました。この「エクソダス」は、エクレシアに連なりたいという動機だけに基づいて行われたことであり、それはどうやら、神の御心にかなって与えられた願いのようです。この計画にまつわるすべての事柄に関して、主は完璧すぎるほどに準備を整えてくださいましたので、私は何の問題もなく引越しを完了することができたのです。

しかし、解放感に浸るのはそろそろ終わりにしましょう。ここからが今日の記事の本題です。今、先人の言葉を参考にしながら、記事を書いています。

私が経験したのと同じようにして、キリスト者は、ある日、突然、何か劇的な事件が起こって、あるいは、些細な事件を通して、「十字架によって自己に死ぬとは何なのか」を学ばせられる体験をするかも知れません。その時、私たちは自分の弱さ、醜さを徹底的に思い知らされ、人知の癒しがたく腐敗していること、人間が魂の底まで、救いようなく堕落しており、生まれながらの人間から発生するどんな善良さも、絶望的なものであり、腐敗していること、人間には微塵もきよさはないこと、神の助けなくして、人間は一瞬たりともまともに生きられない邪悪な存在であることを思い知らされます。

御霊を通してやってくる真理の光に照らされ、私たちは絶体絶命へと導かれ、そこで自分たちの無力と腐敗を知ります。私たちは神の御前に万策尽きた状態となり、どんなあがきも、試行錯誤も、あの手この手も、自分を生かす力がないことを知ります。完全にお手上げです。私たちには、目の前にたちはだかる困難に立ち向かう力は全くありません!万策尽きました! 主よ、助けて下さい! それが、私たちが、自分の自己に対して、徹底的に殺される瞬間に、心の底から出て来る叫びであることでしょう。今までのプライドは打ち砕かれ、誇りにしていた経験も何の役にも立たず、知識は私たちを裏切り、感情は不毛な叫び声をあげるばかりです。私たちは、世間からどんなにみっともなく思われようとも、その時、ただなりふり構わず、神に助けを求める以外には、もはや何もできないことを知ります。こうして、私たちは、自己に死なされます。

その後、自己に死んだだけで終わるのでなく(それでは無意味です)、十字架を通して、イエスの復活の命が私たちに適用されるなら、私たちは、絶体絶命をくぐりぬけて、今まで経験しなかったような新たな力によって、自分が生かされていることを知るでしょう。ふと気づけば、あれほど強固に自分を苦しめていた縄目が地に落ちて、私たちは自分が勝利を得たことを知るのです。今まで知らなかった新しい命が自分を生かしていることを私たちは見ます。それは自分の力では決して得られなかった勝利です。ですから、私たちは、今や上から与えられた力が自分を生かしていることを知るのです。そして喜びのゆえに主を賛美します。主は新しい命を私たちに与えて下さったのです! ハレルヤ!

しばらくの間、この驚くような新しい力と、いまだかつてない勝利に、私たちは酔いしれます。聖なる御霊が自分の内に宿っていることを知り、聖書の御言葉が驚くほどよく分かるようになり、何かしらの啓示さえ受けるかも知れません。それまで、心の中にさんざん生い茂って、真理を阻んできた自己という雑草がことごとく取り払われたおかげで、私たちは自分が聖別されたことを感じ、霊的視界がクリアになり、どんな物事も澄んだ目で見られるようになったような気がします。自分が神に愛されている存在であることを前よりももっとはっきりと感じ、今までよりも、もっと親しく、近しく、主に向かって祈り、願うことができるようになったと思います。

しかし、ここで私たちは、勝利を得たのでもう学習は終わった、などと決して思うべきではありません。「私はすさまじい体験をくぐりぬけたおかげで、他人より抜きん出て霊的な人へと変えられた。私は勝利を得たのだから、もう二度とかつてのような事件は起きないだろうし、これ以上、自己に死ぬということを私は学ぶ必要はない」、とは、決して思うべきではないのです。

まず、私たちが経験した事件が劇的であればあるほど、それは、誇るべき経験ではなく、むしろ、私たちのしぶとく頑固だった自己を殺すために、神はそれほどの大事件を必要とされたという事実を見るべきです。私たちの自己は、ひょっとすると、悪質なゴキブリの千倍、万倍も、頑固でしぶとく、殺しても死なないほどの生命力を持っていたのかも知れません。いや、そうであるはずです。だからこそ、そのように腐敗しているにも関わらず、強靭な生命力を持った魂と肉体(自己)に死ぬということを私に経験させるために、神は特別な事件を私のために用意しなければならなかったのです。私の自己が他人と比べてあまりにもわがままで、しぶとく、腐敗しきっているために、神には大がかりな事件によって私を打ち砕く必要があったのです!

こうして、十字架という、罪を駆除する最も強力な光の照射によって、私たちの自己は、ある日は殺されたかも知れません。そして復活の命に生きる喜びを、私たちは全身全霊で感じたかも知れません。しかし、自己は一旦殺されても、時間が経つと、また蘇生してくるのです(蘇生とは、あるキリスト者の表現)。それはちょうど、一旦きれいに庭を掃除して、雑草を刈り取っても、手入れを怠れば、庭には再び雑草が生い茂るのと同じであり、退治しても、退治しても、また害虫がどこからか家に入り込んで、住み着くようになるのに似ています。

仮に私が昨日、どんなに徹底的に、大々的に、ドラマチックに、キリストの十字架を自分のものとして受け取って、自己に死に、キリストの復活の命によって生きることの意味を学んだとしても、それは私の今日の糧とはなりません。昨日の勝利は、今日の勝利にはならず、今日、私が自己を否んで、キリストの十字架を負っていることの何の証拠にもならないのです。

人は日々、自分の十字架を負って、イエスに従わなければいけません、自分の天然の命を拒否して、キリストの命を選び取ることを続けなければならないのです、その日々の十字架を負うことは、決して、どこかの団体や組織へ熱心に奉仕することと取り違えられてはいけません。日々の十字架を負うとは、まず何よりも第一に、真理なるキリストの光に照らされて、私たちが、自分の生まれながらの自己の本当の醜さを知り、それに絶望して、自己を否み、キリストを選ぶことを指しているのです。

私たちは自分の生まれつきの自己がどれほど癒し難く腐敗しているか、どれほど邪悪であるか、私たちの生まれつきの姿が、どんな犯罪者にもまさって、最悪の最悪の姿であるかを、直視しようとしません。それを直視することには大いなる痛みが伴うからです。私たちの肉体も、魂も、痛みを伴う事件を避けようとします。過去に大失敗があったからと言って、それでもまだ私たちは、それが自己の腐敗した本質によって引き起こされたという事実を直視しようとしません。むしろ二度と同じ痛みを味わわなくて済むように、こざかしいあの手この手を考え出すばかりなのです。そうやって、自己の本質を直視する痛みを避けて、自己を美化する楽な道を選び、毎日、自己を甘やかし、大目に見、自己を立て、自己から来る力を楽しんで生き、それを誇り思い、自己に栄光を帰そうとして、あれやこれやと計画し、走り回って活動しているのです。キリストのため、と言いながら、その実、活動しているのは私たちの自己なのです。

自己はまさしく欺きの天才です。ちょうど暗がりに隠れたゴキブリが、人のいないところを見計らって、夜半にこっそりと出て来るように、私たちの自己も、私たちの思いを欺いて、キリストの真理の照射する殺人的な光線を何とかして避けて、自らを生き延びさせようと、あらゆる狡知をめぐらします。自己は宗教活動にも偽装しますし、信仰にも偽装します。何にでも化けるのです。この自己の欺きを看破し、その策略を微塵に打ち砕くことができるのは、ただ御言葉――真理なるキリスト――まことの光だけです。私たちが自分の力でどんなに自己を鎮めようとしても、それは無理です。私たちは自分の力で、自己に死ぬことはできず、自分の力では、キリストの復活の命を受け取ることもできないのです。

方法は一つだけです、光の照射です。私たちが日々、まことの光に照らされて、自己の腐敗性、絶望性、無力さ、邪悪さを知り、その自己を神の御前に汚れた、忌まわしいもの、呪われたものとして拒否し、その代わりに、キリストの復活の命を選び取り、その復活の命によってのみ、生き、活動することが必要なのです。それには痛みが伴うでしょう! あなたは自分が無力になって、打ちのめされたと感じ、失望し、見込みを失うでしょう! 愕然とし、恥じ入り、頭を垂れるしかないでしょう。しかし、それは幸いな時です、この痛みを伴う訓練は、生きている限り続くものであって、誰一人として、その訓練はもはや自分には必要なくなったと言える人はいません。自分の十字架は日々、負わなければならないものなのです! 

ですから、私たちは(できるならば、毎日の生活のごく些細な事柄を通して)、何が自己から来る力であり、肉と魂の衝動に由来する忌まわしいエネルギーであるか、学ぶ必要があります。何が天然の命から生まれる願いや力であり、何が御霊から来る、御心にかなった願いと力なのか、識別することを学び、自己から来る力を行使しないことを学ぶ必要があります。
(注意していただきたいのですが、自己を否むとは、決して、自分の意志を放棄することではありません。それは決して、信徒が自分の意志を放棄して、誰か指導者の命令や思惑に妄信的に振り回されたり、何らかの教義の奴隷状態に陥ることを意味しません。私たちはあくまでしっかりした自分の意志を働かせつつ、自己を否み、キリストを選ぶのです、自分の自己を十字架上でキリストと共に死んだものとして拒否し、人の思惑ではなく、御霊の導きに従うことを選択し続けるのです。)

この毎日の学課(私たちが自己の絶望的な本質を知り、それを拒否して、真理に忠実に聞き従うこと)を的確に行うならば、神は私たちの自己を打ち砕くために、わざわざ大がかりで悲惨な事件(大失敗や絶体絶命の危機)を用意する必要はなくなることでしょう。しかし、私たちがかつてのある日、自分の自己が十字架につけられて死に、その代わりに信仰によってキリストの復活の命を受け取った、という体験の上にあぐらをかき、それに慢心し、日々、自己の厭うべき性質を知ることをやめて、自分の腐敗した性質を見ようとせず、むしろそれを甘やかし、増長させていくならば、神はその肥大した自己の忌まわしい性質をあなたに知らせ、それを断ち切るために、ある日、あなたが考えもしなかったような悲惨な失敗の体験をあなたの身に起こさなければならなくなるでしょう。

そんなわけで、大きな勝利が得られて、物事が順調に行き、自分がきよめられて、霊的になったように感じられ、神から特別に恵まれているとさえ思われるほどに幸福な時には、普段以上に注意が必要かも知れません。富んでいる人が天国に入ることは難しいと警告されているのです! 人の生まれながらの自己は、永遠の命を継ぐことはできません! その富が、勝利が、自己を慢心させ、肥大化させ、御霊に従って生きる道を奪うきっかけとならないよう、私たちは気をつけなければなりません。

信徒が自己を否んで御霊の導きを選び取り、キリストの復活の命によってのみ生きることを学ぶ学課は、私たちが地上を歩む限り、決して終わることはないのです。どうか、神が私を憐れんで下さり、私が日々負うべき、痛みを伴う十字架とは何かを、はっきりと悟ることができるようになり、それを避けようとすることがなくなっていきますように。
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