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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

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キリストの至高性

「キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。わたしがこう言うのは、あなたがたが、だれにも巧みな言葉で迷わされることのないためである。」(コロサイ2:3-4)

 主がご自分に忠実な民の生活と安全を必ず守って下さることを私は信じているが、それにしても、この先の時代は、まことのクリスチャンにとっては、困難な時代となるだろうことを思わずにいられない。特に、クリスチャンたちの間にあってキリストがこれほど否定されているのを見ながら、そう感じずにいられる人は少ないのではないだろうか。

 今日、どのような分野にも、人間の作り出した各種の方法論が溢れ返っている。非凡な知恵と知識を得るために、人間はいく通りもの方法を編み出した。人間の肉と魂が作り出したおびただしい種類の老廃物のようなプログラムは、教会の中にも入り込み、ず高く積まれている。何と多くのクリスチャンがそのような人為的方法論に魅了され、その流行こそが知識の源であると思ってそれを追いかけ、イエス以外の道に引き入れられて行ったことだろう…。

 人は、知恵を得て、真理の高みに到達するために、常に、キリスト以外のはしごを自分の力で作り出そうとする。キリストの中に、一切が満ちているということが、理解できず、そうして自ら一生懸命に作り出したはしごに必死になって栄光を帰そうとするのが人間なのだ。だが、聖書は言う、

 「キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。彼はすべての支配と権威とのかしらであり、あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。」
(コロサイ2:9-11)

 この御言葉の絶大な意味を、誰も人知によっては理解することができないだろう。人知というものは、常に人間の作った遺産を擁護し、私たちの足りない部分を指摘し、幸せな人生を送るためには、それを補う必要があり、私たちにはもっともっと努力することが必要であり、そのために、段階的なはしごを進歩と訓練によって徐々に登っていくことが必要だと、訴えかけて来る。

 しかし、御言葉は、それと全く逆のことを教えている! キリストを得たことによって、私たちは全てを得ているのだと! キリストにあって、私たちはあらゆる束縛からすでに解放され、もうすべての闘いは終わっているのだと! つまり、キリストと共に御座についたことにより、私たちははしごの頂点にすでに登りつめているのであり、これから四苦八苦して、はしごを登っていく必要はないのだと!

 だが、それを理解することは、あまりに畏れ多く、一歩間違えば、はかりしれない傲慢のようにさえ疑われる。本当に、こんなにも、弱く、空しい器である私が、そんな大それた勝利を得て良いものだろうか? こんな私が、責められるところのない者とされて良いのだろうか? こんな私が、キリストと共に御座につくなど、そんなことがあって良いものだろうか? だが、少し考えてみると、それが傲慢でないことが分かってくる、なぜならば、そこでは一切の栄光が、私たち人間にではなく、ただキリストにのみ還元されているからだ。それは私たちが自力でなしたことではなく、ただイエス・キリストだけが成し遂げられたことなのだ。

 御言葉は言う、キリストをいただいている私たちは、神の満ち満ちている一切の徳を内にいただいているのであると。万物の支配と権威の頭であるキリストと共に、私たちは十字架上で死に、まことの命によってよみがえらされた。そうである以上、私たちはキリストの十字架によって、もろもろの支配と権威の武装からすでに解放され、凱旋の行進の中を進んでいるのだと。

 この「もろもろの支配と権威の武装」(コロ2:15)とは、コロサイ人への手紙第2章の他の表現では、「巧みな言葉」(コロ2:4)、「むなしいだましごとの哲学」(コロ2:8)、「世のもろもろの霊力に従う人間の言伝え」(コロ2:8)、「わざとらしい謙遜」、「天使礼拝」(コロ2:18)、「ひとりよがりの礼拝」(コロ2:23)などと表されている。

 この言葉の前に、あえて慎重に立ちどまってみたい。それは、この御言葉が、当時、コロサイ人の教会の中に、一見、謙遜で、神を心から礼拝しているようでありながら、その実、偽りの、邪悪な礼拝が紛れ込んでいた事実を示しているからである。

 今日にも同じことが言えるだろう。神に捧げられているように見える敬虔な礼拝の中の、すべてが本当に神の御心にかなっているわけではなく、中には敬虔を装った邪悪な礼拝というものが確かに存在する。オースチン-スパークスは、「主イエス・キリストの中心性と至高性」の第四章の中で、コロサイ人たちの一部の礼拝がなぜここで糾弾されているのかを明らかにしている。

 その礼拝を作り出した者たちは、御子イエスを礼拝しているようでありながら、その実、イエスの万物の頭としての権威を否定していた。彼らは上位から下位までの超自然的な存在者(天使等)の権威を探り出し、諸々の霊の階級を明らかにし、キリストを、その天使的ヒエラルキーの中の一員に引き下げてしまったのである。

「彼は天使の軍勢、天使の階級の単なる上官のひとりとされました。おそらく、上位に立つ唯一のかしらとされていたでしょう。そして、これらのものが礼拝の対象として示されました。使徒はそれを「わざとらしい謙遜や天使礼拝」とここで言っています。つまり、人々はとても謙遜なふりをして天使たちを礼拝し、霊の領域の上位者たちを崇拝していたのです。<…>ふたたび読むとわかるように、使徒はこれを地的なもの、人から出たもの、有害で邪悪なもの、徹底的に除かれるべきものとして、すべて拒んでいます。なぜなら、非常に真剣で熱心な宗教心の覆いの下で、それはこの一事を巧妙に攻撃していたからです。それは神である主イエスの絶対的至高性を攻撃していました。」

 これは私の想像に過ぎないが、恐らく、そのような天使的ヒエラルキーは、神秘のベールにくるまれて、末端の信者たちには隠されていたため、その偽りの礼拝に通っていたクリスチャンたちの多くが、自分が本当は何に向かって礼拝しているのか、よく知らなかったのではないだろうか。
 聖書は言う、このような礼拝に溺れていた人々は、「幻を見たことを重んじ、肉の思いによっていたずらに誇」っていた(コロサイ2:18)と。彼らの教えは神秘性のあるもので、一見、イエスを心から崇拝しているように見え、超自然的な力も、伴っていただろう。しかし、彼らは「キリストなるかしらに、しっかり着くことをしな」かった(コロサイ2:19)。つまり、彼らは諸霊から力を得ており、自分たちの権威と力の源が、キリスト以外にはありえないことを認めなかったのである。

「それはキリストを高く上げ、キリストを礼拝するよう導き、受け入れた人の中に霊的に見える恭しい謙遜な態度を生み出しました。また、彼らに道徳的影響を及ぼして、彼らをとても恭しい民、とても謙遜で熱心な民にしました。彼らはキリストへの大いなる信心を持っており、霊的なものは何でも大いに敬っていました。しかしそのせいで、彼らはその深い所に潜んでいる狡猾な悪魔的要素に対して盲目にされたのです。

キリストへの一種の信心を生じさせることや、道徳的向上という要素を伴う神秘的な魂的『キリスト教』(?)を促進することに、サタンは何と成功していることでしょう。しかしサタンはその中に、自分から出たもの、自分の存在、天から投げ出された時より彼の中にある味わい、主イエスから神格における彼の地位の絶対性を差し引くものを隠しています。
 これがこの手紙の背景にあるものです。この手紙が書かれたのは、このグノーシス哲学、この偽りの霊性、この主イエスへの悪魔的信心を暴露するためです。」


 敬虔な日曜礼拝のように見えて、その実、邪悪な内容を持つ礼拝は、今日にも、きっと存在するだろう。その神秘に包まれた教えの実情は、一部の人々以外には知らされず、多くの人々は、自分がイエス以外のものをを礼拝していることにさえ、気づいていないかも知れない。

 オースチン-スパークスも述べている、「愛する人たち、いま述べたことから、終末の時代にいる私たちへの導きを得なければなりません。あなたは私が述べたことを取り上げて、まさにこのような性格を帯びているものに対して適用することができます。また、将来地上で大いに流行することになるけれども、この本質を欠いているものに対して適用することができます。」

 何によって、私たちはこの「本質を欠いた礼拝」を見分けることができるだろうか。それは、もちろん、その礼拝が、人となって地上に来られた神の御子イエス・キリストの中心性と至高性を認めているかどうか、という点によってである。

彼はすべての支配と権威のかしらです。キリストは絶対的に至高であり、唯一至高です。あの階級に属する者としてではありませんし、あの階級の頂点にある者としてでもありません。彼の階級は他のすべての階級を遙かに超越しています。彼の至高性は彼のような者が他にはいないことによります。彼は天使の階級には属しません。彼は被造物ではありません。彼は永遠に神と一つです。
もちろん、あなたにとってこれは新しいことではなく、あなたをあまり熱狂させることでもありません。なぜなら、私たちはみな真心からこれを信じているからです。」


 天使礼拝や、天使の階級表が作られていなくとも、今日、キリストの位置づけがあいまいな教会は多数存在する。あいまいだということは、キリストが至高の存在として認められていないということである。そこでは、天使が崇められているわけではないにせよ、人間がキリストよりも上位に置かれ、人間が礼拝において最も高く掲げられる存在となり、信徒から敬われる対象となっている。人間を見るために、信者が礼拝に通い、人間の能力によって満たされるために、信徒たちが決まった時間に、決まった場所に集うのである。

 神を礼拝しているようでありながら、その実、人を頭とし、人に栄光を帰し、人によって満たされるための形式としての日曜礼拝が作り上げられている。日曜礼拝そのものが、教会という単語と同じく、あまりにも人間の魂の手垢にまみれて、汚されてしまっている。それは、もはや後戻りできないほどに、キリストの至高性を否定し、キリストにある全てに勝る権威を人々の目から覆い隠し、キリストをただの物語に変えてしまい、かえって、何の力も持たない人間に注意を向けさせるためのブラック・ボックスになり果ててしまっているのではないだろうか…。

 だが、私たちの力の源は、誰のメッセージでもなく、誰の発言でもなく、どんな権威ある人々の最新の教えでもなく、ただキリストご自身である。だから、勇気を持って、信じよう、四隅を持った人工的な建物の囲いの中に通い続けることによって、私たちが生きられるようになるのではない、と。御霊ご自身が私たちに命の息吹を吹き入れてくれているのに、人の作った霊的な人工呼吸器に、もはやこれ以上、支配されるようであってはいけないと。

「あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。」(コロサイ2:12-15)

 何という恐るべき解放と達成がキリストお一人のうちに成し遂げられていることだろう。私たちは、キリストの十字架を通して、自分たちの罪と不完全性に死んだ。自分を縛るあらゆるむなしい慣習と、自分が不完全であるがゆえに、あれやこれやの努力をして、段階的に階段を登っていかねばならないという、絶え間ない恐れと、それにつけこむ支配に対して、もはや死んだのである。
 私たちを罪に定めるサタン、そして私たちの恐れにつけこんでは、自由を奪い、組織や人間の奴隷にしようとする諸々の支配と権威は、キリストの十字架にあって、すでに私たちに対して何の効力も持たなくなっているのだ! かなり長いが、オースチン-スパークスの文章を再び引用したい。

私たちは十分な結果に至るまでキリストの御業を貫き通す必要があります。そしてその十分な結果は、支配と権威の領域の中に、暗闇の権威、暗闇の支配の領域の中にあります。これは単なる罪(複数)の赦しや罪(単数)からの救いの問題ではないことを、罪人が知ることが重要です。

罪人は知らなければなりません。救いにより、敵であるサタンの権威、支配と権威の権限は、すべて破壊され、打破されました。そして、サタンのあの権利、あの権威、あの合法的支配から、彼らは救い出されました――なぜなら、ここの御言葉がそう述べているからです――キリストにより、彼の十字架によって、救い出されたのです。これは、サタンはもはや何の権利も持っていないので何の権威もないことを意味します。

彼の権威は彼の権利にかかっており、彼の権利は私たちの心の状態に基づきます。十字架はこの状態を取り扱い、彼の権利の根拠を破壊除去し、彼の権威を打ち破ります。これを最後まで貫き通しなさい。

今や、キリストの中にあるものはすべて私たちのためです。キリストご自身が敵に対して彼の至高性を体現しておられます。なぜなら、彼の中には敵の足がかりとなる根拠――敵がその上で野営し、合法的権威を築き上げ、束縛するための土台――が何もないからです。キリストの中にはそのような根拠はまったくありません。私たちが信じる時、キリストは私たちの内におられます。

すでに指摘したように、信仰によってこれを理解するなら、サタンの権威は打ち破られます。なぜなら、私たちの内にはキリストがおられるからです。私たちの内にはキリストがおられ、彼の中にはサタンの権利の根拠はまったくありません。罪から解放されるだけでなく(ふたたび言わせて下さい)、サタンの権威からも解放されること、これは途方もないことです

『神が選ばれた者たちを、だれが訴えるのですか?』 『キリストは死んで、さらに復活させられました』。この意義は何でしょう?訴える者が来て、私たちを訴えようとします。私たちの返答の根拠は何でしょう?おお、私たちの返答の根拠はこれです、『キリストは死んで、さらに復活させられました』。罪に対して、またサタンの権威のあらゆる根拠に対して勝利したキリスト、これが敵の訴えに答える道です

あなたや私は決して自分で敵に当たることはできません。毎回、敵は最高の論陣を張るでしょう。しかし、私たちが彼にキリストを示すことができれば、彼に何ができるでしょう?
『……この世の君が来ます。彼は私の中に何も持っていません』。これは主イエスの御言葉です。彼に何の権威があるのでしょう?キリストの死と復活により、彼の権威はすべて破壊されました。『神が選ばれた者たちを、だれが訴えるのですか?』『あなたたちの内におられるキリスト、栄光の望み』。あなたはこれを理解しておられるでしょうか?これが神が設けて下さった備えです。」

 我がうちにおられるキリスト、栄光の望み! 私はこれを信仰によって理解する。そして神の備えを信じて歩き出す。しかし、カルバリの御業を人生に適用することは、この先もずっと続くだろう、そして、その度ごとに、私は自分が不十分な理解をしか持っていなかったことに気づくだろう。

「人々の背後にいる霊の軍勢に対して、キリストのカルバリの御業の衝撃力を打ち込んだ時、自分が完全な解放を成し遂げていなかったことにあなたは気がつくでしょう。敵は私たちをふたたび恐怖の虜にしようとしていますが、それがどういうことか私たち信者は知っています。暗闇の権威は私たちにとって非常に現実的です。私たちには経験があります。もし彼らに降伏するなら、私たちはおしまいです。敵は暗闇の権威で私たちを侵害しようとします。もしそれに屈服し、降参し、それを受け入れるなら、私たちは打ち負かされます。

私たちが主のものであるなら、キリストは内におられ、キリストは至高です。それをまったく感じていなくても、あるいはとてもひどい気分でも、私たちは前進しなければなりません。自分には到底言えそうになくても、私たちはそれを言います。なぜなら、それは神の事実だからです。そして、神の事実を証言し始める時、私たちは勝ち進みます。敵は信者たちに暗闇の権威を受け入れさせようとしますが、それがどういうことか信者たちは知っています。神の真理の上に立ちなさい。神は私たちの感覚と共に変わることはありません。

神は私たちの意識と共に変わることはありません。私たちのこの人生全体は移ろいゆくものであり、天候の変化より速く移り変わります。しかし神は、移ろうことなく、変わることなく、治めておられます。彼は『昨日も今日も永遠に同じ』です。もし彼が内におられるなら、彼はとどまるために来ておられます。そして、勝利は信仰の中にあります。これを信じ、この上に立ち、これをつかみなさい。彼は万物の主であり、『すべての支配と権威のかしら』です。この最後の完全な結果に至るまで、私たちはこれを貫き通さなければなりません。サタンは時々、『自分は卓越した地位にあり、至高の地位にある』と私たちに信じさせようとします。しかしカルバリ以降、彼はそうではありません。私たちはそこに立ちます。

 主は、すべての領域で至高である、愛する御子の中で、私たちに新たな喜びを与えて下さいます。」

 神の変わることのないご計画、そして、神のまことと誠実さに感謝しよう。何と大きな勝利の約束が予め私たちに与えられていることだろう。これがイエスと共に御座につくことの意味である。御座とはキリストの至高性を象徴している。私たちは万物の頭なるキリストの主権に服することによって、キリストと共に、万物のはるか上にある御座について安息し、敵をはるか足の下に踏みしだいているのである。サタンはすでに捕虜となって、私たちの凱旋の行列の中でさらしものにされている。

 キリストの至高性を認めることが、クリスチャンの勝利の秘訣である。それを認めなければ、私たちには、暗闇の支配と権威に対するどんな勝利もないだろう。あらゆる支配と権威に勝る、キリストの絶大な権威が、実際に諸々の問題を貫いて適用される時に、私たちの人生に、今まで知らなかった勝利がもたらされ、大いなる喜びが増し加わるだろう。 

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