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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

エクレシア、この不思議なもの

以下の記事を補足します。

 どうやら、私の言いたいことは、私の拙い言葉ではかえって誤解や反発を生むばかりに終わりそうで、上手く表現しきれません。日曜礼拝という形式に私が疑問を持つとしても、それは、日曜礼拝を全て撤廃せよというスローガンを投げかけているのではなく、また、礼拝、勉強会、祈祷会、聖書通読、証の分かち合い、そういったことそれ自体をせずとも良いという意味ではなく、(それどころか、キリストの命を自分でも理解し、人に伝えるのに、そういう方法はなくてはならないものです。たとえば、主を知るに当たって、聖書を読まなくても良いとか、注解書は一切読んではいけないとか、人と一切交わらなくても良いとか、祈りもせずとも良いとかいうことは絶対にないでしょう。私が人との交わりから遠ざかっていたのは、一時的なことであり、その間にも、聖書は読みましたし、祈りもし、信仰を告白もし、ブログを通じてならば、証もし、人との交わりさえあったと言えるわけで、時には一人で賛美することもありました)。

 以下の記事の中で私が述べたかったことは、今日、キリスト教徒の集まりが、概して、日曜礼拝を一つの頂点として、ある主義となり、形式となり、規則となり、組織論となり、人間を束縛する枷となって、まことの命の現われをかえって阻んでしまっているところに、大きな逸脱があると思わざるを得ない、ということなのです。

 その問題はすでに幾万回も多くの人々によって論じられてきましたし、鳩さんの記事「キリスト教とキリスト」にある内村鑑三の次の言葉も、その問題性をよく表現していると思います。

「 主義にあらず、性格なり。 教理にあらず、生命なり。
 キリスト教にあらず、キリストなり。 
 主義はいかに高きも、教理はいかに深きも、偽文にして、束縛なり。
 われらは直ちに、生けるキリストにいたり、その生命を受けて、真の自由に入るべきなり。」

 しかしながら、では、すでにある人々がそうしているように、我々が内村氏の考えを信条として掲げて、現存するキリスト教を否定し、生けるキリストに至ることを目的に掲げた新しい会を設立すれば、それが正解になるかと言えば、それも絶対に違います。それでは、再び命のない主義、束縛に落ち込んでしまうだけなのです。
 結局、言えることは、どれほど偽物を定義し、暴露しても、そのことだけによって、本物を生み出すことができないように、キリストのまことの命とは、決して、何かに対するアンチ・テーゼにはとどまり得ない、その本質をまず個人的に掴まなければ、それが何であるか誰にも分からない種類のものだ、ということです。そして、それを知った個人の交わりが、集合体としてのエクレシアを形成していくのです。

 Sugarさんが、「この交わり=エクレシア」の中で書いておられることが、まさにそのことを指しているように、私には感じられました。
 私には、多分、キリストの霊なる命の中にある交わりや礼拝とは何であるかを、誰に対しても、誤解なきよう、明確に、完全に形容できる適切な言葉は見つけられないでしょうし、そのような定義はかつて存在したこともなく、これから先にも、存在しないように思います。

 何万語を費やしても、私たち人間は、小さな花一つ、小鳥一羽でさえ、形容することができず、明確にそのイメージを相手の脳裏に浮かび上がらせることができません。自分がその対象の身近に存在して、それと密接に関わることなくしては、理解できないものが、地球上にたくさんあります。
 命とは、そういう性質のものだと思います。
 キリストのまことの命は、地上的なものでないとはいえ(いや、地上のものでないからこそ)、我々の拙い言葉によって完全に定義できるようなものではなく、ただその中に入れられ、それを味わい、日々その中を歩くことによってしか、理解できないものであると思います。
 つまり、キリストと共に生きる、ということなくして、キリストの命を味わい知ることは誰にもできない相談なのです。

 私はまだそれを十分に知ったとは言えず、聖書を読むことも、祈ることも、交わりも、キリストをさらに知りたいという動機から行い続けているのであり、この先も、キリストとの一致を求める探求は、永遠に及ぶでしょう。

 けれども、こうして、キリストのまことの命をまだまだ十分には知らない私にも、一つ言えることがあります。それは、キリストという永遠の岩なるお方の上に建設されなかった団体は、必ず、時と共に廃れるということ、その老朽化して、命のなくなった礼拝の崩壊によって、そこにまことの命が欠如していたことが公に暴露されるということです。
 人間の理解は不完全ですので、私たちの目から見て、何が本物であり、何が偽物であるかを完全に識別することは難しく、また、全てのものの土台を見分けることはできませんし、性急な裁きは禁物です。けれども、すでに滅びかけている業界が、私たちの目の前に一つあります。それを見て、気づけることは多くありますし、そこで、まことの命とは何か?ということを真剣に考え、飢え渇きを持って探し始める人は幸いです。

 求めなさい、そうすれば与えられます、と聖書にある通り、私たちが心の底から主を真剣に求めるならば、必ず、神は誠実にそれに答えて下さるのです。偽物を暴き、糾弾することも、時には、有意義ですが、たとえそれにどんなに熱中したとしても、そのこと自体によって、真実なる神に出会えるわけではないでしょう。

 既存の団体や組織のあり方に異議を申し立てるだけならば、誰にでもできますし、そのようにアンチ・テーゼを唱えるだけの仕事は、政治の好きな一部の方々に任せておけば宜しいと私は思っています(とは言いながら、それでもついこの手の話題に入り込まずにいられなくなる時が、私にも往々にしてあるわけですけれども…)。
 私たちが第一に求めているものは、神の国とその義、なのです。ただ主ご自身をどれほど切に求めているか、どれほど主お一人だけに心を向けているかが、私たちが真実なるお方に出会い、まことの命なるお方と共にこの地上の生を歩む決め手となることでしょう。

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