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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

神の国の秩序

先日、母と買い物に行った際、以前のようなやり取りが再燃し、危うく口論になりかけた。だが、もつれかけた話の最後に、私がエクレシアの話を始めると、母はそれまでとは打って変わって、とても興味深そうな表情になって、真剣に耳を傾けてくれた。
 そして、今回の私の出発は、私の個人的な人生の再スタートなどではなく、主のご計画の中に、私がすでに組み込まれていることの確かな証拠なのだと私が言うと、そのことを信じてくれた。

 母は当初、こう言っていた、「この不況の中で生きていくんだから、あんたはこの先、わがまま言って仕事を選んだりせずに、どんなことでもやって、人にも取り入って、懸命に努力して、自分に力があることを世の中に証明していかなきゃいけないよね。頑張ってそれをやってね。」 私はそれを聞いて、笑いながら否定した、「いやー、私の努力なんて、もう必要ないんだよ。私の能力なんて、そんなのあるのかどうかも知れないけど、そんなものを世に証明する必要も、なくなったんだよ。要するに、『自己実現』ってものが、全く必要なくなったの。私が懸命に頑張って、この世の中で自分の力を証明するなんてことは、もう要らないんだよ。だって、すべては私の努力でなくて、主がなして下さることなんだから! 私はその導きに乗っていけばいいだけなの!」

 もしもこの会話を人が聞けば、「この人は普通じゃない」と思われるだろう。怪しげなカルト宗教にはまって、きっと思考がおかしくなっているに違いないと…。だが、私は母の前でさらに大見栄を切った、「ねえ、お母さん、この先、私に何が起こるかよく見ていてね。もし主が私と共におられるなら、私は絶対に以前のような貧困には落ちないから。もしもこの先、不況だからって、私が生きるか死ぬかの崖っぷちの人生を、必死に努力して、喘ぎ喘ぎ生きていくんだったら、そこには何の不思議もないよね。そこには、神様の導きも、栄光も、祝福もなくて、誰でも想像できる、ありふれた人生があるだけだよね。
 でも、神様の御心は、私が平安の中で安息することなの。だから、私は今、職もないし、この先の人生のあても、さっぱりあるわけじゃないけど、これだけは、はっきり確信できる、神様はこの先、私が窮乏生活を送るんじゃなくて、豊かに自由に生きられる道を必ず開いてくださる。これは私の努力で達成できることじゃないからこそ、そこに神様の栄光が現れるんだよ」

 これは、世間の耳には、とてつもない楽観か、狂信者のたわごと、大言壮語にしか聞こえない言葉だと思う。何しろ、識者たちは、不況はまだまだこれからが本番になると言っている。この先、雇用情勢がどれほど悪化するかも分からないし、どのような経済危機が発生するかも分からない。そんな中で、20代の若さもなく、空白のない履歴書も持たず、コネもなく、親戚の一人もいない見知らぬ土地に、手ぶら同然で出かける人間が、どうやって、惨めに人様の憐れみを乞わずに生きられるのだろうか。にも関わらず、私が出発前に、不安に悩むどころか、これほどの大見栄を切っているのを世間が聞けば、これはただの阿呆に違いないと、一笑にふされておしまいになるだろう。

 だが、私は今後の生活が守られることを不思議な確かさで信じている。イエスは、弟子たちを町に派遣する前に、手ぶらで行けと言われた(マタイ10:9-10)。主のための働き人が糧を得るのは当然であると。神によって生まれた者は皆、神のための働き人である。備えは私たちの側にあるのではなく、いつも主の側にある。
 そして、私は母に言った、「今回、お父さんお母さんが私のためにしてくれたことは、私にしてくれたんじゃなくて、私を助けることを通して、神様に捧げたんだよ。聖書に書いてあるでしょ、この小さき者にしたのは、わたしにしたのだって。水一杯恵んだだけでも、忘れられることはないって。

 『わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない』(マタイ10:42)。

 だからね、お母さんお父さんの捧げものが、何倍にも祝福されて返って来ることを、私は疑ってない。もしも、我が家が、私を援助したせいで、財政が傾いて、極貧の生活に落ちるんだったら、それこそ、神様の名折れだよね。そんなことは絶対に起こらない。だから、私たちは全員、この先、豊かに与える神様の性質を、これでもかというほど実感しながら生きることになると思うよ。祝福から祝福の中を生きるようになると思う。この先、私も守られるだろうけれど、我が家もきっと守られるでしょう、だから私は何も心配していないの」

 そのことを言うと、母も、すでにこれまでにも、神様の導きとしか思えない不思議な方法で、自分たちの生活が守られて来た実感があると教えてくれた。私と家人とは、まだ同じ信仰を共有しているとは言い難いが、そこにどうやって主が働かれるのか、信頼して、期待しながら、余計なことは何もせずに、御手にお任せしている。

 そんなわけで、主の導きに従って一歩を踏み出す時には、いつも水の上を歩くような感じがある。ある人は、これを人間のガンバリズムと勘違いし、私が危険を冒して、主のために大胆に勇気ある行動に出ようとしている自分の努力を世に誇り、自分のアクロバット的な歩みを見せびらかすために、このようなことを言っていると考えるかも知れない。
 だが、そうではないのだ。それは、自分で同じことをやってみれば、誰にでも、すぐに分かる。水の上に一歩を踏み出して、歩き出そうとしている時に、自分のアクロバット的な努力を世に見せびらかしたり、誇ったりできるような心理的余裕が、果たして、人にあるだろうか?

 そこには、人間の努力なんてものは存在する余地がない。あるとすれば、ただ信仰による応答があるだけだ。誇れるものがもしあるとしたら、自分の弱さにも関わらず、神の強さを信じているその信仰を誇ることができるだけだ。信じるということ以外に、何一つ頼れるものはない。だから、イエスの道に一歩を踏み出すその瞬間は、いつでも、自分の魂にとっては一つの死であるとさえ言える。この先、自分が水に飲まれて死んでしまわないという保証はどこにもないが、それでも、イエスを信じて、一歩を踏み出す。そこに日々の十字架がある。自分の努力によって一歩を踏み出すときには、必ずある程度、将来が予測でき、ある程度、達成が見えているものだが、主を信じて一歩を踏み出す時には、いつも、あてがなく、この先に何が起ころうとしているか不明であり、どんな達成があるのかすら、全く予想がつかない状況で、そこに身を投じることになる。

 にも関わらず、そこには恐れではなく、平安があるのだ。いや、人間の弱い魂には不安がよぎることもあるが、霊においては、絶対的な安心感が伴っており、喜びさえあり、すべてが成就しているということが予め分かるのだ。だから、一歩を踏み出すと言いながらも、休みつつ歩いている感じなのだ。

 それは、イエスの負いやすいくびきを担い、イエスが完成された道に歩んでいるからだ。

 さて、以前の記事の中で、私は神のエコノミーなどという使い慣れない用語を使って、御国の法則について説明しようとした(神のエコノミー(オイコノミヤ)とは、御国の秩序、御国の統治形態、御国の法則全体を指していると私は解釈している。)が、その言葉は私にはかなり不慣れな扱いにくいものなので、ひとまず、ここでは、御国の秩序という簡単な言葉を使うことにしたい。

 「…わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。」(マタイ12:28)とイエスは言われた。このことは、御国の秩序が、人となって地上に来られ、バプテスマと聖霊を受けられた御子イエスを通して、地上に実現したことを意味する。

 御国の秩序とはどのようなものか。次の通りである、

「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
 天国は彼らのものである。
 悲しんでいる人たちは、さいわいである、
 彼らは慰められるであろう。
 柔和な人たちは、さいわいである、
 彼らは地を受けつぐであろう。
 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
 彼らは飽き足りるようになるであろう。
 あわれみ深い人たちは、さいわいである、
 彼らはあわれみを受けるであろう。
 心の清い人たちは、さいわいである、
 彼らは神を見るであろう。
 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
 彼らは神の子と呼ばれるであろう。
 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、
 天国は彼らのものである。」  (マタイ5:3-10)

 イエスは山の頂きに座して、ご自分も安息されながら、弱く打ちひしがれた人々を御元に集めて、彼らにも、安息の時が到来したことを告げられた。すなわち、イエスを通して、御国の秩序が、神を信じる人々のもとにやって来たことを告げられた。その御国の秩序とは、人に安らぎをもたらすものであり、人を罪と死とあらゆる汚れ、捕われから解放するものであり、人に神の無尽蔵の富を豊かに分かち与えるものであることを告げられた。御国の秩序のあるところには、自由があり、汚れたものの一切が追放され、まことの命の豊かさが惜しみなく現れ出る。

 御国の住人として(エクレシアとして)召し出されている人々は、神を抜きにして幸せ一杯に、満ち足りて、悠々自適に暮らしているこの世の人々とは一線を画している。召し出された者たちは、この世においては、絶えず心の飢え渇きを覚えている人たちだ。彼らは、この世においては、悩みが絶えない。病や貧しさや困難に絶え間なく見舞われ、人よりも不幸に見える人生を送っていることも多い。またイエスの名のゆえに迫害されていることも多い。彼らは戦闘的ではなく、心優しい、謙った人々であるがゆえに、この世では軽んじられ、見下され、侮られている。彼らはこの世に正義がないことを知っており、神の義だけを切に求めている。彼らは神に出会って、慰めを得て、解決を得られる時を切に待ち望んでいる。

 こうした人々が主に出会って、心から慰めを得、神の義を見て、満足し、平和を見て、満ち足りるようになることが、御国の秩序が到来することの結果である。その御国は、イエスと共にすでに神を信じる者たちのもとに到来している。聖霊が私たちの内に住まわれることによって、すでに私たちの只中に成就している。神の国とは、私たちが死後になってやっと手に入るようなものではない。

 だが、肉なる人間は、御国とは何であるかを理解できない。そこで、いつも経済的祝福や、病からの癒しなど、この世的な現象、奇跡的な祝福にばかり注目し、尋常でないいくつかの現象だけを取り上げては、それが神のご性質の全てであるかのように騒ぎ立てる。そこに大きな間違いがある。イエスの時代にも、群集の多くが、イエスが病を癒されると、その奇跡だけに注目し、パンと魚を増やされると、その奇跡だけに熱狂し、そして同じような奇跡が再び起こるのを見たいという衝動だけから、イエスに着いて行った。

 だが、神の国とは、そんな個々の現象にとどまらない、一連の秩序体系を指す。人知では理解できない、霊的な、見えない秩序が、御国の秩序なのであり、その秩序に従って、イエスは不思議な御業を行われた。その神の国が、神を信じる者たちのもとにすでにやってきていることをイエスは告げられたのだ。だが、このすでにやってきているということの意味が、またまた、人知では理解できない。そこで、神の国の意味を誤解した人々は、弟子訓練などの各種の方法論を通して、改めて神の国を地上に大規模に「建設」しようとなどと考え始める。そこにも大きな間違いがある。神の国とは、地理的領土のことではなく、この世的な、人間による支配体系のことでもなく、神の御心に沿って作り出される、御霊による、見えない秩序のことである。そして、その御国の秩序に従って、イエスはこの地上での業を成され、イエスが天に昇られた後、御霊によって生まれたクリスチャン一人ひとりが、イエスと基本的に同じ働きを任されているのである。クリスチャンたちの只中に、すでに御国はあるのだ。

 肉なる人は、しるしと不思議と奇跡という、現象や結果ばかりをいつも追い求めているが、私たちクリスチャンがいただいているのは、そのような一切の現象を引き起こす源であるイエスであり、まことの命である聖霊であり、見えない秩序である神の国である。

 神の国の法則に従って起こることが、世の人々には常に奇跡のように見えるのは、御国の秩序と、この世の秩序が決定的に異なっているためである。しかし、神の視点から見れば、転倒しているのはこの世の秩序なのであり、イエスが行われたことは全て、御心にかなったあるべき秩序なのである。

 だから、そのことを思う時、私は、この先、クリスチャンの間にまことのエクレシアが建て上げられていくに連れて、私たち一人ひとりのクリスチャンも、ますますイエスに似た者とされて行き、使徒のように大胆な働きをするようになり、各種の聖霊の賜物が、豊かに現れて来るだろうと思わずにいられない。

 神の国のはかりしれない秩序を、クリスチャンは内側にすでにいただいている。外見的には、みすぼらしく、取るに足りない、いつも危機に晒されて、追いつめられているようにしか見えない、弱く、脆い器である私たちの日々の営みを通して、神の国の圧倒的な秩序が、否応なしに、この世に流れ出て、現実化していくところを、私たちは今後、これでもかと言うほどに、目撃させられることになるだろう。こうして、初めは小さな種であった御国は、大きな木へと成長し、私たちの内側から、光が輝き出て、生ける水の川々が溢れ、流れ出すようになる。エクレシアが建て上げられていく時、神の国の秩序とは何なのか、まことの命の豊かさとは何なのか、神のご性質とは何なのか、その人知でははかり知れない不思議さ、豊かさを、私たちは隅々まで味わい知るだろう。そして、神の義の現れを見て、その中で歓喜し、主をほめたたえるだろう。
 
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