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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

終末について

閑話休題。個人預言の話はおいおい続けますが、一時的な骨休めに、今は別の記事を書きます。

自分の感覚を絶対的に信用するつもりはないし、また、私とは違った考えをお持ちの方も当然あると思うが、あまり芳しくないいくつかの印象について書いておきたい。

一つ。私は数年前から、どうにも時間の流れ方がおかしくなっているように感じられてならない。時間の流れ方が恐ろしく速くなっているのだ。「それはあなたが大人になって、老いているから気が焦っているのだろう。それに、もしかすると寿命が短いのかもね!」と茶化す人もあるかも知れないが、自ら老いたと言わねばならない歳に私は達していないし、さしあたって、寿命を意識する要因もない。
20年前は、まだ人生において試行錯誤ということが可能だった。なのにどういうわけか、今は、一瞬も予断のないように生きなければ、一つの失敗が命取りになりかねないほど、切羽つまった、取り返しのつかない、急流のような時間の流れの中に自分が生きているように感じられるのだ。

このような焦燥感を強調すれば、「あなたが言っていることは悪徳商法とか、カルト宗教が不安を煽るのと同じ手口みたいね。きっと一人で勝手に終末だとか何だとか言って人々の不安を煽って、勧誘でもしようっていうんでしょう?」と警戒されてしまう危険性があるため、できる限り、こういう話題については語りたくない。だが、とにかく、肌で感じている時間の感覚は偽ることができない。

試行錯誤のための時間的余裕は、いわば、ブレーキの「あそび」の部分のようなものだ。自転車のブレーキを人が握っても、すぐに急ブレーキがかける訳ではない。それはレバーにあそびの部分があるためだ。「あそび」がブレーキのかかり方に余裕を与えている。しかし、今日、この「あそび」の部分が、時間の流れの中にほとんどなくなってきているような感じがしてならないのは、どういうわけだろう。

信仰を離れ、カルト化教会に至りつくまでの私の人生は、恐るべき間違いの連続であった。霊的に見るならば、それはこの世的な放蕩の人生であった。多くの人に迷惑もかけた。無鉄砲で愚かな反抗もした。だが、私にとってそれは、放蕩息子の家出と同じく、自己流の試行錯誤の時間であった。私は日曜学校の時代から教会に影響を受けて育てられたのだが、自らの心の命ずるままに勝手な人生を歩むことで、型にはめられた生活から逃亡して、自己というものを取り返そうとしていた。自分の思いのまま生きるという点では自由であったが、そこには何の真理も戒めもなく、ただ肉の欲や目の欲、出世願望あどがあるのみであった。それは滅びへと一直線に向かう人生であり、そのまま進んで行けば、必ず、滅びがあるはずであった。

その後、事件が起こった。私は成功や、快楽や、保障された安全な暮らしから引き離され、貧しさと、蔑視と、孤独と、苦しみの中に投げ入れられた。幼い頃から関わってきたキリスト教界に救いを求めたが、驚くべきことに、もう一度(すでに一度幻滅していたので)、そこには救いをも真理を見つけることができないという結論に達した。そして、絶望の淵を通らされたが、やがて、真理とは自己のうちに住まうキリストの他にはないのだということに、幾人かの発言をきっかけにようやく気づいた。

こうして破滅は回避された。だが、このような気付きに達することができたこと自体が、一種の奇跡であった。私の犯した過ちは、私を滅びに至らしめて当然のものであり、救いなどなくて当然のものであり、私に引き返す道が与えられたこと自体が、あり得ないような、神の憐れみの結果であるということが分かる。私は服役中に、突如、死刑を恩赦によって免除された囚人と同じような気持ちになることがある。時々、自分に起こったことが一体何なのか、分からなくなる。聖書に登場する病を癒された病人の姿が自分に重なる。私が癒されたのは、過去と同じような生活を送るためではない。「健やかに生きなさい。けれど、二度と同じ罪を犯してはいけませんよ」という上からの語りかけが聞こえてくるようだ。

さて、時間の進み方が異常に速くなっているという話だった。私が信仰に立ち戻ったのは、もちろん、主の一方的な憐れみによるのだが、それと同時に、時代が随分牧歌的だったために、私には時間的な「あそび」が幾分か許されていたためでもあるような気がするのだ。しかし、これから先、そんな風にして、私が主の憐れみを悪用してまで、裁きは留保されていると高をくくって、自己流に人生を模索するチャンスはもうないのではないだろうか。

もちろん、主の憐れみの深さを自分の狭い思いで制限しようというわけではない。だが、私がもしこの先、かつてと同じように、人に躓き、信仰を失って、同じような自滅的生活を習慣的に送るようになれば、二度と、私はそこから抜け出せないのではないかという予感がある。
時間の速さについてもう少し言えば、あらゆるプロジェクトの結果があまりにも短時間で出るようになっているように思われる。そしてプロジェクトの結果が極端に現れるようになっている。特に悪い結果が出る場合、ちょっと悪い、そこそこ悪い結果、程度では済まずに、異常な巨悪となって現れる。さまざまな偽装問題や、教会カルトの問題がそうだ。毒麦の種がたわわに実をつけているのが、短い時間で暴露されるのだ。
(もしもこの先、政権交代が起これば、現政権が隠してきたことの中に、年金問題よりもはるかに重大な、許すべからざる事柄があったことが暴露されるため、それを恐れている人々がいるかも知れない。)

信仰とは純粋に内なるものであり、神が外見的にはっきりと見える形でクリスチャンを他の人々から区別することはなさらないと私は思っているので、純真な信仰心を持つ人々だけが携挙され、肉体がすっかり消えうせたという『レフトビハインド』の筋書きには決して同意することができない。たとえ携挙が起こるにしても、このような、まるでホラー映画のような方法で、しかも誰かが何かの装置の押しボタンでも押したかのように、一瞬に、システマチックに携挙が起こることはまずないだろうと考える。
また、私は終わりの時代に教会の重大な使命が「災害救助」になるとも考えていない。たとえ終わりの時代にあらゆる自然災害が起こるにしても、福音の伝え方は昔から今に至るまで決して変わらない。
だから、「地球はやがて終末の戦いによって滅びる」とか、「大災害が次々に起こるだろう」とか、「携挙と再臨は近い、時間はもう残されていない」というような言葉で、救いの瞬間が今しかないと強調する教えには感心しない。

しかしながら、性急に終末を唱えるあらゆる教えに異議を唱えつつも、大艱難時代が到来しつつあるということは、ほんとうなのではないかという実感を私はこの頃、少しずつ感じ始めている。私も警戒心の強い人間なので、断言するのは控えたいし、断言するには、まだまだ多くの証拠が必要だと思うが…。だが、そう考える理由の一つが、予想できない場所で起こった地震などの現象に加え、時間の取り返しのつかなさがいよいよはっきりと迫ってきて、人が一つ一つの選択に重大な責任を負わなければならなくなっていることだ。
「目を覚ましていなさい」という命令がこれほど必要な時代はないだろう。うっかりしていると、束の間の怠け心のために、救いをさえ失ってしまいかねないという危機感がじわじわと身に迫ってきている。

それから、二つ目。
ある日、TVニュースでちらっとオバマ大統領の演説を見た。その時、熱狂的につめかけた群衆を見て私は異様な感じを覚えた。核廃絶を初めとして、オバマ政権の掲げる政策が、ちょうどその頃読んでいた『レフトビハインド』シリーズに登場するルーマニア出身の反キリスト、ニコラエ・カルパチアの諸政策に似ていることが気になるのだ。私は『レフトビハインド』を額面どおり信用しようという気持ちはないので、この話に警戒心を持っているが、同様に、オバマ政権についても様々な疑念があることを考慮に入れている。そこで、この一致は、何なのだろうかと考えている。

三つ目。
最近、周りの人々の人間性に極端な二分化が起きているように思われてならない。良い人はますます良くなり、悪い人はその悪の度合いをはなはだしく増している。終わりの時代には、家族愛も冷え、人々は互いに相対立すると聖書には書かれている。家庭のゆがみや暴力といった問題は、何も今に始まったことではないが、人々に見られる悪や利己主義の傾向が、何か異常なまでに、いまだかつてないほど凶暴になり、増幅されているように思われてならない。
欺き、あざけり、謀略などが、周りに満ち溢れている。「なぜ親しかったこの人がこんな卑劣なことを?」と、理性で考えてもどうにも理解できないような事件が周りで起きる。カルト化教会もそうだが、人間性を失いつつある人々の群れが登場しており、最も身近な人々に対してさえ、自分の心を無防備に開くのが危険な瞬間があることを感じる。キリストにより頼むということを第一とし、肉なる存在とのつきあいにはある程度の距離を置かなければならないということなのだろう。背後で何か大きな影響力によって操られている非人間的な集団が登場しつつある、という気がする(特に、私が出会った教会の信徒の一丸となった凶暴化を思い出すとぞっとするばかりである)。

四つ目。罪の自覚への抵抗。
私は近頃、周囲の身近な数人に福音のことを語ろうとしたのだが、「十字架」や「罪」という言葉を聞いただけで、相手はあからさまな拒否反応を表した。もちろん、私自身の話し方にも未熟な点は大いにあるのだろうが、身近な人々であっただけに、この頑なさには私も驚いた。とにかく、今の時代、罪について語ること自体が非常に難しくなっており、この時代そのものが、罪の自覚に対して全身全霊で逆らっているように感じられる。そして時代の影響を受けた人々は、一見、大変な努力家で、博愛主義者といってもいいくらいに広い心の持ち主であったりするのだが、彼らは、自分の努力に非常なプライドを、重きを置いており、努力と希望を維持し続けることによって、どんな問題をも解決できると信じている。

このような人々は、キリストを必要としておらず、擬似宗教に熱中している。誰も彼もが様々な宗教に熱中して、独自の教えを並べることに夢中になっており、人に聞くことに関して軽率で、宣べ伝えてもほとんど希望がないという印象を私は受ける。(もちろん、希望がないかどうか私に判断すべきことではない。)その一方で、誰も語らない前から、すでに罪を自覚している人がいる。福音とはそのような人々に向けて語るべきものなのだろう。

「とりこにされる者はとりこにされていく」という言葉を思い出す。恐るべき時代が到来しつつあって、人々のふるいわけ、蒔いたものの刈り取りが無言のうちにすでに始まっているように思われてならない。
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