忍者ブログ

私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

その道は聖なる道

「あなたがたは弱った手を強くし、
 よろめくひざを健やかにせよ。
 心おののく者に言え、
 『強くあれ、恐れてはならない。
 見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、
 神の報いをもってこられる。
 神は来て、あなたがたを救われる』と。

 その時、見えない人の目は開かれ、
 聞こえない人の耳は聞こえるようになる。
 その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、
 口のきけない人の舌は喜び歌う。
 それは荒野に水がわきいで、
 さばくに川が流れるからである。
 焼けた砂は池となり、
 かわいた地は水の源となり、
 山犬の伏したすみかは、
 葦、よしの茂りあう所となる。

 そこに大路があり、
 その道は聖なる道ととなえられる。
 汚れた者はこれを通り過ぎることはできない、
 愚かなる者はそこに迷い入ることはない。
 そこには、ししはおらず、
 飢えた獣も、その道にのぼることはなく、
 その所でこれに会うことはない。
 ただ、あがなわれた者のみ、そこを歩む。
 主にあがなわれた者は帰ってきて、
 その頭に、とこしえの喜びをいただき、
 歌うたいつつ、シオンに来る。
 彼らは楽しみと喜びとを得、
 悲しみと嘆きとは逃げ去る。」(イザヤ35:3-10)


 イエス・キリストは、ご自分と共に、神の国がこの地上に来たことを告げられた。イエスは御霊の導きに従って、神の国の法則を地上に現され、さまざまな不思議な御業を成された。その時には、神の国は、御子イエスお一人の中に限定されて働いていた。だが、イエスは、弟子達にも、「聖霊を受けよ」と言われた。その言葉は、イエスが天に昇られた後で、現実となった。聖霊が信徒たちにも下った。それにより、神の国は、地上においてキリストの内でそうであったのと同じように、私たちクリスチャン一人ひとりの只中に、存在するようになった…。

 そういう話を、私は長い間、単なる教義として聞いて来た。その現実としての意味の大きさが分かっていなかったのだ。

 ところが、今、「神の国」が、私たちの只中に来ている。そのことを確かに私は実感して、喜ばずにいられない。今、私や愛する兄弟姉妹の只中に、神の御国が種蒔かれ、根づき、幹や枝を伸ばし、葉をいっぱいに生い茂らせている。しかも、イエスがそうであられたように、「家造りらが捨てた石」が、エクレシアの土台として集められている。所属する場もなく、無用なものとして打ち捨てられていた羊が、主によって、御国の成員として呼び集められ、エクレシアが着実に成長して行っていることを知る時の、何にもまさる大いなる喜び!

 エクレシアが建て上げられて行く、その奇跡のような主の御業を、今、私は現実に、こんなにも間近に見ている。その体験に自分もあずかっていることの光栄と、不思議さを思う。私は今、まさに使徒の時代の続きを生きていることを実感している…。

 あるキリスト者が、交わりの際に教えてくれた、「ヨハネの福音書の終わりにはどう書いてあるか覚えてますか? 『イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。』と書いてあるでしょう? つまり、ヨハネの福音書は完結していないんですよ。今もまだ、イエスの御業はずっと続いているんですよ。私たちはもしかしたら、ヨハネの福音書99巻目くらいの時を生きているのかも知れませんよ。」

 この会話を通して、私はその人と全く同じ実感を共有していることを知った。すなわち、私たちは、エクレシアが建て上げられていくまさにその歴史的時代を生きているのだ。福音書の続きを、使徒行伝の続きを生きているのだ。イエスが天に昇られるのを見送った後の弟子達と同じ心境で、その続きの時代を生きている。内にキリストをいただきながら、私たちは初代教会のクリスチャンたちとまさに同じ気持ちで、主に相見えることを待ち望みながら生きているのだ。

 目には見えず、文字にも記されていないが、私たちは今、聖書の名も知れない登場人物として、今の時代の使徒たちやクリスチャンと一緒になって、信徒の家々や名もない教会を行き来しているように思う。イエスの弟子達は、再臨のイエスに生きてお会いできるという希望を持ちながら、地上での生涯を全うしただろう。私たちも同じ希望を抱いており、イエスにお会いすることが、切なる望みである。だから、いつ主が来られても良いように、準備を整えて待ち望み、思いの一切を、キリストに捧げ、キリストに出会う時を、ひたすら喜びを持って待ち望む。主を待ち望むことがエクレシアの仕事であり、それが花嫁の花婿に対する愛の証であり、私たちの希望の全てである。

 パウロは言った、「あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。」(Ⅱコリント3:3)

 聖書の御言葉には限りがあり、ページ数にも限りがあるが、主の霊は、文字に限定されたり、時代に限定されることなく、今日も生きて働いている。御霊は、クリスチャンを通して働く。クリスチャンは一人ひとりがイエスの証人であり、生けるキリストの手紙である。私たちが伝道に携わるかどうか、メッセージを語るかどうか、あるいは毎日、聖書を何ページ読み、御言葉を人に語り聞かせるかどうか、そんな事に全く限定されず、パウロは、内にキリストをいただいている私たちの存在そのものが、(つまり、私たちの信仰、生き様、行動、言葉、交わり、日々の暮らしぶり、生きていることそれ自体!が)、キリストの手紙の内容なのだと教えている。つまり、新生したキリスト者そのものが、キリストの手紙なのであり、その内容は、私たちの心の板に、日々、御霊によって新たに書かれるのである。

 だから、私たちは御霊に導かれて、素朴な人生を生きるということを実践することにより、確かに、福音書の続きを、使徒の働きの続きを生きているのだと言えよう。それは決して、聖書に付加されることのない、目に見えない、人に知られない歴史であり、私たち一人ひとりは、自分がまるで取るに足らない人物のようにしか感じられないのだが、それでも、御心に従って歩むことにより、確かに、神のご計画の欠かせない一部となっているのである。私たち一人ひとりが、使徒時代のクリスチャンたちと何ら変わりない重要性を帯びて、地上に存在している。世に宣伝されることなく、人の目からも、隠されるだろうキリスト者の地道で素朴な歩みだが、私たちの一歩一歩から、初代教会にあったような愛の一致による交わりが、キリストの花嫁としてのエクレシアが確かに姿を現すのだ。

 この道に歩んでいると、毎日が、驚きと喜びの連続である。私が少し前に御国のために蒔いた種が、今日、早くも、正確に100倍に祝福されて帰ってくるのを目のあたりにした。主のために捧げたものは、何一つ、忘れられることはない、と信じてはいたが、こんなにも早く、そのようなことが起ころうとは、予想だにしていなかったので、私はただ主を畏れ、崇めることしかできなかった…。
 天に宝を積めと言われていることの意味を、今や理解しないわけにいかない。地上での相場は変動するが、御国の相場は決して変動しない。御国ほどに、私たちに豊かな利息を約束してくれている富の預け先は他にない。もしも有益な投資先を探している人がいるならば、その人は、虫もつかず錆びもつかない天の御国に、全能の父なる神の御旨に全財産を投資しておくのが最善である…。

 神はご自分に忠実な民に驚くほど気前良く恵んで下さり、また、多くの楽しみを授けて下さり、必ず、安全を確保して下さる。そのことを、私は日々、確かめている。そんなわけで、かつては自分をカインやエサウになぞらえていた私だが、その頃には、自分とは全く縁のない登場人物のように思っていたエノクや、ヨセフすらも、今では極めて身近に感じられるようになった。

 ヨセフには、主によって管理の賜物が豊かに与えられていた。神が常にヨセフと共におられたので、彼は何をしても栄えたし、権威者から絶大な信頼を得て、全ての管理を任され、周囲の人々に、惜しみなく恵みを流す管となった。また、エノクは何か偉業を成し遂げたわけではないが、人に知られざる人生を、素朴に、しかし、絶えず神と共に歩んだ。そして、「エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。」(創世記5:24) これは何と素晴らしい人生の終わり方だろう。

 神はご自分に従って歩む民に、平安と、安全と、豊かな恵みと、優れた賜物とを惜しみなく与えて下さる。だから、私たちが本当に主に従って歩むならば、豊かに与える神のご性質が、私たちを通して、必ずはっきりと周囲に表れずには置かないだろう。荒野のように荒れ果てた人生も、豊かに水の流れるオアシスに変えられ、過去の取り返しのつかない過ちも、拭い去られ、深い嘆きは、喜びへと変えられ、悲しみの涙は最後まで拭われる。どんな悪意をもった人間も、もはや、あなたを害することはできない。汚れた者はあなたに手を触れることができない。十字架によってあがなわれた者しか通ることのできない、聖なる道を、あなたは、キリスト者は進んでいるのだ。

 キリストと共に御座に着く、ということに、私は次第に近づいて行っているのではないかと思う。御座とは、全ての業を終えて休む安息の場であり、恵みの川の源である、と、教えられた。最近、私は主の恵みの中で、安息のうちに休んでおり、平和で素朴な(しかし驚きの絶えない)人生を送ることに専念している。今まで私のブログはまるでドタバタ劇の実況中継のようだったが、これから先は、主にあっての平安と喜びが中心に据えられるだろう。

 最後に、私たちに対する主のご計画は、まだまだ始まったばかりだということを思い出すために、次の測り知れない約束をも書き記しておこう。

 「主は霊である。そして、主の霊のあるところには自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」(Ⅱコリント3:18)
PR