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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

神のエコノミー(2) ―豊かに蒔く者が豊かに刈り取る―

「悪しき者のはかりごとに歩まず、
 罪びとの道に立たず、
 あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
 このような人は主のおきてをよろこび、
 昼も夜もそのおきてを思う。
 このような人は流れのほとりに植えられた木の
 時が来ると実を結び、
 その葉もしぼまないように、
 そのなすところは皆栄える。」(詩篇1:1-5)

「『神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、まかれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる』。」(マタイ4:30-32)

「種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるかたは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの義の実を増して下さるのである。こうして、あなたがたはすべてのことに豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至るのである。この援助の働きは、聖徒たちの欠乏を補うだけではなく、神に対する多くの感謝によってますます豊かになるからである。」(Ⅱコリント9:10-12)

「涙をもって種まく者は、
 喜びの声をもって刈り取る。
 種を携え、涙を流して出て行く者は、
 束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。」(詩篇126:5-6)


 私たちキリスト者は、それぞれが一粒のからし種としての信仰を持った神の宮なるエクレシアである。このエクレシアは、神の国にふさわしい耕された土壌(人の砕かれた心)に種蒔かれ、御国の法則に基づいてすくすくと成長し、やがて、キリストのご性質を豊かに表し、イエスにならって、何一つ欠けたところのない完全な者となることが求められている。ちょうど、目に見えないほどの大きさだったからし種が、大樹にまで成長し、数え切れない実を結ぶように、ここには著しい信仰の成長ぶりが必要とされている。

 また、これは個人としてのエクレシアを指しているだけでなく、集合体としてのエクレシアの成長をも表す。私たちは一人ひとりが信仰の種であるが、同時に、自らも、他の土壌に種を蒔き続けることによって、人々の信仰を養い、育て上げ、それによって、エクレシア全体に大きな収穫をもたらすのである。

 前回、述べたように、キリストに従う道とは、私たちが負いきれない借金を抱えて四苦八苦しながら、貧困からさらなる貧困へと向かうような道ではない。それは、神によって借金を全額返済していただいた後で、キリストのまことの命の豊かさを自分も楽しみ、他の人々にも分かち与え、キリストの命の豊かさを存分に表しながら生きていく道である。

 かつて、アダムにあって死んでいたが、キリストにあってよみがえった私たち(Ⅰコリント15:22)は、ただ自分だけがまことの命を得て終わるのではなく、エクレシア全体に豊かさを増し加えるために、神の財産を的確に運用することが求められている。つまり、神の羊たちがさらに増し加わり、彼らの信仰がさらに養われるように、主の栄光がさらに地に表されるように、絶えず種を蒔き続けること、それが神の財産を適切に管理するということの意味である。

 エクレシアの豊かな成長は、主の僕たちが、神の財産を適切に管理することなくしては成り立たない。マタイ25章でイエスが述べているたとえの中には、御国の財産を適切に運用して増加させた僕と、そうでない僕が登場する。御国の財産を全く運用しなかった僕は、役立たずとして叱責され、外の暗闇に追い出される。
 ここから分かるのは、神の御心は、御国の財産が増し加わること、エクレシアが成長することであり、そのためには、御霊であり、イエスのまことの命である生ける水の川々が、一人ひとりのエクレシア、全体としてのエクレシアから、溢れるほど豊かに、周囲に向かって流れ出すことが必要だということである。
 (これは組織としての教会の人員増加や繁栄とは全く関係ない話である)。キリストが地上の生涯において、ご自分を介して、神のまことの命を豊かに人々に届けられたように、キリストを内にいただく私たちも、宮である自分を介して、生ける水の川々を奔流のように流れさせ、周りを潤すことが使命なのである。

 だが、その豊かな収穫はいかにして達成可能なのだろうか? 第一の条件は、すでに書いた。一粒の麦は地に落ちて死ななければ、実を結ぶことはない。すなわち、命の水の流れを押しとどめている自己という殻が、十字架によって打ち砕かれて死に、御霊によってその人が復活することを経なければ、私たちの内側から、御霊の命の水が溢れだすことはあり得ない。だが、それでは、自己に死ねば、早速、生ける水の川々が怒涛のように私たちの内から溢れ出すのかと言えば、きっと、そんなことはないだろうと私は思う。

 初めは、その川は小さなせせらぎのように始まるだろう。それがやがて奔流のような流れになるまでには、第二の条件として、私たちが神の財産を絶えず適切に管理、運用し続けること、すなわち、収穫をもたらすために、種を蒔き続けることが必要不可欠となると私は考えている。

 考えて見ると、神の御国の資産運用には、必ず、ある逆説的な法則が伴うようである。結論を言えば、それは、パウロが述べたように、「少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる」(Ⅱコリント9:6)という法則性である。そこでは、豊かに与える者だけが、神から豊かに報いられるのである。
 (このことを、神を介さずに、人が人に対して直接、施しをすることや、何らかの団体や組織の求めに応じて奉仕・献金をすることだと誤解しないように注意したい。私たちが捧げる対象は、人ではなく、神であり、何をするにしても、御霊の導きに従って、すなわち、神のご計画に従って、それをなさなければ、一切の奉仕が無意味となる)。

 私たちは神の御国の土壌に、これから、種を蒔こうとしている。そこでは、豊かに蒔く者だけが、神から豊かな報いを受けるという法則がある。自分が豊かに恵まれていないのに、神(または)人のために、豊かに与える者となることは誰にもできない相談だ。だから、キリストの命の豊かさに真にあずかろうと思うなら、私たちはまず自分が持っている小さな種を蒔くこと――今持っているものを主のために手放すこと――から始めなければならない。

 しかし、この御国の法則は、この世の法則には逆行しているので、世の人々には理解し難い。この世では、私たちが人に与えたものは、基本的に、返って来ない。人に施せば、自分の財産は減り、与えれば与えるほど、自分は貧しくなくなる。たまに感謝が返って来ることもあるが、それさえもあてにならず、過度な施しは自分の身を滅ぼす。地上の法則では、与えすぎることは、常に、貧しさを招くのである。
 特に、カルト化教会など、神から遠く離れた命のない教会においては、神のために、と言いながら、信徒が巨額の献金を払ったり、重い奉仕を担わされて、自分は恐ろしい窮乏生活を送っている例がある。それは、彼らが神のためと自分では思い込みながら、実際には、御霊の導きに従わず、御国にふさわしい土壌ではない、いばらとあざみしか生えていないこの世的な土壌に、聖書から逸れた誤った福音の種(偽りのパン種を含んだ福音)を蒔き続けているから、収穫がないのである。

 しかし、まことの神の国(エクレシア)に働く法則は、この世の法則とはまるで反対である。御国にふさわしい土壌に蒔かれた種は、収穫をもたらさないことは絶対にない。そして豊かに蒔いた者には、豊かな収穫が伴うのである。

 では、どこに何を蒔けば良いのか、それは御霊によって教えてもらわなければならない。ちょうど、復活されたイエスが、一晩中収穫のなかったペテロたちに「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」(ヨハネ20:6)と言われたように、御霊の導きのある場所へ網を下ろすことが、収穫を得る秘訣であり、自分の判断で、闇雲に、見当外れな方向に網を下ろしても、収穫はないのである。

 私たちは神の御国に働く法則性を、真に御霊によって、理解する必要がある。これを理性や、人知によって実行しようとすれば、極度の貧困に落ち込むだけであろう。(「わたしたちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば力がある。」Ⅱコリント13:8)主イエスが地上において絶えず聖霊に従って歩まれたように、私たちも聖霊によってしか、真理をわきまえることはできない。

 いずれにせよ、蒔くということは、自分が持っているものを一旦、手放すことである。だから、外から見れば、そこには、一見、冒険や、貧しさや、弱さがあるように見えるだろう。
 地上におけるキリストは、弱い存在であった。キリストはまず、神としての栄光に満ちたご性質を手放して、弱く、貧しい人となって、この地上に来られた。地上の全生涯において、キリストは、御心に従って、貧しい人たちのために、持っているものを手放し、種を蒔き続けた(Ⅱコリント9:9)、そして、与えつくして、ついには命までも手放されたのである。そうした、地上におけるキリストの弱さ、貧しさが、今、天にあっての彼の栄光、「無尽蔵の富」(エペソ3:8)となっているのである。弱さが強さとなり、貧しさが豊かさとなり、死が復活となり、苦しみが全き人の完成となっているのである。ここに、人知では理解不可能なパラドックスがある。

「彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となり、神によって、メルキゼデクに等しい大祭司と、となえられたのである。」(ヘブル5:9)「キリストは弱さのゆえに十字架につけられたが、神の力によって生きておられるのである。」(Ⅱコリント13:4)。

 宗教の中に現世利益だけを求め、イエスを信じることで、この世的な富や、名声や、強さを得たいと思っている人は、キリストが地上にあって弱かったことを知れば、失望するだろう。キリスト者の歩む道は、イエスにならう道であるから、今日、私たちも、強くされるどころか、むしろ、日々、弱くなっているのである。そして、その弱さの中にこそ、神の強さが表れ、神の栄光が表されるのである。

 使徒パウロも、書簡の中で、ためらうことなく、自分の弱さや、恐れ、迫害、危機、患難、窮乏などに触れている。パウロを取り巻く追い詰められた状況は、彼を英雄に見せかけるどころか、むしろ、彼を世間の前に、威厳なく、取るに足りない者のように見せた。コリントの教会も同様に、やはり弱かった。パウロはこのようにまで言っている、「実際、あなたがたは奴隷にされても、食い倒されても、略奪されても、いばられても、顔をたたかれても、それを忍んでいる。言うのも恥ずかしいことだが、わたしたちは弱すぎたのだ。」(Ⅱコリント11:20-21)
 弱さや迫害のゆえに絶えず追い詰められていたパウロは、「わたしは日日死んでいる」(Ⅰコリント15:31)とさえ言い切っている。しかし、パウロはこの弱さを否定的に見ていたのではない、むしろ、極めて肯定的に評価していたのである、「もし誇らねばならないなのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう」(Ⅱコリント11:20-21,30)と。

 なぜ彼は弱さをそんなにまで誇れたのだろうか? これは通常人には理解できないことである。もし、御言葉の文字面だけに注目するならば、私たちは一体、どうやって、ここにキリストの命の豊かさを感じ取ることができるだろう? 豊かさよりも、欠乏があるではないか。自由よりも、束縛があるではないか。平安、喜びよりも、苦しみ、恐れ、絶体絶命があるではないか? 一体、どこに神の栄光があるというのだろうか?

 …信仰を持たない人にとっては、これは理解不可能だろう。しかし、世に言う弱さや欠乏と、主にあっての弱さや欠乏の間には、はっきりとした違いが存在する。主にあっての弱さや欠乏は、神の栄光が現れる前触れでしかない。すなわち、「…わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである」(Ⅱコリント4:7)。
 人の栄光ではなく、神の栄光が表されるために、徹底的に弱くされるのがキリスト者の道なのである。

 キリスト者は御霊に教えられて、自分の弱さが、ただの敗北に終わらないことを知っている。パウロが困難や迫害や病などを通して、神のために支払った犠牲は、この世の人々から見れば、ただ損失であっただろうが、御霊の法則にあっては、主の財産が増し加わるために必要な投資であった。パウロは御霊によって、そのことをはっきりと知っていたのである。だからこそ、彼は自分の弱さを嘆くどころか、大胆に、神の強さとして誇ったのである。
 御国の経済においては、常にこうである。主のために世の富を失うことは、主にあって豊かに得る第一歩なのである。それはちょうど、確かに上がることが分かっている株に、私たちが全財産を投げ打って、投資するようなものである(マタイ13:45 高価な真珠を買うために全財産を投げ打った商人の例がまさにそれ)。全額投資すると、一時的には無一文になるが、時が来れば、自分の財産が何倍にもなって返って来ることが予め分かっているので、私たちはこの投資が絶対に誤らないものであることを確信しながら、信仰によって、手にしているものを捧げ、後は何の不安もなく落ち着いて休んでいられるのである。

 全財産であるにせよ、そうでないにせよ、一時的に何かを失わないことには、投資はできない。持っているものを手放さなければ、種蒔きはできない。そこで時には、それが窮乏となって現れることがあるかも知れない。精神的・肉体的に追い詰められて、涙のうちに、種を蒔くことがあるかも知れない。だが、パウロは、収穫があるかどうかも分からないような、行き当たりばったりの投資(空を打つような拳闘)をしないと断言した(Ⅰコリント9:26)。つまり、パウロは神の御国のための株式投資のプロだったと言える。御霊によって知識を得ていたので、彼の読みは決して外れず、たとえ一時的窮乏の中を通るように見えることがあっても、彼はそれが確実な投資として豊かな収穫をもたらし、勝利に終わることを知っていた。

 こうして、今日のキリスト者も、御霊によって、どのように種蒔けば、そこにキリストの命が豊かに働いて、大きな収穫をもたらすことができるのかを教えられているので、霊のうちに喜びと平安を持って、持っているものを手放すことができる。この道に歩む時、キリスト者の直面する困難は、決して、人間側からのむなしい自己犠牲に終わらない。それは、神の財産に豊かな収穫をもたらす第一歩となるのである。

 しかし、注意しなければならないのは、今日、神のための投資、という名目で、その実、神ではないもの(偶像)への捧げ物が教会内に紛れ込み、至るところで、クリスチャンに強要されていることである。それはエクレシアに収穫をもたらすための投資ではなく、この世という不毛の土壌に種まく行為であり、その投資は実を結ぶことなく、人間に貧困をもたらす。私たちはこのような偽物の投資を見抜かなければならない。神のため、という名目で、人が勧めることに全て聞き従っているようではいけない、そんなことをしていれば、恐ろしい貧困や破滅に陥ってしまうだろう。

 何が本当に神のための投資であり、何が神の名を騙った偽物であるか、本当に知っているのは御霊だけである。だからこそ、私たちは自分の内にはっきりと聖霊の証印を持っていなければ、物事を正しく判断できない。うわべだけを見て、私たちが本物と偽物とを区別するのは無理だろう。御霊による証印とは、「墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたもの」であるから(Ⅱコリント3:3)、あれやこれやの物的証拠で、外面的に裏づけが取れるような種類のものではない。キリスト者は、自分の内に御霊の導きを確かにいただいていなければ、決して、何が真実であるか見極めることはできず、容易に人の言うことに騙されて、大切なものを無駄な投資に失ってしまいかねない。真に聖霊だけが、人に何が御心であるか教えるのである(「…神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない」Ⅰコリント2:11)。

 さて、神の国に働く経済の法則は、以上のように逆説的なものである。地上での窮乏が、御国の豊かさとなり、地上での弱さが、神の強さとなり、地上での絶体絶命が、御国に勝利をもたらす、といったパラドックスが、キリスト者の人生には極めてよく起こるのである。
 この逆説的な法則性を、御霊によって理解しながら、進んで行くことが、私たちが神の財産の良き管理人となる秘訣であると私は思う。

 第二コリント人への手紙から、御国の法則の不思議な逆説の例を一つ見てみよう。

「兄弟たちよ。わたしたちはここで、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせよう。すなわち、彼らは患難のために激しい試練を受けたが、その満ちあふれる喜びは、極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て惜しみなく施す富となったのである。わたしはあかしするが、彼らは力に応じて、否、力以上に施しをした。すなわち、自ら進んで、聖徒たちへの奉仕に加わる恵みにあずかりたいと、わたしたちに熱心に願い出て、わたしたちの希望どおりにしたばかりか、自分自身をまず、神のみこころにしたがって、主にささげ、また、わたしたちにもささげたのである。」(Ⅱコリント8:1-5)

 これは大いなるパラドックスである。「極度の貧しさ」の中にあったマケドニヤの諸教会が、一体、どうやって、「あふれ出て惜しみなく施す富」を生み出すに至ったのだろうか。具体的な方法は何も書かれていないが、おおよそ想像できることは、エクレシアの成員たちが、まず、自分が持っているものをほとんど、惜しみなく主に捧げるところから、その豊かさは始まったのだろう、ということである。

 さて、ここから私の話に移りたい。私は御霊に感じるところがあって、これからある計画に出ようとしている。私には今、財産はまるでなく、主のために捧げられるものは無に等しい。だが、神の国の法則に従って、主の財産を豊かに増し加えるために、私はまず自分が持っている小さな財産を祭壇に差し出すことが求められていると思う。
 だが、このようなことを言えば、疑問を抱く人は多いだろう。人間的な観点から見るならば、今私がやろうとしていることは、大変、愚かで、危険な博打であり、綱渡り的人生以外の何物でもない。クリスチャンの中にさえ、こう言う人があるだろう、「あの人はカルトでさんざん騙された上に、性懲りもなく、今また、いかがわしい超自然的な『霊の導き』などというものを信じて、それに寄りすがって、さらに多くのものを失おうとしているのだ。馬鹿らしいことだ、いつになったら学習するのだろう」。
 だが、福音は滅び行く者には愚かなものであるから、そういう疑いを抱く人には存分に笑っていただければ結構である。

 今、次の聖句が私に迫ってくる。

「不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。<…>
 わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、
『わたしは彼らの間に住み、
 かつ出入りするであろう。
 そして、わたしは彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となるであろう』。
だから、『彼らの間から出て行き、
 彼らと分離せよ、と主は言われる。
 そして、汚れたものに触れてはならない。
 触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。
 そしてわたしは、あなたがたの父となり、
 あなたがたは、
 わたしのむすこ、むすめとなるであろう。
 全能の主が、こう言われる』。」(Ⅱコリント6:17-18)

 ちょうどエデンの園で神と人とがそうであったように、これから、私が全能者の娘となり、主が私を豊かに恵んで下さるようになるためには、私には今、この地を出ることが求められている。

 今の私にとっては、これが主のために、すなわち、御国の収穫のために種まく行為である。種を蒔くとは、何も、他人に向かって福音を語ったり、献金をしたり、集会に出席することといった月並みな形式に縛られはしない。イエスは「御霊によって」荒野に導かれた(マタイ4:1)し、パウロらは、アジヤで御言葉を語ることを「聖霊に禁じられた」(使徒16:6)。何が種蒔く行為であるかは、その時、その時で、違いがあり、それは御霊だけが知っている。

 パウロは言った、「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。」(ガラテヤ5:16)。もしも御霊の導きというものを全く信じないなら、その人には、クリスチャンとしての人生はないであろうし、さらに、その人はクリスチャンと呼ぶにも値しない、と言って過言ではないと私は信じている。

 小さな種しか持っていない人は、御霊が導かれる通りに、その種をまず地に蒔くことが求められる。それが、豊かな実りをもたらす第一歩である。世から見れば、持っている少ない財産を投げ出したり、保証のないところに一歩を踏み出すのは、あまりにも無謀な行為と映るだろうが、真に御霊の導きを受けてそうするならば、あなたの心にはいつも平安があり、落ち着いた喜びがあるはずである。御国の法則に従えば、そのような投資が無駄になることは決してない。いや、このような投資を根気強く、積み重ねて行かなければ、私たちはキリストの命の真の豊かさにあずかる者には決してなれないのである。

 主は誠実なお方なので、私たちが主のために捨てたものを、何一つ、忘れられることはない。「良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである。」(マタイ13:23)「おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。」(マタイ19:29)

 御国においては、私たちが主に捧げたものが、私たちの財産として返って来る。しかも、何倍にも祝福されて…。だから、1年後、2年後に私の状況はどうなっているだろうか、我ながら楽しみである。これは理屈を越えているので、理解できない人には愚かな話にしか聞こえないだろうが、私にとっては、ある意味、極めてゲンキンな話である。この地上において、人々は見返りがあると分かっているものにしか投資しないが、キリスト者も、主からの見返りがあると分かっているものにしか投資しないのである。主から褒賞がもらえるように走るので、キリスト者の競争は楽しいのである。

 キリスト者にとっての見返りとは、神の御国における豊かな相続財産であり、それは地上において、主の羊たちが増し加わり、エクレシアの信仰が成長していくことである。それと同時に、神は個人としてのエクレシアなる者たちの人生に、豊かないつくしみと憐れみを注いで下さるので、主により頼む私たちは、地上において、決して、絶望に落ち込むことはない。
 私自身は極めて弱い者であり、窮乏の中を通らされることが、この先、何度かあるだろうが、主は決して、そんな時にも、私をお見捨てにはならない。弱い者の人生を通して、主は、ご自分の強さを表されたいと願っておられ、人の弱さや窮乏のうちにこそ、神は働いて、強さと豊かさを表して下さる、それが神の国のエコノミーの逆説的な法則である、だから、私たちは自分たちが直面している当面の弱さや欠乏を大いに喜び、誇って構わないのである。その弱さの中にありながら、主のために種を蒔き続けていれば、必ず、豊かな収穫がもたらされ、そこに神の無尽蔵の富が現れて来るからだ。
 そんなわけで、主のために大胆に一歩を踏み出そう。

「試練を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。」(ヤコブ1:12)
 

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