忍者ブログ

私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

霊を試して出所を見分ける必要性―肉を喜ばせる偽りの預言の特徴―

何のために聖霊の賜物を求めるのか

 「個人預言」を売り物にするミニストリーに限らず、今日、特にペンテコステ運動に関わりのあるクリスチャンの間では、聖霊の賜物を肉的な思いでコントロールし、自己充足的に使おうとする欲望が強く働いている。
 ペンテコステ・カリスマ運動の出発点となっている聖霊による満たしや、異言を語ることに対しても、広く誤解が広まっている。ある種のクリスチャンは、異言と聖霊の満たしに異様なこだわりを見せ、霊的な賜物を異常に強調するという誤りに陥っている。彼らは聖霊のバプテスマとそのしるしとしての異言をまるでクリスチャン全員の信仰生活に不可欠な通過儀礼であるかのように扱い、聖霊の賜物を特権のようにひけらかしたりしながら、ダイナミックな聖霊の現わればかりを求める一方で、日々主の掟を守り、貧しく困った人々に具体的な助けを差し伸べ、隣人を愛し、人に仕えて謙遜に生きるという地道な信仰的努力をおざなりにしている。

 このような聖霊の賜物への偏った異常なこだわりの根底にあるものは、神が恵みとして人に与える賜物を、人間の欲望によってコントロールしたいという願いである。つきつめて言えば、超常的な力を自在に我が物としたいという人間側の欲望が、出所不明な「霊の賜物」も含めて、霊的な現象への殺到を引き起こしているのである。そのような悪しき動機に突き動かされた人々は、稀有な霊的賜物をぜひとも手に入れたいと渇望し、そう望むことが「信仰的」であると誤解し、特別に神の臨在を感じられるような非日常的体験や、奇跡を熱心に求めて、それにあやかることで、特別に、個人的に、神との一体感を得られると考えて、霊的現象を強調する数々の集会に参加している。

 だが、神の尽きるところのない知恵や超常的な力を人間が我が物とし、自分の思惑に沿って自在に利用できるようになりたいという人間の欲望は、アダムとエバが楽園から追放されるきっかけとなった動機と同じく、むさぼりや、罪へとつながるものである。人間が宿命として定められたむなしい土の器を捨てて、さまざまな知恵や力を帯びることによって、神に近づき、神と一体化しようとする試みは、決して成功することなく、ただ滅びへとつながっている。

 キリスト者のうちにおいては、十字架を信じたその瞬間から、土の器なるその人の肉体を宮として、聖霊が住まわれるのであり、私たちはこの確信に強く立って、内なる聖霊に耳を傾ける姿勢を保ち、自己の外なる現象を通して、神との一体感を味わおうとするような誤った欲望を退けるべきである。

 「愛を追い求めなさい。また、霊の賜物を、ことに預言することを、熱心に求めなさい」(コリント第一14:1)と聖書は教えている。だが、クリスチャンが霊の賜物を求めることは、ここで言われているように、神と人への愛が動機となるべきであって、利己心に基づいて行われるべきことではない。聖霊の賜物は、あくまで、神と人に仕えるためにそれを用いるように与えられるものであり、稀有な賜物をひけからして自己満足したり、己が思惑通りに、世の中や人々をコントロールするために力を行使することが目的であってはならない。
 だが、現代という終わりの時代にあっては、聖書が幾度も警告しているように、巧妙な方法でキリスト教に偽装が入り込み、霊の賜物に関しても、偽装が進んでいる。「神と人に仕える」と標榜しながら、その実、利己心を満たし、多くの人々を自分に惹きつけて権力を得、ビジネス・チャンスを作るために活動している自称預言者が無数に存在し、数々の集会において、主から来たとは思えない出所不明の預言や「霊の賜物」によって人を惑わせているため、警戒が必要である。
 

 偽りの預言を見抜くために必要なことは何か

「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。<略>御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。」(ヘブル人への手紙1:1-3)
 旧約の時代、民は特別に立てられた祭司や預言者を通してしか神の御旨を知ることはできなかった。預言者が民全体に向かって、あるいは誰かに向かって、神の御旨を代理として告げた。民は自分で神と関わることはできず、とりなし手を必要としていた。

 だが、イエスの十字架を経て、新約の時代には、預言者を通さずとも、個々のクリスチャンはイエスの御名によって神に祈り、対話することを許された。では、預言の役割は終わり、預言者はいなくなったのかと言えば、そうではない。すでに引用したように、現代でも、個々のクリスチャンは、聖霊の賜物を求め、預言することを積極的に求めるべきだと教えられている。聖書を文字通りに読むなら、クリスチャンの誰もが預言をするように奨励されているとさえ言えよう。

 さて、預言とは一体何なのだろうか。広辞苑で引くと次の説明となる。
「キリスト教や啓示宗教で、神から預けられた言葉を人々に伝えること。また、その言葉。倫理的勧告や回心の呼びかけも含む」

 このように、預言とは、今日広く誤解されているように、他人や国家や社会の未来に起こることを予見し、ずばり言い当てるという占いのような行為のことを指しているのではない。そのような未来予言的な特殊な啓示も預言の中に含まれるとはいえ、その他にも、悔い改めの勧告や、悪事から離れるようにとの勧めなど、主の御心を忠実に反映した内容を適宜に語ることが預言の概念に含まれていると見てよいだろう。
 従って、誰もが預言を熱心に求めるようにとの聖書の勧めは、クリスチャン全員が預言者になるべきだということを全く意味せず(聖霊の賜物に役割分担があることは明らかなので、信徒全員が預言者となることはあり得ない)、人生の諸問題に立ち向かう時、何が御心があるのかを一人ひとりが適宜に見分け、また、他人に対しても、しかるべき勧告ができるように、それぞれが御心を熱心に追い求め、理解できるようになり、人前でも証できるようになりなさいという意味であると私はとらえている。

 だが、今日、預言を熱心に求めるべきであるという聖句を自己流に解釈した結果、勝手に預言者を自称するようになった人たちがおびただしく存在している。自分で自分を預言者に任命した人たちである。だが、こうした偽預言者の登場は今に始まったことではない。聖書を読むならば、旧約聖書の時代からこのような偽預言者が数多く存在していたことが分かるだろう。
 今、偽りの預言に惑わされないために、何が必要なのだろうか。巧妙に偽装された偽りの預言を私たちはどのようにして見分ければ良いのだろうか。


偽りの預言の特徴その①
 平和や繁栄、解放といった人の耳に快い事柄を預言する預言者には特に注意が必要である。彼らは預言の内容が成就してからでなければ本物の預言者であることが証明されない。
 真実の預言は人を悔い改めに導き、神への畏れを起こさせて悪から離れさせるが、偽りの預言の内容は人の心を神ではなく己が願望の成就に向けさせ、肉的な欲望を助長し、利己的な成功を求めさせる。

 聖書に登場する預言者による預言内容のほとんどは、民に悔い改めを要求し、悔い改めなき場合、裁きが来るという不吉なものであった。「民よ、罪を離れ、悔い改めよ、さもなくばあなたたちは滅びる」というメッセージが、ほとんどの預言において中心部分をなしていた。このような内容は、貪欲に、好き勝手に生きている大衆にとっては、限りなく不愉快かつ耳障りであったことだろう。

 「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせるこれはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである。」(マラキ4:5-6)

 預言者エリヤは、イスラエルの民が己が罪業の報いとしての災いから逃れることができるように、民を悔い改めさせて、主に立ち返らせるために遣わされた。このように、預言者の主たる役割は、父(神)と子(民)とを和解させるために、その間にとりなし手として立つことであった。預言者は民に対して、神の戒めから遠く離れた罪を悔い改めるよう厳しく迫り、罪に対しては裁きがあることを警告し、決して、人を喜ばせるためだけに祝福のメッセージを語ることはなかった。

 さらに、真の預言においては、義理人情も、上下関係も一切反映されておらず、ただ主への忠実さだけが問題にされていた。預言者サムエルが幼少期に初めて受けた啓示は、神に仕えながら神をないがしろにしている師匠エリの家に裁きが下るという衝撃的な内容であった。エリはサムエルの師匠であったにも関わらず、主からサムエルに与えられた預言の内容は、彼自身が語るのを恐れるほど、人間的な思いとはかけ離れたものであった。

 他の預言者の例を見ても、預言内容はやはり衝撃的であり、人々を畏れさせるものであった。預言者ゼパニヤは、罪を犯し続けている民に向かって、開口一番、言った、「主は言われる、『わたしは地のおもてからすべてのものを一掃する』」(ゼパニヤ書1:2)。預言者ハガイは民の不信仰と利己主義を非難して言った、「主の家はこのように荒れ果てているのに、あなたがたは、みずから板で張った家に住んでいる時であろうか」(ハガイ書1:4)。マラキは言った、「『子はその父を敬い、しもべはその主人を敬う。それでわたしがもし父であるならば、あなたがたのわたしを敬う事実がどこにあるか』<略>わたしはあなたがたを喜ばない、またあなたがたの手からささげ物を受けないと、万軍の主は言われる」(マラキ1:2-5,10)。ヨナはニネベの人々に呼ばわった、「四十日を経たらニネベは滅びる」、「物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかも知れない」(ヨナ3:4-9)。

 こうして預言者たちは神に対する人々の不従順を厳しく責め、滅びを予告した。しかしその一方で、人々が預言者の言葉に真摯に耳を傾け、罪を悔い改めた場合には、ニネベの街のように、裁きと滅びの預言は撤回され、人々の心に慰めがもたらされた。預言者が個人的に人々から金銭を受け取って、それを代価に預言したり、滅びを撤回したりしたことはなかった。

 さて、預言者たちが避けて通れなかったもう一つの重要な役割は、彼らの預言とは全く異なる内容を告げる偽預言者たちとの対決であった。エリヤは450人のバアルの預言者と、たった一人で驚くべき対戦を行って、450人の偽預言者を打ち破り、自分が正しい預言者であることを証明した。
 エレミヤは、バビロン捕囚という苦しみが、イスラエルの民の放縦への裁きとして与えられたものであり、民はそれを甘んじて受け、他国に仕えることによって心砕かれ、謙らなければならないという主からのメッセージを受け取った。そして、それに反するような預言があれば、偽りであるから聞いてはならないということを民に警告せねばならなかった。彼は言った、「主はこう仰せられる、『見よ、主の宮の器は今、すみやかに、バビロンから返されてくる』とあなたがたに預言する預言者の言葉を聞いてはならない。それは、彼らがあなたがたに預言していることは偽りであるからだ」(エレミヤ書27:16)。

 これに対し、ハナニヤという預言者が現われて、エレミヤの預言に真っ向から対立する内容を民に告げた、「主はこう仰せられる、『わたしは二年のうちに、このように、万国民の首からバビロンの王ネブカデネザルのくびきを離して砕く』」(エレミヤ28:11)。ハナニヤは、バビロン捕囚は速やかに終わり、民はこれ以上、苦しめられることなく、解放されることを主が望んでおられると告げた。捕囚がこの先ずっと長引くと宣言したエレミヤの預言よりも、速やかな解放を告げるハナニヤの預言の方が、よほど民の耳には心地よく響いただろうことは想像に難くない。

 エレミヤは、平和や解放を告げるハナニヤの預言に慎重になるよう人々に警戒を呼びかけた、「今わたしがあなたとすべての民の聞いているところで語るこの言葉を聞きなさい。わたしと、あなたの先に出た預言者は、むかしから、多くの地と大きな国について、戦いと、ききんと、疫病の事を預言した。平和を預言する預言者は、その預言者の言葉が成就するとき、真実に主がその預言者をつかわされたのであることが知れるのだ」(エレミヤ書28:7-9)。

 ハナニヤの耳障りの良い預言は、エレミヤの予想の通り、成就することはなく、彼の預言が偽物であることが時間と共に明らかになった。ハナニヤの預言は民の心に悔い改めや反省を引き起こさず、むしろ、自己安堵とおごりを助長し、それぞれが勝手に思い描いた解放の夢に熱中させることで、父なる神から遠ざけてしまった。それゆえ、彼の預言は神へのさらなる反逆をそそのかす効果を持っていたのである。

 エレミヤは、偽りの預言に対する責任のために、ハナニヤは死ななければならないと告げた、「ハナニヤよ、聞きなさい。主があなたをつかわされたのではない。あなたはこの民に偽りを信じさせた。それゆえ主は仰せられる、『わたしはあなたを地のおもてから取り除く。あなたは主に対する反逆を語ったので、今年のうちに死ぬのだ』と」(エレミヤ28:15-16)。
 偽の預言に対する責任がどれほど厳しいものであったか、私たちはこの事件から知ることができる。エリヤを打ち負かそうとした450人のバアルの預言者も皆殺しにされたことを思い起こしたい。

 さて、ハナニヤの例に限らず、エレミヤ書を見ると、当時、平和や安産や商売繁盛など、民を喜ばせるような内容ばかりを語っていた偽預言者たちに対して、厳しい警告が発せられている。当時の多くの預言者たちは、お布施を少しでも多く取り、利得をむさぼろうと、民を喜ばせるような預言を好き勝手に語っていた。そのような偽預言者の言うことを決して聞いてはならないと、エレミヤは人々に警告し、偽預言者に対しては、主の厳しい裁きを予告した。

「『それは、彼らが、小さい者から大きい者まで、
みな不正な利をむさぼり、
また預言者から祭司にいたるまで、
みな偽りを行っているからだ。
彼らは手軽にわたしの民の傷をいやし、
平安がないのに『平安、平安』と言っている。
彼らは憎むべきことをして、恥じたであろうか。<略>
それゆえ彼らは倒れる者と共に倒れる。
わたしが彼らを罰するとき、
彼らは倒れる
』と主は言われる。」(エレミヤ書6:13-15)

「『あなたがたに預言する預言者の言葉を聞いてはならない。
彼らはあなたがたに、むなしい望みをいだかせ、
主の口から出たのでない、自分の心の心の黙示を語るのである。
彼らは主の言葉を軽んじる者に向かって絶えず、
『あなたがたは平安を得る』と言い、
また自分の強情な心にしたがって歩むすべての人に向かって、
『あなたがたに災いはこない』と言う』」(エレミヤ23:16-17)

「『預言者たちはわたしがつかわさなかったのに、
彼らは走った。
わたしが、彼らに告げなかったのに、
彼らは預言した。
もし彼らがわたしの議会に立ったのであれば、
わたしの民にわが言葉を告げ示して、
その悪い道と悪い行いから、離れさせたであろうに。』」(エレミヤ23:21-22)

 こうして、エレミヤの時代、祭司も預言者も偽りの「預言のミニストリー」に携わり、そこから不正な利益をむさぼっていたことが分かる。預言は一大宗教ビジネスと化し、金儲けのために、聖職者たちは率先して、「主はこう仰せられる…」と言うフレーズを用いて、民を増長させるような内容ばかりを語っていたのである。だが、それは、自称預言者が勝手に作り出した幻に過ぎなかった。彼らの預言は、人々の心を父なる神に向けさせず、おのおのが思い描いた勝手な幻に夢中にさせることによって、神の御心からさらに遠く引き離した。

 私たちは日頃から、何を信じ、何を信じないか判断する基準として、自分の感情を頼りにしてしまっている場合が多い。自分の心に衝撃をもたらすような不吉な予言にはおのずから警戒態勢を取る一方で、自分の心に慰めや高揚感をもたらすような予言にはあっさりと心を開いてしまい、そこに弊害があるということに気づきにくい。

 しかし聖書は、平和への預言にこそ注意しなければならないと教えている。人の心を喜ばせる、耳障りの良い、なめらかな言葉の裏に、その人の魂を増長させ、滅びに導くような毒が隠されている場合があるからだ。
 ジョン・ビビア氏は先に挙げた『主は本当にそう語られたのか?』の中で、人々が偽りの平和や繁栄を約束する預言をあっさりと信じてしまう理由についてこう述べる。

 「それは、心の秘密に根ざしています。つまり、私たちがあのような"ことば"を受容するのは、それが心の中に隠された願いや動機を満足させるからです。つまり、あの種のことばは、自分の利益や昇格を願う肉的な欲望を満足させるのです。そのことに気づかないまま、いつのまにか私たちは、パリサイ人が願った報い――人にほめられ、認められ、豊かで快適な暮らしを送ること――を、自分の願いとするようになるのです。こうして、私たちは永遠の報いを見失い、一時的なものを受け入れてしまうのです。このため、本物と偽物とを見分ける能力が機能しなくなるのです。」(p.112)

 つまり、前述のエレミヤ書23:16-17にあるように、偽りの預言に騙される信徒たちは、心にある致命的な弱点を抱えている。彼らは「主の言葉を軽んじ」、「自分の強情な心にしたがって歩」んでおり、目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢に簡単になびいてしまうという性質を持っている。このような人々は、主の御心に沿って、貧しく、苦難を経てでも、心打ち砕かれて、地道に忍耐を養うことよりも、自分の肉の欲を手っ取り早く満足させてくれるような、お手軽な成功に心惹かれるのである。

 そのような利己心、むさぼり、野心などが敵に利用される弱点となって、彼らはキリスト教に偽装された詐欺の手口に簡単にひっかかる。「主は大きなビジネスチャンスをあなたに与えておられます。金銭のことは心配せずプロジェクトに踏み出しなさい」とか、「神は稀有な成功をあなたに約束しておられます。夢へ向かって勇気を持って踏み出しなさい」とか、あるいは、「この宣教計画にははかりしれない成功が約束されています」、「この国に巨大なリバイバルが起こると主は告げています」、「この教会は何千人もの信者を抱える大教会になるでしょう」などなどの、繁栄とむさぼりを助長する数々の偽りの言葉に心惹かれ、あっけなく騙されてしまう。それらの偽の預言は、主にあってつつましい生活を送ることを人々に損と思わせ、手っ取り早い成功や、名声を求めて貪欲に生きることを助長する。

 だが、ここですでに騙された人々だけを責める態度は間違いである。今日、肉の欲に惹かれるという弱点を全く持たない人間が一人でもいるだろうか。私たちは自分たちの弱さをかえりみて、決しておごることなく、自分の心を喜ばせてくれる他人の言葉にすぐに影響を受けないよう、よくよく警戒を怠らないようにしたい。指導者の言葉や、集会で起こる現象など、目で見ることができ、耳で聞こえる外的な影響力に左右されて、そのような影響力の中に主の現われがあると信じ込むのでなく、しっかりと聖書に立ち返り、心を鎮めて、自己の内に住まわれる聖霊にこそ、静かに耳を傾ける姿勢を取りたい。

<つづく>

PR