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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

個人預言という名の占いについて

「終りの時代には、苦難の時代が来る。その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。彼らの中には、人の家にもぐりこみ、そして、さまざまの欲に心を奪われて、多くの罪を積み重ねている愚かな女どもを、とりこにしている者がある。<略>彼らは知性の腐った、信仰の失格者である。しかし、彼らはそのまま進んでいけるはずがない。彼らの愚かさは、<略>多くの人に知れて来るであろう。」(テモテへの第二の手紙3:1-9)
 

1.偽りの個人預言が教会とクリスチャンにもたらすはかり知れない悪影響

 近年、キリスト教界においてペンテコステ・カリスマ運動の影響を受けた教会において流行している転倒した教えの一つに「個人預言」がある。当時、ペンテコステの最新流行の教えがまるでごった煮のように押し寄せてきていた私の母教会に、なぜか個人預言だけは入ってこなかった。それは今から考えると恐らく、牧師の独裁体制を維持するに当たり、個人預言が不都合と判断されて排除されたためだろうと思われるため、喜ぶべきことだったのかは分からないが、しかしそのおかげで、個人預言のために人生を狂わされるということは私には起きなかった。だが、その教会を抜けたずっと後になって、個人預言のために悲惨な目に遭わされたという人々に出会った。

 個人預言の流行が、クリスチャンの間でしばしばあまりにも大きな弊害を生んでいる現状は今日、誰でも簡単に知ることができる。誤った「預言」を真に受けたために、人生を狂わされたクリスチャンがおびただしく存在していることは教界内で秘密ではない。誤った預言の指示に従ったために、財産を失ったり、職を失ったり、家庭が破壊されたり、離婚に至ったり、人生を狂わされ、破滅を味わわなければならなかったクリスチャンの存在は至るところで報告されている。従って、今となっては、個人預言を積極的に実践している教会でさえ、前もって、「無条件に預言を受け取ってはいけない」などと、受ける側に警告を発しているくらいである。

 ペンテコステ運動の内部からではあるが、ジョン・ビビア氏は偽りの預言に警告を発して述べている、
「今日、教会に、偽りの預言の働きが入り込んでいます。その結果、預言の働きは汚され、本物の主のことばを歪めてしまうところにまで堕落しています。そしておかしなことに、その偽物のほうが本物よりも人気があり、またより人々に受け入れられているのです。このような堕落が教会全体を汚染する前に、今こそ私たちは天からの御声に耳を傾けるべきです。」
(『主は本当にそう語られたのか?』、ジョン・ビビア著、サムソン・パブリケーションズ、2005年、p.38)

 この短い文章からもはっきり分かることは、今、アメリカのキリスト教界内で、本物の主のことばを食い尽くすほどの勢いで偽の預言が広がっており、そのために数知れないクリスチャンが人生を狂わされ、ともすれば、堕落が教会全体に及びかねないほどの危険な状況となっているということである。

 混じりけのない澄んだ水の中に、ほんのわずかな毒物を入れるだけで、その水は人を死に至らしめる。おびただしい毒物が混入していると予め警告されている汚水に、自ら手を伸ばすのは、賢明な策と言えるだろうか?
 結論から言ってしまえば、クリスチャンは上記の警告を真摯に受け止め、今日の教会に働く滅びの力を警戒し、これほどまでに偽りの預言が横行している現在、個人預言というものに安易に手を伸ばすのは絶対にやめた方が良いと私は考えている。たとえ自分をよく知っている人からの勧めであっても、預言と銘打って語られることは全て極めて慎重に吟味する必要がある。まして、よく知りもしない第三者から預言を受けるために集会に駆けつけるようなことは極力避けた方が良いだろう。

 さらに、警戒すべきは個人預言だけではない。たとえカリスマ運動と無縁の教会にいても、指導者が言葉巧みに信徒の未来を思うとおりに操り、支配しようとすることはままある。私が遭遇した福音派のカルト化教会では、私は自分の未来について、不誠実な牧師から何度も嘘を聞かされた。虚言癖の塊であったようなこの人物は、最初から守るつもりのない約束をいくつもしては、私に誤った希望を抱かせた。そのような嘘を語っていた時、その不誠実な牧師は、巧みに私の心の底にある願いを読み取って、それにつけこもうとしていたのだと思う。こういう詐欺師的な偽牧者の中には、ある種の読心術のような不思議な力を持ち、信徒の心に潜む主から来たのでない欲望を巧みに見分け、それにつけこむ能力のある者がいるので注意されたい。

 個人預言をする自称預言者や、信徒の思いを操ろうとする似非クリスチャンの中には、何のトリックも使わずに、恐るべき正確さで人の過去や、現在の思いを言い当て、未来を予見する人たちがいる。彼らが語る内容の正確さゆえに、聞いた人は、その指導者にはきっと、神から与えられた特殊な賜物が備わっているのに違いないと勘違いしてしまう。だが、そのような特殊な霊力は必ずしも神から来たものであるとは限らない。

 使徒行伝には、占いの霊にとりつかれた女奴隷が、パウロの一行を指して「この人たちは、いと高き神の僕たちで、あなたたに救いの道を伝えるかただ」と叫び続けた(使徒行伝16:17)という記述があり、占いの霊の影響を受けた人が、しばしば真理を宣べ伝える力を持っていることが分かる。
 さらに、現代の例を挙げれば、弟子訓練を導入してカルトに至った教会にいた信徒であるコアラ氏が、興味深い告白をしている。カルト化教会の宣教師は個人預言をしており、それにつきっきりで奉仕しているうちに、コアラ氏もいつの間にか、偽の宣教師と同じように、霊視のような特殊能力を持つようになり、集会に集う人たちの過去や現在を見抜くことができるようになったというのである。

「『個人預言』 あれはいったいなんだったんでしょうか。
『霊的賜物の分与の按主』を受けてから、私も、誰かのために祈るときに、ビジョンが見えるようになりました。また、その意味も頭にひらめくようになりました。
祈っている相手は、全然知らない人でも、その光景について、与えられた(頭にひらめいた)言葉を語ると、その人は泣き崩れました。そして、神様の愛に感動しました。」

 偽りの預言を受けた人々は、その内容を聞いて、神の愛に個人的に触れたと感じて、感動して涙を流した。だが、そのようにして個人預言を推進していたこの教会はカルト化という末路を辿り、信徒を搾取しつくして崩壊に至った。そこで、この個人預言だけが、この教会が結んだ他の「実」と異なって、聖霊から来たものだったとみなすことは極めて難しい。これは偽宣教師が持っていた特殊能力の一つとしての、占いの霊であったのではないかと想像される。(しかも考えるとより恐ろしいのは、その能力が「霊的賜物の分与」の按手を受けてから、宣教師から信徒に分与されたということである。)

 人の心を読んだり、その人の過去や現在の必要性、未来に起こる出来事をずばりと言い当てたりすることは、必ずしも、聖霊の賜物によらなくても可能である。それは、空中をうごめく無数の悪霊的存在の影響や、何らかの特殊な能力開発を経れば、誰にでも手に入れることができる程度の能力なのだというくらいに私たちは考えていた方が良いだろう。従って、誰かから語られた言葉の中に、奇跡のような符号の一致を見たからと言って、その言葉がすぐに神から与えられたものであると即断するのは極めて危険である。


2.偽りの個人預言の特徴とは何か

 私自身は、以下に述べるように、昨今キリスト教界に流行している「個人預言」という「ミニストリー」(!?)のスタイルは聖書に反するものではないかと考えているが、とにかく、個人預言というスタイルに、あまりにも偽りが多く混入している現状については、すでに教界内部の指導者から指摘が挙がっている。

 (たとえばアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団では、村上密氏は記事において、個人預言に頼る信仰のあり方を否定的に評価する、「個人預言に傾倒している人の信仰生活は直接啓示を重んじています。これはキリスト教の危機です」。さらに、佐々木正明氏の記事、「しかしなにぶん個人預言と言うものは、祈りと牧会配慮をもって取り扱ってきた個人の問題に、突然、神の名をもって介入して来るもので、牧師の立場からすると、取り扱いに苦慮するものです。個人預言を受けた者が、その預言に疑いを持った場合にはあまり問題になりませんが、問題なのは、その預言を信じ、神からの絶対の導き、あるいは命令と受け取ってしまった場合であり、特にそれが聖書の教えと相反する場合、あるいはどのように考えても、賢い選択と思えないような場合です。」

 ところが、このように数多くの弊害と問題が報告されているにも関わらず、個人預言に対してこの教団は他のペンテコステ系のどのような教えとも同じく、依然として断固たる処置を取っていない。「現行の個人預言の問題を、異端狩りのような取り扱いをするのではなく、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの伝統的な寛容性をもって対処したいと思います」(佐々木氏)と、この教団が個人預言がもたらす悲惨を声を大に警告することをせず、ただ歴史的淘汰に任せていることは悲しい現状である。誤った教えに対して、いかなる「寛容性」がクリスチャンに必要なのであろうか。)

 このように誤った預言の存在がクリスチャンの人生を破滅に陥れていることを重々承知しながら、キリスト教界の多数の指導者が野放図にこの問題を見逃している現状がある。さらに進んで、個人預言のスタイルを積極的に取り入れているペンテコステ系の教会がある。このような事情に鑑みるなら、善良なクリスチャンは、たとえ指導者から警告を受けずとも、自らの判断で、個人預言というものには絶対に近寄らない立場を取った方が良いと私は考えている。
 バプテスマのヨハネの呼びかけた回心、さらに、「ヨナのしるし」、すなわち、イエスの十字架と死と復活の証、そして聖書そのものが私に与えてくれている豊富なみことばという、一生かかっても学びきれない啓示をすでに受けているのに、どうして、その上に、個人の誰かから「主はあなたにこうおっしゃっておられます…」とか、「今、聖書のこの個所があなたのために示されました」などという指南のことばを聞きたいと望む必要があるだろうか。

 人と人との間には、言語的メッセージや、視覚的な情報、社会的立場から来る影響などの他、霊的な力も強く働いている。人は誰かと接触すると、必ずその人の影響を受ける。それが良い影響ならば問題はないのだが、自分の思惑通りに人を振り回したいと考える他人の言動に知らぬ間に影響を受けることも残念ながらある。そういう時には、そこから距離を取って離れる賢明さが必要だ。たとえ神の名を用いて、忠告や助言がなされる場合にも、宗教的な動機にカモフラージュされて、人間的な意図が働く可能性は十分にあるから、自分の大切な人生の領域を、誰か他人の思惑の前にやすやすと明け渡すことにはよくよく慎重でありたい。一度、人の思惑に騙された苦い経験に立って、こう言うのであるが、人の心は何にもまして欺くものであり、他人の心に映る幻に安易に惑わされるようなであってはならない。

 だが、「では、あなたは聖書に書いてある預言の賜物を100%否定なさるおつもりですか? 現代には預言はないとおっしゃるのですか?」と聞いてくる人があるだろう。私は現代に預言が全く存在し得ないとまで言い切るつもりはない。言語的メッセージのみならず、この世のあらゆる事象を用いて、神は人に御心を表すことがおできになると私は信じている。だが、そうは言っても、個人預言を売り物にしたミニストリーが、人間の欲望の殿堂のようになっており、キリスト教界のニュー・ビジネスと化し、多くの信者を誤った教えと人生の破滅へと誘い込む罠と化している現状に目をつぶるわけにはいかない。このような個人預言のスタイルを、到底、正統な預言の中に含むことはできないと私は考えている。
 いずれにせよ、本物と偽物の預言の区別をはっきりさせることが何よりも早急に必要だ。そこで、次の記事では先に挙げたビビア氏の著書なども参考にしつつ、できるだけ偽りの預言の特徴を詳しく挙げていきたい。 

<つづく>

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