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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

キリストという避難所

 クリスチャンのブログを読む人々は、もしかすると、書き手の文章を通して平安を得ることを期待しているかも知れない。だから、平安が感じられない文章を読むと、怒り出す人さえ、ひょっとすると、いるかも知れない。そのような人たちには残念な知らせかも知れないが、キリストにあっての平安を真に獲得するまでには、きっと、私はこの先、かなり困難な時期を経なければならないだろう。正直に書けば、私には未だ平安に安んじることが時折、困難なことがある。私の魂が、波乱に満ちた現実の問題のためにしょっちゅう思い乱れるからである。

 どうか弁解を許していただきたい。もしもキリスト者として信仰の強められた人が、強制収容所に投獄されるならば、彼はそれを信仰のための試練として受け止めることができるだろう。しかし、もし人が生まれて間もなく、はっきりした信仰も持っていないのに、何のためかも分からないままで、強制収容所に投獄されたとしたら、その人の魂は混乱し、人生の意味は失われ、絶望のあまり、死を願うことが度々起きるようにならないだろうか。

 私の人生は後者に似ていた。何のためなのか、それが何を意味するのか、理解できないうちから、試練が始まっていた。そのため、長い間、ただそれにきりきり舞いさせられ、肉的な反応を返すことしかできないうちに時間が過ぎて行った。当時、キリスト者が平安と呼んでいるものの意味は、私には全く分からなかった。通っていた教会の中にも、平安らしきものは見受けられなかった。そこで、私は平安とは、結局、私には手の届かないものであり、永遠に人が手に入れられないもののように思った。また、それは、人々が見たくない他人の現実問題に蓋をし、懇切丁寧に話を聞いてやったり、涙を流す手間を省くために、手っ取り早く持って来て、あるがごとくに見せかけている嘘に過ぎないもののようにも思った。

 だが、神と差し向かいで向き合うようになると、人生が嵐のように荒れ狂う時に、主にあっての平安にどうやって到達するかということが、抜き差しならない問題となって私に迫ってくるようになった。主はこの問題に関して、私が決して生半可な、言葉だけの上っ面の知識で終わることができないように、私を取り巻く現実が、極度に私を苦しめるものとなることをお許しになった。

 すなわち、肉体的・精神的に死が間近に迫っているような環境にあって、人は決して口先だけの平安によりすがることはできないのだ。それがその人を救うことができないのは明白だからである。文字通り、死に打ち勝つほどの力ある答えを持たなければ、決して、切り抜けることができない苦境がある。キリストの十字架と死と復活と、御座につくこと、それらが文字通り現実の力を持って私の前に現れて来なければ、解決できない問題が、目の前に用意された。だから、今、主が私のために用意された環境は、私が完全な答えを見つけるための学課であると考えて良いと思う。

 そこで、今、私は、魂ではなく、霊に従って歩むことによって、理屈を越えた平安、現実を越えた、キリストに源を発する平安に安んじることを学ばされている。だが、その勉強はまだ初歩の初歩の段階だ。だから、その学課を、あたかも悟ったように、獲得済みのもののように言うことは私にはできない。私の歩みはかなり遅々として見えるだろう。かなりぐらついて見えるだろう。私の歩みには思い煩いだけがあって、平安がない、と感じる人もいるかも知れない。いまだにこんな現実問題で思い乱れているのか、何と信仰が足りないことよ、と言う人もあるだろう。けれども、そう見える時があっても、どうか私の乏しい信仰を馬鹿にしないでいただきたい。そして主にあっての兄弟姉妹にお願いしたい、どうぞ私のために祈り続けて欲しい。

「しかし、見えないもののために見えるものを、永遠のもののために現在のものを、天のもののために地のものを、実際のもののために『成功』を手放すには、なんという価値観の変化が必要でしょう!」

 オースチン-スパークスは「人とは何者なのでしょう?」の中で上記のように述べている。私たちが絶望的に見える現実の状況ばかりを見るのをやめて、見えないもの(神の霊によって構築されている世界)に視点を移すことは、口で言うほど易しいことではないことが分かる。なぜなら、そうするためには、見えるものだけに主眼を置いて暮らしてきた私たちの価値観、習慣そのものが転換せねばならないからである。

 従って、見えるものから見えないものへの視点の変化は、私にも、ゆっくり起こるだろう。さんざん現実問題で思い煩っていた人が、ある日、突然、何かを悟って、完全な平安に安息する霊の人に変身するなどということは決して起きないだろう。

 オースチン-スパークスは、エデンでの人の堕落の本質は、人が「霊における神との合一」から切り離されたことにあると分析している。それこそが、人が平安を失ってしまった理由であるだろうと私は思う。
「人の知識と力は本質的に霊的でなければならず、人生の絶対的な主権と頭首権は神のものであり続けなければなりませんでした。霊の関係、霊の器官と機能がこれを可能にしました。」

 しかし、蛇からの誘惑は「人は自分で決定し、自分で所有する、自分ひとりで十分な独立した者になれる」という提案の形を取ってやって来て、それは人の「理性、願望、意志――魂の諸機能――」に働きかけた。人は神に主権を委ねることをやめて、自分の独立した自己決定権を行使し、その結果、神と人との霊的合一は壊れてしまった。

「人に関する神の絶対的な頭首権と主権が排除されました。そして、耳を傾けるべき相手として、サタンに神の地位が与えられました。このこと、すなわち、『この世の神』となることが、なにものにもましてサタンが欲していたことでした。」

 話が脱線するのを許して欲しい。私自身は大の音楽好きにも関わらず、音楽にさえキリスト者にとっての危険が含まれていると再三に渡り、警告してきたのは、この世のものに「耳を傾ける」ことの危険が、今、音楽を通して世間に広まっていると感じるからである。時を追うごとに、この地上のものは全てサタンによって、よりひどく汚染されつつあるように見受けられる。文化そのものが汚染されつつある。150年以上前のヨーロッパの婦人たちの服装と、今の娘たちの流行の服装を比べてみればよい。TV番組も数十年間のうちにどれほど著しく変質しただろうか。20世紀初頭には、人類を幸福に導くと多くの人によって信じられていた科学技術が、人類を何度も死滅させるほどの威力を持ったのはなぜだろうか。地上的なすべてのものと同様に、音楽も時代と共に変質しつつある。

 私たちは今、バッハやモーツァルトを聞かなくなり、どのような思いで作られたのかも分からない、場合によっては、演奏者も不明、作者すら不明の音楽を、まるでヘビースモーカーが煙草を手放せないように、ひっきりなしに吸収し続けることに慣らされている。一人きりの世界に閉じこもって、音楽を聴くことに対する全社会的な中毒症状、快楽としての音楽に対する中毒症状、これに私はどうしてもまがまがしいものを感じずにいられないのである。
 それは、何かしら自然でない音楽の楽しみ方である。手ずから楽器に向かって根気強く練習し、日が傾くのを感じながら、人と楽しく連弾したり、協奏したりして、平和に毎日を人と共に過ごして楽しむのではなく、一人でイヤホンをかけて、出所不明の音楽の刺激に手っ取り早く、次々と身を任せることによって、ひっきりなしに刺激を得、五感の興奮を煽り、それがなければ、もはや居ても立ってもいられなくなる…、そんな中毒症状が、当世風の時間の過ごし方として、全社会的に奨励されているのである。これは明らかに何かがおかしいのではないだろうか。

 だが、このようなことを言うと、極端な保守主義者、禁欲主義者のレッテルを貼られ、きっとひどい反発を食らうであろうから、今は音楽の問題はこれで終わりにしておこう。そして、先に述べた家庭の問題に戻ろう。このことについて、私はこれまで様々なキリスト者に相談を持ちかけてきたが、役に立つ助言はあまり得られなかった。大概の助言は、赦しなさいとか、平安の中にいなさいとか、問題から離れなさいとかいった漠然としたもので終わっており、具体的に役に立つものではなかった。

 今、改めてこの問題について考えてみよう。たとえば、もしも家庭が恒常的に暴力にさらされる危険な場所となってしまった場合、キリスト者はどこに避難して安らぐ場所を求めるべきなのだろうか。緊急に、現実的な答えがこれに必要となるだろう。DVに対する社会的取り組みについて、ここで議論するつもりはない。キリスト者として、この問題にどう答えるべきかを考えてみよう。
 家庭に問題を抱えた多くの人たちが真っ先に取る反応は、その悩みから逃れるために、世の中に逃げて行こうとすることである。どこかに居場所がないか探しながら外に出て行き、できるだけ、問題のある家へは戻らないようにする。一見、それは合理的な策に見えるだろう。家庭から独立したように見せかけて「静かな家出」を決行する大人たちもあるし、10代や20代の青年達の中には、もっと性急に家出をして、夜の街にたむろし、闇の世界の食い物にされていく者もある。

 だが、私はこの問題に対して、主にあって、きっぱりした答えを得なければならないと思う。その答えとは、地上にはキリスト者の居場所は無いという自覚を心底から得るというものである。そんな残酷な返事が人に希望を与えないのは分かっている。いたいけな子供達に家庭の暴力の犠牲となって人生を終われというのか、居場所はないという答えに甘んじて、どこにも逃げるなと言うつもりかという返事が返って来るだろう。そうではない。 

 私たちが逃げる場所は、この世のどこそこにはなく、ただキリストの御許にのみある。この世の問題から逃れるために、神の御心が何であるのかを探ることなくして、あれやこれやの人知による策を駆使して、あちこちへ逃げ、ひたすら自己決定権を行使するのをやめること、そして、ただキリストの御許に居場所を求めて身を投げることが何より先決である。

 世の中の人々は、私たちが何か深刻な問題を抱えていることが分かると、お節介な助言を始めようとするかも知れない、「あなたはどうしてこの策、あの策を講じないのですか。」「あの方法はもう試してみましたか。これをしないのはなぜですか。」
 これらの助言は、私たちが問題から逃れるために、キリストの頭首権に服し、自らの主権を神の足元に投げ出すのでなく、むしろ、私たちが自分の頭で早急に色々と対策を講じ、自己責任の下で、良質と思われる策を次々、行使することを求める。それらはまことにもっともらしい助言なので、聞いているうちに、問題がいつまでも解決しないのは、私の努力が足りないせいなのだと感じさせられ、何やかやの策を実行すべきだとの焦燥感に駆り立てられ、また、それを実行しないで来たことへの罪悪感さえ感じさせられるだろう。

 これらの助言の中で最も数多く聞かれるのは、「問題ある現場からは逃げなさい。なぜあなたはその場所から離れるために具体的な策を講じないのですか」というものだった。しかし、それらはただ「離れなさい」というばかりで、どこに逃げれば、確実に安全になるのかという問題にはついぞ答えてくれなかった。従って、このような無責任な助言を実行に移しても、その最終的な結果は全て自分の身に負わなくてはならなくなるのは明白だ。安全な逃げ道が分かっていないのに、闇雲に逃亡するのは、さらなる危険である。もしも誤った場所へ逃げていけば、そこで起こる悲劇をさらに背負わなくてはならなくなるからだ。

 このような助言を数多く受けているうちに、私はそれが(少なくとも私の人生にとっては)何の解決にもならない偽りであると分かった。どこへ逃げても、時間稼ぎにしかならない。逃げても、問題は解決しない。逃げれば、問題はただ追って来るだけである。私たちは、自分を神の主権から離れさせ、自己責任という重いくびき(地上的、サタン的くびき)を負わせて、あちらこちらへと彷徨わせるような助言に、耳を傾ける必要はない。「自己決定権を行使して、自分が正しいと思う策を早急に実行に移しなさい。もし対策を講じないならば、あなたが破滅するのは自己責任である」という考え。それは人を神から引き離そうとしてきた悪魔の常套手段である。

 大体、自己責任という言葉はどこから生まれて来たのか。自己決定権を大胆に行使して、その結果起こることすべてを自己責任として従容と受け入れるようにという考え、「欲するものを大胆に何でも取りなさい。その代わり、結果を自己責任として身に負いなさい。あなたが何も対策を講じないから、問題は良くならないのだ」という考え。それこそサタンの誘惑ではないのか。

 キリストは、人に自己責任を問われなかった。神が人に求められたのはただ御心に従うことだけであったが、それすらできなかった人間が負うべき責任も、キリストはご自分が率先して十字架上で負われたのである。その時、人の自己責任という概念、つまり、人が自分の人生に対して最終的な責任を負わなければならないという考えは、キリストと共に死んだ。キリストは、ご自分こそが人にとっての最終的な解決であり、避難所であることを示されたのである。問題に遭う時、あちらこちらへ逃げていくのではなく、あの手この手を講じようとするのでもなく、自分のもとへ来なさい、そこに最終的な解決があるから、と主は言われたのである。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30) 

 これは、苦労している人たちが、教会の門をくぐって、毎週の日曜礼拝に集って涙ながらに祈るべきだとか、牧師や神父のカウンセリングに早急に予約すべきだという意味ではない。文字通り、重荷を背負っている人たちは、キリストのおられる場所へただ行きなさいということを意味している。それは見える教会のことではなく、あれやこれやの地上的な場所のことでもなく、キリストという目に見えない場のことである。目に見える教会に所属していながら、キリストのもとにいない人々も存在するが、それでは本末転倒である。
 家庭内問題で苦しんでいる人たちにも、逃れ場はただ一つしかない。家庭の外に行けば、私たちの逃れ場があると安易に考えるべきではない。(もちろん、私たちが御心によって危険な場所から連れ出される場合はあるのだが。)忘れてはならないのは、対策が私たちを救うのではないということ、私たちにとってのまことの避難所は、ただキリストだけだということである。

 続きは次回にしよう。


 

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