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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

主に足を洗っていただく

なかなか落ち着いて記事を書けない日が続く。実生活で起こっている変化に対応するので精一杯のため、内容ある記事をまとまって書く余裕がないのだ。
まず、愛犬、天に召される。もっと長く生きて欲しかったがそうはいかなかった。振り返って悔やむことが多いが、主が与えて下さった最期のひととき、幸せを満喫できたことに感謝する。続いて、新しい仕事が始まる。
カルト化教会での体験以来、特に、私の寛容度のメモリー容量が少なくなっており、日常生活の些細な変化にも圧迫を感じ、周囲の心ない言葉に過敏に反応していると思うことがある。特に、カルト化教会での体験については、周囲にはそのような現実を分かち合える人がいないため、発言には慎重にならねばならないのだが、かといって、感情は思うようにコントロールできず、言ってはいけない人に過去の体験を語り始めようとする衝動に駆られ、それを制するのに苦労する。本当に、カルト化教会のようなところで起きる異常な体験については、語れる相手が極めて限られてしまうのは無理ないことだ。だが、そのために、日常生活においては、果てしない孤独を感じさせられることが多い。

戦争が起こったのなら、身内を亡くした人はその悲しみを誰にもはばからず語ることができるだろうが、宗教団体に苦しめられた経験のある人々が、その痛みを他人に語ることはまだまだ難しい社会だ。そんな悪しき宗教団体にひっかかった方に警戒心がなさすぎたのでは?、という固定概念さえある。確かにそのような面もあったことは否めない。真の信仰がその頃あったなら…。その上、クリスチャンがキリスト教会で苦しめられたなど、世間では冗談としてしか受け止められないのではないか。これは教界の被害者の誰しもが味わわなければならない苦悩の一つだろう。

そんな時、主が私の足を洗って下さるということの意味を考えさせられる。
私は黙って主に自分の足を差し出すということをどうやら随分と苦手としているようだ。現代人は毎日のように、「自分がやらなきゃ、自分がやらなきゃ」という思いに駆り立てられて生きている。一時も立ち止まることのできず、息継ぐ間もない自転車操業のような人生に追い立てられ、疲れ切っている人がほとんどだ。大量失業によって仕事というレールを失っても、まだ曲芸のように空中を走り続けるしかない哀れな人々も多いことだろう。身内の不幸などがあって、悲しみと痛みでいっぱいになっている時でさえ、まだ何とかして自分の力で周囲に自分を理解してもらおうと、言葉を尽くして説明しようと、無駄にもがくことをやめられない。
そして他人から理解されることに失敗すると、自分の説明の仕方が悪かったせいだとくよくよ考えたり、無言のうちに、おまえは愚痴ばかりだからつきあいきれんと責められているような気がして、憂鬱になったりする。

現代社会はとにかく人を急かすことを大得意としている。あらゆる組織が人員の力を最大限に活用してやろうと待ち構えている。肉親さえもいつの間にかそのような目線に立って、相手を利用しようと思って自分の家族を見ていることがある。自分の力を上手く発揮できず、周囲の人間の期待に応えられない不器用者は、社会生活のレールから放逐されて当然という思い込みがある。この自分がやらなければ誰がやるのだ、自分が、自分が…。その恐怖が、立ち止まりたくても、人を立ち止まらせてくれない。

そんな中で、イエスは弟子たちに「早く働け」とは言われなかった。弟子たちの足を自分で洗ってやろうと、イエスは両手で水をすくって静かに待っていて下さったのだ。一体、いつになれば、彼らが動きを止めて、静かに主に心を向けるのかと思いながら…。
「私はずっとあなたを見ていたんですよ。あなたを休ませてあげようと思って、あなたをきれいにしてあげようと思って、私の愛をあなたに注いであげようと思って。でも、あなたは忙しく立ち働くばかりで、少しも私の心に気づいてくれませんね。やっとこっちを見てくれたと思っても、いつだって用事のことで心が一杯で、すぐに顔を背けてしまう上に、もしも私があなたに『足を洗ってあげましょう』と言おうものなら、恐縮して首を振って、後ずさっていくばかりです。『主よ、いくらあなたのご命令でも、こんなに汚い足をあなたにお見せするわけにはいきません。御心ならば、賛美歌を歌ったり、聖書を読んだり、友とあなたについて語るために出かけていくことなら喜んでできますが、この汚い足をお見せすることだけは、どうかご勘弁ください』と言ってね。

 いつあなたがその考えを変えてくれるかと、私はここでずっと待っているんですよ…。考えてもみて下さい、私はいつでもあなたを裏切ったり、寝返ったりする人間の一人ではありません。あなたの足が汚かったからと言って、だから私がどうするとあなたは思っているんです? たとえ人間であったとしても、夫婦のように、家族のように近しい人間であれば、あなたがその相手に、自分の足さえも、欠点があるからと言って、断固、見せようとしないとしたら、それは侮辱になるのではないですか? まして私はあなたの創造主なんですよ。あなたの言うその『汚い足』とやらも、そもそも私が創ったんですけどね…。
 いつになったら、あなたは私を信用してくれるんですか。いつになったら、自己卑下をやめて、私に黙って足を洗わせてくれるんでしょう? いつになれば、今のあなたのやり方よりも、私のやり方の方がずっと良いということに気づいてくれるんでしょう? あなたがそうやって謙遜と傲慢を取り違えている限り、あなたは私からの恵みを受け損なっているんですよ…。

 しかも、悪いことに、そういう考え方が改まらない限りは、あなたはあなたに最小限の命令しかせずに、喜んで最大限あなたに仕えようとしている私を退けて、むしろあなたに理不尽な命令ばかりする誤った神々について行って、貴重な人生をさらに失うんです。そういうあなたの心の根底にあるのは、きらびやかで傲岸なものに対する憧れと、真実、地味で謙遜な者に対する見下しの感情なのです。

 さあ、あなたの足を見せなさい。傷だらけになって、泥だらけになったその足を見せて、私をあなたに仕えさせなさい。あなたの失敗だらけの人生に、完成者である私を仕えさせなさい。この傷も、このしみも、私があなたにあげた足で、あなたが色々な道を歩いてきたことの証ですね。私はあなたの苦労を知っていますよ、あなたがいつ溝に落ちて怪我をしたかも、誰に騙されて道を誤ったかも、私は知っています。その取り返せない損失と、痛みの大きさを私は知っています。だからこそ、あなたが私に人生を委ねれば、私がその痛みを軽くしてあげられるんです。今までは転び、まろびつの人生だったでしょうが、私と共にいれば、無用な痛みを味わうことはもうありません。私だけがあなたの足を拭ってやれるんです。なぜならこの全世界、全宇宙の中で、私以上に謙った存在はないからです。あなたを取り返すために、私以上の犠牲を支払った者は誰もいないからです。私と共に、私の掟のうちを歩むなら、道を行く苦労そのものはなくなりませんが、あなたの行程はもっと生きやすくなるはずです。私は人を迷わせて罠に落とすために道案内をする悪人とは違います。もう迷うことはありません、自分の考えを捨てて、私と共に来なさい、私自身が道なのです」

約2000年前、神であったのに死を味わったばかりでなく、
人のために、人として死んだ神がいた。
雷鳴とどろくようなこの事実の驚きを、私は何とあっさり忘れてしまうのだろうか。
誰もが自分の栄光を現そうと余念のないこの社会において、自ら栄光を捨てた者のことを誰が覚えていよう。
それは謙遜という土にまみれた、人の目にはくすんでみすぼらしい、隠された宝なのだ。

主に足を洗っていただくということは、主の御手でこの死人のような私に触れていただき、洗いきよめていただき、私は主にとって貴い人間だと言っていただくことだ。それは私が優秀な労働力としての力をこの世で発揮したからでも、器用に世間を渡って行ったからでもなく、ただ何もせず、いや、何もできずに、主に身を委ねているから、主からそのようなことばをかけていただけるのだ。このような発言を私はどれほど心の底から待ち焦がれているだろう。
なのに、朝が明けるとその瞬間からもう、私は自分で何かをせねばとの強迫観念に取りつかれている。そして自分が何もしないうちに、報酬をもらえると思うなんて甘い、という思考になっているのだ。「天は自ら助ける者を助く」、「働かざる者食うべからず」と言うじゃないか…。周囲の人々がその思いに追い討ちをかける。「ねえ、あなたまだ何もしていないの? ほら、早く動かなくちゃ、良い仕事が逃げちゃうわよ。豊かな生活が必要なんでしょ、成功が必要なんでしょ、ほら、早く、早く」と迫ってくる。「うるさい! だから、今やってる最中じゃないか! 急かさないでくれって言っているじゃないか! もうこのスピードが限界なんだよ」 こうして、誰が何かをしたか、しなかったかという、ろくでもない事柄をめぐって延々と議論が続く。

まったく馬鹿らしいことだ。重要なのは少しもそんなことではないというのに。どうせ聞くならこのような質問にすれば良い。「あなたは今日、主に黙って足を差し出し、洗っていただきましたか? 顔を洗うよりも前に、布団をたたむよりも前に? あなたが手を伸ばすよりも前に、あなたに向かって手を伸べて下さっている主に心を向ける時間はありましたか?」
大体、立ち止まりもしない人に、足を洗ってもらうなどということができるはずがない。
日々、十字架の前に己を差し出し、隠された宝を発見すること、それだけが、果てしない栄光を求めて、無数の人々がもがく蟻地獄のようなこの世で、魂を失わずに安らかに生きて行く方法なのだ。自己の業と知恵に頼り、自分で自分に栄光を帰そうとする虚しい所業に加わるのはやめよう。

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