忍者ブログ

私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

エクレシアと主の再臨

昨夜、電話である方と交わりをさせていただいた。かなり遅い時間であったため、かけてよいか一瞬、迷いが生じた。だが、その方はエクレシアのために時間を空けておられ、交わりを求める私の願いに応じる準備ができていた…。

 地上の距離に関わらず、交友関係の有無や深さにも関わらず、主が働かれるところでは、どこででも交わりが成立するのだと思い知らされた。これが本当にエクレシアというものの不思議だ。けれども、残念ながら、会話のすべてをここに書き記すことはできない。なぜなら、私には消化できていない内容があるからだ。

 大体、このブログも含めて、私はいつも地上の言葉を使って語っている。私は人間側からものを見ることに慣れすぎている。それが、私には多分、一信徒としての証はできても、メッセージは語れないと感じるゆえんだ。メッセージは神の御言葉を取り継ぐのだから、そこでは人間臭さは本来、ふるい落とされているべきなのだろう…。

 それにも関わらず、近頃、近くのNPO法人の部屋を借りてでも、交わりの場を提供し、主について語り合う時間を持ちたいとの願いが、どうしようもなく心に起こってくるようになった。この私が、何を語れるのか? よく分からない。一体、誰を呼び集めるのか? 一人としてあてがない。にも関わらず、主について、とにかく誰かと共に恵みを分かち合いたい、語らずにいられない衝動が、最近、内側から起こってくるようになった。

 孤独が高じて、人恋しさが募りすぎて、ついに気がおかしくなったのか?
 きっとそうではないだろう。これが交わりとしてのエクレシアを求める願いなのであり、それは主が私のうちに植えられ、主が働かれるゆえに生じたものなのだと思う。何しろ、それは私の魂からは生じるはずのない願いだからだ。
 信徒の交わりという言葉でさんざん裏切られ、人の集まりに完全に絶望してしまった私の心には、欲得ずくめの願いでなければ、ただ虚無感があるのみで、エクレシアであろうが、教会であろうが、交わりを求めようとの願いは、完璧に死滅していた。それが復活したのは、私自身によるのではない。

「私は色んな組織や団体から排斥されて、ついに地上的な組織の中にはどこにも属する場所がなくなり、今は牢獄に入れられたように、社会から隔離されています」、と私が言うと、
「ああ、そりゃ、良かったじゃない。おめでとう!」との返事が受話器の向こうから返ってきた。
 馬鹿にされているのか? いや、そうではない。

「いかにイエスの十字架が軽いといえども、この状況では、苦しくて音をあげたくなる時があります。永久に私はこのままなのだろうか、そんなことには耐えられない、何とかして名誉挽回したいし、人並みに楽しんで幸福な人生を生きていきたい、まともな職業や、まともな家庭や、車や、財産や、色々な誇るべきものを持ちたいと思わずにいられないのです…。人からどんなに蔑まれ、どんなに貧しく、どんなに惨めな境遇にあったとしても、ただ黙って耐え続けるのが十字架なのでしょうか?」と私。

「気持ちは分かりますよ、でも、そこで自分をごまかして、つまり、自己弁護しようとしてはいけません。サタンは私たちが肉なる自己にしがみつき、肉を立てようとするのを待っているのです。けれども、キリストにならう道とは、馬鹿にされ、誤解され、あざけられ、軽蔑される道なのです。私たちは肉体を持っているとはいえ、すでに肉に死んでいます。私たちの命はすでに死んで、キリストと共に神のうちに隠されているのです(コロサイ3:3)。神のうちに隠されている、これはいわば、墓の向こうで生きるようなものなのですよ。」

「それじゃあ、私はすでにこの世とは別次元で生きているようなものだということですね。だから、この世からはたとえ死人のようにみなされていても仕方がないし、むしろそうあって普通なのだと」
「そうです、この世に対しては死んで、隠された命を生きているのです。自分を祭壇に横たえ、本当に死んでしまえば、敵ももうそれ以上、あなたを攻撃できないのですよ」

 会話は、キリスト者はイエスにならって、十字架、死、復活、キリストと共に御座につくこと、それらを経験しなければならないという運びになった。私は自分の名誉回復をいまだに願ったりしている時点で、本当の意味では自己の死さえ完了していないのかも知れない。
 今後、馬鹿にされようと、蔑まれようと、浮浪者のようにみなされたとしても、自己を立てようとはもう思うまい、と決意を新たにした。私の名誉回復は、主が再臨されるときになされるのだから、それを信じれば良いではないか。

 また、私たちの戦いは血肉に対するものではない、だから、真の敵は人間ではないということが、歩みを進めるに従って、もっとはっきりと分かって来るだろう、との話であった。そうなれば、もはや肉なる人間に対する憎しみや恨み、怒りなども、持ちようがなくなってくるのだと。
 
 イエスが再臨されるのは、地上に神の花嫁たるエクレシアが整えられた時なのであり、そのエクレシアは今、着々と準備を整えている。私たちには今、見えてはいないかも知れないが、主は信じる者をすでに各地で起こされ、その居場所に関わらず、細胞同士を不思議な方法で結び合わせるように、キリストの身体を作り上げようと、キリスト者を今まさにつなげようとなさっておられるのだ。

「あなたはキリストを産んだマリアと同じ重大な使命を今日、担っているのですよ。あなたの腹から生ける水が川々となって流れ出る、これはあなたからキリストが生み出されるのと同じです。キリストはあなたのうちにおられるのですが、あなたを通して、キリストの命が川のように流れ出て、他の人たちを潤すようになるのです。
 日々、自分の十字架を背負うとは、楽しいことばかりではありませんから、チャレンジです。自分にはできないとの恐れが生じるでしょう。けれども、キリストが責任を持って成して下さるのですから、従うことは可能だと信じるべきなのです。あなたが言うべきはこうです、『御心のままになりますように』」

 今、主の花嫁として姿を現しつつあるエクレシアは、きっと世からは隠されるだろう。それは唯一正しい真の教会として大々的に自己宣伝することもなく、何らかの運動として華々しく旗揚げしたり、決起することもなく、打ち捨てられたような人々の、人目につかない集まりとして、ひっそり続いていくだろう。
 イエス・キリストが、小娘と呼ばれてもおかしくない年齢の、庶民のマリヤを母として、ナザレの田舎の馬小屋で生まれられたように、今日のエクレシアも、人里離れた、半ば世から捨てられたような人々の中で、ひっそり整えられていくのだ。
 どこかのファンダメンタル・クリスチャンが主張しているように、ユダヤ人の全てがイスラエルに帰国すれば、主が再臨する、などの話は、全て肉的次元の作り話でしかない。

 この終末の時代にあって、神の花嫁たるエクレシアの婚礼への準備を目の当たりにしているとは、何という幸いだろうか! この壮大なドラマの立会人になっていることだけでも、どれほどの恵みか分からないというのに、自らがエクレシアの一員として、エキストラとしてではなく、このドラマに欠かせない人物として呼ばれているとは、何という信じがたい幸福だろうか!
 終末の時代を生きていることを、初めて幸福だと感じた。

 多分、この世では、私にはこの先、エキストラの役さえも回っては来ないような気がする。出世することもなければ、有名人になることもないだろう。一生のうちに一台の車も買えずに終わるかもしれないし、念願だった著書も発行できずに終わるかも知れない。だが、そんなことが何だろうか。

 ある人は、あきらめが早すぎると責めるだろう。まだ若いのだから、もっと貪欲になって、欲しいものを大胆につかめと言うかも知れない。しかし、私にはどうしてか、昔から、神が選ばれた人たちは、何らかの方法でこの世から(霊的にだけでなく)物理的にも隔離されていくような気がしてならないのだ。キリスト者として歩みを進めれば進めるほど、この世との接点はますます少なくなっていくことだろう。にも関わらず、この世に死ねば死ぬほど、この世のつながりとは別に、真の生きたつながりがどこかから現れてくるのだ。

 私も信じよう、主がもし私に苦しみを与えられるならば、それを耐えることは、私にとって喜びとなるだろうと。なぜなら、その試練は主が許されなければ生じないものであり、そのような状況にあってさえ、人が神に賛美を捧げる姿を、神は喜んで下さるのだから。

 この世の勝利とは異なる霊的次元の勝利の物語がある。そこでは、神はわざわざ、貧しく、取るに足りない、打ち捨てられた、この世の敗者のような人間を選ばれ、彼らに十字架を負わせ、信仰の証とされようとしている。いや、取るに足りないどころか、ザアカイのような不正と挫折の道を歩んで来た、完全に戦力外の私を呼んでおられるのだ。
 アベル(義人)を通してカイン(罪人)をも救われ、ヤコブを通じてエサウをも救われ、アダムを救うために、人となって地上に来られた神。主のなさることの不思議の前に、ただ黙って頭を垂れることしかできない。そしていつか、私自身も、世を愛されるがゆえに、世の人々のために命まで捨てられたキリストの愛と、同じ愛の深さにまで到達し、キリストの負われたくびきにならうことができればと願う。
PR