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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

すべての罪咎を覆われる主

「わが敵よ、わたしについて喜ぶな。
 たといわたしが倒れるとも起き上がる。
 たといわたしが暗やみの中にすわるとも、
 主はわが光となられる。
 主はわが訴えを取りあげ、
 わたしのためにさばきを行われるまで、
 わたしは主の怒りを負わなければならない。
 主に対して罪を犯したからである。
 主はわたしを光に導き出してくださる。
 わたしは主の正義を見るであろう。
 その時『あなたの神、主はどこにいるか』と
 わたしに言ったわが敵は、これを見て恥をこうむり、
 わが目は彼を見てあざ笑う。
 彼は街路の泥のように踏みつけられる。<…>

 だれかあなたのように不義をゆるし、
 その嗣業の残れる者のために
 とがを見過ごされる神があろうか。
 神はいつくしみを喜ばれるので、
 その怒りをながく保たず、
 再びわれわれをあわれみ、
 われわれの不義を足で踏みつけられる。
 あなたはわれわれのもろもろの罪を
 海の深みに投げ入れ、
 昔からわれわれの先祖たちに誓われたように
 真実をヤコブに示し、
 いつくしみをアブラハムに示される。」(ミカ7:8-10,18-20)
 

 最近になって私は、かつて経験した不義なる事件について、神ご自身がこの先、公平な裁きをなして下さり、私の名誉と損害を最後まで回復して下さることを切に願うようになった。私自身も主の懲らしめを身に背負ったが、義に飢え乾く者は幸いである、という御言葉に従い、私自身の義ではなく、神の義が全地に輝き出ることを心から願う。そうなって初めて、この事件は本当に終了したと言えるだろう。

 失われた幸福が取り戻される日が近いだろうという予感がする。以前、悲しみのあまり、味も、匂いも、何も感じられなくなったことがあったが、今は、全ての感覚が新鮮だ。主はこの先、私の人生にどんな不思議な御業を成して下さるのか、期待が膨らんでいるので、どんな些細なことにでも、子供のように喜んでしまう。エクレシアの仲間と会える日が待ち遠しくてたまらない。期待が募るので、心落ち着かせて、記事を書くのが難しい。

 一昨日より、エクレシアと主の結婚について、聖書に書かれている壮大なドラマを思い巡らしていた。そこには一筋縄では行かない出会いと、別れ、また再会がある。聖書に見る神の花嫁たる民は、決して、挫折抜きに歩んできた品行方正な乙女ではなかった。むしろ、夫ある身でありながら、遊女のように偶像に身を売り、神を裏切って歩んで来たのが、花嫁たるイスラエルの民だったのだ…。なのに、神は失われた花嫁を愛され、どこまでも探し、尋ね求められたのだ…。

 過ちを犯し、神から遠く離れた経験のない人もいるだろう。絶体絶命の窮地を経験せず、魂の暗闇を通ったことのない人もいるだろう。もしもつまづきなしに歩めるならば、それが理想かも知れない。
 けれども、罪を犯し、神から遠く離れ、また神の助けを全く失ったように思われるその瞬間があればこそ、私は、己の限界を知り、罪を赦される神のあわれみの深さ、失われた者を尋ね求める主の熱心さを知ることができた。だから、今となっては、私は自分の過去を悔いていないし、すでに罪赦された以上、誰にも引け目を感じる必要がないと思う。

 人のどのような歩みにおいても、ただすべての咎を覆う神の愛があるだけだ。
 放蕩息子にも、その兄にも、同じように神の愛が注がれる。罪人も、義人も、ともに神の祝宴にあずかることができる幸いが与えられている。
 そこに人の運命の不思議がある! 神の知恵のはかりがたさがある!

 天国というところでは、恐らく、人の全ての過去の傷が愛によって覆われているのだろうと想像する。地上において、どんな歩みをして来た人も、互いに誇りあうようなことはなく、誰もが謙遜な自覚を持ち、他人の過去に対して、深い共感を持つことができるだろう。

 人はそれぞれに異なった運命を背負っている。それだからこそ、面白い。それだからこそ、愛しいし、貴い。クリスチャンが歩むべき統一的な生活の型というものを私は考えたくない。特に、品行方正や挫折のなさをクリスチャン生活の模範として振りかざす人々には、私は正直、うんざりしているのだ…。それは、その人たち自身にとっては、恵みかも知れないが、自らの体験を規範化して、他人にまであてはめようとする必要はないだろう。誰もが自分のようでなければならないと考えて、自分の体験談を統一的な物差しとして万人にあてはめようとする行為は、はっきり言って、あまり美しくないと思う…。

 間違いを犯したくなくとも、間違ってしまうのが人間だ。カルトも、人間社会の一つの形態だと私は思っている。それは人間がどれほどの幅と奥行きを持っているかを証明する一つの要素に過ぎない。

 実際に、カルトを経験した人に聞いてみれば分かることだが、カルト社会にはただ悲惨があるだけではないのだ。そこには尽きせぬドラマがあり、興味深い人たちがおり、信じられないような様々な貴重な出来事が隠されている。
 人間学、という観点から見れば、何一つ、参考にならない経験はない。それに、どんな事柄の中にでも働かれるのが私たちの主なのだ。
 私たちの視点から見れば、それは「あってはならない事」にしか映らないかも知れない。だが、神の視点から見れば、人の過去や現在の生き様は、その人の救いとは関係がない。救いはただ神の一方的なあわれみによるのだ。「あってはならない事」の中にも、主の御手は働いている。だから、狭い人間的な思惑に視界を阻まれて、浅はかな善悪の概念を振りかざして、安易に人を断罪しないように気をつけたい。

 人を創られた神は、どんな人生の中にあっても、働かれる。神が創られ、神が負われるのだ。だから、あなたの過去がどんなものであったとしても、一旦、十字架で自分に死んだなら、それをいつまでも恥じる必要は全くない、それを負われるのは神なのである。

「ヤコブの家よ、
 イスラエルの家の残ったすべての者よ、
 生れ出た時から、わたしに負われ、
 胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、
 わたしに聞け。
 わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、
 白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。
 わたしは造ったゆえ、必ず負い、
 持ち運び、かつ救う。」(イザヤ46:3-4)

 イエスが下さる十字架は軽く、負いやすい。白髪となるまで持ち運んでくれる神を信頼しよう。
 

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