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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

この世に生きることに伴う重い責任

『レフトビハインド』ようやく読破。批評する目的で読んでいるのだが、全く何という長い話だろうか…。一巻が400ページもある上に、シリーズものとして十巻くらい(?)続いていくのだ。やれやれ、この物語について私が何かはっきりしたことを言えるとしたら、それは随分先のことになりそうだ。現在は、『トリビュレーション・フォース』の真ん中あたりだ。

最近、ブログを書くことの意味を改めて問われている。カルト化教会での悲惨な体験の後、私なりに記憶を整理するため、そして間違った教えに対して警鐘を鳴らすために情報を書いてきたが、そのような守りの姿勢でブログを書く時代が終わりつつあることを感じる。
今、(特に私に)求められていることは、「攻め」の姿勢だ。
だが、「攻め」とは何か? それがまだよく分からないので考えている(なんともふがいないような話だが)。

ブログというのは、どうしても一方的な情報発信となってしまいがちだ。特に、これまで書いてきた内容が、ニッポンキリスト教界について警告を発することを目的とした記事が多かったため、目を通していただくだけで意味があると思って来た。

だが、今までは十分と思って来たこの一方的な情報発信が、最近、私自身にとってはあまり実りにならず、かえって弊害も多いことが分かって来た。ネット上で幾人もの優れた管理者と出会わせていただいたことはありがたいことであったが、第一に、読者との真の交わりが発生しないこと、これはやはりネットの大きな欠点であると言わざるを得ない。ネットにおいて真の交わりを保っている人があるとすれば、それは必ず現実世界での交わりを基調としたものであり、その逆はほとんどあり得ないのだ。
しかも、一方的に何かを主張するというのは、主張する側にとっても実は楽な部分があり、受け取る方にも多分楽なのであろうが、これは一種の「手抜き」であり、人と人との迫真の交わりからしか得られない大きな教訓をどちらも学び損なっていることを意味する。

私は研究の世界に身を置いていた頃から、しきりに文章を書くことに専念してきたが、そろそろ、実生活主体の生き方に転換しなければならないと最近、つとに思うようになった。キリスト者との交わり(そうでない人々との触れ合いも含めて)とは何なのか。そのことをもっと考えていかねばならない。今後、それが私にとって「攻め」の内容の一つとなるだろう。

さて、前の記事にペットのことを書いた。犬という生き物は地に足をつけて生きるものとして、極めて人間と行動範囲が似ている。このようなペットとの別離は、人間との別離と同じくらい、飼い主に大きな衝撃を与える。
私自身はというと、実は、哺乳類よりも鳥類愛好家なのだ。我が家の犬は家族が飼い始めたおかげで私も大いなる幸せを体験させてもらってきた。だが、それとは別に、鳥類の生活パターンや、意識の範囲には、とても独特なものがあり、鳥と心を通わせる不思議に私は心惹かれるのだ。
ある人はネズミを飼っていたり、トカゲや蛇を飼っていたりする。そんな心理は、多くの人たちには不可解であろう。犬猫は哺乳類であり、元々人間に近いので、感情が触れ合うのは自然のことだが、鳥と触れ合うためには、人間が鳥の世界に近づかなければならない。ここが哺乳類以外の動物を飼う醍醐味なのだと私は(勝手に)思っている。

私はこれまで結構、たくさんの鳥を飼ってきた方だろう。飼い主としては失格と非難されて他ないような別離も経験した。鳥の体調不良による死、事故死、自然死…、いくつかの死を見てきた。中には大きな悲しみとなった死もあった。だが、私はそんな重い別離を乗り越えた後、命というものは永遠なのだという確信をより一層強めるようになった。別離の寂しさがそれで完全になくなるわけではないが、生きているうちに心を通い合わせることのできた生命存在は、死を超えてなお、不思議なつながりによって、霊的つながりを毎分、毎秒、保ち続けることができるように私には思えてならない。

それは、キリストの中で、あらゆる生命が一つに結ばれているためかもしれない。その確信が強まるにつれ、死というものへの恐れは減っていき、与えられた生命の長さを、人間的な思いで何とか一瞬でも長くしようと焦る気持ちがなくなり、全てを主に委ね、主に最善の方法でコントロールしていただこうという信頼が生まれて来る。焦りと、独占欲が消えると、よりすっきりした透明な心で、与えられている現在に目をむけ、今を楽しむことができるようになる。

だが、不思議なことがある。霊魂が目に見えないものであるのだから、生命が霊魂としての存在に還ること、つまり、死は、肉体からの解放であるはずだ。それなのになぜ、肉体を持って生まれた全ての生命は、力の限り、一秒でも長く、このはかない土の器である肉体の中にあえてとどまり、この不完全な世に少しでも長くとどまろうと苦心するのだろうか。時に激痛を耐え、苦しみを耐え、悲しみを乗り越えて、血を吐くような思いを耐えてまで、なぜこの世に生きとし生けるもの全てが、貪欲なまでの激しさで、この世を愛し、人間を愛し、あらゆる生命を愛し、最期の瞬間まで切なく、自分の命を少しでも引き伸ばそうと苦心するようにできているのだろうか。
ここにはかりしれない不思議を私は感じるのだ。

キリスト教における「掲挙」というものが神学的にどのように定義されているのか私は知らない。だが、本当のことを言うと、私は掲挙などどうでも良いのだ。神が創造されたこの世において、どのように生きるのか、その生の内容だけが、私に問われている全てだと感じるからだ。私たちに与えられたのはこの世を生き抜くというミッションである。たとえ死後キリストと出会えるにしても、それでも、死後の世界を思い描くことによって自分を慰める材料とし、あの世を強調しすぎるあまり、この世の一瞬一瞬を生きる選択の厳粛さ、行動の重さから目を背けるようなことがあってはならないと私は考えている。

だから、掲挙を美化するような考え方が私は嫌いなのだ。『レフトビハインド』はその点で初めから何かがおかしい気がする。掲挙という問題を単なる肉体の消滅と同一視し、これほど軽くセンセーショナルに扱っている筋書きにも不審を感じるが、その上、掲挙から取り残されることが、信仰的に一度失格者とされたことの証明と等しいというこの書物の考え方には疑問を感じざるを得ない。

私も子供の頃には、天国への憧れと、この世に生きる苦痛から逃れるために、できることなら天に引き上げられたいと望んだことがあった。だが、それは子供じみた憧れであり、今はたとえ生きることが苦痛となり悲しみを伴うものとなっても、それでもこの地上で闘いつづけることこそが生命の本質なのだと思っている。それは私がこの世の生命に心からの愛おしさを感じることができるようになったためでもある。
この世の生命体として存在させられた以上、私たちにとっての勝負の舞台はあくまでこの世なのだ。そのことを忘れることは、大きな間違いであると思う。
この地上的生命が尽きた後、私がどうなるのか、そんなことは知らない。どうにでもなってくれて構わない(主の御手に任されるのだから、危険はない)。しかし、この世では、その不思議を解明することができない以上、私たちはただ聖書を通して与えられている約束を胸に抱きながら、あくまでこの地上での一瞬一瞬を大切に育み、厳粛に受け止めることに専念していかねばならないと思う。

いくつかのカルト的宗教集団がそうであったように、空中再臨だとか、掲挙だとか、そのような誰にも証明不可能な、非物質的な未来の現象をあまりにも強調しすぎるがゆえに、今、この世に生きるという現実の重さ大切さを人に忘れさせてしまうような教えは、全て危険だと私は直観的に感じる。

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