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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

キリスト者に与えられた揺るぎない平安

まだ夜が明けるにはちょっと早いが、風が気持ちよさそうなので、これから外を散歩してくることにしよう。

 夜の散歩はとても心地よい。この近辺の数少ない礼儀正しい住人は、夜にはちゃんと寝静まっているので、深夜に、家を一歩外に出れば、世界は私だけのものだ! 星空を見上げながら、ゆうゆうと道を歩き回り、鳥や虫の声に耳を傾けることができる。
 夜は、虫や蛙たちが最も活発に歌いだす時間帯だ。田舎では特に、昼間には聴こえないオーケストラが夜には聴こえる。昼間とは、別の世界が広がっていると言った方がいい。

 さて、昨夜は、KFCのアクシデントつきの礼拝でお疲れのはずのDr.Lukeをつかまえて、私は受話器を通じて彼の時間を大量に奪い取り、さんざん私だけに必要なアドバイスをむしりとって行った。一応、断っておけば、そんなことをしでかしたのは今回が初めてである。

 Luke氏には色々と聖書を引きながら、疑問に親切に答えていただいたが、その中で、最もためになったのは、記事の中で氏が少しだけ触れておられるように、人が自分の十字架を負うとは、平安のうちに歩むことだという点に気づけたことである。

 え? 十字架が平安? そんな楽なことがあっていいわけ?
 と驚くような答えが、真の答えなのだと。なぜならば、人の十字架は、その人のうちにおられるキリストが負ってくださるものだからだ。
 だが、これはあまりに画期的な答えなので、あまり世間に言いふらしたくない。正直なことを言えば、誰にも教えたくない。何も知らない人々には、いつまでも、クルシチャンでいてもらって構わない。

 時々、クラゲ化があまりにも進行しすぎているように思われるLuke氏の文章に、正直なことを言えば、私のような生真面目な人間は、苛立たせられる瞬間があるのだが、それはあくまで表面的なこと。氏の文章に、背骨はしっかりと通っている。それが、分かる人にはちゃんと分かる。彼は言った、「生来の真面目さは、どこかで破綻しなければならないものですよ」と。

 生真面目な人種に属している私のような人間には、大いに考えさせられるものがある。真面目な人間というものは、かなりコワイ。わがまま勝手な人の有害性は外から見て分かりやすい。だが、外からは見えない、秘めた危険性を持っているのが、真面目な人々なのだ。

 真面目な人々は、一旦、何事かを思い込んだら、自分の正義を振りかざし、止めようのない力で、どこまでも、猪突猛進して来る。彼らを思いとどまらせるものは何もなく、一切の議論が無駄となり、ポリシーのためならば、命かけてでも、活動し、不撓不屈の努力によって、革命さえ、起こしかねない。しかも、真面目な人々は、自分の真面目さというものを高く評価しており、誇りに思っているので、それが裏目に出ることがあろうとは、露ほども考えてもみない。実際、生真面目な信念を持った生真面目な人々が結集した結果、はた迷惑な革命が、歴史上、幾度も起こされてきたのだ。

 十字架において自己に死ぬ、ということを考える時、その中には、己の短所や欲望に死ぬというだけでなく、自分では美徳だと考えているような長所にも死ぬことが含まれている。己により頼む気持ちが、あらゆる面で、一旦、破綻しなければならない、それが十字架なのだ。この全面的な死を経験しないと、美徳を養う名目で、相変わらず、セルフを引きずったままの人生が続いていってしまう…。落とし穴だ。自分では正しく生きているつもりなのだが、自分の力で必死で十字架を担おうとしているので、やがて疲れ果ててしまう。自己に死んでいないからこそ、自分の力で十字架を背負おうとする努力が生まれるのだ。

 だから、真に自己に死んだ者にとって、もはや自分の十字架を負うことは(=キリスト者として生きることは)苦しくなく、軽いことのはずだ。それが苦しく感じられるのは、状況のせいではなく、何か自分の中に、十字架上で死に切れていない部分があるからだと思っておいた方が良い。何かを負おうとしている自己があるからこそ、苦しみが発生するのだ。(と言うと、アリストテレスのような議論に落ち込んで行きそうだし、さらに、十字架上で己に死すべく、必死に努力する人々が現れることが予想されるが…、この堂々巡りについてはノーコメント)。 

 自分の周りにある一向に改善しない悪しき状況を見て、ため息つかないでいられる人間はどこにもいないだろうが、それでも、どんな状況のうちにも主がおられることを本当に信じられるようになれば、現象によって心が動かされることはなくなる。

「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。<…>
 わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも、深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(ローマ8:34-35,37-39)

 キリスト者の歩みが深まっていく時、そこには神への愛に根ざした揺るぎない平安が生じるはずだ。どんな現象も、人の言葉も、人の存在も、その人を動かすことができない。泰然自若とした生き方が自然と生まれる。

 時には、自分がどうにも、平安とは逆行する人生を歩んでいるように感じられることがあるが、そんな時には、私たちを神の愛から引き離すものは何もない、というふりだしに戻ろう。

 私の人生にとって、もはや何一つ、脅威となるものはないのだ。脅威の名で呼ばれるに値するのは、私をキリストから引き離す力を持っているものだけだが、そのような力を持つものはすでに存在していないことを、聖書が告げているのだから。どんな被造物も、魅力あるリーダーの言葉も、冷たい非難の言葉も、巧妙なサタンの策略も、キリストの勝利によって、すでに無効とされている。それを心から信じる時に、私を平安から外におびき出そうとする敵のあらゆる策略が、力を失うのだ。そして主の与えて下さる愛のうちで、ただ安らぐことができるようになるのだ。

 この平安から外に出ないように気をつけよう。この平安のうちを歩みながら、信仰生活を送って行くことにしよう。そうすれば、きっと今までの生き方よりも、今後の行程は、かなり楽になるはずだ。

 ところで、これ↓、何か分かる? (サマルカンドからタシケントへ戻る道中に見た光景。ヤバイよなあ…、これ、絶対、オマワリにつかまるよなあ、と思っていたら、ほんとにつかまっていた。)

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