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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

律法から解放されて、イエスの命に生きる


  驚くべきことに、最近、主は私に大きな恵みを下さった。なんと、我が家で穏やかに信仰を語れるようになってきたのである!

 これまで、我が家では、信仰の話題を持ち出すことは、不毛な口論につながるだけであった。同じキリスト教徒でありながら、残念なことに、家人と信仰を共有できなかったのである。

 ところが、今、ネット上で起きている一連の騒動について、私が家人に話した時、家人は、「あなたにはきっと神様から与えられている仕事があるのでしょう」と私を励ましてくれた。

 かつて、カルト化教会の牧師が、就職難に直面していた私を、仕事の斡旋という嘘の甘言で釣り上げ、教会のために奉仕させ、さんざん私との約束を裏切った。そのことについてどんなに話そうとしても、我が家では、今まで取り合ってもらえなかったのだが、家人は今回、穏やかに私の話を聞いてくれた。

 私は話をこうしめくくった、「この世にある限り、これからも、不安はつきないでしょう。貧乏や失業や孤独がついて回るかも知れない。でも、その不安の中で、真に頼るべきは人ではなく、神様お一人だという信仰に立たないと、どんなクリスチャンでも、私のように、人に惑わされてしまう危険がある。
 私は、人に頼ろうとして、手痛い失敗をしてしまった。でも、そこを通過した今だから言える、私を生かしているのは、人脈でもなければ、私の能力でもなく、人からの約束や、助けでもない。私を生かしているお方は、ただ神様であって、これからの生存を保証してくれるのも、ただ神様だけ。今はそのことを信じている」と。

 家人は穏やかに頷いていた。ああ、私たちの信仰が同じになって来ているなあ…、そう感じさせられた奇跡のように嬉しい瞬間だった。
 この調子だと、まだ救われていない私の家族のメンバーが、キリストを受け入れるようになる日も、そう遠くないかも知れないと、期待が飛躍する。その時、私はどこにいるのだろうか? 一家全員が平和に集って、主を賛美している光景を、私はこの目で見られるだろうか? とにかく、そこに私がいようといまいと、いつか必ず、我が家がキリストにあって、愛と調和に満ちた場所へと変えられることを切に願ってやまない。

 主は、何か一つのものを取られる時に、代わりに新しい恵みを与えて下さるのかも知れない。一人が離れて行っても、別の人がやって来る。一人が唾を吐きかけても、別の人が勇気をくれる。だから、一つの悪いことが起きても、心配することはない。神様の御助けと約束は完全なのだ。

 かつて、私はカルト化教会にて、「主の手から憤りの杯をうけて飲み、よろめかす大杯を、滓までも飲みほした。」(イザヤ51:17) 私はイザヤ書の次の聖句を読む時、それが自分の身に降りかかった災難と重なって見える。

「これら二つの事があなたに臨んだ――
 だれがあなたと共に嘆くだろうか――
 荒廃と滅亡、ききんとつるぎ。
 だれがあなたを慰めるだろうか。
 あなたの子らは息絶え絶えになり、
 網にかかった、かもしかのように、
 すべてのちまたのすみに横たわり、
 主の憤りと、あなたの神の責めとは、
 彼らに満ちている。」(イザヤ51:19-20)

 福音から離れた時、私には災いが臨んだ。私は主の御許に立ち戻ったつもりだったのに、まるで盲目の者が罠にかけられ、捕囚にされるようにして、何も分からずに、カルト化教会へと囚われていった。
 そこでは、貧しさと辱めと苦役とが私を待っていた。やっと気づいて離れた後も、その災難について語っても、信じてもらえず、同情してくれる者がなく、慰めてくれる者もなかった。ヨブが友人から責められたように、私は自己弁護に力尽きるまで、周りにいる全ての人たちから、責められなければならなかった。

 だが、主に栄光あれ! 私が心から主に立ち返った時、神は状況を一変させられたのだ。

「あなたの主、おのが民の訴えを弁護される
 あなたの神、主はこう言われる、
『見よ、わたしはよろめかす杯を
 あなたの手から取り除き、
 わが憤りの大杯を取り除いた。
 あなたは再びこれを飲むことはない。
 わたしはこれをあなたを悩ます者の手におく。
」(イザヤ51:22-23)

 私は二度と、かつてのような苦しみを味わうことはない、主がそう約束されるのだ。

「『恐れてはならない。
  あなたは恥じることがない。
  あわてふためいてはならない。
  あなたは、はずかしめられることがない。

  あなたは若い時の恥を忘れ、
  寡婦であった時のはずかしめを、
  再び思い出すことがない。
  あなたを造られた者はあなたの夫であって、
  その名は万軍の主。
<…>
  捨てられて心悲しむ妻、
  また若い時にとついで出された妻を招くように、
  主はあなたを招かれた』」(イザヤ54:4-6)

 みなし子や寡婦、宿無しのように寄る辺なかった者が、万軍の主を夫とする妻へと変えられ、頼もしい神の家族へと加えられた。イエスによって義とされ、もはや人からの非難に苦しめられる必要がなくなったのである。

 「『義を知る者よ、
  心のうちにわが律法をたもつ者よ、わたしに聞け。
  人のそしりを恐れてはならない。
  彼らのののしりに驚いてはならない。
  彼らは衣のように、しみに食われ、
  羊の毛のように虫に食われるからだ。
  しかし、わが義はとこしえにながらえ、
  わが救はよろず代に及ぶ』。」(イザヤ51:7-8)

 幼い頃、私は「罪を残したまま死ぬと、人は地獄へ堕ちる」と教会で教えられた。以来、子供心に、よく次のように考えたものだ。「もしも私が不意に交通事故で死んだとすれば、そして、それがあまりにも突然で、悔い改めの時間も残されていなかったとしたら、私はひょっとして、地獄へ堕ちてしまうのだろうか!?」と。

 それは愚問だった。なぜならその当時から、私はすでにキリストを信じ、受け入れて、罪赦されていたからである。しかし、それでも、長い間、そんな疑問から抜け出られなかった。
 私は100%罪赦されているのか? 私にはどこかに罪が残っていないだろうか? 私は本当に100%救われているのか?

 それは、まるで、プールサイドの飛び込み台に立って、水に飛び込むのをためらい、恐れている子供のような心境だった。
 信じるということが要求する高さのために、イエスの与える生ける水の川という、心地良い流れに全身で飛び込むのをためらっていたのだ。
 だが、バプテスマによって全身、水に浸された時、肉なる私は確かに死んだ。
 そのことが、実際に理解できたのは、バプテスマよりも、ずっと、後のことだったが…。

 今、私には自分が救われていることに疑問はない。「私は本当に御霊によって歩いているのか? それとも、肉の欲に仕えている罪人ではないのか?」という疑問はもうない。なぜなら、私は信仰を持って、思い切って、主の懐に飛び込んだからである。私は救われ、罪赦され、贖われたという信仰の大海に飛び込み、その確信にずぶ濡れになるまで身を浸した。バプテスマと同時に、肉なる私は死んだ。そして、キリストにあって復活し、今は命の川の中を、安らかに、楽しく泳ぎ回っている。

 主は言われる、
「わたしは海をふるわせ、
 その波をどよめかすあなたの神、主である。
 その名を万軍の主という。」(イザヤ51:15)

 高波がとどろき、砕け散る暗い嵐の海。
 イエスの弟子達が船の中で恐れたように、水は人にとって脅威であった。水は人の肉体を殺す力を持っていた。律法が人を罪に定め、死を宣告する力を持っているように、ノアの洪水は、神に従わなかった人々の命をことごとく水の底に沈め、滅ぼした。
 だが、モーセに導かれる民を、神は水(海)を乾かすことによって、救われた。

「海をかわかし、大いなる淵の水をかわかし、
 また海の深きところを、
 あがなわれた者の過ぎる道とされたのは、
 あなたではなかったか。」(イザヤ51:10)

 モーセに導かれる民は、律法によって義とされる方法を知らなかった。人として律法を完成される御子イエスがまだこの世に来ていなかったからである。そこで神は、イスラエルの民を殺す力を持っている海を真っ二つに分けられ、乾いた道を造られ、民が水に触れないでそこを通り過ぎることができるようにされた。

 今、イエスの十字架の後の時代を生き、バプテスマを受け、イエスを通して律法の完成者とされたクリスチャンにとって、水はもはや、旧約のイスラエルの民にとってそうであったように、人を死に定める脅威とはならない。

 イエスご自身は罪のないお方であったので、水によって死に定められる立場には初めからなかった。主は人と同じようにバプテスマを受けられたけれども、海の上を歩いて渡り(マタイ14:25)、また、風と海とを従わせる権威を持っておられた(マタイ8:26,27)。
 イエスはご自分の罪ゆえでなく、ただ神の御心に従って、人類の罪の身代わりとして、律法によって死に定められた。ゲッセマネの園で、イエスは祈られた、「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください」(ルカ22:42)と。

 この時、イエスでさえも、できれば逃れたいと願った杯は、人類の罪に対する神の憤りの杯、イザヤ書に記された「よろめかす杯」、「わが憤りの大杯」と同じものであった。杯の中にあったものは、何だっただろうかと私は考える。確信を持って言えないが、ひょっとして、それは神の憤りの大水だったのではあるまいか?

 イエスは十字架にかかられて死なれた時に、わき腹から「血と水」(ヨハネ19:34)を流された。この時、次の御言葉が完全に成就した。
「あかしをするものが、三つある。御霊と水と血とである。そして、この三つのものは一致する。」(Ⅰヨハネ5:7)

 御霊と水と血とが、十字架上のイエスにおいて一致の完成を見た。その後、イエスを信じる者は、バプテスマによって肉に死に、イエスが十字架上で流した血によって義とされ、御霊によって生きるようになった。

 聖書は言う、「古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。」(Ⅱペテロ3:5-6)

 聖書を読むと、一度水で滅んだ大地には、「二度目の洪水」が差し迫っていることを知ることができる。それは水による洪水ではなく、焼き尽くす火による洪水(=大火災)である。ひょっとして、巨大火災地震と呼んでも差し支えないかも知れない、なぜなら聖書はこう告げているからである、「震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している」(ヘブル12:27)と。

 つまり、大地にはもう一度、ノアの洪水に匹敵する規模で、揺さぶられる日が来ることが定められているのだ。しかし、クリスチャンは一度、水によって滅んだ以上、もう二度と滅びる必要はない。キリストによって義とされている以上、焼き尽くす火によって滅ぼされる必要がない。ふるいにかけられて、毒麦として抜かれる対象ともならない。主の日が盗人のように迫ってくることもない。「わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか」(ヘブル12:28)。

 「あなたをあがなわれる主は言われる。
 『このことはわたしにはノアの時のようだ。
  わたしはノアの洪水を
  再び地にあふれさせないと誓ったが、
  そのように、わたしは再びあなたを怒らない。
  再びあなたを責めないと誓った。
  山は移り、丘は動いても、
  わがいつくしみはあなたから移ることなく、
  平安を与えるわが契約は動くことがない』と
  あなたをあわれまれる主は言われる。」(イザヤ54:8-10)

 イエスを信じ、イエスに従う者は、もはや二度と、神の憤りの杯を飲まされることはない。旧約のイスラエルの民は律法による契約によって神と結ばれていたが、私たちはイエスの血による契約を通して神に結ばれている。今や、イエスを信じるクリスチャンにとって、神によって発せられる水はもはや死を意味せず、かえって、命となっているのである。

 「さあ、かわいている者は
  みな水にきたれ。

  金のない者もきたれ。
  来て買い求めて食べよ。
  あなたがたは来て、金を出さずに、
  ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。<…>
  わたしによく聞き従え。
  そうすれば、良い物を食べることができ、
  最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。
  耳を傾け、わたしにきて聞け。
  そうすれば、あなたがたは生きることができる。」(イザヤ55:1-3)

 大地を潤す雨のように、作物を実らせる水路のように、春の優しいせせらぎや、夏の川の流れのように、力強い命の川の流れが、クリスチャンを健やかに養ってくれる。だが、もしも、クリスチャンが地上で健やかに暮らすことだけを願うのでなく、主のための艱難を、勇気を持って忍ぶ覚悟を決めるならば、神は彼になお大きな喜びを約束して下さる。

「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。」(ヘブル12:2-3)

わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外に出て、みもとに行こうではないか。この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたちの求めているものである。」(ヘブル13:13)

 私たちは義とされ、地上で恵みに満ちて平和に生活する権利を与えられている。だが、それにとどまらず、主イエスの背負われたはずかしめをすすんで身に背負うべきなのである。イエスが私たちのためにご自身を低くされて仕えられ、その身を私たちのために捧げられたように、私たちが自分を低くして神に捧げ、主の御名のために、はずかしめや、苦痛や、嘲弄や、誤解や、犠牲をもすすんで耐え忍ぶ時、その献身と従順によって、私たちは神に満足していただくことができるのだ。

 この献身と従順こそが、私たちをあがなうために、はかりしれない犠牲を払って下さった主のために、私たちができるせめてものお返しである。
 
「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」(ローマ12:1)


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