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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

牧師制度という個人崇拝の悪―偶像崇拝が大衆にもたらす偶像との一体化願望と失望

・神と人との唯一の仲保者であるキリストを退けて、信者の上に人間の指導者・教師を置く牧師制度は聖書の御言葉に反している
      
 
 「人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方に逸れていく時が来るであろう。しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。」(テモテへの第二の手紙4:3-5)

悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。」(テモテへの第二の手紙3:13-14)
  
これまで、キリスト教界に問題が起きるのは、牧師制度が原因である、ということについて述べて来た。なぜ牧師制度はあるべきでないのか。聖書では、主イエスは次のように語られた。

「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
あなたがたは、地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。
また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。」(マタイ23:8-10)

このように、聖書はキリストを信じる信者の間に序列があるべきでないこと、信者にとっての教師とは、見えないキリストただお一人だけであることをはっきりと示している。

それにも関わらず、主イエスの御言葉に反して、信者が信者の上に立ち、神と人との唯一の仲保者であるキリストを否定し、押しのけてまで、他の信者の教師、模範、指導者となり、他者を教えることを、制度化することによって固定化しているものが、牧師制度である。

このようにキリストの御言葉の根幹を否定して成り立っている牧師制度がある限り、キリスト教界には問題が起き続け、是正は不可能であろう。むろん、カトリックであれば、プロテスタント以上の厳格なヒエラルキーがあり、神の代理人としての法王が立てられているわけだから、プロテスタント以上に深刻な問題が存在することは言うまでもない。
  
牧師制度が決定的に聖書に反するものであることを、我々は、牧師を置いている諸教会に起きる出来事を通してだけでなく、牧師制度を批判しながらも、牧師であることをやめられなかったアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の「カルト対策専門家」を自称する村上密氏と、KFC(Kingdom Fellowship Church)のDr.Lukeという二人の指導者の失敗例を通して理解することができる。

この二人は、それぞれ異なる立場から、キリスト教界の諸問題に警鐘を鳴らし、キリスト教界の道徳的腐敗を糾弾していた。Dr.Lukeは脱カルト協会の会員であり、キリスト教界のカルト化現象を、村上密と異なる立場から批判していた。

だが、両者の言動はともに深刻な二重性を帯びたものであった。彼らは一方では、他の牧師たちの権威主義・自己の絶対化・独裁化を批判しながら、他方では、自分自身が信者の指導者となって、神ご自身に代わって彼らを教え、導くという誘惑を捨てられなかったことである。
 
彼らはカルトにおける独裁を非難しながらも、同時に、自分も指導者の立場に立って人前に栄光を受けることをやめられず、その罪により、次第に彼らはカルトと同じように、自己を絶対化して行く羽目に陥ったのである。

そもそも、政治や、宗教に限らず、人の上に立とうとする人間は、自分に従って来る人々の要求を少しでも多く叶えてやろうとして、あるいは、彼らの期待を裏切って失脚させられることを恐れるあまり、自分をあるがまま以上に、偉大な存在、崇高な存在に見せかけようとする誘惑を免れることはできない。
 
人並み以上のカリスマ性、実力が伴わなければ、誰も指導者になることはできないであろう。従って、どんな分野であれ、指導者となれば、その人は実際に自分に備わっている以上の実力が自分にあるかのように見せかけないわけにはいかなくなるのである。

だが、そのようなヴァーチャルな自己像の演出によって、本当の自分自身を偽って生きることこそ、神の御前に大いなる罪であると筆者は見ている。
 
「カルト問題に悩んでいる人々の心に寄り添い、その悩みに真摯に耳を傾け、問題解決に助力する親切で正義感溢れる優しい指導者」を演じようとしているうちに、上記の二人にも、現実から著しく乖離したヴァーチャルな自己イメージが生まれ、そこからやがて超人めいた、ありもしない偉大な人間像が生まれて来て、個人崇拝が発生したのである。そうしたことが起きた責任は、美化された自己イメージを積極的に作り上げた本人だけにあるのではなく、そうした指導者をもてはやし、自惚れに陥らせた周囲の信奉者たちにもある。
 
筆者は、村上密牧師についても、Dr.Lukeに関しても、全く同じ現象を見るが、それはこの二人に限らず、牧師を取り巻く一般的な状況なのであり、要するに、指導者と、それに群がる信奉者たちが、渾然一体となって、一人の人間の限界を超えて、超常的な権威や力を持つ「偉大な指導者」のイメージを作り上げ、そのイメージに集団的に耽溺して行くのである。彼らが崇めているのは、もはや現実の人間ではなく、彼ら自身が作り出した虚構の人間像であると言って差し支えない。
 
ペンテコステ・カリスマ運動は、もともとそのような虚構の「偉大なカリスマ指導者像」を作り出すことを主たる特徴とする運動であった。ペンテコステ運動には、例外なく「霊の器」とされるカリスマ的指導者がつきものであり、ほとんど個人崇拝と言っても良い形で、この霊的指導者の超自然的な能力へ信者を傾倒させるという伝道スタイルを持っている。
  
Dr.Lukeも村上密も両者ともにペンテコステ運動の出身である。
  
筆者は一連の記事において、ペンテコステ運動の起源は聖書にはなく、これは人間が生まれ持った魂の力を啓発・覚醒させることによって超自然的体験を味わい、それによって自力で神に到達したかのように錯覚する神秘主義の教えであることを幾度も明らかにして来た。
 
従って、まさにこうした運動の只中から登場して来た二人の指導者が、共にカルトを非難しながら、自分自身がカルト化の過程を辿ったのは、全く不思議ではない。カルトも、アンチカルトも、牧師制度から生まれた悪なのであって、どちらもが聖書に立脚しない、マッチポンプのように腐敗した運動に過ぎない。牧師制度を温存する限り、結局、すべての団体がカルト化という結末を辿らざるを得ないのである
   

さて、ギリシア神話に登場する楽人オルフェウスの最期を通して、私たちは指導者との一体化を求める大衆の願望と熱狂の恐ろしさを考えることができるかも知れない。伝説によれば、オルフェウスは地球上の全ての生き物を酔わせることができるほど卓越した音楽家であったが、冥土から連れ戻すのに失敗した亡き妻の思い出を生涯、忘れられず、妻と死別後、独身を貫き、そのことで女たちの恨みを買い、ついに女らに八つ裂きにされて河に投込まれたという。

ここで筆者は、ギリシア神話に言及したいのではなく、目に見える人間に過ぎない者が、カリスマ指導者となって、多くの信者たちを誘惑して心を惑わせることの罪と、それに伴う悲惨な結末に思いを馳せずにいられない。
 
ペンテコステ運動の指導者や、その礼拝に伴う巧みな舞台(しるし・不思議・奇跡)演出の仕かけは、まるでオルフェウスの音楽のように、人々の心を酔わせ、惹きつける。

しかし、目に見える物質世界に存在するものは、人であれ、あるいは何らかの現象であれ、感覚刺激であれ、すべて束の間、現れて、はかなく消えて行くものであり、決して人の魂を真に満足させることはできない。
 
それらの魅力的な指導者や舞台装置は、マジシャンの幻影のごとく、束の間、人の心を酔わせはしても、束の間の酔いの後で、禁断症状にも似た、より一層、重い失望と幻滅を人々の心にもたらすだけである。

偶像というものは、それが木切れであろうと、金の子牛の彫像であろうと、生きた人間であろうと、結局、全てはこの世の限定された事物(被造物)を「神」に祭り上げようとしたものであるから、それはまことの神ではないため、決して人の心を真に満足させることができない。
 
感覚的な陶酔や興奮も、それを追い求める人には、偶像となって、心を煽ることはあっても、結局、それは人が真に願っているものを決して与えない。だから、いたずらに心を煽られた人々は、最後には、求めても求めても与えられないことへの憤りから、彼らを酔わせるイリュージョンに殺到し、これを引き裂いてしまう。
   
それくらい人々の心を盗むことの罪は大きいと筆者は考えている。

エクレシアとは、ただ一人の男子キリストだけに捧げられた貞潔な花嫁であって、キリスト以外の「夫」はあってはならないのである。そこで、エクレシアの心をいたずらに誘惑しようとする者は、何人であろうと、神の御怒りに晒され、悲惨な最期を遂げることを免れられないだろうと筆者は予想する。

私たちには、「求めなさい、そうすれば与えられます」と言っておられるまことの神がいつもそばについておられる。神は私たちの心の願いに耳を傾け、悩みを共に背負い、重荷を代わりに担って下さり、常に私たちのために心配して下さる。それなのに、そのはかりしれない愛と慈しみと理解を持ったただお一人の神を退けてまで、「求めても、求めても、何も与えることのできない偶像」にすがる人々の罪は重く、また、人々にまことの神を捨ててむなしいものにつき従う罪を犯させた指導者の罪もはかり知れず重いのである。

聖書における神は、全知全能で、永遠に変わらないお方であり、この世のいかなる制約や限界にもとらわれず、信じる者たちの心の中に住んで下さり、その心を知って、すべての必要をかなえることができるが、この世の物質から成る偶像は、遍在することもできず、人の心をおしはかることもできないので、どんなに人々がそれを慕い、追いかけたとしても、彼ら全員の期待に応える術をもともと持ち合わせてはいない。
 
そこで、自分自身を現人神のように見せて、多くの人々の人気をさらう指導者は、決して、自分を慕ってやって来る熱狂的な大衆の願望に、応える術を持っておらず、遅かれ早かれ、大衆の幻滅と失望に晒されることになるが、その時、大衆のフラストレーションにどう対処するか、選択を迫られる。

考えられる選択肢は三つである。一つ目は、オルフェウスのように、大衆の要求を拒んでその不満と怒りによって滅ぼされる道であるが、誰しもこれは拒否するであろう。
 
二つ目は、来る者拒まずの八方美人性を発揮し、みんなの願いを叶える慈愛に満ちた母のような存在を演じ、あらゆる人々と霊的姦淫に陥ることによって、すべての人の期待に応えようと努力する道である。
 
ペンテコステ運動にはこの第二の八方美人的な特徴が顕著である。これはペンテコステ運動に関わる信者の特徴だと言っても過言ではない。アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の繰り広げる被害者であれば誰でも来る者拒まずのカルト被害者救済活動も、この路線に立っていると言えよう。

だが、この第二の方法もそう長くは持ちこたえない。どんなに各方面に良い顔をして、みんなの期待に応えようと努力してみたところで、しょせん、人間にできることには限界がありすぎるからだ。だから、やがて失望して去って行く人々が現れることになる。

そこで第三の道は、指導者が大衆に甘い顔をせず、禁欲主義的サディストとなって、大衆の欲望を鞭打ち、快感の代わりに苦痛を与えて、服従を要求することである。
 
偶像が偶像として生き残り、指導者が指導者として生き残るためには、結局、この第三の道に至るしかない。第二と第三――飴と鞭を使い分けながら、時には甘く、時には厳しく、自分につき従って来る人々の願望に対処しているうちに、やがて指導者には第三の道だけが残り、独裁者と化して行くのである。

村上密牧師や、Dr.Lukeといったような、「キリスト教界の諸問題を告発し、そこで被害を受けた人々に理解を示す、優しく親切な指導者」を演じていた人々も、結局は、善良で親切な仮面だけをずっと被り続けるわけにいかず、第二から第三へ移行して、独裁化という過程を辿らざるを得なかったのである。そこで、反対者は容赦なく駆逐し、刃向って来る者には裁判も辞さずに徹底的に報復するという残酷な側面が明るみに出たのである。

筆者は、ここにこそ、キリスト教が厳しすぎるまでに父性原理だと呼ばれることの根拠、また、そうでなくてはならない理由があると考えている。
 
ペンテコステ運動が、「キリスト教には御言葉に基づく二分性の切断の原理ばかりが強すぎて、あらゆるものを受容する母性が足りない」と非難して、キリスト教に母性を補うことを目的として、「母性的な福音」を提唱して、キリスト教の変革を試みたことは、他の記事でも説明して来た。
 
しかし、あたかもキリスト教に欠陥があるかのように主張して、キリスト教の変革を試みたこの運動は、キリスト教の「欠陥」を補うどころか、余計な混乱しかもたらすことはなかったのである。
 
なぜなら、もともとキリスト教には、「欠陥」など存在しないからである。キリスト教の主たる原則は、ただ唯一のまことの神にのみ従う排他的な信仰にあり、その排他性が消え去れば、キリスト教はキリスト教ではなくなる。

唯一の神のみに従う貞潔な信仰は、「欠陥」などではあり得ず、すべてのものを優しく受容する母性などと言った八方美人性は、背教への道でしかないのである。従って、「父性原理の排他性を克服するために、母性原理が補われたキリスト教」などというものは存在せず、そのようなものはキリスト教と異教との混合としてのバビロンでしかないのである。
 
旧約聖書の時代から、異教の民と異なり、イスラエルの民には、唯一の神に従うための厳格で排他的な規律が要求され、世の要求に甘い顔をする八方美人性は禁止された。
 
預言者モーセを通して、民には厳しい聖潔の基準が要求された。

「あなたの父と母とを敬え<略>。
 あなたは殺してはならない。
 あなたは姦淫してはならない。
 あなたは盗んではならない。
 あなたは隣人について偽証してはならない。
 あなたは隣人の妻をむさぼってはならない。<略>またすべて隣人のものをほしがってはならない」(申命記5:16-21)

イスラエルの民には、性的むさぼり、不品行はとりわけ禁止されていた。なぜなら、それはまことの神以外のものを神とする偶像崇拝に本質的につながる罪だからである。

だが、イスラエルの民に、唯一の神への貞潔が消え失せ、御言葉の峻厳な区別・排他性が失われ、八方美人性がはびこることになった時代には、背教が蔓延し、神殿にも、神殿男娼などがはびこった(列王記15:12  男性であった)。

こうした現象も、八方美人的な偶像崇拝(異教)が紛れ込んで来たことの結果である。
 
異教は、人間を喜ばせることを主たる目的とし、そのために一切の儀式を定めているため、偶像との一体化を確認させるための様々な儀式をも許容している。

しかし、旧約聖書時代のユダヤ教は、神以外のものと交わる八方美人的な混合を「むさぼり」として退け、全面的に禁止した。

旧約聖書の唯一の神への信仰の排他性は、新約になったからと言って消え失せたわけではない。唯一の神以外のものを神としてこれと交わる行為は、新約においても、霊的姦淫として罪に定められている。
  
しかしながら、神以外のものを神とするとは、何も異教の神々を拝んだり、あるいは木切れや、刻んだ像を拝んだり、己の欲望を神としてこれをむさぼったり、誰か素晴らしい指導者を神のように崇拝することばかりを意味しない。

人間が自分自身に与えられた限度を超えて、自分を何か偉大な者であるかのように見せかけ、美化する時、その人は「自己を神とする」という偶像崇拝の道へ一歩を踏み出しているのである。
  
あらゆる人間にとって、罪の始めの第一歩は、自分の分を越えて、何かをむさぼりたいと願うことにある。その第一歩は、ただ他人のものを奪い取りたいという願望だけでなく、自分自身のあるがままの現実を偽って、自分を偉大に見せかけたい、という願いから始まるのではないだろうか。
 
アダムとエバの堕落は、彼らが神に許された限度を越えて分別をつけて、神と対等になろうとしたところから始まった。彼らはその罪によって、ただ神の戒めを破ったのみならず、何よりも、自分自身の被造物としての本質を偽って、自分自身を神と「対等」に見せかけようとしたのである。
 
彼らは、それによって、神と人との境界を乗り越え、自分たちが神の助けなしには生きて行くことのできない弱く限界ある存在であることを否定し、神を抜きに、神の偉大さと知恵を我が物として、神の助けなしに生きて行くことができるかのように、神から与えられた制約のくびきをふるい落とそうとした。彼らは、それによって、神に従う者として生きるのではなく、神を自らに従わせる立場に立とうとしたのである。

だが、人間がそのようにして自分の分を越えて、自由や解放を手にしようとする時には、必ず何らかのしっぺ返しがその人にふりかかる。彼らは神にはなれず、むしろ、そこから、人類の悲劇が始まったのである。
 
オルフェウスは亡き妻への貞潔を守り抜き、妻以外の人々の関心を揺さぶることをしなければ、悲惨な最期を辿ることもなかったことであろう。
  
ペンテコステ運動にも同じことが言える。
  
神と人との関係は、原則的に、一夫一婦制である。神は唯一であり、神と人との仲保者はイエス・キリスト以外にはいない。にも関わらず、その一夫一婦制の原則を破って、人間の指導者がキリストとエクレシアとの間に割って入って、エクレシアの心を盗もうとするならば、必ず、その指導者と、神への貞潔を捨てた信者たちに、ひどい末路が降りかからないわけにはいかないのだ。
 
つまり、カルト化現象は、何かしらの難解な教義的な逸脱の結果として起きることではなく、一部の教会や指導者が悪に傾いたために起きるものでもなく、信者が唯一のまことの神だけに従う信仰を捨てて、目に見える人間の指導者を含め、神でないものを神としたことによって起きる当然の結果でしかないのである。

だから、キリスト教にはカルト化という問題は存在しない。あるのはまことの神を神としないで、神でないものを神とする人間の罪と背教だけである。
 
そこで、カルト問題をしきりに取沙汰している「専門家」らの重大な盲点は、信者が自らまことの主人である神を捨てたがゆえに、カルト化という苦しみに遭ったにも関わらず、まるでそうした罪が信者にはなく、信者は被害者でしかないかのように、彼らの背教の罪を覆い隠しているところにある。さらに、カルト化現象が起きるのは、まるでキリスト教に原因があるかのように主張して、聖書の御言葉の信用を傷つけ、まことの神を悪者としてまで、人間の弱さや罪を弁護しようとしていることである。
 
カルト化現象なるものは、キリスト教の中に、キリスト教でないものが侵入した結果として起きているに過ぎず、それは聖書に原因があって起きているわけでもなければ、聖書の御言葉に基づく正しい信仰に原因があって起きて来たものでもない。

にも関わらず、「カルトの専門家」らが、しきりにカルト被害者を擁護して、人間の罪を語らないのは、彼ら自身が牧師であるか、または牧師と同等の指導的地位に立っており、自分自身が、人間を栄光化するという罪を犯しているからに他ならない。この人々は、あたかもキリスト教の改革を唱えるクリスチャンのように振る舞ってはいるが、実際には、彼ら自身が悪質に聖書に反する立場に立っているのである。だから、彼らの言動が、結局、キリスト教をより一層、貶め、破壊するものとなるのは当然である。
 
宗教指導者を絶対化して崇め奉るカルトも、カルトを糾弾することによって自らを栄光化しようとしている「専門家」らも、結局は、同じ穴の狢なのである。

こうした偽りの指導者によって打ち出される「カルト対策」なるものは、どこまで行っても、カルトと同じように、信者を迷わせるだけでしかなく、求められた解決を打ち出せないまま、やがて人々の不満の矛先を向けられ、何かしら悲惨な末路を辿ることになるのであろう。

我々はそうした一切の希望なき運動を離れ、ただ聖書の御言葉に立ち戻り、まことの命であるキリストに直接、結びつき、人間の教師ではなく、御霊によって直接、教えていただき、健全で正しい信仰生活を送りたい。
  
  
★本来の正しい教義

正しい教義 キリストだけが神と人との仲保者

★今日広まっている異端の教義(ペンテコステ・カリスマ運動)

牧師がイエス・キリストに成り代わっている

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