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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

政治闘争ではなく十字架を仰ぎ見る

さて、心機一転。前ブログでは、クリスチャンの社会に警鐘を鳴らすために話題を提供することを主目的としていたが、それは一旦終了とし、今度は、私個人の関心事も織り込みながら、もう少し穏やかに、ゆっくり話を進めていきたい。
キリスト教界の問題については、これまで通り分析を進めたいが、あいにく、檄文調で文章を書き続けるのは、どうにも書く方が疲れてしまうので、今までに比べて、話を大幅にトーンダウンしようと思う。時々、話が脈絡なく飛んだりすることがあるかと思うが、どうぞご了承のほどをお願いします。

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カルト化教会(またはファシズム教会、全体主義教会)で受けた体験を、私は「悪に対する予防接種」だったと考えている。ごくたまに、予防接種を受けて、重症の病を発病してしまう人がいるが、私の場合がそれに似ていた。免疫抵抗力をつけるための予防接種と呼ぶには、あの教会での体験は、あまりにも代償が重かった。人生が大幅に狂ってしまった。

失われたものを嘆いて、涙すらもう出てこず、ただ呆然として過ごす日々。何も手につかず、あれやこれやの体験は、何だったのかと思い巡らすだけの日々。利己的な目的で信徒の人生を食い物にした牧師を赦せず、役員を赦せず、何とかして、名誉挽回できないだろうかと悔しさに心が引き裂かれそうになる日々。

それらの最も苦しい日々は去って、今はその余韻だけが残っている。だが、この苦しい体験があったからこそ、「蛇のように賢く、鳩のように純心であれ」と聖書で言われることの意味が、頭でなく、身体で理解できるようになったのだという気がする。

キリスト教界では、ビュン牧師の事件が教界全体を揺るがしているのみならず、「吉祥寺の森から」の記事「何も知らない儀間盛夫の支援者たち」で今、話題になっているように、沖縄リバイバルチャーチの儀間牧師をめぐって、カルト化撲滅運動の擁護者と、それに反対する側(儀間氏擁護派)が、喧々諤々の議論を繰り広げている。

確かに、沖縄リバイバルチャーチの問題には見逃せない深刻なものがあるだろう。未だその教会で人生を失い続けている被害者の存在を思うと、慄然とする。
だが、それでも、私はこの種の政治的闘争には、中立の立場をとりたいと思っている。

人々が目の前で真っ二つの陣営に分かれて闘っている時、どちらが正しいのか、どちらに味方すれば良いのかと考えがちだが、そういう時は、目の前ではなく、上を見上げるようにすれば良い。
そうすれば、人間の対立の泥沼に巻き込まれる誤りに陥らなくて済む。

人間の掲げる正義は、いずれも不完全なものであって、何一つ、闘争に値する理由となるものはない。人間の作るどんな団体にも欠点がある。人間には、ただ悪の五十歩百歩があるだけである。
正義なるお方はただキリストだけである。そしてキリストは争いではなく平和を示された。だから、クリスチャンは、人の掲げる正義に惑わされて、自分の人生をすっかり闘争の場に変えてしまうことがないように、キリスト教界内の政治闘争には、極力、中立の立場を取って、日夜、闘争に明け暮れているような団体からは、早く離れた方が良いと思う。

人間の引き起こす闘争は、必ず、どちらかが勝つまでは決して終わらない戦争のようなものだ。その戦いはきっと長引く。勝敗がつくまでの間に、参加した多くの大勢の人たちが、兵士のように使い捨てられ、容赦なく傷つけられて、討ち死にしていく。
残念ながら、裁判にも同じような側面が大いにある。カルト化教会の牧師に対して裁判を起こして、勝訴を勝ち取る被害者たちもいる。そのような人にとっては、裁判は、自己の尊厳を回復する有効な手段となったと言えよう。

だが、その一方で、時に、裁判の席で、被害者がぼろぼろに傷つけられることがある。加害者が未だのうのうと嘘をつく姿を見せつけられ、被害者の誠実な主張が大それた欺瞞であるかのように非難され、加害者の荒唐無稽な作り話の中で、被害者は再び侮辱され、また、自分が被害を受けた場面を克明に再現させられることによって、見世物にされ、さらに心が傷つく。
裁判の席だけでなく、世間からも、「おまえは自称被害者だろう?」と疑われて傷つくこともある。

ジュディス・ハーマンは『心的外傷と回復』という有名な著書の中で、トラウマを受けた人が自己の尊厳を回復する過程で、必ずしも裁判が有効でない場合があることを示している。ある被害者は、裁判の残酷なやり取りに耐えるだけの心の準備ができていない。受けた被害の性質によっては、裁判で証言することが、被害者にとって重過ぎる心理的負担になってしまうことがある(たとえば深刻な性被害など)。
その場合は、被害者は負担となりすぎる裁判という方法を回避し、その他の手段を有効に用いて回復に役立てることを考えるべきだろう。無念を晴らす方法は、裁判の他にもいくつもある。実名を出さずに手記を発表することも可能だし、自助グループのような安全な場所で、受けた体験を人前で話し、人と苦しみを分かち合うことも可能だ。

被害者は政治闘争の場に出て行く前に、まず、十分に心をケアされる必要がある。無念を晴らし、尊厳を回復するために、まず裁判ありきという考え方は適切でない。
そして、被害者以外の人たちも、キリスト教界内での何らかの深刻な被害が社会に明るみになった時に、特定の団体へのバッシングという、打ちこわしのような運動に熱中するのではなく、今、苦しんでいる人に助けの手を差し伸べることをこそ、真っ先に考えるべきである。

異論はあるだろうが、私個人は、現在のキリスト教界のカルト撲滅運動は、教界内における政治闘争に過ぎず、被害者を救済する効果がほとんどなく、カルト化を予防する効果もないと考えている。
私は自分の人生が、混乱に満ちた日々を受け取るために、救われたわけではないと思っている。だから、教界内のいかなる政治闘争にも積極的に関与する気はない。

このように言えば、「カルト化教会のひどい問題に、中立の立場を取るなんて、あなたはどうかしている。被害者を見殺しにして、悪を野放しにするつもりですか!? 悪徳牧師を擁護するんですか!?」
と意気込んで聞いてくる人があるかも知れない。それに対しては、こう答えるしかない。

「私はどこそこ教会の関係者ではありません。この問題について事実関係を知りません。ですから、関わるべき立場にありません。けれども、もし身近なところで被害者に出会うことがあったなら、その苦しみを軽減するために、できる限りのことをしたいと思っています。自分のできる範囲で、システムという壁にぶち当たって傷ついた弱い人の心を守る側に立って生きることが私の使命だと思っています。
けれども、それは私が生活の上で黙々と実践していくべき事柄であって、救済の方法を理論化して公表する必要はないですし、公の運動に変えてしまう必要もありません。私の行動が誰かを助けることがあったとしても、それを自分の手柄のように世にひけらかすつもりもありません。」

私が何より訴えたいことは、特定の教会内の問題ではなく、むしろ、今、キリスト教界全体に、カルト化の危険がしのびよっていることの危険である。教界全体が搾取と、政治闘争の場に変えられてしまっていることの危険である。誰に味方するべきかと、悠長な議論をしている場合ではない。私達は平和に神を礼拝し、信仰の友と交わるためにこそ、教会に導かれたのに、今、教界全体が戦いの中で燃え上がっているこの現状は一体、何なのだろうか。
命を守るために、第一に必要なことは、焼け落ちる火宅からは早く離れることではないだろうか。

今、カルト被害者救済活動を推進するアッセンブリー教団もまた、あまりにも根深い問題を抱えていることは確かである。私がアッセンブリーに属していた頃、教団の催し物を通して、様々な先生方に会った。教団を越えて、牧師たちが母教会の講壇に招かれてきた。中には、アーサー・ホーランド氏、ミッション・バラバのメンバー、滝本明氏、中川健一氏などの有名な面々も含まれていた。
村上密氏は今から10年以上も前に、すでにキリスト教界全体にカルト化の危険性があることを訴えて、各種セミナーや勉強会を開いていた。

ある意味、村上氏には先見の明があったのだと言えよう。彼はキリスト教界の未来が、現在のようなひどい状況となることを見越して、いち早くその危険を訴えていたのだから。しかし、それは同時に、A教団による自滅的な問題提起でもあった。

私は問いかけたい。もしも、キリスト教界全体が、カルト化の危険と無縁でなく、カルト監視機構がなければ、カルト化を阻止することができないのだとしたら、そのようなキリスト教界に、どうして存在意義があると言えるだろうか? いつ恐ろしい腐敗に見舞われるかも分からないと、公然と警告されているような団体が、それでも、社会に存在し続ける意味があると誰が主張できるだろうか?

カルト化教会を多数生み出すような団体には、何か致命的な制度的欠陥があることは確かである。だが、そのことは議論されず、抜本的な制度改革もなされなかった。なのに、ただカルト監視機構だけを設立すれば、事が済むという結論に傾いているのはどういうわけなのだろうか。それが本当にカルト化対策であると言えるのか。

現在のカルト撲滅運動がやっていることは、事後処置でしかなく、必要なのは、カルト化の原因を突き止めて、それを源から断ってしまうことである。なのに、聖職者の処遇に関わる制度改革は少しも進めようとせず、信徒の無賃労働の問題も取り上げず、ただ、カルトという末期症状に陥った特定の教会だけをバッシングして、手術(改革)しようというのでは、きちんとした処方箋を提示したことにならず、カルト化の根本的な対策には少しもならない。

このようなお粗末なカルト撲滅運動では、教界全体のカルト化を食い止める抑止力にはならない。そしてカルト監視機構が目を光らせていなければ、いつでもカルト化の危険性が待っているようなキリスト教界であるなら、私はそのような恐ろしい危険性のある場所に、友人や知人を連れて行きたくない。私は自分が遭遇した教会の恐ろしい問題に、大切な知人を決して巻き込みたくない。
多分、世間もそのように考えるのではないだろうか。そうだとすれば、キリスト教界はカルト問題を今後どう解決するかを議論する以前に、過去にカルト化教会を多数生み出したことにより、すでに社会的信用を失って、存在意義をも失いつつある現実を直視した方が良いのではないだろうか。

以上のような観点から、私は残念ながら、私はカルト化対策運動を非難する側(例えばORC)の主張にも一理あると思ってしまうのだ。信徒を搾取する無賃労働を推し進め、教会の自己組織拡大だけを狙った教会成長論のために信徒を道具化してきた点では、沖縄リバイバルチャーチのみならず、それを非難しているアッセンブリー教団の側にも、同様の責任があるのではないか。
私が入手した情報によれば、同教団の中にも、準カルト、準々カルトと認定されてしかるべき教会が複数あるということだ。私の母教会であったところは、今でも決して近寄るべきでないほどひどい牧会状態であると聞く。

人間的な目でみるならば、一億円単位の腐敗と、数十円単位の腐敗では、話が全く違うように思われるだろう。しかし、主の目から見れば、腐敗は全て腐敗であって、事の大小が問題なのではない。奉仕という名の無賃労働による信徒の搾取を当然のように推し進め、問題のある牧師を処罰したり解雇したりする際に必要な、透明性のある手続きを事実上、無効化しているような教団に、どうしてよそのカルト化教会だけを非難する資格があるだろうか。
ある教団が慣例上、規則を有名無実化し、牧師という職業を何か民主主義的な手続きの及ばない、神聖不可侵な領域のようにしておきながら、教団外の他教会の資金繰りや制度の不透明性だけを糾弾するというのでは、とても公平な判断であるとは言えない。

旧約聖書において、イスラエルの民は、預言者が支持した戒めを破ったがために、何度も、敵との戦争に敗れてきた。自らが拠って立つ確かな基盤となるべき聖潔を持たない人間が、どうして正義を掲げて敵を打ち負かすことができるだろう?

私は現在、今のところ(教会籍が奪われたため)どのような群れにも所属しておらず、誰かを指導者と仰ぐ気持ちもないが、一信徒として、遠方より、Dr.Lukeの次のような記事には大いに共感するところがある。

「ニッポンキリスト教とはいかなる形にせよ、関係を持たないように警鐘を鳴らします。今年は神の峻厳な裁きの御手が置かれます。告発される側はもちろんのこと、告発する側もその御手を逃れることはないでしょう。和解すべき時はあらゆる犠牲を払っても和解するべきでしょう。それは十字架の経験です。そしてその報いは大きいのです。」

告発する側は、告発するだけの確かな「聖なる基準」を持っているだろうか。全ての人間が我が身を厳かに振り返り、十字架の御下にひれ伏し、自己正当化と愚かな争いを止めて、平和に協調して歩む道を探したいものである。

また、終わりに、「山暮らしのキリスト」のSugar氏の記事からも大いに共感する文章を抜き出しておく。

「どんな人であっても、その正体は神に呪われた墓の下の腐乱死体に過ぎないことを
私達は決して忘れてはなりません。
だから自分の実態を真に見た人に、他人と比べた『うぬぼれ』などあろう筈がないのです。
ある腐乱死体が他の腐乱死体にどんな自慢をするのでしょうか!」

そう、私達は皆、主の前に腐乱死体。どの死体の中にも絶望あるのみで、正義なるものは生じえない。また、Sugar氏の別の記事には、まさに上で述べてきたことと同じ内容。

「聖書の総ての真理に接する時、私達は絶対的に『遠近法』を間違えてはなりません。
焦点はただ生けるキリストです。
それも復活され、キリスト者と一つとなられた『今日のキリスト』です。
もしもそのキリストへのフォーカスが正当に行われるならば 
もろもろの他の真理は必要に応じ、適宜神によって開かれるでしょう。」

目の前で繰り広げられる人間による闘いに注目するのでなく、ただ上を、すなわち十字架なるキリストのみを仰ぎ見たい。それが、私がキリスト教界のカルト化を告発することを、決して生涯の使命としたくないと切に考える理由だ。私達に与えられた特権は、正義を振りかざして悪者を成敗する運動に一生を捧げることでなく、「キリストと共に生きる」ことなのだから。

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