今夜は近くの天然温泉に母と共に行って来た。
おかげで休養を取れ、眼精疲労もかなりましになったように思う。昔から私は斜視ゆえに視力が悪かったのだが、最近は、本を広げても、15分とページを見つめていられないほどに疲れが出て来るようになった。
最近、主の憐れみと恵みにより、我が家には随分と平和が訪れて来たように思う。新たにキリスト者となった者がいるわけでなく、偽教会で起こった事件を語ることもできないし、信仰の話を分かちあえる人がいるわけでもないのだが、少なくとも、以前にあったような残酷な裁き合いはしばらくの間、起こっていない。
これは主の御恵みであり、皆様のお祈りのおかげだと感謝しています。
先日、店でかかっている音楽を聴いて、おやと思った(我が家は自営業を営んでいる)。
「これって、KFCで使っていた賛美と同じ曲じゃない…?」
母が言った、「知らなかったの、ヒルソング、一時期、流行したでしょう?」
そうか…。随分前から、私は店でかかっているヒルソングを知らずに聴いていたのだ。
我が家には、キリスト教界を席巻したあらゆる書物や音楽CDが大量に保存されている。書棚をのぞけば、聖霊派の信徒が教科書のように読んだ本がいくらでも見つかるし、リバイバルソングのCDもきっちり棚にそろっている。だが、約10年間、教会に幻滅してキリスト教界から遠ざかっていた私には、その間の流行に関する知識が全く抜けている。どうやら、私よりも母の方がはるかに教界の動向に精通しているようだ。
私は生まれてこの方、携帯電話を一度も持ったことがなく、外出しても腕時計をはめず、TVも見ない、新聞も読まない、流行の音楽も聴かない、そんな人間であると白状したら、驚かれるかも知れない。好まないものを排除した結果、そうなったのだが、これでは、現代の化石と呼ばれても仕方ないだろう。
その上、偽教会の事件が起こって後、約1年間、ショックのため、世間一般の動向から完全に遠ざかった。そんないきさつがあって、ちょうどカルト化教会で長年、共同生活を送った元カルト信者のように、私には、世間の誰もが知っている一般常識が欠けている部分が、大いにあるかも知れない。その無知があまりにもはっきりと記事に表れていなければ良いと願うのだが…。
さて、話を戻せば、我が家にとりあえずの平和が訪れて、約1ヶ月ほどが過ぎた。
平和になって、心が落ち着いたかと言うと、そうではない。ますます、主に連なる兄弟姉妹を近くに得られないことから来る孤独感が高まった。聞けば、ある兄弟もやはり家庭でキリスト者として孤立し、信仰の友を近くに得られずに苦しんでいるようだし、以前、親しかったある姉妹はと言うと、生活のために過重労働を強いられて、とても交わりを持つどころではないらしい。
たとえ喧嘩や、騒ぎが一切、周りで起こらなくなったとしても、心の深いところで何よりも求めているものが見いだせないことから来る孤独感は埋まらない。
自分が心から同意して生きている価値観に、全くそぐわない環境で暮らすことから来る苦痛は減らない。
だから、日々、祈らずにいられない。
主よ、あなたの名において歩む全ての兄弟姉妹に、あなたの名において集まる機会をどうぞお与え下さい。世の光としてのクリスチャンを孤立したままに置かれないで下さい。あなたを共に賛美し、あなたに栄光を帰し、共に愛を示し仕えることのできる兄弟姉妹と会う機会をどうか与えて下さい、と。
さて、このブログは読者の皆様の参加のおかげで随分、有益な議論の場にすることができた。しかし、今、私の中で、一つの時代が終わったように感じられるため、この記事を最後に、もう一度、場所を改めることにしたい。
前ブログでも随分、無駄な記事を沢山書いたと思う。このブログにもやはり無駄な内容が多かっただろう。クリスチャンとしてふさわしくない内容も、あったかも知れない。しかし、そうした私の心の紆余曲折、話の脱線、無知を含めて、今、すべてを改めて主にお返ししたい。
どうぞこのブログを読んで下さった方が、私の弱さ、私の愚かさ、私の怒り、私の無知、私の利己主義、そういうものを大いに感じ取って下さるように。そして同時に、それが主にあって、打ち砕かれ、変えられていく過程をも、感じ取っていただければ、それ以上に幸いなことはない。
私は完全な人間として、真理を完全に把握している人間として記事を書いているつもりは少しもない。学術論文ならば、誤りは決してあってはならないが、キリスト者の歩みは、それとは違う。不完全な者が、キリストを求め、真理を求め、時に、苦しみ、迷い、道を誤りながらも、倒されてもまた起き上がって、歩んでいく過程が、信仰の歩みだ。
このブログ執筆中に起こった変化の中でも、最大の変化(恵み)が一つある。それは私が、ニッポンキリスト教界から受けたひどい仕打ちに対する怒りから解放されたことだった。
あの事件のために、何ヶ月間、私は泣き暮らしたことだろう。どれほどの貴重なものを失い、どれほど苦しまなければならなかったか。それは生涯、決して忘れることができない事件であったし、忘れるまいと心に誓った。
キリスト教界では、私の遭遇した事件に勝るとも劣らない悲惨な事件が各地で起こり、カルト被害者と呼ばれる人々が次々生まれているが、このような忌まわしい状況は、決して放置してはならないものであると私は思った。
だが、ブログを書いている途中で、私には変化が起こった。それまで私をキリスト教界の告発へと突き動かしていた動機―義憤―が消えてなくなったのだ。偽教会で受けた仕打ちから来る悲しみ、苦しみ、喪失感、そういうものがある時点を境に、消えてなくなったのだ。それは、ひとえに主の憐れみによって、私の悲しみが癒されたのだが、それだけに終わらなかった。
私が自分の中で最も正しいと思っていたもの、不正や悪事に対する一人の人間としての全うな憤りすら、キリストの御前に焼き尽くされたのだった。
さらに、義憤が焼き尽くされるという経験は、家庭における迫害を通して、最も苦しい形で実現されねばならなかった。以前のどの時よりもひどい形で、私は暴言、いわれなき非難を受けた。だが、そこで私は抵抗することを完全にやめた。誰からどのような理不尽な非難を受けたとしても、呪いの言葉を吐きかけられたとしても、それに対して、憤りをもって応酬することをやめ、身の潔白を主張するのをやめることを学ばせられた。
それは生きた人間としての私にとっては、死に等しい選択だった。非難されて黙っていることは、ちょうど虫が攻撃されないために死んだふりをするのに似ているが、その難はいつ終わるとも知れないものだった。死んだふりが、一瞬ではなく、何ヶ月も、一年以上に渡って続き、死んだふりが、ふりではなくなって、本当の死につながる可能性もないわけではなかった。
私のプライドはその間、ズタズタにされた。ちょうど「神を呪って死になさい!」と妻に言われたヨブと同じような心境だったのではないかと思う。喜びも、悲しみも、今まで歩んできた人生行路の全てが全否定された。そんな状況で、学位などに何の価値があろう。私は身近な人々から目を背けられるゴミ捨て場のような存在となった。残酷ないわれなき非難の言葉と、完全な軽蔑の前に、何も言わずに、ただ立ちつくすことを学ばされねばならなかった。
それは嵐のような苦しみだったが、その時を経て、今、私は改めて聖書の御言葉を握り締め、子供はやはり両親を敬うべきだと言いたいし、私たちは兄弟を呪ってはならない、敵となった人をも愛すべきだ、自分を傷つけた人を赦すべきだと言いたい。
家庭の歪みがどんなに人の人生を狂わせるか、その苦しみの深さを私は身を持って知っている。アダルトチルドレン等の学説が馬鹿にならない信憑性を持っていることも身を持って知っているし、カルト被害者がどんなにつらい人生を歩まされているかも知っている。偽牧師たちがどんなに卑劣な行動を取っているかも知っている。だから、被害者感情に溺れていると言って、受けた被害から立ち上がれないでいる人々を非難するつもりは毛頭ない。
だが、想像を絶するような苦しみを体験した者として、改めて言いたいのだ、私たちは決して、自分を迫害する者を憎んではいけないと、両親を憎んではいけない、兄弟を憎んではいけない、信仰の友だった者を憎んではいけないと、自分自身で裁きを行おうとしてはいけないし、敵と思われる全ての人を、主にあって赦すべきなのだと…。
このブログを終了するに当たり、私ははっきりと宣言しておきたい、私を傷つけた人々を私は主の御名において赦すと。この言葉の裏に、私の絶叫のような、心引き裂かれる痛みがあることを忘れないで欲しい。しかし、私は自分の感情にではなく、主の御言葉に従って生きるために、このことを宣言する。だから、私に対して罪を犯した人は、主にあって赦されることを先ず何よりも考えて欲しい、たとえ私に対して何もできなかったしても、負い目を感じる必要はない。
あざけりは愚かさの表れである、と私は思っている。私たちは迷いの最中にある人、誤った道を歩いている人、真理を知らない人をあざけらないように気をつけねばならない。ニッポンキリスト教界に属している人々をあざけったり、カルト被害者をあざけったり、偽牧師、偽教師に対して裁判を起こした人々をあざけったりすることは間違いである。
クリスチャンは、ただすべての人が十字架を信じ、命と喜びに引き入れられて欲しいと願うべきであり、真理を知らず、自分よりも無知な人生を送っているように見える人を馬鹿にしたりすべきではない。私も昔は随分、人に対する軽蔑の感情を持っていたが、今はあらゆる軽蔑、嘲笑は主から来たものではないと確信している。高ぶりは滅びに先立つことを人は知るべきである。
さて、場所を改めて、キリスト教界の動向についての分析をこの先も続けたいと思っているが、それは今までのように、義憤からでなく、あざけりからでもなく、ねたみや、競争心、復讐心からでもなく、ただまことの光であられるイエス・キリストに照らし合わせて、真理でないものの正体をはっきりさせたいという気持ちから行いたい。
数日程度、休みを取ります。その後、新しいアドレスをここに書きます。
では、皆さん、お元気で!
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