教会成長論 総括
さて、あまりにも昔の話になってしまったので、すっかり忘れておられる方も多いかも知れないが、教会成長論についての総括を書いておきたい。
これまで、手束正昭著『教会成長の勘所』(マルコーシュ・パブリケーション)を手本にしながら、教会成長論の教えがどれほど非聖書的かつ危険なものであるかを指摘してきた。最後の記事では、クリスチャンは神の子か、それとも神の養子かというテーマで話を進めたが、今、このテーマ全体を振り返りながら、氏が述べている「霊の親」の教えの危険性について、話をまとめたい。
内容はすでに教会成長論という枠組みを超えて、ペンテコステ・カリスマ運動へと広がりを見せようとしている。そこで、教会成長論の分析はこれで終了とし、以後、改めて、議論を続行することにしたい。
1.「養子論的キリスト論」はなぜ異端なのか
手束正昭氏の理論の異端性は、すでに見てきたように、何よりも、手束氏が早くから唱えていた「養子論的キリスト論」の中に最もはっきりと現れている。(これについては、すでに述べたように、『キリスト教の第三の波 ―カリスマ運動とは何か』p.29-35、『続キリスト教の第三の波』p.15-36を参照。)
「養子論的キリスト論」とは、文字通り、イエス・キリストは神の子ではなく、神の「養子」だったとする説である。なぜなら、手束氏の見解によれば、イエスは、聖霊の力によらずして、本来的に、神の子としての資格と力を持たなかったからである。
手束氏によれば、イエスを神の高みにまで引き上げたのは、聖霊による受胎、そしてバプテスマを受けて後の聖霊による満たしであり、この聖霊こそが、イエスに神の子たる資格を付与している根源であり、聖霊なくしては、イエスは私達と同じ人間であり、キリストではありえず、神の子としての資格を本来、持たなかった(つまりイエスは本来、神の子ではなかった)ということになる。
つまり、聖霊なくして、イエスはただの人に過ぎなかった、というのが、手束氏の述べている「養子論的」キリスト論の本質であり、この説は異端とされたネストリウス派の教えの影響を強く受けて生れたものである。
(ここで、私の言っていることがよく分からない、という人のために、手束氏の著書より、正統派の教えとされたキュリロスの説と、異端の宣告を受けたネストリウスの説の違いについて、もう一度、説明を補足しよう。手束氏は言う、
「ナザレのイエスにおいて無比なる仕方において働いていた聖霊の豊かさこそが、彼をしてキリストたらしめたと言える。
キュリロスはキリストを聖霊の送り手としては認めるが、担い手としては認めようとしない。アナテマ九項に言う、『イエスの行い給うた奇跡は、イエスが神より享受し給いし聖霊によりて行い給うたものであると思うてはならぬ。何故ならば、この聖霊自体がイエス自身の聖霊であるのである』。
つまり、キュリロスはイエスが人に変化した神であるが故に奇跡をなし得たのであって、イエスと共に働いた聖霊がそれをなしたと考えてはならぬ、聖霊とはキリストの霊であり、キリストから発する、と言うのである。
これに対してネストリウスは、イエスの奇跡は『聖霊とロゴスなる神との間に存在せし連続関係による』のであり、聖霊こそがイエスをして“カリスマティカー”(カリスマの業を行う者)たらしめた原因であることを明確にしている。
このカリスマティカーなるイエスとの聖霊による連続性は、同じくカリスマティカーとしてのキリスト者を生み出すことを可能にすることになる。もし、あのエペソ公会議においてネストリウスが異端として退けられることなく、その主張がキリスト教会の主流をなしていったならば、それ以後のキリスト教のあり方も俄然違ったものとなり、教会はカリスマ的なダイナミックなものとして生き続けていったことであろうと思う時、私は残念でならない。」『続キリスト教の第三の波』、p.35-36。
このようにして、手束氏はその理論において、私たちクリスチャンが十字架を通して生まれ変わって神の子とされる必要性を強調するのでなく、クリスチャンが聖霊を受けることによって、イエスに等しい神の養子として引き上げられ、イエスのような「カリスマティカー」としてダイナミックに働くようになることを強調するのである。ここでは、人を生まれ変わらせる力として、聖霊の力だけが強調され、十字架による新生の必要が事実上、否定されていると言えよう。)
手束氏のキリスト論の異端性は、すでに述べたように、この他、『教会成長の勘所』における、「父なる神、母なる聖霊」という主張にもはっきりと表れている(p.77)。従来の三位一体論には、聖霊を「母なるもの」として捉える見解はなく、三位一体の神は相補関係にあるのではなく、あくまでそれぞれが独立した神の位格であるとされてきた。にも関わらず、手束氏は「父なる神」と「母なる聖霊」とがあたかも相補関係にあって、互いに無い役割を補い合う存在であるかのような説を展開する。そのような考えに立つと、必然的に、二つの神格の交わりから生れたのが御子イエスであるということになる。そのような説に立つと、御子には「父なる神」と「母なる聖霊」への依存性が生じることになり、御子の独立性は成立しなくなる。
このような説は、イエス・キリストが完全な神であられ、同時に、完全な人としての条件を持って地上に来られたとする従来のキリスト論、従来の正統な三位一体論から完全に逸脱している。カルケドン信条に照らし合わせれば、異端であることは明らかである。
2.「養子論的キリスト論」を信じることに伴う危険
さて、手束正昭氏の「養子論的キリスト論」を受け入れ、それを信奉するようになると、私達の信仰にはどういう危険な変化が起きるのだろうか。
① キリストの十字架上での罪の贖いの否定
まず、イエス・キリストの十字架上での罪の贖いは、私たちがキリストの神性・人性を完全に認めないならば、効力を持たないことになる。
もしもキリストが聖霊によらずに単独では神の子たりえず、本来的に人間であったという説に立つならば、私たちにとって、十字架は、神の側から提供された、神の独り子による罪の贖いではなく、人間による犠牲ということになってしまうから、神と人とを和解させる効果を持たないことになる。
従って、もしも私たちがキリストの完全な神性を信じないならば、私たちはキリストの十字架による罪の贖いを信じていないことになる。なぜなら、聖書ははっきりとこう言っているからである、「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。
聖書は、キリストが神の「御子、ひとり子」であったと記しており、神の養子であったとは教えていない。キリストは完全に、何一つ欠けるところのない「神のひとり子」だったからこそ、神と人とを和解させる贖いの犠牲となられるにふさわしいお方だったのである。
「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである」(ヨハネ3:17-18)
このように、神のひとり子たるキリストを信じない者は、罪の赦しを得ることができず、救いにはあずかれないことを聖書は教えている。従って、「養子論的キリスト論」を信じ、キリストが本来的に神の「養子」であったと考える者が、救いの条件を満たしていないのは明白である。このような教えを信じている者について、聖書は何と言っているだろうか。
「イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である」(ヨハネⅠ4:3)
「御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」(ヨハネ3:36)
② 神と人との唯一の仲保者としてのキリストの否定
『教会成長の勘所』によれば、神は人間とは異なる次元に住まう方であり、肉なる人間は、神と直接交信することができないので、神の恵みと救いを受け取るために、信徒は牧師を仲保者として介さなければならない、とされている(p.21)。だが、このような説は、すでに述べたように、聖書が神と人との唯一の仲保者であると教えているイエス・キリストを否定し、人である牧師がキリストに成り代わって神と人との仲保者になろうとする異端の教えである。
「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。神は唯一であり、神と人との仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられた<略>」(テモテⅠ2:4-5)
「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである」(エペソ2:14-16)
完全な神であられ、同時に、完全な人となって世に来られたキリストだけが、ご自身の死と復活によって、人を神と和解させることのできる唯一の仲裁者なのである。このキリストを信じることによってのみ、人は神にふさわしく生まれ変わることができる。このただひとりの仲保者、聖なる犠牲の小羊であるキリストを通さずして、私達はたとえどんなに優れた牧師を仲裁者に立てたとしても、決して、神からの救いも、恵みをも受け取ることはできない。優れた牧師も、信徒と同じく、肉なる人間の一人に過ぎず、人を神の国にふさわしく生まれ変わらせる力は十字架の他にないからである。
「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」、「肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である」(ヨハネ3:3,6)
「自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう」(ガラテヤ6:8)
★本来の正しい教義

★今日広まっている異端の教義

教会成長論は、牧師がキリストの代わりに神と人との仲裁者に成り代わろうとし、信徒にキリストへの信仰ではなく、牧師への崇拝を求める教えである。このように、キリストを通さずに、肉なる指導者を介して救いを得ようとする信者が、永遠の命に到達することは決してない。
③ クリスチャンが神の子である事実の否定
聖書は言う、「神は<略>天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、<略>愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである」(エペソ1:3-5)
このように、私たちクリスチャンは、万物の存在以前から、神の愛によって、神の子供として正式に選び出された。私たちは、父なる神の正統な子供であり、御国の正統な後継者であるがゆえに、救いや、その他諸々の恵みを約束されているのである。
だが、もしもキリストを神の不完全な子、神の養子としてとらえるならば、私たちクリスチャンもキリストと同様に、神の養子に格下げされ、神の子たる資格と権利を本来、持たない者になってしまう。これは、私たちを子として愛して下さる父なる神の愛を否定することにつながるだけでなく、このような教えを信じていると、信徒は神の国の正式な後継者としての資格をやがて失うのは明白である。
「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪によって死んでいた者であって、<略>この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて<略>生れながらの怒りの子であった。しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜った慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった」(エペソ2:1-7)
もう一度考えてみよう、私たちの本当の父は誰なのだろうか?
子供の頃、きっと誰しも一度は、自分が本当に両親の実の子なのか、それとも、継子なのかと、疑ってみたことがあるのではないだろうか。子供にとっては、自分が実の子であるのかどうかという疑問は、アイデンティティの根幹に関わる一大事のように思える。その差が、自分が親から本当に愛されるにふさわしいかどうかを決定する重大な要素のように思われるのだ(もちろん、実子かどうかという一点によって、親の愛をおしはかることはできないのだが、子供の目から見れば、これは重大問題のように思われる)。
クリスチャンにとっても、同様のことが言える。私たちが誰を自分のまことの父と考えるのかという問題は、実際にはかりしれないほどの重大性を持っている。私たちが、まことの父とは唯一の神であると考えるのか、それとも、実は別な誰かが本当の父親として存在すると考えるのか、その違いは、私たちクリスチャンのアイデンティティを左右するだけでなく、御国の後継者としてのクリスチャンの資格そのものを根幹から揺るがす重大事である。
仮に手束氏の説に立って、クリスチャンが神の養子であると信じるとしよう。すると、その人間にはどのような将来が待ち受けているのだろうか。聖書を見てみよう。
パウロは言った、「あなたがたは律法の言うところを聞かないのか。そのしるすところによると、アブラハムにふたりの子があったが、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生れた。女奴隷の子は肉によって生れたのであり、自由の女の子は約束によって生れたのであった。さて、この物語は比喩としてみられる」(ガラテヤ4:21-24)
神の祝福によって、諸国民の父と呼ばれることが約束されていたアブラハムには、長い間、子が生まれなかった。そこで心配したアブラハムと妻サラは、神の約束の成就を待つのでなく、人間的な思惑によって、ハガルという女奴隷を通して、アブラハムに息子をもうけてしまった。だが、その子は女奴隷の血を引いているわけであるから、アブラハムとサラの正式な子ではない。そして、その後、神の約束が成就して、アブラハムとサラの血を引いた正統な息子イサクが生れた。
女奴隷とその息子は分を超えて思い上がっていたので、イサクと世継ぎの資格を争うだろうとの危惧があった。そこで、女奴隷ハガルとその息子は、アブラハムの家から追放された。パウロは旧約聖書に記述されるこの出来事を「比喩」としてとらえて、次のように説明する。
「兄弟たちよ。あなたがたは、イサクのように、約束の子である。しかし、その当時、肉によって生れた者が、霊によって生れた者を迫害したように、今でも同様である。
しかし、聖書はなんと言っているか。『女奴隷とその子とを追い出せ。女奴隷の子は、自由の女の子と共に相続をしてはならない』とある。だから、兄弟たちよ。わたしたちは女奴隷の子ではなく、自由の女の子なのである」(ガラテヤ4:28-31)
ここに私たちは、手束氏の言うような、神の「養子」たちに定められた運命を象徴的に見ることができる。
十字架によって生まれ変わり、真理に従って歩むクリスチャンたちが、いずれ、偽りの信仰を持つ、律法と肉によって歩む世の子らから迫害されるだろうことについては、イエスも予告している。
「人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう。更にあなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう。彼らがそのようなことをするのは、父をもわたしをも知らないからである」(ヨハネ16:2-3)。
「あなたがたは両親、兄弟、親族、友人にさえ裏切られるであろう。また、あなたがたの中で殺されるものもあろう。また、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう」(ルカ21:16-17)
この御言葉は、「私は神に仕えている」と標榜する信者の中に、実は神を知らず、キリストを知らない、肉によって生まれた者が混じっており、彼らが誤った信仰に立って、真の信仰者を迫害するだろうことを示している。このような、「父を知らない、キリストを知らない」信者は、肉に従って歩む者であるから、父なる神によって生まれたのでないのに、子供であると標榜している、いわば、キリスト教の私生児のようなものである。
だが、私生児の方が、正統な子供たちよりも威厳があるような振る舞いをし、自分こそが最も神の国にふさわしい後継者であるかのように触れ回り、教会の会堂を占拠して、本当の信仰者を次々追い出したりする(というよりも、必ずそうなる)ことを聖書は告げている。
パウロは、このようなキリスト教の「養子」たちは、いずれ、ハガルとイシマエルと同じ道を辿らなければならないことを告げている。御国の正統な後継者でない女奴隷とその子は、必ず、追い出されなければならないのである。
「聖書はなんと言っているか。『女奴隷とその子とを追い出せ。女奴隷の子は、自由の女の子と共に相続をしてはならない』とある」(ガラテヤ4:30)
イエスも言われた、「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけがはいるのである」(マタイ7:21)。
このように、神の国の真の後継者は、霊によって生まれ、キリストのものとされ、神の子と約束されているクリスチャンだけである。肉によってはアブラハムの子孫を名乗る資格はないかも知れないが、霊によって、約束の相続人と定められているクリスチャンこそが、御国の相続人なのである。
「もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである」(ガラテヤ3:29)。
「このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。したがって、あなたがたはもはや僕ではなく、子である。子である以上、また神による相続人である」(ガラテヤ4:6-7)
私たちは、神に向かって「アバ、父よ」と呼びかける特権を与えられた、神に愛される神の正式な子供である。この絶大な特権を、どうして養子という惨めな身分と取り替える必要があるだろうか。そんな必要はどこにもない。
④ イエスの名を通して信ずる者に与えられるすべての恵みの否定
もしも私たちがキリストの完全なる神性を否定し、神と人との唯一の仲保者であるキリストを否定するならば、私たちは救いを失うだけでなく、神から一切の恵みを得ることもできなくなってしまう。
「あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう」(ヨハネ16:23)と、クリスチャンには、御言葉のうちにとどまるならば、イエスの名を通して、父なる神から必要な恵みをいただけることが約束されている。ところが、もし、手束氏の説に従って、クリスチャンがイエスを通して父なる神に祈り求めるのではなく、「霊の父」である牧師を通して、祝福を得ようとするならば、私たちは聖書が約束している恵みを全く受け取ることができなくなってしまう。
⑤ 信徒の牧師への依存や隷従
さらに、もしも私たちが聖霊を「母なるもの」ととらえ、「父なる神」と「母なる聖霊」を通して生まれたのが御子イエスであると考えるならば、イエスには「父なる神」と「母なる聖霊」への依存性が生じることになる。すると、 同じことが、信徒にもあてはまる。もしも信徒がイエスを通して父なる神に祈るのでなく、「霊の父」である牧師や、「霊の母」である牧師夫人を通さねば神と交われないという教えを信じるようになれば、信徒は、信仰生活全般にわたって、牧師(または牧師夫人)へ依存しなくてはならなくなるだろう。
聖書は言う、「あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである」(ガラテヤ5:13)。信徒には救いと同時に自由が与えられたのである。しかし、その自由を牧師への依存ととりかえてしまえば、信徒は再び、人の奴隷と成り下がってしまい、この世の掟、肉に従って歩む奴隷の子へと転落し、神の怒りがその上にとどまる生まれながらの怒りの子へ逆戻りしてしまうのである。
このようにして、教会成長論とは、教会を立派な会堂建築や、多額の献金集めや、信徒数の増加に駆り立てて、教会の権勢を誇ろうとする終わりない競争、「目の欲、肉の欲、持ち物の誇り」というむさぼりの欲に陥れるだけでなく、クリスチャンからイエス・キリストへの信仰を奪い取り、代わりに牧師崇拝を植えつけるものであり、救いを失わせるものであることを見て来た。
手束氏の教会成長論は、牧師を「礼典的・象徴的存在」として、信徒が下にも置かないほど崇め、牧師を経済的にも何不自由なく厚遇するように教えている。
だが、そのようにして信徒から尊ばれ、崇められ、もてはやされようとする聖職者に対して、イエスは何と言われただろうか。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる」(ルカ16:14-15)
「あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」(ルカ16:13)
教会成長論の影響を受けて、富に仕えるようになった教会は、必然的に、神を裏切り、神の御前で忌み嫌われる教会となることを、私たちは聖書から十分に学び知ることができる。富に仕え、営利を追い求めるようになった教会が、同時に神に仕えることは不可能である。そしてそのようなむさぼりに取りつかれた教会の中にとどまっている信徒は、実際に、イエス・キリストを否定する誤った異端の教えを信じるようになり、救いを失っていくのである。
正統な教義にはっきりと反しているにも関わらず、このような教えを吟味もせずに取り入れた結果、はかりしれない悪影響を受けた教会は多いと考えられる。『教会成長の勘所』は、ペンテコステ・カリスマ運動の影響を受けた多数の教会で好意的に迎えられた。同書の裏表紙に推薦の辞を書いているのは、全日本リバイバルミッション代表 日本教会成長研究所全国講師 有賀喜一氏である。長年、講壇に立って信徒を教えてきたはずの牧師が、この書物の明らかな異端性をどうして見破ることができず、一方的な賛辞を送っているのか、驚く他ない。
ところで、私は異端に関する分析は興味本位で行われてはならず、ある説を異端であると宣言するためには、慎重な分析と、十分すぎるほどの根拠が必要になると考えている。そこで、手束正昭氏の説を詳しく分析するために、私はこれまでにもかなり長い記事をいくつも書いてきただけでなく、氏の著書の大半を自費で購入したことをお断りしておきたい。
特に、私の手元にある『教会成長の勘所』は、幸運なことに(!?)手束氏の直筆のサイン入りであり、「主を畏れよ!2008.8.31」とある。
だが、その言葉はそっくり著者に返そう。主を畏れるべきなのは、一体、誰なのか、諸教会とクリスチャンは今、改めて考えてみる必要があるだろう。
メガ・チャーチを目指した多くの牧師たちが、『教会成長の勘所』を手本にして、教会運営を目指し、誤った道に堕ちて行っただろうことが憂慮される。営利優先の教会運営に走って、多数の信徒を傷つけ、食い物にした沖縄の諸教会も、恐らく、この書物の影響を強く受けていたのではないかと私は想像している。
しかしながら、『教会成長の勘所』が諸教会にもたらした悲しい影響はこれだけでは終わらない。この著書においては、この他にも、セル・チャーチ論、悪霊追い出しの理論等、ペンテコステ・カリスマ運動において重要な役割を果たしたいくつかのプログラムについての分析が進められており、いずれも一読しただけで、大きな危険性を含んでいることが感じ取れる。だが、そのことについては稿を改めて論じることにしよう。
繰り返すが、教会成長論を信じてはならない。このような教えに影響されてはならない。私たちクリスチャンにとってのまことの父、まことの教師は、天にお住まいになられる神ただお一人である。それを「霊の父」としての牧師と取り替えようとするような教えを信じてはならない。
私たちは神の子とされている貴いアイデンティティを忘れないようにしよう。クリスチャンは聖霊を受けることによって、イエスに並ぶ「カリスマティカー」とされることによって、御国にふさわしくなるのではなく、バプテスマを受け、十字架を信じて新生し、聖霊によって生まれ変わることによって、キリストと同じく神の子としての資格を与えられ、御国にふさわしい者へと変えられるのである。
十字架による生まれ変わりには、華々しい奇跡や、五感で感じられるダイナミズムは伴わないかも知れない。だが、たとえ肉体的な感覚が何一つ伴わなくとも、人の罪を贖い、人を生まれ変わらせる力は、イエスの十字架にしかないことを、私たちクリスチャンは聖書を通して確かに知っているのである。
「あなたがたは、みな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。」(ガラテヤ3:26-27)
私たちはキリストへの信仰にとどまり、そこから一歩も外へ出ないよう注意しよう。教会はキリストの御身体として機能する時にこそ、調和の中で、麗しさを発揮するのであって、キリストを否定し、キリストを捨て去った教会成長論の影響を受けた教会が、正常な機能を失い、やがて崩壊に至ることは疑いがない。そのような教会では、信徒は傷つけられ、救いを失って、絶望の中に投げ出されていくだろう。
教会成長論は教会をカルト化させ、信徒から救いを奪う危険な教えである。そのことを、今までの記事の中で十分にご理解いただけたならば幸いである。
一週間ほど前に、近所の田んぼには水が引かれ、小さな苗が植えられた。今、我が家の前に広がっている田んぼは湖面のようで、風が吹くごとにさざなみが立って美しい。
今日は井倉洞に行く予定を立てていた。子供の頃、祖父に連れられて行った記憶がおぼろげにある鍾乳洞だ。近々、友人がひょっとすると家に遊びに来てくれるかも知れないので、下見をしておこうと思ったのだが、ホームページを見ると、豪雨のため落石が起こり、入洞禁止とのこと。残念…。
さて、今日は地元で撮影され、私が興味を持っている映画を一本紹介したい。私はまだ観ていないが、全国ではすでに上映が始まっている地域があるそうなので、関心がある方はぜひご覧下さい。
映画「精神」は、「こらーる岡山」という、岡山市にある外来の精神科診療所で、実際の患者を対象として撮影された。
「映画が撮られ始めたのは小泉政権のもと、『障害者自立支援法案』が可決された2005年秋。
『自己責任』や『受益者負担』のかけ声のもと、福祉政策や社会構造が激動期に突入し、患者たちの生活や将来の展望に不安が増していた。『精神』は、社会の転換期を如実に切り取る作品にもなったのだ。
監督は、ニューヨーク在住の映画作家・想田和弘。前作『選挙』に続き、ナレーション・説明・音楽一切なしで、観客が自由に考え、解釈できる作品を完成。『被写体にモザイクをかけると、偏見やタブーをかえって助長する』と考えた監督は、素顔で映画に出てくれる患者のみにカメラを向け、人間として鮮烈に描き出すことに成功した。
本作は、08年の釜山国際映画祭とドバイ国際映画祭で最優秀 ドキュメンタリー賞を、マイアミ国際映画祭で審査員特別賞を、そして香港国際映画祭で優秀ドキュメンタリー賞を受賞し、 既に4冠 を達成。ベルリン国際映画祭(09年)にも『選挙』に続き正式出品され、世界中で絶賛されている。」
小泉政権以来、日本社会には、合理化の強い圧力が上からかけられている。終身雇用制を含む、伝統的な制度と価値観が崩壊し、それに代わって、至るところで、厳しい競争原理が導入され、日雇い派遣、派遣切りなどの問題が続出している。だが、そのような非人間的なまでの合理化の圧力に対して、元来、不合理な部分を含む人間性は、必ず反乱を起こすものだ。それは不適応や、病や、脆さ、弱さとなって現れる。今や年間の自殺者が三万人にも達している日本社会で、鬱病など心の病は誰にとっても、他人事ではなくなっており、人間の変えられない弱さ、非合理性を体現している一つの集団が、精神障害者たちであると言えよう。
映画「精神」は、精神障害者に直接、スポットライトを当てることによって、極端な合理化の波に見舞われた現代日本社会の中で、圧迫され、行き場を失い、叫び声をあげている人間性そのものを象徴的に描き出していると言えるだろう。上映されれば必ず観に行こうと私は考えている。
* * *
さて、今、日本社会だけでなく、ニッポンキリスト教界も、刻一刻と殺伐とした場所に変わりつつあるように感じられる。営利を優先した過酷な競争社会となり果てたキリスト教界は、カルト被害者を含む、数え切れない脱落者の信者を今も生んでいる。だが、人間を大切にしない、利益優先の競争原理は改められているようには見えない。
その上、カルト対策、異端の排除等の美名に名を借りた、別種の圧力がキリスト教界に介入している。こうして、信者同士が互いに断罪し合い、互いに罪をなすりつけあい、互いの正当性を誇って、互いを滅ぼし合う殺伐とした場所がキリスト教界となりつつある。
キリスト教界全体が、まさに血塗られた戦場のような場所へと変わりつつあるように私には感じられてならない。いくつもの対立する集団が、互いに異端のレッテルを貼り合って、互いに根絶し合うような時が間もなく来るかも知れない。すでにその兆しのように、浅はかな勧善懲悪の構図に基づいた異端バッシングと、一触即発のような緊張した空気が、各種キリスト教系のメディアに漂っているように感じられる。
異端という言葉が独り歩きすることを私たちは十分に警戒しなければならない。異端を異端であると告発するためには、分厚い調査報告書のような、十分な論拠が必要となるだろう。異端に関する判断は決して、軽率に行われてはならず、極めて慎重に行われなければならない(だからこそ、それは本来、専門家が行うべき仕事であると私は考えるのだ)。
だが、今日、異端を告発しているメディアのうちどれほどが、信頼するに足る十分な根拠を提出した上で、異端の教えを糾弾しているだろうか。たった2行や3行程度の短い文章で、満足な証拠の提出もないままに、長年、存続してきたどこかの教会に、あるいは誰か特定の信者に対して、異端のレッテルを貼りつけられると考えている人がもしあるとすれば、それはあまりにも軽率な考えであるだけでなく、はかりしれないほど危険な行為であると言えよう。
私はこれまで、キリスト教界の未来が大変、危険なものになるだろうという予測を様々な形で述べて来たが、そこには教界のカルト化の危険性だけではなく、カルト対策に名を借りた異端への抑圧行為が暴走することの危険性も含まれている。すでにキリスト教メディアにおいて、カルトや異端について警告するという名目でのバッシングが暴走するきざしが見えていることを私は感じているが、この先、教界内に何らかの公式の抑圧機関、異端審問機関が生まれる可能性も、まだ完全に消えたわけではないと思っている。恐らく、このような計画は、一旦、提出された以上、たとえ考案者とは別人の手によってであっても、何度でも再燃し、いつかは実現するものだと感じざるを得ない。
歴史を振り返っても分かることだが、社会を一元的な価値観の下に統制しようとする様々な計画は、熱狂的に統一的な秩序を夢見る者たちの粘り強い努力によって、長い時を越えて、実現されて来た。だから、キリスト教界において、やがていつか一元的な秩序と、公式の異端抑圧機関が生まれることは、不可避の結果であるように私には思われてならない。だが、そのようなものによって人間を解放することは決してできない相談であるから、もしもそのような統一的な秩序が教界内に出来上がれば、それは反人間的な制度となり、教界に属しているあらゆる信者にとっての抑圧となるだけでなく、教界に属していない、私のような、はみ出し者の信者にとっても、大きな脅威となって迫り来るだろう。
神は人間一人ひとりに自由意志を与えられた。人間の自由は侵しがたいものであり、人間の尊厳の根底に横たわる、どんな暴力によっても取り除かれてはならないものである。人には、多様な価値観の中から自分が好むものを取って生きる自由が与えられており、たとえある信者が異端の教義を選んだとしても、神がその人から力づくで選択の自由を奪われることはない。それは神が人を創造した初めの時点から、人に内心の自由を与えておられるからである。
従って、キリスト者がキリストに服するのは、あくまで本人の自主性によるものでなければならない。神は自主的な礼拝を喜ばれるのであって、強制された回心や、強制された礼拝は、神を喜ばせる聖なる捧げ物にはならない。キリストは十字架上の死を通して、人間を律法による罪の奴隷状態から解放した。福音の本質は自由であり、律法主義からの解放であり、強制ではなく、自主的な献身と服従である。
神が与えられた自由を、人間に奪う資格がないことは明白である。
ところが、昨今、この神の与えたもうた自由を人間から取り上げて、外的影響力を通して、人間の悪なる部分を矯正するために、極端な律法主義をあてはめようと叫ぶ声がキリスト教界に顕著に現れて来ているように私は思う。それは日曜礼拝の厳守というような、我々が諸教会でよく耳にしてきた比較的緩やかな教えから、モーセ律法に基づく石打刑の復活という極端に残酷な教えまで、内容は様々であるが、実に危険な傾向として観察される。
さらに、現在のカルト対策のあり方も、これと同一線上にあると見てよいだろう。
今、キリスト教界には目を覆いたくなるような不祥事が広がっているが、このような無秩序な混乱に飽き飽きした信者たちは、自分たちが何を望んでいるのか全く分からないままで、統一的な秩序を打ち立ててくれる強力なリーダーの登場を待ち望み、その登場を歓呼して迎えたい心境になっているのではないだろうか。教会の不祥事が一つまた一つと暴露される度に、自分の代わりに手っ取り早く悪を成敗してくれる誰かを求め、その人間に一票を投じたいとするクリスチャン大衆の欲求が、日に日に強まっているように私には思われてならない。
大衆は「カルト対策をやってくれる誰か」を求めている。無秩序状態に終止符を打ってくれ、自分が望んでいる正義を手っ取り早く体現してくれ、散らかった机の上を自分の代わりに片付けてくれそうな誰か、面倒かつ複雑な問題に、自分に代わって着手してくれる聡明な誰か、望んでいる理想的な秩序を、早急に打ち立ててくれそうな誰かを求めているだけなのである。
大衆は、自分自身がその問題に着手しないでいられる怠慢を確保するために、自分の代わりに働いてくれるリーダーを常に待ち望む傾向を持っている。そういう他人任せな、身勝手な期待が、これまでにもさんざん、キリスト教界において、自称預言者、自称牧師、自称カルト専門家などが活躍する土壌を作ってきたし、それこそが、いかがわしい偽牧師や偽教師の活躍を支える培養土となってきたのである。従って、カルト対策に関しても、もしもクリスチャンがそのような無責任かつ身勝手な心理だけに基づいて、リーダーを求めるならば、ろくな結果を生まないだろうことは誰しも予想できる。
異端の教えは確かに警戒しなければならないが、異端を排除するという名目で、人の自由までが圧迫されるようなことはあってはならない。その意味で、異端の取り締まりを唱えて登場してくる「正義の味方」をも、私たちは十分に警戒し、吟味しなければならないのである。
聖書は、クリスチャンが異端に対して力づくの闘いを挑むことで、信者を無理やり解放するようにとは教えていない。異端団体から力づくで信者を奪回したり、異端団体に対して訴訟を起こしたり、異端の教会を取り潰して、土地と財産を没収したり、異端者を火刑に処したり、異端文書を徹底的に焚書にすることによって、異端団体を地上から根絶し、ただキリスト教的な秩序に基づいた一元的な世界を残すようにとは、聖書は教えていない。
聖書が教えているのはあくまで、異端を警戒し、異端から離れ去りなさい、ということと、罪のない者がまず先に石を投げなさい、ということである。異端に対して、私たちクリスチャンは、十分な証拠を集めた上で、平和的に警戒を呼びかけることは許されるが、それ以上に、石を投げること(つまり、裁判を起こしたり、暴力を用いたりして、異端者の生活の糧を奪ったり、異端団体を根絶したり、異端者を死に追いやるなどのこと)はクリスチャンに許されている行いではない。
異端の教えに陥った信者は、正しい教えを信じるクリスチャンから絶縁されてしかるべきだと思うが、それ以上に迫害されるべきではない。異端者がもしも新しい宗教を開いて、そこに活動の場を見いだそうとするならば、それは止めてはならないことだと私は思う。
だが、今日、キリスト教徒を名乗るある種の人たちには、異端者への処遇について、一線を踏み越えて、サディズムに落ちようとしている危うさが感じられるように思う。異端を静かに批判し、排除することではなく、異端を絶滅することを目的に活動している人たちがいるのではないだろうか。さらに不十分な証拠に基づいて異端のレッテル貼りが行われていることについて、私は憂慮している。
クリスチャンの目的は異端への警戒と異端からの分離であって、異端の根絶ではない。聖書に基づいて、十分な議論を重ねた上で、異端団体と分離することが必要なのであって、十分な証拠の提出もないままで、一方的に誰かに異端のレッテルを貼って、異端者とされた人に危害を加えたり、異端団体と取っ組み合って、どちらかが勝つまで、徹底的に闘争を続けることが必要なのではない。
そのことをよくわきまえておかなければ、クリスチャンは自分も罪人の一人に過ぎないのに、罪を犯した人間を石で撃ち殺すということを、今でも、平気でやってしまいかねないのである。しかもそれが集団的なサディズムに発展していく危険性を否定できないのである。
あらゆるカルト団体の教えには、極端な律法主義の再来、つまり、十字架を通さない、外側からの人間の改造と浄化の試みが含まれている。だが、今日の著名なカルト対策のあり方にも、それと全く同様の危険が含まれていることに私は恐怖を覚えずにはいられないのである。
たとえ異端の取り締まりという名目であっても、外側からの圧力によって人間を変えようとする試みは、十字架を通しての生まれ変わりという、キリスト教の教義とは相容れないものであり、キリストの与えたもうた自由を、再び律法の奴隷というくびきに取り替えることを意味する。裁きや、処罰といった強制力によって、人間性を変えようとする試みは、実際に罪を処理し、人間を変える力を持たないだけでなく、人間に与えられた自由の領域に侵入し、自由を奪い取る行為である。
その意味で、この世の力学を用いて、カルトを抑圧・根絶しようとしているカルト対策のあり方は、まさに人間性そのものに対する脅威だと私は感じざるを得ない。
この問題は極めて深刻であると思うので、今後も続行して訴えていかねばならないと思うが、今は、このことについて、これ以上、声を大にして訴えるのはやめて置こう。
不思議なことに、心に平安が満ちるに連れて、キリスト教界において繰り広げられる殺伐とした事件に、私は興味を持てなくなってきた。カルト化教会の悪事を見逃すべきでないと主張する人たちは多く、私もそう考えていた一人であったが、かといって、律法主義を律法主義によって斬る試みに一体、どんな将来の希望があるというのだろうか。
大切なのは、キリストの下さる愛と平安を私たちが十分に享受し、キリストの与えたもうた自由をしっかりと受け取り、放さず手中につかんで生きることだ。つい最近まで、私は臆病者、卑怯者になるくらいならば、勇敢に悪事を告発し、そのために命をいくつ投げ出しても惜しくないと思っていたが、クリスチャンの第一義的使命は、悪との闘いにあるのではなく、神と隣人を愛して、助け合って生きていくことにある。
こんなことを言うと、誰かさんに早速、食ってかかられそうな気がする。
「あなたは本当に不真面目で意見がころころ変わる移り気な人なんですね、一体、あなたは誰の味方なんですか、本当に正義を望んでいるんですか、カルト被害者の心情に配慮する気持ちがあるんですか!?」
その質問にはこう答えよう、
「ご指摘の通り、私は今、被害者の感情を全く考えていないと思います。私はこれまで自分がカルト被害者のつもりでいましたし、確かに相当の被害を受けたので、そう言うだけの根拠はあったでしょう。自分と同じ苦しみを味わった人のために、できる限りのことをしたいと願って来たことは確かです。
けれども、私はもうこれ以上、自分を被害者とは呼べないだろうことを感じます。失望させていたらごめんなさい。冷たい人間と思われても構いません。でも、私にとって今、一番重要なのは、弱者の正義ではなく、主ご自身が何を正義とされ、何を喜ばれるかという点なのです。
どういうわけか、私は主にあって、急に被害者ではなくなってしまったことを感じます、私は完全に贖い出され、完全に買い戻されたのです。私は完全にされ、訴えるべき被害がもうなくなったのです、ですから被害者と同じ感情を共有することができなくなってしまったのです。奪われたもののために涙し、奪われたもののために立ち上がるということができなくなったのです。虐げられた弱者の正義を訴えることに、関心がなくなったのです。なぜならば、私に与えられた恵みは完全だということを全く否定できないからなのです…」
私の過去は変わらないが、私には嘆かなければならない被害と損失がもうなくなってしまった。嘆きも、恐れも、義憤もなく、今は、キリストの与えて下さった命の豊かさが私の心をとらえて離さない。だから、カルト、アンチカルトのどちらの陣営の訴えにもほとんど関心はないし、それを告発する作業も、しばらく脇に置いておきたい。
こんな風にして、カルト被害者の戦線から離脱しようとしている私を、愚か者、臆病者、変節者、裏切り者、冷血漢、等々の名前で呼ぶ人があるかも知れないが、そうなっても構わない。魂に暗闇をもたらす諸々の闘争から抜け出し、命ある喜びに引き入れられたクリスチャンは幸いだと思う。
ヨブの例を思い出してみればよい。カルト被害者の被害を何倍にもして償うことができるのは、神ご自身である。まことの裁き主、癒し主であるイエス・キリストに立ち戻る時、被害者はもはや被害者でなく、受けた被害を補って余りある祝福を受け取ることができると私は確信している。
先週末、居ても立っても居られないような気持ちになって、ほとんど衝動的に夜行バスを予約し、Dr.Lukeのいる横浜のKFC(Kingdom Fellowship Church)へと飛んで戻って来た。
日曜の朝はあいにくの大雨で、歩いているうちに、持っていた荷物までずぶ濡れとなったが、午後、煙るような霧雨に包まれた港町には風情があった。
私はキリスト教界において幾度も悲しい事件に遭遇させられ、教会に対する大きな不信感を心に抱え込んだ。教会に期待を抱いて、関わろうとしたその度毎に、私が教会から受けた被害は、より深刻かつ甚大なものへと変わっていった。受けた被害を解決するために向かった京都A教会でも、解決を得られず、ただ希望を失って教会を離れなければならなかった。そんないきさつがあったので、最後に教会を訪れてから、今までに至る約一年近くの月日の間、私はどんな信仰者の群れにも関わることなく、ただ一人で聖書を読み、祈り、考え続けた。ブログを除いては、信仰者と関わる手段は全くなかった。
KFCの存在は二年前ほどからネットで知っていたが、訪れようという気持ちにならなかった。安全な教会を見つけ出したい、真のキリスト者と出会いたいという願いが心になかったわけではないが、同時に、教会と名のつくもの全てに対する不信感と、クリスチャンを名乗る人間に接触することへの恐れが、行動を起こすことを妨げていた。それに、群れに所属することによって、信仰が保証されるわけではないことも分かっていたので、同胞のあるなしに関わらず、とにかくまことの神への信仰に立ちたいと願ってきた。
だが、最近、それだけでは気が済まなくなった。KFCとはどのような場所なのか、そこに主から与えられた私の兄弟姉妹がいるのかどうか、どうしても自分の目で確かめたいという思いが無視できないほどに高まった。とにかく、会わないことには、居ても立っても居られない気持ちになったのである。
それに、少し前から、主は私のためにクリスチャンの同胞を備えて下さるという確信を祈りの中で得ていた。だから今回、実際にそのことを自分の目で確認せずにはおれなかったし、確認できたのは良いことだった。
ネット上で聞いているだけでは、KFCの礼拝は聖霊派のスタイルにかなり近いもののように感じられる。そこで、私のように、聖霊派の礼拝につまずいた経験のある人は、それを聞いて、抵抗を覚えることがあるかも知れない。私はこれまで数々の教会をめぐり、そこで様々な賛美のスタイルを聞いてきた。それぞれの教会ごとに、賛美歌、聖歌、新聖歌、ミクタム、リビングプレイズ、等々、使われる曲に違いがあり、楽器も様々であった。だが、中でも、KFCの賛美は私が今まで聞いたことのないものだった上に、歌詞の大半が英語であり、奏楽者もいないようであったので、私には馴染みがなかったし、正直な話、奇をてらっているだけではないのかという疑いが、なかったわけではない。
だが、重要なのはどんなスタイルが採用されているかということではなく、礼拝を捧げる人々の心である。実際に現地に身を置いてみることで、そこには心を預けても良いと思うに十分な礼拝があることを確認できた。私の教会恐怖症はほぼ完全に払拭された。
KFCで主の恵みとして私に与えられた貴重な時間について、あまり細かく書くのはやめておこう。ただ、私のために憐れみを示して下さった全ての兄弟姉妹たちに、主からの豊かな報いがありますようにと願う。
それに、百聞は一見にしかず。関心のある方は、それぞれ自分の目で確かめられるのが一番良いだろう。
その日、私はDr.Lukeを教会から奪い去り、随分、長いこと、拘束してしまった。彼に横浜観光案内までさせた人は私の他にいたのだろうか。霧雨の振る中、懐かしい神戸の街を思い出させるような港街を車で通り過ぎ、私が一人では決して行くことができないだろうホームレスの町、寿町の界隈も見せてもらった。
私はDr.Lukeに向かって、私がこれまで経験してきた、暗い、お先真っ暗な話題について沢山、語った。その上、これまで私が彼に対して持っていた疑問をも何の遠慮もなくぶつけた。それは聞かされる側からすれば、随分と荷厄介な話だったかも知れない。だが、そうして取ってもらった時間のおかげで、私の心に残っていた疑いは最後まで払拭されたし、世にはカルト化教会で起こっているような奇妙な事件をも、受け止められるクリスチャンが確かにいるのだと知った…。
Dr.Lukeは、私の受けた印象では、キリスト教の牧者というよりも、禅寺の住職のようであった(だがそれでも真にクリスチャンである)。九州人と関西人を足して2で割った上に、ほんの少しだけ東京人のエキスを加えたような人物であり、長く関西に暮らした私にとって、抵抗感なく、話ができる人だった。(関西人は個性的な人物を愛するものだ。この表現が理解できない方は実際に自分で確かめて下さい。)
ところで、夜行バスに関して、私には悲しい思い出が一つあった。カルト化教会で、私はそれまで7年間も親しくつきあってきた親友を失った。その友人は同じ大学出身の研究者であり、互いに海外にいた期間も含めて、数え切れない文通を交わし、生活の隅々までよく知っていた幼馴染のような間柄だった。彼はよく「大阪は我が庭」と豪語していたほどに、大阪の地理に精通しており、バイクの運転も含めて、私はこの人から色々なことを教わった。彼が学振の研究員に選ばれて、関西から東京に向かう時、私は大阪駅前の夜行バスのロータリーまでよく出発を見送りに行ったものだ。
カルト化教会でその人と縁を切るように求められ、私は別れの挨拶も告げず、友人をいきなり捨てた。後日、それが誤りであったと分かり、さらにその友人にも、かなり以前から信頼を裏切られていたことが判明した時、二度と取り返せなくなってしまった人間の絆のために、私は泣きに泣いた…。
最後にその親友と会ったのは、偽教会との縁を切った後、東大のキャンパスでのことだった。むっとするほど蒸し暑い空気の夏の日、会うなり、彼に向かって、私は教会での事件をとうとうとしゃべった。学生たちがカフェテリアにやって来ては、潮が引くように去って行った後、夕方になっても、私はまだ教会の事件についてしゃべり続けていた。一体、あれは何だったのか、どうして私があんな目に遭わなければならなかったのか…、当時、何も理解できておらず、ただどうどうめぐりの疑問の中をさまよっていただけだった。友人はいつものように穏やかに、ほとんど黙って私の話を聞いていた。
夜になって、私はその友人と新宿のバス停で別れた。それまでは私が彼の出発を見送ってきたが、その時は、私が見送られる番だった。いつものようにつまらない冗談を言い合いながら、バスの到着を待った。それが親友との最後の邂逅になるとは、当時、考えてもいなかったが、帰りのバスの中で、なぜか心が痛んで、涙が溢れて止まらなかった。多分、心の奥底では、壊れた人間関係が永久に戻らないこと、私の青春時代が空宙で砕け散ったまま、完全に終わってしまったことを感じ取っていたのだろう。
この親友とは幾度か海外にも共に行ったし、何度も神戸の港を訪れたものだ。私が関西で培った思い出そのもののような人物であった。
親友はその後、私の論文執筆のために助力してくれたが、論文が審査に通ったことを報告して以後、連絡は途絶えた。幾度、電話をかけても、彼が受話器を取ることはもうなかった。それは昨年春のことである。今、彼がどこでどのように暮らしているのか、私は知らない。
こうして、カルト化教会で受けた体験はあまりにも悲しいものであり、私の人生そのもの、思い出そのものをズタズタに引きちぎって行ったが、今回の横浜行きでは、そんな悲しい記憶を思い出させるようなものは何もなかった。
横浜は美しい街だが、私の今住んでいる中国地方からはあまりに遠いので、この先、そう何度も訪れることはできないだろう。だが、それでも、今回、KFCを訪れたことで、私の信仰生活に、今までとは全く違う第二幕が開けたことを確かに感じることができた。主はやもめや、産まず女の涙を拭って下さるように、私の涙を拭って下さった。だから、もう二度と、かつてのような悲しい体験をさせられることはないだろう。今回の旅は、終わりではなく、始まりなのだ、そう感じることができた。
今、キリスト教界の教えに疑問を感じながらも、一人ぼっちになることを恐れて、そこから抜けられないでいるクリスチャンがきっと多いだろうと思う。身体に馴染んだ礼拝や賛美のスタイルや、教会に連なる友人たちを捨て去るに忍びないと感じて、そこにとどまることを選ぶ人たちがこの先、大勢いることだろう。しかし、偶像礼拝ときっぱり縁を切り、御言葉に純粋に立ち戻り、たとえどんな孤独を味わおうとも、ただ主ご自身だけをひたすら求めて行く時に、必要の全てが兼ね備えられることを私は身を持って知った。
一人の幼馴染を失ったが、代わりに、数え切れない魅力的な兄弟姉妹が与えられたことが分かった。この悪しき、暗い世の中にあって、星のように輝いている兄弟姉妹たちだ。父なる神から「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ」と呼ばれるにふさわしいクリスチャンたちだ…。
絶望に泣き明かした日々も含めて、主は私が今まで辿ってきた全ての苦しみを、きっと益へと変えて下さるだろう。この信仰に立ち戻るために、一旦、余計なもの全てを焼き尽くされ、孤独の中を通され、死ぬような思いを味わう必要性があったのであれば、それで良かったのだと今は思う。
主が今後、私の人生にどんなことを成して下さるのか、楽しみである。
皆さんお元気でしょうか。
この頃、パソコンを置いている部屋の気温が高すぎるためか、思考能力が低下し、いつものような長文の記事が書けなくなりました。最近、記事がどんどん短くなっているのはそのせいです(これでやっと読みやすくなったと喜んでいる方もいらっしゃるかも知れません)。
書かねばならない問題は山積しているのですが、今はそれについて考える余裕がなく、さらに、今週末は諸用のため郷里を離れるため、来週明けまでは、ブログを更新できなくなります。コメント等、書いていただいてもいいのですが、戻って来るまでお返事できませんのでご了承ください。
さて、とても嬉しい報告が一つ。カルト化教会で深刻な被害を受けられたある方が、書いておられた。どんなに教会で意地悪をされたり、ひどい目に遭ったとしても、一度、心に灯った信仰の明かりは、そんなに簡単なことでは消えないと。たとえ消えたとしても、その人がキリストのもとへ立ち戻ることを望めば、必ずその火は再び灯るのだと。
この言葉を聞いて、私は、万歳、ハレルヤ!と叫びたくなった。心配は要らない、カルト被害者が何度、痛めつけられることがあっても、死の影の谷を歩まされることがあっても、主ご自身が必ず、その人を助けられるだろう。神の愛は考えうる限り全ての障害を越えて、さまよう羊たちの心にまで届くだろう。
そして一度打たれた人たちは、打たれなかった人たちよりはるかに強く賢くなって、鍛えられて、戻って来るに違いない。私はその雄姿を見て、驚かされることになるかも知れない…。
神の愛は、人間によるすべての救済活動の枠組みを高く超えて、川のように流れ行くだろう。街も、家も、丘も、人の築いたもの全てがその流れの下に隠れて見えなくなるだろう。しかし、緩やかで力強いその愛の流れは、小さく弱い人間を決して無造作に押し流したり、傷つけることなく、そっと温かく包み込み、川のほとりまで優しく運んでくれる。そこに着けば、どんなに傷ついた人も、心の重荷を降ろし、安らぐことができる…。
幾度も書いてきたように、カルト被害者に何よりも必要なのは、まことの癒し主であるイエス・キリストである。極限まで傷つけられた被害者の心をカウンセリングで癒すことはできない。真の悲しみ、苦しみの前では、人は無力だからだ。不注意かつ不完全な私のどんな努力も、善意も、圧倒的な悲しみの前では、全てわざとらしいものにしか映らない。人を癒す力を持っているのは人ではなく、ただキリスト、御言葉だけである。
しかし、それを分かった上で、クリスチャンは、カルト被害者のために熱心に祈り続け、彼らに寄り添うことを心がけて欲しい。多分、初めは拒絶されたり、不信感だけが返って来て、上手く行かず、当惑を覚えることもあるだろうと思うが、それでも、寄り添うことを続けて欲しい。そして、傷つけられて教会の外に打ち捨てられた羊たちが、一人でも多く、信仰に立ち戻るように、絶望の淵に立たされている人々の心に、少しでも早く、御言葉の光が届くように、祈って、呼びかけて欲しい。なぜなら、それが遅れると、死を選んでしまう人たちもいるからだ…。教会の中に戻ることが必要なのではない、キリストの十字架の救いに連なる者となることが何より必要なのだ。
もしも善良で心あるクリスチャンがいるならば、どうか私のためにも祈って欲しい。先にお祈りをお願いした被害者と全く同様かそれ以上に、私自身もいまだ被害から抜け切れていないためだ。張り詰めた生活のために生じた極度の疲労は今も抜けないし、将来の不安、失業問題もついて回っている、その上、家庭的な問題と信仰の迫害があり、幾度も人に利用され、捨てられてきたゆえの孤立無援感、そういうものに苛まれないで暮らせる日は一日もない。これは今、私の力では解決することができない諸問題である。もしも主のためにそれを耐え抜くのが私の仕事なのであれば、そこから逃げようとは思わないが、けれども、もしこれらの重荷が軽減される恵みをいただくことができるなら、幸いに思う。
すでに私のために祈って下さっている方がいらっしゃることは分かっています。けれども、さらに協力をお願いしたいのです。私の弱さのために、また、私と同様の苦痛を耐え忍んでいる被害者たちの環境改善のためにどうかお祈りください…。
さて、今日は懐かしい賛美歌を一曲紹介する。
キリスト教界でつまずかされた信徒たちが、一人でも多く、十字架に戻れるようにとの願いをこめて。また、同胞クリスチャンには、共に御国に入る時まで、十字架をしっかりと離さず、心の中で握り締めて、人生を最後まで歩み抜きましょうとの願いをこめて。
「十字架のかげに」聖歌 396番
十字架のかげに いずみわきて
いかなる罪も きよめつくす
おらせたまえ この身を主よ
十字架のかげに とこしえまで
十字架のかげに ゆきしときに
み神の愛を さとりえたり
おらせたまえ この身を主よ
十字架のかげに とこしえまで
十字架のかげを 求めつづけん
けわしきさかを のぼるときも
おらせたまえ この身を主よ
十字架のかげに とこしえまで
十字架のかげを いかではなれん
みくにのかどに いる日までは
おらせたまえ この身を主よ
十字架のかげに とこしえまで
何度つまずき、何度神を裏切り、何度信仰を離れたとしても、人には生きている限り、十字架のみもとに立ち戻るチャンスが与えられている。希望を失って悲しんでいる人たちには、今日、あなたのために死んで下さった主イエス・キリストの十字架の救いを信じて魂の安らぎを得て欲しい。
「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。
このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。
ところが、主は言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。
それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱いときにこそ、わたしは強いからである」(コリントⅡ12:7-10)
人は誰でも弱さを持っている。人前では一生懸命、強いふりをしていても、弱点を持たない人は一人もいない。私は二人の信徒から全く同じような苦労話を聞いた。それは、彼らが人前で話すことを苦手としていたにも関わらず、牧師になるように教職者に願われ、説教を担当させられ、それが本当に嫌で嫌で仕方がなく、ついに逃げ出すようにしてその奉仕をやめたという話であった。
私にはその人たちの気持ちが痛いほど分かるような気がする。なぜなら、私も口下手であって、人見知りであり、社交家でないからである。10代の頃、日曜学校の引率を任せられたことがあったが、子供が相手であってさえも、私はどう振舞うべきか分からず、内心、当惑していた。ただ人懐こい子供たちの方で、私の至らなさをカヴァーしてくれたので大事に至らず乗り切れたのだと言って良い。
私の非社交性、人見知りが極端に現れた時があった。サマルカンドを旅行していた際、地元の人々から全く予想もしていなかった大歓迎を受けたのである。数え切れないほどの人々が一部屋に集い、一族郎党から注目の的にされてしまった。何とか、その場の雰囲気を明るいものに保って、話題を保って、やり過ごさねばならないと知ってはいたが、旅行の疲れ、気疲れ、人見知りがそのまま表に出てしまった。その大宴会の最後、私は、明るく陽気にふるまう友人の横で、まさに逃げ出したい一心ですべてを耐え忍んでいた。もう一言も発する気力がなかった。その時も、私を救ってくれたのは子供たちであった。疲れ切って、涙ぐんで帰途についた私の横を、犬を連れて、心配そうに子供たちが着いて来てくれた。気遣いばかりを要求し、体面を傷つけることを許さない大人たちに比べて、子供達の心の何と純真だったことか! 子供たちは一切の気遣い抜きで、ただ私の身だけを案じてくれていた…。
どうして私がそんなに口下手になってしまったのかと言えば、これには生い立ちが大きく関係しているだろう。私の子供時代の家庭の食卓を思い返しても、そこはまるで葬式か墓場のような場所であった。誰もしゃべってはならない、一触即発のような緊張した空気が漂っている、そういう場所が家族の食卓だったのである。こんな風にして教育されたものだから、食卓でののびのびした会話など、学びようがなかったのである。こうして文章を書くことはできても、私には日常会話の能力が圧倒的に欠落しているのだということは、子供時代には全く分からず、大人になってからやっと気づいた次第である…。
さらに、弱さを述べるなら、私は生まれつき斜視であり、距離感というものを全く知らない。3Dなどを見ても、私には分からないのである。そこで球技などは一切苦手としている。だが、幼い頃は、そんな言い訳も通用せず、軍隊式の無情な学校によって、他の生徒と同じように球技に参加させられた。その時に味わわされた屈辱感やむなしさの記憶は、生涯、消えることはないだろう。
外と関わることに対しての大きな恐怖感ゆえ、私の感性は早くから内に向けられたのだと思う。ものを書くこと、話を作ること、絵を描くこと、音楽に携わること…、物心ついてから私が熱中してきたのは、そんな一人遊びのようなことばかりだった。だからすでに10になるかならないかで着手していたそんな方面だけが、とりわけ発達して、後のものの発達は極端に遅れたのである。
こんな風にして、自分の弱さを数え上げていけばきりがないほどにある。もし私の能力を円グラフのようにして示すならば、まことにいびつな図が出来上がることだろう。ある面では、人並み以上の力を発揮できても、他の面では、人の半分以下の能力しか持っていない。それが私なのである。
自分の弱さのためにこうむった数々の嫌な場面の記憶は、今になってもなくならないが、それでも、近頃は、キリストの力が私の弱さに染み渡り、そこにこそ働いてくれるということが分かって来たので、以前ほど、弱点を気にせずに済むようになった。まだまだ気楽に構えるというところまでは行っていないが、ケ・セラ・セラ(露語ではАвось!)くらいの気構えにはなっている。
キリストを知って心から良かったと思うことは、もうこれ以上、頑張らなくて良いということが分かったことだった。弱さを見せても良い。いや、弱さは弱さのまま置いていいのである。それで人が私を受け入れてくれず、軽蔑を示したり、嫌悪を催して去っていくこともあるかも知れないが、少なくとも、人が私の弱さに対してどのような感情や反応を示すかということに、私は責任を持たなくて良くなった。キリストが私を無条件に愛して下さったので、私は人から愛されるために、自分を強くみせかける演技を絶え間なく続ける必要性から解放されたのである。そしてむしろ、自分の弱さを自覚するときに、「ここにキリストが働いて下さるんだな」と気楽に思えるようになった。人がどんな反応をしようと、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」という御言葉に安らぐことができるようになってきた。
思い出すだけで、泣きたいくらいに惨めな場面が、私の人生にいくつかある。思い出したくないほど嫌な場面がいくつもある。だが、主イエスが与えて下さった福音を思う時、あのようにすべてを自分の努力によって乗り切らなければならなかった失敗続きの、苦労だらけの生き方から、主がすべてをなしてくださるという生き方に変わることができた幸いを思う。
聖書を開き、その一ページを読むだけで、主がどれほど私を愛して下さったかという証拠がいくつも目に飛び込んで来る。まるで芳しい香水を吸い込むように、私はその言葉を飲み干す。他に何も要らない。どんな人の賞賛の言葉も、どんな人の愛の言葉も、御言葉が与えてくれる約束の力にはかなわない。たとえ全世界から存在を否定されたとしても、無一文となったとしても、それが何だろうと思うほどの圧倒的な御言葉の威力。
「わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱いときにこそ、わたしは強いからである」
パウロがそう言ったのは、「私はキリストのためにこれほどのものを捨てたのだ」と人前で誇るためではなかった。ただ、主への愛からそうしたのだった。私も同じようにしたい。キリストのために華々しく殉教し、聖徒の模範のように生きることを目指すのでなく、ただ主への愛から、すべてを捧げたいのだ。
私に残されている人生の時間はあまり多くないかも知れない(そんな予感がしてならないのだ)。能力も、レプタ一枚程度のものでしかないかも知れない。私の人生の最も良い時代の最も良いものはすべて過ぎ去ったのかも知れない。だが、残るもの全てをただ愛によって捧げるならば、主は喜んで私の差し出したものを受け取って下さるだろう。主が喜んでくださるなら、私は自分の命そのものを捧げて構わない。私の命も、身体も、すべてはもとより主からの借り物なのだ。だから、どうせいつかお返ししなければならない時が来る。もしもそれを自主的に今、主にお返しすることで、主が少しでも喜んでくださるなら、私はぜひそうしたいと思う。
「キリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう」
以前はただ自分の弱さのために苦しんでいただけであったが、今はその弱さをキリストのために役立てることができるようになった。その恵みをどんなに感謝しても足りない。