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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

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沖縄クリスチャン戦争を終わらせよ(続)

1.カルト化教会のマインドコントロールの恐ろしさ

「教会をやめたときには、心も何もかも疲れ果て、うつ状態になるかならないかといったところまで無気力になっていました。まるで魂を抜かれた人間みたいにボーとしていました。
あれ以来、教会が信じられない、牧師も信じられない、(ちょっと、心が非常に疲れているので聖書をまともに読む気力がない)
本当にホトホトに疲れ果てて、もうこんなに精神的に混乱と苦痛を味わう宗教はいらないと自分の中で何度も何度も言い聞かせたことか・・・」KENT氏の記事

 一つ前の記事では、救われたばかりで、偽クリスチャンの怖さをまだ知らない初心なベビークリスチャンが、偽牧師の巧言によって騙され、マインドコントロールを受け、教会の地上的繁栄のための道具として使役され、心を壊され、やがて疲労困憊して、救いの喜びと確信を失って、使用済みのぼろ雑巾のように捨てられるまでの過程を描いた。
 この例によって、偽牧師が聖書の御言葉を巧みに操り、まるでそれが神の御心であるかのように思わせながら、信徒の心に巧みに働きかけて、信徒の心身を、偽牧師の野望を達成するための手段として利用していく過程を、少しでも、読者に理解していただけたらと思う。

 カルト化教会では、ラブ・シャワーと呼ばれる歓待と、指導者に従わない者に対する手のひらを返したような冷たい態度が、信徒の心を操縦するための手段として使われる。つまり、信徒の心をマインドコントロールするための「飴と鞭」である。「飴」の部分には、慰めや励まし、温かいもてなしがあり、「鞭」の部分には、教会内の虐めや、蔑みや、あざけりや、叱責、無視、その他、指導者に従わない信徒に苦痛を味わわせるための様々な残酷な手段が用いられる。
 このように、外向きの温かくて親切な顔と、裏側の冷酷で思いやりのかけらもない顔と、その二つの仮面を持ち合わせ、教えていることと活動とに矛盾があり、深刻な二重性を持っているのがカルト化教会である。裏側の顔は、外来者には見せられることがないので、その教会にある程度、関わった人間でなければ、二重性があることは分からない。KENT氏もこの「飴と鞭」の使い分けについて、記事に書いている。

「いや、最初に教会に入った頃はすごく親切、その親切な態度は私を教会に入信させるための一時的なものなのです。そして教会員になって何年かして私が教会に疑問を持ったり、説教メッセージを聞くのがつらいと感じ始めると、手の甲を裏に返すような態度、つまり牧師やセルリーダー達の私に対する態度が180度ガラリと変わって攻撃的になってしまうのです。今まで牧師やセルリーダー達が私に見せた愛情表現や優しさはいったい何だったの?今までの優しさはすべて見せかけだけのうわべの愛や優しさだったの?本当に凍りつくような教会の牧師や指導者たちの冷たさをこれでもか、これでもかと思い知らされました。教会内でイジメにあったこともありました。」

 時折、「犯罪に巻き込まれるのは、騙された人が愚かだったのが悪いのだ、その人に警戒心が足りなかったのが悪いのだ」という人があるが、そのようなことを言う人はマインドコントロールというものの恐ろしさを全く知らない。人がマインドコントロールに抵抗できないのは、ハリケーンや暴風雨が吹き荒れている時に、いつものように戸外を散歩できる人が誰もいないのと同じである。
 人の精神には、肉体と同じように、外からかけられる負荷に対する抵抗力の限界というものがある。自分の限界を超えるような負荷をかけられると、誰でもその圧力に抵抗できなくなり、思考停止状態に陥って、されるがままに圧力に屈し、正常な判断を放棄して、なりゆきまかせに流されていくということが起こる。

 Dr.Lukeが記事「冤罪の構図」に書いていることを見てみよう。
「人は知・情・意の間に違和感-不協和-を生じたとき、事の真実とは無関係に、その不協和を最小にしようとして、自分自身の内的真実を変える習性を持つ。これを『認知的不協和最小化の法則』と呼ぶ。身に覚えのないことで逮捕されることなどは、もっとも大きな不協和を生じるが、ここである人はあくまでも否認を貫けるが、ある人は逮捕されたという事実自体に合わせて、不協和を最小にするために自分自身の内的事実を変えるのだ。これが偽りの自白のメカニズムである。やってないなら堂々としているはずだ、などは人間を知らない者の発言に過ぎない。まあ、それができるのはゴルゴ13くらいであろう。」

 カルト化教会では、信徒の正常な自己判断を放棄させるために、信徒の精神に外からかける圧力、つまり、「不協和音」を最大にするのである。カルト化教会とは、たとえるならば、まるで暴風雨が吹き荒れる真っ暗な夜の道、ヘビメタやロックの音楽が大音量で鳴り響いているコンサート会場のようなものである。カルト化教会は外から見れば、穏やかな場所のように見えるが、その実、精神的・霊的な意味では、誰も耐えられないような、最大の不協和音が鳴り響いている場所である。
 偽牧師たちはあらゆる方法で、信徒にはまるで理解できない支離滅裂な「飴と鞭」を駆使することによって、信徒を驚かせ、感情と思考を混乱させ、信徒の内的な真実を揺さぶり、信徒自身がそれまで信じてきたこと、信頼してきたもの、信徒自身の価値観と判断力そのものを揺さぶり、打ち砕き、放棄させて、ただ偽牧師たちに従う人形のようになるまで、この「不協和音」を聞かせ続けて、信徒の意志と自主性を徹底的に打ち砕くのである。

 必ずしも暴力的で残酷で非人間的な言動だけが使われるのではない。指導者たちは、残酷な処置の合間に、優しい、穏やかで、思いやりある態度を束の間、見せるために、信徒はより訳が分からなくなってしまう。激しい暴風雨のような圧力に振り回され、長時間、さらされ続けて、ちょうどジェットコースターに乗った後のようにふらふらになった信徒は、魂の平衡感覚を失い、どんな事が起きようと、それ以上、抵抗する力を失って、ただとにかく心の安定だけを求めて、さまようようになる。安定を得るためなら、何でもする、とにかくこの疲労から抜け出したい、その一心となって、言われるがままに指導者に着いていくようになる。指導者に従ってさえすれば、指導者から受ける不協和音が最小におさえられることを知っているからである。

 このような恐ろしいマインドコントロールにかからないためには、「不協和音」の鳴り響かない場所、偽牧師の圧力が及ばない場所、彼の管轄外、つまり教会の屋外に出て行くしかない。つまり、教会を脱出することしか方法がないのだ。だが、私の例を思い返しても、かえすがえす、悲しいことは、信徒はカルト化教会を訪れた際、まさか自分が世界最悪の「ジェットコースター」に乗せられたなどとは、まるで予想もしていないために、その機械が始動し、自分がさんざん振り回されても、一体、何が起こっているのか理解できず、そこに恐るべき仕掛けがあって、安全を守るためには、早急にそこから降りることが必要なのだとは少しも気づかないまま、これは一体、何なのだ、こんなことがあって良いのか、どうして誰も助けてくれないんだと叫びながら、自分の力でむなしい抵抗を繰り返し、当惑に次ぐ当惑、混乱に次ぐ混乱を重ねるだけで、結局、偽教会の思惑通りに、最後まで振り回されて行ってしまうことである。そしてジェットコースターがやっと止まって、やっと自分が放り出され、降りたときには、もう全ての気力を失って、無一文となり、絶望の淵に立たされている。ずっと後になって、何が起こったのかが判明した時には、全てが手遅れである。全てが最初から計算づくだったのであり、信徒の心と財産を奪うための罠だったのであり、仕掛けだったのだと分かって、どんなに心に怒りが燃え立っても、もうどうすることもできない。カルト化教会というそびえたつ悪魔のジェットコースターは、騙されたおまえが馬鹿だったんだよ、今更、おまえに何ができるものか、もう全て遅いんだよ、何もかも取り返しがつかないんだよと、高笑いを響かせているだけである。

 なぜ教会という聖なる神の宮であるはずの場所が、こんなにも恐ろしい残酷な悪魔の乗り物になりえたのか。信徒にとっては、この矛盾が最後の打撃となる。この最後に聞かされる「不協和音」に絶えられず、信徒は絶叫する。人生とは何なのだ、神とは何なのだ、人間とは何なのだ、私はただ神を信じて平和に、誠実に生きたかっただけなのに、こんな結末があって良いものか!! 人間への信頼、神への信頼を粉みじんに吹き飛ばされ、この現実に耐えられず、自ら死を選んだ人たちも多く存在しているということを私は聞いている。


2.沖縄リバイバル教会という偽教会の恐ろしいまでの金銭的むさぼり

 さて、KENT氏が記事に書いていることは、フィクションではなく、現実である。彼の書いている記事は、私が前の記事で語ったフィクションの物語よりも、はるかに惨い形で、牧師が徹底的に信徒を利用し、搾取した挙句、ぼろきれのように捨てている教会が現存していることを示している。それは沖縄リバイバル教会である。そこでは、何よりも、教会を挙げて、牧師による金銭的なむさぼりが行われている。初めに挙げた記事の中でKENT氏は書いている、

「秩序のある教会と混沌と野望に満ちた教会との違いというと、これは教会に行ってみて献金をどのように集めているか?(献金カゴが多すぎたり、3つ以上は要注意!)多くのお金を要求したり、資産や財産に至るまで話を吹っかけてきたら危険だと思ってください。特に献金額が3万円以上は危険だということ、10万円以上の献金を要求したら、ただちに教会を離れることをおススメします。
献金をいうものは、多くの豊かな恵み(収入)のうちからその一部を神に感謝して捧げるものであって、牧師が献金額を決めることは出来ないのです。献金額を吹っかけてくる教会の牧師は危険と判断すること、特にORCや大型教会(メガ・チャーチ)の牧師は献金額を吹っかけたりするので要注意」

「これは沖縄リバイバル教会の中で牧師を支援している人々に宛てたメッセージだと思ってください。私利私欲のために、または自分の生活費を稼ぐために、牧師から賄賂というか金を受け取り、牧師の奴隷になりさがる、つまり牧師の無理な言いなりでも従うしもべと化してしまった人たちが多くいること、たとえ牧師が悪事を働いたとしてもそれを擁護し、また牧師から違法な願いでも引き受けて実行してしまうこともあります。沖縄リバイバル教会の皆さん、お金のためなら悪事を働いても構わないその考えはそろそろやめにしませんか?生活費なら地道に仕事して働いたらいいではないですか?そろそろ悪の組織から足を洗い、心を入れ替えてみませんか?多くの人々はネットを通じてこの教会の異常な行為(妨害)などを目の当たりにして感じているはずですよ。こんな宗教団体もあるのかと。 」

 この記事を読めば、沖縄リバイバル教会では、牧師が法外な金額を信徒に献金として捧げるよう、様々な形で促していることが分かる。牧師によって、信徒が捧げるべき献金額があらかじめ指定されていることまである。さらに、牧師の貪欲な要求をかなえるための工作員のようになってしまった信徒たちが、牧師の手足となって働き、牧師の非をあらゆる方法で隠し、牧師がやっていることがあたかも聖書に基づいた正しい行いであるかのように他の信徒たちに見せかけ、牧師に従うように働きかけることによって、教会のむさぼり達成に貢献している。
 心弱い信徒たちは、圧迫されるとそれに逆らいきれず、言われるがままに、法外な献金の要求に応じて、財産を失い、さらに、土地などを献呈するように求められ、貴重な財産を失い、利用されつくした挙句、取るものがもうこれ以上ないという段階になって、教会から捨てられていく…。カルト化教会であれば、どこにでも見られる風景だが、その罪とむさぼりのスケールがとりわけ異常なのが沖縄リバイバル教会だと言えよう。
 

3.偽牧師、偽教師、偽預言者を見破ることの必要性

 クリスチャンが偽牧師、偽預言者、偽教師を警戒しなければならないことについては、どれほど呼びかけても、呼びかけすぎということはない。彼らは信徒の信仰を奪うだけでなく、信徒に金銭的損失をもたらし、肉体的にも大きな被害を与えるからである。偽牧師と接触したがために、死に至る人も決して珍しくない。以前の記事にも書いたことを、もう一度、繰り返そう。

 偽牧師の使命は、信徒の信仰を養うことではなく、信徒から信仰を奪うことにある。従って、偽牧師が信徒を信仰につまずかせ、教会に幻滅させ、果ては自殺を選ばせる時、彼らはまさに本職を忠実に果たしているのである。
 このような偽牧師や偽クリスチャンと密接に関わっていれば、必ず、あなたも、信仰を失うはめになることは間違いない。どんなに大きな被害を受けることになるか分からない。だから、正しい信仰を維持していく覚悟があるならば、これらの人々には絶対に関わってはいけないし、神から与えられたあなたの人生の貴重な宝を失わないためにも、彼らの正体を試して、早いうちに見破り、できればそれを公然と明るみに出して他の人々にも警告した上で、絶対に彼らとは関わろうとせず、離れ去ることがどうしても必要である。(たとえ裁判という形であっても、彼らとの直接的な関わりが続くことは避けた方が良いものと私は思う。)

 繰り返すが、聖書の御言葉を引用して語る人々全員が、本当のクリスチャンであるとは限らない。たとえ牧師という職業についていたとしても、その職業がクリスチャンとしての真実性を保証してくれるわけではないのだ。
 「むやみに人を疑うなんて…」と、義理人情に縛られて立ち止まってはいけない。なぜなら、偽クリスチャンを見破ることは、聖書が全てのクリスチャンにとって確かに必要なことであると教えているからだ。

 ヨハネの黙示録には、エペソの教会が「悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であることを見抜いたことも、知っている」(黙2:2)と、この教会が偽使徒を試して見抜いたことが正しいことであったと賞賛されている。

「すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。」(ヨハネⅠ4:1)

 では、何が偽クリスチャンの特徴なのだろうか。どのような点を見れば、その人が偽クリスチャンかどうかが分かるのだろうか。すでに述べたことだが、もう一度、その点について考えてみよう。

「神を信じない者は、神を偽り者とする。神が御子についてあかしせられたそのあかしを、信じていないからである。そのあかしとは、御子が永遠のいのちをわたしたちに賜り、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない」(ヨハネⅠ5:10-12)

 これまでにも書いてきたことであるし、また教会成長論の締めくくりを書くときに、もう一度触れることになるが、偽クリスチャンを見破るための最も一番の近道は、彼が本当に神の御子イエス・キリストによる罪の贖いの十字架を信じているかどうかを確かめることである。
 偽クリスチャンの一番の特徴とは、上記の御言葉にあるように、「御子イエスのいのちを持たない」ことである。御子イエスの命がその人のうちになければ、その人がどんなにクリスチャンを名乗っていたとしても、彼はクリスチャンではなく、救われてもいないし、永遠の命を持っていない。

★「クリスチャンが本当に御子イエスの命を持っているかどうか」のチェックポイント

1)牧師および信徒が、御子イエスの十字架による罪のあがないを信じて、その効力を公に語り、それを自分自身にちゃんと適用しているかどうか。
(人間の罪を帳消しにできるのは、その人の行いではなく、御子イエスの十字架だけであるということをきちんと説教の中で説いているかどうか。何らかの行いをしなければ救われないという律法主義に落ちて、奉仕や献金や礼拝出席が、信仰を維持する上で欠かせないものであると言っていないか)。

2)牧師および信徒が、御子イエスが完全な神であられ、完全に人となってこの世に来られたことを信じて告白しているかどうか。
(御子イエスが不完全な神であった、とか、不完全な人であった、といった聖書から逸脱した教理を信じていないかどうか。イエスが神ではなく人だったと言っていたり、イエスが神の養子であったなどと言っていないか。たとえば「養子論的キリスト論」(手束正昭氏)はイエスの完全な神性を否定する異端の教えであるし、また、聖霊のバプテスマを受けなければ、あるいはその印として異言を語らなければ、救いは完成されないというのも誤りである)。

3)神からの恵みを受け取るためには、信徒がイエスではなく牧師を通さなければならないと教えていないか。(神と人との仲保者はイエスだけであるにも関わらず、牧師を通さなければ信徒が神と交われない、祝福と恵みを受けられないと教え、牧師がイエスの役割を奪っていないか。)

 人間の罪を赦す力はただ神の御子イエスの十字架のみにある。それに何かを付け加えたり、引いたりするものは全て誤った教えである。教会で奉仕をしなければ信仰を失う、とか、献金をしなければ信仰を失う、とか、教会のために役立つ活動をしていなければ、神の救いと恵みを受け取れなくなっていく…などといった教えに耳を貸してはならない。御子イエスが十字架上で血を流され、人類の罪を贖われたということを信じるだけで、人は救われ、永遠の命を持つのであって(その信仰を表すために信仰告白しバプテスマを受ける必要があるが)、それをした時点で、その人の救いは完成されている。その後、イエスに従って信徒がどう歩んでいくかは、その人自身が決定することである。
 

4.今日の異端の特徴とは、神と人との仲保者である御子イエスの役割を否定して、信徒に牧師崇拝を要求することにある

 今日のカルト化した教会では、十中八九、「御子のイエスの命」を否定する異端の教えが説かれている。この異端の教えの特徴は、次の点にある。


★本来の正しい教義
キリストだけが神と人との唯一の仲保者


★今日広まっている異端の教義
牧師がキリストの役割を奪っている

 これまでに私は、ニッポンキリスト教界全体が今、急速に異端化しつつあるという記事を書いて来たが、教界の「異端性」はここにこそあると言えよう。つまり、今日、どういうわけか、多くの教会で語られる教えが、イエスの十字架をただ信じれば救われるという内容ではなく、牧師の言うことを信じて従わなければ救われないという内容にだんだんすり変わってきている点に、ニッポンキリスト教界の最も大きな異端性があるのだ。一見、イエスを信じているように語りながら、その実、自分自身がイエスに成り代わって、自分だけが神の恵みと祝福を信徒に流す管であるかのようにふるまい、信徒にそう信じるよう教え、信徒の魂と生活を支配している牧師が、教界では、公然と正当な牧師、クリスチャンを名乗って活動している。それは牧師崇拝と言って差し支えない、聖書とは無縁の異常な教えである。

 KENT氏が記事で言われていることはまさに正しい。
「多くの牧師は自分を神と同一化してしまったために、霊的な目を閉ざされ盲目になり、神の真理を自分自身の不義なる心の内で曲げてしまい、間違った教えを語るのです。つまり偽牧師(偽教師)と呼ばれる者は異端の教えによって神の真理の道がことごとくそしりに至らせるのである。盲目であるからこそ隣人に対して冷たく、優しさを見せても見せかけのうわべだけの優しさで終わる。盲目であるからこそ、自分自身をプライドと独善主義で塗り固めて、鎧のように頑なな心と化す、そして、素直、感謝、謝罪、敬意、謙虚、礼節、寛容などを失って、また、良心さえも失うような人間になってしまうのです。」

 自分を神と同一視し、イエスの役割を奪い、イエスに成り代わってしまった偽牧師たちが、今日、あちらこちらの教会におびただしい数で出現している。これらの偽牧者たちは神を信じようとする信徒の心をあらゆる手を尽くして自分に向けさせ、信徒が神ではなく人間である自分(牧師)に従い、牧師に仕え、牧師に栄光をもたらすように仕向け、信徒の心と身体を神に捧げられた聖なる宮ではなく、牧師に捧げられた忌まわしい偶像礼拝の神殿に変えてしまおうとする。そのような偽牧者の策略にかかり、父なる神への愛と献身を失い、人間である指導者に心身を支配され、自己決定権を奪われ、奴隷のように自主性を骨抜きにされてしまった人が、偽教会の工作員のようになってしまった偽クリスチャン信徒なのである。

 そのように、牧師崇拝に陥ってしまった教会には、次のような恐るべき実が結ばれている。

「巨額のお金を巻き上げて、信者たちの人生や生活の全てを破滅へと至らせる教会もあります。彼らは振り込め詐欺のような悪質な教会で、財産や資産を信者たちから集め、なかには消費者金融、サラ金から借金してまでお金を捧げる(献金というよりも信者の心理的操作、マインドコントロールによる騙しのテクニックが入っているので明らかに詐欺に近い!!) 」

「沖縄キリスト福音センターの自称N牧師は、あるクリスチャンに対して『病気は悪霊の仕業だ』『祈れば必ず治る』『病院に行ったり薬を使ったりするのは神に対する裏切りだ』と何度も言い聞かせていた。クリスチャンにとって牧師は神の代弁者であり、牧師の言葉こそ真理であり、何を言われても牧師の言葉が絶対だと受け止めてしまうのです。その人間の言葉をありのまま信じようとするところに最も危険な因子が満ちているのです。そのクリスチャンは肺結核になり、左の肺を喪失していたのです。」(KENT氏の記事より)

 教会の果てしない繁栄という、むさぼりの欲を達成するために、信徒をサラ金地獄にまでつき落とし、「霊の戦い」のために信徒に身体障害をこうむらせたり、死に至らしめたりしているのがカルト化教会なのである。聖書を曲げる異端の教えを奉じる人々が、どれほど恐ろしい実を結ぶかが、ここにはっきりと現れていると言えよう。


5.サタンを糾弾し、偽牧師の活動から分離することの必要性

 どうか、私がただいたずらに恐怖をあおるためにこんなことを言っているのだとは考えないで欲しい。牧師を名乗っているからといって、全ての人の教えをそのまま鵜呑みにして従うことがどれほど危険であるかということを、偽牧師の教会の信徒たちが受けた痛ましい被害を見て、どうか理解して欲しい。そしてすでにカルト化していることが分かっている教会については、被害状況を、声を大にして叫び続けて欲しい。
 今、「全ての牧師を疑え!」とクリスチャンに呼びかけることは、決して言いすぎでないどころか、クリスチャンが早急にそのような疑いを持つことこそが必要であると私は考える。

 偽牧師、偽教師、偽預言者たちの正体を暴露せよ、彼らを警戒し、彼らと分離せよ!これが今日のクリスチャンに早急に必要とされている安全のための処置であり、また教会のカルト化を防ぐためにも、避けては通れない「外科処置」ではないかと私は思う。

 Sugar氏が記事「サタンを糾弾する声」の中で書いていることに、どうか真摯に耳を貸していただきたい。

『悪人』は先ず冷静な正しい情報に基づいて その悪人の悪を非難する多くの声によってしっかりと糾弾されなければなりません。第一に悪の存在に気づき、そして誰かが勇気をもってそれに対して非難の声を上げ、その糾弾が少しずつ大きくなり、それが極めて大きくなると、遂にその糾弾の『声』に引っ張り出されて、その悪者が正体を現わさざるを得なくなるのです。

そこまで来ると 正体を現した『悪人』は破れかぶれになって、全力で彼の悪の限りを尽くすことでしょう。しかしハレルヤ! それは彼が現行犯逮捕される絶好のチャンスとなるのです。<略>

今この時代 以上述べた糾弾する役目はおもに、キリスト者にあります。<略>
明らかに神の定めは、サタンに対する糾弾は私達、多くの『弱き庶民』、神の乳飲み子、みどり児の口によって行われなければならない、と言うことです。(詩篇8篇)

それは、あのバプテスマのヨハネの場合と似ています。
彼は荒野(この世)で悪に対して叫ぶ『声』でした。(ヨハネ1の23)、声とは目には見えず 実に軽いものです。しかし、霊的な世界においては、声ほど重く強力なものはありません。
ヨハネの『糾弾する声の総和』がある一定量に達した時、遂にヘロデが引っ張りだされ、ヘロデはヨハネの首を切らざるを得なくなってしまったのです。
昔も今もこれが『真の殉教』が発生する経過(メカニズム?)なのです。<略>

キリスト者が先ずは真剣に、サタンを知り、サタンを糾弾することがもしないとするならば『何事も始まらない』ことは明らかです。従って私達に、悪とサタンについての神の真理が明らかに啓示されることは何と必要なことでしょう。」

 私が一人でできることには限界がありすぎる。だから今、一人や二人でなく、大勢のクリスチャンが心を合わせて悪を糾弾するために勇気を持って立ち上がることが、どうしても必要であると感じる。今、訴訟も、報復も、暴力も恐れず、偽牧師や偽教師たちをしっかりと実名にて糾弾する勇気ある者が、クリスチャンのうちにほとんどいないために、今、刑事告発などされ、訴訟を起こされた少数の大規模教会の例を除き、日本全国各地で、偽牧師、偽教師、偽預言者が思うがまま暗躍している現状がある。
 そして彼らを糾弾し、彼らの正体を告発する仕事は、ただ被害者に、偽牧師や偽教師に犠牲にされて、息も絶え絶えとなっている被害者だけに任されている。被害者は、受けた被害を叫び続けても、弱り果てているがゆえに、力尽きてしまう。他のクリスチャンがそれを支援し、代わりに偽クリスチャンの活動を糾弾することをせずに、どうして異端の拡大を食い止めることができようか。

 だが、偽クリスチャンを告発するという仕事がこんなにもおざなりになった結果、今や、ニッポンキリスト教界全体が、戦場と化してしまった。狭い地域にひしめきあう、おびただしい数の偽牧師たちが、互いに領土を分捕り合い、羊たる信徒を奪い合って、争い、羊を使役し、羊を喰らい、羊を剣に盾に我が身を防御しながら、血みどろの闘いを互いに繰り広げる戦場が、ニッポンキリスト教界となってしまった。にも関わらず、このような戦いが、神の国を築くことだと勘違いして、さらに激化した闘いを呼びかけているのがニッポンキリスト教界なのである。

 「リバイバル、リバイバル」と、自己の果てしない栄光を求めて貪欲に叫びながら、偽牧師が互いにかぶりつき合って、相身を滅ぼし合って、しかも、おびただしい数の羊を戦死者、犠牲者として出している。こんな醜い姿となったニッポンキリスト教界を、誰が正視するに堪えようか。この教界が今後、どんな良い実を結ぶことが考えられようか。私はKENT氏の記事が出している結論に全く同感である。

日本のキリスト教界が収益目当ての組織や団体であるからこそ、大規模なリバイバルが起こるようなことは決してありません。少人数でリバイバルという教会のむなしい争奪戦といった感じになると思います。教会員になったとしてもいつ教会を辞める可能性を秘めているか・・・、教会についていけないと感じたら、即脱会、なんのまえぶれもなく突然来なくなるでしょう。」

 リバイバルなどというものは今後、決して起こらないだろうと私も思う。少なくとも、地上の繁栄と人間の栄光だけを求める教界の叫ぶリバイバルなど聖書を冒涜するものでしかない。どうかカルト被害者の警告を軽んじないでいただきたい。彼らの身に起こったことが、自分とは無関係だとは思わないで欲しい。
 全てのクリスチャンにとって、このような愚かな羊争奪戦から早急に離れることが、身の安全を確保するために何より必要な処置ではないかと私は考えている。偽教会の指導者の野望のための餌食とされ、戦いの道具とされることを、一人でも多くのクリスチャンが拒否し、偽牧師たちが繰り広げる羊争奪戦のむなしさを公然と語り、この戦争が生んだ想像を絶するような被害を、声を大にして世に知らしめること――それこそが、今、教界のこれ以上のカルト化を防ぐために、真のクリスチャンに何より求められている課題ではないだろうか。

 偽牧師、偽預言者、偽教師ときっぱり分離していないという点では、カルト化教会も、カルト被害者救済を謳っている教会も、本質的に同じなのである。ともに、聖なる神にふさわしい清潔を求めて闘っているのではない。羊を一人でも多く獲得して、自らの権勢をさらに誇るために、他教会に喰らいつき、羊を餌食として、むさぼり食い、むなしい闘いを挑んでいるだけである、少なくとも、私はそう確信する。

 沖縄のクリスチャンよ、こんなむなしい戦場からは離脱しよう。いや、沖縄だけでなく、全国のクリスチャンよ、この不毛な同士討ち的な羊争奪戦(リバイバル戦争、カルト成敗に名を借りた羊争奪戦)からは早急に身を引こう。御子イエスは何のために死んで、私達クリスチャンを罪から解放して下さったのだ。貴い神があれほどの犠牲を払ってまで、私達に与えて下さった自由を、どうして今更、指導者の奴隷というくびきに取り替える必要があろうか。キリストはクリスチャンが「豊かに命を得るために」こそ死んで下さったのだ。なのに、どうして、神の栄光のためではなく、人の栄光のために、今さら、身をすり減らし、苦しみぬいて、命懸けで戦い、貧困の中に落ちていく必要があるのか。こんなことのために命を懸ける価値はどこにもない。牧師崇拝と、羊争奪戦からはきっぱりと縁を切ろう。

 そして、教会の権勢などなくて構わないから、立派な礼拝堂も、ゴージャスな花も、TV中継も、緋のじゅうたんも、有名歌手のコンサートも、華やかな行事も、最新の設備も要らないから、ただ初代教会の人たちがしたように、それぞれの家庭で、職場で、近所の集会所で、穏やかに集まって、つつましく、心から神を礼拝し、賛美し、隣人を愛し、互いに助け合って暮らし、心から愛に満ちた穏やかな信仰生活に帰ろうではないか。

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沖縄クリスチャン戦争を終わらせよ

少し前に、ある沖縄クリスチャンの方からお便りをいただいた。沖縄のカルト化教会の悲惨な現状を、長い間、勇気を持って、訴えて来られた方だったが、活動をもう続けられないという便りであった。
「思い出すだけで、あまりにも苦しすぎて、つらすぎて、もうこれ以上、訴えることを続けられそうにありません…」とのことだった。

カルト化教会を抜けてから、今まで、私は過去の災難から生じた疲労と絶望から抜け出すのでやっとだった。過去を見なおす作業、過去を嘆き、それと訣別する作業、そして、主にあっての休息を得て心の回復をはかり、なおかつ、崩れた家庭の回復を心がけることが、今までの私の生活の主な内容だった。
他のカルト被害者の心痛に対して、私は何もすることができない状態にあった。

しかし、今や休息の日々が終わり、私は信仰のための犠牲を求められるタイムスパンに入ったように思う。
私は今まで、実際に自分が人生で遭遇したことだけを書いてきた。私自身の体験をもとにして、クリスチャンを食い物にしていると思われる人物を告発してきた。初めはかなり曖昧な表現をしていたが、ある時点から、どんな災難が私に降りかかろうとも構わないから、覚悟を決めて、実名で告発することに決めた。それが私が、主のために犠牲を払うことを覚悟した最初の第一歩だった。

だが、そうしてある陣営を告発する一方で、今、沖縄のクリスチャンを食い物にしているもう一つの陣営については、私はかなり無知なままであったし、そのことについてほとんど書いて来なかった。そのために、私がこれまで書いて来たことは、結局、沖縄のカルト問題にとっては、片手落ちであるだけでなく、実際に何の解決にもならない机上の空論に過ぎないと受け止められた被害者も、恐らくいたのではないかと思う。

もしも私がこの先、沖縄のカルト化教会側の問題を無視し続けて、カルト被害者救済活動の非難だけに終始したならば、実際に、私の議論は被害者を置き去りにした空論だということになるだろう。カルト被害者救済活動を否定するならば、一体、では誰がカルト化教会の被害者に必要な助けを差し伸べるのか。誰が本気で被害者の心配をするのか。被害者を無視しての机上の空論は、もう沢山だからやめてくれ、そういう結論が出るだろう。

こうしているうちにも、今一人、愛する沖縄クリスチャンが、ニッポンキリスト教界の放った毒矢に倒れようとしている。そして、ニッポンキリスト教界によって殺されようとしているまた別の羊からの叫びのメッセージが先日、私に送られた。今、沖縄では、カルト化教会、そしてカルト撲滅運動という、二つの陣営の間で、すさまじい戦争が行われている。それによって、引き裂かれ、互いに血で血を洗うような闘争に陥れられている沖縄クリスチャンたちの悲鳴がそこに記されていた。

私はこれを「21世紀の沖縄クリスチャン戦争」と名付けたい。もちろん、もっと良い名があれば皆様に考えていただきたいのだが…。
たとえ沖縄に住んでいなくとも、この惨い戦争を黙って見逃すことなどできるはずがない。両方の陣営を公平に告発しなければ、いや、この戦争そのものを非難しなければ、それは公平な非難とは言えないだろう。沖縄の実態に関しては、これから地道に、時間をかけて書いていくつもりだが、まずここで言えることは、この沖縄クリスチャン戦争を止める最も有効な手立ては、一人でも多くのクリスチャンが徴兵忌避をして、ニッポンキリスト教界による羊争奪戦争という馬鹿馬鹿しい戦闘への参加を拒否することであると私は考えている。つまり、

1)カルト化教会から一人でも多くのクリスチャンが抜け出て、カルト化教会の手先として活動することをやめること。そのためにカルト化教会に属さないクリスチャンは、カルト化教会の悪事を世に告発し、明るみに出し、カルト化教会の権威失墜に貢献すること。
2)カルト化教会で被害を受けた方たちも、カルト被害者救済活動に関わらないようにすること。カルト被害者救済活動の問題点を告発すること。
3)最終的には、沖縄でも、それ以外の地域でも、一人でも多くのクリスチャンが、ニッポンキリスト教界の組織拡大活動から手を引き、教界指導者の引き起こす羊争奪戦に一切手を貸さないようにすること。

とにかく、ニッポンキリスト教界がこれほど殺伐とした場所となってしまった以上、すべてのクリスチャンに勧められることは、一刻も早くそこから抜け出ることだけだ。戦争を終結させる最も有効な方法は、戦争に勝つために戦うことではなく、戦争そのものから手を引くことなのだ。つまり、一人でも多くのクリスチャンが兵士となって戦うことをやめることによって、戦争の威力そのものを弱めることができる。一人、また二人と、クリスチャンたちが、教界の引き起こす様々な形の(リバイバル運動も含む)羊争奪戦争のむなしさを悟り、教界の兵士として戦うことをやめていけば、戦争は力を失って、ついには自然消滅せざるを得なくなるだろう。

教界によって殺されかかっている私の愛する沖縄クリスチャンがもう一度、元気を回復され、立ち上がるその日まで、私もまた、沖縄の現状について、少しずつ書いていかなければならないことを思う。

* * *

さて、沖縄の話題はここで一旦、置いておく。そして、まず、カルト化教会の恐ろしさを全く知らない人たちに周知するために、たとえ話を出したいと思う。
教会で深刻なマインドコントロールに遭ったことのない人には、どうして私がある種のクリスチャン(私がエージェント・クリスチャンと呼んでいるもの)に過敏なまでの拒否反応を覚えるのか、その理由が分からないかも知れない。

「マインドコントロールというものがなかったら、どんなにいい教会だったか・・・、マインドコントロールの恐ろしさを知らない多くの人に伝えたい。マインドコントロールは信者になる以前の考え方や行動に至るまで、すべてを否定するような暗示にかかり、信者になった後のほうが思考能力や判断能力を失う、盲目(思考停止)の状態に陥ってしまうということなのです。人の心(魂)に精神的ダメージを与え続けるのがマインドコントロールの暗示の効いた言葉、つまり説教やメッセージということなのです。 
これは魂の救済よりも目に見えない心の殺害といったほうが近いかもしれません。魂を救い(救済)を謳った教会が、実際には欲望と野望のために、人々の魂を苦しめている、精神的ダメージを与えて判断能力を麻痺へと導くような実態がある」のです。(KENT氏の記事より)

エージェント・クリスチャンという呼称は、私がつけた自己流のあだ名であるが、これはニッポンキリスト教界という、外的影響力によって人の人格を改造しようとする、聖書から逸脱したむなしい人工的福音を語る、異端団体によって、マインドコントロールを受けて、自分の意志を失い、ただ組織の道具として思考し、行動するようになっているクリスチャンのことである。教界組織の工作員となっているところから、エージェントと呼んだ。工作員信徒と言っても構わない。彼らの本質は、要するに、神ではなく人に仕える偶像礼拝者であり、肉なる人間の栄光を築き上げようとする偽教会のむなしい活動のために、働き蟻のように働く偽クリスチャンである。

あたかも真のクリスチャンであるかのように偽装し、公然とクリスチャンを名乗って破壊活動を行い、キリスト教の名を貶めているエージェント・クリスチャンに対する私の嫌悪感と怒りは、とどまるところを知らないくらいだが、きちんと説明しておかなければ、これはただ私の感情的な反応であって、正しい反応ではないと人々に誤解されてしまうだろう。

なぜ、マインドコントロールを受けたエージェント・クリスチャンがそれほどまでに真のクリスチャンにとって危険なのか。このことを説明するためには、まず、カルト化した偽物の教会に、どんなに危険な「世の気遣いと富の惑わし」(マタイ13:22)が満ちているか、そこから説明しなければならない。
カルト化教会とは、神ではなく、人の栄光を求める団体である。人が人におもねらなければ、やっていけない社会がカルト化教会である。そこでは、神を重んじることよりも、人(権威者)を重んじ、組織の繁栄をはかることが何より最優先され、信徒が神ではなく、指導者と組織に栄光をもたらすための道具とされてしまう。そうする以外にはいかなる信徒にも居場所がない、そういう場所がカルト化教会だ。

カルト化教会、偽教会は、イエスの十字架を信じて、神から自由を得て、罪の奴隷の身分から解放されたはずの信徒を、再び人のための奴隷とし、様々な手かせ、足かせをつけて、組織の、指導者の操り人形にしてしまう。そして偽教会には、その教会の偽りの目的(人間の栄光)を達成するための工作員となった信徒たちがうようよしている。そういう偽クリスチャンたちが、指導者である偽牧師、偽教師の手足となって活動し、神の栄光を真に求めている本当の信徒までを圧迫し、操作し、教会の隅々まで信徒をエージェント化するために暗躍し、教会生活を狂わせていってしまうのである。

私は、「偽牧者の霊」、「偽説教者の霊」というものがこの世には確かに存在しているのではないかと思っている。カルト化教会以後、そのようなものに動かされている人たちを一種独特の嗅覚で感じられるようになった。カルト化教会の指導者たちは、まず例外なく、この「病気」の霊に取りつかれていると考えて良いだろうと私は思っている。

「偽牧者の霊」、「偽説教者の霊」は真のクリスチャンにとって大変危険な敵である。
なぜならば、この空中をうごめくハエのような「偽牧者の霊」が、最もおいしい餌として狙いを定め、常食としているのは、新生クリスチャンの純真な魂だからである。

聖書は言う、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」(ローマ12:1-2)
「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」(コリントⅠ6:20)。

このように、神を信じて受け入れた信徒の身体と心は、もはやその人自身のものでなく、その人の指導者のものでもなく、ただ神の栄光を表すための聖霊の宮となっているはずなのである。信徒は何が神の御心であって、何がそうでないのか、よくよく吟味して、御旨だけに従わなければならない。ところが、この「偽牧者の霊」「偽説教者の霊」は、神の栄光のためにあるはずの聖徒たちの心と身体を、人である牧師の栄光、ひいては、肉なる人間が作り上げる組織の栄光を築き上げるために奪い、かすめ取ろうとする。そして神の御心ではない様々な事柄を、あたかも神の御心であるかのように語って、信徒を惑わし、信徒を牧師の栄光のために使役していくのである。そうしているうちに、最終的には、まことの神への信仰が信徒から失われ、人への信仰(偶像崇拝)だけが残る。

さて、以下は私の体験ではなく、カルト化教会の偽牧師の使うマインドコントロールのテクニックのごくごく一部を示すために作ったフィクションである。

日本のどこかで、ベビークリスチャンが一人生れたとしよう。イエス・キリストを信じて、神に心を明け渡し、喜んで、これからの人生を信仰に基づいて生きようと、希望に満ちている新生キリスト者だ。ところが、空中にうようよしている「偽牧師の霊」というおぞましいハエが、その鋭い嗅覚によって、自分の餌となるものが生じたことを察知する。そして早速、ベビークリスチャンのもとに飛んでいく。

ベビークリスチャンは純真無垢で喜びに満ちているが、まだ信仰のための血のにじむような闘いの厳しさを知らない。偽牧師、偽教師、偽預言者、偽信徒がどれほど危険であるかを知らない。すべての霊が神から来た霊なのではなく、選ばれた人々だけが本当のクリスチャンであり、偽クリスチャンもまたクリスチャンに偽装して混じっているので、疑って、試さなければならないということを全く知らない。

大体、振り返ってみれば、私の知っているどの教会でも、「偽クリスチャンを警戒せよ」という教えは、聖書を見ればこれほどたくさん書かれているのに、一度も講壇から語られたことがなかったように思う。私は救いを受けてこの方、自分自身の頭で物事を考え、自分で聖書を読むようになるまで、偽クリスチャンを警戒することの重要性を、どの牧者からもきちんと教わったことがなかった。
教会でいつも教えられることはこうであった、「何事も自分の頭で考えないで、権威ある書物や牧師たちの教えることを従順に聞きなさい」。教会で、人の信仰が本物かどうかを疑うようになどと教えられた記憶は私には一切なく、まして、「牧者であっても、信仰が本物かどうか試さなければらなない、偽牧者を警戒しなさい」と教ええられたことは皆無である。

そんなわけで、キリスト教界にデビューしたての我らが主人公、ベビークリスチャンは、偽クリスチャンを警戒するようにと教えてくれる人が誰もいないので、信者を名乗って近づいて来る人すべてが本当の信者だと浅はかにも思い込んでいる。特に、御言葉を流暢に操る立派な牧師たちが、まさか偽クリスチャンである可能性など想像もしない。

だが、たとえベビークリスチャンが何も知らなくとも、偽教会というものがこの世にはれっきとして存在し、そこには、信者の心を神ではなく、人に従わせようとして、あの手、この手で信徒の心を操り、生活までも隅々に渡って支配・操縦しようとする危険な偽牧者がいるのだ。偽教会では、一人新しい信徒が生れると、早速、偽牧師がそばにすり寄って行って、あの手、この手で、信徒の思惑を自分の方に引きつけ、神ではなく、自分の栄光のために仕えるエージェントとするために、様々なマインドコントロールを仕かけようとする。

我らが主人公の新生クリスチャンを紹介しよう。彼女はまだ短大を卒業して間もない、若い娘である。親元を離れ、卒業後、下宿で一人暮らしを続けながら、仕事をし、今はキリストを受け入れたばかりの喜びに溢れ、若さと美しさに輝いている。しかし、彼女は知らなかったが、彼女が救いを得た教会は、偽教会であり、彼女に洗礼を授けた牧師は、偽牧師であった。

教会でイベントがあったある日、偽牧師は行事が終わり、礼拝堂に人が少なくなってから、ベビークリスチャンに近づいて言った、
「やあ、きみ、神様を信じて、その後、生活はどうだい?」
ベビークリスチャン(以後ベビー)は満面の笑顔で、溢れる喜びを率直に表した。

「先生、信仰生活がこんなに嬉しくて楽しいものだとは知りませんでした。主を信じる前は、色々な悩みが押し寄せてきて、まるで希望がないように感じられることが多かったんですが、今はそういう悩みにひしがれることはありません。たとえ悩みがあっても、生活の至るところに主の導きを感じるのです。
クリスチャンになるって何て素晴らしいことでしょう。職場でも私は御言葉を語らずにいられません。先生、私を信仰に導いて下さって、こんなにも大きな喜びを知らせて下さって、ありがとうございます」

偽牧師はベビーが早くも自分を讃え、自分に感謝を示したので、心の中で、満足そうにほくそ笑んで言った、
「それは本当に良かったね。神様もきみのために喜んで下さるはずだよ。ところでどうかね、きみは確か、随分とピアノが上手いようだが…」
ベビークリスチャンは顔を赤らめた、
「え、ご存知だったんですか、先生?」
「そりゃ知らないはずはないよ。だってこの前、礼拝堂で弾いてたじゃないか、牧師室にいて聞いていたんだよ」
「お恥ずかしい、全然知りませんでした…」
「何言ってるんだい、きみが素晴らしい賜物を神様からいただいていることが分かったよ。それに、きみは音大生なんだって?すごいじゃないか」
「ですが、私が出たのは短大ですし、卒業してから、仕事が忙しくって、練習もあまりできてませんし…」
ベビーは口ごもった。

偽牧師はベビーが大きな賜物を持ちつつ、それをひけらかさずに、むしろ自己卑下したことに、さらに満足しながら言った、
「どうだい、そのきみの賜物を主のために用いる気はないかい? 神様は喜んで捧げる人を目いっぱい祝福してくれるんだよ」
「それは…、ひょっとして、先生、私に奏楽者になれってことですか?」
偽牧師は優しそうにうなずく。
「うん、すぐに礼拝で弾かなくてもいいんだよ。水曜日の祈祷会や、小さな集会から初めてもいいんだ」
「でも…、私はまだ救われて間もないし、賛美歌もほとんど知らないし…、私には人前で主にご奉仕する資格なんてまだありません…。だって、私の信仰は未熟ですから、とてもそんな大それたことはできません」

偽牧師は、いつも人手が足りなくて困っているちっぽけな自分の教会の奉仕を、元音大生のベビークリスチャンが馬鹿にするどころか、畏れ多いものとみなしていることを知って、さらに満足しながら言った、
「あのね、きみはまだ知らないから、そうやって人と自分を比較してどうこうって思うんだろうけど、きみも信徒なんだから、覚えておかなければいけないよ、神様に捧げるご奉仕はね、人と比較するものじゃないんだよ。

神様にご奉仕するには、能力や経験なんて全然、関係ないんだ。上手い下手を問題にするのは、この世の人々だけだ。クリスチャンは、奏楽者のピアニストが上手く弾いているかどうか、その人がどのくらい長い間、奉仕してきたか、という経験を見るんじゃなくて、その人が心から主にお仕えする気持ちがあってやっているかどうかを見るんだよ。だから、経験とか技術とかは一切、必要ないんだ。主のために奉仕する心があれば、誰にでも、何でもできるんだよ、ね、聖書にもあるじゃないか、『私を強くして下さる方によって、私はどんなことでもできるんです』ってね」

「じゃあ、私みたいな初心者クリスチャンが奉仕しても大丈夫ってことですか?」
ベビーはためらいがちに言った。偽牧師は大喜びで答えた、
「大丈夫どころか、救われた喜びが心にあるうちに、早速、奉仕を始めた方がいいんだよ。ここでこんなことを言うのも何だけど、救われても、何もしようとしないで、ただ礼拝だけにぼんやり長年、通っている信徒もいるよ。でもね、そういう受身で惰性的な信仰生活を続けていると、どんどん心の中から喜びが失われていくんだよ。ねえ、一タラントを地中に埋めた人のたとえ話を、きみも覚えているだろう? 自分が持っている賜物を生かして、主のご用のために用いれば、それは何倍にも祝福されて、返ってくるし、周りの人にも命と豊かさをもたらすんだよ。でも、自分の賜物を生かそうとせず、ただ自分の手の中に握り締めているだけでは、祝福はどんどん失われていって、信仰も貧しくなっていくんだ…。だから、賜物を持っている人は、どんどん使った方がいいんだよ。そうすれば賜物もさらに成長して磨きがかかっていくんだ」

「でも、私なんかで、本当につとまるんでしょうか」
「この前、聞かせてもらった時も、思ったけど、きみなら絶対に大丈夫だよ」
言ってから、偽牧師はすでにずっと前から、彼女に奉仕を頼もうと思っていた魂胆をついうっかり口に出してしまったことを後悔した。何て厚かましい奴だと思われてはいまいかと、偽牧師は相手の顔をちらりとうかがった。だが、ベビークリスチャンは何も気づかずに、ただ喜んでいるようだった。
「私でも主のお役に立てるなら…」
偽牧師は目を輝かせた。
「そうか、それは良かった!じゃあ、できることから少しずつ始めたらいいよ、で、早速、来週の水曜日の祈祷会はどうだい?」

「ええ!? 来週ですか!?」
ベビークリスチャンはすっとんきょうな声をあげた。頭の中にスケジュールがよぎる。一週間、ほとんど予定が詰まっている。どうしたものか…。
「そうだよ、来週。ちょうどね、やってくれるはずだった人が用事があるから来られないって急に言ってきて、どうしようかと私も弱っていたところなんだ。でも、こうしてきみと話せたことに、神様の導きを感じるなあ。どうだい、一つ、きみに助けてもらってもいいかな」
偽牧者はできるだけ困ったような表情をしてみせる。

「でも、どうしよう、来週って言われても…」
「夜7時からだよ」
「仕事はもう終わってるけれど…でも…」
「曲もね、たった2曲しか歌わないんだよ、何だったら、祈祷会の最後まで残っていてもらわなくてもいいんだよ」
ベビーはしきりに考えをめぐらしたが、断るのは気が引けたのでついに言った、
「分かった、やります。夜7時ですね」
「ありがとう、本当に助かったよ。主が君を祝福してくださるように」

水曜日の祈祷会に行くと、信徒が誰しもベビーを歓迎してくれた。そして上手い上手いと、奏楽をほめてくれた。
信徒のおばちゃんたちがベビーを取り囲んで言った。
「あなた、素晴らしい賜物を持っているのね。これからきっとあなたは主のご用のために大きく用いられる器だわ」
「やっぱり、伴奏があった方が歌いいいわねえ。とってもいい気持ちで歌えたわ」
「プロの人って、やっぱり、違うのねえ」
「あのねえ、この教会、一応、奏楽者は他にもいるんだけど、皆、忙しい人たちばっかりでねえ…、伴奏がなくて寂しい日もいっぱいあったのよ。あたしたち、ほら、音感があなたみたいにないでしょう。だから、やっぱり、奏楽がないと歌いづらいのよねえ」
「若い人っていいわあ。これからも、あたしたちと一緒にいてね」
ベビーは皆から誉めそやされて、悪い気分ではなかった。

祈祷会が終わると、偽牧者が満足そうな表情で近づいて来て言った、
「ご苦労様。やっぱりぼくの思った通りだったね、随分と、歌いやすい奏楽だったよ。少しずつでいいから、これからも頑張って、ぼくらを助けてくれるかい?」
誉めそやされたベビーはうなずかざるを得ない。
「私にできることなら…」
偽牧師は満足そうに大きくうなずくと、急に話題を変えて言った。
「ところでね、きみ、確か前に、リサイタルを開きたいって言ってなかったっけ? 何だったら、それを教会でやってみたらどうかと思うんだ。会場は無料だし、友達と誘い合わせて、平日に演奏してみるのも悪くないと思うよ。チケットのこととか、ぼくも協力できると思うし…」
ベビーは顔を輝かせた。
「ほんとですか? 奉仕じゃなくても、教会で自分のコンサートを開いてもいいんですか?」
「もちろん、奉仕も大歓迎だし、コンサートだって構わないよ。平日は礼拝堂は空いているから、練習とかに使ってくれても構わないしね。この教会の奏楽者の一人がね、教会音楽を専攻にドクターを取った人なんだ。パイプオルガンの弾き手でもあるんだよ。彼女がよく別の教会でもリサイタルなんか開いているから、一度、きみを紹介してあげるよ、一緒に相談してみるといい」
偽牧師はスケジュール帳をめくりながら首をひねった。
「そうだねえ…、数ヶ月先の11月あたりくらいに、ぼくがきみのためにいい日を選んでおくよ、またこのことについて話そうね」
教会でリサイタルが開けると聞いて、ベビーは天にも昇るような気持ちで家に帰った。

こうして、ネズミ講の罠にひっかかるようにして、ベビークリスチャンは偽牧師の仕掛けた最初の罠にかかった。
その後、ベビーは、毎週、水曜日の祈祷会で奉仕させられることになり、最初の奉仕からわずか2週間も経たないうちに、偽牧師はベビーに日曜礼拝での奏楽の奉仕も頼んできた。
ベビークリスチャンは何か腑に落ちないものを感じたが、それでも、何とか心を納得させようとしながら、牧師の言うとおりに引き受けた。
(この牧師先生は、私を救いに導いてくれた大切な先生なんだし、間違ったことなんか、言うはずがない。そうだ、これはきっと主が与えて下さったチャンスなんだ。私が卒業後、あんまり練習をさぼってたし、人前で弾くチャンスもなくなってきていたから、きっと神様がこうやって、私が礼拝で弾くことで、腕がなまらないように配慮してくれているんだ…。それに先生は、リサイタルを開いてもいいって言ってくれたし、教会音楽専攻のドクターを紹介してくれるって言ってたし、頑張っていれば、もっともっと活躍の機会がめぐって来て、思わぬ道が開けるかも知れない…)

やがてどういうわけか、偽牧師の教会では深刻な奏楽者不足に見舞われるようになった。ベビーには理由は全く分からなかったが、教会に登録されている奏楽者は5人もいるはずなのに、なぜか毎週のようにベビーだけに奏楽が言いつけられるようになったのだ。毎週のようにピンチヒッターを頼まれるようになり、しかも、それが礼拝直前のこともあった。その度ごとに、偽牧師は困り果てたような表情で、ベビーの顔を拝むようにして言う、
「ごめんね、別の人が来られないって言ってきたから」
「来週はどうかな? 空いてるかな?」
「今、人がいなくて困ってるんだ、やってくれないかな?」

毎週、礼拝が終わる度に、手帳を持って、ベビーに奏楽を言いつけにやって来る偽牧師の厚かましさに、ある日、さすがのベビーも切れた。もう何ヶ月間も、ベビーだけが礼拝の奏楽をし続けている。他の奏楽者は一体、どこに消えてしまったのであろうか。
これ以上、偽牧師の言い分に引きずられるわけに行かないと判断したベビーは、しばらく奉仕を休むことに決めた。
「来週、頼んでいいかな?」
ある日、礼拝後に偽牧師が近寄って来た時、ベビーは思い切って言った、
「先生、私、今、ちょっと仕事が忙しくてどうしようもないんです…、来週は、悪いですが、できません」
来週だけでなく、再来週も、その後も、一ヶ月くらいはずっとできません…、そう言いたかったのだが、牧師の顔色がさっと変わったのを見て、ベビーは続きを言いよどんだ。
「ふうん、来週、だめなんだね。じゃあ、再来週はどうかい?」
ベビーは偽牧師の厚かましさに心の中でうんざりしながら言った、
「まだ分かりません、予定が決まってないから…」
「じゃあ、予定が決まったら、ぼくに知らせてくれるかな、ほら、メールで」
ベビーは偽牧師にメールアドレスを教えてしまったことを後悔しながら、しぶしぶうなずくしかなかった。
「分かりました」
はっきり断れなかったことをベビーは悔しく思いながら帰宅した。

ベビーはその後、偽牧師に何も連絡しなかった。面倒なので、しばらく礼拝にも行かなかった。偽牧師の方からも、ベビーへの接触はなかった。しばらくぶりに礼拝に出てみたが、牧師はもうベビーに奏楽を頼むこともなく、話しかけてくることすらなかった。あれほど、奏楽者が足りなくて困った、困った、と言っていたのに、不思議なことに、どこから沸いて出て来たのか、またも見知らぬ新しい奏楽者が礼拝に導入されていた。
ベビーは何かしら、侮辱のようなものを感じた。
(もしかして、先生は怒っている…? 前はあんなに私に奉仕させようとしていたのに、私があの時、断りの連絡を入れなかったから、それで、怒ってもう私には奉仕させないって決めたっていうこと…?)

水曜日の祈祷会の方の仕事もさっぱり回って来なくなった。あんなに歓迎してくれたおばちゃんたちの態度も、何だか急によそよそしくなったように感じられる。リサイタルの話も、どこかへ消えてしまった。
受洗した頃、友達だった信徒たちは、最近、仕事が忙しすぎるせいで、礼拝に来られなくなった。礼拝に来ても、ベビーは一人ぼっちで寂しい。信仰生活に張り合いがなくなり、もうこの教会に来るのはやめようかと思っていたある日の礼拝で、週報を見ると、次の月の奏楽者欄にベビーの名前が載っていた。
「やあ」
礼拝後、偽牧師が久しぶりに人懐こい笑顔でベビーに話しかけてきた。
「何だか久しぶりに話すみたいだね。ぼくの方も今まで忙しくて…きみとちゃんと話ができなかった、ごめんよ。ほら、前にきみ、忙しいって言ってただろう、だから、奏楽は頼むの控えていたんだけど、もうそろそろいいかなと思って、週報にきみの名前を入れてみたんだ。もちろん、都合が悪かったら、いくらでも断ってくれればいいんだよ、変更は効くからね、強制じゃないんだよ、どうだい、来月あたりは…」

ベビーは心の中でそろばんをはじく。これにOKと言って良いものかどうか。
偽牧師の態度は極めて丁寧で優しい。ベビーは自分がいつまでも何かよく分からない理由で彼に腹を立てているのが嫌になった。
(私が先生に腹を立ててるのは単なる八つ当たりなのかも。先生のこと厚かましいように思ってたけど、やる気がない時に、はっきり断れなかったのは私なんだし)
そう思って、ベビーは偽牧師への不信感を一切捨てて、また新たな気持ちで奉仕に取り組むことにした。

このようにして、お人よしなベビークリスチャンは偽牧師の仕掛けた果てしない罠の中に落ちていき、偽牧師の思うがままに利用されることになった。
そのうち、ベビーは教会の祈祷会で出会った青年信徒と恋に落ちて婚約の運びとなった。偽牧師は二人の交際に満足そうであった。二人は全会衆の前で婚約式を行い、清い交際をするよう偽牧師から勧められた。

その後、二人は普通の恋人同士のように何度か、喧嘩することもあったが、不思議なことに、二人の仲が悪くなると、すぐに偽教会の信徒たちがそれを察知し、噂にすることに気づいた。そんな事情があったので、だんだん、二人は教会でありのままの姿を見せられないようになった。偽教会の婦人部の信徒たちの嗅覚の鋭さには、並大抵でないものがあった。最初の祈祷会では、ベビーには気さくな人たちのように思われたおばちゃんたちは、実は、偽教会のある町のことを隅々まで知っており、100年前に町にどんな住民がいたかまで網羅しているだけでなく、ベビーが日頃、町のどんな店でどんな買い物をしているか、婚約者と会うために余暇にどんなレストランに行ったかまで知っていた。二人が家の外で喧嘩しようものなら、翌週の礼拝では誰もがそれを知っているような有様だった。そこで、二人は鵜の目鷹の目のような信徒達の前で、自分達の関係が品行方正で、落ち度なく、万事上手く行っていると受け止められるように、ことさらに気を遣うようになった。

さらに、ベビーの婚約者の青年は将来、その教会から献身して、牧師になることを夢見ていた。そうなれば、ベビーは将来、牧師夫人ということになる…。会衆は二人が本当に伝道者夫妻になるにふさわしいかどうか、いつも調べるような目つきで二人を見ていた。二人はすでにその教会の献身者としての自覚を持っていたので、将来のために教会運営のことをしっかり学んでおかなければならないと決意した。それから、より一層、ベビーは奉仕に熱心になった。

こうして、ベビーは三年間、その教会にいた。もはや礼拝、祈祷会の奏楽だけでなく、礼拝の受付、週報の印刷と折込、礼拝堂とトイレの掃除、イベントの準備と後片付け、それに礼拝堂の外の草木の水遣り、郵便物の管理、特別行事の際の奉仕など、一切合財の教会の雑務を引き受けていた。奉仕者への連絡と手配もベビーの仕事になっていた。偽牧師は教会から遠く離れた町のマンションに住んでいたので、礼拝堂の管理は信徒の仕事として任されていたが、それもベビーたちの仕事となった。一度、礼拝堂でボヤ騒ぎがあったため、毎日、礼拝堂を巡回する作業も欠かせなくなった。

ベビーはもうへとへとだった。仕事が終わった後、毎日のように教会に駆けつける。休日も、余暇も、すべてが教会行事のために費やされる。ベビーの側の事情などほとんど考慮することなく、次から次へと奉仕を言いつけてくる偽牧師の厚かましさに、ベビーはもう、我慢できないと思った。さて、ベビーの婚約者はこの間、一体、どうしていたかというと、彼は祈祷会での説教や、礼拝での勧士としての説教などを担当していたが、雑事にはまるで関わろうとせず、ただベビーだけが思い切り使い回されていた。しかも、どんなにベビーが立派に仕事をこなしても、彼女は縁の下の力持ちで、その手柄は全て、婚約者と、偽牧師のものとなってしまうのだ…。

優秀な助手をこき使って、一つ一つのイベントを成功裏にこなす度に、偽牧師と婚約者の二人がますます鼻高々になっていくのが感じられ、ベビーはいつしか二人への嫌悪感が心に生じるのを止められなかった。実際、血のつながらない偽牧師と婚約者の青年の二人は、今ではまるで血のつながった父と息子のようにそっくりになっていた。婚約者は偽牧師の言うことなら、どんなことでもはいと言う。偽牧師の要請であれば、ベビーの仕事であろうと、勝手に自分の一存で引き受けてくる。偽牧師とベビーの婚約者は、いかにして偽教会を拡大し、偽教会に繁栄をもたらすかということしか念頭になく、二人はしばしば隠れた場所で、信徒の悪口をこっぴどく言い合っては笑っていた。教会でのベビーの個人リサイタルは一度も実現していなかった。そしていつの間にか、婚約者はベビーに上からものを言うようになり、ベビーがどんなに疲れ切って奉仕している時にも、ねぎらうこともなくなっていた…。

ある日曜日、ベビーは床から起きようとしても、起きられない自分を発見した。それが偽教会との縁の終わりだった。婚約者はベビーが鬱になったと知ると、その原因が何であったか考えようともせず、早速、その話を教会の信徒たちに触れ回り、急な不幸に見舞われた哀れな献身者として、自分ひとりだけ信徒たちの同情を乞うたようだった。

ベビーは仕事も失い、礼拝にも通えなくなり、長い通院生活が始まった。婚約者とは別れたが、じきに彼が新しい信徒と婚約したという噂を聞いた。ベビーが病気になって以来、偽牧師は一度も、彼女を見舞いに来なかった。信徒も来なかった。婚約者は一度やって来て、激しい口論になって終わっただけだった。婚約者から一方的に捨てられたことが分かり、しかも、それが正当であったかのように見せかけるために、彼がベビーのことを信徒の前でさんざんに悪く言いふらしていたことが、ふとしたいきさつから判明した時、いくら彼にもはや愛情を抱いていなかったとはいえ、どれほどベビーは傷ついたことだろうか。長い間、これ以上、生きていても仕方がない、こんな屈辱を味わうくらいなら、死んだ方がましだ、という思いがベビーの心の中に渦巻いていた。

ベビーは偽牧師に長い長い苦情の手紙を書いたが、返事は一切、なかった。それから何年も経って、ベビーはやっと偽教会から自分の教会籍を返してもらおうと思い、思い切って、そこで偽牧師に手続きを要請する手紙を書いたが、偽牧師はベビーの要求を黙殺し、応じようともしなかった…。

こうして、偽教会に何の栄光ももたらすことができなくなったベビーは、身も心もズタボロにされて、捨てられた。ベビーはその後、何年間も、キリスト教という名前を聞くだけで、吐き気がするような思いであった。救われた当初とは打って変わって、心にはもう何の喜びもなく、救いの確信もなかった。クリスマスになると、町で流れる賛美歌を聞いただけで、涙が止まらなくなったり、突然、聖句が頭をよぎり、眩暈がして、心臓が止まるような思いがすることもあった。ベビーが涙なしに、聖書を手に取ることができるようになるまで、30年近い月日がかかった…。

さて、話はここで終わりである。これは偽牧師がいかに初心な羊を自己の野望の手段として搾りつくした上で、無情に捨てるかということを描くために作ったフィクションである。
しかしながら、こんなものは、カルト化教会から生じる被害の中では、序の口であり、比較的軽症であると言えるだろう。次回以降、これよりもさらに深刻な事例について書いていきたい。