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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

鳴尾教会のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団離脱と教団側からのいわれなき制裁②

~鳴尾教会のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団からの離脱と
同教会に対する教団側からのいわれなき制裁の数々~

鳴尾キリスト福音教会は、アッセンブリーズ•オブ•ゴッド教団からの離脱に伴い、これを阻止しようとした教団側から、恫喝裁判も含めた様々な嫌がらせを受けた。

以下で引用した文化庁の宗教法人審議会議事録は、同教団が鳴尾教会の教団離脱に際し、その手続きの違法性を主張して認証取消を求めたものであるが、結果として、教団側の主張は全く一顧だにされない形で退けられた。教団側はこの都合の悪い事実には沈黙している。

鳴尾教会に関する文化庁での審議の過程は、第159回(平成22年10月18日)第160回(平成22年11月25日)第163回(平成23年10月19日)の議事録で確認できる。

なお、これらの審議を受けて、同教会の教団離脱の取消しを求めたアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による異議申し立ては、完全に棄却されて終わったが、その詳細については宗務時報No.115 (平成25年3月)を参照されたい。
  
教団は、鳴尾教会の教団離脱の手続きが正当でなかったかのように主張して、教会に対する裁判にまで及んだが、これらの争いにことごとく敗れ、それを通して教団の主張の虚偽性が明らかになった。その事実の経緯は、鳴尾教会の現在の牧師が運営するブログ「鳴尾キリスト福音教会から皆様へ」に詳しいので、こちらをご参照いただきたい。
 
なお、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と鳴尾教会との相克の歴史は長く、事の発端は、2001-2002年にかけて、当時の鳴尾教会の主監者であった津村昭二郎牧師(村上密氏の義理の父)が、鳴尾教会の後継者として教団から正式に派遣された伝道師夫妻に、いわれなき嫌疑をかけて教会から追放した事件に遡る。
 
この事件によって鳴尾教会に引き起きされた混乱をも、教団サイド(村上密牧師及び津村昭二郎牧師)は、現在の鳴尾教会の牧師夫妻で起こったかのように責任転嫁し、現在の牧師夫妻にもでっちあげの嫌疑をかけて非難し、教会からの追放を試みていた。

当ブログでは、2001-2002年にかけて鳴尾教会で起きた事件の真相について、当時、教団側から公式に配布された証言者の説明資料に基づき、以下の一連の記事で詳しく示した。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団村上密牧師の非聖書的で危険な活動について③
アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団村上密牧師の非聖書的で危険な活動について④
アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団村上密牧師の非聖書的で危険な活動について⑤
    
鳴尾教会問題とアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団村上密牧師の非聖書的で危険な活動について(まとめ)  
   
ちなみに、鳴尾教会が教団から離脱したことを、あたかも「教会の乗っ取り」が起きたかのようにデマを主張していたアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団であるが、驚くべきことに、同じ頃、同教団の信徒が、別の教会に身元を隠して潜入し、教会を乗っ取るという事件が起きていた。この呆れるような事件については、以下の記事に記したのでご参照いただきたい。

カルト被害者救済活動の暴走~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による魔女狩りとしての鳴尾教会への恫喝訴訟とAG信徒による他教会の乗っ取り~

こうした一連の事件を詳しく振り返るならば、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と、その指導者である村上密牧師及び津村昭二郎牧師が、どれほど信用ならない不誠実な人物であり、正当な手続きを経ないで鳴尾教会の人事に密室で介入し、同教会の正常な牧会を妨げて、教会に混乱をきたし、長年に渡り、執拗に教会関係者を追跡・迫害しては、信徒の平穏な信仰生活を妨害し、いわれなき打撃を与え続けて来たかがよく分かるであろう。

だが、教団側からの恫喝裁判を含めたあらゆる迫害にも関わらず、この小さな教会は消滅することはなかった。教団離脱後、「鳴尾キリスト福音教会」として新たに出発を遂げたこの教会の新しいホームページには、以前とは見違えるようにきれいになった白いチャペルが映っている。この改装も、教会が喜びのうちに新たな門出を果たしたことの明白な証拠である。祝福のうちに見守りたい。 

第160回(平成22年11月25日)宗教法人審議会議事録

  • ○ 日時 平成22年11月25日(木曜日)
  • ○ 場所  文部科学省3F2特別会議室
  • ○ 議題
    1. 開会
    2. 議題
      1. (1)宗教法人「鳴尾キリスト福音教会」の規則変更認証決定に係る審査請求について
      2. (2)その他
    3. 閉会
  • ○ 出席者
    【委員】
    飯野委員 井田委員 打田委員 大石委員 巫部委員 清重委員 小林委員 斎藤委員
    佐藤(禎)委員 佐藤(典)委員 杉谷委員 滝口委員 田中委員 戸松委員 深田委員 山岸委員 
    【文化庁】
    吉田文化庁次長 小松文化部長 佐藤宗務課長 井上宗教法人室長
    その他関係者

1.開会

○大石会長
 ただいまから第160回宗教法人審議会を開会いたします。
 まず,開会に当たりまして,吉田文化庁次長から一言御挨拶をお願いしたいと存じます。
○文化庁次長
 ただいま御紹介いただきました文化庁次長の吉田でございます。
本日は,去る10月18日にこの審議会で文部科学大臣から諮問させていただきました,宗教法人の規則変更認証決定に係る審査請求に対する裁決案につきまし て御審議を頂き,御答申を頂きたく考えております。委員の先生方のかっ達な御審議を賜りますようお願い申し上げまして,簡単ではございますが御挨拶とさせ ていただきます。どうぞ,よろしくお願いいたします。
○大石会長
 ありがとうございました。
 それでは審議に入ります前に,事務局から本日の配布資料の確認をお願いします。
○事務局
 それでは配布資料の確認をさせていただきます。

(配布資料の確認)
○大石会長
 続きまして定足数の確認をいたします。
 宗教法人審議会規則第6条によりまして,総委員の5分の3以上の出席がなければ,議事を開き議決をすることができないとされております。本日は,20名の総委員中16名の出席で,定足数を充足しているということを確認いたします。
 なお,本日の審議内容の公開に関する取扱いについて確認いたします。
 当審議会における申合せにより,会議自体は非公開ですが,後日,不服審査に係る審議の内容については議事要旨を,また,その他の審議の内容については議事録を,それぞれ作成して公開することとなります。
 議事録,議事要旨については,各委員の自由な討議を確保するため,委員の意見は匿名となります。
 さらに,個別の宗教法人名は,議事録等では公開しないこととされておりますが,答申の中で記載された法人名につきましては,この限りではないとされておりまして,公開されることになります。
 以上,念のため申し添えます。

2.議事

議題(1)

 宗教法人「鳴尾キリスト福音教会」の規則変更認証決定に係る審査請求についての議事要旨は以下のとおりである。

  • ・ 平成22年10月18日及び11月1日に開催された小委員会における検討結果の報告が行われた。
  • ・ 審議の結果,審査請求を棄却する旨の裁決をすることを適当とする旨の答申が行われた。

議題(2)

○会長
 次に,議題(2)その他について,事務局から報告がございます。
○宗務課長
 お手元の資料を御覧いただきたいと思います。
 昨年の1月にも御報告をさせていただきました不活動宗教法人対策につきまして,その後の状況を御説明させていただければと思います。
 各都道府県に,平成21年12月31日現在の不活動宗教法人数を調査したところ,都道府県知事所轄で4,149法人あることが分かりました。文部科学大臣所轄が4法人ありますので,不活動宗教法人は全国で4,153法人ということになります。
 系統別につきましては,仏教系が2,190法人,神道系1,722法人,キリスト教系43法人,諸教系198法人となっております。また,包括・被包 括・単立別で言いますと被包括宗教法人が3,741法人,包括宗教法人が7法人,単立宗教法人が405法人となっております。これまでの文化庁における取 組ですが,平成16年から平成22年まで,都道府県向けとして不活動宗教法人対策会議の開催,不活動宗教法人対策マニュアル・対策事例集の配布・作成を行ってきました。
 また,包括宗教法人向けの取組としては,包括宗教法人への文書による協力依頼,個別包括宗教法人に対するヒアリングの実施,包括宗教法人向けの不活動宗教法人対策会議の開催,不活動宗教法人対策手引書・対策事例集の作成・配布を行ってきました。不活動宗教法人数の推移について御説明しますと,文部科学大臣所轄では平成16年に17法人あったものが,平成22年には4法人となり,都道府県知事所轄では平成16年に4,731法人 あったものが,平成22年には4,149法人となり,それぞれ減少しています。
 つまり,文部科学大臣所轄については,13法人減少の76.5%減,都道府県知事所轄については,582法人減少の12.3%減となっています。不活動 宗教法人については,法人として維持・存続させる意思がある場合には活動再開を念頭に置きますが,そのような意思がない場合は,法人格の整理を検討することになります。その場合,役員がそろっている又は補充が可能である場合は法人の自主的な解散手続である吸収合併や任意解散を,それができない場合には,裁判所への解散命令請求を検討することになります。
  今後の課題ですが,不活動宗教法人のうち,調査不足などのため,対策方針の策定ができていない法人が存在します。都道府県知事所轄の法人についていいますと,実態別として,解散命令請求の要件にもなっている,代表役員が1年以上不在であるとか,境内建物が2年以上不存在であるとか,そういった分類分けができている法人もありますが,対策方針を策定のために調査をするべき法人が1,916法人あります。
  整理阻害事由としては,残余財産が存在して清算が困難で先が進まない,法人関係者が不明である,あるいは法人関係者の協力が得られないというような場合があります。
  次に,書類未提出法人ですが,文部科学大臣所轄1,043法人のうち997法人が提出しており,提出率は95.7%となっています。また,都道府県知事所 轄ですと18万1,484法人のうち16万4,780法人が提出しており,提出率は90.8%となっています。未提出法人については,今後も提出を促すよう努めるとともに不活動の疑いがある法人があれば,実態調査等を行っていく必要があります。
  最後に,対策上の問題点として,特に都道府県の問題点ですが,専任の事務担当者がいない県が多く,認証等の事務がある中で,対策に着手できていない状況が あるということや,解散あるいは清算に費用がかかるという意見があります。それから,包括宗教法人の方でございますが,いろいろな形で対策に取り組んでい ただいている法人と,そうでない法人があると思っております。なかなか対策が進まない包括宗教法人の御意見を聞きますと,人的協力とか費用負担についてい ろいろ難しいというお声を聞きます。一方,宗派において対策委員会を設けておるところもございます。不活動宗教法人対策のみならず後継者対策等に論点をあ てるなど積極的に取り組んでいただいております。
  また,包括宗教法人がない単立宗教法人の場合には,その実態が十分に分からない上に,対策の効果的な手法・ノウハウが欠如していると思われます。
  最後に,今後の取組としまして,考えている対策について御説明いたします。
  まず,被包括宗教法人への対策と単立宗教法人への対策に分けてそれぞれ対策を講じます。
  被包括宗教法人につきましては,包括宗教法人の協力が得られるのかどうかによってその対策の進み方が大きく違います。特に,宗派ごとの不活動宗教法人のリストアップ,情報共有,それから対策の進んでいない宗派に対しての個別のお願い,また,都道府県担当者と宗派の情報交換や協議の場が設定できないか等,考えております。単立宗教法人については,不活動宗教法人の法人格が悪用されないように一層厳格な認証事務の実施やその実態把握調査などを行っていきます。
  厳格な認証事務の実施という点につきましては,法人格の譲渡や売買という報道もございましたが,所轄庁では,そういったことがないように,宗教法人の事務 所の移転や名称変更などの規則変更の認証に当たっては,宗教活動や礼拝施設の現状や役員等の選任過程など十分に調査を行い,宗教法人の同一性,継続性が維 持されているかどうかを確認し,法人格が売買の対象になっていないかどうか慎重に対応しています。仮に法人の同一性や継続性が維持されない場合は,新規法 人の設立の手続によることになります。
 また,平成23年度に新規事業の実施を検討しております。
 これは,都道府県知事所轄の不活動宗教法人等の整理を進める上での効果的な手法・ノウハウの収集・蓄積等を行い,その成果を全国に普及させることを目的とした「不活動宗教法人対策推進事業」として概算要求をしているところでございます。
  以上でございます。
○大石会長
 ただいまの事務局からの報告について,何か御質問がありましたら承りたいと思います。
○宗務課長
 次に,情報公開に対する対応状況について御説明させていただきます。これは,毎年1回御報告させていただいておりますが,平成22年度は,宗教 法人法第25条の提出書類に対する情報公開請求が1件,規則に対する情報公開請求が12件ありました。請求に対する決定については,法律に従って,登記事 項等の公知の事項を除き,不開示情報として取り扱うなど,適切に処理しているところです。
 それから,情報公開法改正について,内閣府の行政透明化検討チームにおける取りまとめ概要が8月24日に出されておりますので御参考までにお知らせいた します。現段階では開示手続の迅速化・強化ということで,開示請求に係る手数料を原則として廃止するとともに,開示実施に係る手数料を引き下げ,開示決定 までの期間の短縮ということで,開示請求から開示決定等までの原則的期限を30日から14日にするということなどについて議論が進められていると承知して おります。
 以上でございます。
○大石会長
 ただいまの事務局からの報告について,何か御質問がありましたら承りたいと思います。
 それでは,一応予定されていた報告は以上ですが,お手元にある平成17年3月と平成20年3月に作成した「海外の宗教事情に関する調査報告書」を御覧ください。平成17年のものは法律的な側面や制度ではなく,それぞれの国,地域でどのようになっているかというのが主になった報告書で,以前からこういう調査をしているところでございます。
 一番最近の資料は,平成22年3月に作成したものでございまして,平成20年作成の報告書本体の附属資料として,資料 編の1から5まで,イギリス,ドイツ,フランス,イタリア,アメリカの宗教関係法令が,各巻で原文とともに翻訳も載っているということでございます。基本的な宗教と政治といいますか,いわゆる政教関係がそれぞれの国でどうなっているか,宗教団体の制度がどうなっているかということを5か国横並びで分かりやすいようにチームを組んで検討したものでございまして,非常に充実した内容になっております。
 それから,現在,宗教法人法の英語訳の作業が進められております。これは,政府の平成22年度翻訳整備計画に宗教法人法が挙げられているためです。会社法等他法令につきましても,既に英語訳が作成されているものもあります。
 さて,最後の点ですが,前回の議事録を御確認いただけましたでしょうか。特に支障がなければこれで確定させていただきたいと思います。
 本日の議事につきましては,以上でございますが,最後に全体を通して御発言等はありませんでしょうか。特に御発言等なければ,本日はこれにて閉会します。
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鳴尾教会のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団離脱と教団側からのいわれなき制裁➀

~鳴尾教会のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団からの離脱と
同教会に対する教団側からのいわれなき制裁の数々~

鳴尾キリスト福音教会は、アッセンブリーズ•オブ•ゴッド教団からの離脱に伴い、これを阻止しようとした教団側から、恫喝裁判も含めた様々な嫌がらせを受けた。

以下で引用した文化庁の宗教法人審議会議事録は、同教団が鳴尾教会の教団離脱に際し、その手続きの違法性を主張して認証取消を求めたものであるが、結果として、教団側の主張は全く一顧だにされない形で退けられた。教団側はこの都合の悪い事実には沈黙している。

鳴尾教会に関する文化庁での審議の過程は、第159回(平成22年10月18日)第160回(平成22年11月25日)第163回(平成23年10月19日)の議事録で確認できる。

なお、これらの審議を受けて、同教会の教団離脱の取消しを求めたアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による異議申し立ては、完全に棄却されて終わったが、その詳細については宗務時報No.115 (平成25年3月)を参照されたい。
  
教団は、鳴尾教会の教団離脱の手続きが正当でなかったかのように主張して、教会に対する裁判にまで及んだが、これらの争いにことごとく敗れ、それを通して教団の主張の虚偽性が明らかになった。その事実の経緯は、鳴尾教会の現在の牧師が運営するブログ「鳴尾キリスト福音教会から皆様へ」に詳しいので、こちらをご参照いただきたい。
 
なお、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と鳴尾教会との相克の歴史は長く、事の発端は、2001-2002年にかけて、当時の鳴尾教会の主監者であった津村昭二郎牧師(村上密氏の義理の父)が、鳴尾教会の後継者として教団から正式に派遣された伝道師夫妻に、いわれなき嫌疑をかけて教会から追放した事件に遡る。
 
この事件によって鳴尾教会に引き起きされた混乱をも、教団サイド(村上密牧師及び津村昭二郎牧師)は、現在の鳴尾教会の牧師夫妻で起こったかのように責任転嫁し、現在の牧師夫妻にもでっちあげの嫌疑をかけて非難し、教会からの追放を試みていた。

当ブログでは、2001-2002年にかけて鳴尾教会で起きた事件の真相について、当時、教団側から公式に配布された証言者の説明資料に基づき、以下の一連の記事で詳しく示した。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団村上密牧師の非聖書的で危険な活動について③
アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団村上密牧師の非聖書的で危険な活動について④
アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団村上密牧師の非聖書的で危険な活動について⑤
    
鳴尾教会問題とアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団村上密牧師の非聖書的で危険な活動について(まとめ)  
   
ちなみに、鳴尾教会が教団から離脱したことを、あたかも「教会の乗っ取り」が起きたかのようにデマを主張していたアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団であるが、驚くべきことに、同じ頃、同教団の信徒が、別の教会に身元を隠して潜入し、教会を乗っ取るという事件が起きていた。この呆れるような事件については、以下の記事に記したのでご参照いただきたい。

カルト被害者救済活動の暴走~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による魔女狩りとしての鳴尾教会への恫喝訴訟とAG信徒による他教会の乗っ取り~

こうした一連の事件を詳しく振り返るならば、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と、その指導者である村上密牧師及び津村昭二郎牧師が、どれほど信用ならない不誠実な人物であり、正当な手続きを経ないで鳴尾教会の人事に密室で介入し、同教会の正常な牧会を妨げて、教会に混乱をきたし、長年に渡り、執拗に教会関係者を追跡・迫害しては、信徒の平穏な信仰生活を妨害し、いわれなき打撃を与え続けて来たかがよく分かるであろう。

だが、教団側からの恫喝裁判を含めたあらゆる迫害にも関わらず、この小さな教会は消滅することはなかった。教団離脱後、「鳴尾キリスト福音教会」として新たに出発を遂げたこの教会の新しいホームページには、以前とは見違えるようにきれいになった白いチャペルが映っている。この改装も、教会が喜びのうちに新たな門出を果たしたことの明白な証拠である。祝福のうちに見守りたい。 


注)以下の第159回(平成22年10月18日)宗教法人審議会議事録においては、アッセンブリーズ•オブ•ゴッド教団サイドに立つ信者の異議申し立てにより、鳴尾キリスト福音教会の教団離脱の手続きが適正であったかどうかに関して審査を行うための小委員会が設けられることが決定されたことが示されている。該当部分は赤字にしてある。なお、教団サイドに立ってこの認証取消手続きを請求した信者が誰であるのか名前は公表されていない。

第159回(平成22年10月18日)宗教法人審議会議事録

  • ○日時 平成22年10月18日(月)
  • ○場所  文部科学省3F2特別会議室
  • ○ 議題
    1. 開会
    2. 議題
      1. (1)宗教法人「鳴尾キリスト福音教会」の規則変更認証決定に係る審査請求について
      2. (2)その他
    3. 閉会
  • ○ 出席者
    【委員】
    井田委員 打田委員 大石委員 清重委員 黒住委員 小林委員 斎藤委員 佐藤(典)委員 島薗委員 杉谷委員 滝口委員 戸松委員 深田委員 山岸委員
    【文化庁】
    小松文化部長 佐藤宗務課長 井上宗教法人室長 その他関係者

1.開会

○大石会長
 ただいまから第159回宗教法人審議会を開会いたします。
 まず,開会に当たりまして,小松文化部長から一言御挨拶をお願いいたします。
○文化部長
 第159回宗教法人審議会の開催に当たりまして,一言御挨拶申し上げます。委員の先生方におかれましては,本日はお忙しい中御出席を頂きまして,誠にありがとうございます。
 本日は,宗教法人の規則変更認証決定に係る審査請求が1件,文部科学大臣宛てになされておりますので,その件に関する諮問を行わせていただきたいと存じます。
 また,併せまして最近の宗務行政の状況について御報告申し上げたいと考えております。
 文化庁といたしましては,委員の先生方それぞれのお立場からの貴重な御意見,御助言を賜りまして,引き続き,適正な宗務行政の推進に努めてまいりたいと考えておりますので,よろしくお願い申し上げます。
 以上,簡単ではございますが,御挨拶とさせていただきます。
○大石会長
 それでは最初に,委員の異動の御紹介を申し上げます。
 昨年6月29日に開催されました会議から,第29期の宗教法人審議会が発足いたしましたが,本年3月末をもって,島薗進委員,深田惠子委員,深澤信善委員のお三人が任期満了となられました。このうち島薗委員,深田委員は4月1日付で再任されていらっしゃいますので,引き続きどうぞよろしくお願いいたします。
 また,4月1日付で戸松義晴委員が新たに就任されておりますので御紹介いたします。それでは戸松委員から一言お願いいたします。
○ ただ今御紹介いただきました,全日本仏教会事務総長を務めております戸松と申します。どうぞ,ひとつよろしくお願いいたします。
○大石会長
 次に,文化庁側の異動もございました。この点につきましては,事務局の方から御報告願いたいと存じます。
○宗務課長
 7月31日付けで文化庁側の異動がございましたので,御紹介させていただきます。
 文化庁長官につきまして,前任の玉井日出夫が異動になり,後任に近藤誠一が就任いたしました。
 文化庁次長につきまして,前任の合田隆史が異動となりまして,後任に吉田大輔が就任いたしました。吉田次長につきましては,本日出席予定でございましたが,急遽用務が入りましたため席を外しております。
 それから,文化部長につきましては,7月30日付けですが,現任の清木孝悦が異動となりまして,後任に小松弥生が就任いたしました。
○大石会長
 それでは,審議に入ります前に,事務局から本日の配布資料の確認をお願いしたいと存じます。
○事務局
 では資料の確認をさせていただきます。

(配付資料の確認)
○大石会長
 続きまして,定足数の確認をいたします。宗教法人審議会規則第6条により,総委員の5分の3以上の出席がなければ,議事を開き議決することができないこととされております。本日は,総員20名中14名の出席で,定足数を充足していることを確認いたします。
 また,本日の審議内容の公開に関する取扱いについて確認いたします。
 当審議会における申合せにより,会議自体は非公開ですが,後日,不服審査に係る審議の内容については議事要旨を,また,その他の審議の内容については議事録を,それぞれ作成して公開することとなります。
 議事録・議事要旨については,各委員の自由な討議を確保するため,委員の意見は匿名となります。
 さらに,個別の宗教法人名は,議事録等では公開しないこととされていますが,答申の中で記載された法人名については,この限りではないとされており,公開されることになります。
 以上,念のため申し添えます。
2.議題
○大石会長
 それでは,議事に入ります。
議題(1)
●宗教法人「鳴尾キリスト福音教会」の規則変更認証決定に係る審査請求についての議事要旨は以下のとおりである。宗教法人鳴尾キリスト福音教会(兵庫県知事所轄)について文部科学大臣に代わり文化部長から諮問を行った。本件は,小委員会を設け,そこで検討を行うこととされた。大石会長から小委員会の委員として,大石委員,井田委員,斎藤委員,佐藤(典)委員,島薗委員,山岸委員が指名された。
議題(2)
○大石会長
 それでは次に,議題(2)になります,最近の宗務行政についてということで,事務局から報告がございます。よろしくお願いいたします。
○宗務課長
 お手元の資料6を御覧いただければと思います。
 この審議会の答申案件のその後の経過について御報告させていただきます。
 3件ございます。1件目は宗教法人氣多神社の規則変更認証処分に係る案件でございます。平成18年5月15日に,この審議会答申が出されまして,事案の内容につきましては石川県知事が被包括関係の廃止を内容とする規則変更の認証をしたところ,神社本庁らからその処分の取消しを求めて審査請求がなされた事案でございます。
 このとき,変更後の規則は必要的規則記載事項とされている財産処分に関する規定が全部削除されているということを理由として,石川県知事の認証処分を取り消す旨の裁決を行ったということでございます。
 これに対して,平成18年11月10日に裁決取消請求訴訟が氣多神社の元役員らから国を相手方としてなされたということでございます。平成19年9月13日に地裁におきまして国が敗訴いたしました。ただ,平成20年9月10日,1年後東京高裁では原審取消判決で,国が勝訴したところでございます。先ほど申しました宗教法人法の規定に鑑みて,「基本財産,宝物その他の財産の設定,管理及び処分」に係る事項は,宗教法人において本質的事由に係る不可欠の規定というべきであって,規則において一義的に明示されることが求められている事項であるというような御判断を頂きまして,また,本件裁決に行政手続法上違反はないというようなことも示されました。
 しかしながら,その後,氣多神社の元役員らが上告いたしまして,平成22年4月20日に最高裁で,高裁判決破棄,つまり国敗訴との判決が出されました。その後,判定の確定を受けて,石川県知事は,文部科学大臣の裁決に基づき行っていた平成18年5月22日付けの不認証決定を取り消しました。
 特に最高裁判決の要旨でございますが,法12条8号最後にある「その他の財務に関する事項」の例示であると,文言に照らせば財務に関する事項の例示であるということで,宗教法人の規則に記載することが望ましいことはいうまでもないが,これを必ず記載しなければならないとまではいえない,という御判断でございます。
 それから,規則中,特に財産処分に関する明示的な規定を持たない法人があったとしても,法23条及び24条の定める範囲で,これは財産処分等に係る公告などの手続の規定でございますが,財産の不当な処分が防止され保全がされることから,財産の処分に関する明示的な規定を持たない規則を有する宗教法人が存在していることも予定して,その財産保全を図っているという判断が出されています。
 そうすると宗教法人の規則上,財産処分に関する事項を明示的に定めた規定が存在しない場合であっても,それだけでは法12条1項8号に違反するものとはいえないということで,最高裁判決では,合わせ読みという形で判断されたものと認識しております。
 この最高裁判決を受けまして,当庁といたしましては,基本的には,宗教法人における基本的かつ根本的な事柄である財産処分に関する事項については,最高裁も触れているように規則に記載することが望ましいため,今後とも宗教法人の規則に記載するよう求めてまいりたいと思っております。以上でございます。
 次に,冠纓神社の規則変更不認証決定に係る案件でございまして,これについては基本的に神社本庁と冠纓神社の被包括関係廃止に係る規則変更の認証の関係でございますが,平成20年5月12日の宗教法人審議会の答申を踏まえまして,文部科学大臣は審査請求を棄却しました。
 その後,平成20年11月14日に,冠纓神社がこれは香川県を被告として,取消訴訟を起こしました。
 平成22年2月1日,高松地裁で県勝訴との判決が出され,これに対して冠纓神社が控訴しましたが,同年7月22日に高松高裁でも県勝訴との判決が出されております。現在,冠纓神社が上告中でございます。
 それから,最後でございますが,宝榮山妙法寺の規則変更不認証決定に係る案件でございます。これは昨年,この審議会で御審議いただきまして,平成22年1月25日に答申を頂き,同年2月2日に文部科学大臣が審査請求を棄却するという裁決を出しております。
 これにつきましては,宝榮山妙法寺が今年の7月30日に東京都を相手方として東京地裁に提訴し,現在係争中でございます。
 以上御報告でございます。
○大石会長
 以上,3件についての経過を御紹介いただきましたが,これについて何か御質問等ありましたらお願いいたします。
 今御説明いただきました案件を御覧になって分かりますように,都道府県の知事の決定をそのままこちらで認めるということになりますと,その都道府県を相手方として取消訴訟を提起することになるわけですが,氣多神社の場合は,文部科学大臣が石川県知事の処分を取り消すとの裁決を出しましたので,国が被告となったわけでございます。
 何か御質問等ございませんでしょうか。よろしゅうございますか。それでは次の説明をお願いします。
○宗務課長
 「宗教法人が行う事業に関する調査」の結果が取りまとめられましたので,概要を御紹介させていただきたいと思います。
 この調査は,平成20年度,21年度において,今後の宗教法人制度の適切な運営の在り方や,宗務行政の円滑な推進について指針を得るという観点,それから,宗教法人に対して今後の各法人の適切な運営に供するための参考データを提供するということで実施したものでございます。
 調査に当たりましては,学識経験者,宗教関係者及び都道府県の事務担当者に協力者として委嘱しまして,ワーキンググループを設けて調査をいたしました。  調査対象につきましては,[1]「全国10%抽出の単位宗教法人」を対象に,[2]として「全ての包括宗教法人」,それから[3]として「都市部と地方部の全単位宗教法人」を設定しまして,平成20年10月1日現在の実情について,郵送アンケートにより回答を求めたということでございます。
 同様の調査は,前回は20年ほど前にしておりまして,経年変化を比較するため,それぞれの調査結果を掲載しているところでございます。
 調査結果につきましては,お手元の宗務時報?111(平成22年9月)に結果を掲載して,文部科学大臣所轄宗教法人等に配布している状況でございます。
 この調査対象ですが,(2)に回収状況とありますが,[1]の単位法人の関係でございますと,今回は一番上にもありますように,送付が1万7,932法人ありまして,返ってきて有効回答数としては10,031法人で,前回よりは回収率がよかったということでございます。10,031法人のうち,事業をやっているというのは989法人で,9.9%の宗教法人が宗教法人法上の宗教活動以外に,公益事業あるいは公益事業以外の事業を行うことができる,というふうになっておりますので,そういう事業等をやっているというのが分かると思います。
 [2]の包括宗教法人でございますが,右の結果を見ていただきますと,今回は有効回答率が81.5%ございまして,特に事業をやっているというのが97法人で,31.0%の包括宗教法人が事業等を行っているというふうにいえるかと思います。  それから,[3]の都市部と地方部の関係でございますと,都市部は特に東京都の特別区の法人を対象にしておりますが,基本的に事業ありという法人は,有効回答が3,078法人のうち1,196法人ありまして,38.9%が事業をやっていると。ただ一方,青森県の方でございますが,1,255法人の回答,有効回答率83.0%でございます。そのうち事業をやっているというのが47法人ということで,事業の実施率が3.7%ということで都市部と地方部での違いが出ているかなというふうに思っております。
 それから,主な特徴が出ているものについて簡単に御説明させていただきます。
 まず,単位宗教法人が行う事業の傾向ですが,系統別による事業の実施率ということで,ここを見ていただきますと,今回の調査での有効回答の法人について系統別では,神道系が6.1%,仏教系が14.4%,キリスト教系が15.7%,諸教が2.5%というようなデータになっております。
 基本的に数としては,神道系と仏教系がほとんど数を有しているということでございますが,そのような特徴が出ているということでございます。
 それから,事業実施の業種でございますが,ここにありますように基本的には複数回答でございますが,第1位が貸地・貸間等56.7%,第2位が駐車場で40.7%という形でございます。それから,第3位として霊園が上がってきております。前回調査と比較しますと,霊園が比率として4.9%から9.1%に増加して,結婚式場とか旅館・宿泊業等が減少傾向の数値にあるというのが要因ではないかなと思います。
 事業の業種数につきましては,1業種が69.8%,2業種が26.3%でございます。  事業を行う理由につきましては,ここにございますように,宗教法人の財政基盤を強化するということと,社会や地域住民の要請のためというのが多い傾向になっています。
 事業会計の歳入ということで,基本的に特に全体の73.2%が事業の歳入規模が1,000万円未満であるということでございます。全体の2.9%が1億円以上の法人という結果が出ているところでございます。
 収益があった場合の一般会計及び特別会計への繰入れについては,基本的に全体の41.5%が100万円未満,全体の5.9%が1,000万円以上ということでございます。回答なし,多分収益が上がらなかったというのは17.7%と出ております。これが単位宗教法人でございます。
 包括宗教法人が行う事業の傾向ですが,系統別では,神道系が22.6%,仏教系が29.2%,キリスト教系が53.7%,諸教が31.6%というような数字になっております。
 実施事業の業種でございますが,基本的に単位宗教法人と同じように,第1位の貸間等が40.2%,第2位としては駐車場が33.0%という傾向となっております。
 ただ,第3位が出版業でございまして,その他絵はがき等写真とか暦を初めとする物品製造販売が23.7%とか,本山とか本部に泊まる宿泊,信者を宿泊させるための旅館・宿泊業等々,包括法人に想定される事業としてなっている傾向があると思います。
 事業の業種数につきましては,全体的に1業種が52.6%で2業種が23.7%というような傾向で複数の事業を行う法人の割合が単位より多くなっていると思います。
 事業会計の歳入の規模については,基本的に,単位宗教法人よりは全体的に高い傾向にあるということでございます。  繰入れ,繰出金額等につきましては,該当なしというのが39.6%あるというようなデータも出ています。
 今回の調査で,単位宗教法人と包括宗教法人が行う事業の管理運営に関する点についても,御質問させていただいているところでございます。
 法人規則への事業の記載については,宗教法人法上,法人規則上事業を行った場合記載するというような形になっておりますが,記載されていると,一部記載されているを合計すると,単位宗教法人が57.3%,包括宗教法人が86.8%というようなデータが出ております。
 収支計算書の作成については,これも税法上,収益事業を行った場合,収支計算書を分けて作るという形になっておりますが,ここにつきましては,単位宗教法人が68.7%,包括が81.2%というデータが出てきております。
 事業に関する書類の備付けについては,宗教法人法上,備え付けなければならないとなっておりますが,備え付けているというのが56.9%,包括が83.8%となっております。今後,法遵守という観点から,宗教法人の実務者等の研修会等で周知をしていきたいと思っています。
○大石会長
 はい,ありがとうございました。
 大変興味深い資料だと思いますが,今の御報告について何か,御質問等ございませんでしょうか。これは別途報告書みたいな形で作るのですか。
○宗務課長
 先ほど述べたとおり,宗務時報No.111(平成22年9月)で報告という形でまとめて文部科学大臣所轄宗教法人等に配布いたしました。今後宗教法人対象の実務研修会にてこの概要を説明したいと考えています。
○大石会長
 それでは,議事は以上になります。ありがとうございました。
3.閉会
○宗務課長
 次回の日程につきましては,11月25日の16:30から開催させていただきたいと思っております。おって会場含めて開催通知を御案内させていただきたいと思います。
○大石会長
 はい,分かりました。
 繰り返しますと11月25日の16:30から予定をしております。それまでに小委員会が今日を含めて何度か持つことになると思うのですが,よろしく御承知おきいただきたいと思います。
 ほかに特に御発言がなければ,本日の会議はこれで閉じたいと思いますが,よろしゅうございますか。
 それでは本日の159回宗教法人審議会は,以上をもって閉じたいと存じます。ありがとうございました。
―― 了 ――

キリストの十字架以外に救いはない!

最近、複数の方から、問い合わせがありました。
そのうち一つは、今後のキリスト教界の浄化のために、このブログで、私はもっとキリスト教界の不正と声を大にして闘うべきであり、社会正義のために、受けた被害内容を公然と世に明らかにすべきである、との強い要望でした。

これが言語道断な要望であることは言うまでもありません。「正義」のためならば、本人の意志さえ踏みにじって、どこまでも、土足で人の心に踏み込んでもよいと考えることは間違っています。

しかし、今、キリスト教界の悪事を訴えることに熱中している人たちの一部は、自分が従事している仕事が、絶対善だと信じるあまり、世間では当たり前の常識や、他人の心への当たり前の配慮さえ、忘れています。自分を義とみなし、高慢になり、自己反省能力を失った挙句、カルト化してしまった教会の牧師や信徒達とまるで同じように、他人の人生を軽々しく扱い、人を辱めるような行いに慣れきった下劣な人間に成り下がってしまっているのです。

彼らは悪事と闘うための材料になりそうなものならば、自分と一切関係ない人の人生であれ、誰かの持ち物であれ、何でも、自分の望みのままに、引っ張り出して、世間に公開できると考えており、浅ましいまでに次々と非難の標的を探します。それが正しい行動であると信じ、実際には、まるで三流のジャーナリストのような低俗な行いに自分が従事していることに少しも気づいていません。これは恐るべきことです。

これとは反対に、私はまた最近、別の方から、お便りをいただきました。その人は今までカルト被害者の立場に立って、キリスト教界の腐敗を訴えて来られたのですが、これ以上、自分の恨みがましい感情だけを延々と訴え続ける「被害者」の立場にはもう立てない、と述べておられました。

私の立場は後者に近いものがあります。私もかつてはカルト被害者の立場からブログを書き始めました。初めのうちは、悪事を明るみに出すことによって、キリスト教社会を幾分か改革できると考えていたこともありました。
しかし、今、私はもはやキリスト教界の不正を声を大にして訴えることに全く関心がありません。なぜならば、キリストご自身を求めなければ、他の問題をどれほど追及したとしても、何の解決にもならないからです。

十字架なくして、どのような社会改革やカウンセリングを試みたところで、私たちには何の望みもないのです!

どうぞご覧下さい、キリスト教界の不正を追求する仕事に熱中している人たちが、どれほどまでに、信仰をなくしてしまっているかを。彼らはただ自分自身しか見えておらず、キリストのことを、もはや完全に忘れてしまっているのです。信仰という点から見て、彼らとカルト化した教会との間に何の違いがあるでしょう?
しかし、私たちはクリスチャンだったはずです。私たちは恨みと怒りをもって闘い続ける人生を選ぶべきではなく、平和に福音を宣べ伝え、キリストを知る喜びを世に証し、「キリストの香り」を漂わせる人となるべきなのです。

かつて、私はキリスト教界で遭遇した事件を通して、一時は、完全に希望を失うまでに、打ちのめされました。自分の信仰がどこへ行ったのかもよく分からない時期がありました。しかし、私は自分の被害状況や嘆きを、世に対して訴えるのではなく、神に向かって訴えるべきだと気づきました。
そこで、私はこの世の裁判官にではなく、カウンセラーでもなく、ブログの読者たちにでもなく、まことの裁き主であられる主の前に、この問題を持ち出しました。

すると、ある時、神ご自身が私の人生に現れ、そして、私の心の問題を完全に解決されたのです。
神は、神を信じる者にあっては、苦しみに満ちた過去でさえ、益となること、私の人生においては、すべてが神に至るために避けて通れない痛みであったことを示されました。

私が損失だと思っていたものは、肉なる私にとっては確かに大きな痛みでしたが、神の目から見て、それは損失ではなかったのです。
私がキリスト教界で失ったものは多かったのですが、その代わりに、私は神に出会いました。打ちのめされ、傷つき、私の信仰が風前の灯のようになっていた時でさえ、主は愛をもって、根気強く、私を招いておられました。
そして私が痛みの中からでも、とにかく神を見上げ、神を信じ、人の義ではなく、神の義を求めたことを、主は喜んで下さったのです。
キリストが私と共に生きて下さる、これ以上の光栄が、クリスチャンにとってあるでしょうか!?
神に出会うことに比べて、他の何が価値を持つでしょうか!?

その時から、私は自分を被害者とみなすことはできなくなりました。
神は十字架を通して、私のあらゆる問題に完璧な解決を下さったのです。
というよりも、問題に苦しんでいた私そのものが、十字架につけられ、光に照らされ、死んだと言った方がいいかも知れません。
そして気づくと、イエスの復活の命による全く新しい人生がスタートしていました。
もはや心の痛みを延々と訴える必要もありません。私はイエスの復活を通して、健やかで、傷のない、完全な、新しい命をいただいたのです。

ニッポンキリスト教界の問題にはそれ以来、関わっていません。
キリスト教界の問題を延々と追及する人たちに、この先、関わりたいとの願いもありません。
カルトと闘うことを人生目標にしている全ての人たちに、私は賛意を表することはできません。被害者として永久にこの被害を忘れまじと公言している人たちにも、被害者をケアし救済するという名目で、その仕事を自己実現の手段として利用している人たちにも賛同することはできません。

神を冒涜している人々には、すでに御言葉によって、裁きが定められているのです。
私たちがなすべきことは、正しい裁きを神に求めることだけです。
私たちは何事についても、早急な裁きをせず、裁き主なるお方に信頼して委ねるべきです。

神は生きておられます、キリストは今日も生きて、信ずる者一人ひとりの信仰を通して御業を成しておられるのです。心の貧しい者、心の痛む者、悩んでいる者、悲しんでいる者は、裁判所に行くべきではなく、カウンセリングの扉を叩くのでもなく、まず、神のもとに駆けつけるべきです。神を信じ、心から誠実に神に求めるならば、神がその人に慰めと解決を与えて下さるでしょう。

考えてもみて下さい。
もしも神ご自身が、あなたをキリストの似姿へと変えたいと言われるならば、あなたは喜んでそれを受け入れたいと思わないでしょうか。
今のままの自分でいる方が良いと思いますか。それともキリストの似姿へ変えられたいですか?

神は今日も、私の古い性質を砕き、新しい人を私の中に形作りたいと願っておられます。
そんな素晴らしい約束があるのに、過去にこだわって被害者であり続けることは愚かです。

「キリストと共に生きる」、こんなにも光栄なことを神ご自身が望んで下さっているのです。クリスチャンはそのために召し出されているのです。喜びだけでなく、苦難を通しても、主は、私たちを招き寄せて下さっているのです。

召し出された以上、私たちに残された道は、自分自身を完全に、贖い出して下さった方に捧げて、他の何にも心を奪われず、ただ神ご自身を求めて生きること、キリストとともに、喜びのうちに生きることだけです。永遠に至るまでも。

本当に残念なことは、今現在、クリスチャンを名乗っている人々のうち、かなり多くの人たちが、キリストの十字架を捨ててしまっていることです。ある人々は、クリスチャンとしての正義感から、キリスト教界の不正を見逃せないのだと言うのですが、その実、彼らの心には、神の御心を求める姿勢がなく、神の真実を求める願いもなく、神に従って生きようとの決意も見いだせません。もしそうだとすれば、どうしてそのような人々が、「クリスチャンとしての正義感」から、他人の悪事を糾弾していると言えるのでしょうか?

まるで姦淫の女を石打にして殺そうとした殺気立った群集のようになっている人たちがいます。悪事を犯した人々を次々と引っ張り出して、断罪しながら、自分自身もまた罪人であるという点を、完全に忘れ去っている人たちがいます。自分は少しもイエスに従って生きておらず、キリストの香りを放ってもいないのに、クリスチャンらしくない他者を非難できる筋合いにはないということを忘れています。それは恥ずべき、みっともない矛盾です! 

もしも私たちが神の御前で正しい生活を送っていないならば、私たちには、他者を非難する資格がありません。彼らも悪人であるが、私たちも悪人であり、我らは共に神の御怒りによって、打ち滅ぼされるべき忌まわしい存在だ、という結論以外には、何も残りません。

以前にも書いたことですが、もしも真の被害者がいるとすれば、それは私たちではなく、神なのです。誰よりも侮られ、誰よりも蔑まれ、誰よりも不当に扱われているのは、神なのです。キリスト教界に広がる不正を見て、人間が苦しんでいる以上に、神が心を痛めておられます。不誠実な人間の身勝手な悲しみと、誠実な神の正しい悲しみと、どちらが真に注目に値するでしょうか?

ですから、私たちはともに頭を垂れて、この国の不誠実なクリスチャンが神の御前に犯した恐るべき冒涜について、彼らに代わって悔い改め、そして、人間の振りかざす正義ではなく、まことの神の正しい光だけが、私たちの上に照らされ、それによって、真理が啓示され、偽りが退けられ、悪が裁かれることを、心から求め、待ち望むべきです。

私たちがどんなに自分の正義を振りかざしても、そのことから救済はやって来ません。
むしろ、自分の正義をもって人を裁けば裁くほど、ますますその人は冷酷無情な人間になっていき、常識を忘れ、礼儀を忘れ、愛を忘れ、尊大さと、怒りに満ちた人となり、信仰から遠ざかっていくでしょう。

私たちを罪の汚れから救ってくれるのは、イエスがすでに用意して下さった十字架だけなのです。神が私たちのために、御業をすでに成して下さったのです。にも関わらず、なぜ今日、これほど多くの人々が、十字架を忘れ、再び律法だけを持ち出して、他人に石を投げつけるのでしょうか。その律法は、あなた自身をも死罪に定めるのです! 他人を裁いた基準で、自分自身が裁かれるのです! あなたが投げた石が、あなたに向かって投げつけられる時が来るのです! 他人を裁く人も、裁かれている人も、共に律法の下では同じ罪人なのです! 私たちはそのことを思えば、一刻も早く、むなしい議論をやめて、十字架のもとへ駆け寄り、この罪人に過ぎない惨めな私をどうか赦して下さい、私も他人の罪を赦しますから、私をも赦して下さいと、神に求めて祈るべきではないでしょうか。

自分の正義だけしか目に入らない生き方は、御心にかなう生き方ではありません。神の御心は、常に人間の思いよりも高く、神の正義は、常に私たちの正義より優れているのです。私たちは自分の思いを脇において、まず、神の高さを理解させていただくことを願い求めるべきです。

キリスト教界の悪事だけを糾弾し続け、キリストご自身に目を向けないことは間違っています。しかし、私たちがそれが罪であったことを正直に認め、キリストに目を向けるならば、主は私たちの過去をも赦して下さいます。そして、私の過去の失敗の記録ですら、神は、益としてくださるでしょう、なぜなら、その失敗を通して、どれほど私が大きな無知と誤りから救い出されたか、主に出会って、どれほど根本的に変えられたかが、はっきりと世に証されるからです。失敗を通して、私は死に、私の名誉は失われ、私は消えるでしょう。私は砕かれますが、代わりに、その裂け目から、キリストが現れられるならば、それは私にとって少しも恥ではなく、むしろ、それ以上の光栄はないのです!

改めて申し上げますが、カルトと闘う人生は、無意味です。
偽物をどんなに斬っても、そこから本物は現れて来ないのです。
私たちは神の栄光を盗んではいけません、己の力で義を目ざし、私たちを救って下さった方を忘れてはいけません。

私たちが真に人間らしく、真に自由に、真に自然に、神がかくあれかしと創造された、美しい、真の人間として生きるためには、私たちはまず十字架を経由して、一度、死に、イエスの復活の命をいただいて、これまでとは全く別の、永遠の原理によって、生かされなければなりません。
この復活の命を現実に生きる、という段階に入らない限り、私たちがクリスチャンとされたことの醍醐味を味わうことは決してないでしょう。

人間の訴える正義や、社会改革、告発や闘争の中にはいかなる正義もありません。
救いはただ、キリストの十字架だけにあります。
自分の正義感や、自分の知性によって問題に立ち向かおうとすれば、いつでも、私たちはつまずくでしょう。

どうか道を踏み誤らないで下さい。十字架の贖いを否定するならば、私たちにはもはやクリスチャンを名乗る資格はありません。それは偽善者です。十字架を退けてまで、社会改革を選び取ったとすれば、やがて神の御前に立つ時、私たちには申し開きができません。

私たちはみな罪人です、著しい罪を犯した一部の人々だけが罪人であり、悪人なのではありません。にも関わらず、憐れみによって、十字架が与えられているのです。
十字架を経由せずに、私たちが真に人間らしく生きられる道はありません。まず、私たちこそが、イエスとともに十字架につけられて死ななければならないのです。私たちこそが、まず、自分の罪と不信仰を悔い改め、除かれるべき悪を、どうぞ私の心から取り去って下さいと、神の御前に心砕かれて、赦しを乞うべきなのです。

どうか互いに訴え合い、己を義として闘争に突き進むだけのむなしい活動を離れて、へりくだって祈ろうではありませんか。


村上密牧師の提唱するカルト監視機構の底知れぬ危険性

村上氏から当ブログに行なわれた「誤報」という根拠なき非難についての反論の補足

(2016年補記: この記事の書かれたいきさつは次の通りである。
 アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師が提唱したカルト監視機構という構想の持つ重大な危険性について、筆者は2009年6月3日に「カルト監視機構という名の秘密警察」という記事にて指摘した。

 村上密氏は、これに対する反論として、筆者の記事タイトル全文を剽窃する形で、「『カルト監視機構』という名の秘密警察」の誤報」という表題の記事を書き自身のブログに投稿した。

 このようなタイトルのつけ方自体、初めから検索結果の意図的操作を狙ったものであり、ネット工作員を思わせるようなセミプロ的な手法で、とてもではないが、通常の牧師の書く通常のブログのタイトルとは思えない。それだけでなく、同記事においてさらに村上氏は、筆者の著した警告記事の趣旨を曲げて、論点を逸らす形で、本題をすり替えて反論しているため、その姑息かつ卑劣な答弁の論法を以下で指摘したものである。

 なお、村上氏は筆者の当ブログにおける指摘があたかも根拠のない「創作」であるかのように主張しているが、その村上氏自身が、たとえば鳴尾教会で自身が義理の父と一緒になって引き起きた事件に関して、自らの責任を巧みに他人に転嫁し、他者に濡れ衣を着せる「創作物語」を、約14年以上にも渡り、主としてインターネットを中心に流布して来た張本人であることを書き添えておく。

 また、同氏はカルト監視機構の設立に失敗したが、その後、インターネットを中心に、自身の活動の支持者らを手先のように使って、自らの活動に賛意を示さない信者を迫害・中傷し続けて来た張本人である。
 
 この事件については、以下の記事を参照されたい。

――アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動――
~村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会人事の私物化問題について~


罪と罰――カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか
――ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者 杉本徳久氏による
多くのクリスチャンに対する聖書と法に基づかない虚偽の告発と
 カルト被害者救済活動が持つ反聖書的な意義についての考察――

 村上氏の活動はこのように絶えず他人を中傷しては濡れ衣を着せる形で、自分の責任を他者に転嫁して、保身をはかって来た人物であり、また、自分の活動への反対者には工作員信者などを送り込んで、徹底的に信頼関係を破壊して分断するという手法で、反対者を抑圧して来た。


 果たして、このような人物が正義の味方をつけて「カルト被害者救済活動」を率いるにふさわしい人物であるのかどうか、また、このような信用ならない人物が本当にカルト監視機構を設立し、プロテスタントの諸教会の覇権を握った暁にはどのような異常事態が持ち上がることになるか、クリスチャンは上記の記事を参照の上、改めてその危険性を再考されたい。)
 



 村上師が「誤報」という言葉を再三に渡って使っておられることについて思いをめぐらしながら、師が一体、何をおっしゃろうとされていたのかが、ようやく私なりに今日、理解できたように思いますので、今回はそのことについて、説明させていただきます。

 村上師のお言葉は、禅者のごとく、あまりにも短く、かつ深淵ですから、十分な説明を補わなければ一般人には理解できません。そこで、僭越ながら、ここで私が師の文章を改めて、通訳させていただくことをお許しください。

 「誤報」という言葉によって、村上師のおっしゃっておられることの真意はこうです、「真理のみことば伝道協会のホームページに掲載されている『カルト監視機構 設立へ』という記事は、2009年現在の情報ではなく、(恐らくは)数年前にアップロードされた記事なのである。にも関わらず、ヴィオロンはこの記事の掲載年月日をよく確認もせずに、この情報を2009年現在のものであると勝手に取り違え、その誤解を世間に広めることに貢献したのだ」ということなのです。これはあくまで私の想像なのですが。

 「あなたは年月日を確認しないで飛び付き、『再び稼働した』と思い込んだのです。」

 村上師の書かれたこの短い文章は、上記の意味で用いられていると私は解釈しました。そうすることによって、村上師のおっしゃりたいことが、ようやく今、私には理解できたと言えるでしょう。

 残念なことです、村上師のおっしゃっておられるお言葉にそれほどまでの深い意味があると、私がもう少し早く気づくことができなかったことは…。しかしながら、弁明させていただければ、当該記事が、正確にいつの時点で発信された情報であるのか、それを私が知り得る方法はございませんでした。
 その理由は、真理のみことば伝道協会のカルト関連ニュースの当該記事には、その記事が執筆された「年月日」そのものが記載されていないためです。従って、真理のみことば伝道協会のホームページを何年間にも渡って詳細に観察し続けてきたような人を除いては、あの記事が執筆された「年月日」を正確に把握することは無理なのです。「確認」せよと求められても、記載されていない「年月日」をどうやって把握できるのでしょうか。

 年月日が書かれていない以上、私がそれを確認しなかったのではなく、正確な年月日の確認そのものが不可能だったのだと言う他はありません。
 確かに、ニュースのバックナンバーに詳細に目を通すならば、当該記事(41号)は最終号から時間を過去にさかのぼるものだと推測することは可能でしょう。しかしながら、一人ひとりの読者が、バックナンバーの詳細に全て目を通してからでなければ、一つの記事も論じるべきでないとまで求めるのは無理ではないでしょうか。しかも、たとえバックナンバーの詳細に全て目を通したとしても、そこから、当該記事の書かれた正確な年月日が判明するわけではなく、また、カルト監視機構設立の計画が中止されたことが他の記事を通して分かるわけでもないのです。

 さらに、私が「カルト監視機構、設立へ」という記事の情報をいかにして知ったかをもう一度、説明したいと思います。私が記事を書いた当時、アッセンブリー京都教会の関連HP(宗教トラブル相談センター)のリンク集から、「カルト監視機構、設立へ」という短い文章と共に、当該記事へのリンクが直接貼られていました。(現時点ではこのリンクは削除されています。)

 こうして、京都教会宗教トラブル相談センター側は、前後関係の説明を一切、抜きにして、ただ「カルト監視機構、設立へ」という記事だけを一方的に紹介していたのです。記事の中には、すでに述べたように、その情報がいつのものなのか正確な記載がありませんし、まして、その計画は現時点では中止されている、または実現せずに終わった旨の補足説明もありません。ですから、その説明を読んだ読者が、京都教会宗教トラブル相談センター発の情報を全面的に信用するがゆえに、真理のみことば伝道協会の記事を、現時点での生きた情報であると「誤解」し、まさかそれがとうに過ぎ去った計画であり、しかも現時点では中止されている計画なのだとは夢にも思わず、「監視機構がいよいよ設立されようとしているのだな、だからこそ、京都教会はこうして報道しているのだな」という印象を抱いたとしても、それはまさに当然の結果なのです。

 このように、誤解をあらかじめ防止する手段を何もとらないままで、一方的な形で情報を発信しておきながら、それに基づいて、カルト監視機構の計画が今尚、生きている(中止されたが、再び設立に向けて動き出した)と理解した読者を非難するのは間違っています。

 さらに、読者の誤解を招きかねない状況は他にもありましたので、申し上げておきます。それは村上師自身が、カルト監視機構の設立を決して断念しておられないこと、設立が早急に求められていることを、最近の記事の中で、再三に渡って書いておられることです。

 2008年7月28日の記事「カルト予防対策」の中で師はこう書いておられます、「ウィリアム・ウッド師と「カルト監視機構」の設立のため、各方面に働きかけたことがあります。人員が集まらず実現しませんでした。1つのカルト団体を相手にするのではなく、全てのカルトを相手にするのですから、生命を危険にさらします。前方だけでなく、四方八方から攻撃を受けます。資金豊富なカルト団体から、名誉毀損で訴訟を起こされるでしょう。それでも私たちは必要だと思い行動を起こしました。本当に必要な働きですから、将来実現するでしょう。」

 さらに、本年2009年度に入ってからも、師は2月12日に「教会の緊急事態」の中で再び書いておられます、「キリスト教界のモラル・ハザード(倫理の欠如)は「キリスト教会のカルト化」と関連しています。「カルト監視機構」のような機関を設置し、倫理委員会、調査委員会、資料コーナー、相談コーナー、予防啓発活動等に取り組む時が来ているように思います。

 こうして、村上師は昨年から、早急にカルト監視機構を設立する必要性を幾度も訴えて来られましたし、またその実現が成就することを強く確信しておられることを明言なさっています。ですから、その文面を読めば、再び計画が稼動する日が近々、来るだろうと読者が予想するのは当然ですね。そのような文脈の中で、年月日が不確かなまま発信されている情報があれば、計画が今まさに再稼動したものとして理解する「軽率な」人間が現れても、仕方がないのではないでしょうか。

 アッセンブリー京都教会宗教トラブル相談センターの側に、今回、カルト監視機構をめぐる報道において、読者の誤解を招かないだけの十分な配慮があったとは私には思えません。確認するための明確な方法が与えられていなかったものを、確認する責任が私にあったと申し上げることはできません。

 しかしながら、全ての情報を疑うことを教えられてきた者として、文字に記されていない言外の情報をも探り出すのが私の義務であったとおっしゃられるならば、その非難には耳を貸し、今後、言外の情報を汲み取るべくより慎重に情報を吟味することにいたしましょう。
 しかしながら、文字によって明確に記されてもいない文脈をたった一つの短い記事から汲み取るような離れ技を一般の読者に求められても、それは無理というものですから、今回は、一般の読者の誤解を招くような形で、記事を案内した側に、大きな責任があったことは明白でしょう。

 もしも村上師が、カルト監視機構が今、設立へ向けて動きつつあるという「誤解」をこれ以上、招きたくないとおっしゃるのであれば、私は、早急に当該記事を削除するか、もしくは設立計画がすでに中止されている旨の補足的訂正を入れること、そして、カルト監視機構の設立を断念された旨を、村上師自身が、はっきりとお書きになることをお勧めいたします。

 村上師自身が、もしもカルト監視機構の設立を断念されるおつもりがないのであれば、やはり、計画は近いうちに再び実現に向けて動き出すだろうと読者は予測し、その計画の進行を注意深く見守り、関連する情報があれば、論じ合い、様々な議論が今後も、生まれることでしょう。その中には、賛成だけでなく、反対意見も当然ながら、含まれていることでしょう。

 そして、どうぞお考え下さい。まだ設立もされていないカルト監視機構について、平和的手段を用いて批判しただけの私が、こうしてネット上で、村上師から人格を貶める表現を用いて、非難されねばならないのであれば、今後、村上師とカルト監視機構に反対する者は、みな、私と同様の命運を辿るのだと、どうして人は思わずにいられるでしょうか。

 村上師が今、行っておられる私への非難は、世間では、反対者を黙らせるための、一種の見せしめだと理解されていることでしょう。そして、実際に、それだけの効果を持っています。
 Dr.Lukeのように実名を公開されている勇気ある人はクリスチャンの中には少ないですし、私のように、教団の負の側面を見てきたがゆえに、村上師から公然と非難されても構わないとまで覚悟を決めている人も少ないでしょう。ですから、名指しで非難されたくない他の人々は、村上師の文章を読めば、皆、どんなに反対意見があったとしても、黙らざるを得なくなるのです。そのようにして、村上師は、カルト監視機構を批判する人間を、全員、私と同じように、今後、一人ひとり、名指しで非難していき、そのことによって、クリスチャンの世論を恐怖によって封じ込めることがねらいなのでしょうか? そのような懸念が生じても仕方がありません。

 特に、私は牧師でもなく説教者でもなく、すでにアッセンブリーとも関わりのない、教界に所属してすらいない一信徒です。にも関わらず、教団の枠組を超えて、たとえ無所属の平信徒であっても、こうして計画に反対する者がいれば、誰でも、幼稚な人間として、非難や断罪の対象とされるのだとすれば、人々はやはりその計画そのものに恐怖を抱かずにはいられないでしょう。現時点で、村上師がご自分の計画に反対する者の意見に冷静に耳を貸したり、その批判を許しておくことがおできにならないのであれば、師が率先してカルト監視機構を設立なさったあかつきには、どれだけの人数の反対者に対して、どれほど恐ろしい処置が取られるのだろうかと、私のみならず、多くの人が心配したとしても不思議ではありません。今とは比較にならない大規模で、ネットやその他の場所で、公然と人格を傷つけるような表現を用いて、反対者がつるし上げを食らうことになるのではないのか。そのような危惧あればこそ、私はこれまでに、カルト監視機構という計画そのものに大きな危険性があることを訴えて来たのです。

 今、起こっていることを通して、私たちは未来を予測します。今、起こっていることを見れば、私がこれまで申し上げてきたカルト監視機構の危険性が、決して、大袈裟な表現でも、杞憂でもなかったことが、世間にはすでに明らかになっているものと思います。

 どうぞもう少し心を鎮められて、今後の展望をよくお考え下さいますように。村上師が望んでおられるのは、カルトを防止するために役立つ活動であり、カルト監視機構や、ご自分の計画に反対する者を非難によってつるし上げることではなかったはずです。師の計画がもしも平和的なものであるならば、憤りを捨てて、異なる意見の者とも、粘り強い平和的な対話の道を開かれるようにと願います。

 恐らく、私がここで申し上げていることは、村上師から見れば、どれも、私が責任を逃れるために考え出した稚拙な言い訳、もしくは、見苦しい強弁としか理解されない可能性があると想像します。しかしながら、もしも十分な前後関係の説明が全くなされておらず、正確な判断に必要な材料も与えられていない情報をそのまま受け取って理解した者が、その「誤解」ゆえに非難されなければならないのだとすれば、村上師の方でも、どれほど今までに多くの誤った情報を発信したことについて、もしくは正しい情報を発信しなかったことについて、重大な訂正や反省を求められてしかるべきでしょうか。

 私がずっと証拠を挙げて書いてきた一連の疑惑に対して、師はどれ一つを取っても、明確な説明をなさっておられません。師が理事として密室で行われたN教会での伝道師たちへの不当な処遇について、そしてそれを本質的原因として生じたN教会の騒動についての信徒への説明責任の欠如について、アッセンブリー教団内での師による十分な情報公開抜きの異端の取り締まり方法の問題性について、また、私がご相談申し上げたカルト被害の問題が何一つ、京都教会で解決されなかった問題について、私の京都教会への転会希望が最終的に受け入れられなかった問題について、カルト被害者の面目を辱めるような形で、京都教会が偽預言者をゲストに招いたことについて…、これら一連の疑惑は、全て私の「創作」であるとお考えであるがゆえに、全く取り合っておられないのでしょうか?

 もしもそれらが私の誤解の上に成り立つ事実誤認に過ぎないのであれば、事実関係を明確にすることによって、村上師は一連の疑惑を容易に晴らし、私の「創作」をきっぱり退けることがおできになると思います。

 さらに、村上師は、今でも事実確認の努力をせずに、ただ誤解の上に立って、私やLuke氏のイメージを歪め、人格や名誉を貶める表現を多用して、誤った情報を世間に広めておられます。そのことについて、私はすでにいくつかの反駁を申し上げましたが、師の側では何の訂正も謝罪もなさっておられません。そのような事柄は、「誤報」には該当しないとお考えなのでしょうか?

 命懸けで悪人を成敗する正義の味方として自己演出することよりも、私たちにとって大切なのは、キリストの僕として、自らが率先して、謙り、人に仕える姿勢をとり、傷つけた人間と和解する努力を惜しまないことです。その姿勢がなければ、キリスト者は、その信仰によって、世間の人々の心を動かすことは決してできません。特に、牧者は、人を非難し、断罪し、排除するのではなく、人とキリストの身体としての関係性を養い、育て上げることをその職務としています。私たちの神は人に平和と和解をもたらす神であるはずです。

 これまでのいきさつを考えると、アッセンブリー教団と私との間には、歴史的に、超えがたい溝が出来ているように思いますが、それでも、神にできないことはありません。もしも村上師が私との和解を希望されるならば、喜んで、和解いたしましょう。しかし、和解とは、自己のみを正義とし、一方的に他者だけを断罪する関係においてなされるものではありません。キリストの前で、クリスチャンは全て己の正義に死んだはずの者ですから、その道に生きている者にとっては、自己の正義を捨てることは難しくないでしょう。師がそのように和解の貴さを理解しておられる真の牧者であられ、私たちが神の御前に、互いを訴えあうのでない健やかな関係において立てる日が来ることを願います。

 では、主にあって、どうか村上師が早く魂の平安を得られますようにと祈りつつ。


カルト監視機構についての当ブログ記事に対する村上密氏からのいわれなき非難

村上密師から当ブログ記事と筆者に向けられた非難について

(2016年補記: この記事の書かれたいきさつは次の通りである。

 アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師が提唱したカルト監視機構という構想の持つ重大な危険性について、筆者は2009年6月3日に「カルト監視機構という名の秘密警察」という記事にて指摘した。

 村上密氏は、これに対する反論として、筆者の記事タイトル全文を剽窃する形で、「『カルト監視機構』という名の秘密警察」の誤報」という表題の記事を書き自身のブログに投稿した。

 このようなタイトルのつけ方自体、初めから検索結果の意図的操作を狙ったものであり、ネット工作員を思わせるようなセミプロ的な手法で、とてもではないが、通常の牧師の書く通常のブログのタイトルとは思えない。それだけでなく、同記事においてさらに村上氏は、筆者の著した警告記事の趣旨を曲げて、論点を逸らす形で、本題をすり替えて反論しているため、その姑息かつ卑劣な答弁の論法を以下で指摘したものである。

 なお、村上氏は筆者の当ブログにおける指摘があたかも根拠のない「創作」であるかのように主張しているが、その村上氏自身が、たとえば鳴尾教会で自身が義理の父と一緒になって引き起きた事件に関して、自らの責任を巧みに他人に転嫁し、他者に濡れ衣を着せる「創作物語」を、約14年以上にも渡り、主としてインターネットを中心に流布して来た張本人であることを書き添えておく。

 また、同氏はカルト監視機構の設立に失敗したが、その後、インターネットを中心に、自身の活動の支持者らを手先のように使って、自らの活動に賛意を示さない信者を迫害・中傷し続けて来た張本人である。
 
 この事件については、以下の記事を参照されたい。

――アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動――
~村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会人事の私物化問題について~


罪と罰――カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか
――ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者 杉本徳久氏による
多くのクリスチャンに対する聖書と法に基づかない虚偽の告発と
 カルト被害者救済活動が持つ反聖書的な意義についての考察――

 村上氏の活動はこのように絶えず他人を中傷しては濡れ衣を着せる形で、自分の責任を他者に転嫁して、保身をはかって来た人物であり、また、自分の活動への反対者には工作員信者などを送り込んで、徹底的に信頼関係を破壊して分断するという手法で、反対者を抑圧して来た。


 果たして、このような人物が正義の味方をつけて「カルト被害者救済活動」を率いるにふさわしい人物であるのかどうか、また、このような信用ならない人物が本当にカルト監視機構を設立し、プロテスタントの諸教会の覇権を握った暁にはどのような異常事態が持ち上がることになるか、クリスチャンは上記の記事を参照の上、改めてその危険性を再考されたい。)



1.村上密師から当ブログ記事と筆者に向けられた非難について


 カルト監視機構について、私が過去に書いた記事に関して、ブログ記事「『カルト監視機構』という名の秘密警察」の誤報」の中で、村上密師が次のように非難しておられますので全文、紹介いたします。
 
 「『カルト監視機構』が設立へ向けて動き出した」というニュースは誤報です。この誤報の発信元はヴィオロンさんです。この誤報に多くの人々が確認もせず飛び付き、おもしろおかしく書き立てています人に迷惑をかけておきながら、次の話題作りに励んでおられるようですが、反省や謝罪はないのでしょうか

 ヴィオロンさんへ。あなたが見ている村上密はあなたが創作した村上密ですあなたはブログに書いているように、交流の少ない所で生活しておられます情報はインターネットが頼りのようです。そして、それをもとにあなたの世界を形成しておられます。

 Dr.Lukeさんへ。あなたは無責任な同調者です。あなたもヴィオロンさんの創作話に悪乗りして、批評をしておられます。会ったこともないブログの主に対して、なれあいのコメントを書き続ける「専門家」はあなただけでしょう。あなたは牧師だそうですが、誤報への同調の後始末をどのようにとられるつもりですか。はっきりと文章に書いてください。

 お二人の共通点は、「カルト監視機構」を針小棒大に書き立てていることです。「秘密警察」にまで発展する発想にあきれました。牧師がそのような組織を作ると思うあなたがたの思考は非常識です。このような非常識に踊らされる人々も思慮の足りない人々です。

 誤報の発信者のヴィオロンさん、そして同調者のDr.Lukeさん、明確な誤りは削除をお願いします。ヴィオロンさんのブログを読み確認のために電話をくださったのはおひとりです。多くの人々が確認作業をしないで記事を書いておられることに不愉快な寒さを感じます。」

(太字および下線、フォントサイズによる強調は筆者)


2.村上密師に対する筆者からの反論

 たとえ誰からいわれない非難を向けられたとしても、私は主イエス・キリストにあって、非難を甘んじて耐え忍ぶことを喜びとしています。ですから不当な非難を恐れません。私は今、良心にやましいところがなく、また、主イエス・キリストご自身が私を弁護して下さることを確信しておりますので、根拠のない非難に対して、黙っていることは、少しも苦痛ではありません。ですが、他の信徒が惑わされることのないために、私の反論をここに記しておきます。

 村上師、あなたが書いておられることには、残念ながら、十分かつ明確な根拠がありません。そのことはここに記さなくても、誰にでも容易に理解できると思います。

1)「誤報」問題について

 「『カルト監視機構』が設立へ向けて動き出した」というニュースは誤報です」と村上師は書いておられますが、カルト監視機構が設立へ向けて動き出したことが、私による誤報とはどういう意味なのでしょうか!?

 私が当該記事を投稿した時点において、アッセンブリー京都教会の関連ホームページから、ウィリアム・ウッド氏の真理のみことば伝道協会のホームページの「■ 『カルト監視機構』、設立へと題する記事へリンクが貼られていました。このことについては、複数の証人が存在するでしょう。

 さらに、今日の時点でも、真理のみことば伝道協会の記事は削除されておりません。こちらをご参照ください。そこからもう一度、全文を引用します。

■ 「カルト監視機構」、設立へ
 村上密(アッセンブリー京都教会牧師)とウィリアム・ウッドは、「カルト監視機構」の設立に向けて、具体的に動き始めました。この機構の目的は、カルトと疑問視されている団体を調査し、適正な判定を下し、発表することです。構成は、カルト問題に精通している宗教家、臨床心理士、弁護士、法律家など、6人から12人ほどです。先日、プロテスタント教会、聖公会、日蓮宗、及び天理教の教職者で、カルト問題に取り組んでいる方々への協力要請の手紙を出し、六月中に最初の会合を持つことを予定しています。また、「集団のカルト度に関するアンケート調査」も作成しています。その内容は六つの項目(組織、指導者、信者の実生活、組織活動、家庭生活、被害)に分かれており、百以上の質問からなっています。一つの団体に関する、正確でかつ公正な判断を下すのに不可欠な資料になると思われます。自分の属している団体の「カルト度」を計りたい方に、「集団のカルト度に関するアンケート調査」をお送りします」

 この文章が、カルト監視機構の設立計画が確かに存在していたことを何よりもはっきりと証拠立てています。なのに、どうしてそれが私による「誤報」になり得るのでしょうか。 

 たとえ今は計画が中止されているにせよ、私の記事掲載当時、村上密師とウィリアム・ウッド氏が協力して、カルト監視機構の設立へと向けて活動を予定していたことは紛れもない事実です。すでにネット上に公に報じられていた情報を、私がブログに転載したことが、私個人による誤報(事実の捏造)となることはあり得ません。そのように主張することは、事実を曲げて嘘をつくことになります。
 キリストを宣べ伝える者として、牧師であられる方がそのような行為を平然と行われることを深く憂慮します。

 存在しない事実を原因として、実害が生じることはあり得ません。村上師は「人に迷惑をかけておきながら」、と書いておられますが、誤報の事実が存在しない以上、それによって引き起こされる「迷惑」など、存在するはずがありません。
 さらに、一体、どのような迷惑がかかったとおっしゃりたいのか、文章では何も具体的に明らかにされていませんが、もしも、あくまで、迷惑が存在したとおっしゃるのであれば、村上師に対して、誰が、いつ、どのような行為に及んだのか、その証拠を提示し、また、私の記事とその人の行為との間にどのような明確な因果関係があるのか、その証拠をはっきりと提示された上で、さらに、それによって村上師に生じたとされる実害の具体的内容を明らかにして下さい。

 内容も不明であり、因果関係も証明されておらず、証拠もなく、存在もしなかった事実に基づいて生じたとされる「迷惑」なるものについて、謝罪や反省を求めるなどナンセンスですし、それに応じるような人は一人もいないでしょう。


2)「創作」問題について

 
 村上師は私に向けて書いておられます、
「あなたが見ている村上密はあなたが創作した村上密です。あなたはブログに書いているように、交流の少ない所で生活しておられます。情報はインターネットが頼りのようです。そして、それをもとにあなたの世界を形成しておられます。」

 こうして、私が交流の少ない所に住み、インターネットの情報(だけ)を便りに、自分の世界を築き、村上密師のイメージを「創作」してネットに記述しているので、私の主張には根拠がないとおっしゃりたいわけですね。
 しかし、まず、どのような点が、私による「創作」なのでしょうか。どうぞ具体的にお示し下さい。

 さらに、残念ながら、人はどんなに親しい間柄にある相手であっても、他人のことを生きているうちに完全に正確に理解することはできません。どこかで必ずバイアスが入ってしまうことは避けられないのです。けれども、そのバイアスによる「創作」が深刻に懸念されるのは、私よりもまず、村上師の方であるようにお見受けします。

 まず、私が「交流の少ない所で生活して」いると書いておられますが、一体、何を根拠にそのように思われるのでしょうか、不可解です。実際には、私共は自営業を営んでおりますので、大勢の人たちが、日々、この地を訪れて来ては、互いに言葉を交わしております。
 私個人といたしましては、かつて教会で出会った人と今も連絡を取り合っていますし、地域のNPO法人にも度々、出かけておりますし、度々、人と旅行し、また地域に対する理解を深めるべく、各地をめぐり歩いて人と接しております。それでも、これが「交流の少ない所で生活」することを意味するのでしょうか?

 恐らく、村上師のこのようなご意見は、私の住んでいるところが都会ではなく、過疎化しつつある田舎だということから、こんな片田舎には、交流すべき住人も恐らくいないはずだという一方的な思い込みに基づいているように受け取れます。しかしながら、そのような考えは、あまりにも、田舎住民を馬鹿にした、都会中心主義的発言だと、世間からもひんしゅくを買いかねません。
 京都ほどではございませんが、田舎にも、人はいっぱい住んでおりますよ。近所には幼稚園があり、小学校があり、子供だけでなく、若い父母さんたちが毎日、沢山、来られて、役場があり、いくらでも交流できる世界が広がっています。

 毎日、どの人と会って、何を話したかまで詳しくネット上に書きませんが、だからと言って、私が「交流の少ない所に生活して」いると決め付けるのでは、それこそが、「情報はインターネットが頼り」だと言われても、仕方がないと思いますが…。

 そして、以下をお読み下されば分かるように、私が村上師について持っている見解は、私が頭の中で「創作」したものではなく、現場で実際に人々と接触することによって収集した確かな事実に基づいています。

 ① N教会で起こった事件について、私が記事に掲載した文書、および情報は、村上密師の活動に関わるものでありますが、インターネットから入手した情報ではございません。

 ② 私は村上師と直接の面識があります。これもまた、当然ながら、インターネットから入手したのではありません。昨年、私はカルト化教会で起こった事件の解決を求めて、アッセンブリー京都教会に、約半年間、電車で片道2時間をかけて通い続けました。往復4時間です。毎週、休まず日曜礼拝に通い、日曜礼拝に出席するために、自分に合っていた職場を辞めて、転職さえしたほどです(そのために、経済的に苦労を背負っただけでなく、職場の皆さんにも、お詫びせねばなりませんでした)。

 こうして礼拝に出席した他、私は村上師のカウンセリングを受けて、個人的に一対一で長い時間をかけてお話しましたし、その後の教会諸行事でも師とざっくばらんに接し、師について、他の信徒がどのように考えているのかについても、率直な意見を複数人から聞きました。

 その当時、私が京都教会への転会を望み、それを村上牧師に申し出ていたことは、村上師ご自身が誰よりもご存知です。ですから、私は決して、初めから、否定的で批判的な先入観や、決め付けに立って、村上師やアッセンブリー京都教会の活動を観察していたわけではございません。にも関わらず、その後、残念なことに、そのような期待や好感をもはや捨てねばならない結果となったのです。そのいきさつはすでに幾度も詳しく書いてきたので、ここでは繰り返しません。

 私の村上密師についての見解は、このようにして、現場で人とじかに接することから得た情報を基に構築されています。しかも、私個人の見解だけから成り立っているわけではありません。

 ③ さらに、そのようにしてアッセンブリー京都教会を訪れる以前にも、私は10~15年近く、アッセンブリー教団に属する他教会に、最初は非正規の信徒として、次に、正会員として所属して、実際に通っておりました。村上師の義理の父であられるT師の教会に属していたのですから、村上師に関する話を、その教会で、幾度も、耳にしていたのは当然です。さらに、村上師がN教会に来られたこともあり、その際、私は師の開かれたセミナーに参加しましたし、幼い頃にも、CAキャンプで直接、お会いしています。

 村上師に関する私の知識はこうして、20年以上の歳月をかけて、直接、村上師自身と彼に深い関わりのある人々と接することによって得られたものであり、その事実認識に基づいて私は判断を下しました。にも関わらず、それが私の「創作」であり、「情報はインターネットが頼り」だとおっしゃるのであれば、事実認識が歪んでいるのは、私の方ではないということは、誰でも容易に判断できるでしょう。
 

3) ネットから得た知識には信憑性がないのか?

 さらに、ネット上で入手した知識は、果たして、現場から得た知識に比べて、信憑性がないのでしょうか? 村上師ご自身がネット上でブログを公開されているのですから、ネット上の情報にはまるで現実性がないかのようにほのめかされる理由が、どこにあるのか、私は理解に苦しむのです。

 以下のビデオにて紹介しましたように、今、日本のみならず、世界各国で、ネットを通して、偽キリスト、偽教師、偽預言者などを告発する活動が盛んになっています。教会のカルト化問題についても、英語、その他の外国語で多くの議論が展開されているのを誰でも見ることができます。
 そういった意味では、ネット上の情報は、まさに最先端を行っており、日本のキリスト教の世論はそれに比べるとまだ遅れを取っている部分があると言えるでしょう。ですから、クリスチャンがそれぞれ、自分のできる範囲で、最新の情報を広めることに貢献していきたいと考えるのは当然です。

 私はこのブログを自らの信仰告白の場であると申し上げましたことを、すでに読者の皆さんはご存知です。私は村上師のおっしゃるように、ブログで「話題作りに励んで」いるのではなく、また自分の「創作」活動を行っているのでもなく、また学術論文を書いているわけでもなく、キリスト者として、主イエス・キリストへの愛と信仰から、主イエス・キリストの溢れる恵みが私の人生にいかに豊かに注がれたかを証し、また、聖書を冒涜する者たちの危険な活動について警告し、危険な活動からは早急に離れるようにクリスチャンに平和的に呼びかけているだけです。

 私は政治運動や、暴力的な活動を展開、組織し、指示したことはこれまで一度もありません。むしろ読者が私の主張を基にして、どんな組織的な運動をも起こすことがないように幾度もブログで呼びかけて来ました。悪に対しては、ただ「非暴力、不服従」が私のモットーであるからです。暴力を用いず、平和的に警戒を呼びかけることは、聖書が禁止していることではありません。

 ネットには光と闇の両面がありますが、聖霊の導きによって、上からの知恵を与えられ、情報を取捨選択する能力を与えられたクリスチャンにとっては、ネットの情報はもはや危険ではなく、現場から得た情報と同様に、頼りになる部分が大いにあります。
 そして安易に情報を鵜呑みにしないために、私がこれまで常にディベートの方法論に基づいて議論を展開して来たことも、読者はご存知です。

 しかしながら、もしも、ネット上の情報に基づいて事実認識を深めることが誤りであるか、もしくは、稚拙な行為であるとご判断されるのであれば、どうぞその根拠を明確にお示し下さい。


4)「針小棒大」問題


 カルト監視機構のことを私が「針小棒大に書きたてている」とのことですが…。
 
 ① 私には、カルト監視機構が秘密警察であると主張するだけのはっきりした根拠がございます。ですから、この意見を「明確な誤り」として削除する必要を感じません。

 繰り返しますが、カルト監視機構とは、教会がカルト化していないかどうかを調査するという名目で、信徒の告発に基づいて、諸教会に内政干渉を行い、カルト化していると判断された教会を現実に抑圧し非難するための、実力行使を伴う機関となる可能性が初めから予想されていたのです(そのために法律家がメンバーに加えられているのだと世間の人々が考えるのは当然です)。

 しかも、すでに述べたように、本格的な調査を行うためには、調査を(指導者連には悟られないよう)秘密裏に行わなければ、誰一人、決して正確な情報を得ることはできません。秘密裏な調査を行う以上、調査方法を明かすことはできません。ですから、カルト監視機構には、人々の目につかないところで、悪事についての情報を収集し、それに現実的な制裁を加える秘密警察と呼ばれるだけの十分な根拠が実際にあったのです。さらに、ドストエフスキーなどに関する研究を根拠にして、これに新たな根拠を付け加えることも可能ですが、今はあえてしません。今後の記事をご参照下さい。

 ② それでも、もしも、私のこのような意見が少数派であり、一方的な決めつけであったならば、私の意見が、多くの人たちに理解されることはなかったでしょう。読者は決して愚かではありません。たとえ私のような一個人がブログにどのような反対意見を書いたところで、それがもしも根拠薄弱、事実無根の主張であれば、読者は賢明にその意見を無視したことでしょう。

 ですから、今回、村上師が書いておられるように、一人の書いた記事が引き金となって、多くの人がカルト監視機構の設立計画について騒ぎ始め、それが計画を中止させるまでの反響に至ったのだとすれば(そのような事実があったのかどうか私は詳しく知りませんし、そのようなことが起こった証拠もありませんし、仮にそのような事実があったとしても、それはあくまで個々人の選択であり、そこに私の指示など一切ないことは明白ですが)、それは、クリスチャン世論がそもそもの初めから、この機構の設立を望んでいなかったという事実を示しているに過ぎません。

 このことは、カルト監視機構の設立計画に関するニュースを聞いて、私と同様の危惧や、戦慄を覚えた人たちが多数存在したことを、何よりも明確に証拠立てています。つまり、私の書いた記事が、ただ私一人の意見にとどまらず、クリスチャン世論の一般的思惑に合致していたからこそ、この話題に関して、多くの人が真剣に考え、「多くの人々が…書き立て」るという反応が起こったと考えるのがふさわしいのです。

 村上師は書いておられます、「確認のために電話をくださったのはおひとりだけだったと。
 なぜたった一人しかじかに確認しなかったのでしょうか? どうしてカルト監視機構を擁護し、あなた方の活動を弁護するために立ち上がった人が他にいなかったのでしょうか? どうか、その理由についてご自身で深くお考え下さいますように。私の記事以前にも、もしも、監視機構設立という活動を賛同の意をこめて見守っていた人が多かったならば、果たして、そのような結果が起こったでしょうか。

 ですから、なぜ反対の声が起こったのか、その原因がどこにあったのか、深く探ることなく、その原因をただ私のブログだけに求めようとすることは、ナンセンスです。クリスチャン世論が何を望んでいるのか知ろうとすることなしに、人々の声を無視して、一方的に行動することは誰にもできません。

 ③ 私の考えるところによれば、カルト監視機構に対して反対が起こった最大の理由は、カルト監視機構を設立しようとした方々が、何よりも、カルト監視機構の設立の意義を、あらかじめ諸教会とクリスチャン世論に十分に周知せず、彼らの同意を得ないままで、いわば、彼らの頭越しに、教会の内政干渉を行うような活動を前提とした組織の設立へ向けての話し合いに移ろうとした点にあります。

 第一に、「今、なぜ、カルト監視機構なのか」という説明を十分に行わないままで、機構の設立について一方的に検討しようとしたことに対して、非難の声が上がったのです。それは当然すぎるほど当然の結果だったと言えるでしょう。

 第二に、日本脱カルト協会がすでに存在していたにも関わらず、それに加えて、カルト監視機構を新たに設立せねばならない理由が、多くの人にとって不明だったことも、反対の原因となっています。

 第三に、カルト監視機構の活動が、必然的に、教会の内政に干渉するものとなることは、私の指摘を待たずとも、誰の目にも明らかですが、それが、牧師の自主独立性を尊重し、牧師が他の牧師によって干渉されずに自立した牧会活動を行うことを前提としていた、これまでのプロテスタントの伝統となじまなかったこと、つまり、多くの牧師たちが(役員、信徒たちもそうですが)、教会に外部の者たちからの調査のメスが入れられることに同意できず、それを教会の自立を損なう内政干渉であると受け止め、深い懸念を示したことが、反対の根本原因だったものと私は考えています。

 まとめるならば、「なぜ、今、カルト監視機構なのか」という理由を、ほとんどのクリスチャンが理解できず、また脱カルト協会に加えて新たな機構を設立する必要性が理解されず、諸教会が、自主性を損なう内政干渉的な調査を受けることに拒否反応を示したことが、反対の声が上がった最大原因なのです。

 カルト監視機構のみならず、他の形であれ、諸教会への根回しや、クリスチャンへの周知活動(宣伝キャンペーン)を十分に行わずに、教会の独立性を犯し、内政干渉を行うような組織の設立を計画する人々がいたとすれば、それが反感を呼ぶのは当然のこととして予想できます。

 これまで牧師の自主独立性を大目に見すぎるほど認めてきた(それゆえにカルト化が放置されてきた)プロテスタントのキリスト教界において、牧師の独立性を犯しうる権威を持った組織の設立が、そんなに容易に認められるはずがないことは、誰が見ても、すぐに理解できます。

 ですから、これは一個人に過ぎない私の記事が作り出しうる影響力の範囲を超えた出来事です。カルト監視機構設立の計画に対する世間の反応は、私の記事を原因として生まれたものではなく、これまでのプロテスタントの伝統になじまない活動を繰り広げようとした人たちに対する、クリスチャン世論からの当然の拒否反応だったと考えるべきなのです。
 そういった歴史的・伝統的背景をどうぞ深く考慮に入れた上で、今回の事件の真の原因がどこにあったのか、ご理解下さいますように。今回のことは、キリスト教界に大きな変革を促すような構想を持った計画を作ったにも関わらず、発案者がそれについて、あらかじめ、十分な周知活動を行わなかったことに対する手痛い結果であったのです。その事実を見据え、カルト監視機構に関する反対の声が上がったことの責任を私のブログに転嫁しようとすることをお控えいただきたいと存じます。

 このように、キリスト教界が全体として、恐らく、設立を望んでいないだろうと思われるカルト監視機構ですが、もしも今後、どうしてもカルト監視機構を平和裏に設立されたいと望む方がいらっしゃるのであれば、前もって宣伝キャンペーンを行い、その意義と必要性をクリスチャン全員に周知し、全国津々浦々の諸教会に対してもれなく、内政干渉としての調査を行うことについて、あらかじめ同意を得た上で、日本脱カルト協会にも設立について同意していただき、私が述べたような反論も含め、これから起こるであろうあらゆる反論をあらかじめ封じ込めてしまうほどに、説得力のある強力な根拠を提示して、この機構の透明性、安全性、有効性を万人に示し、その活動内容を詳細に定義して分かりやすく公開して説明し、いかにカルト監視機構がキリスト教界の平和に貢献する善良で安全な機関かということを、教養のあるなしに関わらず、どんな人にでも分かるように、徹底的に世間に周知した上で、設立計画を平和に推し進めていくべきでしょう。そうすれば、いつか反対なしに機構を設立することが可能となる日が来るかも知れません。

 ですが、私のような一信徒がブログで批判した程度で、このような非難が返って来るのであれば、村上師の活動は、初めから反対者の意見を汲み上げない、異論を考慮に入れない、一方的で独善的な正義なのだと、世間から受け取られても仕方がありません。広く深い見識を持ち、深い人間洞察力を持ち、何よりもキリスト者としての愛と謙遜に満ち、自分と異なる多様な意見にも、冷静に客観的に耳を貸す心の余裕を持つ指導者が、監視機構を設立するのであれば、まだ良いかもしれませんが、もしもそうでない人が、カルト監視機構を作り、それを実際に動かすようになると、どのような危険な事態が持ち上がるでしょうか? 独善的で視野の狭い正義を振りかざし、明確な根拠もないのに、次々と反対者を攻撃・非難し、気に入らない信徒を排除するばかりの非人間的な機構が出来上がらないとも限らないと、世間が憂慮するのは当然ではないでしょうか。

 カルト化した教会で神のようにふるまっている牧師の腐敗のニュースを沢山、耳にして来たクリスチャンは、今や、反対者の意見であっても、穏やかに耳を貸すことができ、自己への批判にも冷静に耳を傾ける余裕がある指導者の登場を心から待ち望んでいるのです。村上師がそのような方であるかどうか、世間は注目しているのです。


5)牧師だから過ちを犯すことがないのか?

 村上師は書いておられます、「牧師がそのような組織を作ると思うあなたがたの思考は非常識です。このような非常識に踊らされる人々も思慮の足りない人々です」と。

 「牧師が誤った組織を作るはずがない」、そうおっしゃりたいことが伺えます。
 ですが、このような台詞をまさに村上師から聞くことになるとは皮肉です。なぜならば、今日、牧師という職業についている多数の人たちが、牧師にあるまじき、非道な行為を平然と行っていることを、誰よりも、カルト防止活動に関わって来た村上師はご存知のはずだからです。

 「牧師だから誤った計画を作るはずがない」というのは、それこそが、誤った先入観です。このような先入観に基づいて、牧師を無条件に信頼してしまったことこそが、カルト化教会の信徒たちが人生の破滅へと導かれた原因だったのです。
 どんな牧師も人に過ぎません。ですから、どんな牧師をも、信徒は無条件に信じるべきでなく、「牧師だから間違うはずがない」と考えることをやめて、「牧師でも、間違うことはある」と考え方を転じるように心がけなければならないのです。そしてもしも牧師に誤りがあるならば、率直に指摘するようにしなければならないのです。そして牧師はそれに冷静に耳を貸さなければなりません。この「良心のブレーキ」が有効に効くことこそ、牧師の独裁者化や、教会のカルト化を防ぐのです。そのことを村上師はご存知のはずです。

 にも関わらず、どうしてこの「良心のブレーキ」を師はご自分に適用されないのでしょうか。牧師としてご自身もまた信徒の批判に注意深く耳を貸さなければならない誤りやすい存在であるということをなぜ冷静にお認めになれないのでしょうか。
 村上師は、「牧師がそのような組織を作ると思」った私たちが、「非常識」な人間であった決め付けておられます。こうして、世間の意向を無視して、私とDr.Lukeに一方的に非難を向けられるだけならばまだしも、あまつさえ、私たちと意見を同じくして、カルト監視機構に反対した人たちにまで、「非常識に踊らされる…思慮の足りない人々」だと、蔑みと怒りの言葉を向けておられます。

 これは、村上師が現時点で、すでにご自分の活動への反対意見に冷静に耳を貸す余裕を失っておられ、反対者をまとめて「思慮の足りない人々」だと決め付けて、彼らの意見に耳を傾けることを拒否しておられることを示す、憂慮すべき事態です。
 考えても見て下さい、どうして、そんなにも多くの人たちが、カルト監視機構の設立に反対したのでしょうか。その人たちの意見は、本当にナンセンスで、非常識で、思慮の足りない意見に過ぎなかったのでしょうか。その人たちは思慮が足りず、愚かだったがゆえに、反対したのでしょうか。多くの人たちが反対したのに、その意見には全く耳を貸す必要はなかったとおっしゃるのでしょうか。

 「非常識に踊らされる…思慮の足りない人々」
 
このような言葉は、信徒を侮辱しています。この言葉が発せられる背景には、「私の活動は絶対に誤るはずがない、私の活動の意義を理解できない人たちは、愚かであるがゆえに理解できないのだ」という思い込みがあるように私には思えてなりません。けれども、誰よりも、村上師自身がご存知のように、「私は絶対に間違わない」という思い込み(高ぶり)に陥った教会指導者こそが、これまで、反対者を残酷な方法で次々に攻撃し、非難し、教会から排除していき、独善的な教会運営を繰り広げて、教会をカルト化させて来たのです。自己の無謬性を信じ、人の批判に対して完全に耳を塞いでしまった瞬間から、牧師はもはや神に忠実に仕える僕ではなく、現人神になってしまうのです。


6)Dr.Lukeへの非難に対して


 村上師は書いておられます、「会ったこともないブログの主に対して、なれあいのコメントを書き続ける「専門家」はあなただけでしょう」と。
 ここで言われている「会ったこともないブログの主」とは誰のことなのでしょう。私のことでしょうか?
 もしもこれが私のことを指しているのであれば、Luke氏と私との間には直接の面識があることを、私はブログに随分前に書いておりますが、記事をお読みになっていらっしゃらないのでしょうか。もしそうだとすれば、徹底的な情報収集の必要性を日頃から説いておられる方にしては、随分、軽率な理解だと言わざるを得ません。
 
 「専門家」と括弧つきで書いておられることから、Dr.Lukeを専門家として認めておられないことが伺えます。しかし、博士号を持っている人が専門家と呼ばれるに値しないのであれば、一体、誰が専門家と呼ばれるに値するのでしょうか。お伺いしたいと思います。

 「お二人の共通点は、「カルト監視機構」を針小棒大に書き立てていることです。」

 私たちの共通点とは、まず、まことの主イエス・キリストを信じているところから始まり、そこに終わります。Lukeさんが当ブログにコメントを書いて下さったのは、私たちが同じ主を信じている信仰による同胞であることを霊のうちに確信して下さったからです。

 ブログをお読み下されば分かるでしょうが、私がカルト化教会の事件による心痛から立ち上がれずに苦しんでいた頃、Lukeさんはコメントを通して、私をずっと励まし、支え続けてくれました。お伺いしたいのですが、私がひどい事件に遭遇したことをご存知であられた村上師は、私の事件の解決のために、具体的に何を尽力して下さったのでしょうか? 私は多大な犠牲を払って京都教会に通ったのに、事件の進展はまるでなく、私が絶望的な気持ちで教会を去って以後も、村上師は、私に励ましのコメント一つ、手紙一通、電話一本、下さいませんでしたね。

 しかし、村上師がなさらなかったことを、Lukeさんはキリストの名において、この小さき者のためにして下さったのです! Lukeさんはキリストの愛にならって、仕える姿勢を取り、傷ついた羊を憐れみ、助けの手を差し伸べてくれました。その貴い行為がどうして、「なれあいのコメント」などという言葉で卑しめられねばならないのでしょうか。
 しかし、Lukeさんは、私を助けてはくれましたが、決して自分に依存させることなく、牧師崇拝に陥らせることなく、ただキリストにあっての完全な自立へと導いてくれたのです。ですから、私は今やカルト化教会の人々を赦しています。心に悲しみはなく、いつまでも被害者という名札に寄りすがって、一方的に人の憐れみと同情ばかりを乞う必要がもうなくなったのです。私は、もはや傷ついてさまよう羊ではなく、主にあって、健康で喜びに満ちた信徒へと戻ることができたのです。どうか主の祝福がLukeさんにありますように!

 さらに言えば、私自身も博士号を持っていますので、その点で、Lukeさんとは、もう一つ、共通点があります。日本の大学は欧米に比べて水準が低いなどと揶揄されることもありますが、私自身は決してそうは考えておりません。若い人たちが、日本の大学で博士号を取得することが、経済的にも、人間関係の上でも、どれほど困難か、身を持って知っているからです。ドクター論文を放棄して大学を去って行く研究者も後を絶ちません。特に、人文科学系の分野においては、博士論文の執筆には6年以上の月日を要することが当然視されています。

 私自身は、主イエス・キリストを知る知識の前に、学歴など何とも思っておりませんが(キリストに栄光を帰すためにこれまで立場を明かしませんでした)、ただ世間の一般常識として、このように多大な犠牲を払って、学問に身を捧げて来た人たちの専門性を冒涜するかのような発言を軽々しく行い、学問の価値を軽んじられるのはあまりよろしくない行為であると思います。

 村上師が「カルト専門家」として認められているのが、どういった承認によるのかは存じませんが、博士は自称できません。厳しい審査を経て、公に学者として認められている人たちを「非常識」扱いすることは、その人を学者たらしめてくれた先生方全員を馬鹿にすることになり、ひいては、学問そのものに石を投げつける行為となります。

 キリスト教界の先生方の中にも、恐らく、血のにじむような努力をして博士号を取得された方がいらっしゃることでしょう。なのに、そのような努力をして専門家として立った人たちを簡単に「非常識」扱いされる発言は、私個人には赦せたとしても、一連の学者たち全員を敵に回す発言だと受け取られかねません。世間は、常識に欠けるのはどちらだと思うでしょうか。
 さらには、そのような発言は、世間で認められてきた伝統的な権威へのいたずらな反発に基づいている(革命的発言だ)と受け取られかねません。それでは、村上師がこれまで行って来られた活動すらも、ひょっとして権威への反発という動機に基づいていたのではないかという憶測を呼ぶことにつながりかねません。以後、その旨を考慮され、ご発言に慎重になられた方がよろしいかと存じます。

 何事に関しても、多様な意見が存在を許されているのが民主主義社会の決まり事です。ですから、ご自分の活動に対しても、様々な角度からの意見が存在し得ることを、もっと冷静にお認めになられ、異論にも耳を貸せるだけのおおらかな心の余裕を持っていただけるように、主にあって切にお祈りいたします。

 以上