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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(28)―彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。

さて、筆者は訴訟を巡る一通りの手続きに、ぜひとも習熟したいと考えている。弁護士でも知らないか、もしくは弁護士でもなかなかできないような手続きであっても、全部、一通り自分で経験したいと願っている。

筆者はもともと弁護士という職業を好かない。だが、それでも、筆者はこれまでたくさんの文書を書いて来たことはあっても、弁護士に匹敵する訴訟の経験はないため、まずは基礎的な学習として、昨年に代理人なしで訴訟を起こし、これを通して訴訟手続きを知ろうとしたのであった。

訴訟を起こすまでの間に、ADRを経験していたので、それが十分な予行演習となってくれた。訴訟に踏み切るまでには、訴訟というもの自体に非常に大きな心理的抵抗があったが、実際に経験してみると、ADRの方がずっとプレッシャーが大きかったことが分かった。舞台としては訴訟の方がはるかにスケールが大きく、ADRと比べものにもならない大きな満足感があったと言えるだろう。

だが、訴訟を通して得られる満足感のことなど、語る人は少ないかも知れない。そして、筆者が語っている「満足感」というのは、普通の人々が考える判決内容、すなわち、賠償額や、認定された事実などだけを指すものではない。

何よりも、訴訟は、裁判官との付き合いも長くなり、1、2回の審理で終了するADRに比べ、当事者とのリアルな関係を経験することができるため、人間観察の貴重な機会が与えられる。

期日を設定するための原告被告の巧妙な駆け引きや、書面の出し方、スケジュールに追われる裁判所関係者との良好な関係の築き方、もしくは、たとえ反感を買っても、断固として主張を述べなければならない時に、どう勇気を奮い起こして発言すべきか、口頭弁論で議論すべきか、書面で主張を戦わせるべきか、その他、様々な裏技のようなテクニックに至るまで、長く続く審理の間に、学習できることは無限にある。

筆者は、ADRの経験しかなかった頃は、とにかく紛争を早く終わらせるために、短期間に圧縮して書面を出し切ってしまうことが最善であるという考えを持っていた。1回か2回で審理が終わり、もう二度と会うこともない関係者にとっての読みやすさなど度外視である。だが、訴訟においては、書面の出し方が全く異なることが分かった。

訴訟は、初めから、非常に小さな事件を除いて、じっくり、ゆっくり時間をかけて当事者に向き合い、少しずつ、物事を明るみに出していくことになるため、短期間で圧縮して書面を出し切ったから早く終われるという結果には必ずしもならない。

そして、何よりも、訴訟で出される書面は、ただ紛争を有利に解決したいがために、自己の主張を一方的に述べるものではなく、要するに、裁判官に宛てたラブレターのようなものだということが、次第に分かって来た。

むろん、書面には、被告に対する反論、説得、非難、叱責、懇願、求釈明などの意味も込められることになるが、何よりも、裁判官の心を動かすことを目的として書かなければ、誰に何を訴えるために書いているのか、意味を失ってしまう。

そういう意味で、明らかに、書面は生きた人間に宛てた手紙のようである。論敵と激論を戦わせることにばかり目が行っていると、裁判官に判断を仰ぐという一番重要な目的を見失ってしまう危険があることも分かった。
  
そこで、書面の出し方(内容や形態)は、それが裁判官にどのように受け止められるかを最も重視して決めることになる。ADRではそのような配慮はそれほど大きくものを言うとは思われなかった。それは、長期に渡る紛争だからこそ、生まれる人間関係への配慮である。
 
また、一見、書面を短期間で出し切り、紛争が早期に解決する方が、人間にとっては利便性が高い解決策に見えるかも知れないが、時間をかけて主張を争うことにより、物事が非常に深いレベルまで明らかにされ、その結果として、心に深い満足を得られることが分かった。
 
筆者は今回、訴訟の他に、強制執行や、間接強制の手続きも学ぶことができ、いわば、無からお金を作って行く方法を学んでいると言える。

これは知れば知るほど実に面白い手続きだと思わざるを得ない。なぜなら、学術論文はどれほどの分量を執筆しても、それ自体はお金にならず、著書として売り出すでもしない限り、利益には結びつかないが、訴訟手続きにおいては、自ら執筆する一文一文が、まさに請求の根拠となって行くからである。

こんな風に、文章が請求に直結するという分野を、筆者は訴訟以外では見たことがほとんどなかった。そして、訴訟においては、様々な権利侵害の事実の有無が争われ、幾分か抽象論も展開されるが、判決確定後は(仮執行も含め)、判決をいかにして実際に金銭に変えるかという「命令」の「実体化」とでも言うべきプロセスが手続きのメインとなる。これが訴訟につきものの、もう一つの顔としての各種の強制執行の手続きである。
 
今回は強制執行と供託から配当までの流れを理解したので、この分野で、筆者はまだ経験していないものは動産執行、不動産執行の手続きである。

筆者が見たところ、今の段階では、当ブログを巡る紛争のスケールは、賠償額の大きさから判断しても、不動産執行に値するものではない。せいぜい全店照会をして口座を特定して強制執行に及ぶか、勤務先を特定し、給与の差押に及ぶ程度のものだ。

だが、筆者の心には、実はこの先、もっと大きなスケールの差押をしてみたいという願いがかねてよりある。そして、やはりそのスケールの大きな差押の最たるものは、不動産執行でないだろうかという気がしている。

この事件で、そういうことが将来的に起きるのかどうかは知らないが、いつか必ず、その過程を学ぶことになるだろうと、筆者は前々から心に確信している。小さな元手で、最大限のものを獲得する、言葉によって、最大限の実体をつかみ取る、そのための方法がこれなのである。司法制度以外の場所では、言葉を用いた主張を駆使して、最終的にこのような結果を勝ち取る手続きはまず存在しないだろう。

不動産の話はさておき、当ブログを巡る事件は、筆者にとって、まさに筆の力を使って、無から有を生み出すための摩訶不思議な世界に足を踏み入れるための、うってつけの学習に相当した。これはあらゆる点で、筆者の望みに沿っていた。

訴訟を起こすまで、当ブログは完全に無料ですべてを筆者のコストとして執筆されるものでしかなかった。このブログによって何かの権利を獲得するとか、利益を得るとか、もしくは損害の補てんを得るといった考えは、筆者には全くなかった。
 
ところが、そのブログが、人生で大きな紛争の舞台となるだけでなく、権利侵害の事実を通して、金銭的賠償を得る根拠となった。これは筆者が当初全く意図してさえいなかったブログの全く別の効果というか、威力のようなものである。

当ブログを巡る事件は、そのスケールが、長い時間をかけて、実に小さなものから、実に巨大なものへと、雪だるま式に拡大しつつあるところも、実に不思議である。

そもそも、事の発端はからし種のような紛争でしかなく、始まりはただ1件の筆者が投稿したコメントであった。

2009年に筆者が杉本に依頼した1件のコメントの削除を、杉本がすんなりと聞き入れて、これを削除していれば、このような訴訟が起きることは絶対になかった。

この1件のコメントを削除するとかしないとかいった問題は、その当時、実に些細な事柄でしかなかったように見えた。にも関わらず、それが年々、より大きな紛争に発展し、ここまでのインパクトを持つものとなったのである。

それでも、筆者が昨年、杉本に調停を申し入れた際には、杉本が投稿していた明白な権利侵害の記事は、まだごくわずかに2、3本程度でしかなかった。
 
この時点で、杉本がこれらの記事を速やかに削除して、微々たる賠償金を支払っていれば、事件は速やかに終わっていたであろう。だが、民事調停での和解は困難となり、筆者が訴訟に転じると予告すると同期に、杉本は20本以上のあからさまな筆者に対する名誉毀損の記事を投稿、まさに訴訟にふさわしいスケールの権利侵害が生じ、賠償額があっという間に膨らんだのである。

今また筆者が一審判決で命じられた賠償金を杉本に供託で支払うよう求めたところ、杉本がこれを拒否する回答を寄越した。このことは、二審に大きく影響するだろうと筆者は見ている。そもそも一審判決に従わない人間が、控訴してみたところで、印象は極めて悪く、裁判官がこれを合理的な訴えとみなすことはないと筆者は思わずにいられない。

だが、それ以上に、杉本に対する賠償金の取立がこれほど困難を伴うことが一審で分かってしまうと、二審でも、裁判所による調査嘱託等の方法を用いて、予め勤務先を特定するなどして、二審判決を実現に移すための布石を打つことが認められる可能性が高まる。

従って、探偵その他を使って勤務先を特定するのが得策でない場合であっても、どんなに遅くとも、二審の途中で、そうした事情は判明すると考えられるのだ。さらに、来年には民事執行法の改正が予定されており、債権者がある程度、債務者の勤務先や口座情報を特定できるようになる。

記事「【民事執行法 改正見込】相手の口座や勤務先不明で諦めていた養育費が取立てしやすくなります」を参照。

これによると、来年4~5月あたりに民事執行法が改正されて、「第三者からの情報取得手続」という制度が新設されて、債権者が裁判所を通して市町村や年金事務所に照会をして、債務者の勤務先を調べられるようになるという。また、裁判所から銀行の本店に照会をして、債務者の銀行口座や預金残高等まで把握できるようになるのだという。

むろん、こうした手続きはすべての訴訟に適用されるわけではなく、また、これらの手続きは、誰もに100%結果を出せると保障するわけではないにせよ、賠償金の踏み倒しを許さないための大きな進歩となることは間違いなく、その改正が間近に迫っているのだ。
 
そういう意味でも、当ブログを巡る事件は、まさに学習にはうってつけの機会である。このように、筆者はこの紛争を聖書に基づくキリスト教の理念を巡る争いであると考えているが、それだけでなく、訴訟という一連の手続きに習熟するためにも、実に良い学習の機会なのである。

なぜこのような学習の機会が与えられているのかは知らないが、何か深い意味があるのだと筆者は考えている。
 
筆者から見れば、杉本がたった1件のコメント削除を拒んだのを機に、筆者に対しておびただしい呪いの言葉のような権利侵害の記事を投稿した結果、ついには職も失えば、家も失い、有罪判決を得るといった究極的な自滅的結果へ向かっているように見えるのは、実に驚くべきことである。

おそらく、こうした自滅行為は、賠償額の拡大とも密接に関連しているものと思う。だから、おそらく今、一審判決にさえ従おうとしない杉本には、二審ではもっと支払いが困難な額が言い渡される可能性は否定できない。
 
一見すると、事件がただこじれにこじれているだけに見えるかも知れないが、筆者はこのような運びになっていることには深い意味があると感じており、そこから実に多くの学びを得て、論敵の脅しを粉砕する方法のみならず、受けた損失を具体的に取り返すための実効的な手段を着々と学び、手に入れている。
  
上記した通り、この事件は、たった1件のコメントを巡って始まったのであり、いつ終わってもおかしくない小競り合いのような内容であったのに、未だに究極的な結論へ向かって拡大し続けていることは、驚くべき事実である。こんな事件は、地上では、お目にかかろうと思っても、そうそう滅多に起きることではないだろうと思う。

筆者自身も、杉本が悲劇的結末に至らなくて済むよう、猶予に猶予を重ねて来たというのに、杉本はわざわざその合理的選択肢をことごとく蹴って、自滅の方向へひた走っている。これぞ悪霊のなせるわざとしか言いようがない。それと共に、紛争の規模――受けた権利侵害のインパクトも、さらに拡大し続けて、筆者が最も厳しい措置を取ることさえ十分に想定されるような方向へ向かっているのである。
 
杉本は今、勤務先にしがみつき、筆者の取立が、精神的苦痛であり、心理的に追い詰められているなどと、不満をつらつらと書き連ねては、賠償金の支払いを拒んでいる。だが、筆者は杉本に電話番号を通知しておらず、杉本は筆者からの電話に全く出ておらず、通話も成立していない以上、杉本が、筆者の電話による取立の「権利侵害」を主張できる証拠はどこにもない。

非通知の電話がただかかって来たというだけでは、通話記録も出せず、迷惑電話も主張できない。なぜ着信音が鳴らないようにするなど、自分でそれなりの対策を講じなかったのですか、と首をかしげられるだけであろう。

筆者から見ると、杉本は絶えず雨漏りがし、隙間風が吹く家で、修理もせずに、我慢し続けながらその家に住んでいる住人のようなものである。やたら文句ばかり言って、すべての負の出来事を回りのせいにして、自分以外の人ばかりを責め続けて生きているせいで、自分で取るべき対策が何一つ見えず、自分で自分を守るための工夫が全くできないまま、今に至っているのである。

だから、杉本が職場が大切と、仕事にしがみついているのも、自分のためではなく、何が人生で一番大切であるかが分からないために、人に自分を認められるという二義的な満足を最優先して生きているからであるとしか思えない。おそらく、そうして何が本質的に重要であるかを根本的にはき違えているせいで、この先、健康も職場と一緒に失いかねない危うさを非常に感じるのである。

目先の利益にしがみつくと、こういう本末転倒な結果になるのだ。職場を守るためにも、本来は、一審判決に速やかに従うべきである。健康を守るためにも、早く賠償金を支払うべきである。職場が駄目になっても、健康が駄目になっても、どちらもいけないのだから、二つとも守るためには、まず判決に従うことがベストである。

ところが、杉本は最も優先すべき事柄を後回しにして、二義的な利益だけを守ろうとすがりついているから、結局、それらはすべて失われて行くことになるのである。

だが、筆者は、早期に取立を終わりにすることで得られる利益もさることながら、かえって、これを機に、一通りの強制執行をみんな実行してみるのも悪くないと考えている。

何しろ、そんなことをやろう、やっても構わないと思う悪質な相手には、まずお目にかかれない。普通の人たちを相手に、そこまでのことをしようとは、筆者もさすがに思わない。だが、このような貴重な機会はまたとない人生経験である。何のために役立つのかは知らないが、今、できる限りの学習を積んでおくことは悪くない。
 
筆者は再三に渡り、杉本にとってダメージの少ない方法を提案して来たにも関わらず、向こうがそれをことごとく拒んでいるわけだから、筆者がより厳しい、いわば、最後の手段に出たとしても、そうせざるを得ないだけの事情があったことは、誰でも分かってくれるはずだ。もはや非難する者はあるまい。

* * *
 
さて、杉本が筆者に供託を断って来て後、ただちに村上密がまたしても愚かかつ的外れな記事を投稿した。そして、村上が記事を投稿すると、間髪入れずに、杉本が当ブログを訪問して、「マーキング」していく。こうした現象が、彼らの間では、もはやお決まりのパターンと化しているのだが、そういうところを見ても、二人の間の悪の連帯の強さを筆者は感じざるを得ない。

さて、村上の記事の何がおかしいのか、どれほど多くの間違いがあるかを見ておこう。

名前はいつか分かる


「委任者と代理人との関係は、委任者ができないことを代理人に委任するわけだが、代理人は委任者からの情報が十分でないと解決に持っていけない。今まで解決に時間がかかったのは、委任者が名前を明かさないで解決してほしいとの依頼だ。その場合は、取り組む中で別の問題が浮上してきて、別の被害者が委任者となって問題解決に至るケースがあった。基本は委任者は実名で委任状を出し、相手が代理人だとわかるように委任状を見せるように要求された時、その書面を見せるわけである。警察でも実名で訴えなければ警察は訴えを扱ってはくれない。警察に実名を教えてほしいと言っても警察は伝えることはない。しかし、裁判では公開されているので、知ろうとしたい場合はだれでも知ることができる。芸能人が裁判で被害を訴えた。芸名で訴えるわけではない。芸能人が実名を出したくなくても、民事訴訟では原告は名前を出さずに訴えることはできない。それで、裁判に提出された書面を見れば実名はわかる。裁判に出た名前は公にできる。なぜなら、裁判は公開されているからだ。裁判で訴える場合は、匿名や芸名やハンドルネームで名前を隠すことはできない。ただし住所を伏せることはできる。弁護士事務所宛にしておけばよい。」

村上はこの記事で無知をさらけ出している。

まず「警察でも実名で訴えなければ警察は訴えを扱ってはくれない。」との一文だが、これは告訴人についての話なのか、被告訴人についての話なのか、その違いさえ明らかにされていない。

これが被告訴人を想定しているとしよう。
 
被告訴人の名前は明らかにせずとも訴えられる。たとえば、掲示板の投稿者について、人物が特定されていないからと言って、告訴状が出せないということはない。氏名住所不詳のコメント投稿者相手でも、十分に告訴状は出せる。

さらに、では、被告訴人をペンネームで訴えることができないのかと言えば、それもない。むしろ、警察は実名を特定して誰かを訴えることには、常にその相手から虚偽告訴罪を主張されるリスクが伴うため、できれば氏名を特定せずに訴えることはできないかと最初に勧めて来る場合が多いであろう。このように、刑事事件においては、実名を特定せずに誰かを訴えるということは、往々にして行われている。

次に、村上は書いている、「芸能人が実名を出したくなくても、民事訴訟では原告は名前を出さずに訴えることはできない。」これも間違いである。訴訟は、どうしても名前を出せない事情がある場合には、原告番号で提起することも可能なのだ。実際に、ハンセン病の絶対隔離政策による人権侵害を巡る訴訟や、薬害エイズ訴訟などにおいても、個人の病歴を明らかにすることが望ましくない場合には、原告番号による訴訟が起こされている。

さらに、村上は別の間違いも犯している。「裁判に出た名前は公にできる。なぜなら、裁判は公開されているからだ。」これも大きな間違いである。実際に判例集などを見てみれば良い。ほとんどの判例集において、一般人の原告や、被告の名前は、XとかYなどに置き換えられている。それは個人の氏名などは本人の意に反して公表されることが望ましくないプライバシー情報に当たるからである。

筆者が杉本相手に一審で主張した中でも、電話帳ですでに公開されている氏名や住所をインターネットに公開することが許されるかどうかを争った裁判例を引き合いに出した。その事件で下された判決は、電話帳に記載された個人情報も、ネットに無断で掲載すれば、プライバシー権の侵害に当たるというものであった。たとえば、以下のQ&Aを見て見れば良い。

弁護士ドットコム「民事裁判の内容をネット上の書き込みしていい?

このQ&Aでは、自分が被告とされた訴訟の内容をブログに公開しても良いかを尋ねる質問者に対し、弁護士Aは、原告の実名を出さなくても、誰のことかわかるようであれば、ネット上の公開は避けたほうがよろしいでしょう。公益的な必要性があるのであれば別ですが、ネット上の公開は慎んだほうがよろしいでしょう。」と回答している。

弁護士(比護望氏)は公開の法廷で傍聴した者に知れること、内容と、ネットで不特定多数に、書面そのものの内容が知れるのでは、格段の相違があると思いますので、ネットの場合には、名誉棄損となるおそれがあると思われます。 と回答している。

どちらも、訴訟が公開されているからと言って、訴訟に提出された書面をネット上に公開することは、何らかの権利侵害を発生させる恐れがあるため、全くお勧めできないとの回答で一致している。
 
さらに、裁判の場であれば何を主張しても良いかと言えば、決してそうではなく、訴訟における主張であっても、名誉毀損の余地が生じ得ることも示されている。もともと訴訟においてさえ、名誉毀損に相当するかも知れない準備書面の表現を、ネット上に公開したりすれば、ほぼ間違いなく権利侵害が成立することになるだろう。
  
上記弁護士が、「東京地裁平成22・7・20」の判例を引用して、次のように示していることからも分かる通り、過去の裁判例においても、訴訟において提出された書面は、一般に、ごく限られた範囲にしか伝播しないものと想定されており、インターネットなど不特定多数の人々が閲覧する場所に掲載される文書とは、初めから性質が異なる表現行為と理解されている。
 
「(4) そこで,損害額について検討するに,民事訴訟の準備書面への記載は,広く一般社会に流布することを目的としてされた表現行為ではなく,民事訴訟が公開の法廷で行われ,記録の閲覧が可能であるとしても,特に社会の注目を浴びていない通常の民事訴訟においては,法廷における主張活動の内容が広く一般に伝播することは現実には考え難い場合が多い。そして,C訴訟が社会的関心を浴びていたと認めるに足りる証拠はなく,本件記載1の内容について,広く一般に伝播したとの事実も本件証拠からは認められない。これに,本件準備書面が提出・陳述されたことにより,原告の社会的評価が低下した具体的程度についての主張立証がされていないこと等に照らすと,原告の損害額は3万円と認めるのが相当である。」

従って、こうした事実を踏まえず、村上密の主張を鵜呑みにした読者は、大変な目に遭わされることになる。裁判の記録だから、一般公開しても構わないと考え、当事者の実名、プライバシー権に抵触するような内容を大々的にネットに掲載するなどしていれば、当然ながら、様々な権利侵害に問われる恐れが生じる。

訴訟に提出される準備書面等は、裁判という枠組みの中で公開されているに過ぎず、それをインターネットで掲載することは全く別の話なのである。

さらに、村上が「ただし住所を伏せることはできる。弁護士事務所宛にしておけばよい。」と書いていることも、正確には間違いである。住所秘匿の上申を行った上で、弁護士を介さず、本人訴訟を起こすことも、十分に可能である。その場合は、弁護士事務所経由の送達ではなく、裁判所経由で書面を送達する。裁判所によっては、原則として裁判所経由の送達を認めない所もあるが、住所秘匿の措置が取られている場合には、当事者間で直接的な書面のやり取りは行えないため、裁判所を経由して書面が送達されることになる。

この他にも、書こうと思えば、数々の防衛のテクニックが存在する。だが、今ここで書いておきたいのは、訴訟の制度やテクニックの詳細ではなく、村上密が書いていることが大嘘であるということだから、テクニックの話は脇に置いておこう。

村上密が筆者の著作者人格権を侵害した行為は、当ブログを巡る裁判で、筆者の個人情報を含む書面が公開されているから、権利侵害に当たらないという主張によっては否定されない。また、村上密が、唐沢治の陳述書と題して、筆者がネット上に公開したことのない裁判資料(筆者のメール)をネットに公開した行為も、プライバシー権の侵害として追及されることを免れられない。唐沢の主張であっても、村上がそれを引用しながら、筆者が強要罪を犯しているかのように示唆する記述を行ったことも、名誉毀損もしくは侮辱等に問われる恐れを否定できない。

従って、村上の主張は、何から何まで大嘘であるから、読者はよくよくそれに騙されないよう注意しなければならない。このような主張を鵜呑みにして行動すれば、後々、自分が厳しい責任追及の矢面に立たされかねないためである。
 
筆者は、このように無知・無責任・愚かな「訴訟の専門家」に頼るくらいならば、多少の間違いはあってもいいから、何もかも自分で一から学んで、本人訴訟をすることを勧める。その方が、こんな人物を代理人に据えてさらなるリスクを背負いながら戦うことに比べ、はるかに多くの有益かつ貴重な学びと経験を、誰にも妨げられずに得ることができるであろう。

それにしても、筆者が何かを勧告する度に、破滅へ向かってひた走る杉本や村上といった人々には、まさに以下の御言葉が似合いである。この人々は、信仰の問題はおろか、この世の司法手続きについてさえ、愚かしい初歩的な多くの間違いを重ねつつ、一体、どこまで暴走を続けて行くつもりであろうか。見ものである。

「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、
 見るには見るが、決して認めない。
 この民の心は鈍り、
 耳は遠くなり、
 目は閉じてしまった。
 こうして、彼らは目で見ることなく、
 耳で聞くことなく、
 心で理解せず、悔い改めない。
 わたしは彼らをいやさない。」(マタイ13:14-15)
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村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(24)―自己顕示・自己栄化の霊に導かれ、政敵を蹴落とすためなら手段を選ばない村上密―

最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。

だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。

なお、その上に信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。

どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。

また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」(エフェソ6:10-20)

* * *
   
最近、筆者の周りに少しずつ増えつつある信者以外の知り合いは、時折、筆者自身がはっとするほど鋭い助言をしてくれる。筆者はクリスチャンだが、筆者自身は、信仰を持つ人々よりも、信仰を持たない人たちの方に、バランスの取れたものの見方、的確な判断を見ることが多い。

むろん、神を信じて何一つ後悔することはないし、聖書の神が生きておられ、信じる者を教も守って下さることを疑わないが、それでも、筆者の出会った信者の中に、こうした助力や助言を適宜、行える人たちがほとんど見つからなかったという現状は、どういうことなのだろうかと思う。

筆者から見ると、ほとんどのクリスチャンたちは、現実で起きる様々な問題に対処する知恵と力があまりにも乏しい。そういった背景があればこそ、カルト被害者救済活動が登場して来て、諸教会に裁判などをしかけ始めると、多くの人たちがこの活動の前にひるんで沈黙してしまったのではないかと思う。

だが、クリスチャンがそのように世人に比べ、圧倒的に世の事柄に疎い状態ではいけないと筆者は思う。次のように言われている通りである。

わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」(マタイ10:16-20)
 
この「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」という命令が、反キリスト・偽預言者たちの策略に負けないように、という文脈で記されていることは興味深い。暗闇の勢力には蛇のような狡猾さがあるが、それに劣らぬ知恵が霊的戦いには必要となると言われているのである。

筆者が人生最初に経験した訴訟が、これほど難易度の高いものとなっていることも、見逃せない事実である。訴訟と債権回収は一つであって、債権回収が成立しないならば、訴訟を起こす意味がない。どんなに勝訴判決を得ても、それが机上の空論でしかないならば、すべては時間と労力の空費でしかない。

だから、「言葉」と「実行」を一つに結びつけることが必要なのであるが、その方法を、筆者は、とことん学ぶ機会を与えられていることも、神の恵みであろうと思う。すでに強制執行や間接強制の手続き方法はひと通り理解した。後は取立を成功させる秘訣を学ぶことである。

さて、昨日、筆者は杉本の件で警察に相談してみた。すると、杉本に会うことは、安全のために決して勧められないので、行かないでもらいたいと制止を受けた。むろん、それは予想の通りの助言であった。杉本の取り調べも近日中に予定されているのだから、警察に任せなさいということである。
 
随分、警察が心配してくれるようになったが、そのような円滑な関係が打ち立てられたのも、筆者の内心の変化と、一審判決が下されたことが大きいであろう。今回、非常に鋭い指摘を受けた。それは、筆者が杉本のメールに憤り、これに触発されて、杉本に直接交渉したりすれば、彼と同じレベルに堕ちる危険があるからやめた方が良い、というのである。相手の幼稚さ、俗悪さ、卑劣さに引きずられることなく、自分の人生をしっかりと大切にしなさい、というのであった。
 
考えてみれば、刑事事件に明白な進展が訪れたのは、杉本の書いた一連の記事が削除されてからのことである。やはり、事実無根の名誉毀損の記事であっても、霊的な領域においては、呪いの効果を持っている可能はあるだろう。それが削除されたことにより、警察との関わりも前とは違ったものになり、刑事事件もよりスムーズに進むようになったのである。

むろん、杉本が今回、筆者に送って来たメールのあまりにも利己的かつ幼稚で無責任な内容、サッカーチームの試合予定、さらに、以下の杉本による事件の閲覧記録と、村上密のブログにおける唐沢の記事の投稿などについても、すべて事情を伝えておいた。
 
二審が始まってみなければ、まだ確定的なことは言えないとはいえ、一審判決から現在に至るまで、相当に村上を不利に陥れる証拠が増えたことは確かである。

村上密のブログからは、以前はあれほど頻繁に見られた「完全勝訴」の響きが消えて、かえって、「変節」の記事に見られるように、筆者が村上に対して裁判を起こしたこと自体に、ぼやきに近い不満を示すかのような調子が見られるようになった。

「クリスチャンが裁判することに強く反対していた人が、裁判の原告になったのを聞くと、ご都合主義に思える。何人もこのような人を見たり聞いたりしてきた。」
 
本当にそうだろうか。何人も見て来たのか? しかも、これはどういう紛争の話なのか、全く説明がない。クリスチャンといえども、この世で起きた紛争に関して、原告となることが禁じられているわけではあるまい? 土地の境界線に関する隣人とのトラブル等から始まり、労働紛争、交通事故、その他、いかなる紛争も、クリスチャンは訴えを起こすことが禁じられているなどといった話ではないだろう? だが、あまりにも文章が短すぎるため、前後の文脈もなく、説明不足すぎて、読者に誤解を招きかねない表現だ。

さらに、言葉の使い方も間違っている。

「他人がしているときは、高邁な自説を主張し、わが身になると手の平を返す、これを国語辞書では変節という。変節の自己弁護を聞くことほど嫌なものはない。だれでも裁判権を持っているのだから、初めから裁判を否定しなければよい。しかし、裁判権を知っていながら、激しく裁判を否定していた人が、法的手段に血眼になっているを聞くと、いったいあれは何だったのかと問いたい。私はクリスチャンでも裁判を行使してよいと勧めてきた。コリントの第1の手紙(6:1~7)から裁判を否定するのは間違った解釈である。教会で扱うプロセスを飛び越えて、早々と世の裁判に訴えることをパウロは咎めているのである。裁判そのものを否定しているわけではない。   」

正しくは「これを国語辞典では「ご都合主義」と言う。」だろう。変節というのは、転向とも似ており、信念そのものが変わったことを指す。だが、他人の裁判だけを非難して、自分の裁判は正当化するという態度は、ただご都合主義的に意見をころころ変えているだけで、信念そのものの変節には当たらない可能性が高い。
 
そして、もしこの非難が筆者を指すものであるならば、筆者は裁判権を否定したことなど全くない。筆者は聖書に沿って、クリスチャンがクリスチャンに対して訴えを起こし、教会内の問題をこの世に持ち出すべきではないと述べているのだ。その点で、筆者は教会に対して争いを起こしたことは今に至るまで全くないので、信念が変わった点は何一つない。

だが、長年に渡る緻密な観察と分析により、村上密、杉本徳久、唐沢治の三人は、キリスト教徒ではないという判断が筆者の中では下っている。相手がクリスチャンではない場合、この世に訴えを持ち出しても、何ら問題とはならないのである。

このように、筆者の信念は何ら変化していないので、村上から非難される筋合いなど全くない。むしろ、村上こそ、カルト被害者が裁判を起こした際には、被告とされた牧師たちを強く非難し、信者に損害を与えた牧師は、賠償に応じるべきだなどと叫んでいたのだから、今回の一審判決で、杉本に下された賠償命令を、杉本がきちんと受け入れ、判決に従って支払いをするよう、牧師として促すべきではないか?
 
自分たちが人を訴える際にだけ、声高に賠償を要求しながら、自分たちが敗北して賠償せねばならない立場になれば、詭弁を弄して支払いから逃げようとする。このような行為こそ、御都合主義として非難されるにふさわしい。司法の悪用と言っても差し支えない。

さて、裁判所に確かめたところ、唐沢の陳述書を閲覧・謄写したのは、杉本徳久であることが分かった。むろん、それで入手の経路を100%断定はできないにせよ、村上が、この陳述書を杉本経由で入手した可能性が高まったことになる。

 

杉本が閲覧謄写している日が4月26日にであることを見ても、村上の投稿以前なので、辻褄は合う。陳述書本文は筆者が公表している。公表されていない書証の部分だけ、杉本が複写して、これを村上に提供し、村上がそれを読んで一連の記事の発表に至った可能性が濃厚である。

筆者は、村上が唐沢とメールで直接、やり取りをして、直接、唐沢から陳述書の掲載の許可を取った上で、掲載しているはずだと考えていた。当然ながら、牧師同士の配慮として、了承も得ていない当事者の文書を、無断で入手して公開するなどの可能性は全く考えもしなかった。
 
おそらく唐沢から村上に対して、これを公開して欲しいといった黙示・明示のリクエストがあって、初めて村上が公開に及んだのだということを疑わなかったのである。
 
だが、村上が唐沢本人から提供を受けていたのであれば、杉本が閲覧・複写する必要はないことであろう(なぜなら、以前から村上と杉本との間ではメール交換等も行なわれているためだ)。そして、唐沢は「没交渉」と言って、そのような事実を示唆しておらず、さらに村上は許可を得て掲載している旨も説明していない。
 
むろん、入手経路の釈明は二審で求めることとなろうが、村上が、筆者が当事者としてすでに公表している唐沢の陳述書について、入手の経路さえ明らかにせず、まるで自分が未発表の事実をつきとめ、これを発表することで、手柄を立てたとでも言うかのように、「唐沢治氏の陳述書」などとして記事を公表し、唐沢を弁護する目的で、筆者が強要罪を犯しているかのように示唆しながら、筆者を断罪したことを、読者は覚えておかれたい。

筆者は、村上のブログに働いているのは、常に自分が他者よりも優れていることを誇示して勝ち誇ろうとする自己顕示の霊、自己栄化の霊である(別の言い方をすれば「マウンティングの霊」)であると指摘して来た。

記事「そっとしておこう 」も同様である。村上が通りすがりに、失業して喫茶店で何度も時間を潰すしかない状況にある青年を頻繁に見かけたが、あえて声をかけないでやったという内容である。一見、思いやりに満ちた内容のように見えるかも知れないが、決してそうではない。

これは自分と比べて不遇の境遇にある人を、上から目線で哀れむ牧師の自慢話に過ぎない。本当に「そっとしておこう」と思うならば、どんなに人物が特定できない形でも、記事になど書くべきではないだろう。しかも、青年はすでに就職しているようであるから、今になって、本人さえも忘れているかも知れないその当時のことを思い出し、「俺はおまえの失業を知っているぞ」と今更のように強調する必要はない。

人の見られたくないところ、知られたくない姿を見た時には、それは見なかったことにして一切、心の中から消し去り、忘れることだ。たとえ忘れなくとも、決して人前でその秘密を明かしたりはしないことだ。それが他者への思いやりというものだ。

そうでなければ、村上が年老いて妻に先立たれ、会話する相手もいなくなり、日々、喫茶店で時間を潰すしかない老人になった時に、誰かがそのことを記事に書くかも知れない。

「友達と一緒に移動してるときに、よく通る道にある喫茶店で、ぽつんと座っている老人がいるのを何度か見かけたの。ねえ、あれ、村上先生じゃない?、寂しそうだから声をかけようかな?と思ったんだけれど、何だか声をかけづらくて、きっと先生ももうすぐ天国に行かれるでしょうから、地上で最後の休息を取ってるだけだろうし、邪魔しないでそっとしておいてあげようと思ったの。そしたらね、ほんとにそれから間もなく、召されたみたいだった。」

そんな風に言われたいのだろうか? だが、村上が、普通の人間の心さえ分からなくなっているのは、彼がまさに「マウンティング」を目的に記事を書いているからだ。自分が他者よりもいかに秀でており、優位にあって、他者の弱みを数多く握っているか、それを自分に言い聞かせることで、自己を慰めるために記事を書いているためである。
 
話を戻せば、この自己顕示の霊は、パクリの霊でもある。他人の手柄を自分のもののように横取りし、ライバルを駆逐して、自分だけが勝ち誇りたいという霊である。

村上は、筆者の手柄を横取りし、なおかつ、筆者を断罪して濡れ衣を着せ、ネットから葬り去る目的で、唐沢治の陳述書の公開に及んだ。

村上の最新の記事「牧師が解釈を独占 」でも、村上が鏡に映った自分に見惚れるように、検索を繰り返し、自分の記事がいかに上位にヒットしているかを確かめ、悦に入っている様子が分かる。

「今日「解釈を牧師が独占」と「牧師が解釈を独占」を検索したら、上位3件が同じく村上密ブログの記事だった。一部を抜粋してみた。このような表現はほかに検索の結果が出なかった。どうやら2014年6月9日の記事が、今まであまり表現されてこなかった言葉で、教会のカルト化に警鐘を鳴らし始めたことになる。」

まるで「鏡よ、鏡、世界で一番偉いカルト専門家はだあれ?」と尋ね、「それは俺様だろ!」と自問自答する姿を有様を見るように、村上のナルシシズムを強く感じさせる内容である。

こういう牧師は、もしも検索サイトという「鏡」が望ましくない答えを返し、村上以外の誰かが上位にランクしていることを告げて来たら、きっと、「そんなはずはない!俺の満足する答えを返せ!正しい答えが出るまでやり直すぞ!」と、鏡を打ち壊して、新しい鏡を必死で作るのだろう。

そうなるためになら、自分の支持者たちが、掲示板でライバルを集団リンチし、誹謗中傷をまき散らすことで、検索サイトに悪評を反映させ、順位を下落させ、駆逐して行くことをも黙認・容認するのであろう。

その上、それだけでは飽き足らず、とどめを刺すために、ライバルを刑事告訴したり、自分でも盛んに中傷を書きなぐるなどの入念さを見せるのであろう。実際、村上がしてきたのはその通りの行為である。

当ブログには、村上や杉本にとって不都合な記事を検索結果から駆逐しようと、毎日のように、大量の読者が押しかけて検索結果の操作が繰り返されている。従って、筆者は、検索結果など意図的な操作によりいかようにでも変わり得るものであること、それが事実を示しているわけでないことを疑わない。

村上は「牧師が解釈を独占」という独自の用語で検索した結果、そうした発想がまるで自分の考案したものであるかのように自慢げに主張しているが、筆者は、2009年来、同様の主張を当ブログで展開して来た。

当ブログでは、開設当初からどれほどの回数、牧師が信者の霊的生長の妨げとなっているかというテーマについて、触れて来たか分からない。ただし、牧師制度の悪について触れるに当たり、筆者は幾度も分析の方法や、用いる言葉や、注目する観点を変えて来た。当初は、牧師制度は個人崇拝の制度であるというところから始まり、グノーシス主義との関連性、ペンテコステ運動との関連性、牧師が「御言葉を取り継ぐ者」とみなされていることの反聖書性などに言及した。
 
しかし、言葉の違いはどうあれ、当ブログ始まって以来、決して途絶えたことのないメインテーマの一つが、牧師制度の悪を訴えることにあった。牧師制度こそ、すべてのカルト化現象の元凶なのであり、この制度ある限り、プロテスタントの腐敗はなくならないというのが、当ブログの変わらない主張である。
 
現在、筆者は次のように主張している。「信仰回復運動は、常に聖書そのものの一般への解放と密接な関係があった。プロテスタントの牧師制度は、牧師だけを御言葉を取り継ぐ者として、信者自身に聖書を解釈させないことにより、聖書を牧師の独占物として来た。新たな信仰回復運動は、牧師制度から聖書を解放し、聖書を万人に開放し、万民祭司の原則を打ち立てること以外にはない。」
 
* * *

さて、当ブログがどれほど早くから牧師制度と独占という言葉を結び付けて論じて来たか、いくつか過去記事を抜粋してみよう。最も古い時期のものは、手束正昭氏の著書『教会生活の勘所』が異端的教説に基づいていることを分析した以下の記事であろう。

教会成長論が生む牧師への個人崇拝」(2009年5月12日)

4)教会成長論が生み出す牧師への個人崇拝


 さて、『教会成長の勘所』に話を戻そう。第一部では、教会役員はいかにあるべきかが述べられているが、この部の最も核心的な話題は、実は、教会役員にあるのではなく、牧師への個人崇拝にあると見て良いと私は思う。だから、そこから話を始めよう。

人格的象徴としての牧師

 『祈りの精神』という日本でもよく読まれている書物を書いた英国の神学者フォーサイスは、その書物の中で『牧師とは礼典的存在である』と主張している。礼典的存在とは、私の言葉で言えば人格的象徴ということである。『象徴性を担った人間』ということになる。
つまり、その人間を通して神の恵みと祝福、命と力が注がれてくる媒体としての存在ということである。
神の世界は四次元、人間の世界は三次元なので両者は直接的には交わり得ない。人格的象徴とは、この四次元と三次元をつなぐ通路、管としての存在と言ってもよい。<略>
宗教的象徴ということについての理解の不足は、信仰そのものの貧困さをもたらすことになりかねないということは明らかである。」(p.21-22)

 この短い文章を読んだだけですぐに、ある人々は、この書物がキリスト者をいかに破滅的な異端に誘い込む危険な内容であるかを察するだろう。
 よく読んでみよう。牧師は「礼典的・象徴的存在」であると手束氏は言う。

 確かに、あらゆる団体のリーダーとなる人物には、群れの模範、代表、シンボルマークの役割を担う力が必要になる。リーダーには確かにグループのシンボルとしての役割がある。そのことには異論はない。しかし、手束氏の言う「礼典的・象徴的存在」の意味は決してその程度の軽いものでは終わっていない。

 氏は言う、礼典的・象徴的存在とは、「その人間を通して神の恵みと祝福、命と力が注がれてくる媒体としての存在」であると。つまり、牧師を通して、信徒は神の恵みと祝福、命と力を受け取るというのである。
 確かに、敬虔なクリスチャンは誰でも神の愛と恵みを隣人に届けるための通り良き管となれるだろう。そのことに私は反対しない。私たちがキリスト者として、愛に基づいて隣人を助ける時、私たちは神の祝福の通り良き管となっているのである。従って、もしも優れた牧師がいるならば、彼は神の恵みを多くの人々に届ける管になるだろう。

 しかしながら、氏はこれでも終わらない。そこからさらに進んでこう言う、「神の世界は四次元、人間の世界は三次元なので両者は直接的には交わり得ない。人格的象徴とは、この四次元と三次元をつなぐ通路、管としての存在と言ってもよい。」
 ここまで来れば、どんなに鈍感な人でも、この文章の危険性に気づくのではないだろうか。私たちはこれをきちんと字義通り解釈しなければならない。この文章は、三次元の世界に住んでいる信徒は、神のおられる四次元の世界には「直接的には交わり得ない」、従って、「四次元と三次元をつなぐ通路、管としての存在」、つまり、「人格的象徴」である牧師を通さねば、事実上、信徒は神と交わることができず、神の恵みを受け取ることもできないと言っているのである。
 牧師を通さねば、信徒は神との直接対話は不可能だと言うのがこの文章の意味である。そして、そのことの重要性を見落とし、「宗教的象徴」についての理解が不足すると「信仰そのものの貧困さをもたらすことになりかねない」と氏は言うのである。

 眩暈がするような文章ではないだろうか。善良なクリスチャンにこれ以上の説明は不要だろう。しかし、これだけではまだこの論理の異常性が分からないという人がいるかも知れないので、念のために、最後まで、分析を進めよう。[四次元問題については、末尾の注を参照。]

 上記のような「人格的象徴としての牧師説」は、事実上のイエス・キリストの否定である。

 聖書を見よう、イエスは言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)

 クリスチャンが真理に至るため、あがないを得るため、永遠の命を得るため、父なる神の御許に至るために、唯一与えられている通路は、イエス・キリストただ一人である。象徴的存在としての牧師ではない。いかなる人間も、神と人とをつなぐために、イエスの代理人となることはできない。

「このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒4:11-12)

 イエスは「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」(ヨハネ14:14)と言われた。そこで、クリスチャンは今日、「イエスの御名によって」祈るのである。
 旧約聖書時代には、預言者を通さなければ、民は神の御言葉に接することができなかった。だが、十字架によるあがないのおかげで、クリスチャンがイエスの名を通せば、直接、神を礼拝し、神に願い求めることが可能となった。これは聖書理解の基本中の基本である。だが、『教会成長の勘所』はそこからしてすでに真理から逸れている。牧師が事実上、イエスの役割を代行する者として名乗り出ているのである。そのことは、続く文章を読めば、さらによく分かるだろう。

「ところで、象徴というものにはそれに対する信頼と尊敬があってこそ、その機能を発揮できるという性質がある。たとえば、聖書は只の古典ではなく、象徴としての書物即ち神の言葉である。それゆえにこの書物に対して鄭重なる尊敬と神の言葉としての信頼をもって読むことによってのみ、私たちはそこから汲めども尽きぬ恵みと神の命に与かりえるのである。
ましてや人格的象徴には、尊敬と信頼とが更に必要となる。あのナザレのイエスにおいてさえ、故郷の人々が尊敬と信頼を持たなかった時、奇跡を行うことができなかったのである」(p.22)

 この文章をよく読めば、著者手束氏が「象徴」という言葉をどのような意味で用いているかがよく分かるだろう。
 聖書は「象徴としての書物」であると氏は言う。つまり、神の御言葉が、見える形となって現われたものが聖書だという意味である。神の霊的な御言葉が、現実の地上世界の言語に表され、翻訳の不手際なども指摘されつつも、それでも可能な限り正確に文章化されて、見える形でクリスチャンの手元に届けられた。その見える形の聖書は、ただの物質ではないから、私たちはそれを小説や雑誌のようにではなく、神の言葉としての尊敬を払いつつ読まねばならないということが言われているのである。そのこと自体に異論はない。だが、それと同様に、牧師も「象徴」であるから尊敬を払われなければならないと氏は言うのである。

 不明なのは、牧師が一体、「何の象徴として」信徒から尊敬されなければならないのかという点である。教会の象徴としての牧師? 正しい教えの象徴としての牧師? この文章からはよく分からない。
 もう一度文章を読んでみよう。

「それゆえにこの書物に対して鄭重なる尊敬と神の言葉としての信頼をもって読むことによってのみ、私たちはそこから汲めども尽きぬ恵みと神の命に与かりえるのである。ましてや人格的象徴には、尊敬と信頼とが更に必要となる。」
 
 奇怪な文章である。信徒が聖書に尊敬を払うならば、「ましてや」人格的象徴である牧師には「更に」尊敬と信頼が必要だと言うのである。つまり、人格的象徴である牧師には、聖書に対する以上に、信徒からの尊敬と信頼がなければならない、と言うのである。牧師が事実上、聖書より高い位置に置かれていることが分かる。
 これはどういうことであろうか。ただの群れのリーダー、聖書を教える教師、教会の統率者が、聖書以上に尊敬と信頼を受けなければならない理由はない。従って、はっきりした説明はないものの、手束氏が「象徴的存在」である牧師が聖書以上に尊敬されてしかるべきだと述べているその根拠とは、「牧師とは御言葉の象徴であり、神ご自身の象徴である」と氏が考えているからだと受け取るのが、何よりも自然であろう。

 だが、さすがに「牧師は神と御言葉の生ける象徴である」とまで言い切ることはためらわれたのであろう。そこで、何の象徴であるのかを明確にしないまま、ただ「牧師は礼典的・象徴的存在である」という曖昧な説明でお茶を濁しているのだろうと想像される。
 結局、牧師は御言葉と神ご自身の人格的象徴であるから、聖書そのものにまして、信徒から尊敬と信頼を受けなければならないということが暗に言われているのである。

 ここで、イエスがユダヤ人に言われたことを私たちは思い出さなければならない、「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。<略>わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の何よって来るならば、その人を受けいれるのであろう」(ヨハネ5:39-43)

 もしもこの地上の人間の中に、御言葉や、聖書の人格的象徴と言える存在があるとすれば、それはイエス・キリストお一人だけである。父なる神の名によって地上に遣わされたのはイエスだけであり、それ以外の人々は全て「彼自身の名によって来た」のである。だからこそ、聖書を敬いながら、イエスを信じようともしないユダヤ人に、キリストは上記のように言われたのである。聖書自体が、イエスについてあかしする書物であり、イエスの存在は御言葉そのものである。にも関わらず、どうして肉なる人に過ぎない牧師が、イエスに成り代わって自分が御言葉の象徴となり、聖書に対する尊敬以上の尊敬をクリスチャンに要求することができるのだろうか。

 手束氏の言う、「人格的象徴」なるものが、事実上、牧師がイエスに成り代わり、聖書以上の権威を身に帯びて、自分を通さねば神からの恵みを誰も受けることができないと主張し、自分に対する個人崇拝を信徒に要求するものであることは、明らかである。

* * *

また、同じ頃、書いた記事を土台に、後に内容を多少書き加えたものが以下の記事である。

牧師制度という個人崇拝の悪―偶像崇拝が大衆にもたらす偶像との一体化願望と失望」(2009年3月19日)

これまで、キリスト教界に問題が起きるのは、牧師制度が原因である、ということについて述べて来た。なぜ牧師制度はあるべきでないのか。聖書では、主イエスは次のように語られた。

「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
あなたがたは、地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。
また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。」(マタイ23:8-10)

このように、聖書はキリストを信じる信者の間に序列があるべきでないこと、信者にとっての教師とは、見えないキリストただお一人だけであることをはっきりと示している。

それにも関わらず、主イエスの御言葉に反して、信者が信者の上に立ち、神と人との唯一の仲保者であるキリストを否定し、押しのけてまで、他の信者の教師、模範、指導者となり、他者を教えることを、制度化することによって固定化しているものが、牧師制度である。

このようにキリストの御言葉の根幹を否定して成り立っている牧師制度がある限り、キリスト教界には問題が起き続け、是正は不可能であろう。むろん、カトリックであれば、プロテスタント以上の厳格なヒエラルキーがあり、神の代理人としての法王が立てられているわけだから、プロテスタント以上に深刻な問題が存在することは言うまでもない。

<略>

ペンテコステ運動にも同じことが言える。
  
神と人との関係は、原則的に、一夫一婦制である。神は唯一であり、神と人との仲保者はイエス・キリスト以外にはいない。にも関わらず、その一夫一婦制の原則を破って、人間の指導者がキリストとエクレシアとの間に割って入って、エクレシアの心を盗もうとするならば、必ず、その指導者と、神への貞潔を捨てた信者たちに、ひどい末路が降りかからないわけにはいかないのだ。
 
つまり、カルト化現象は、何かしらの難解な教義的な逸脱の結果として起きることではなく、一部の教会や指導者が悪に傾いたために起きるものでもなく、信者が唯一のまことの神だけに従う信仰を捨てて、目に見える人間の指導者を含め、神でないものを神としたことによって起きる当然の結果でしかないのである。

だから、キリスト教にはカルト化という問題は存在しない。あるのはまことの神を神としないで、神でないものを神とする人間の罪と背教だけである。

* * *

また、2015年頃からは、筆者はグノーシス主義とからめて牧師制度の悪を論じることが多くなった。グノーシス主義は霊的階層制を取っており、必ず、真理の仲介者として目に見える指導者を必要とすることを明らかにし、プロテスタントの牧師制度は、聖書に合致するものではなく、むしろ、グノーシス主義的な背景を持つものであることを指摘した。

神の代理人を詐称する牧師制度と公務員を詐称する官僚制度の闇」(2015年6月21日)

さらに、グノーシス主義は人間を救済するために、こうして人間の仲介者(グルのような存在)を肯定するばかりでなく、聖書に反して、真理を教えるためには指導者に聞く必要があるとして、教える者と教えられる側の区別を作り、信徒の間にヒエラルキーを作り出します。

聖書はもともと「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。」(マタイ23:8)

と、神のみ前に兄弟姉妹が平等であることを説き、教師や指導者を名乗る信徒が、他の兄弟姉妹の信徒を指導し、支配するという階層制を認めていません。

しかしながら、グノーシス主義は徹底したピラミッド構造を持っており、少数のエリートの指導者層による大多数の信徒への「教育」や「指導」(=「支配」)を肯定します。一握りの「悟りを開いた」エリート集団が、その他大多数の「愚かな」平信徒を指導するというピラミッド型の差別構造が、異端の教えには必ず伴います。ですから、グノーシス主義を取り込んでしまった宗教団体は、ネズミ講のような上意下達式の組織を持つことになり、それが支配と収奪のシステムとして機能し、指導者は偉くなって君臨する一方、末端の信徒は虐げられるということになります。

こうして、異端の教えは、巧みに神の名や、人の救いを口実として利用しながらも、神への服従ではなく、「神の代理人」や「みことばを取り継ぐ人」を名乗る人間の指導者の権威への服従を説くことにより、平信徒が少数のエリートに依存し、服従するようなシステムを作り出します。これに反すれば、指導者に逆らうことは神に逆らうことと同一視され、「地獄へ落ちる」、「悪魔に心を奪われた」、「悪霊に取りつかれた」などと批判して、追放します。

しかし、このように人間が人間の上に立ち、人間を支配するシステムは聖書の真理に全く反しており、そのようなシステムは奴隷化をもたらすだけで、決して本物の救いをもたらさず、人を解放することも、幸福にすることもありません。最も虐げられるのは、子供や、社会的弱者です。しかし、ヒエラルキーの中で上位を占める人々は優遇されている旨みのゆえに、その偽りに気づくことはないでしょう。

また、グノーシス主義には常に出来合いの宗教組織をのっとるという特徴があります。グノーシス主義そのものが「のっとり」(横領、盗み)の思想だと言って差し支えありません。グノーシス主義はもともと宗教ではなく、神話を持たない哲学的な思想体系なので、様々な既存の宗教に仮装して、宗教思想を装って組織の内側に入り込み、自分の寄生した宿主としての宗教を内側から破壊して行くことにより、転覆させる(組織ごとのっとる)働きをします。ですから、グノーシス主義はあらゆる革命思想、クーデタの思想の始まりだと言っても過言ではありません。

* * *

2016年中は、ペンテコステ運動とグノーシス主義と牧師制度の悪という問題を関連付けて論じることが多くなった。必ずしも、牧師という存在だけが、現人神となるのではない。牧師に率いられる集団ごと、そのような理念に陥ることがある。

相模原で起きた障害者の大量殺傷事件は、安倍政権の歪んだエリート主義が生んだ実である(2) 」(2016年7月29日)

KFCに関わる人々のすることは何もかもすべて、彼ら自身の見栄と自己顕示のためである。たとえKFCを陰では悪しざまに非難していたとしても、これと公に訣別宣言をしないならば、彼らの仲間同然なのである。

彼らの活動は全て、自分たちがいかに他者よりも優れており、特権を享受している幸福な人間であるかを誇示するために行われるものでしかない。すでに書いた通り、信者の結婚式さえも、その目的のために存分に利用されたのである。そして、その結果、起きたことは、とても痛ましい出来事であった。

聖書は、もし宴席に誰かを招いてもてなすならば、立派な金持ちではなく、貧しい者たちのように、返礼できない相手を招きなさいと教えている。そうすれば、主がその隠れた親切に報いて下さるというのである。本当の親切とは、見返りを求めず、隠れたところで行われるものである。だが、KFCは常に、自分たちの恵みを、自分たちの仲間内の狭い集団の中だけで誇示することで、すべての栄誉を自分たちだけで独占してしまい、他の人々に分かち与えることをしなかった。その独占を、自己の優位性とみなしたのである。

そのような彼らの態度は、常に閉ざされていて、内向きで、何もかもが、自分たちのためであり、そのような態度が、主の御前に喜ばれることは決してあり得ないと筆者は今でも確信している。彼らは地上にいる間にすべての報いと栄誉を受けてしまったのである。

Dr.LukeとKFCは、カルト被害者救済活動の指導者である村上密氏とほぼ同様に、決して自己の本当の弱さや醜さや限界と向き合わなくても済むように、自分がいつでもヒーローとなって人前に脚光を浴びていられるような、偽りの「マトリックス」の世界を作り出し、それを信仰生活とはき違え、その幻想の中で、ついに自分たちは「神である」と宣言するところまで行き着いた。

* * *

イゼベルの霊がもたらす男女の秩序転覆――男性化した女性たちと、非男性化された男性たち」(2016年11月29日)

ペンテコステ運動に関わる男性たちが、このように大胆不敵な女性たちに屈従するのは、彼らの内面が空虚で、劣等感に苛まれ、自己が傷ついているためであって、彼らには真のリーダーシップを取れるだけの自信と力がないのである。こうした男性たちには、支持者に誉めそやされ、他者を押しのけて優越感に浸る以外には、自信の源となるものがない。そして、他者から何かを盗むことだけを生き甲斐としている。

筆者は、ペンテコステ運動(だけに限らないが)の信者たちが、勝手に人のメールを転送したり、他人のブログ記事を自分が思いついたもののようにメッセージで利用したり、聖書や先人たちの著書を無断印刷して大量に配布したり、これを自分の作品のように自分のブログで著作権表示もなしに縦横無尽に引用したり、改造する場面を幾度となく見て来た。その結果、こうした剽窃は、盗みなのだという結論に筆者は至っている。

彼らは、自分に近づいて来る信者から栄光を盗むだけでなく、手柄を盗み、思想を盗み、夢を盗む。特に、人の望みを奪って、他者を失望させ、隅に追いやっておきながら、自分だけが脚光を浴びて、すべての栄光を独占することで、気に入らない他者に対する圧倒的な優位性を誇示することが、彼らの最大の生き甲斐であり、よすがである。

この人々は内心が空虚なので、人から盗む以外には、自己の自信と力の源となるものが存在しない。彼らが力強く、大胆に、目を輝かせて、立派そうな態度を取り、雄弁なメッセージを語るのは、イエスマンの支持者に囲まれて誉めそやされ、持ち上げられている時か、教師然と人を上から教えている時か、他者を批判して引きずりおろしている時か、自分よりも弱そうな誰かに支援者のように寄り添い、人の弱みを巧みに聞き出しては内心で自分の優位性を確認して満足している時か、あるいは、自分の偉大な超自然的な力を誇っているような時だけである。

彼らは、人に正体を見破られ、おべっかを受けられなくなり、捧げてもらうものもなくなり、盗むものがなくなり、自己の優越性が失われると、完全に心弱くなって力を失ってしまう。彼らは自分が栄光を受けることのできる舞台には、好んで出かけて行くが、いざ自分が不利な立場に置かれ、人に非難されたりすると、途端に臆病になり、まともな反論一つもできずに、仲間を見捨ててさっさと逃亡し、自己弁護や反論の仕事を支持者たちに任せきりにしながら、自分は影に隠れて陰湿な復讐計画にいそしむことも珍しくない。

多くの場合、ペンテコステ運動のリーダーたちは、あまりにも自尊心が傷つきやすく、臆病で、ナイーブなので、普通の人々であれば、公然と反論できるような些細な疑問や批判にさえ、まともに立ち向かう力がない。それはただ自尊心が傷つきやすすぎるためではなく、内心では、自分が詐欺師だという自覚があるので、反論できないということもあるだろう。

こんなリーダーだから、男性であっても、自分や、配下にある人間を、各種の脅威から力強く守ることもできず、仲間が傷つけられても、我が身可愛さに、自分だけ難を逃れることを最優先して逃亡することしかできない。要するに、彼らは聖書のたとえにある通り、群れを守らない雇われ羊飼いなのであり、羊を食い物にして栄光を受けることだけが目的で、敵の襲来を受ければ、真っ先に羊を見捨てて逃亡するような、勇気と潔さのかけらもない、男らしさを失った、見栄と自己保身だけが全ての、卑怯で臆病な牧者なのである。

* * *

牧師や教職者を特権階級とする制度は教会を絶対的に腐敗させる~バアルにひざをかがめない七千人の登場を待つ~」(2018年4月1日)

さらに、Mr.Sugarがその集会でメッセンジャーとなって人前で説教していることを知って、筆者は心の底から呆れた。なぜなら、Mr.Sugarこそ、筆者の前で、メッセンジャー(御言葉を取り次ぐ教師)となって、キリストになり代わって他の兄弟姉妹の心を支配し、人前に栄光を受けることの忌まわしさを、嫌というほど語った本人だったからである。

そこで、筆者はMr.Sugarに向かって、彼のしていることは自己矛盾であると述べ、Mr.Sugarがメッセージを語っている集会に行くつもりもない旨を告げた。だが、筆者はこの集会の人々がベック氏について述べたことは、本当であると考えている。そもそもベック氏について作り上げられている美談は、もはや「神話」と呼んで良い類のものであり、額面通りに信ずべき内容ではなかった。

Mr.Sugarは相変わらず、自分がこの集会に残ってメッセージを語り続ければ、人々の目を開かせることができると考え、そうすることに関心があったようだが、筆者は決して、そのようなことが人助けであるとは考えていない。

* * *

さらに最近になると、筆者ははっきりと村上密、唐沢治、杉本徳久の名を挙げながら、反カルト運動は、一見、牧師制度の暴走を許さないための歯止めとして登場して来たように見えるが、根本的には、カルトと同じかそれ以上に、牧師制度の悪を集積して生まれて来た最も危険な運動であると指摘するようになった。

村上密と「随想 吉祥寺の森から」の杉本徳久に見るグノーシス主義者の空虚な自己の本質
(2018年3月30日)

だが、そうした腐敗は、すべてもとを辿れば、グノーシス主義が生む現人神崇拝としての牧師制度へと行き着く。まずは牧師制度が、キリスト教を人間が栄光を受けるための手段に変え、被造物中心の教えに変えてしまうのである。神を信じることにより、堕落した人間に過ぎない牧師が、あたかも神の代理人のように高められ、しかも、他の信徒にまさって、「神の御言葉を取り継ぐ」資格を得たかのように振る舞い、神と人との唯一の仲保者であるキリストになり代わって信徒の心を支配し、金銭的にも肉体的にも、搾取し、自ら栄光を受けるのである。

このような牧師制度は、教会内に偽りのヒエラルキーを作り出し、教会を人間の欲望を叶える手段とし、奴隷としてしまうだけである。

<略>

主イエスは言われた、「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたがたの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われる。」(ルカ16:15)

なぜ人に尊ばれるものが、神に忌み嫌われるのか。それは、人が尊ぶものは、自分の欲望を都合よくかなえてくれそうなものばかりだからである。この世において、人が尊ぶものはすべて人々の欲望の化身なのであって、人はそれを尊ぶことによって、結局、自分自身の欲望を重んじているのである。

今日の教会においても、信徒らは、牧師という目に見える「象徴」の中に、自分の一切の願望を投影する。神の御心にかない、人々の救いのために自分の命を惜しまず注ぎだす、御言葉に忠実で従順かつ理想的な神の僕の姿を見ようとする。

しかし、神の御心にかなう従順で忠実な僕は、キリストお一人しかいないのであるから、目に見える人間の中に、神の忠実な僕を見たいとする信徒らの欲望は、裏切られて終わるだけである。

あれやこれやの牧師が特別な例外として誤りに陥るのではない。牧師制度そのものが、神と人との唯一の仲保者であるキリストの地位を奪い、キリストになり代わろうとするフィクションの制度であって、牧師という職は、それ自体が、人々の心の欲望から作り出された偶像、神話なのである。
 
そこで、信徒が、牧師という目に見える存在に、美化された人間の幻想を重ね合わせ、それを自らの欲望の化身として拝むことをやめなければ、信徒らがこの「フィクション」である牧師を手本に、福音を自分を飾る手段として利用して、幻想の自分を作り出しては、それに耽溺し、虚構の「聖化」や「栄化」の概念に溺れて行くことも終わらないであろう。


* * *

近年になると、筆者は、牧師制度の悪を、グノーシス主義的背景だけから論じるのではなく、信仰回復運動の観点から論じることが多くなった。すなわち、プロテスタントは、カトリックの統一的なヒエラルキーから信者を解放し、聖書を一般に解放したという点では、功績を果たしたが、牧師制度を取ったことにより、その改革が中途半端に終わり、今やプロテスタント自体が新たな信仰回復運動としての聖書の一般へのさらなる解放を妨げる障壁になっていると指摘したのである。

良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶ。」(2019年3月5日)

さらに、プロテスタントには、もう一つの決定的と言える弱点があった。それは、この宗派においても、カトリックほどに厳格な聖職者階級というものはなかったにせよ、まだ、聖書は完全に一般に解放されたとは言えず、依然として、牧師だけが「御言葉を取り次ぐ者」であって、信徒は、牧師の説教を受け身に聞いて、牧師に教えを乞い、教会に献金を納め、牧師一家を支える奉仕者として、牧師よりも実質的に下の階級(被抑圧階級)に置かれ、聖書の御言葉の積極的な理解から排除されていたことである。

 プロテスタントにおける牧師階級は、前述した通り、その発生当初は、人間が自ら聖書の御言葉を解釈して、大胆に証を述べるという意味で、画期的な役割を担い、また、大衆伝道を通して御言葉を全世界に宣べ伝える点で、大きな貢献を果たしたと言えるかも知れないが、その後、福音が全世界に普及し、宣教師たちが命がけで未開・未踏の地に福音を届けるというミッションがほぼ終了して消え去った後では、ただ信徒を搾取し、信徒を聖書の理解から排除し、いつまでも信徒を霊的赤子状態にとどめるという点で、信仰の前進の著しい妨げとなったのである。

 牧師だけが聖書を知的・霊的に理解・咀嚼して、信徒に説教を語り、信徒は牧師から「霊的な乳」を飲ませてもらわなければ、信仰に生きることができない「赤子」にとどめられるというプロテスタントの礼拝スタイルは、今やそのものが、キリスト教の前進の著しい妨げとなって、排除を迫られているというのが現状である。

 いわば、プロテスタントからの新たな宗教改革が必要とされているのが、現代という時代なのである。その改革の核心として、牧師階級から聖書をさらに一般に向けて解放することが、早急な課題として求められていると言えよう。

* * *

<続く>


村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(14)―私たちが正気でないとするなら、神のためであり、正気であるなら、あなたがたのためです。

8.冷静沈着を装うことで、人権侵害を覆い隠し、自分が害を加えた信者を「精神異常」に仕立て上げようとする村上密の反カルト脱会運動の異常な手法

わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。

 わたしはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」(Ⅱコリント5:13-15)

さて、筆者や当ブログをあたかも精神異常の産物であるかのように言いふらし、絶え間なく中傷している牧師たちがいるが、以上の御言葉に照らし合わせても、神のために悪評をこうむることは、かえって名誉なことである。

そして、彼ら牧師たちが、自分たちにとって不都合な言論を行う反対者には、常に「精神異常」のレッテルを貼って、批判を封じ込めようとして来た古典的手法は、今や当ブログ以外の場所でも指摘されるようになっている。非常に良いことである
  
さて、村上密は当ブログの記事が「感情論」であるかのように触れ回るが、それが事実でないことはすでに述べた通りである。

村上密の記事には、巧妙に隠された多くの事実がある。結論から言えば、村上のブログには、村上に都合の良い事実しか書かれておらず、それは偏った情報に基づき、自己宣伝のために作られた、読者をマインドコントロールするための虚構と言っても差し支えないような内容なのだ。

村上の記事には、そこに記されていないコインの裏面のような「もう一つの半面」が存在していることを、読者は行間を読み解くようにして理解する必要がある。それは記事の表向きの文面だけを読んでいては決して分からないため、他者の証言や、他で発表されている情報によって、詳しい事実関係を補っていく必要がある。

このような綿密な裏づけ作業を行わず、ただ書かれている表向きの文面を鵜呑みにして、村上の自画自賛の文章を額面通りに受け取り、彼を賞賛することは、マインドコントロールにかかるのに等しく、大変危険な行為である。

たとえば、村上が今年3月7日に「障がいの解消 」という記事を発表している。この記事の中で、村上は自分の教会を他の教会に先駆ける形で、車椅子の通行の妨げにならないバリアフリーの教会設計にしようと、どのように苦労したかという話を自慢話のごとく記している。そして、「献堂から25年を迎える。リフォームを2回行った。心のバリアフリーは毎日更新していかなければならない課題である。」などと、リフォームの成果をアピールしている。

しかしながら、この記事に書かれていない事実がたくさん存在する。その一つは、村上は以前にバリアフリーの教会を作るために、自ら会堂の設計をしたものの、村上の設計に従って作られた教会の礼拝堂のトイレには、なぜか車椅子が入らなかったことだ。そのせいで、またしても新たにリフォームが必要となったが、そのリフォームの仕事を、村上は強引に自分の身内であり建築関係の仕事を手がけていた義理の息子(娘婿)に回した。そして、義理の息子は実際に教会内のリフォームの仕事を手がけたが、その後、不明な理由で自殺を遂げていること。
 
このような暗い負の側面は、村上の記事には記されていない。だが、このことを知れば、村上は、未だ多くの教会がバリアフリー設計に対応していないと、自教会の先駆的なリフォームを誇るよりも前に、自分が心のバリアを解けなかったがゆえに、身内の心のケアが及ばず、手遅れになってしまった自分自身の冷淡さにまず筆を向けるべきと考えるのは当然ではないだろうか。

次に、今年4月22日の村上の記事「感情的な問いかけを避ける 」にも同様のことが言える。ここで村上は、子供がカルトに入信したから取り戻したいと、親に懇願されて協力する場合に、信者を取り戻すために、まずはカルトに入信している信者の親たちに向かって、子供に対して決して感情的に接しないように呼びかけるとしたものだ。

村上の反カルト脱会運動は、初期の頃は特に、統一教会などの宗教に入信した信者の親たちから脱会への協力を懇願された村上ら牧師たちが、信者を計画的に路上その他の場所で拉致し、車に押し込んでアパートの密室に連れて行き、そこで何カ月間にも渡り、監禁して説得工作を行うものであったことは、前の記事で述べた。

以上の記事は、そうした状況下で、親たちが信者を脱会させるために説得工作に当たる際、決して子供と真正面から喧嘩したり、子供の面目を潰すような議論をすることを避け、同情や共感の言葉を用いて、巧みに子供の内心を引き出すように教えたものである。

それが何を目的とする行為であったのかは、村上の以上の記事にも記されている。

「共感できなくても、共感できないと思わせるより、共感してくれていると思わせる方が、子供の行動や内心を知ることができる。それが、カルトから救出するときの手掛かりになる。動機を知っているかいないか、心理を知っているかいないかでは、カウンセラーの対応に大変役立つのである。対立的なアプローチは関係を悪化させる。何かしら同意できること、共感できることを口にして、関係をつなぎとめておかないと、カルトの思うつぼに家族の状態をしてしまうことになる。大切なのはどうしてと親の感情をぶっつけることではなく、できるだけ子供の気持ちを聞いて知っておくことである。そのことを親が上手に使えなくても、カウンセラーは対話に役立たせ、親子の関係を回復することに役立てることができる。 」

つまり、村上らは「救出カウンセラー」として信者に棄教を迫るに当たり、まずは家族との接触を通して、信者の心の内面・入信の動機などを巧みに探り出し、今後、どういった方向から信者に棄教を迫るのか、綿密な作戦を用意する必要があった。そうした作戦行動に有益となる情報を予め入手するために、村上は信者の家族に、まずは信者とぶつからないで情報を引き出すよう、「非対立的アプローチ」を勧めていたのである。

とはいえ、棄教を目的とした監禁状態における説得工作が長く続くと、束の間やって来るだけの牧師たちとは違い、家族は疲弊して、「非対立的なアプローチ」も壊れ、かえって激しい対立が表面化し、家族関係も破壊され、寸断されることは、前の記事でも確認した通りである。

また、村上の教える「非対立的なアプローチ」は、そもそも村上ら牧師が、カルトから信者を脱会させるという美名の下で、信者への拉致・監禁という人権侵害を手段として用いたことそのものの暴力性を覆い隠すカモフラージュであったことも確かである。

そのことは、統一教会側から、信者の拉致・監禁による脱会に対して抗議するために発表された以下の手記にも記されている。長いが、ここに引用しておく。
 

4 人権を無視した拉致監禁 許せない

静岡在住 M・S

1991年入教5年目、当時広島県福山市で歩んでいた時、他県に住んでいた両親が話す内容に反対牧師につながっているような言動がありました。それから間もなく1991年3月に両親が車で福山に遊びに来ることになり、教会の責任者から注意するよう助言を受けていましたが、拉致監禁に関する情報を詳細に知らなかった私は、「いざ監禁されたら飛び降りてでも逃げてきますから」と半ば軽い気持ちで出かけました。

父親が運転して後部座席に母と私が座りましたが、途中母が「実は今日はお見合いをしてほしいの」と私に話しかけました。私は統一教会での結婚を望んでいたので「お見合いで結婚するつもりは無いから」と断りましたが、母はそのことは分かっているけれど親戚の勧めでどうしても断れないので同席するだけで良いからと言うので仕方なく承諾しました。

連れて行かれたところは入り口がオートロックのワンルームマンションで部屋の中に入るとなぜか従姉が二人おり、布カバーが掛けられた衣装ケースが隅に置かれ、部屋の真ん中にテーブルが一つありました。それを見た途端?しまった、騙された!?とすぐに引き返そうとしましたが、時すでに遅しでドアノブには鎖がぐるぐるに巻かれて南京錠が掛けられ、ベランダ側の窓の鍵も鎖でぐるぐる巻きにしてあり、それを隠すためにリボンが飾られていました。悔しさと腹立たしさとショックとが入り混じった何とも言い難い複雑な心境に陥りました。

すぐさま「ここから出してよ! こんなところにいる場合ではない!」と大声を上げましたが、両親は私の態度に動じることもなく、「これからここで一緒に勉強しよう」と妙に落ち着いた表情で私に言ったのです。その両親のあまりにも落ち着いた態度が変に不気味でした。後から分かったことですが、監禁するノウハウ(向こう側に言わせると監禁ではなく保護)や監禁された人がどういう行動に出てその時どのように対応すべきかは、監禁前に反対牧師や拉致監禁によって離教してしまった元教会員から、徹底して教育されていました。両親はとにかく子供がどのような行動を取ろうと絶対に怒ってはいけないし、冷静な態度で振る舞い、一緒に勉強して行くという姿勢を見せるように言われているのです。そしてもう一つ、これも後に両親から聞いたことですが、私を監禁するために私が乗った車から万が一私が逃げ出した場合すぐに取り押さえられるよう、親戚の男性達が数人乗った後続車が付いてきていたそうです。マンションは飛び降りて逃げられないように3階以上にある部屋と決まっており、私の部屋はたしか4階か5階でした。

その日から私の監禁生活が始まりました。両親は二人とも働いていましたが、この監禁の為に長期休暇を取って臨んでいる様子でした。最初の3日間は牧師は来ませんでしたが、それは牧師に私の状況を密かに報告しながら私が聞く姿勢が整うのを待っていたのだと思います。狭いワンルームに24時間、両親に監視されながらいるのですから、それだけで精神的におかしくなりそうでした。夜中にふと目が覚めても、どちらかが起きていてじーっと私の方を見ていました。玄関の南京錠の鍵はひもを付けて、父がいつも首からぶら下げていました。私が何を言っても「自分たちも勉強したいからここで一緒に勉強しよう」とおうむ返しのように返事が返ってきました。

私は1日目から断食を始めましたが、体力に自信がなかったのでいざという時に逃げられないかもしれないと思い、とにかく心身ともに健康な状態で必ずここから出ようと決意しました。

4日目に入ってようやく牧師が来ました。当時、岡山市庭瀬にあるキリスト教会の高山正治牧師でした。年齢は40代ぐらいに見えました。感情的なタイプでなくとつとつと話す人でした。

聖書と原理講論を比較しながら原理の間違いを指摘、写真や資料を見せながら文先生や文先生のご家庭の批判、教会のスキャンダルなど、毎日毎日聞かされました。それ以外にはテレビや雑誌もなく何の情報も入らないのです。両親は一緒に話を聞いてはいますが、? 一緒に勉強する?というより?いかに私が統一教会が間違いだと理解するか?を伺っているような態度でした。ベランダ側のガラス窓を割って逃げることを考えましたが、両親はずーっと側にいて、何か起これば即対応する姿勢でいたので逃げ出すチャンスがなかなか見つかりません。

何日か経った時、仮病をつかって病院へ連れて行ってもらいそこから逃げることを計画しました。牧師は「仮病を使って逃げる教会員もいるから」と外出を渋りましたが、両親の方が折れ病院へ行くことになりました。私は個人病院ではなく、逃げ出しやすい大病院を指示しそこに両親と妹の三人に付き添われて行きました。

病院の待ち合い室で、三人の監視が手薄になるようにして父と二人だけになった時、私は?今だ!?と走り出して入り口のタクシー乗り場に行き、タクシーに乗りこみましたが、父が必死に追いかけて来たためタクシーの運転手は発車してくれずとうとう父に追いつかれました。しかし、とっさに運転手に?私は監禁されています。私の名前は○○です。連絡先は○○です?と予め準備していた教会の電話番号を書いたメモ紙を渡しました。

治療中も医者やそこら中の人達に聞こえるよう「私は監禁されています。助けて下さい!」と叫び続けましたが、病院ということもあり周囲から精神異常者のように見られ、誰も取り合ってくれませんでした。治療後、病院の事務局の人が「ただごとではなさそうなので警察を呼びました。こちらの部屋で話をして下さい」と地下の部屋に通されました。そこには背広姿の刑事が二人おり、両親とひそひそと立ち話をした後、私と話をしたのです。私は本当の刑事かどうかを確かめるため警察手帳を見せてもらいました。「とにかく私は監禁されています」と、警官に訴えましたが、「親が一緒にいて何が監禁だ! あんたが家を空けた数年分、今度は家にいろ!」と逆に刑事に怒鳴られたのです。警察は事情がすべて分かった上でこのような態度を取っていると分かると、私は唖然としました。

結局、再び監禁場所に戻されることになり本当にショックでした。ですが、両親のその時の対応は反対牧師からの教育を受けているため、冷静沈着で何事もなかったかのように次の日からも監禁生活が続いていきました。「黙って勉強しろ」とか、決して感情的に声を張り上げたり手を出したりすることがないようにと、徹底した教育をされていました。

それから約1か月、牧師と両親と私との勉強会が続きました。

他の誰ともコンタクトが取れない閉鎖された空間で毎日毎日、教会の批判を聞かされ、私は精神的に混沌としはじめ、教会に戻っても信仰を続けていけないという状況にまで陥りました。ある日「私は統一教会を脱会します」と牧師と両親の前で意思表示しました。「なぜそう思うのか。話の内容のどこでそう思ったのか」と尋ねられましたが詳細は話しませんでした。高山牧師は、「偽装脱会をする人もいますから」と半信半疑で「村上先生に会ってもらう」と京都から村上密牧師が呼ばれました。村上牧師は、私が本当に統一教会が間違いであることを理解して脱会しようとしているのかを見極めるために、二度訪ねて来ました。?もう大丈夫だろう?と監禁場所から解放される許可が出たので、私は福山教会に脱会の意志を書いた手紙を郵送し、それから荷物を福山教会に取りに行きたいと希望しましたが、「統一教会は本当に恐ろしいところで、いったん辞めると何をされるかわからないから、二度と行かない方がいいし誰とも会わないように」と説得されました。後日東京から和賀真也牧師も会いに来ました。

私が監禁された当時から、拉致監禁によりすでに離教した姉妹たちが監禁場所へ訪ねて来ていました。それは、私が脱会してからは私の脱会意志が本物であり統一教会への未練がないかどうかを探る目的もあって毎晩のようにやって来たのです。本当に統一教会に未練がないのかどうかという心の動きは、牧師ではなく離教したメンバーが一番良く分かるからです。統一教会は飲酒はしませんが、?脱会したからもう禁酒しなくてもいいのよ?という親しみの情なのか、私の脱会の意思を確かめるためなのかは分かりませんが、敢えて缶チューハイを持って来られたこともありました。

私はその後、聖書を学び直してみようという思いから、そのワンルームマンションに少しの期間だけ一人で滞在させてほしいと、両親に願い出ました。また、高山牧師の教会に通い聖書を勉強し、主日礼拝にも何度か足を運びました。しかし、統一教会で学んだ以上に私の心を動かすものはありませんでした。主日礼拝には「これから何を信じてどのように生きていけば良いのか分からない」と生きる指針を失い、とりあえずの身の置き所として来ているような離教した数名の人達も通っていました。

高山牧師の教会の看板には「統一教会、エホバなどの異端問題の相談を受け付けています」と書いてありました。礼拝後は別室に通されました。そこには統一教会から離れたメンバー数人の他に、統一教会に子供が通っていることが分かりどうしたらよいか、と相談に来ている親御さんたちが数名いました。その時、「統一教会との関係を断つ環境で、時間をかけて説得するしか子供さんは統一教会から離れることはないですよ」という話になり、親御さんの一人が「それにはどうしたらよいのでしょうか」と深刻に尋ねると、「それは私の口からは言えないので」と高山牧師は具体的な監禁の話には決して口を挟まず、元メンバー達に誘導させていました。そこからは具体的にどうしたら良いという話に進んでいき「統一教会は反社会的団体なので、絶対に子供さんを活動に加担させてはいけない」と父兄は吹き込まれ、徐々に、監禁までしなければ子供を取り戻せないという話しになっていきました。

ある時、高山牧師から「統一教会に今まで献金したり、物品を購入したりしたことがあれば弁護士を紹介するから、統一教会に経済的ダメージを与えて早くつぶすためにも全額を返済してもらったらいい」とも言われました。

私は約1か月の間、精神的に整理をしながら両親に気づかれないように統一教会へ戻る準備をしていました。この期間にも離教した姉妹の手記や和賀真也牧師の教会批判の本など沢山持って来られ、全て目を通しました。しかし、私の中にある統一教会への信仰の核心的な部分は何をもってしても覆されませんでした。そして両親に置き手紙を書いて統一教会へ戻りました。祈祷室には私の似顔絵が描かれた色紙が立て掛けられていて、兄弟姉妹達が私のために毎日どれほど祈ってくれていたかを実感しました。

それでもそれから1年間は、再び捕まるのではないかという恐怖心に苛まれ、精神的に地獄のような日々が続きました。

道を歩いていても、前方に測道沿いに停車している車があると、その車から人がバッと降りきて連れて行かれるのではないか、また道のどこからか人が出てきて車に乗せられるのではないかなど、いつも恐怖心が付きまとい、外に出るときはサングラスをかけて歩いていました。あの堪え難い環境に再び置かれるかもしれない、という恐怖と監禁によって受けた心の傷がなかなか拭えませんでした。

愛情が動機となり批判的な情報のみ聞かされ、監禁までせざるを得なかった両親に対しては恨む気持ちはありません。今は結婚して子供二人にも恵まれている私たちに、普通の家族同様に接してくれる両親には感謝しています。しかしながら、信仰を真っ向から否定し、人権を無視した拉致監禁という行動自体は絶対にあってはならないことだと思っています。



この手記を読むと、村上ら反カルト脱会活動を率いていた牧師たちは、表向きには拉致・監禁に直接、関わっていないように見せかけながらも、脱会者の信者らを通じて、巧みに信者の親たちに、拉致・監禁以外に方法はないのだと思い込ませる説得教育を行い、子供を棄教に至らせるまでに、どのように働きかけ、振る舞うべきかを徹底教育していた様子が分かる。

まず、拉致・監禁という形で身柄を拘束された信者は、当然ながら、取り乱し、感情的になり、尋常でない反応を示す。だが、親たちはそのような反応に対して、決して振り回されることがないよう、不気味なほど冷静沈着に対応するよう徹底教育が施されていた様子が記されている。

たとえば・・・
 
・拉致・監禁された信者が、密室に閉じ込められて、すぐさま「ここから出してよ! こんなところにいる場合ではない!」と大声をあげたが、両親は全く動じることなく、「これからここで一緒に勉強しよう」と、奇妙なほどに落ち着いた表情で言ったこと。

・信者は両親のあまりにも落ち着いた態度を不気味さを感じたが、後で、監禁後に信者がどういう反応を示すか、それに親はどう反応しなければならないか、事前に牧師たちや元信者から親に徹底教育が施されていたと分かったこと。

・そのノウハウとして、牧師たちは「
両親はとにかく子供がどのような行動を取ろうと絶対に怒ってはいけないし、冷静な態度で振る舞い、一緒に勉強して行くという姿勢を見せるように」
と親たちに指示していたこと。

これはまさに村上が記事に書いている「感情的な問いかけを避ける」というテクニックだ。

だが、その真の目的は、感情的な対立を避けることにはなかった。むしろ、村上ら牧師たちが、自分たちこそ人権侵害に当たる暴力を行使していながら、その事実が世間に知れることがないよう、かえって被害を受けている信者たちを悪者・精神異常者に仕立て上げるための巧妙な心理作戦だったのである。
 
このノウハウは、監禁の最中だけでなく、信者が脱走して、世間や警察に助けを求めた時にも発揮された。

・病院へ連れて行かれた信者は、ようやく外界と接触できたので、何とかして自分が監禁されていることを告げて人々に助けを求めようと、治療中も医者や周囲の人々に「私は監禁されています。助けて下さい!」と叫び、訴えたが、かえって「周囲から精神異常者のように見られ、誰も取り合ってくれませんでした。」と述べる。

つまり、人権侵害を受けている信者が取り乱せば取り乱すほど逆効果になって、彼らが精神異常者のように見られるよう、計算づくで、牧師や親たちが極めて冷静沈着に振る舞っていたのである。

そして、脱走事件があった後でも、親たちは全く何事もなかったかのように動揺を見せず、信者を叱りつけることもなく、監禁生活を続けたのである。

「冷静沈着で何事もなかったかのように次の日からも監禁生活が続いていきました。「黙って勉強しろ」とか、決して感情的に声を張り上げたり手を出したりすることがないようにと、徹底した教育をされていました。」

以上の手記では、信者に統一教会の信仰を棄教させることにほぼ成功したと思われる最後の段階になって村上密が登場した様子が分かる。

村上は、一連の人権侵害が行われている最中には現場に姿を見せず、信者が「転向」して、もはや牧師らを訴える側に回ることはないと信じられる最後の段階になって、まるですべてが自分の手柄であることを確認するためであるかのように、「救出カウンセラー」として姿を現したのである。

村上は別の記事で、自分は今まで告訴されたこともなければ、訴えられたこともない、と書いていた。だが、それは裏を返せば、いかに自分が人権侵害の矢面に立って訴えられることがないよう、慎重な配慮を払って来たかを意味する。

そこで、現に筆者が一審で村上を訴えた際にも、村上の確たる不法行為の証拠が、筆者の手元にあったわけではない(だからこそ、一審判決は村上に有利な結果となっている)。

だが、一審は少なくとも、村上の代理人か、もしくは手足のようになって動く人間を、村上から剥ぎ取るためには効果を発揮したと言えよう。

杉本徳久が口を封じられたことにより、その後、村上密が筆者に直接の批判を始め、人格権侵害や、名誉毀損に相当する記事を書き始め、ようやく村上自身が権利侵害を行った証拠が手に入ったのである。

こうした状況下で、村上が「感情的な問いかけを避ける 」という記事を発表していることには意味がある。

村上が筆者の記事を「感情論」であると決めつけていることから分かるのは、村上が、カルト信者に対してアプローチして来たのと同じ方法を使って、筆者にアプローチしていることである。

村上は筆者に対して様々な人権侵害に及び、筆者がそれに憤りを表明すると、筆者の怒りや混乱を、傲然と上から見下ろすように、不気味なほどの冷静沈着な態度を取る。

このように振る舞うことで、彼は人権侵害を行う自分自身があたかも「正常」であって、それに憤る信者(筆者)が「精神異常」であるかのように、読者に印象付けようとしているのである。むろん、現在、唐沢治や坂井能大のしていることも、同様である。

(また、筆者が「監視されているように感じる」と表明すると、彼らがこれを常に躍起になって否定しようとする反応にも注意が必要である。)

* * *

9.聖書の神に逆らい、御言葉に逆らうカルト被害者救済活動からのエクソダス


筆者は第一審の書面の準備をするに当たり、村上密の人物像やその活動の真相に迫るため、複数のカルト被害者に接触してインタビューを試みた。

筆者は2008年に村上の教会を離れ、以後、直接、彼を見たことがなく、村上の教会で起きている出来事も、詳しく知らなかったためである。
 
こうして接触した中には、実名は明かせないが、情報だけは提供して構わないという信者もいた。村上密に対しては、ここ10年ほどの間に、カルト被害者の中でも、相当な不信感が広がり、村上が自分に不都合な事実が表ざたにならないために、いかに信徒に箝口令を敷いており、批判者がバッシング対象とされているか、語ってくれた信者もいた。

要するに、誰か信徒が村上にとって不都合な事実を口にする度に、村上が「名誉毀損だ!」と語気を荒げるので、面倒な事態に巻き込まれることを恐れて、信者は誰も彼を批判しなくなり、それゆえ、村上に不都合な事実が表ざたにならないだけで、水面下では、相当に多くの批判があり、困った事態が進行していることを教えてくれたのである。

この証言は、当ブログの記述を巡って、村上がどのような反応を示したかを見ても、嘘ではないと理解できよう。

たとえば、2009年に、甲師の物語を発表した際、筆者はこの物語が、村上をモデルにしたものだとは、どこにも書かなかった。にも関わらず、村上はこれを筆者が村上を揶揄・嘲笑する目的で「創作」したものであるかのようにみなし、早速、ブログ記事で筆者を非難して来た。

だが、実際には、甲師とは、創作上の人物であるから、村上一人だけをモデルとして作られたわけではない。筆者は、この人物に、少なくとも二人以上の実際に出会った牧師から得られたイメージを投影している。

甲師の中には、庶民的で親しみやすく、信者の相談に乗るために全国各地を飛び回るフットワークの軽い反カルト運動の活動家としての牧師の像と、学者然と知識を積み上げ、上から尊大に構えて高圧的に信徒を指導し、教団内での立身出世を虎視眈々と狙う牧師の像と、2種類の人物像が混在している。

また、山小屋教会といった呼び名や、若い独身の牧師、寺の住職、般若心経、ユビキタス・ネットワークなどは、当時、筆者が暮らしていた環境からヒントを得て作り出されたイメージである。

筆者は当時、敬虔なキリスト教の信仰を持ち続け、神を追い求め、キリスト教徒である兄弟姉妹との交わりを熱心に探し求めていたが、同時に、東洋思想の書籍が山と積まれている書斎の只中で暮らし、この思想とは何なのかという疑問を持ち、禅の関係の書物などにも目を通していた。インターネットの歴史も浅かったので、これがどう発展して行くかについても、未知数の部分があった。

そこで、おそらく、現在、この物語をもう一度、作り直すとすれば、このようなプロットにはしないであろうと思う。まず、東洋思想とキリスト教を併存させることができるかのような結論は決して提示しない。この二つの思想は、合体不可能であることが分かっているためだ。次に、甲師を生かし、若者を殉教させるなどといった結末にもしなかったものと思う。

さらに、当時、筆者が甲師、乙教会、丙教会などと、呼び名に十干を用いたのは、裁判における書証の番号の付け方をもじったのであるが、ご存じの通り、甲号証は、原告が使用し、被告の書証は大抵、乙号証となるから、甲師を霊的文脈において被告としておくためには、甲師と呼ばず、乙師にしておくべきとしたかも知れない。

そんな風に、この物語は、創作としても、世界観としても、当時の筆者の限界、未熟さを多分に反映しているとはいえ、この作品は、もともと創作が目的ではなく、反カルト運動の中に込められた反聖書性、異端性、非人間性、人権侵害、そして、何よりもこの運動が、神を信じるすべての信者に対する抑圧を目指す、神に対する冒涜的で、反逆的な運動であるという本質を明らかにすることを目的としていたので、その目的は、少なくとも、この作品の発表と同時に果たされたと言えよう。

そういうわけで、この作品は、村上の人物像を描写するために作られたものではなく、反カルト運動の非聖書的な本質を明らかにするためにこそ、作られたものなのである。村上密という人物は、反カルト運動を率いる最も成功した著名な指導者として知られているだけのことであって、実際に、村上以外の幾人もの牧師たちが、この運動に携わった。

さて、このように、カルト被害者たちは筆者の裁判のために情報提供してくれたが、不思議なことに、判決言い渡しの直前、掲示板で当ブログに対するひどい権利侵害が繰り返されるようになった頃から、100%、当ブログ執筆者の裁判から距離を置いたのであった。

ついに判決言い渡しがなされると、応援したいと言ってくれていた信者からさえ、連絡は途絶えた。

筆者は当初、それは筆者が半分しか勝訴しなかったことの悪影響であると考えていた。信者らはそれほど村上を恐れ、きっと報復があるだろうと考えて沈黙せざるを得ない状況に陥ったのだろうと。掲示板で起きている集団リンチに巻き込まれることをよほど恐怖したのかも知れないと。

だとすれば、なおさらのこと、二審では勝利をおさめなければならない、そして、この恐怖から彼らを解放するきっかけを作らなければならない、と筆者は考えた。

ところが、実態はそんなことではなかったらしい様子が、次第に分かり始めたのである。むしろ、カルト被害者は、筆者が部分的であっても、勝利をおさめたからこそ、この裁判を応援する態度を捨てたのではないか、ということがうすうす分かって来た。

それが分かったとき、筆者はカルト被害者たちに対して持っていた甘い期待を捨てて、筆者はカルト被害者救済活動そのものを、真に憎むべきものとして、これを永遠に離れ去らねばならないという決意を新たにせざるを得なかった

次の記事では、筆者が2009年にこの運動から離れ去ることを目的に、杉本徳久に送ったメールを提示するが、筆者はこうしたメールを杉本に送って、被害者運動とは訣別したいという意思表示を行う前から、筆者とカルト被害者との間には、決して超えることのできない溝があることを知っていた。

その溝が初めて確認されたのは、2008年に筆者が村上の教会を訪れた際のことである。

この時、筆者は他教会で起きたトラブルについて相談するために、数ヶ月間、村上の教会を訪れていた。しかし、村上は当時から、訴訟(と効果のないカウンセリング)以外には、何ら問題解決の手段を提示せず、筆者の相談は訴訟になじまず、事件化できないという結論が出たので、筆者は何の解決も得られないまま、村上の教会を去るしかなかった。

その頃、村上の周囲では複数のカルト被害者の裁判が進行中であった。中には、マスコミに注目された大がかりな裁判もあれば、誰にも注目されず、弁護士事務所で最後の順番を待つだけであった小さな事件もある。

筆者は村上の教会にいる間に、実際に裁判を起こした被害者信者らから直接、話を聞いたが、そうして事情を聞いているときにも、自分の相談事が、事件にするための最初の入り口の門さえ通過しなかったことに、深い悲しみを覚えざるを得なかった。

マスコミに取り上げられ、集団で記者会見などしている被害者の裁判が、まるで脱カルト運動の最大の成功事例のように語られていただけに、余計に、彼らと筆者との間には、目に見えない壁があるように感じずにいられなかったのである。

むろん、現在ならば、筆者は自分の問題に、違った形で解決手段を見つけることができるであろう。本人訴訟を起こすことも可能であろうし、その他にも、別な解決手段を見つけられるかも知れない。

だが、その当時、筆者には自ら訴訟を起こせるだけの知識も力もなく、何より、すべての問題をただ神の御許に持って行き、主のみに解決を仰ぐという信仰の姿勢が出来上がっていなかった。そこで、専門家や弁護士を頼り、数々の助言を得ようと、識者や信者のもとを訪ね、方法論を模索しようとしていたが、そもそも神以外のものを頼ろうとするその当時の筆者の態度では、仮に訴訟を起こしたところで、いかなる勝利もおさめられないで終わったろうことは明白である。

そういうわけで、筆者は2008年にほとんど絶望感と言っても良い失望を覚えつつ、村上の教会を離れ、それからしばらくの間、カルト被害者救済活動とは何なのか、神はなぜ筆者が訴訟を起こすことをお許しにならなかったのか、そこにどんな深い意味が込められているのか、理由を思いめぐらした。

長い間、筆者は教会の問題を司法の場に持ち出し、訴訟によって解決するという手段自体が、望ましくないものであればこそ、神は筆者を裁判から遠ざけられたのだと考えていた。

だが、今考えてみると、おそらく、問題の本質はそのようなところにあるのではなかったものと思う。要するに、神が筆者について、問題とされていたのは、筆者が誰の被害を訴えるために、訴訟を提起しようとしているのか、という点であったと見られる。

すなわち、クリスチャンは誰のために生きているのか、という問題がそこに横たわっていたのである。私たちは、自己の被害を訴え、自分の権利を回復し、自分が慰めを得ることを目的として生きているのか、それとも、神の被害を訴え、教会の権利を回復し、主の御名に栄光を帰することを目的として生きているのか。

この問題について、態度がはっきりしないうちに、訴訟を世に提起することには、重大な危険が伴い、神はまずその問題を熟考するよう筆者に促されたのである。

その結果として、それから何年も経って、当時は全く思いがけなかったことに、筆者はその頃、トラブル相談をしていた関係者ではなく、何と反カルト運動を率いていた村上密本人に対して、訴訟を起こすことになった。

そこで、当時から10年ほども経って、幾人かのカルト被害者に連絡を取って見たところ、すでに述べた通り、村上に大いなる疑問を持っている人たちは、かなりの数、増えていることが分かった。

そこで、筆者が事情を話すと、情報提供を試みてくれた人たちがいたのだが、筆者が一審で杉本に勝訴したとき、その関係がぴたりとやんでしまった。

筆者が部分的にでも勝訴したことを、共に喜んでくれたカルト被害者は一人としておらず、協力的だった人までが、完全に態度を翻したのである。

かつては彼らの起こした訴訟が、筆者と彼らとの間を隔てたが、今度は筆者の訴訟が、彼らと筆者とを永久に分断する壁となったのであった。

ちなみに、なぜこのようなことが起きたのかを考える際、カルト被害者の中で、訴訟に勝って賠償金を受け取った者たちは、ごく一部でしかない、ということを考慮する必要があるだろう。

多くの相談事が、当時の筆者と同じように、事件にもならない、取るに足りないものとして、闇に葬られるか、もしくは、運よく訴訟に出来ても、勝訴にも至らず、何の見返りもないまま、むなしく終わって行ったのである。

村上が勧めていた裁判という手段を通して、自己の訴えをきちんと世に認めてもらい、さらに多額の賠償金を勝ち取った例など、村上のもとに相談を持ち込んだ被害者全体の、ほんのごく一部でしかない。マスコミの注目を浴びて集団記者会見などした事例は、村上の活動を派手に宣伝するのに役立ちはしたが、相談全体の1割にもならないことであろう。

それ以外の事件では、被害者は結局、勝利と言えるものを何一つ手にできないまま、時間と労力を無駄に費やし、判決においても敗北を噛みしめ、あるいは、判決にも至らない中途半端な和解に応じたために、訴えた宗教指導者に解決金も支払わないまま逃亡されたりして、やるせなさを噛みしめながら、それでも「裁判の結果と霊的現実は違う」などという言葉で、何とか自分をごまかし、悔しさを心に抱えて生き続けて来たのである。

そのようなわけで、カルト被害者の一部は、筆者を助けてくれようとはしたものの、それはあくまで同情に基づく行為であって、おそらくは、筆者が部分的であっても勝利するなど、誰も考えていなかったのではないかと見られる。

ただ、ヴィオロンさんは、自分たちと同じようにあまりに可哀想で、追い詰められているように見えるから、見捨てておくに忍びず、手を差し伸べずにいられなかった・・・というだけのことで、まさかその可哀想な人であるはずのヴィオロンが、本当に奴隷の縄目を断ち切って、自由になるなど思ってもみなかった、というのが本音ではないだろうか。

筆者は彼らの目から見て助けの手を差し伸べてあげたい「可哀想な人」に見えたのかも知れないが、第一審を最後まで戦い抜いて、たとえ完全でなくとも筆者が勝利をおさめた時に、筆者はもはや彼らの目に「可哀想な人」ではなくなり、それと同時に、彼らと筆者との間には、永久に取り払うことのできない壁が出来たのである。

この時、初めてカルト被害者たちの本心が、はっきりと露呈したのだとも言えよう。筆者が自分の事件は訴訟にならないと、遠くから被害者たちの姿を眺めていたときには分からなかった彼らの本心が、はっきりと確かめられたように思う。

その壁は極めて強固なものであった。中には、少しでも成果が出たことを喜ばないどころか、手のひらを返したように、冷たい言葉で筆者を責め始めた者さえいた。「ヴィオロンさん、あなたは学歴もあって、知識もあるから、私たちとは違う」というわけだ。そして、筆者が訴訟を起こした行為を責め、さらに、筆者に判決を自主的に放棄するようにまで求めた。

筆者は驚いて「あなたは判決を支持しないんですか?」と問い尋ねると、判決と事実は違う、裁判所の決定は、現実とは異なる、という返答が返って来た。

「でも、あなたたちも訴訟を起こしたんじゃありませんか? どうして私の裁判だけ否定するんです?」と尋ねても、敗訴に終わった自分たちの訴訟に誤りはなかったが、部分的勝訴に終わった筆者の訴訟は間違っている、という、筋の通らない言い分以外には、返って来る返答もない。

そして、ついに最後は声を荒げて、自分たちは何があっても、筆者に負けた人間を永遠に支持する、という発言があったので、筆者はこのような考えは、もはや彼ら自身がカルト牧師の悪行として告発しているマインドコントロール同然ではないかと感じた。

むろん、彼らは別に村上や杉本から何らの支援を受けたわけでもない。ただ一時、彼らの活動を通して心の慰めを受けたというだけだ。しかも、村上や杉本のおかげで、訴訟を有利に戦って、勝利をおさめたわけでもない。それなのに、ただ一時、心の慰めを受けたというだけのことで、これからも彼らを永遠に支持すると宣言し、筆者の手にした判決を全面否定するとは、一体、どこからそんな考えが生まれて来るのだろう?

やんわりそのおかしさを指摘すると、「あなたからのカウンセリングなど受けるつもりはない、放っておいてくれ」と言いたげな冷淡な言葉が返って来た。

やれやれ、という印象であった。一審判決が言い渡される前に接触したときとは、天と地ほどの変わりようである。以前には、間違っても、被害者の中には、そのような態度を取る者はなかった。しかも、彼らは相当に村上に対しても、懐疑的な態度を表明していたのである。なのに、判決が下されると、こんなにまで変わるとは・・・。

筆者は、このような反応を見つつも、カルト被害者という人々は、要するに「可哀想」に見える人間に対しては、いたく同情するものの、「可哀想」に見えない人間には、非常に残酷で、容赦なく、他人の勝利や解放を、決して心から共に喜ぶことができない人たちなのだ、と考えざるを得なかった。

筆者が見ていた彼らの優しさ、同情、善良さは、筆者が彼らと同じように「可哀想な人」であるうちにしか、決して提供を受けられることのないものだったのである。
 
そこで、筆者は、このような人たちに、裁判の成果を少しでも分かち合ってもらおうと考えたこと自体が、根本的な誤りだったのだと、ようやく気づいた。

彼らと筆者とが裁判を起こす目的は、根本的に異なっている。そうである以上、成果だけを共に分かち合うことなど、できるはずもないのだ。

この10年間の月日が、彼らと筆者との歩みを隔ててしまった。彼らは反カルト運動に接近し、いち早く裁判を起こし、カルト化している教会が、どんなに人を傷つける恐ろしい場所になっているかを世に訴えて、世に助けを求めようとした。

だが、筆者は、信仰によって、ただ生まれながらの人間の利益が傷つけられたというだけでは、それは神の目には何らの「被害」ともならず、私たちは、御名によって呼ばれる民である以上、まず神の権益をこそ、最重要の利益と考え、自分の被害ではなく、神の被害をこそ訴えるべきという考えに立ち、自分自身のための裁判をあきらめ、この訴訟を、教会を告発するためにではなく、むしろ、教会を告発する人々を告発して、教会を彼らの恐怖による支配から奪還するために、提起したのである。

 「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。

 わたしはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」(Ⅱコリント5:13-15)

もちろん、司法の争いは、信仰に関する事柄を争点とするものではないから、筆者が今述べていることは、訴訟の隠れたプロットでしかない。訴訟として取り上げられるためには、権利侵害という名目がなければならない。だが、筆者に対する人権侵害は、神の教会の権益が侵害されていることを訴えるための口実でしかない。筆者にとって、この訴訟は、筆者個人の権利の回復のための戦いではないのだ。

だが、カルト被害者にとっての訴訟とは、そういうものではない。彼らにとって大事なのは、自分自身が教会によって傷つけられた「可哀想な人」の立場にあることを公に認めてもらい、被害の認定を得て、何よりも、教会のカルト化という問題を、生きている限り、世に訴え続けることにある。

筆者はこの点こそ、反カルト運動の最も悪質な本質を表すものだと考えている。彼らは断じて、受けた被害から脱出するために、裁判を起こしているのではない。生きている限り、自分の受けた被害を永遠のものとして世に訴え、それによって教会を告発するために、裁判を起こしているのである。

だから、彼らは勝とうが負けようが、ほとんど変わりない結論にたどり着く。勝てば「自分たちの主張する被害が認定されて、教会による加害行為が認められた」と言って、その後も、いついつまでも受けた被害を記念する会合を持ち続け、勝訴によって与えられるはずの自由と解放を退け、神の約束して下さった完全を退ける。負ければ、「裁判と現実は違う」などの言葉で自分をごまかし、受けた判決から目を背けつつ、自分たちの被害に寄り添ってくれた人々を神格化する。

勝とうが負けようが、彼らはただ自分の心の慰めのために裁判を起こしているのであって、しかも、教会を告発してまで、自分を永久に被害者の立場に置き続けることが、彼らの目的なのである。要するに、生まれながらの人間の被害を口実に、神の教会を罪に定めるために活動している、それがカルト被害者なのだ、ということが分かって来たのである。

だからこそ、彼らは自分たちに同情してくれる支援者を、生きている限り、手放すことができない。彼らは、裁判に勝つことが目的なのではなく、神によって力強く解放されることが目的でもなく、いついつまでも教会で受けた被害から立ち上がれない可哀想な人として、同情し、憐れんでもらい、寄り添ってもらい、慰めてもらうことを目的に生きているのだ。

だから、彼らは誰かが自分たちと同じような苦しみや束縛の中でもがいている間は、気前よく手を差し伸べてくれるが、いざその人間が、その束縛から本気で抜け出し、自由になろうとし始めるとき、激しい拒否反応を示す。

それは、カルト被害者運動そのものが、人をいついつまでも永久に被害の中に閉じ込め、神が信仰によって用意しておられる自由と完全に至り着かせず、人を苦しみから永遠に解放しない運動であるためである。

本当は、教会こそ(見かけはどうあれ、その本来的な霊的な本質においては)、神が信仰によってこの世の罪と穢れから贖い出され、サタンの支配下から解放し、キリストの似姿になるまでに自由にし、完全にして下さった人々の集まりであるはずなのに、この人々は、半永久的に教会から受けた被害を訴え続けることによって、教会における自由を否定し、福音を否定し、神の贖いそのものに敵対している・・・。

彼らは自分たちを被害者意識の監獄から自由できるキリストを崇めず、彼らを永遠に被害者という檻の中に閉じ込める人々を誉め讃え、死ぬまで囚人の名札を首からぶら下げて生きることに自ら同意している。そして、不自由な監獄の中で、屈辱的な配給を回して来るだけの人間に過ぎない刑吏や、看守を、何か神々しい存在であるかのように崇め奉っている。

だから、筆者のような誰かが、自由の判決を手にして、彼らのいる監獄を出て行こうとすると、裏切り者だ、あなたの行動はこの囚人村に分裂をもたらし、他の囚人たちを辱め、悲しみをもたらした・・などと言って、筆者を非難し、筆者がいついつまでも彼らと同じように「可哀想な人」であり続けるために、何か月間もの苦労を払って勝ち取った判決を自主的に放棄するよう呼びかけるのである。

何と恐ろしい運動であろうか。こんな運動に接触している限り、誰も永遠に自由にはなれないのは当然だ。それが分かった時、筆者はかつて2009年に決意したときと同様、この腐敗した運動からは、永遠に手を切るしかない、と思った。

ちなみに、第一審では、信者の中に、客観的な証拠を揃えて、実名で証言する勇気を示した者は一人もなかったため、筆者は彼らから有益な情報を得ることはできたとは思うが、訴訟において有利になるような具体的な支援を受けたわけでもなければ、借りがあるわけでもないと思っている。

そして、神はユニークな方であり、こうした出来事があった代わりに、また別な人々を送って下さった。気づくと、切り払われた枝のあった場所には、新しい枝が丁寧に接ぎ木され、新しい芽が顔を出している。

まるで船の反対側に網を降ろしなさい、と言われたような気分である。

繰り返すが、筆者は間違っても、「可哀想な人」として同情を受け、憐れみの手を差し伸べられるために、民事で戦っているわけではない。主にあって、勝利と自由と解放を勝ち取り、被害者性を塵芥のように払い落として、キリストにある完全で新しい人のステータスを名実ともに勝ち取るために、前進しているだけである。

従って、筆者は、カルト被害者が起こした訴訟とは、自分が根本的に異なる目的へ向かっていると考えざるを得ないし、それだからこそ、今までもそうだが、これからも決して、彼らと筆者の道が真に重なることは、きっとあるまいと思うのだ・・・。

そのことがいみじくも一審判決によって明らかになったのであり、また、それだからこそ、筆者の告発は、教会へは向かわず、むしろ、反カルト運動の陣営へと向けられたのである。
 
「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として”霊”を与えてくださったのです。」(Ⅱコリント5:4-5)
   
  だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」(Ⅱコリント5:17-18)
 
* * *

<続く>


ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)

当ブログでは好んで引用する聖句だが、今週も大きな収穫があったので報告しておきたい。 
 
膠着状態にあった事件が急ピッチで進み始め、新たな組織態勢が組まれた。このブログを開設したばかりの頃のように、非常に清浄な空気が周りにあることを感じる。

この出来事については、事件の関係であまり詳しく書けないが、準備作業が着々と進んでいるので、遠からず、どんでん返しが起きるであろうと言っておきたい。

こうなるまで、かなりの時間と労力を要したが、あきらめずに主張しただけの甲斐はあった。このブログ記事の結論を述べると、悪魔から来た重荷は一刻も早く悪魔に返しなさい、という一言に尽きる。

たとえば、当ブログを中傷する記事を約10年近くもネットに掲載し、その記事の削除と引き換えに、当ブログ記事の削除を求めていたアッセンブリーズ・オブ ・ゴッド教団の村上密牧師が、少し前、裁判を通じて事実上の降伏宣言を出した。 

村上の準備書面には、「裁判では和解が勧められる。まだ勧められてはいないが、一刻も早い紛争解決を望むので、原告に対する2つの記事を削除することにする。」と記されている(準備書面2頁)。
 
村上は、裁判開始当初、当ブログ記事の削除を要求していたが、具体的なURLや権利侵害の事実を挙げることさえせず、それらを立証するよう求められた結果、自らの要求をさっさとあきらめ、和解を目指して自ら問題となる記事を取り下げると宣言したのである。

だが、まさかこれが真に「和解」を目指した主張であるとは誰も理解しないであろうし、そんな和解が評価に値することはなく、実にみっともないことである。

なぜみっともないのか? 自分が主張した事実をきちんと最後まで論証して闘う努力をはらわず、論証できないからと言って、「和解」という綺麗事を理由に、論争から逃げようとすること自体がみっともないのである。

筆者はてっきり、村上は、鳴尾教会に教団を使ってしかけた裁判の時と同じように、最高裁まで争うつもりだろうと考えていたので、記事の取り下げは意外かつ拍子抜けであった。しかも、かつてはかなり有名だった牧師が、弁護士も雇わず、人を馬鹿にした二枚程度の準備書面で、自分の主張をあっさり撤回したのである(準備書面は真実、2枚しかない)。教団を大いに利用できる時には、弁護士もつけるが、自分個人の争いでは、極力費用と労力を惜しみたいという思惑が透けて見える。信徒相手だから、ろくに答弁もしなくても良いと思っているのかも知れない。しかも、自分の書いた記事が虚偽であることさえ認めず、それにも関わらず、記事を取り下げるという自己矛盾ぶりである。

このことから、村上牧師の人間性を読者は十分に観察することができるであろう。当ブログでは、信仰に基づいて主張したことは、命をかけて証明せねばならないということを繰り返し書いて来た。殉教者たちは死に至るまで「キリストの復活の証人」だったのである。

ところが、村上牧師のような人々は、自分のブログでは大風呂敷を広げて、次々と「怪しい」とみなした牧師や信徒を非難断罪するものの、いざ裁判で、自らのブログ記事の証拠を求められると、あっさりと記事の撤回に応じる。何という情けない、無責任ではた迷惑かつ一貫性のない行動だろうかと思わずにいられない。
 
すぐに諦めるくらいなら、初めから正義感ぶって、他者をカルト扱いしたり、無責任呼ばわりするような嘘を記事に書いたりして、挑発行為に出なければよかったのである。 裁判においても、当ブログの記事の削除など、初めから要求しなければよかったのである。費用の計算もせずに家を建てかけて途中でやめれば、笑い者になるだけだという聖書のことば通り、できもしないことは初めから要求すべきではないのだ。そのことがこの人々にはどうしても分からないようだ。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団には、この手の人騒がせな信者らが、数えきれないほどに存在していることは、幾度も繰り返し述べて来た通りである。筆者はこれは「霊的な」現象であると考えており、彼らが「聖霊のバプテスマ」と称して受けた「霊」が、この人々にこのような無責任かつ奔放な行動をさせているのだと理解している。

彼らは根拠もない事柄を「神から示された」と主張して、多くの人を巻き込んで人騒がせな事件を起こすが、いざ自らの主張の具体的な根拠を求められ、公の場で論証するよう要求されると、何の証拠も提示できずに、そそくさと主張を撤回して逃げて行き、自分の引き起こした事件の後始末をすべて他人に押しつけるという体たらくである。

筆者は同教団の中にこのような性質の信徒がいることは幾度も確かめて来たが、牧師も例外ではない。そもそも公の場においてきちんと論証できないような主張を提示すること自体が間違っているが、彼らにはそれは言っても無駄なことである。

昔は「男に二言はない」などと言われたが、そもそも、人が一旦、信念に基づいて主張したことを、最後まで貫き通す覚悟もなく、途中で撤回すること自体が情けない。何より、そうして主張を簡単に翻すことが、その人間が信念に基づいて行動していないことの証拠である。そうした行動から、彼らのしていることは、正義や真実や信念に基づく行動ではなく、ただうわべだけ自分がヒーローを演じ、誰かを悪者にしては、他人に不快な思いをかけ、膨大な手間暇をかけて自分に抗議をさせて、人生を浪費させることだけが目的の迷惑行為でしかないと分かる。
 
だが、それでも、牧師にも関わらず、信徒と全面的に争い、最高裁まで我を押し通すよりは幾分かマシであろう。そんなことをすれば、全キリスト教界の笑い者でしかない。牧師が信徒と最高裁まで争う、そんな教会には、まず人は来ない。KFCのように、牧師が信徒を公然とブログで非難断罪・呪い・中傷するような教会も、人々は願い下げである。

村上の他に、最後まで全面的に筆者と争いたいという人間がいる(唐沢治もその一人である)が、そういうことをすれば、牧師としてのその人間の信用は粉微塵に砕け散るだけである。唐沢治は未だにニッポンキリスト教界を敵視し、日々、呪詛のような非難の言葉を浴びせ、さらに自分の集会を去った信徒を公然とブログ記事で断罪し続け、筆者に対しても全面的に争う姿勢を見せているが、そのような行為に及ぶ宗教指導者に将来はないであろう。

さらに、唐沢治が本年になって杉本徳久といまだに交わしていた一連のメールを、杉本が裁判に提出して来るというコントのような滑稽さである。互いに裏切り合って協力もできないのになぜメールなど交わし続けているのであろうか。いつまで経っても、和解を目指ささず、自分に盾突いた人間を半永久的に許さずに恨みに思い、公に根拠のない非難断罪を続けるという点で、二人は実によく似ていると感じられる。こんな牧師を擁護する弁護士がいることにも呆れる。しかも、弁護士を使ってまで、かつては「ヴィオロンさんのために」などとさかんに筆者の名前を勝手に引き合いに出しては、自分が大見栄を切って助言者や擁護者を演じようとした信徒と争う。その陰で、その信徒を苦しめた加害者と内通して文通を重ねる。そして、唐沢は自分は筆者と「牧師と信徒の関係ではなかった」と主張しているのだから、笑い話のごとく呆れた話である。

こうした行動から、読者は唐沢治という人物の不実な人間性をもよくよく理解できるはずである。こういう牧師のいる集会に通えば、どういう将来が待ち受けているか予想できないのは、よほどの愚か者だけである。この集会に通った信徒が、その後、どんなトラブルに巻き込まれても、こういう牧師は、「私はそもそもあなたの牧師などにはなっていませんから、私には何の責任もありません」と後から言ってくるのは間違いない。その上、牧師のブログで公開処刑のごとく糾弾され、その牧師は別な人物に信徒の実名を書き送り、晒させるであろう。このような牧師は、まさに狼がやって来れば、群れを放棄して逃げる、聖書に登場する悪い牧者のたとえの典型例と言える。

読者のみなさん、牧師ななどという職業を安易に信用することは決してお勧めできませんよ。自分を正義漢や、優しい助言者に見せかける人間の内実を強く疑い、彼らを試してみることをお勧めします。大抵は、その本質はこういう人々から成るものだからです。
 
村上牧師は、あるいは、これ以上この事件を深く掘り下げると、もっとヤバい問題が噴出してくると危惧して、争いを早期終結させようとしているのかも知れない。杉本には公に言って良いことと悪いことの区別がつかないらしく、関係者を裏切るような証拠を次々と裁判に提出している。村上に筆者に関する問い合わせを行ったことを自ら答弁書において証言しているのも杉本である。杉本のその証言がなければ、そもそも村上が裁判に呼ばれる事態とはなっていない。

従って、この先、杉本がどれほど自己正当化のために不用意な発言を重ねるかは注目されるところであり、また、村上のブログで被害を受けたのも、筆者のような無名信徒の一人や二人ではないため、本件が長引けば、そうした人々が公に被害者として名乗り出て来る可能性は実に高いと見られる。
 
鳴尾教会を含め、当ブログなどよりもはるかに深刻な被害を受けた人々や団体が存在する。今回の裁判でも協力を仰いでいるが、彼らには勇気を捨てないでもらいたい。最後まで主張することの重要性を決して見逃さないでもらいたい。神にあって潔白とされ、無実とされ、誰からも罪に定められない贖いを得たことのはかりしれない意味を今一度、公然と主張してもらいたい。そして、正義は人間でなく神にあることを証明してもらいたいと願っている。 

ところで、読者にはさらなる注意事項がある。

それは、村上密についての記事を書くと、早速、掲示板等で騒ぎ立て、話題を逸らそうとする「さわやか読者」らが現れることだ。村上密の場合、他の人々に比べて、話題がかく乱されるスピードが圧倒的に速いため、他の人々との影響力の違いを感じさせる。

こうしたコメント投稿者らは、当ブログだけではなく、村上に敵対する人間に対して、ことごとく「狂気」「馬鹿」「人騒がせ」などの粗野な言葉で悪人のレッテルを貼り、しきりに誹謗中傷を繰り広げることで、話題を逸らし、この牧師を擁護する部隊の役目を果たしているのである。
 
こうしたコメント投稿者らは、何者なのか素性の全く分からない人間たちである。 一体、これらの人々が、まさか京都七條基督教会の信徒であるために村上を擁護しているとは思えず、信仰については一言もないため、おそらくクリスチャンでもないと見られる。

しかし、彼らは明らかに村上牧師を擁護する目的で団結しており、この牧師についてのコメントを隅から隅まで監視し、批判的な言動があると、一斉に匿批判者を名掲示板で中傷するなどして、話題をそらす役目を担っている。

そこで、彼らが誰の支持やリクエストに従って、こうしたコメントの投稿を日夜行っているのか、読者はよくよく考えてみられたい。特に、村上密が統一教会の出身であった事実を重視されたい。

村上牧師がこれまで常に杉本徳久のように、自分の教団や教会とは一切、無関係な人間のブログ記事を、自分のブログで引用しながら、自分の主張の裏づけとして来たことを思い出されたい。

なぜこの牧師は、自分の主張を展開するに当たり、自分の教会の信徒でもなければ、教団関係者でもない人間の主張を援用するのであろうか? どうしてカルト監視機構は最初から、キリスト教とは関係のない人間が、キリスト教界を監視することを想定していたのか? この事実をよくよく考えてみられたい。

村上はこのように、初めからキリスト教界に、キリスト教界に属さない部外者の手でメスを入れることを提案していたのであり、その部外者の中には、天理教の関係者なども含まれていたのであるから、それならば、統一教会の関係者だけは、カルト監視機構のメンバーになってはいけないという理由もあるまい。

実に恐ろしいことであるが、このように、村上の提唱するカルト監視機構は、最初から信仰を持たない人々によって教会の内情を監視することを目的としていたのであり、その意味で、カルトを取り締まると言いながらも、まさにカルトと内通し、「カルトによって教会を監視する」という逆転現象が起きる危険を最初から内包した機関だったと言えるのである。
 
従って、こうした事実を通して、現在、掲示板で匿名で、村上に敵対するクリスチャンへの誹謗中傷をしきりに繰り広げているコメント投稿者の雇い主(指導者)が誰であるのか、所属団体は何であるのか、彼らがそもそもどこから来たのかという事実をよく考えてみられたい。
 
もしも村上の主張が正しければ、裁判で全面的に自分の正義を主張し続けて、敵対勢力を敗訴に追い込めば良いだけであり、表向きの「和解」という美辞麗句を名目にして、自らの要求の取り下げを行う必要など全くないのである。

それにも関わらず、裁判では自らの主張を提示できなかった牧師が、掲示板等ではヒーローとなり、その牧師に「たてついた」信徒らが、依然、「悪者」とされて、根も葉もない誹謗中傷が拡大されて騒ぎが繰り広げられる。

こうした現象が繰り返されているのであり、繰り返されているという事実自体が、それが偶然ではなく、計画的に行われていることをよく物語っている。組織されたコメントであり、運動だということである。
 
公平かつ中立的な読者は、こうした現象を通して、当ブログに対する敵対がどの方面から来ているのか、村上密牧師を批判した牧師や信徒らが、これまでどのような目に遭わされて来たかをよくよく観察して、事の本質を見極められたい。

そして、村上牧師を含め、カルト被害者救済活動を推進したり、あるいは、ニッポンキリスト教界をしきりに挑発・敵対して来た唐沢治のような牧師が、本当にクリスチャンと言えるのかどうか、彼らは一体、何者であるのかについても、よくよく考察されたい。
  
さらに、信仰もなく掲示板で騒ぎを拡大している連中こそ、真に「匿名に隠れて」無責任な挑発行為を繰り返している人々であるから、最も警察の捜査対象となるにふさわしいと当ブログはみなしている。実に2015年から、当ブログでは2chの書き込みも十分に刑事告訴の対象となりうることを警察から知らされていることは、すでに書いた通りである。そして、告訴状を提出できる場所も、警察だけではないことを読者は知っているだろうか。彼らに対する警告は十分である。

さらには、掲示板では、パソコンを通じて敵対する勢力を監視していることをほのめかす読者まで現れる始末であるが、カルト監視機構の設立を願っていた村上密のような人々が、自分たちに挑戦して来るカルト勢力が、自分たちのパソコンをハッキングしようとしたとまでブログで主張していることを思い出されたい。

だが、一体、カルト被害者救済活動に関わる人々は、どのような経緯で自分たちのパソコンがハッキングされた事実を知り得たのか?という疑問が生じるのは当然である。そのような事実を察知したというだけで、この人々が普通の暮らしを送っていないであろうことは容易に推測される。なぜなら、セミプロ的な知識を持って、常時、そのような危険が自分にあることを理解して見張って、犯人を特定できなければ、そのような事実が分かるはずもないからである。

その意味で、彼らは、自分たちも同じ手口を使って常時、敵対勢力を監視していればこそ、敵の手法が分かったのではないかと推測される。

このように、カルトも闇であるが、カルト被害者救済活動も、同じほど深い闇なのである。どちらの陣営も、まさに暗闇におけるスパイ合戦でしかない。これまで、カルト被害者救済活動を支持する人々が、どれほど非合法な手段を駆使しては、自分たちへの批判をしきりに闇に葬ろうとして来たか、それは彼らの用いた手法、また彼らの取り巻きや支持者となった人々の言葉から十分に伺える。

この人々はクリスチャンでは断じてない。そして、キリスト教界を破壊することを目論むこの勢力がどこから送り込まれて来たのかについては、読者はよくよく考察と注意が必要である。彼らの目的が、聖書に基づく正しい信仰の破壊にあるということを決して忘れないでもらいたい。

   
とはいえ、掲示板等に書き込まれている証拠のない文章は、何年も残るものではなく、すべて束の間に消えて行くものでしかない。すでに昔に書かれたものの多くが板ごと削除されている。

他方、白日の下に残るのは、公の場所に提出された文書と、そこで下された判決文である。そして、筆者は、カルト被害者救済活動は、ただ自分たちの批判者を誹謗中傷しているのではなく、神が御子キリストを通して私たち人間にお与え下さった贖いそのものに敵対しているのだと2009年以来主張している。

私たちが主張しているのは、神の贖いの完全性であって、自分自身の義ではない。また、読者に自分自身を見させることが目的でもない(我が身可愛さ、自己主張が目的であれば、どうしてこれほどまでの手間暇と大いなる犠牲を払ってまでわざわざ主張するだろうか。無駄なことである)。

当ブログではただ、私たちを贖われたキリストの十字架における犠牲の完全さを主張し、贖われた人間を再び罪に定めることのできる人間は誰もいないということを示しているのである。
 
従って、聖書に予告された通り、この贖いに敵対する人間は、ヴィオロン何某に敵対しているのではなく、神の贖いを否定しているわけであるから、自ら救いを退けているのであり、罪に定められるのは当然である。

以上のような出来事は、やはり不当な圧迫に毅然と立ち向かえばこそ、得られる収穫である。

多くの人々は、著名人や、自分より強い力を持った権力者に対して、波風を立てることは、無益であり、害をこうむるだけだと考えている。彼らの頭の中では、法を犯すことが悪なのではなく、「権力者に立ち向かうこと、世間に波風立てることが悪」なのである。

しかし、筆者の言い分は、これとは全く別である。不当な主張に対して、立ち向かわなければ、何一つ成果はない。立ち向かわないことは、不当な主張が真実であると認めることに等しい。その悪しき効果は、すでに幾度も述べた通りであり、最初はどんなにいわれのない中傷や非難の言葉であっても、それを退けずに認めるならば、その「呪い」が現実になって行くのである。

また、不当な主張に反論しないということは、自分の権利を知らないこと、それを自ら放棄することを意味する。自らの権利を侵害されても、それを権利侵害と主張しない人間が、正当な権利を手にすることは決してない。

だが、自分の権利を主張するためには、まず、自分がどういう者なのかを知らなければならない。 
 
私たちの立脚点はあくまで天のキリストである。キリストの完全性が、私たちの霊的現実であり、また最終ゴールなのである。そこで、私たちの諸権利は、地上の法的根拠によっても付与されていることは確かだが、何よりも、天におられるキリストから発するものなのである。

キリストが持っておられる義が、私たちの義なのであり、彼の持っておられる聖が、私たちの聖なのであり、彼の贖いが、私たちの贖いとなったのである。これが、私たちクリスチャンにとっての本当の「人権」が生じる発端である。

つまり、この世の法的根拠は、アダムに属する古き人の人権を規定しているが、私たちはキリストから生まれた「新しい人」として、アダムにはるかにまさる人権を持っていることを知るべきなのであり、私たちの人権意識はすべてここを発端として始まるのである。
 
この他、山と書かねばならない事実があるが、それはこれからの記事に回すことにしたい。そこでは、虚偽や、他人の悪意や、中傷だけでなく、金銭面でも、仕事の上でも、人間関係でも、私たちは全ての圧迫に立ち向かわねばならないことを示すつもりである。そのためには、攻めの姿勢が極めて肝心だということを書きたい。

ただその前に一言だけ、もう一度、言っておきたい、サタンは、人に不当な重荷を課す達人だが、その重荷はサタン自身にお返しできるのだと。その法則を学びさえすれば、不当な圧迫に立ち向かうことは難しいことではないと。

長年、当ブログにいわれなく敵対・挑戦して来た人々は、村上牧師のように、自己の名声のためだけでも良いから、早期に主張を撤回して和解しないなら、彼らの名誉はいずれ打ち破られて粉々になるだろう。特に、宗教指導者でありながら、信徒と徹底的に争うようなことをすれば、その指導者の名声は終わりである。

さらに、物事には順序があるが、匿名掲示板だから対象外ということは決してない。というよりも、実名により、もしくは、自分自身でブログやホームページを開設して、きちんと文責の所在を明らかにした上で、公に論争している人々に比べ、このように真に「匿名に隠れて」、一切、責任を取ろうとしない形で、騒ぎを拡大している人々の方が、より罪が重く、責任も重いのは当然である。彼らが誰であり、誰の指示に従って動いているのか、といった事実も、時と共にはっきりするであろう。

筆者は、横浜にやって来た目的はここにあると考えている。つまり、試金石としての役目を果たすことにある。世間に媚び、地的な思いに心を占領されている人々と仲良くすることが目的では初めからないのだ。そして、暗闇の中で、ひそひそ声でささやかれただけのような会話が、今、公にされている事実を見ても、神はやはり闇の中に隠れていた真実を明らかにされる方だと思わずにいられない。

私たちは信仰のともしびを内に持つ者として、闇を照らす光である。私たちクリスチャンが存在することによって、世はその暗闇の中に隠れていた事柄を明るみに出されるのである。カルト監視機構を闇を暴くのではない。神の教会とクリスチャンこそ、高い山の上から下界にある町々をことごとく照らし出す大きなともしびなのである。
 
そこで、筆者はすべての心あるクリスチャンに向かって言いたい、最後まで目を上げて、この戦いをしっかり見なさいと。そして、不当な重荷を勇敢に押し返しなさいと言いたい。勇敢に重荷を払いのけて、早くそれを負うべき人間に押し返しなさい!と。

かつて、日本軍は敗戦に敗戦を重ねている時でさえ、自分たちは「勝っている」と嘘を発表して来たが、悪魔のやり方は今日も同じである。敵は最後まで「負けてはいない」と見栄を張るであろう。そして、正しい人を罪に定め、殺そうとするであろう。しかし、当ブログを嘲笑している人々が、恥をこうむって終わることは、聖書によれば、初めから確定済みの事実である。なぜなら、神を避けどころとする人間が恥をこうむることは決してないからである。
 
おそらく、当ブログがカルト被害者救済活動に対して勝つか負けるか、虎視眈々と結果に注目している人々が、世間にはかなりの人数、存在しており、情勢次第では、早速、カルト被害者救済活動に恨みを晴らすために襲いかかろうとしている人々も、たくさんいるものと考えられる。なぜなら、この活動はあまりにも多くの人々に敵対して来たためである。すでに戦いの決着はつき始めている。

筆者はクリスチャンであるから、カルトを擁護しようとは全く思わない。しかし、筆者はキリスト教を絶対的なものとして、人々に押しつけるつもりは毛頭なく、これを信じない人々を排斥するつもりもない。

筆者が擁護しているのは、内心の自由であり、信教の自由である。

クリスチャンであっても、人々は間違うことがある。そして、神はアダムが誤って罪を犯してしまうことを想定した上で、それでも、アダムに自由意志を授けられた。神が人間を創造される時、自分に逆らわないように脅したり、強制力によって意志を奪うということはなさらなかったのである。

それは今日も同じであって、神は、私たちが自らの判断で、物事の真偽を確かめ、正しい道を選び取っていくことを願っておられる。人は一時的に誤った教えをそれと知らずに信じてしまうこともあるかも知れない。だが、だからと言って、これらの人々が、その誤った思想のゆえに、危険人物のごとく排斥・殲滅されるようなことはあってはならない。公正な論争は行われなければならないが、それはあくまで法的に許された範囲内で行われるべきである。誤った思想を持つ人間を排斥することが目的になれば、それは初めから間違った運動である。

(しかしながら、一つのパラドックスとして、当ブログの根絶を願った人々が、自らブログを根絶され、当ブログ主の社会的抹殺を願った人々が、自ら社会的に抹殺されるということは大いに起きうるであろう。それはただ彼らが他人を呪い、他人の不幸を願い、他人に対して宣告した呪詛の言葉が、自分自身に跳ね返っているだけのことである。)
  
人は病原菌に感染して免疫抵抗力を育み、耐性を身に着けて強くなる。その意味で、病原菌そのものは有害であっても、人はその危険性に触れてそれを理解・体得したことによって、結果的に耐性を身に着け、進歩することがある。異端や誤った教えもこれに似ている。それ自体は極めて有害なのだが、それが存在していることによって、初めて、人々は、これを見わけ、退け、抵抗していく術を学び、自分の弱点をも知って、これを防衛する方法を学び、より賢明になり、進歩するのである。

その意味で、カルトそのものは誤っており、あるべきでないとはいえ、人の人生は複雑であって、これに触れたことによって初めて学べる教訓が存在する。その意味で、人の内心の自由は、誤った思想を信じないことよりも、より高度な利益であり、優先されるべきものである。

それにも関わらず、カルトが危険だというだけの理由で、カルトとカルトに「感染」した人々を根こそぎ危険人物扱いし、断罪し、無理やり棄教させ、考えを改めさせ、徹底的に謝罪させて恥をかかせ、誤りを認めさせなければ気が済まないといった時代遅れな方法では、物事は何も解決できない。まして強制力を用いて彼らを思想改造(洗脳)し、脱会工作を行い、内心の自由を侵してキリスト教徒に仕立て上げるといった方法では、カルトの問題を解決することは決してできない。

神がサタンを最終的に滅ぼされるまではまだ時間が残されている。その時間は、私たちが触れてはならないものが何であるか自ら識別することを学習し、誤った思想に対する耐性を身に着けるための時間なのである。従って、誤った教えを根絶して完全な無菌室を作ることは、地上では不可能事であるだけでなく、それによっては、私たちの進歩はない。

しかしながら、同時に、話を戻せば、恐怖、不安、脅かし、嘘といった圧迫は、何よりも、それをもたらした悪魔自身にお返しし、悪魔にこそ、恐怖を増し加えることができるのである。

だから、不当な圧迫は、どこから来たのか、原因を特定した上で、悪魔にお返ししなさい。恥は悪魔に、栄光は神に返しなさい。私たちは、キリストと共に天の栄光に満ちた御国を相続する者なのだから、主に信頼する者が恥をこうむることがないというのは、真実である。だとすれば、当然、恥は、それを負うべきしかるべき存在が、キリスト者とは別に、存在しているはずである。


「宗教トラブル相談センター」村上密による移送申立が、横浜地方裁判所より却下される

久々に裁判に関する進捗報告を一つ。

カルト被害者を名乗る人々はよくよく見ておいて欲しい。 もしもキリスト教会であなたが何かの事件に遭遇したとして、受けた被害の相談をあなたは誰かに行いたいと考える。むろん、それを禁じる法はなく、誰かに話せば胸の内がすっきりすると思うのも当然だろう。

だが、そこで誰を相手に相談すべきかは、よくよく考えて検討することをお勧めする。特に、宗教トラブル相談センターに赴くことが妥当かどうかは、よくよく熟慮することをお勧めする。

なぜなら、相談と引き換えに、あなたは個人情報を収集され、その後、もしも相談した相手に何かの不審や疑問を感じても、いざ批判の言葉を口にすれば、たちまちネット上ですさまじい制裁を加えられるだけかも知れないからだ。

あなたは相談内容をことごとく公表されて、個人情報を暴かれ、人生の道を踏み誤り、カルト宗教の洗脳を受けた信者と呼ばれ、プライバシー権を侵害された上、そうした事件の解決を目的に、相手を調停や訴訟の場に呼び出し、公に議論しようとしても、その相手は、決して裁判所からの呼び出しに応じて速やかに出頭しようともせず、色々な理屈をつけては、逃げ回るだけかも知れないからである。

あなたは教会で遭遇したごくごく些細なトラブルをきっかけに、それとは比べものにもならないほどの巨大な重荷を背負い込まされることになるかも知れないからだ。

以下は、アッセンリーズ・オブ・ゴッド教団京都七條基督教会、宗教トラブル相談センターの村上密牧師が、当ブログ執筆者を原告として提起された訴訟の第一回口頭弁論期日について、「バングラデシュへの出張」を理由に、事件の京都の裁判所への移送を申し立て、それが裁判所により却下された通知である。

かつて被告A(杉本徳久)は、自らのブログで、被告が申し立てさえすれば、事件を被告の住所の管轄裁判所に移送できるかのように主張していたが、そのような主張が虚偽でしかないことが、この決定によっても証明された。

原告が知っている限り、一般に、原告の住所地の所轄裁判所で提起された損害賠償請求事件に、被告の希望に基づいて、移送の申立が認められるための条件は、かなり厳しい。被告が、仮に次回、別な理由を持ち出して移送を希望したとしても、同じように却下となる可能性は極めて高い。

それにしても、自分が正義の味方のように、カルトをやっつける側に回る時には、意気揚々と法廷闘争を呼びかけ、他の牧師を法廷に引きずり出すことをいとわない人間が、いざ自分が被告として法廷に呼び出されると、何かと理由をつけては出頭をしぶるというのは、感心できる態度ではない。

公に名を名乗り、TVにも出演しながら、全国をカルト被害者への支援のために飛び回っていることをアピールしている牧師ならば、誰からどんな訴えがなされたとしても、正々堂々とそれを受けて立ち、持論を展開して公の場で反駁すれば良いだけであり、自分にとって不利な訴えにも、根気強く、透明性のある形で、公に反論している姿が、信頼を呼ぶのである。それをしようとしないのは、自分にとって不都合なことには向き合うつもりがなく、そもそもやましい思いがあるから出頭したくないのだろう、などと憶測されても仕方がない。
 
しかも、海外出張という一過性の出来事を理由に、移送の申立が認められる見込みがほとんどないのは、誰にでも事前に予想できることである。そこで、この移送の申立は、自分が出頭を拒むための口実であるだけでなく、事件の解決を何とかして先延ばしにし、自分に不利な判決を先送りするための苦肉の策だと思われても仕方がないだろう。

それにしても、海外宣教師でもない牧師が、この時期にわざわざ出張というのは・・・。一般信徒から提起された訴訟に向き合うことが、そんなにも怖くて、バングラデシュまで逃亡せねばならないのか、という憶測を呼ぶのも仕方がない。

断っておけば、第一回目の口頭弁論には、被告は出頭しないこともできる。しかし、出頭しなければ、自分の口から主張を説明できないので、誤解が生じ、不利な判決が下される恐れが増し加わるだけだ。そして、二回目以降の期日には、出頭しないことはできない。

審理が長引けば長引くほど、被告として呼び出される回数が増え、答弁する苦労や、交通費が増し加わるだけのことである。それくらいなら、一度ですっきりとカタをつけるために、全力で準備した方が、よほど重荷が減るだろうに。
 
さて、被告らの答弁書が提出されたので、原告も準備書面を作成したが、村上密の答弁書は2頁、杉本徳久の答弁書は6頁と、相も変わらず、真面目に答弁しようという意気込みが全く感じられない。

原告が提起した訴状は約200頁。それに対し、この分量の反駁では、訴状の冒頭部分にさえ反駁したことにならず、自分の主張の正当性を広く世に訴えて、自分の権利を守るつもりが初めから全くない、とみなされても仕方がないことであろう。

具体的な根拠も伴わない一方的な「言いっぱなし」のスタイルが認められるのは、ネット上だけのことである。それ以外の文書では、すべての主張に具体的かつ客観性のある論拠を示すことなしには、どんな主張も正当と認められることはない。
 
神に対しても、人に対しても、原則は同じだが、自分がどのような権利を持っているのか、きちんと根拠を示して、他者に訴え、公然と自らの願いを正当なものであると主張することをしないのに、その人の言い分が認められることは、決してない。

主張しないということは、最初から、自分の権利を放棄し、自分に有利な判決をあきらめているのと同じことである。

被告らの主張には、依然として、いかなる信憑性のある具体的な根拠も示されておらず、仮に二回目、三回目の期日を開いたとしても、そこで新たな証拠等が提出されて、今以上に有意義な議論が行われる見込みがほとんどない様子は誰にでも分かる。

そこで、彼らの答弁書の分量・内容の薄さが、今後の審理の進行に甚大な影響を与えることはほぼ間違いないと予想される。