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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(3)

5)イエス・キリストは神の子か、それとも神の養子か。

 今日に至るまで、三位一体論の中で、特に、イエスの神性・人性に関するテーマ以上に、様々な学説を生み出した議論はないのではないだろうか。キリストの神性・人性をどう捉えるかについては、正統とされたもの、異端として排斥されたもの、合わせて「キリスト論」と呼ばれている。

 ローマ帝国において、すなわち、初期のキリスト教界において開かれた有名ないくつかの宗教会議で、イエスの神性・人性に関する複数の異端的学説が退けられたことは、今日、誰でも知っている。しかし、イエスを何者であると解釈するかというこのテーマが、実は、クリスチャンのアイデンティティーにそのまま直結する重大問題であるということは、意外と認識されていない。
 だが、結論から言うと、イエスを何者と解釈するかという問題は、クリスチャン全員の信仰生活の根幹に関わる問題なのであり、イエスの神性・人性について誤解したままでいることは、私達のクリスチャンとしての自己イメージに見当はずれな誤解を生むことにつながるだけでなく、約束されている御国の相続権までも失ってしまう危険性があるのだ。

 さて、今日知られている三位一体の教義が完成に至ったのは、先に述べたコンスタンティノポリスの公会議から70年後、451年に東ローマ帝国の皇帝マルキアヌスによって招集されたカルケドン公会議において「カルケドン信条」が採択された際のことであった。
 このカルケドン信条は、今日、カトリック、正教、プロテスタントのキリスト教徒が正統な教えとして承認しているものであり、いわば、「イエス・キリストとは何者であるか」ということについての、クリスチャンの共通見解であると言える。その内容は以下の通りである(番号は便宜上、振ったものである)。

「われわれはみな、教父たちに従って、心を一つにして、次のように考え、宣言する。
1.われわれの主イエス・キリストは唯一・同一の子である。同じかたが神性において完全であり、この同じかたが人間性においても完全である。
2.同じかたが真の神であり、同時に理性的霊魂と肉体とからなる真の人間である。
3.同じかたが神性において父と同一本質のものであるとともに、人間性においてわれわれと同一本質のものである。
4.『罪のほかはすべてにおいてわれわれと同じである』(ヘブル3:15)
5.神性においては、この世の前に父から生まれたが、この同じかたが、人間性においては終わりの時代に、われわれのため、われわれの救いのために、神の母、処女マリアから生まれた。
6.彼は、唯一・同一のキリスト、主、ひとり子として、
7.二つの本性において混ぜ合わされることなく、変化することなく、分割されることなく、引き離されることなく知られるかたである。
8.子の結合によって二つの本性の差異が取り去られるのではなく、むしろ各々の本性の特質は保持され、唯一の位格(ペルソナ)、唯一の自立存在(イポスタシス)に共存している。
9.彼は二つの位格に分けられたり、分割されたりはせず、
10.唯一・同一のひとり子、神、ことば、イエス・キリストである。」

 恐らく、これを読んですぐに理解できるような人は一人もいないだろうから、この先、できるだけ分かりやすくこの信条を説明していくことにしたい。このカルケドン信条は、イエスの神性・人性について様々な誤解を生じさせる異端を排除する過程で生じたものであり、従って、この信条そのものが、様々な異端に対する反駁の形を取っている。
 カルケドン信条はイエスに関する異端的な考えを排除する上で、今日でも有効な手立てとなり得ると私は考えている。

 さて、手束正昭氏は三位一体を「父・母・子」という家族モデルとして解釈するという、従来の三位一体論に真っ向から反する主張を掲げているだけではなく、従来の正統とされるキリスト論の内容にも深刻に抵触する独自のキリスト論を掲げている。
 それが彼の言う「養子論的キリスト論」である。

 手束氏は日本におけるペンテコステ・カリスマ運動の代表的指導者の一人であり、この運動の主だった理論家でもある。氏の発表した一連の著書は、ペンテコステ・カリスマ運動の影響を受けた多くの教会で、規範として受け取られてきた。そこで、手束氏の一連の著作を紐解いて行く時に、教会成長論だけでなく、ペンテコステ・カリスマ運動とは何であるのか、その真相もまた否応なく浮かび上がって来る。
 そしてペンテコステ・カリスマ運動の是非を論じる上で、避けて通れないのが、この運動独特の聖霊理解である。いわば、異常なまでの聖霊偏重とでも言うべきペンテコステ・カリスマ運動独特の教えは、手束氏のキリスト論においてはっきりと現われている。

 手束氏は有名な著書『キリスト教の第三の波―カリスマ運動とは何か―』とその続編の中で、ペンテコステ運動は異端とされたネストリウスの教えの影響を強く受けていることを述べている。
 一般的には、ネストリウスは、413年にエフェソス公会議において、マリヤを神の母と呼ぶことに意義を唱えて、キリストの神性と人性を分離して考えたため、あたかもキリストの中に二つの人格があるかのように主張したとみなされて、異端とされたと考えられている。前述のカルケドン公会議においても、ネストリウスの主張は退けられた。だが、手束氏はこの異端とされたネストリウス主義に踏み込んで、ネストリウスの教えを再検討し、再評価する姿勢を取っている。
 ネストリウス主義が何であるかを理解していただくために、長くなるが、氏の次の文章を引用したい。

「このネストリウスの問題提起は次のようなことを意味しています。一つには、マリヤを『神の母』と呼称することはマリヤを女神としてしまう恐れがあり、従って当時広くあったさまざまな『母なる神』的偶像崇拝に堕することに対して警戒しなければならないということ。

更に二つには、ナザレのイエスはその本質において神と一つでありましたが、これは創造者なる神の変身という意味ではなく、被造物すなわちわれわれと同じ生身の人間でありつつも、その意志において神と全く一つであったということなのです。この全き神の意志への服従は、普通の人間にはなし得ず、主イエスの中にいつも比類なく豊かに聖霊が満ち溢れていたが故に、なし得たものに他なりません

このようにキリストの人間性を強調して、その内なる聖霊の豊かな働きがナザレのイエスをして神の子キリストたらしめたとするキリスト論を、普通養子論的キリスト論(いわゆる養子論とは異なり、霊のキリスト論とも呼ばれる)と呼んでいます。

 このようなネストリウスの見解は、聖霊によってその生を受け(処女降誕)、聖霊によって公生涯を始めた(ヨハネからの受洗)とする聖書の記事と符号するものであり、聖書そのものからは決してはずれてはいなかったのですが、当時の教会の主流派によるキリストの神性の強調からは趣を異にしていたために、アリクサンドリアの総主教キュリロスの猛攻撃に遭い、論争においては優位を占めたものの、政治権力と結託したキュリロスによって陥れ入れられ、異端の烙印を押されて追放されていったのでした。

 いつの時代でも信仰の真理が政治の力学の中で取り扱われることは大きな不幸ですが、この場合ネストリウスの見解を政治的に異端としてしまったことは後の教会にとって計り知れない損失をもたらしたのでした。
というのは、イエスを神、マリヤを神の母とすることは、主イエスを私達と全く次元の異なる例外者としてしまうことによって、確かに救いをもたらして下さった方ではあるが、私たちがキリストのように力強く英化され素晴らしく聖化される可能性を閉ざしていってしまいます。

しかし、主イエスの人間性とそれに付帯する聖霊の働きを強調することは(すなわちネストリウス主義に立つことは)、キリストをして私たちが目標とすべき大いなる実例者とすることによって、主イエスにおいて実現した神の無限の豊かさを私たち自身のものとしていく道を開きます

 かくて聖書が目指す福音は、単に罪の赦しではなく(もちろんこれは不可欠ではありますが)、それに続く聖霊の満たしと服従によって実現される神の無限な豊かさに他なりません。最近神学的にもネストリウスを再評価する傾向が目立っています。カリスマ運動は、長い間誤解を受け、それ故に等閑視され続けてきたこのネストリウス主義の再興であり、その具体的な展開であると言えるかもしれません。」
(『キリスト教の第三の波―カリスマ運動とは何か―』、手束正昭著、キリスト新聞社、1995年、p.33-35)

 この文章を短く要約するなら、手束氏は、ネストリウスの主張の核心的な部分は、キリストの神性が初めからあったのではなく、聖霊によって付与されたと捉えるところにあったと考えて、その考えに改めて賛同する。
 一般的な「養子論」は、キリストは本来、神性を持たないただの肉なる人であったとし、バプテスマの後、聖霊を受けたことによって「神の養子」に引き上げられたという解釈を取る(もちろん、この考え方はイエスを人とみなしているから異端である)。だが、これに対して、手束氏の言う「養子論的キリスト論」では、イエスは人としての肉体を持って生まれたが、聖霊によって生まれたという点で、誕生の時点から、神の養子として引き上げられていたというのである。

養子論的キリスト論は『霊のキリスト論』とも呼ばれ、それは聖霊論的キリスト論です。つまり、人間なるイエスがある時を境にして、聖霊の圧倒的な注ぎを受けて神の養子として引き上げられたというのが、“養子論”の一般的な理解である。
このいわゆる養子論の系譜にありつつも、その生涯の発端から聖霊の圧倒的な注ぎを受けて神の養子として引き上げられていたというのが『霊のキリスト論』であり、養子論的でありつつ、いわゆる養子論とは異なる使徒教父たちに強く見られるキリスト論である。

そして“受肉論”が神とキリストの連続性を見ているのに比べて“養子論”の場合はむしろキリストと私達の連続性、しかも聖霊の役割の大きさということが注目される。
(『続 キリスト教の第三の波―カリスマ運動とは何か―』、手束正昭著、キリスト新聞社、1989年、p.17)

 この「養子論的キリスト論」の根幹にあるのは、イエス・キリストは聖霊によって生まれ、聖霊を受けたという点を除けば、本来的に、ただの肉なる人間に過ぎなかったという主張である。「受肉論」は「神が人となった」としてイエスの初めからの神性を強調するのに対して、「養子論的キリスト論」は、聖霊こそがイエスを神の養子に引き上げたのであり、イエスの存在それだけでは神になることはできなかったという結論を導き出す。
 ここで養子という言葉が使われているのは偶然ではない。これは、聖霊抜きには、イエスは本来、人であるから、神の子としての資格を持っていなかったということを表している。いわばイエス単独では神性を持たない存在だったと言っているのに等しい。

 手束氏はこうして、イエスの完全なる神性を否定し、イエスの人性を強調することによって、イエスが私達クリスチャンにとってより身近な存在になるとしている。氏は「受肉論」によってイエスの神性ばかりを強調すると、「主イエスを私達と全く次元の異なる例外者」にしてしまうことになり、イエスと肉なる人間であるクリスチャンとを大きく遠ざけてしまうが、「養子論的キリスト論」によって、「主イエスの人間性とそれに付帯する聖霊の働きを強調」するならば、「私たちがキリストのように力強く英化され素晴らしく聖化される可能性を閉ざ」すことなく、「主イエスにおいて実現した神の無限の豊かさを私たち自身のものとしていく道を開」くことができるのだと言う。

 つまり、一言で言えば、イエスは本来ただの人間であったが、聖霊によって生まれたために神の養子に引き上げられたのだと考えれば、私達人間も、生まれは神ではないただの人間だが、同様に、聖霊を受けることによって、イエスと同じ神の養子という高さにまで引き上げられることになると彼は言うのだ。

「ところでキリストを受肉論的に理解するのと、養子論的に理解するのとでは、私達の信仰のあり方にいかなる相違が生じるのであろうか。これが問題である。
受肉論の場合、神とキリストの全き連続性の故に、キリストと私たちは非連続となる
なぜならば、神と私たちは非連続の関係であるから、その神と全き連続関係にあるキリストは、いくら人間のかたちを取ってはいても質的には全く異なり、私たちから見ると、例外的人間ということになる。

他方、養子論の場合はどうであろうか。養子論の場合は、私たちとキリストは同じ人間であるから連続関係を持っている。そして聖霊を受けるという点でも同じ可能性に立っている。すると私たちの相違は聖霊の働きの豊かさのそれにすぎず、論理的可能性としては、もしキリストと同じだけ聖霊が豊かに注がれ働けば、私達もまたキリストと同じような偉大な存在に成ることができるということになる。かくてキリストは私たちにとって実例的人間ということになる。パウロの言葉を借りれば、キリストは私たちにとって長子的存在であり、私たちはそれに続く次男、三男ということである(ローマ八・二九参照)。」
(『続 キリスト教の第三の波』、p.17-18)

 このようなもっともらしい説明で煙に巻かれるわけにはいかないだろう。
 まず、「受肉論の場合、神とキリストの全き連続性の故に、キリストと私たちは非連続となる」と手束氏が伸べていることの真偽について考えなければいけない。

 カルケドン信条は、キリストが人として、私達と完全に同じ肉体条件を持って地上に来られたこと、つまり、人としてのキリストは「私たちと全き連続性」を持っていることを述べている。キリストは神であられながら、同時に、完全な人だったのであり、手束氏の言うような、「人間のかたちを取ってはいても、質的には全く異なる、例外的人間」ではなかった。
 カルケドン信条においては、キリストは1.「この同じかたが人間性においても完全である」、2.「理性的霊魂と肉体とからなる真の人間である」、3.「人間性においてわれわれと同一本質のものである」、「罪のほかはすべてにおいてわれわれと同じである」とされ、キリストの人性が、私たちの人としての性質と完全に一致するものであったことを述べている。つまり、人としてのキリストは何一つ私達と違うところはなかったのである。

 だが、「養子論的キリスト論」は、キリストの神性を強調する受肉論を、キリストを人間と異なったものとするがために人間から遠ざけてしまうとして退け、キリストの神性を、聖霊によって付与されたものと考えることによって、事実上、キリストは聖霊抜きには神性を持たない人であったのだとする。これはカルケドン信条に反する。

 「養子的キリスト論」はまず、イエスが聖霊によらなければ神の養子として引き上げられることはなかったのだとすることにより、1.「同じかたが神性において完全であり」、2.「真の神であり」、というキリストの完全なる神性を否定する。次に、イエスが聖霊と父なる神との共同によって生れたのだとすることにより、3.「同じかたが神性において父と同一本質のものである」と、父なる神と同一の本質であることを否定する。次に、乙女マリヤが聖霊によって身ごもって初めてイエスの神性が生れたとすることによって、4.「神性においては、この世の前に父から生まれた」という事実も否定する。さらに、もし聖霊によって初めてイエスが神性を付与されたのであるとすれば、イエスの人性と神性は本来、分離したものであったのかという議論が生れるため、 6.「二つの本性において混ぜ合わされることなく、変化することなく、分割されることなく、引き離されることなく知られるかたである」と、キリストの神性と人性が本来、分離できないものとされている事項にも反する恐れがある。

 カルケドン信条は、キリストの人性と神性がそれぞれ完全なものであり、別の時期に分割して付与されたり、あるいは融合して変化したりすることなく、一つの人格の中に同居していたことを示しているが、「養子論的キリスト論」はそのような理解にはそぐわない。

 こうして、「養子論的キリスト論」は、キリストの神性を聖霊によらなければ確立し得なかったとする点で、実際に、キリストの完全なる神性を否定し、キリストご自身が単独で神の子であることを否定しているのであり、カルケドン信条からは大きく外れているのである。それでも、手束氏は、ネストリウス学説が異端として排除されたのは、単なる政治闘争の結果であって、要するに、国家権力の教会会議への介入がもたらした嘆かわしい結果であったとして、この異端的学説をペンテコステ運動の基礎に据えている。(国家権力の介入と言っても、政教分離という概念さえ生れていなかった時代のことなのであるが。)

 そして氏は「彼(ネストリウス)が異端とされて退けられてしまったことは教会史上の取り返しのつかない汚点である以上に、計り知れない損失をもたらしたのである」(『続―キリスト教の第三の波』、p.24)とまで言い切っている。

 手束氏はネストリウス学説を排斥したアレクサンドリアの総主教キュリロスをこっぴどく酷評し、まるで呪詛のような言葉を並べる。
「キュリロスという人物は、かのロシア宮廷の怪僧ラスプーチンや徳川幕府の政僧金地院崇伝に比肩し得る人物である。いわゆる俗物宗教家、なまぐさ坊主の類であり、政治権力と結託して陰謀を奔することに極めてたけた僧侶であり、およそ聖キュリロスなどと呼ばれるには相応しくない人物であった」(同上、p.29)
「だからこそ先に書いたように、サタンに憑かれていたと思わざるを得ないほどキュリロスはあのように陰険にかつ激烈に手段を選ばぬ仕方でネストリウスを排除しようとしたのではないか」(同上、p.32)。
 
 キリスト教界にも、確かに、政治的な闘争は大いにあっただろうことを私は否定しない。ふさわしくない人間が為政者となり、政敵を蹴落とすこともあるいはあったかも知れない。だが、だからと言って、キリスト教界における異端との闘いの歴史を、手束氏のように、単なる政治闘争の結果として片付けて良いものだろうか。
 もしそのような観点に立つことが許されるならば、今日、キリスト教の正統な教義と認められているもののほとんど全てが、「勝てば官軍」式に、当時の為政者が自分たちに都合の良い教義だけを認めて、政治的に不都合な部分を全て排除して出来上がったツギハギの教えだということになってしまうだろう。もしそれを認めれば、私たちが今手にとっている聖書も、実は何の神聖も、整合性もない、神の言葉ではなく、ただ単に政治情勢や、歴史の移り変わりが幾重にも反映されているだけの歴史資料ということになるだろう。

 しかし、主は生きておられる。人間のいかなる闘争をも乗り超えて、不思議な形で、長い時を経ながら、神はクリスチャンのために教義の統一性を今日まで守られたのだと、私達は信じないでいられようか。もしそう信じることができなければ、今日、私たちは何を根拠に、自分が手にしている聖書の御言葉の神聖と教義の統一性を信じることができるだろう? 今日伝えられている聖書も、教義も、政治闘争のもたらした偶然の産物でしかないと思ってしまったら、一体、何を私達は信じていることになるだろう? 従って、同じ聖書を信じ、同じ信条を告白している限り、クリスチャンは、かつて異端が排除されたのは、政治的な理由だけによるとは決して判断してはならないと私は思う。

 異端は異端だったのである。いかなる政治的闘争が背後にあったとしても、異端であるがゆえにその教えは正統なものとみなされなかったのであり、主なる神がそれが異端として排除されることをお許しになったのである。そうでなければ、教義の統一性は保たれなかっただろう。だから、異端とされた教義の再評価などあり得ないし、ましてやそれを再び復活させて、今日の正統な教義の中にもぐりこませるなど論外である。

 しかし、異端ネストリウス主義の復興を提唱し、さらには、キリストの神性を著しく引き下げる内容にも関わらず、「養子論的キリスト論」という「下からの道」によって、「キリスト論のダイナミズムが回復する」と手束氏は確信する。

「けれどもW.パネンベルクがその著『キリスト論要綱』において述べているように、キリスト論は『上からの道』と『下からの道』という全く相反する方向から展開されうるし、展開されてきた。
『上からの道』とは、“神が人となった”というイエスの神性すなわち受肉論敵観点から展開され得るキリスト論であり、いわゆる正統主義の教えである。一方、『下からの道』とは“人が神とせられた”というイエスの人性すなわち養子論的観点から展開され得るキリスト論であり、その多くは異端として退けられた

しかし両者は相補関係にあるのであって、両者の契機がうまく調和されていく中に、キリスト論の本領がある。特に『下からの道』を十分に生かすことの中に、キリスト論のダイナミズムが回復するのである
これまでの正統主義の『上からの道』一辺倒に対する反動から、カリスマ的信仰では必然的に『下からの道』が強調される。しかし、それはあくまで正統主義の行き過ぎに対する反動以外の何ものでもないのであって、決して受肉論的キリスト論を否定しているのではない。」(『続 キリスト教の第三の波』、p.63-64)

 手束氏はこうして懸命に「養子論的キリスト論」は「受肉論」そのものを否定するわけではないと説明しているが、このような見解は、正統な三位一体の誤った解釈の上にしか成り立たないと言えるだろう。すでに見てきたように、キリストの人性と神性を分割して考えることによって、「養子論的キリスト論」は従来の正統的な教えに反しており、両者は決して相補関係に置かれることはなく、両立もし得ないことは明らかである。さらに、手束氏が言うように、「下からの道」を十分に生かすことで、キリスト論のダイナミズムを回復することなど可能だろうか。聖書が何と言っているかを見てみよう。

 イエスは言われた、「あなたがたは下から出た者だが、わたしは上からきた者である。あなたがたはこの世の者であるが、わたしはこの世の者ではない。だからわたしは、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬであろうと、言ったのである」(ヨハネ8:23-24)。
 ここでイエスは自らの神性について言及されたのである。そして、ご自分が「上から来た者である」、すなわち神から生れた者であるとはっきり言われた。イエスは「わたしはあなたがたと同じように本来は下から生まれた人間であり、神ではなかったが、ただ聖霊によって神とせられたのだ」とは言われなかった。
 イエスは肉体条件においては人間と等しかったが、その存在は本質的に神の子であった。従って、イエスを理解するに当たって「人が神とせられた」という「下からの道」の選択肢はあり得ないのである。

<つづく>

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クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(2)

4)聖霊は「母なる神」なのか。

 手束氏は、キリスト教には母性的なものが足りないという批判に応えて、聖書には元来、父性的な神だけでなく、母性的な神も存在しているとの驚くべき主張を展開する。その根拠として氏が挙げるのは、「新約聖書は母性的な神を主張している」という聞いたことのないような見解である。

「確かに旧約聖書においては、そのように父性的宗教としての特徴が前面に押し出されている。しかし新約聖書においては、事態は断然異なっている。つまり母性的な受容ということが、愛と赦しということが、強く打ち出されてきているのである。そして私たちキリスト教会は、父性的な神を強調する旧約聖書と、母性的な神を主張する新約聖書の両方を合わせて、正典と見なしてきたのである」(p.75)

 手束氏の見解によれば、律法の原理に支配される旧約の神が父性的であるのに対して、愛と赦しが説かれる新約は「母性的な神を主張する」ものだという。そして氏によれば、ルターもまた「愛と赦しの強調(恩寵のみ)による母性的神のイメージの回復」に努めたということにされている(p.76)

 一体、このような解釈をした場合、旧約の神と新約の神にどうやって同一性・連続性が保たれるのかという問題は全く不明だが、ともかくも、氏は、新約の「愛と赦し」を強調することにより、プロテスタントにおいて母性原理の回復をはかることができるとしている。
 また、それだけでなく、氏はさらに驚くべき主張を展開する。それは、「父なる神」「母なる聖霊」という主張である。

『父なる神』と『母なる聖霊』

 今日の『フェミニズム神学』の評価すべきところは幾つかあるが、そのうちの一つはこれまで父性的男性的な傾向の強かったプロテスタント的キリスト教のあり方に批判を加え、長い間隠され抑圧されていた母性的女性的な要素を回復しようとしたことにある。<略>

フェミニズム神学の論者たちは言う、『聖霊は女性ではないのか』と。従来、三位一体の一位格である聖霊もまた『父なる神』『子なるキリスト』に続いて、男性的人格として見なされてきた。
しかし
聖霊を示すヘブル語のルァハは女性形であるばかりか、『人間のダイナミックな生命力が表現される特別な呼吸の出来事』を意味した。これは具体的には性的興奮と分娩を指しているという。

しかも創世記の冒頭の天地創造の物語において、創造を直接的にもたらした神の言葉の前には、『神の霊』(ルァハ)が働いていたのである。さらに、『新しい存在』(新しい被造物)であるナザレのイエスの誕生に際しては、聖霊が介入している。『聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生まれ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう』(ルカ1:35)。

つまり、聖霊の中心的な働きは創造や生命を与えるということにあるのであり、これは勝れて女性的母性的特徴と言える。このように見てくると、三位一体の教義も、新しい視点の下に解釈していくことが可能となる。すなわち、『父なる神』と『母なる聖霊』によって生み出されたのが『子なるキリスト』であり、三位一体は神の家族的象徴性を担っているということになる」(p.77-78)

 これは前代未聞の教えである。従来の神学において、聖霊はギリシア語では中性名詞“pneuma” で記述される「性を持たない人格」として扱われてきた。また、ラテン語では“Spiritus Sanctus”、男性名詞として扱われた(手束氏が従来、聖霊は男性的人格として扱われてきたと書いているのはラテン語表記に鑑みたものであろう)。他の言語においても、通常、聖霊は、男性か中性のどちらかの人格とみなされ(露語 Святой Дух 男性名詞)、女性的人格とみなされることはなかった。

 しかし、手束氏は、ヘブライ語で聖霊を指す“ruah” が女性名詞であることを根拠に、フェミニズム神学に習って、聖霊を「母なる聖霊」として捉え、三位一体を、「父、母、子」という家族的モデルとみなす。すると、必然的に、子なるキリストは、父なる神と母なる聖霊の協力によって生まれたものであるという結論が引き出されるのである。(文脈から判断して、父なる神と母なる聖霊の生殖行為の結果としての子の誕生が示唆されているのは明らかである。)

 さらに、手束氏は三位一体を「父、母、子」という家族的モデルとして捉えることによって、教会社会もそのようなモデルに従って、牧師夫妻が霊的な意味において父、母を体現し、信徒が子を体現するような三角関係に置かれなければならないと結論づける。

三位一体の神ご自身が『父性的存在』と『母性的存在』と『子的存在』の交わりとしてあられるならば、当然教会においても、このような交わりが必要であり、そのような交わりが成就するときに、教会は健全となり、安定性を持ち、従って成長していくことになるのではなかろうか。
 パウロはテモテを『愛する子』(第二テモテ一・二)と呼んでいる。牧師や牧師夫人にとって、信徒は『愛する子』であり、『霊の子』である。信徒にとって、牧師は『霊の父』であり、牧師夫人は『霊の母』である。ここにおいて、『神の家族』(エペソニ・十九)であり、『霊の家族』である教会は成立する。

だとするならば、牧師は父性原理の体現者として、信徒を教え導いて秩序付け訓練することに秀でなくてはならないし、牧師夫人は母性原理の具現者として、信徒を受容し、慈しむことのできる人でなくてはならない。このとき、教会は落ち着いた安定性を得、また信仰において成熟していくことになるのである。このような雰囲気を持つ教会には、必然的に多くの人々が集まってくるのである。」(p.79)

 日本語の文法には名詞の性の区別がそもそもないので、聖霊の性の区別はあまり重要に感じられず、聖霊に関する神学論争などは信仰の本質には関係がないように感じられるかも知れない。呼び名がどうあれ、ものの本質が変わるわけではないのだから…。正直に言えば、私自身の神学に関する知識は皆無に等しく、この話題を突き詰めるのに十分な資格があるとはとても言えない(どうか誤りがあれば指摘して下さい)。

 しかし、この「母なる聖霊」問題は見過ごしにできない重大な問題であり、これを語るに際しては、神学論争を避けて通ることはどうしてもできない。さらに、神学的議論は、実は、私達クリスチャンの信仰の本質に見えないうちに重大な影響を及ぼしているものであり、決して軽視してはならないものなのである。

 神学は、たとえて言うならば、食品の原材料表示のようなものかも知れない。教会に連なっているクリスチャンは、原材料表示のない教えを受け取っている。私達が教会で聞く「説教」は、聖書を材料として、誰か指導者がレシピに従って調理し、出来上がった後の姿である。
 完成した料理は目には麗しく、美味であるように見えるだろう。しかし、その中にどんな原材料が含まれているかを私達は知らない。知らないまま、その材料はきっと聖書に沿ったものが遣われているに違いないと信じて受け取っている。しかし、料理には調理した人間の傾向や好みが反映されているだけでなく、もしも万が一、加工の段階で、料理に致命的な毒素、すなわち聖書外の教えが使われていたとしたら、それを食べる者は死ぬかも知れない。

 今日、残念ながら、教会で語られている教えが、必ずしも、正しい教えであるとは限らないのが現状である。誤った教えを無批判に受け取って行った結果、カルト化教会の信徒たちは致命的な誤りに陥り、人生ではかりしれない実害をこうむって、最悪の場合、肉体的な死にまで至っている。そこで、私達クリスチャンはキリスト教界において、2千年もの時をかけて様々な議論を経て守られてきた正統な神学とは何であるかを知っておく必要があるし、それとは異なる耳慣れない教えを聞いた時に、それをどうでも良いこととしてとらえたりすべきではないと思う。

 さて、今日、正統な教義を信じるクリスチャンが信じている三位一体論の教義が成立したのは381年、ローマ帝国の皇帝テオドシウス帝が招集した第一回コンスタンティノポリス公会議でのことである。この公会議において採択されたニカイア・コンスタンティノポリス信条において、子なるキリストと共に、聖霊もまた、父なる神と同一の本質であることが認められ、三位一体論が確立した。
 Major Mar’s Diary 「聖書解題73」に三位一体について分かりやすい構図が示されているため、どうぞそちらをご参照下さい。

 正統な三位一体の教義においては、父なる神は誰によっても生れない、全てに先行する存在であり、御子イエスは父なる神によって生まれ、聖霊もまた父なる神から発出するとされる。だが、御子と聖霊は神の被造物ではなく、父なる神と本質的に一つであり、それぞれが永遠の初めから存在する神の人格なのである。三つの人格のはすべてが助け合って働き、本質的に一つである。

 「そんな話は理解不能だ」と思う人がいたとしても不思議はない。心配はご無用だ。神学者ですら、三位一体は、人間の知性ではとても納得できないものだと認めているのだから、私達はただそれを信じることしかできない。

(注:関西聖書学院の安黒務氏は三位一体について、次のように解説している、
「それを説明しようとしてごらんなさい。その時あなたは知性を失うでしょう。
それを否定してごらんなさい。その時あなたは魂を失うでしょう。」
キリスト教教理入門PPから、組織神学、11.神の三一性、三位一体 p.17を参照。)

 つまり、従来の正統とされている教えには、三位一体を、父、母、子という家族モデルとして解釈するという考え方は全く存在しなかった。もしも手束氏が主張するように、御子が父なる神と母なる聖霊によって生まれたものだと解釈するならば、「初めに言(ことば)があった」(ヨハネ1:1)という御言葉はどのように位置づけられるのだろうか、不明である。もしも乙女マリヤが聖霊によって身ごもった時点で、御子が聖霊の力を借りて初めて世に誕生したのだとすれば、御子が万物の創造以前から父なる神と聖霊と共に存在していたという従来の教えと矛盾することになる。

 三位一体を家族的構図として捉えることの弊害は、以下で詳しく説明するように、御子イエスの神性に聖霊への従属性、依存性を生じさせることにある。御子イエスは、聖霊の力によらなければ、生まれ得なかったのか。聖霊を抜きにすれば、イエスはただの人であったのか。イエスの神性は、聖霊によって付与されたものであって、彼自身に帰するものではなかったのか。そういう種々の議論が生じることになる。
 つまり、もしも聖霊の力に頼って初めて、御子の神性が可能となったという解釈を取るならば、私達は御子イエスを、まるでギリシア神話において、ゼウスと女神たちとの生殖行為によって生み出された様々な神々と同じように理解することになる。そのような考えに立つならば、子が独りである必然性もなく、イエスが神の独り子(最後のアダム)であらねばならない意味がなくなってしまう。

 さらに、手束氏は「聖霊の中心的な働きは創造や生命を与えるということにあるのであり、これは勝れて女性的母性的特徴と言える」と書いているが、これもうっかり聞き流して良い言葉ではない。聖書のどこにも、聖霊の中心的な働きが「創造や生命を与える」という「女性的特徴」にあるとは書いていない。

 聖書を見てみよう、「御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。<略>神の思いも、神の御霊以外には、知るものもない」(コリントⅠ2:10-11)。
 つまり、聖霊の第一の働きは、神の御旨をきわめ、それを人に知らせることにある。
 また、イエスは言われた、「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である」(ヨハネ14:16)。

 聖霊とは、真理の霊であり、人に真理を啓示するために送られる助け手である。そして、真理とはイエスそのものを指す。イエスは神の御心の忠実な体現者であり、御言葉が人となって現われたものである。バプテスマを受け、聖霊が鳩のように下ったその瞬間から、イエスは聖霊に導かれて、人々に向かって真理を語られた。イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)と、ご自身を真理そのものとして提示されたが、同時に、イエス自身もまた聖霊の導きによって、人々に真理を証するために語られたのである。ピラトの前でイエスが言われた通りである、「わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」(ヨハネ18:37)。

 聖霊が啓示する真理とは、イエスのことであると同時に、父なる神の御心のことでもある。「わたしは自分からは何もせず、ただ父が教えて下さったままを話していたことが、わかってくるであろう。わたしをつかわされたかたは、わたしと一緒におられる。わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしているから、わたしをひとり置き去りになさることはない」(ヨハネ8:28-29)と、というイエスの言葉の中には、もしもイエスが神に逆らうようなことを行ったならば、聖霊は彼から離れ去っただろうという言外の仮定が含まれている。

 イエスは神性を持って生まれたので、罪を犯すことはあり得なかったとはいえ、しかし、人間と同じ肉体条件を持って地上を歩まれたという点においては、実際に罪を犯すことが可能な条件下を生きられたと言えるだろう。それでも、神の御心に対して徹底的に従順であられたゆえに、聖霊はイエスを離れることなく働かれたのである。イエスは御言葉の成就、すなわち真理そのものとして生まれながら、同時に、地上にある間は、自らの意志によって、真理だけを証することを選び取った。イエスは聖霊によって神とされたのではなく、聖霊とイエスが共同してこの世に真理を証し、神の御旨を実現するために働いたのである。

 そしてイエスが復活し、天に去った後、聖霊はイエスを通して、クリスチャンにも助け主として与えられるようになった。「このイエスを、神はよみがえらせた。<略>それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである」(使徒2:32-33)。
 聖霊は、何よりも、イエスについて証する霊である。「わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう」(ヨハネ15:26)。
 また、聖霊はイエスの教えをクリスチャンが理解するのを助け、来るべき事柄までも告げ知らせ、全ての栄光をただキリストに帰する。「助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう」(ヨハネ14:26)。「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたに知らせるであろう。御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである」(ヨハネ16:13-15)。

 こうして、聖霊を受ける時、クリスチャンはイエスご自身がそうであられたように、真理と一つとされ、大胆にキリストを証し、キリストに栄光を帰する者となるのである。
 また、聖霊は力を付与し、賜物を与えることが示されている。「あなたがたは力を受けて、<略>地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒1:8)。「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みの霊なのである」(テモテⅡ1:7)。
 しかし、聖霊を通してクリスチャンに与えられる賜物や力は、全てイエスを証する目的に沿って与えられるものであり、信徒の身勝手な自己実現のためではない。

 また、聖霊のあるところには平和と一致(エペソ4:3)がもたらされる。それはイエスの祈りが成就するためでもある、「あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つになるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります」(ヨハネ17:21)。

 「神が御霊をわたしたちに賜ったことによって、わたしたちが神におり、神がわたしたちにいますことを知る。わたしたちは、父が御子を世の救主としておつかわしになったのを見て、そのあかしをするのである」(ヨハネⅠ4:13-14)。聖霊は、クリスチャンが神の中にとどまって一致するのを助け、祈りの中でも父なる神にとりなしてくださる。「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである」(ローマ8:26)。

 このように見ていけば、聖霊という名詞の性がそれぞれの言語でたとえ異なっていたとしても、いずれにせよ、聖霊の第一義的役割が決して女性的、母性的特徴であるとは言えないこと、また、聖霊の母性的特徴によって、イエスの神性が付与されたという主張が聖書に反する誤りであることが分かる。聖霊とイエスは従属関係にあるのではなく、互いに助け合って働かれたのである。

 聖霊を母なるものとして捉えるという、三位一体論に関するこれほど常軌を逸した見解が手束氏の著書にはっきりと現れたのは、私が知る限りでは、『教会成長の勘所』が初めてであるように思われる。しかし、このような異常な三位一体論の解釈の基盤となる考え方は、ずっと以前から氏の著書に現れていた。

 それが、氏がペンテコステ運動において主張して来た「養子論的キリスト論」である。 

<つづく>


クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(1)

5.教会成長論 (続): クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?

1)教会成長論は牧師夫人をも「礼典的・象徴的存在」とする

 これまで、教会成長論は、牧師を「礼典的・象徴的存在」としてあがめるよう信徒に教え、牧師を通さなければ信徒は神と接触することができないと説くことによって、事実上、神と人との唯一の仲保者であるイエス・キリストを否定し、牧師個人崇拝を教会内に敷き、その上、教会役員を牧師の雑用係として私物化することを公然と認める教えであることを確認した。
 教会成長論とは何かということを一言で述べるならば、それは神の栄光と、キリストの御身体であるはずの教会組織を指導者が盗み、私物化することを正当化する教えである。

 さて、『教会成長の勘所』第二部「教会成長的牧師夫人論」に移ろう。
 ここでは、教会成長のために牧師夫人はいかにあるべきかという問題が論じられているが、その内容は結局のところ、教会役員の場合とほとんど変わらない。「礼典的・象徴的存在」としての牧師をいかに効果的に押し上げていくかということが牧師夫人の最重要課題とされており、結局、牧師夫人の役割も、牧師が私物化することを認めている。

 だが、手束氏によれば、教会役員にはない役目が牧師夫人にはある。それは牧師夫人もまた牧師に準ずる「礼典性・象徴性」を持たなければならないということである。『教会成長の勘所』を見てみよう。

「今日の教会の牧師夫人のあり方は、大幅に訂正されなくてはならないであろう。
現実の日本の教会では、牧師夫人は礼典的・象徴的存在であるどころか、まるで下女的存在である。<略>聞くと、教会の清掃なども牧師夫人が先頭に立って行っているという。困ったことには、教会員たちがそのことを当然としているだけではなく、当の牧師夫人もなんらの抵抗感もなく行っているというだけでなく、そうすることに自らの役割アイデンティティーを見出していることである。

そこで、私がそのようなあり方の変更を求めて、教会の雑用は信徒がやるようにし、牧師夫人は雑用から手を引くように促すと、かなりの牧師夫人たちは当惑し、かえって落ち着かなくなるのである。下女的役割が身についてしまっているからである。

 確かに奉仕する姿は尊い。信徒に仕える姿は美しい。しかしそれを常習化してしまうならば、やがて本来の礼典的・象徴的存在としての地位は失われ、下女的存在に堕してしまい、結果として教会は恵まれなくなり、成長してなくなってしまうのである。
牧師夫人はあくまで礼典的・象徴的存在に留まらなくてはならない。そのために雑用からは一切身を引くべきである(たまにやるのは構わない。そうすることによって、一層教会員の信頼と尊敬を勝ち取ることができるが、決して常習化しないように気をつけなければならない)。

 それではいったい牧師夫人は何をするのか。まず礼典的・象徴的存在に適しく自らを磨くべきである。豊かな人格と教養を身に付けるとともに、良き人間関係を築けるように自己練磨しなくてはならない。時として、教養は豊かであるが、信徒との良き人間関係が築けず、信徒との間に様々なトラブルを起こして、牧師である夫の足を引っ張っている牧師夫人を見かける。これはとても残念というより、悲劇的でありさえする。これで、どうして教会が成長することができるだろうか」(p.85-86)

 このナンセンスな文章を改めて議論する必要はないだろう。手束氏は、教会内の雑用を習慣的に行うことは「下女的存在」に堕することだとしている。そのような考えに立つならば、たとえば教会内トイレ掃除を毎週行っている信徒がいれば、その人は「下女」だということになろう。
 牧師と牧師夫人は「礼典的・象徴的存在」であるから「下女」の仕事に携わってはならず、信徒ならば大いに「下女」となってよろしいと主張するこの文章が、どれほど非常識なものであるかは改めて説明しなくとも誰にでも分かるはずだ。これは事実上、信徒を使用人扱いし、教会内に身分制度を認める主張である。

 イエスは言われた、「あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(マタイ23:11-12)。
 御言葉に照らし合わせて、手束氏の言う、一切雑用に携わらない「礼典的・象徴的存在」が聖書の唱える模範に真っ向から反するものであることは言うまでもない。

 この他、牧師夫人に対しては、著書の中で、牧師の身勝手な高い要求が山ほど突きつけられており、お気の毒と言う他ないが、その中から一つだけ、牧師のわがままさ加減が何よりもよく分かる例を挙げよう。この著書において述べられている牧師夫人の重要な役割の一つは、雑用一切から遠ざかった牧師が、毎週、作っている日曜礼拝の説教の「最高の聴き手」となること、すなわち「牧師の最高のファン」になることである。

「かくて、良い説教を作り語ることほど難しいことはない。私は説教を生み出すのに、毎週生みの苦しみをしている。それは、作家が一つの作品を生み出すのに、心血を絞り出すのと似ているが故に、作家と同じくその作品がどのように会衆に受け止められているのかは、どの牧師も大いに気になるところである。
そんなとき、会衆から良い反応が返ってくるならば、牧師にとってこれほど嬉しいことはない。しかしときとして会衆の反応は見当違いの場合がある。正しく説教が意図していることを汲み取らず、どうでもよいようなところで感動していたりする。
その点、牧師夫人はそのような見当違いに陥ることはない。会衆よりは正しく客観的に説教を聞き取る耳を持っているはずである。そのような牧師夫人が、牧師である夫の説教の語らんとするところを正しく汲み取り、感動し、適切な言葉で評価していくならば、その効果たるや抜群であろう。牧師たる夫は、それによって励まされ、翌週の説教もこれまで以上のものをと願いつつ、取り組み始めるであろう」(p.92-93)

 恐らく、こんな牧師は、きっと永久に、自分にふさわしい会衆を見つけることはできないだろう。自分の妻たる牧師夫人に対して、夫の説教のどこでどう感動すべきかまで指図しなくては気が済まず、しかも、それをこのような著書を刊行することで、妻に義務づけようとは…。こうして、内心の自由まで奪われなければならない牧師夫人の哀れさが、著者にはまるで分からないのだろうか…。

 自分への賞賛ばかりを果てしなく求めてやまない駄々っ子のような人間は、教会成長論を語って他人に過大な要求を突きつけたり、「生みの苦しみ」に耐えつつ、毎週、説教を作っては、会衆の反応に失望させられる必要はないから、そんなことよりも前に、まず聖書を通じて、人としての基本を学び直すことから始めた方が良いと思わずにいられない。


2)「霊の父」、「霊の母」とは何か。牧師は信徒の「霊の父」か。

 さて、牧師夫人の「礼典的・象徴的存在」という問題は以上で終りにして、さらに重要な問題に移ろう。手束氏による牧師夫人論の中で核心となるのは、これから述べる「霊の父」、「霊の母」という問題である。

「クリスチャンには三人の父がいると言われる。まず第一には、言うまでもなく、『肉親としての父』である。次に、信仰の対象としての『天の父』、そして第三には、『霊の父』である牧師である」(p.74)。

 手束氏は、プロテスタントでは、カトリックにおける神父という呼び名が使われず、牧師という呼称が用いられているのは、「カトリック的職制に対する反発と、信徒訓練の側面を重視してのことと思われる」(p.74)と述べながらも、「にもかかわらず、プロテスタントにおいても牧師に『霊の父』としての役割と任務があることは否めない。それゆえに、牧師にはどうしても父性的であることが意識的にも無意識的にも要求せられることになる」(p.74)と、職制としての「霊の父」の役割が、教会に必要なのだと述べている。

 だが、一体、ここで言われている「霊の父」とは何のことだろうか。聖書には、牧師に当たる教会指導者を信徒が「霊の父」として敬うようにと教える記述はない。むしろ、聖書が教えているのは、次のことである。

「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。また、あなたがたは地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである」(マタイ23:8-10)

 これは、まさにプロテスタントが拒絶したカトリックの職制としての「神父」を暗示しての台詞ではないかと私は解釈する。これはそもそもキリスト教界における職制としての「父」や「教師」全般のことを指しているのではないだろうか。もちろん、そこには手束氏の言う「礼典的・象徴的存在」としての「霊の父」も含まれるだろう。

 イエスがここで言われたのは、キリスト教界において、制度化された「教師」や、「父」という一般的な役職を作ってはならないということである。キリスト教徒のつながりの中には、俗世間の組織に見られるような上下関係はあるべきでなく、全てのクリスチャンはただ一人の父なる神から生まれた兄弟であるのだから、互いに仕え合うべきだということをイエスは言われたのである。

 そうは言うものの、聖書はクリスチャンの間に役割分担があって、信徒はそれぞれ異なる役割に召されていることを述べている。そして、その中には教師の役目も確かに存在する(ローマ12:6-8)。しかし、それでもイエスがあえて上記のようなことを言われたのは、特定の信徒が、自分に与えられた賜物や、役割を根拠にして、自分こそが父なる神の代理人であるかのようにふるまって、他のクリスチャンに対して、特別に大きな権威を行使し、自分への特別な尊敬を義務づけるような上下関係を役職として定めたりしてはいけないということを言われたのだと解釈できる。

 そこで、私達は考えてみなければならない。クリスチャンの間では「父」と呼ばれる人があってはならないとイエスが教えているのに、牧師と信徒が、霊的な絆において、父と子に相当する関係に置かれて良いものなのか。そこから、一体、どのような結果が生じるのだろうか。
 カルト化した教会のいくつかでは、実際に、牧師は「霊の父」であると信徒に教えられていた。そのことを考えても、結論から先に言うならば、牧師が信徒の「霊の父」になることは、ただ聖書の記述にそぐわないばかりか、実際に、大きな危険を含んでいるのである。

 だが、手束氏はここから進んで、牧師が父性的な役割を担う「霊の父」であるならば、牧師夫人は信徒の「霊の母」でなければならないと言う。それには、以下に記すように、二つの理由が挙げられている。一つ目は、教会には父性原理と母性原理の両方がバランス良く働くためであり、二つ目は三位一体の新しい解釈にあるとされている。


3)キリスト教には母性原理が補われる必要があるのか。

「著名な心理学者河合隼雄氏によると、父性とは『切断する』ことにその特性を持っている。物事を上と下に、善と悪に、主体と客体に分類して、秩序付けや成長を促していく。他方、母性とは『包含する』ことにその特性があり、すべてのものを良きにつけ悪しきにつけ受容していくのである。

人間が精神的に健全に成長し成熟していくためには、どうしてもこの父性原理と母性原理のバランスが必要なのであり、どちらかに偏重すると、いろいろな点で不健全さ、不安定さを免れ得ない。河合隼雄氏は日本社会の様々な病理的現象の背後には、父性が欠如し、母性が過剰になっているとことにあると分析している。さらに遡って河合氏は、このような日本の母性文化の発生の理由を、日本の宗教の母性的性格に見ている。日本人は『父なる宗教を知らぬ国民』なのである」(p.74-75)

 手束氏は、河合隼雄氏の意見を根拠にしながら、人間社会においては、母性と父性のバランスがほどよく保たれなければならないと言う。父性が「切断」の原理であり、切り分け、裁くものであるなら、母性は「包含」の原理であり、愛し、赦すものである。社会において母性が過剰になると、甘えがはびこり、父性が過剰であると、人を裁き、排除するばかりとなる。手束氏はこれを根拠にして、教会内社会にも、母性と父性のバランスが保たれなければならないと結論づける。

 さて、父性を切断と分割の原理、母性を赦しと包含の原理としてとらえ、キリスト教は父性的な側面が強すぎる一方で、包含するという母性的側面が欠如している宗教であるという考えを述べたのは、河合隼雄氏ばかりではない。禅者の鈴木大拙氏も同様の見解を著書の中で述べている。
 鈴木大拙氏によれば、切断するという父性的な特徴は、西欧文明文化や科学の発達の根底となっており、他方で、包含するという母性的な特徴は、東洋文化の根底に横たわっている。そしてキリスト教の父性的な二分性の原理は、知性の発達、すなわち西欧科学文明の発達を支えてきた。

「分割は知性の性格である。まず主と客をわける。われと人、自分と世界、心と物、天と地、陰と陽、など、すべて分けることが知性である。<略>知るものと知られるもの――この二元性からわれらの知識が出てきて、それから次へ次へと発展してゆく。哲学も科学も、なにもかも、これから出る。個の世界、多の世界を見てゆくのが、西洋思想の特徴である。」 (『東洋的な見方』、鈴木大拙著、上田閑照編、岩波書店、1997年、p.10-11)

 世間でも、キリスト教には厳しい二分性があるとよく言われる。聖書においては、創造主と被造物、神と人間、善と悪などがはっきりと区別されて対比され、人は神によって造られたもの、神によって知られる者であるから、客体としての側面を持っている。被造物としての人間には、創造主である神に従う従順が要求される。
 旧約聖書を読めば、創世記におけるノアの洪水、ソドムとゴモラの街の滅び、エジプトから脱出するためにモーセによって荒野に導かれたイスラエルの民の多数が、神に反逆したことの報いとして剣や病に倒れたなどの記述があり、多くの人間が神に従えなかったことの報いとして滅ぼされている。
 新約では、イエスの与えた十字架上の赦しによって、人は律法から解放されてはいるものの、依然として、十字架を受けいれられず、御子イエスを通して父なる神との正しい関係を築くことの出来なかった民は救済の対象にならない。新約・旧約を問わず、聖書においては、父なる神を信じ、その規範に従うか従わないかが、人の生涯の決定的な分かれ目となっている。
 クリスチャンでない人々は、このような神による裁きや、神への服従が求められる話を聞くと、恐れと不満を感じ、キリスト教の二分性はあまりにも人間に容赦のない、残酷なものであるからこの宗教は受け入れ難いと結論づけることが多い。

 キリスト教の二分性は、確かに、多くの非キリスト教徒の不満の源になってきた。いや、本当のところを言えば、不満の根源は、二分性にあるのではなく、キリスト教における人間の客体性にあると言えるだろう。キリスト教では、人は神との関係から絶対に逃れることができず、人はみな神の御前での正しさを求められる。人が絶えず神によって探られ、従順を求められる対象であることが、キリスト教を信じられない多くの人々にとって不満なのである。
 神と無関係でいられる人間の自由、神を持たない自由、神に脅かされずに生きる自由、神に裁かれない自由、つまり人の神からの自由というものは、キリスト教にはない。聖書は神の物語(His-story)であって、人間が主役の物語ではない。絶対者である神との関係をいかに築くかが、神が人に与えられた御子の贖いの十字架に対していかなる態度を取るかが、キリスト教においては、人間の生涯を決定する重大な分かれ目である。絶対者である神を人が拒否することは神への反逆となり、人間に滅びをもたらす。この有無を言わさぬ「人間の客体性」、被造物としての客体性、神によって裁かれ、神によって心を探られ、評価される者としての人間の客体性が、キリスト教を受けいれられない人々にとっては、人間の自由を束縛する、まことにいとわしいものであり、この宗教のひどい欠点のように映るのである。

 このような、キリスト教の持つ二分性、排他性を、残酷さや非人間性としてとらえる人は昔から多かった。洪水などの聖書的記述だけでなく、カトリックにおける異端審問や、魔女狩り、十字軍、戦争などの歴史的事件や、現代キリスト教界における分裂抗争を引き合いに出して、これぞキリスト教の排他性、寛容さのなさ、二元論の残酷さが招いた結果ではないかと詰め寄る人々もいる。

 全知全能の神、畏れをもって崇めなければならない父なる神というものに対して、人間はどうしても何かしらの抵抗感を持たずにいられないようだ。そこで、キリスト教は、裁き、切断する父性ばかりが過剰であり、全てを赦し受け入れる母性が欠落しているがゆえに、大衆に受けいれられるはずがないという主張が生じる。厳しすぎる父なる神ではなく、優しい母なる神が欲しいと主張する人たちが出て来る。ここで、母性的な要素を多分に含んでいる東洋の宗教の方が、キリスト教よりも日本人には合っているという結論に至る人も多い。

 話が脱線してしまうが、鈴木大拙氏もやはりキリスト教的二元性には大きな短所があると主張する。
「西洋文化といえば、ギリシャ、ローマ、ユダヤ的文化の伝統ということになる。その不完全さは、宗教の上に最も強くあらわれる。自分はキリスト教をみだりに非難するのでなく、また悪口するものでない。
これはいうまでもないところだが、キ教には、二分性から来る短所が著しく見え、それが今後の人間生活の上に何らかの意味で欠点を生じ、世界文化の形成に、面白からぬ影響を及ぼすものと信ずる。キ教はこれを自覚して、包容性を涵養しなくてはならぬ。」 (『東洋的な見方』、p.170 太字は筆者による)

 キリスト教の二分性から生じる著しい短所が、世界文化の形成や、今後の社会形成にまで必ずや行き詰まりをもたらさずには置かないだろうと、鈴木大拙氏が主張する理由は大体、以下の通りである。

 キリスト教の二分性は、「われ」と「他者」分割して把握するという認識方法をもたらしたことにより、西洋的な知性の発達を促し、西欧社会において科学を発達させた。それにより、現代社会は、網の目のようにはりめぐらされた無数のシステムが連なる場所となった。

 現代社会はどこまでもつづく人間関係のしがらみが網の目のようにはりめぐらされた一個の大きなシステムであり、その中には無限に重なり合う蜘蛛の巣のような無数の組織があって、一人ひとりの人間はそこにからめとられ、閉じ込められている。
(教会成長論やら、セル・グループやら、弟子訓練やら、トランスフォーメーションやらの計画も、このような文脈で捉えるならば、巧妙なシステムの一つであると言える。)
 このどこまでも重なり、続いてゆく人間社会の組織の中に組み込まれた人類は、組織に束縛されて、創造力を失いつつあり、一般化、平均化の道を辿っている。人間そのものがモノ化され、機械化されるという非人間性が、社会に平均化と衰退をもたらしつつある。

 もともとシステムは世界に存在するものであり、人間はそこを離れては生きられない生き物である。世界そのもの、宇宙全体がシステムであると言える。だが、現代人の問題点は、システムの探求と、新たな組織を作り出すことばかりに熱中し、結局、組織に緊縛されて、かえって人間らしさを失っているところにある。人間が次々と作り出す新しい組織は一見、社会を効率よく動かすように見えて、その実、人間を閉じ込めて束縛する。次々と作り出される新型の機械は便利であるように見えて、その実、機械の欠陥によって人間が振り回され、使役されているような始末である。

 システムは人間を拘束する。組織の中にいる「われ」は永久に「他者」から自由でない。会社における自己、学校における自己、家庭における自己など、現代社会において、人は他者との相関関係においてしか自己を認識することができない悩みに陥っている。他者との相対的な関係をどれほど考え抜いても、人は絶対的に自由な自己というものにたどり着くことはできない。
 「われ」に対して常に「他者」が対比させられる世界では、かけがえのない、絶対的な価値を持つ自由な個人という認識は生まれない。そこで、個と個とが二分されたと言いながら、結局、西欧的世界観においては、「われ」は「他者」から決して自由にならない。「われ」は、社会のシステムの中に永久にネジのような部品として組み込まれたまま、社会の歯車の動きが変わる度に、移動を求められ、他者から新たなる負荷をかけられて苦しんでいる。その結果、時にはシステムから受ける圧力に耐えられず、「われ」が折れるか、卵のようにはじけて割れてしまうことも起こるだろう。

 システムの中における「われ」は一見、安楽な位置を見いだしているように見えて、その実、本当の自分自身を見失っている。こうして、「われ」が永遠に「他者」によって拘束される奴隷であり、圧迫される存在でしかないのが西洋的世界観だということになる。

 鈴木大拙氏は、大体、以上のような形で、西欧文明社会を動かしてきた二分性の原理の短所を指摘した上で、今後は、東洋的・母性的な包含の原理に価値を見いだし、東洋的なもの(母性的なもの)を補うことによって、人類はシステムによる緊縛という窒息状態から抜け出さなければならないと言う。

「なぜ、西洋的に見たり考えたり行動したりしてゆくと、行き詰まりを見なくてはならぬかというと、人間の生きている世界は、五官で縛られたり、分別識で規定せられる外に、いま一つ別の世界があるのである。これを明らかにしておかぬと、人間は生きてゆけぬのである。生きていると思っていてもそれは自己欺瞞で、虚偽の生涯である。『今一つ別の世界』などいうと、また数の概念に収めこんで、そんなものが、この可視的、可把握性の世界の外にあるかのごとく、思惟せられるのであろう。これが言葉なるものの短所で、禅者はことにこの点に気を配る。」(『東洋的な見方』、p.22)

 システムの奴隷状態という因果の世界、業の世界を抜け出すために、禅は何を提唱するのだろうか。この記事の本題を少し脇に置いて、耳を傾けてみるならば、人間らしさを取り戻すためには、情性的、意欲的なものを取り戻さなければならないと大拙氏は言う。それがさとりである。さとりと言うと、知性の極みのことのように聞こえるが、そうではなく、真のさとりとは、知性そのものを超越したところ、行動と知性の完全な一致、全一的なものへの統合にある。このさとりを通して「今一つ別の世界」にアクセスし、この世を生きながら、同時に、この世の業に束縛されることのない、生き生きした本来の自由な自己を取り戻すのが理想だというのである。

「人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである。すなわち薄っぺらだということになる。これに反して情意的なものは未分的すなわち全一的であって、人間をその根本のところから動かす本能を持っている。人間は行為を再先にして、それから反省が出る、知性的になる。知が行を支配するようになるのは、知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになるところが出なくてはならぬ。
アダム、イブの世界には『行』のみがあって『知』がなかった。それでエデンの楽園が成立した。一旦、知が出ると、失楽園となったのである。入不二法門の世界では、その知をそのままにして、もとの行の世界、意の世界を、新たな面から再現させている。この点で入不二界はエデンと相違するのである。一段の進出といってよいのである。二度目の林檎を食べぬといけない。」(『東洋的な見方』、p.195-196)

 別な宗教の信者によって書かれたにも関わらず、この記述には大いに考えさせられるところがある。アダムとイブは自らの意志で善悪を知ろうとすることによって、神に反逆する存在となった。神の戒めを破ることで、彼らは神と人との関係が何であるかを逆説的に確かめようとした。二人は善悪を知ったのではなく、悪に関する知識を新たに獲得しただけであったが、悪という反意語に照らし合わせることによって、善とは何かを知ろうとしたとも言えるだろう。

 だが、新たに獲得した知性は、彼らを神から遠く引き離した。彼らが善悪を知ろうとして神の戒めを破ったその行いが、人間を堕落へ導いた。人類は知識を獲得したが、それは正しい知恵とはならず、人は神との交わりを失って、神のおられる調和の世界から疎外されて、神との断絶の中で生きて行かなければならなくなった。その時から、生まれながらの人類は堕落した知性を道しるべに生きている。地球上のあらゆる動物は知性によって悩むことなく生きているが、人間は自ら知性を働かせ、思考し、もがき、真理とは何かを探し求める。楽園とはこの世の地理的・空間的な場所のことを言うのではなく、神との関係が調和の中に回復すること、神のおられる世界から疎外されることなく生きること、神の永遠のまことの命から断絶せずに生きることである。それができなくなることが、失楽園なのである。

 この世が堕落した失楽園の世界であること、つまり、因果の世界、業の世界であり、人間の生まれながらの生は不自然であり、不調和であるということに、ほとんどの宗教は異論がない。そもそも人が何も考えず、この世を無条件に楽園と捉えることができたならば、宗教などは一切人間に必要なかっただろう。この世は宿業にとらわれた世界であり、どうにかしてそれを超越する方法が欲しいという人間側のあがきが、また新たに無数の宗教を生み出し続けていると言ってもよく、仏教、キリスト教ともにこの世に対する問題提起は変わらない。だが、どうすれば神との疎外関係を解消し、人間が自己存在を調和の中に回復できるのか。禅の言葉で言えば、それは「神」ではなく、「ローゴス以前」の万物との一体感ということになるようだが、どうすればそれを取り戻すことができるのか、どうすれば失楽園の苦しみから抜け出せるのか。

 禅はさとりによって「二度目の林檎を食べる」、すなわち、この世に生き、苦しみの源である知性を持ちながらも、同時に、知性と行いとの不調和をなくして、「ローゴス以前」の世界に飛び込んで生きることができるようになると提唱している。そのさとりを得るために修行が必要となり、その修行の長さ、厳しさは各自によって異なるようであるが、ともかくも、それによってこの因果の世界に生きながら、同時に、行いと知性との分割以前の境涯に達して生きることができるとしている。
 ここにはいつまで経っても逃れられない神との関係から来る人間の苦しみという問題はない。さとりによってこの世の因果を超越することができた人間は、「今、ここに生きている」という主体的な感覚を取り戻すことができるとされている。それを得るまでには気の遠くなるような時間を経なければならないかも知れないが、ともかくも、人間はその開放へ向かっている。しかも、一度限りでなく、繰り返される生の中で、個々人はさとりの完成を目指し続けているという。これは魅力的な教えであるし、実際に、学べるところも大いにあるだろう。

 他方、キリスト教は、御子と共に十字架上で己の死を経験することによって、人は罪と死に定められるだけの律法から解放され、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(コリントⅡ5:17)という境地、つまりキリストの新しい復活の命によって生かされるに至る。それによって、禅者の言うような開放が得られるのだろうか? 絶対的に自由な自己を取り戻すことができるのだろうか? 因果の世界からの完全な開放が得られるのだろうか? 知性と行いの完全な一致に到達できるのだろうか? 

 確かに、部分的にはそうである。御霊によって生まれ、キリストが内に住んで下さることにより、クリスチャンは罪を赦されて、神との断絶を癒され、神との調和の中に回復され、神によって受け入れられる神の子供となり、御国の前味を味わうことが許されている。イエスは言われた、「しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなた方のところにきたのである。」(マタイ12:28)。御国は一人ひとりのクリスチャンの内にすでに来ている。御子と共にこの世に対して十字架につけられ、御子のよみがえりの命によって生かされることにより、信仰者は神をいとうのではなく、喜ぶようになり、神を恐れ、避けるのではなく、父なる神としてたたえ、崇めて生きることができるようになり、「生きることはキリスト」(ピリピ1:21)と言えるほど、キリストのよみがえりの命に生きることの意義を大胆に、深く知ることはできる。このことによって、神が本来人間を創造したもうた目的、真に健やかな人間のあり方を知ることは可能である。十字架の死を通して、この世から自由にされ、神との調和の中に入れられ、御子の汚れのない永遠のいのちによって生かされ、神が天に蓄えられた無尽蔵の富を前味として味わうことが許されている。

 しかしながら、生まれながらの人間のうちには、密かに十字架をいとう気持ちがあり、いつでも、神から自由になりたいという気持ちが潜んでいる。神を喜び、神に従いたいと心から叫んでいるつもりでも、もう一方では、神によって支配されたくない、被造物という名で呼ばれたくない、自らこそが何者にも支配されない絶対者となり、造物主となりたいという反逆の願いが、人の心の奥底にある。その思いが、人をキリストのよみがえりの命から引き離し、むしろ、自分の生まれながらの命によって生きさせようとする。「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである。」(エレミヤ17:9-10)

 キリスト教においては、地上に生きる限り、完全な解放というものはまだない。パウロが「わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている」(ローマ7:18)と言っているように、人の生まれながらの肉、「罪の法則」(ローマ7:23)に支配された肉が、神に絶えず逆らっており、クリスチャンは神が与えられた新しい人と自分の生まれながらの古い人との葛藤の中にある。クリスチャンは「肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている」(コリントⅡ5:6)。そこで、クリスチャンの真の解放は、来たるべき主の再臨の時に、「滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望み」(ローマ8:21)にある。キリストがやがて来られる時、罪と死の法則に支配される肉と、サタンの支配するこの世から完全に解放され、主と共に栄光にあずかる者とされる。それまで、肉とこの世に対しては十字架の死の立場にとどまりながら、救いを失わないよう、しっかり目を覚まし、神の御心に従って永遠に至る実を結ぶように生きていくのである。

 再臨の時が来るまでは、人と神との間にある隔たりが完全になくなることはない。また、堕落したこの世が終わりを迎え、サタンが滅ぼされ、新天新地が来るまでには、まだ時を待たなければならない。そこで、クリスチャンは神に受け入れられ、神との疎外関係が解消した後でも、この地上にある限り、一生を通じて、父が子を訓練するように、神によって子として訓練される。ここに、キリスト者がこの地上において逃れられない苦しみがある。それは罪ゆえの神との疎外という苦しみではないかもしれないが、依然として、神に近づき、キリストの似姿へと変えられるために試練は避けては通れないものである。

 また、信仰生活が進めば進むほど、クリスチャンはますます神が全面的に自分を占有されようとしていることを知るはずである。「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。」(マタイ10:37-39)。このような信仰を貫き通すのには困難が伴う。キリストを信じることが自分にとって益になるうちは、人々は喜んで従うものの、キリストの御名のために迫害や試練が起こって十字架を負うことを求められる時、つまずきが起こる。自分の自由と栄光を確保しておきたいと願って、キリスト教を捨ててしまうことがありうる。

 結局、この地上に生きる限り、苦難を忍ばねばならず、真の栄光と自由にはまだ到達できないのがクリスチャンである。天で約束されている豊かな朽ちない宝を得るまでには、まだ時が必要である。そのせいで、待ちきれなくなって自ら終末を作り出そうと願い、正常な教義から逸脱していく人々も出現している。

 これはなかなか人に優しい教えであるとは言えないだろう。むしろ、生まれながらの人にとっては最も厳しい宣告であるとも言える。生まれながらの人が罪によって堕落しているため、悔い改めが必要だと教えるだけでなく、聖書の御言葉を、内なる聖霊を通して、ただ信じるということ以外には、クリスチャンには何の保証も与えられていないのだから。誰がこれを自力で達成できる人がいるだろう? そこで、この教えに不満を持って、人に優しいキリスト教を作り出そうとして、新たにパン種をつけ加え、水で薄めようとする人たちも後を絶たないが、そのようなことをすると、それはもう聖書から逸れて、異端になってしまうのである。

 ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中には、イヴァン・カラマーゾフが空想の中で作り出した大審問官が、イエスに向かって反論する有名な場面がある。キリストは人間に高望みしすぎたのだ、イエスの教えだけでは大多数の無分別な人間は到底、救いには達し得ない、だから、イエスの教えとは別のヒューマニスティックなシステムを考案して、自分こそが彼らを救ってやるのだ、これは正しいことなのだと、大審問官が言っているのも、あながち理解できないことではない。

 確かにキリスト教は「狭き門」であり、「命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」(マタイ7:14)と、初めから言われているのである。イヴァン・カラマーゾフの大審問官と同様に、人に優しい宗教を開いてやろうと、もっと大きく、広い門を作って、多数の信徒を呼び込み、教会の成長をもくろんだがために、聖書の真理から逸脱していく例は、今日も後を絶たない。

 さて、あまりにも長い脱線であったので、本題が何であったかすでに忘れられてしまったに違いないと思うが、とにかく話を元に戻そう。キリスト教には父性原理が、すなわち、切断とふるい分けと裁きだけがあって、全てを包含する寛容性が足りない、キリスト教には母性原理が足りなさ過ぎる、こんな非人間的宗教であっては社会に悪影響を与え、人を精神的な病に追い込むから、キリスト教も母性の不足を補うよう努力しなければならないという批判があるということを、私たちはすでに確認した。

 しかし、ここではっきりとこの批判に答えておこう。このような批判があるからといって、クリスチャンはそれに耳を貸してはいけない。聖書の教えに何か重大な欠けがあって、キリスト教徒は早急にそれに何かを付け加える必要があるようなことが言われる時に、それを信じてはならない。その批判に応じようとして、「母性を付け加えよう」としてはいけない。聖書は完全な御言葉なのであって、それが人に優しく感じられるか、厳しく感じられるか、という人間側の都合を基準にして、切ったり貼ったり、足したり引いたりしてはいけないのである。

 ちなみに、前述の鈴木大拙氏は、キリスト教に母性原理が欠けているという「欠陥」を補うために、プロテスタントにも聖母マリア的な要素が必要なのだと提案している。

「マリアはキリスト教やユダヤ教本来のものでなくて、東洋からの輸入だと自分は考えている。マリアのない新教が後退しがちであるというのは、今日、世界一般に見られる形勢でないかしらん。<略> いずれにしても、『宗教』には、マリアと観音がなくてはならぬ。それがないと『宗教』は親しまれぬ」(『東洋的な見方』、p.62-63)

 私たちは「人に親しまれる宗教」を開こうとしているのではないから、こんな主張に耳を貸す必要はそもそもないのだが、手束氏はおそらくこうした批判を考慮に入れてのことだろう、『教会成長の勘所』の中で、プロテスタントが父性的宗教になりすぎたことを反省してこう書いている。

「ところで、<略>その後のキリスト教の歴史においては、どちらかと言うと、母性的要素がことさら抑えられてきたように思える。特に我らプロテスタント教会はその感が強い。
カトリック教会の場合は『マリヤ崇拝』を導入することによって、何とか父性の偏重にバランスをとろうとした努力がうかがえるのであるが、プロテスタント教会は“聖書のみ”の立場から、聖書からは導き出し得ない『マリヤ崇拝』を廃棄せざるを得なかったのである。その結果、プロテスタントは、<略>極めて父性的で、厳粛な宗教に陥ってしまったのである

しかしそこには人間性の安定や健全さを求めることは難しく、従って、プロテスタント国においては精神的な病を患う人々がより多く排出されることになったのである。父性というのは、上と下、善と悪を峻別して、秩序立てていこうとするので、どうしても心理的葛藤が起こりやすいからである」(p.76-77)

 手束氏はこうしてプロテスタントにおける「父性偏重」を批判し、母性的なものを補うことの必要性を主張する。だが、一体何によって、彼はプロテスタントに母性的なものを補うのだろうか? 氏の主張は驚くべきものである。彼はこれから新しい何かの要素を導入しようというのではなく、何と、聖書には初めから、父性的な神という側面だけでなく、母性的な神の側面もあったのだと言うのである。
 

<つづく>
 


教会成長論という強盗の教え(2)

3)教会成長論は教会役員を牧師専用の雑役夫にまで貶める

 聖書は言う、キリストは「ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである」(エペソ4:11-13)

 教会はキリストの身体であり、キリストを頂点として、全員が一致して愛のうちに仕え合うために全ての役割が存在する。もしも執事という役職が、教会の中にあるならば、それも他の役割と同様に、キリストの一つなる身体に、信徒全員を結び合わせるために存在するものでなくてはならない。
「キリストを基として、全身は全ての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである」(エペソ4:16)

 だが、『教会成長の勘所』が唱えている教会役員すなわち執事の存在理由は、それとは全く別のところにある。

教会役員の役割

 執事選出の意味と役割の第一の理由は、四節に記されている。
『私達は、もっぱら祈りと御言葉のご用にあたることにしよう』。
霊的指導者が祈りと御言葉のご用に専念できるように、執事が必要だというのである

なぜなら、祈りと御言葉の説き明かしこそが教会の中心的生命であり、このことが十分に果たされる時、教会は教会たりえるからである。逆にこのことが軽んじられるならば、どんなに社会的に大きな働きをしようとも、教会は教会でなくなっていく。霊的生命力が衰えていくからである。
かくて牧師たるものは祈りと御言葉のご用に専心することに心掛けるべきだし、執事はこのことのために心を砕くべき立場に置かれているのである。」(p.19-20 太字は筆者による)

 こんな主張に惑わされてはならない。すでに見てきたように、使徒行伝第6章で使徒が言った、「『わたしたちが神の言をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない。<略>…七人を捜しだしてほしい。その人たちにこの仕事をまかせ、わたしたちは、もっぱら祈と御言のご用に当ることにしよう』」という記述における「わたしたち」の中には、使徒たちだけでなく、信徒全員が含まれている。教会全体が、信仰と直接関係のない揉め事から解放されるために、7人は選出されたのである。
 ところが、手束氏は文脈を一切無視して、この時の7人の「執事」は、ただ「霊的指導者」だけが「祈りと御言葉のご用に専念できるように」とりはからうために選ばれたのだとする。

 さらに、手束氏は驚くべき解釈を続ける。氏によれば、執事、すなわち教会役員の第一の役割は「牧師に経済生活での煩いをさせない」ことであり、第二に、「牧師が雑用に忙殺されないように配慮すること」だとするのである(p.20)
 つまり、牧師を金の心配と、信徒のための各種の煩わしい雑用から解放するために、執事という職が教会に存在するのだと手束氏は言うのである信徒を整えてキリストの身体を建てさせるためではなく、牧師個人の煩いを極力なくすために役員が存在しているというのである

 これほど文脈を無視した聖書の読み方があるだろうか。本来、会衆全体が信仰生活に専念できるように、教会全体の機能を整えるために選出されたはずの7人の役割が、手束氏の解釈によれば、ただ「霊的指導者」だけが雑事に追われないで済むように、彼らの代わりに用事を片付ける雑役夫に変えられ、さらに、霊的指導者が金策に追われなくても済むように、彼らに金を貢ぐための後援者へと変えられてしまっているのである。

「執事の心砕きは、具体的に次の二つの点で考えられるべきであろう。
一つは、牧師に経済生活での煩いをさせないということである。日本では牧師の教会からの謝儀が低くて、多くの牧師たちがアルバイトをしているという現状がある。これでは祈りと御言葉のご用はなおざりにならざるを得ない。
牧師に本来の職務に集中してもらうために、執事は牧師が経済生活に困ることがないように十分に配慮しなくてはならない。日本では牧師が経済的に困窮することを当然視する向きがあるが、とんでもないことである。
それは教会の、特に執事たる者の恥と心得るべきである。

 第二の点は、牧師が雑用に忙殺されないように配慮することである。牧師という仕事には存外雑用が多い。教会の事務上の仕事は無論のこと、信徒たちの生活に係わる様々な世話などに多くの時間が費やされる(結婚、就職、はては住居の世話までも)。しかし、これは良くない。牧師が本来の祈りと御言葉のご用に打ち込めるように、執事たちがこれらの雑用を引き受けるべきである。

私はよく他の教会の牧師からの驚嘆の声を以って問われる。『あなたは、あのように成長し続ける大きな教会を牧会し、国内外の伝道旅行にもよく出かけられて多くの教会の面倒を見、しかもその上、次々と著書を出されるのは常人には考えられない仕業だ。何か秘訣があるのか』と。
秘訣は確かにある。それは雑用を一切しないということである。執事たち(もちろん副牧師や伝道師たちも)がすべての雑用を引き受けてくれている。特に二人の秘書担当執事は、私のプライベートな雑務もこなしてくれるので、私は自分本来の仕事にのみ専念できるのである。」(p.20-21)

 開いた口がふさがらないとはこのことだろう。
 これだけはっきりと宣言しているのだから、本当に、手束牧師は日用の雑事を一切、教会役員に任せているのに違いない。秘書がプライベートの雑務も引き受けているそうだから、牧師の服の洗濯や、牧師館の掃除、料理、庭仕事なども、きっと牧師の仕事ではないのだろう。もちろん、文書の印刷、手紙への返事、メールの送受信、そんな用事に、牧師が手ずから関与しているとはまず想像できない。

 氏は書いている、「日本教会宣教研修所」の研修員だった時分に、「彼女たち(注:秘書)は私のために多くの資料を作ってくれただけでなく、私の文書を私に代わって書いてくれたのである。私に代わって自分の文書を書いてくれたのではない。私に代わって私の文書を書いてくれたのである。秘書とは何とありがたいものだろうかと、私はつくづく思わされたのである」(p.123)。

 つまり、手束牧師の秘書となった教会役員は、牧師が提出しなければならなかったレポートのゴースト・ライターの役割さえも引き受けたということが書かれている。著作権という概念は記憶から消滅しているらしい。こんな種明かしを自慢げにされてしまうと、氏の一連の著作の本当の著者は誰なのかという疑惑が生じない方がおかしいくらいである。

 こうして、手束氏が牧師のためのただの雑用係とみなしている教会役員には、存外、人並み以上の優れた資質が求められている。執事となるために必要な具体的条件は、テモテへの第一の手紙第3章を引用して、色々と挙げられているが、ここでは省略しよう。

 もちろん、氏は「最初から理想的な執事などいない。信仰と期待をもって、忍耐強く養い育てていく他はない」(p.31)としながらも、同時に、ある人が教会役員にふさわしいかどうかは、必ず牧師によってチェックされなければならないと述べている。
「信徒が信徒をチェックするのではなく、教職者がチェックするのである。
その人の礼拝や祈祷会などの集会出席状況について、また献金状況について(滞納していないか、什分の一献金をしているか否か)、また家庭集会や職場において問題がないかどうかなど、チェックするのである。
執事は他の信徒たちの模範としての存在なのであるから、これらのチェックを通して、ある一定の基準以上を満たしていないと、他の信徒たちに対して示しがつかない、ということがあるからである」(p.39-40)

 苦笑せざるを得ない。献金は本来自主的なものであるはずだが、執事が献金を「滞納していないか」どうかが調べられるのだそうだ。まるで借金の取り立てのような表現である。さらに、牧師の雑用係として任命されるために、執事は家庭や職場までが調査対象になるのだそうだ。お気の毒と言う他ない。

 このようにして、他のクリスチャンの模範となるような、優れた資質を持つ人材が教会役員に選出されるわけだが、手束氏は、彼らをキリストの身体全体を建てあげるために用いるのではなく、牧師一人だけのご用をさせるために、私物化してしまう。そして、役員を自分の手足のように使役することによって、自分だけが、あらゆる煩雑な用事から解放されて、残る時間をひたすら伝道旅行や、各教会に招かれて出かけて行くことや、印税のもととなる著書を書くことなどに費やすのである。さらに、それが教会成長の手本であり、教会はその例に習うべきだと豪語してはばからないのである。

 果たして、この教会の執事にはほとんど給与が支払われていないのではないだろうかという推測が生じる。もしも全ての執事に対して、使用人としての働きに見合った正当な給料を払っていれば、教会財産はほとんど残らないであろう。それどころか、氏が言うには、教会役員には牧師を経済的に支える役割が第一義的にあるそうだから、この熱心な役員らの奉仕はほとんど無報酬に近いものとなっているに違いない。いや、きっと、役員自ら牧師に金を払って牧師に仕えさせていただいているというのが実情ではあるまいか。

 まことに恐るべき教えである。この教えは、神と信徒に仕えるためにこそ存在しているはずの教会の重要な役職を、牧師が公然と私物化して、自らの使用人にしてしまうことを許可しているばかりか、それが模範であるとさえ主張するのだ。
 ここで勧められている牧師の生活とは、要するに、雲上人(うんじょうびと)の暮しであり、庶民から遠ざかった貴族生活と呼ぶべきである。事実上、牧師が教会を私物化し、役員を使役することによって、貴族的生活を送ることを教えているのである。こんな主張は、前代未聞である。

 手束氏によれば、「良い執事は教会にリバイバルをもたらす」という。
 それは、「執事が教会の雑務を負うことにより、牧師が霊的修養に徹することができ、霊的実力が蓄えられるから」(p.28)だけでなく、さらに執事が自らを否定して憎まれ役、汚れ役に徹していくとき、それは牧師を守る防波堤をなし、牧師の礼典性、象徴性を保持していくがゆえに、社会的地位のある人々をも救いに導くことができるようになる」(p.29)からだという。

 使徒行伝の記述には、使徒時代の教会は、7人の担当者が選ばれて、配給問題の解決に当たった後、クリスチャンが増えていき、祭司も多数、信仰を受けいれるようになったとある。驚くべきことに、手束氏は、祭司たちのような「上流階級、裕福で社秋的地位のある人々」(p.29)がこの時、キリスト教に帰依した最も大きな理由は、何よりも「7人の執事たち」の功績にあったのだと言う。

「それは、一つには使徒たちの中に働いている聖霊による霊的実力を認めざるを得なかったからであるが、最も奥深い理由は、七人の執事たちが使徒たちを礼典的存在、象徴的人格として防護し、押し上げていったからである」(p.29-30)。

 「聖霊による霊的実力」という何やら不可解で薄気味悪い言葉には、今はこだわるまい。いずれにせよ、使徒行伝第6章には、選ばれた7人が、使徒たちを「礼典的存在、象徴的人格として防護し、押し上げていった」という記述は一切ない。彼らはただ配給に関する問題の解決に当たるために選ばれただけであり、使徒たち専用の雑用係として任命されたのではない!!
 にも関わらず、7人の配給問題担当者が使徒たちを「礼典的、象徴的人格」として防護し、押し上げていったことこそが、初代教会に社会的地位のある祭司や信徒が多数、来るようになったことの最も奥深い理由だと手束氏は言うのである。ユダヤ教の祭司たちがキリスト教に改宗したのは、使徒たちのうちに働く力強い聖霊の力のためというよりも、むしろ「7人の雑用係」の功績の方が大きかったというのである。

 この言語道断な論理をそのまま現代に適用すれば、一人の平凡な牧師と、7人の優れた雑用係が存在するならば、日本中どこかしこにも「リバイバル」が起こることになるだろう。教会成長論は一行で終わる。だが、果たしてそのような簡単な方法が現実的に有効ならば、一体、なぜ日本のクリスチャン人口は何年経っても未だ1%未満のままなのであろうか?

 さらに卒倒するような主張が続く。

「象徴的人格としての牧師がその四次元の恵みと祝福を信徒にむけてふんだんに流し出す管となるためには、信徒の牧師に対する信頼と尊敬とがしっかりと確立されていなくてはならない。
けれども、もし牧師が信徒間のゴタゴタや雑事に手を染めていくならば、信頼と尊敬は減退し、従って象徴性は損なわれていき、結果信徒に流れ出る恵みと祝福は消失していくということになる。かくて牧師が信徒の面倒を見れば見る程、却って天来の恵みと祝福が信徒に注がれなくなってくるという皮肉な結果が生じてくるのである。

かくて、執事の重要な役割は牧師を信徒間のゴタゴタや日常的なもろもろの泥にまみれることから遠ざけ、むしろ自らが憎まれ役や汚れ役となるところにある
自らは敢然として、他の信徒からチヤホヤされようとする行き方(注:誤植?)を拒み、むしろ牧師に代わって憎まれ役、汚れ役に徹することのできる執事こそ、良い執事なのである。
そして
このような執事がどれだけいるかによって、その教会の恵みと祝福の度合いが決定し、さらにはその教会の成長のあり方も決まっていくと言っても、決して過言ではない
だろう。」(p.22-23)

 なんと呆れるような話ではないだろうか。氏によれば、牧師が信徒の面倒を直接、見れば見るほど、牧師への信徒の信頼と尊敬が減退し、信徒には恵みと祝福が注がれなくなっていくのだそうだ。だから、教会役員が牧師に代わって、信徒のための煩わしい面倒を全て引き受け、牧師のために徹底した憎まれ役に徹することによって、牧師を信徒との煩わしい一切の接触から遠ざけねばならないそうだ。さらに、そのような憎まれ役執事が何人いるかによって、教会成長のあり方が決まるというのだ。

 こんなにも倒錯した異常な文章を私は未だかつて一度も読んだことがない。教会成長は、神の力によって成し遂げられるのではなく、キリストの愛の力によって成し遂げられるのでもなく、福音を宣べ伝えようとする信徒の努力によるのでもなく、ただ牧師の雑用と金の工面のために存在する執事の人数次第で決まるのだそうだ。

 極めつけに、次の文章も引用しておこう。

謙遜な執事は決して牧師を公に批判しない。それは牧師が主の器であり、霊的にも信仰的にも神学的にも自分たちよりも優れていることを知っているからである。
仮に牧師に何か問題を感じたとしても、謙遜な執事たちは陰でとりなしの祈りを捧げ、主の働きか示しを期待する。そして主が牧師に忠告せよと示されたならば、個人的に牧師を訪ねて諫言するのである。その後のことは、主の取り扱われる領域である。」(p.56)

 
手束氏によれば、たとえ牧師が罪を犯したとしても、執事は決して牧師のメンツを公に損ねてはいけないのである。そして牧師が執事のいさめを聞き入れなかったとしても、「その後のことは、主の取り扱われる領域」だとして、うやむやにしてしまうのである。

「さらに、礼典的・象徴的存在であるからには、牧師や牧師夫人は住居も身に着けるものも粗末であってはならない

二年前に私たちの教会にはとても立派な牧師館が与えられた
近くのほかの教会の信徒たちが『何て贅沢な』などと悪口を言っていたようであるが、そう言うことによって、自らの信仰的霊的レベルの低さを暴露している。
この牧師館の建設こそ、高砂教会の信徒たちが牧師や牧師夫人を礼典的・象徴的存在として敬っていることの証であり、しるしである。

また私は着るものについても充分に気を付けるようになったというより、信徒たちがヤボッタイ服装をすることを許さない。礼典的・象徴的存在として見ているからである。
かくて経済的にも充分な謝儀が与えられなくてはならないことは、言うまでもない。」(p.87)

 きっと、手束氏の教えに基づいて判断するならば、この記事を書いている私は、「自らの信仰的霊的レベルの低さを暴露している」クリスチャンの筆頭に当たるのに違いない。きっと、私の信仰的霊的レベルは最低と判断されて、私は、もしかするとサタンの使いということにさえなってしまうのかも知れない。
 しかし、たとえサタンの手下と罵られようとも、私に言えるのはただ一つ、こんな教会は不幸だ!!ということだけである。

 まあ、私の個人的感情は置いておくとして、聖書が何と言っているか確かめよう。
 聖書は、牧師が信徒の献金から有り余るほどの謝儀をもらって、贅沢な牧師館に住み、立派な着物を着て、貴族のような暮しを送ることを肯定しただろうか? 教会全体が粗末な服装やヤボッタイ格好から遠ざかり、貴族的雰囲気になることを肯定しただろうか? 牧師が罪を犯した時、信徒はどう対処するよう促しているだろうか?

 聖書は、「よい指導をしている長老、特に宣教と教のために労している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしい者である」(テモテⅠ5:17)と言うが、これはあくまで「よい指導をしている長老」に限られる。(この当時の長老の地位は現在の牧師にも相当するほど高いものであった。)

 さらに、もし長老が罪を犯し、そのことに対する証人が複数名いる場合は、長老の罪は全会衆の面前でとがめられなければならないと聖書は定めている。
「長老に対する訴訟は、ふたりか三人の証人がない場合には、受理してはならない。罪を犯した者に対しては、ほかの人々も恐れをいだくに至るために、すべての人の前でその罪をとがむべきである。」(テモテⅠ5:19-20)

 パウロは、聖職についている者が信徒の奉仕と献金の上にあぐらをかいて貴族的な生活を送ることを、断じて認めなかった。
「兄弟たちよ、主イエス・キリストの名によってあなたがたに命じる。
怠惰な生活をして、わたしたちから受けた言伝えに従わないすべての兄弟たちから、遠ざかりなさい。
わたしたちに、どうならうべきであるかは、あなたがた自身が知っているはずである。あなたがたの所にいた時には、わたしたちは怠惰な生活をしなかったし、人からパンをもらって食べることもしなかった。それどころか、あなたがたのだれにも負担をかけまいと、日夜、労苦し努力して 働き続けた。それは、わたしたちにその権利がないからではなく、ただわたしたちにあなたがたが見習うように、身をもって模範を示したのである。」(テサロニケⅡ3:6-9)。

「つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位を保ち、まただれの世話にもならずに、生活できるであろう」(テサロニケⅠ4:11-12)

 パウロは貧しい時にも、信徒に負担をかけず、当然、受け取ってよいはずの謝儀さえも自主的に辞退していた(コリントⅡ11:9)。ただキリストの誇りのために彼はそうしたのである。そして、そのように仕える姿を模範とするよう彼は信徒にも命じた。

 パウロが教会から謝儀を受け取らなかったため、コリントの教会はそのことで苦情さえ述べ立てたようである。パウロの経済状況が不明なので、彼には何か人の知らない財源があるのではないか、不法な手段で金を得ているのではないかという疑いさえ生じた。だが、そのことに対して、パウロは悲しみつつ、言葉を返している。

「わたしは今、三度目にあなたがたの所に行く用意をしている。しかし、負担はかけないつもりであるわたしの求めているのは、あなたがたの持ち物ではなくあなたがた自身なのだから。いったい、子供は親のために財をたくわえて置く必要はなく、親が子供のためにたくわえて置くべきである。
そこでわたしは、あなたがたの魂のためには、大いに喜んで費用を使い、また、わたし自身をも使いつくそう。
わたしがあなたがたを愛すれば愛するほど、あなたがたからますます愛されなくなるのであろうか。わたしは、あなたがたに重荷を負わせなかったとしても、悪がしこくて、あなたがたからだまし取ったのだと、人はいう。わたしは、あなたがたにつかわした人たちのうちだれかをとおして、あなたがたからむさぼり取っただろうか。<略>わたしたちは、みな同じ心で歩いたではないか。同じ足並みで歩いたではないか。<略>
愛する者たちよ。これらすべてのことは、あなたがたの徳を高めるためなのである。」(コリントⅡ12:14-19)

 パウロは親が子供のために惜しみなく犠牲を払うように、教会に負担をかけるどころか、かえって喜んで自分が信徒のために費用を負担した。また、信徒に仕えるために、自分自身の労力をも使い果たした。彼は、自分が信徒の面倒を見れば見るほど、信徒からの尊敬を失うとか、信徒に恵みが流れなくなるなどということは微塵も考えなかった。与えられるだけのものを信徒に与え、自らを神と人とに仕えるために捧げつくしたのである。

「わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。<略>神は喜んで施す人を愛して下さるのである」(コリントⅡ9:6-7)
 
「わたしは、神の言を告げひろめる務を、あなたがたのために神から与えられているが、そのために教会に奉仕する者になっているのである。」(コロサイ1:25)

 パウロは貧しさについてどう述べただろうか? 「牧師たる者、十分な謝儀を得なければならない、そうでなければ、主のためのご用がなおざりになり、教会が教会たり得なくなってしまう」と言っただろうか?

わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。しかし、あなたがたは、よくもわたしと患難を共にしてくれた」(ピリピ4:11-14)

 どんな環境にあっても、ただ全ての恵みの源である神だけに頼ることを学んでいたパウロにとって、貧しさは全く問題にならなかった。だが、か弱い信徒たちを過酷な苦難に付き合わせてしまったことが、彼の気になっていたのである。

 肉なる一切のものを頼りにしなかったパウロはこう言った、「わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている」(ピリピ3:8)。彼は人としての栄誉も、富も、全てを無価値なものとしてかえりみなかった。

 だが、地上の富と栄誉を頼りにする偽クリスチャンについて、彼は涙ながらに信徒に警戒を呼びかけている。
あの犬どもを警戒しなさい。悪い働き人たちを警戒しなさい。肉に割礼の傷をつけている人たちを警戒しなさい。神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である」(ピリピ3:2-3)

「わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。しかし、わたしたちの国籍は天にある」(ピリピ3:18-20)

 肉を頼みとする者は、貪欲を神とし、恥を栄光と思い違え、地上の富ばかりに心惹かれ、一時的には繁栄しているように見えても、その実、まっしぐらに滅びへと向かっていると聖書は言う。肉欲の到達点はただ滅びでしかない。クリスチャンにとっての「利得」とは、地上の富とは全然別のところにある。

信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。わたしたちは何ひとつ持たないでこの世を去って行く。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。」(テモテⅠ6:6-7)。

人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう」(ガラテヤ6:7-8)

 地上の富と栄誉を頼みとする者は、決して永遠の命に至ることはない。信仰を利得の手段と心得、主のご用に携わっていることで、主ではなく、自分に栄光を帰そうとする偽キリスト者を、使徒たちはいつも警戒していた。

もしある人が、事実そうでないのに、自分が何か偉い者であるかのように思っているとすれば、その人は自分を欺いているのである。<略>人はそれぞれ自分の重荷を負うべきである」(ガラテヤ6:3,5)

 また、教会の中で、信徒の服装や経済状況に応じて、待遇に差をつけることをヤコブの手紙は強く戒めている。
「わたしの兄弟たちよ。わたしたちの栄光の主イエス・キリストへの信仰を守るのに、分け隔てをしてはならない。たとえば、あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな着物を着た人がはいって来ると同時に、みすぼらしい着物を着た貧しい人がはいってきたとする。その際、りっぱな着物を着た人に対しては、うやうやしく『どうぞ、こちらの良い席にお掛け下さい』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っていなさい。それとも、わたしの足もとにすわっているがよい』と言ったとしたら、あなたがたは、自分たちの間で差別立てをし、よからぬ考えで人をさばく者になったわけではないか

 愛する兄弟たちよ。よく聞きなさい。神はこの世の貧しい人たちを選んで信仰に富ませ、神を愛する者たちに約束された御国の相続者とされたではないか。しかるに、あなたがたは貧しい人をはずかしめたのである」(ヤコブ2:1-6)

 一体、「信徒たちがヤボッタイ服装をすることを許さない」と牧師が言ってはばからない教会は、どれほどひどい分け隔てをしていることになるだろうか。そのような教会には、みすぼらしい服装の貧しい人が、足を踏み入れることさえ許されておらず、ただ立っているだけの場所さえも用意されていないのだ。
 神が御国の相続人に定められた貧しい人をはずかしめるような教会に、キリストの御身体を名乗る資格があるのだろうか。立派な身なりをした、社会的にも地位のある麗しい人々ばかりを集めようとする教会のどこに、困っている人々、貧しい人々、孤独な人々への思いやりがあるだろう?

「父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない」(ヤコブ1:27)

「不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである」(ヤコブ4:4)

 手束氏の言うような教えを奉じる教会は、神の敵となった教会である。教会成長論に影響を受ける全ての牧者のために用意されているのは次の御言葉であると私は確信する。

わざわいなるかな、自分自身を養うイスラエルの牧者。牧者は群れを養うべき者ではないか。ところが、あなたがたは脂肪を食べ、毛織物をまとい、肥えたものをほふるが、群れを養わない。あなたがたは弱った者を強くせず、病んでいる者をいやさず、傷ついた者をつつまず、迷い出た者を引きかえらせず、うせた者を尋ねず、彼らを手荒く、きびしく治めている。彼らは牧者がいないために散り、野のもろもろの獣のえじきになる。わが羊は散らされている。<略>
それゆえ牧者らよ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる、見よ、わたしは牧者らの敵となり、わたしの羊を彼らの手に求め、彼らにわたしの群れを養うことをやめさせ、再び牧者自身を養わせない。またわが羊を彼らの口から救って、彼らの食物にさせない」(エゼキエル34:2-10)

富んでいる人たちよ。よく聞きなさい。あなたがたは、自分の身に降りかかろうとしているわざわいを思って、泣き叫ぶがよい。
あなたがたの富は朽ち果て、着物はむしばまれ、金銀はさびている。そして、そのさびの毒は、あなたがたの罪を攻め、あなたがたの肉を火のように食いつくすであろう。
あなたがたは、終りの時にいるのに、なお宝をたくわえている。

見よ、あなたがたが労働者たちに畑の刈入れをさせながら、支払わずにいる賃金が、叫んでいる。そして、刈入れをした人たちの叫び声が、すでに万軍の主の耳に達している。あなたがたは、地上でおごり暮し、快楽にふけり、『ほふらるる日』のために、おのが心を肥やしている。そして、義人を罪に定め、これを殺した。しかも彼は、あなたがたに抵抗しない。」(ヤコブ5:1-6)

 どうか信徒よ、目を覚まして欲しい、こんなに恐ろしい運命が予告されている偽牧者につき従って、共に滅びと裁きの道に下るようなことがあっていいだろうか。教会を私物化し、信徒から暴利をむさぼる偽牧者にどんな未来が約束されているだろうか。彼らから離れるべきである。主は必ず、偽牧者の手から、羊を奪い返されるだろう。

朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである」(ヨハネ6:27)
 人間の作り出したむさぼりの教えを捨てて、永遠の命に至るイエスの教えに立ち戻ろう。
人間に従うよりは、神に従うべきである」(使徒5:29)

 <つづく>


教会成長論という強盗の教え(1)

「あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである。そうすれば、大牧者が現われる時には、しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう」(Ⅰペテロ5:2-4)


4.教会成長論は牧師による教会の私物化を義務づける教えである

1) 偽牧者は神の栄光を盗む者、天国の門を閉ざす偽善者

 イエスは言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう」(ヨハネ10:7-9)

 神の羊たるクリスチャンにとって、命に至る門はただ一つ、キリストである。そしてキリストは、信徒に神からの豊かな恵みを受け取らせるために地上に来られた。
「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである」(テモテⅠ2:5)
「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは、羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:10)

 十字架上で私たち人間のために命を捨てて下さったキリストを通してのみ、クリスチャンは「豊かに命を得」、「牧草にありつく」ことができる。罪からの解放と永遠の命をいただけるだけでなく、日々の糧を得て平和な暮しをすることができる。人の思惑という奴隷の檻や柵に束縛されずに、「出入り」する自由を得ることができる。(「主の霊のあるところには、自由がある」コリントⅡ3:17。)
 キリストだけが、神と人との間をとりもつただ一人の仲保者である。

 ところが、いつの時代にも、イエスではなく、自分を仲保者として通さなければ救いは得られないと主張する異端者が出現する。クリスチャンが真に警戒し、断固、対処するようにと聖書が教えているのは、他の宗教を信じている異教徒ではく、キリスト教界に「滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定」する偽キリスト者、偽牧者、偽教師である(ペテロⅡ2:1)。偽の教えこそ、クリスチャンが何にも増して警戒すべきものであると聖書は教えている。

 偽牧者、偽教師とは、信心深そうなふりをしながら、その実、イエスよりも自分を前面に押し出し、イエスの名よりも自分の名を高く掲げ、自分だけが神の恵みの唯一の管であり、自分を通さなければ誰も救いと恵みを得られないと主張する人々のことである。
 彼らの説く誤った教えに惑わされた信徒は、やがてキリストの十字架を信じなくなり、救いと恵みを失ってしまう。こうして、信徒たちの目から真理を覆い隠す偽牧師、偽教師は、天国の門を閉ざしているのである。

「彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者、不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者である」(テトス1:16)
「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせない」(マタイ23:13)

 行いによって神を否定する偽牧者、偽教師たちの本質は、盗人であり、強盗であるとイエスは言われた。
 一見、どんなに親切そうな、良い羊飼いのふりをしていたとしても、偽牧者の真の目的は、決して羊を養うことにはない。羊を滅ぼすことなのである。「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない」(ヨハネ10:10)。

 強盗たる偽クリスチャンは、一体、誰から何を盗むのだろうか? まず、第一に、彼らは神の栄光を盗み、第二に、キリストの花嫁たる教会を盗み、信徒たる羊の命や財産を奪い、羊を食い散らすのである。
 今日、様々な教会で起こっている不祥事を見れば、そのことがよく分かる。牧師が神のような栄光に包まれていたり、教会組織を私物化して自分の手足のように使っていたり、信徒の献金を「盗んだり」、病気の信徒に治療を拒否させて「殺したり」、信徒に性的暴行を行って家庭を壊したり、様々な方法で羊の人生を滅茶苦茶にして、「滅ぼし」ているさまが見られる。このような事件は、彼らがまさに偽牧者であって、本質的に強盗であったことを証明している。
 
 異端に対する警戒心を失いすぎて、自らを厳しくかえりみる能力を失った結果、プロテスタントのキリスト教界は、雑草の生い茂る荒れ果てた庭のように、どちらを向いても異端しか見られないほどにまで、背教がはびこってしまった。

 あからさまにそれと分かる強盗的偽牧師の他に、「サラリーマン牧師」という控えめな偽牧者もいることをイエスは教えられた。「羊飼ではなく、羊が自分のものでない雇い人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす」(ヨハネ10:12)

 牧師という職業を、ただ社会的地位と給料を得る手段として利用しているだけの人たちには、危険が迫る時に、命がけで羊を守ろうとする覚悟や信念は全くない。面倒なことには何一つ関わろうとせず、教会でどんなにもめ事が起こっても知らん顔。大量の信徒が牧師と教会に幻滅して、追われるように教会を去って行っても、我関せずだ。
 どんなに頼りない新米の学校教師でさえ、このような放任かつ無責任な牧師に比べれば何倍もましである。学校の教師は、生徒が教室からいなくなったのを見過ごしにしたりしないだろうから。

 イエスは、「羊は彼らに聞き従わなかった」と言われた。真の羊、すなわち本当に神を信じる民であるならば、偽クリスチャンの声には決して聞き従わない。彼らの教えが神から来たものでないことを見抜いて、ついて行かないはずである。ところが今日、どうだろう、どれほど多くの信徒がこうした偽者の餌食にされ、つまずかされていることだろうか。

「わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい」(マルコ9:42)
「主は言われる、『わが牧場の羊を滅ぼし散らす牧者はわざわいである』。<略>『あなたがたはわたしの群れを散らし、これを追いやって顧みなかった。見よ、わたしはあなたがたの悪しき行いによってあなたがたに報いると、主は言われる』」(エレミヤ23:1-2)

 信徒につまずきを与える偽キリスト者に、重く厳しい裁きが待っていることに疑いの余地はない。
 だが、同時に、忘れてはならないことは、つまずかせる者の罪も大きいが、つまずいた方にもまた大きな罪が残るということだ。偽りを見抜けず、つまずかされたまま、信仰を失ってしまえば、信徒にはそれが自己責任として降りかかる、「彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。そこで神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り、こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである」(テサロニケⅡ2:10-11)

 どんなに警戒していたつもりでも、クリスチャンが偽の教えにつまずかされることがあるかも知れない。偽者を本者と思い込んで、偽牧者に従うことがあるかも知れない。しかし、失敗したとしても、大きな苦しみを経験したとしても、私達はキリストの御許へ戻って行くことを続けなければならない。裁判に勝って、悪徳牧師を懲らしめることよりも、はるかに重要なことは、偽教会や偽信徒につまずいて幻滅したまま、信徒が信仰を失ってしまわないことなのだ。教会カルトとの闘いを繰り広げる時、クリスチャンはそのことを忘れないようにしなければならない。


2)教会役員は牧師の雑用係ではない

 さて、『教会成長の勘所』第一部に話を戻そう。ここでは教会に成長をもたらすために教会役員はいかにあるべきかということが述べられている。だが、あえてまず、教会役員という役職の聖書的根拠とその役割について考えてみよう。

 手束氏は教会役員を「執事」と呼ぶ。労働組合を思わせる「役員」という名称は世俗的で意味的にも不適切だというのがその根拠であるが、今は呼び名にはあまりこだわらないことにしよう。

 テモテへの第一の手紙第3章を見るならば、使徒時代の教会には、「監督」や「執事」という役職が確かに存在していたことが分かる。だが、この執事なるものが、次に挙げる使徒行伝第6章の記述と関係があったかどうかは聖書には示されていないし、具体的に執事がどのような仕事をしていたのかも明らかにされていない。

 ちなみに、「執事」という単語は、聖職の名称の一つとして、今日、様々なキリスト教の宗派に普及している。広辞苑によれば、聖公会では主教と司祭に次ぐ第三位の聖職が執事であり、カトリックでは助祭に当たるようだ。また、ロシア正教では司祭の下位の輔祭を意味する。
 だが、手束氏の言う「執事」とは、任命を受けてなる聖職者の職業的地位のことではなく、実質的に、今日プロテスタントの多くの教会に見られる役員と同じく、信徒職のことを指している。メソジスト派系の教会で「幹事」、長老派系の教会で「長老」、カトリックや聖公会で「委員」と呼ばれる人々と実質的に同等の役職に当たるという。

 さて、手束氏がこの「執事」選出の聖書的根拠として挙げているのは、使徒行伝第6章1-7節の次の聖句である。

「そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人から、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立てた。
そこで、十二使徒は弟子全体を呼び集めて言った、『わたしたちが神の言をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない。そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を捜しだしてほしい。その人たちにこの仕事をまかせ、わたしたちは、もっぱら祈と御言のご用に当ることにしよう』。この提案は会衆一同の賛成するところとなった。

そして信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、それからピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、およびアンテオケの改宗者ニコラオを選び出して、使徒たちの前に立たせた。すると、使徒たちは祈って手を彼らの上においた。
 こうして神の言は、ますます広まり、エルサレムにおける弟子の数が、非常にふえていき、祭司たちも多数、信仰を受けいれるようになった。」

 手束氏は、この記述には「執事」(ディアコノス)という単語は登場していないものの、「給仕する(食卓のことに携わる)、仕える」(ディアコネオー)という言葉から、「執事」という語が発生したと考えられるため、実質的に、これは執事選出の場面と考えるのがふさわしいと言う。
 仮に二つの単語の間に言語学的な関係があったとしても、だからと言って、文脈を無視して、これを執事選出の場面と決めつけることはできないが、しかし実際に、これを執事選出の場面だと解釈しているキリスト教の宗派は多い。

 簡単に表すならば、この聖書の箇所は「7人の給食問題解決係」選出の場面である。イエスが復活されて後、この時が来るまで、使徒時代の教会に、(アナニヤとサッピラの偽証事件を除いて)、実務的な問題が発生したことを記す聖書の箇所はない。
 集まったクリスチャン「一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた」(使徒2:42)。

 使徒時代の教会には完全な平等が実現していた。信徒が財産を共有にし、貧しい者は一人もおらず、役割分担について争いが生じることもなかった。「信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有にしていた。<略>彼らの中に乏しい者は、ひとりもいなかった。<略>それぞれの必要に応じて、だれにでも分け与えられた」(使徒4:32-35)。

 だが、その後、教会内の不平等が初めて問題として持ち上った。日々の配給の不公平な分配を理由に、ギリシア語を使うユダヤ人とヘブル語を使うユダヤ人たちが対立してしまったのである。(ひょっとすると、配給問題はただのきっかけであり、その奥には別の問題が隠れていたのかも知れない。何しろ異なる言語を使う者たちだから、日頃から何らかの意志不疎通がたまっており、この事件をきっかけに、それが激しい争いへと発展したとも考えられないこともないように思う。)
 いずれにせよ、やもめたちへの配給をめぐってユダヤ人たちの対立が重大な争いへと発展し、両陣営が真っ二つに割れて喧嘩が始まったために、使徒たちをも巻き込んで、一時、教会生活全体を停止させるトラブルとなったものと考えられる。

 この時、この問題を解決して、教会の機能を正常に戻すために、使徒たちの主導で「御霊と知恵とに満ちた、評判のよい」7人の担当者が選ばれた。だが、ここに「執事」という単語が登場していないことを考慮しても、果たして、この7人の任務が、この問題が解決した後になっても、教会の常任の役職としてずっと残り続けたかどうかには、疑問の余地が残るように私は思う。

 この7人の役割は、非常事態を解決することだった。従って、問題が解決された後は、7人は通常通りの信仰生活に戻ったのではないか? さらに、この時に選ばれたステパノは、その後、殉教してしまうが、「執事」職の欠員を補うために誰かが選出されたという記述は聖書にない。そこで、はっきりしたことはあくまで不明であるものの、この給食問題は、使徒時代の教会にとって、あくまで一回限りの事態であり、7人の役目もその場限りのものであった可能性があるのではないだろうか?
 少なくとも、この時の議論が、臨時の会議であって、定期的な会議には当たらなかったことは確かだろう。そこで、これを手束氏が言うような、「最初の教会総会」(p.18)と呼ぶのがふさわしいかどうかにも疑問が残る。

 しかし、細かい議論は抜きにして、この時、選ばれた7人の役目が、やがて教会に現れる「執事」職の基盤となるものだったと仮定しよう。だが、そう仮定してみたとしても、この「執事」職の役割が、あくまで信徒間の平等を実現するために知恵をしぼり、揉め事を収拾し、教会の機能を正常化することにあって、使徒たちのために日用の雑事を引き受けることでなかったのは明白である。

 こうして、優れた知恵を持つ7人がやもめたちの配給の問題の解決に当たったおかげで、全会衆が揉め事から解放されて、教会はやっと祈りと御言葉のご用に戻ることができた。この時、7人が選出されたおかげで、教会本来の活動に戻ることができたのは、ただ使徒たちだけでなく、この事件に無関係であった会衆全員がそこに含まれているという文脈は明らかである。

<つづく>