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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

ペンテコステ・カリスマ運動の反聖書性―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動⑧ーグノーシス主義的三位一体論

② (続き 2) 
 
・キリストによって生まれていない「私生児」を「神の子供」と偽るカリスマ運動

さて、以前に記事「クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か(終)」でも確認したように、手束正昭氏は、異端ネストリウス派の主張を擁護して、養子論的キリスト論を展開する。

同氏は、「ナザレのイエスにおいて無比なる仕方において働いていた聖霊の豊かさこそが、彼をしてキリストたらしめたと言える。」と述べて、イエスは生来は神性を持たない人間に過ぎなかったが、聖霊が吹き込まれたことによって「キリスト」としての性質が付与されたのだとする。だが、同氏の主張によれば、聖霊とは「母なる霊」なのである。

こうして、神の独り子であるイエス・キリストを、神性を持たない単なる人間に貶め、聖書に基づかない「母なる霊」という正体不明の「霊」を高く掲げる手束氏の荒唐無稽な主張がどこから来たものかは、グノーシス主義神話を考慮すれば分かる。

グノーシス主義において、悪神ヤルダバオートから創造された人間は、本来は創造神を父としているため、創造神を超えられない堕落した存在であるはずなのだが、サイト『ヨハネのアポクリュフォン』においても説明されているように、真の父の同意なしに単独でヤルダバオートを生んだ母ソフィアが、愚かな我が子を欺いて、天からの光を「息」として人間に吹き込ませたため、人間にはヤルダバオートにはない神聖な光が宿ったとされている。また、ヤルダバオートは自分の似姿だと勘違いして天上の完全な人間の姿を模して人間を造ったのだという。

こうして、グノーシス主義神話は創造神をひたすら愚弄しながら、創造神によって造られた人間を創造神より優れた存在として高く掲げ、反逆を正当化する。そして、天からの「息」が吹き込まれたことにより、人間の本来的な「父」は創造神ではなく、創造神を超える真の至高者であるとする。

聖書は、キリストの十字架の贖いを信じ、キリスト共に十字架の死と復活にあずかることによって、人は新創造とされると教えるが、聖書を否定して、聖霊を「母なる霊」とみなし、この「母なる霊」を受けることによって、人類は「新創造」に達すると主張する手束氏の見解は、以上のようなグノーシス神話に起源を持つとみなせるのである。

筆者はかつて手束氏の教えを、信者に神の子供としての地位を失わせる「私生児の教え」として非難したが、今また同じ確信を繰り返すのみである。

キリストが神の御子であるという聖書の真理を否定し、キリストと共なる十字架を経由することなく、正体不明の「母なる霊」を受けることによって、「新創造とされる」などという偽りを信じた者が、父なる神の子供として受け入れられることは決してないことは、聖書に照らし合わせて明白である。
 
グノーシス主義神話においてさえ、その「母」とは「原父」の意志を無視して単独で子を生むという「過失」に及んだのだから、その「母」によって生まれた「子」は、父を持たない子ということになる。そんな「母」の「霊」を受けたからと言って、なぜ子が「父」の承認もなしに、「父」から正統な子として認められる理由があるだろうか。そんな主張はあまりにも愚かで身勝手である。

さらに手束氏は、次のようにも述べる、
 

「信仰というものは、外に居給う神に私達が懸命に従おうというものではない。<略>いまや、私達は聖霊をいただくことによって、内に居給う神の促しに従って、その神と一つとなって生きていくことができるのである。<略>そこにあるのは、外なる神から内なる神への転換であり、服従としての神から交わりとしての神への転換である。更にこれは旧約から新約への転換なのである。

 多くの学者達は不十分なままでいる。旧約聖書は預言であって、新約聖書はその成就であると解釈し主張している。この解釈は確かにまちがいではないが、しかし重要なことは、旧約というものは外なる神であり、新約というものは内なる神であるということである。更に旧約というのは律法であり、新約というのは聖霊なのである。

ルターは宗教改革の合言葉として『信仰によって義とされる』と言った。<略>今、私は『律法によらず聖霊による』と言いたい。『信仰によって義とされる』というのでなく、『聖霊によって新創造される』と言いたい。」 (『聖霊の新しい時代の到来』、手束正昭著、マルコーシュ・パブリケーション、2005年、p.33-34、下線は筆者による)


服従としての神から交わりとしての神への転換」、この言葉に特に注意したい。

手束氏はこうして、「父なる神」に服従する必要をひたすら否定して行くのである。同氏は、旧約聖書は律法という父性原理に基づいて服従を求める厳格な宗教であったが、新約は「愛と赦しによる母性的な福音」であり、新約から旧約への移行は、「外なる神から内なる神への転換」であると述べて、新約の時代を生きる信者たちには、神の御言葉への従順がもはや必要なくなったかのように説く。しかし、これは全くの偽りである。

キリストの贖いを信じることにより、信者の内にはキリストが住んで下さるが、だからと言って、律法自体が無効になったわけではなく、信者が御言葉に従う必要性が消えたわけでもない。信者は律法を完全に全うされたキリストの贖いを信じ、キリストの御言葉にとどまることを通して、神の御前に律法を完全に守ったとみなされるのである。

そこで、新約になっても、信者は依然として、自ら神の御言葉を選び取り、これを守って生きることにより、神への従順を成し遂げる必要がある。律法を守るのではなく、キリストの御言葉を守り、そのうちにとどまるのである。しかし、それは信者が自らの意志によって成し遂げるべきことであり、キリストが内に住んで下さるからと言って、信者の意志を抜きにして、神への従順が自動的に成し遂げられるわけではない。

信者には御言葉に従う自由も、背く自由も存在し、もし信者が御言葉に従わず、キリストのうちにとどまらないならば、その信者は律法によって裁かれ、罪に定められる。

「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
<略>だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」(ヨハネ15:4-6)

「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

イエスも言われた、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が、みな天の御国にはいるのではなく、ただ、天におられるわたしの父みこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)。

従って、新約の時代も、クリスチャンにとって最も肝心なのは、聖書の御言葉を守ることによって、キリストの内にとどまって生きることであって、そうして初めて、キリストとの交わりがその信者の内で保たれるのである。

ところが、ペンテコステ・カリスマ運動の支持者らは、「外なる神から内なる神への転換」、「服従としての神から交わりとしての神への転換」などと主張して、信者自身が自らの意志で「御言葉を守る」ことによって、「父なる神の御心を行う」必要性、信者が神の御言葉に「服従」する必要性を否定して、あたかも、信者が御言葉に従わなくとも、「霊の父母・子の交わり」に加わってさえいれば、これを通して神に至れるかのように説く。

結局、父なる神の意志、御言葉の切り分けを全くないがしろにして、御言葉への従順なしに、人が神に至れると教えるのである。
 
だが、聖書においては、はっきりと二組の対照的な「母子」の姿が示されている。一つ目は己の肉の欲望に基づいて、父なる神の御心に背いて生きる「母子」の姿、もう一つは、己の肉の欲望を十字架の死に渡すことに同意し、父なる神の御心を行って生きる「母子」の姿である。

イサクとイシマエルは、共に同じアブラハムを父として生まれた。しかし、イシマエルは父なる神の約束の成就を待たずに、奴隷の女であるハガルを母として肉によって生まれた子であるため、アブラハムから正統な後継者とは認められず、「奴隷の女の子」として退けられた。

他方、己の肉の力に死んですでに「不妊の女」となっていたサラから、ただ神の約束に基づいて、御霊によって生まれたイサクは「自由の女の子」として、アブラハムの家の正統な後継者として受け入れられた。 

パウロは言う、

「律法の下にいたいと思う人たちは、私に答えてください。あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか。そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。女奴隷の子は肉によって生れ、自由の女の子は約束によって生れたのです。このことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。
しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。
すなわち、こう書いてあります。

喜べ。子を産まない不妊の女よ。
声をあげて呼ばわれ。
産みの苦しみを知らない女よ。
夫に捨てられた女の産む子どもは、
夫のある女の産む子どもよりも多い。

兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。

しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。

こういうわけで、兄弟たちよ。
私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」(ガラテヤ4:21-31)

これら二組の「母子」の違いは、聖書の御言葉への従順によって父なる神の御旨を行って生きているかどうか、という点である。

グノーシス主義神話におけるソフィアの転落は、まさに聖書におけるハガルの姿に重なる。両者に共通するのは、父なる神の約束の成就を待たずに、己の「肉欲」に基づいて「時期尚早な出産」に及んだことにある。

聖書が全体を通して人間に求めているのは、人が己の肉の欲望により頼んで自らの願いを成し遂げることではなく、神の御言葉に基づき、信仰によって、神の約束の成就を待ち望むことである。しかし、ハガルもソフィアも、神の約束の成就を待たず、父なる神の意志を無視して、己の欲望に突き進んだ結果、時期尚早に子を生んだ。彼女たちはその子が神の家族だと主張するが、聖書はそのような「奴隷の母子」は神の国の相続者になれないと教える。

しかし、グノーシス主義のような転倒した教えは、聖書の御言葉に従わず、神の家から追い出されるべき「奴隷の母子」を逆に擁護する。だからこそ、それは「私生児の教え」なのである。

今日も、ペンテコステ・カリスマ運動運動の支持者らが、己の肉を誇っては高慢に振る舞い、延々と肉の欲を自慢しながら、至る所で真の信者を踏みつけにして迫害している様子は枚挙に暇がない。

 


 

・「分割」を「死」ととらえ、時間を逆にすることによって、「原初的統合」への回帰を主張するグノーシス主義

さて、聖書における「罪」とは、神の戒めに背くことであり、聖書において「死」は「罪」の結果としてもたらされる。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23) しかし、グノーシス主義は「罪」というものを一切、認めず、「分割」こそ「死」をもたらした原因であるかのように話をすり替える。

多くのグノーシス主義文献では、至高者である神のみならず、人間の男女もまた対であることが完全であるとみなされているため、人間は創造された当初は両性具有的存在であったが、その後、女が男から「分割」したときに「死」が入り込んだ、とされている。こうして、人類が神の戒めに背いたため、死に定められたという聖書の記述は無視され、人間が「原初的な男女未分化の状態に回帰する」ことが、人が本来的自己に回帰すること(救済)と同一視される。
 

「――デーミウルゴスはアルコンテスと共に、自分のかたちに人を、男と女とにつくった(創世記一・二七)。この場合、「人」は単数であるから、人は元来両性具有であった、と解釈されることになる女(イブ)が男(アダム)とから離れたとき(三・二二)、死が生じた。彼女が再び入りこみ、彼が彼女を受けいれれば、死はないであろう(『ピリポ福音書』七一。――七八をも参照。)」(『トマスによる福音書』、荒井献著、p.110)


 

「実際多くのグノーシス文書において、「神は自分のかたちに人をつくられた。すなわち、神のかたちにつくり、男と女とにつくられた」(創世記一・二七)の「人」が単数形になっているところから、「原人」は男女両性具有であった、そして地上の人間(男と女)は原人から「女」が分離された時点(創世記二・二一―二二)から生じた、と解釈されている。例えば、『ピリポ福音書』には次のような言葉がある。――「イブがアダムの中にあったとき、死は無かった。彼女が〔彼から〕離れたとき、死が生じた。彼女が(アダムに)再び入りこみ、彼が彼女を受けいれれば、死は無いであろう」(七一)。「もし女が男から離れなかったら、男と共に死ななかったであろう。女の分離が死のはじめとなったのである」(七八)。」(同上、p.159)


むろん、「男女未分化の原初的統合」などと言っても、半ば言葉遊びのようなもので、実際にそのような「原初的」状態に回帰できる人間はいない。だが、グノーシス主義は以上のような確信に基づき、人間に「叡智」を告げる「真の開示者」は、単に人間に、出生を巡る「真実」を告げる役割のみならず、人間を「男女未分化の原初的状態」に回帰させる「統合者」としての役割も担うものとみなす。
 

「<略>イエスは「父のもの」(本来的自己)の具現者として分裂に統合をもたらす者であり、それを「分ける者」「分割者」ではないというグノーシス的意味をも含ませている可能性がある(六一参照)。――「分離が死のはじめとなったのである。それ故に、はじめからあった分離を再び取り除くために、彼ら両人を統合するために、そして分離の中に死んだ人々に命を与え、彼らを統合するために、彼が来たのである」(『ピリポ福音書』七八)。」(同上、p.235)


ここまで来ると、なぜ手束氏や、フェミニズム神学者、鈴木大拙氏のような人々が、聖書の「二分性」に激しい反発を示し、キリスト教に「母性原理が回復される必要がある」と主張したのか、もう十分に理解できよう。

彼らは「分割」が「死」をもたらしたとみなすグノーシス主義の考えに立てばこそ、あらゆる「分割」を廃して「原初的統合を回復」することが「救済」だとみなしているのである。

彼らの嫌う「分割」とは、男女の区別にとどまらず、聖書におけるあらゆる「二分性」に及ぶ。鈴木大拙氏が「神ががまだ「光あれ」といわれなかったときのこと」、「明暗未分化以前」、(善悪を峻別する)「知性発生以前」などと呼んでいるのがまさにそれであり、これらはすべてグノーシス主義的な「二分性が生まれる前の原初統合の状態」を指す言葉である。

こうして、彼らは歴史を逆行させ、時間軸を逆にして、分割が発生する以前の状態に人類が自ら回帰することによって、原初的統合が成し遂げられ、人類は神に至る、と主張しているのである。

これは聖書の時間の流れとは逆である。

聖書においても、男女の「二分性」が廃される道が備えられている。「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(創世記2:24)とある通り、聖書によれば、時間を逆行することなく、「子」が成長して自らを生んだ「父母」を離れ、新しい伴侶を見つけることによって、男女の「一体化」が成し遂げられる。
 
この男女の統合は、キリストの十字架の死と復活による新しい人の誕生、すなわち、キリストとエクレシア(教会)との結婚を予表している。

聖書は言う、

「これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」(コロサイ2:16)

ここで言う「影」とは直接的には、律法や、人間を縛る様々な古い規定を指しているのだが、同時に、目に見えるすべての被造物も「影」に含まれると言えよう。聖書によれば、罪によって堕落して、信仰を持たず、神に受け入れられることなく滅びゆく人類(旧創造)は、神の御前にすでにないも同然の「影」であり、真のリアリティはキリストのみなのである。

神の目には、真の「男子」、真の「人間」はただ一人しかおらず、それが「ひとりの人」(Ⅱコリント11:2)キリストである。キリストの内にこそ、すべての二分性の敵意を廃したところに存在する新しい完全な人の姿がある。

この新しい人であるキリストは、地上に来られたとき、神としての性質を持ちながら、同時に、罪の他は、何ら我々と変わることのない、人としての性質もすべて備えておられた。そして、神でありながら、ご自分を低くして人となられ、十字架の死と復活を成就して、人類のために贖いを達成されたのである。

このキリストこそ、神の御心を真に満足させることのできる真の人間なのであり、人は、神が十字架でキリストに下された裁きを自分自身に対する裁きとして受けとり、キリストの贖いを信じて受け入れ、キリストと共に十字架において自らの肉の出自に死んで(=その父母を離れ)、キリストの復活の命によって新たな人として生かされることにより、キリストの御霊によって上から生まれ、神の家族として、新創造に加えられる。そして、キリストの花嫁たる教会を形成する。

主イエスは、「次の世にはいるのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。」(ルカ10:35)と言われ、来るべき世には「男女の二元論」はもはや存在しないことを示されたのである。

だから、キリストにある新しい人には、もはや男女の区別も、国籍の区別もない。新創造には、「ただひとりの男子」(Ⅱコリント11:2)キリストがいるだけであり、キリストにあって召された男女はすべて花嫁たる教会である。

「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」(ガラテヤ3:27-28)

キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁をうちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に作り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」(エペソ2:14-16)

そして、聖書は、キリストこそ、万物をご自分に服従させることで、すべての被造物の二分性を廃し、万物を一つにされる方であると述べている。神は被造物全体が堕落して神への反逆のうちに滅びることを望んでおられない。しかし、堕落した被造物が神に回帰する方法はただ一つ、キリストの十字架によって贖われることにしかない。こうして、万物をご自分に従わせることで、キリストは万物を神の御手にお返ししようとしているのである。

「それは、神が御子においておあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついてに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者となったのです。」(エペソ1:9-11)

「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。」(Ⅰコリント15:24-28)

こうして、すべてのものがキリストを通して、神に帰せられることが聖書の目的であり、これはただ死に至るまで神の御心に従順であったキリストを通してのみなされうることである。

被造物が神に立ち返る道は、ただキリストの十字架の死と復活の贖いを経由することにしかない。神の用意されたこの救済としての十字架を通らず、堕落して廃棄されるべき被造物が、自らの力で神に立ち帰る術はない。

しかし、グノーシス主義者は、このように、キリストこそ、十字架において「二分性の敵意を廃棄した」唯一の方である事実を認めず、時を逆行して原初的な未分化の状態に回帰することによって、神と人との統合が成し遂げられるとし、キリストも「原初的な統合者」に変えてしまう。

グノーシス主義者らは、徹底して、御言葉への従順なくして、神への回帰が成し遂げられるかのように主張する。こうして、彼らが聖書の「二分性」に反対する背景には、鈴木氏の言う「主客未分以前」へ回帰したい願望、すなわち、「創造神と被造物との区別」をなくしたいという欲望がある。

彼らの言う「男女未分化の原初的統合」も、結局は、この「主客未分以前」という欲望を意味する。ここにこそ、神によって造られた被造物でありながら、人間が「神の御心に反して、神の性質を盗み取り、単独で神になりたい」とする欲望が込められている。

フェミニズム神学者リューサーは言う、「男だけが神の像に似せられて造られ、女は男から造られたために、男性を抜きにしては、単独では完全な神の像をもたないとする聖書の教えは、女性を男性より劣った存在に貶める女性蔑視の思想である」と(『解放神学 虚と実』、pp.62-64参照)。

すでに述べた通り、この主張を推し進めて行くと、必然的に、「神だけが神であり、人類は神によって神に似せて造られたが、神との結合を抜きにしては、完全な神の像を持たないとする聖書の教えは、人類を神より劣った存在に貶める人類蔑視の思想である」という主張が出て来る。

そこで、聖書における男女の二元論に反対する人々は、結局のところ、神が唯一であり、人類は神の被造物に過ぎず、神の介在と承認を抜きに完全な存在になれず、神に属する者とみなされることはない、という聖書の真理に反対しているのである。そして、人間が神に創造されたことにより、神から分離されたという事実そのものに反対しているのである。(人類は神によって造られた被造物であるという点で、霊的には「女性」である。)

そして、グノーシス主義者は「神ががまだ「光あれ」といわれなかったとき」にまで時をさかのぼることによって、人類が神から分かたれる前の合一に回帰できるはずだと主張するのである。

しかし、そんな時間の逆行は無理な相談であり、現実を否定しているとしか言えない。そんな方法で、被造物が神と一体化しようとするのは、「小なる者」が「大なる者」と自らを同一視する高慢であり、被造物の分を超えているとしか言えない。

しかも、そこには、人類が自ら神に背いたために堕落して、自力で神に回帰する道が永久に閉ざされたという聖書の真理の否定がある。

もし新しい人であるキリストに目を向けさえすれば、上記のフェミニズム神学者やグノーシス主義者らが主張しているように、「神は自分だけを神として、人間を劣った被造物として創造した」という非難は全くあたらないことがすぐに分かろう。

グノーシス主義者らが考えているように、もし創造主である父なる神が、人間を自分よりも劣った存在にとどめておきたかったのだとすれば、独り子なるイエスを人として地上に遣わす必要がどこにあったろうか。なぜ愛する御子に人類のための贖いとして十字架の死を通らせる必要があったろうか。これらはすべて人類に対する神の果てしない愛のゆえになされたことなのである。

しかし、解放神学者や手束氏、鈴木大拙氏などは、決してキリストの十字架によって二分性の敵意がすでに廃棄されたのだという事実を見ようとはしない。彼らが最も反対しているのは、神によってしか、人間は救済され得ないという聖書の事実であり、彼らはどこまでも神の意志を抜きにして、人類が自らの力で神に至る道があるかのように主張する。

その過程で、彼らは神と人との区別、旧創造と新創造との区別を否定して、神の側からの救済としてのキリストの十字架の死を介さずに、神と人との区別を一方的に無効化することによって、神から神としての性質を盗み、神の地位を奪い、自らを神と宣言しようとしているのである。

従って、これらの人々がキリスト教の「二分性」によって不当に「抑圧されている」と訴えて、しきりに復権・擁護・救済しようとしているものは、神がキリストの十字架において完全な死の判決を下された旧創造全体としての人類なのである。

そこで、彼らの主張する「善悪を問わずにすべてを受容する母性原理の回復」というのは、結局、キリスト教は、神が滅びに定められた朽ちゆく旧創造と、堕落した旧創造が抱くすべての悪しき欲望をを罪に定めるのをやめて、これを正当化し、神の聖なる性質として認め、受け入れよ、ということなのである。

むろん、これは聖書の神に対する反逆の思想である。すでに見て来たように、グノーシス主義神話では、父なる神の同意によらずに、神の「血統」に属する命をわがものとしたいと願った「女性的属性」の欲望に基づき、父なる神を抜きにして生まれた「私生児」が、人類なのであり、人類はこの母の「過失」を修復することで、自らの出自を正当化することを、全生涯の目的として生きていることにされる。

しかし、それはどこまでも「父」の意志というものを抜きにした、人間側の身勝手な主張でしかない。仮に「母」が「父」を欺いて生んだ「子」が、「母」と一緒になって、「我々こそは神の血統に属する正統な後継者であるから、我々を神の家族として認め、家族の交わりを回復せよ」と主張したからと言って、「父」がそれを聞き入れ、この「母子」を家庭に迎え入れることがあろうか?

そんな行為は「母子」の側から「父」への反乱、神の家の乗っ取り計画、神の家族の詐称でしかない。たとえ血を分けた親子として長年同じ家に暮らしたとしても、親子の絆は絶対的なものではなく、もし子が父の訓戒や戒めに絶えず背き続けるならば、勘当されることもありえようし、子が自ら家出して親と絶縁することもありうる。

いずれにしても、父の承認なしに、家族としてとどまりつづけられる子はいないのである。そこで、もし神の家族としてとどまり続けたいならば、御言葉に服従するということが、信者の側にどうしても必要となる。

にも関わらず、グノーシス主義者はひたすら「(御言葉に)服従する」ことを拒みながら、それでも、「自分は神の正統な子だ」と主張するのである。そして、自分たちを神の家から排除した聖書の御言葉の二分性を、許しがたい傲慢かつ狭量な排他性として非難し、父なる神はこのような父性原理の残酷な「排他性」を克服して、もっとすべてを優しく受け入れる受容性を補うべきだと、神に向かって上から「説教」するのである。

そんな企ては、人間の物語としても破綻しているが、まして聖書に照らし合わせて、絶対に受け入れられることはない。このような「母子」は罰せられ、排除されるのが当然である。


 
「神秘なる母性」を褒めたたえることにより、肉欲を賛美する危険な思想

以上のように、聖書は明確に「肉によって女奴隷から生まれた子供」と「御霊によって自由の女から生まれた子供」の二種類があることを教えている。

御国の相続者は、父なる神の約束に基づいて、御霊によって生まれた子だけである。しかし、「肉によって生まれた者」は、自らの堕落した肉欲の罪が暴かれることを嫌うため、「キリスト教の御言葉の二分性」を己に対する脅威とみなし、「抑圧されている母性原理の回復」を唱えることで、己の欲望を正当化し、無罪放免しようとする。
 
解放神学者リューサーは、伝統的なキリスト教の「二分性」に対して、激しい憎悪と非難の言葉を浴びせるが、彼女がとりわけ強く反発しているのは、キリスト教が人間の肉欲を堕落したものとみなしていることである。
  

(伝統的キリスト教における)「救いとは、肉的なものを抑えることによってくるものであると解釈される。肉欲と感情の抑制、そして内的・超越的・霊的自己への逃避。食べること、眠ること、入浴さえもが、また、視覚的・聴覚的楽しみ、そして何にもまし て、一番強烈な肉体感覚である性の喜びなどが真の『悪魔の住処』とされた。文字通り、死の倫理を形成したのである。救いは死を目指しつつ生涯かけて『苦行』を実践することによって与えられる『魂の肉体からの分離』である。創造を堕落と見るグノーシス主義的思考を訂正しようとして苦心したにもかかわらず、 キリスト教はその同じグノーシス的精神性の多くをそのまま保存するにとどまった」(『解放神学 虚と実』、勝田吉太郎他著、(大石昭夫著、「解放神学の基本構造」)、荒竹出版、昭和61年、p.61-62)。


リューサーは、キリスト教は肉欲を堕落して罪深いものとみなしたがゆえに「文字通り、死の倫理を形成し」、一生かけて「魂の肉体という牢獄からの解放」を目指すしかないという、グノーシス主義と同じ罠に落ちたのだと言って、キリスト教を非難する。

彼女は「食べること、眠ること、入浴さえも<…>一番強烈な肉体感覚である性の喜びなどが真の『悪魔の住処』とされた」と嘆き、「飲んだり、食べたり、めとったり、とついだり」(マタイ24:38)といった行為に加え、「視覚的・聴覚的楽しみ」がキリスト教で罪に定められていることに異議を申し立て、巧みに「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」(Ⅰヨハネ2:16)を復権させようと試みる。

しかし、聖書ははっきりと、こうした人間の一連の肉欲が、この世(悪魔)に由来するものであると告げている。

「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」(Ⅰヨハネ2:15-16)
 
さらに、キリスト教の救いとは、リューサーが述べているような、「肉的なものを抑えることによってくる」ものではない。キリストの救いは人間側の自己努力によって達成されるものではなく、神の恵みとして神の側から与えられるのであり、キリストの十字架の霊的死にこそ、堕落した肉に対する問題解決がある。

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:24)
 
しかし、リューサーはキリストの十字架を見ない。そして、神の側から人類に与えられた完全な解決を退けて、キリスト教には肉欲を制する方法がないのに、肉欲を罪に定めているのはおかしいと言って、神が十字架において旧創造に下された有罪宣告そのものを不当であると主張し、この理不尽な有罪宣告のせいで、人間は自らの肉体を嫌悪し、自分の肉欲を厭いながら、もがき苦しむ状態から抜け出られなくなったのであり、キリスト教のこの不当な罪定めから人類は解放されなければならない、と主張する。

こうして彼女は、神が救済として人類に与えられたキリストの十字架の死の判決から、人類の堕落した肉を救い出そうとするのである。

従って、こうした人々が「キリスト教において不当に抑圧されている」と非難している「母性原理」とは、結局、人間の欲望そのものであり、神が十字架で死に定められた人類の古き自己と、古き人に付随するもろもろの情と欲なのである。

彼らの言う「解放」とは、「キリスト教の二分性の抑圧からの人類の欲望の解放」を意味するのであり、こうした教えを奉ずる人々は、みな己の「欲望の解禁」を主張しているのである。

だからこそ、ペンテコステ・カリスマ運動の教えの影響を受けたクリスチャンたちはみな「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」に走り、「飲んだり、食べたり、めとったり、とついだり」という話ばかりを延々と繰り返し、地上的幸福の自慢話を「信仰の証」にすり替え、己の欲望に突き進むことが神の国の到来を招致する手段であるとはき違えるのである。

こうした人々は、神がキリストの十字架で死の宣告を下された己の欲望を「神聖」とみなし、欲望を通して神に至れるという誤謬に本気で落ち込み、欲望の解禁を主張することによって、絶えず神に反逆を企てているのである。

彼らがとりわけ十字架の死の判決から解放したいと願っているのは、リューサーも書いている通り、「一番強烈な肉体感覚である性の喜び」である。

手束氏はこう述べた、
 

「しかし聖霊を示すヘブル語のルァハは女性形であるばかりか、『人間のダイナミックな生命力が表現される特別な呼吸の出来事』を意味した。これは具体的には性的興奮分娩を指しているという。」


胸が悪くなるような記述だが、こうして彼らは「奴隷の女」の抑えがたい欲望を賛美することで、自らが「奴隷の女の子」であると告白しているのである。

一つ前の記事で筆者は、手束氏の言うように、聖霊を「母なる霊」とみなせば、乙女マリアが聖霊によってイエスをみごもったのは、女性が女性の霊によってみごもったことになるが、そんな理屈が成り立つだろうかと書いた。その疑問は、グノーシス主義神話を考慮すれば解ける。

こうした人々の主張の背後には、神に対して霊的に女性である人類が、徹頭徹尾、神を抜きにして、己の力だけで神と同等になりたい、神を愚弄する形で神の創造の力を盗み取り、自分も神のようになりたい、という願望がある。

そこで、彼らが正当化し、誉めたたえているのは、結局、人類が己の肉欲のうちに自己陶酔に浸り、神を抜きに自分の力だけで神に属する子を単独で生みたいとする欲望なのである。

このような教えを奉じた人々は、物事を深く考える力を失い、自分を満たしてくれそうなあらゆる「良さそうなもの」に無分別に飛びいては、これと霊的姦淫を繰り返すようになり、己の肉欲を賛美しながら、軽薄で愚かな感覚的・情緒的な享楽に陶酔し、あらゆる汚れた行いに手を染めながら、やがて善悪の感覚そのものを完全に失って、神への反逆に至る。まさに無分別で見境のない「八方開き」の状態に陥るのである。

こうした人々の異様な自己陶酔の様子は、ペンテコステ・カリスマ運動の支持者らが「聖霊のバプテスマ」と称して、理性を失った恍惚状態に陥っている様子を見ても分かるであろう。彼らの中にはすでにその自己陶酔の結果、己を神と宣言し、神属人類を自称する者たちもいる。

主イエスは言われた、

「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪をも赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」(マルコ3:28-29)

聖書の「二分性」に逆らって、己の肉欲を誇り、「神秘なる母性」を崇拝し、神の戒めを守らないのに、父なる神の子供を名乗って、十字架を否定してまことの神への反逆を正当化しているペンテコステ・カリスマ運動が、聖霊を冒涜する教えに該当しない理由があるはずもない。
 
この運動に限らず、「キリスト教に母性原理を回復せよ」と主張する教えは、すべてキリスト教と東洋的・グノーシス主義的異端との混合であり、人類が聖書の御言葉の「二分性」であるキリストの十字架を退けて、己の欲望を誇り、自らの欲望を通して神に到達しようという偽りの教えである。

聖書の御言葉は完全であり、これにつけ加えようとする者も、取り除く者も、災いを受ける(黙示22:18-19)。聖書の御言葉の二分性を否定すれば、待っているのは破滅だけである。
 
このように反逆的で汚れた秩序転覆と肉欲を賛美する教えには、絶対に関わるべきではなく、このような教えを信奉した結果、自らを神と宣言するに至った人々に、悔い改めの余地は残されていないであろう。
 
そこで、このような異端とそれを奉ずる人々からは、全力で遠ざかり、永遠に訣別するだけである。

わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。なぜなら、彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神は彼女の不正を覚えておられるからです。」(黙示17:4-5)

<続く>

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ペンテコステ・カリスマ運動の反聖書性―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動⑦ーグノーシス主義的三位一体論

② (続き) 

・カリスマ運動の異端的な「父・母・子」の三位一体の家族モデルのグノーシス主義的起源

さて、前稿では、プロテスタントの牧師であり、カリスマ運動の指導者である手束正昭氏の主張を取り上げて、同氏が牧師夫妻を「霊の父母」とし、信者をその「子」とする家族モデルが、統一教会において指導者夫妻を「真の父母」と崇め、信者を彼らの「子」とみなす家族モデルにそっくりであること、また、手束氏の述べている家族モデルは、フェミニズム神学に基づいて同氏が聖霊を「母なる霊」とみなす「父・母・子」という異端的な三位一体論から導き出されたものであることを確認した。
 
聖書の従来の解釈において、万物を創造したのは「父なる神」であり、聖霊が「母なる霊」とみなされて生命の根源とされることはない。しかし、東洋思想においては、万物の生命の源は、母性原理にあるとされ、母性原理の象徴である「神秘なる母性(母なる混沌)」が賛美される。

そこで、統一教会であれ、ペンテコステ・カリスマ運動のようなキリスト教を自称する内部の異端であれ、「キリスト教に母性原理を回復せよ」という主張は、すべて東洋思想とキリスト教との合体を目指しているとみなせる。それは次回に述べるように、国家神道の目的でもあった。

このように、キリスト教と東洋思想との合体によって生まれる混合物こそ、悪魔の悲願としての聖書における終末のバビロンの姿なのである。
 
終末における世界規模での背教の象徴として聖書の黙示録に登場する大淫婦バビロンは、「混ぜ合わせた杯」(黙示18:6)を持っていることからも分かるように、混合の教えを意味する。大淫婦バビロンとは、キリスト教と非キリスト教的思想との混合体であり、ドストエフスキーの描いた大審問官のように、一見、キリスト教に偽装しつつも、本質的にはキリスト教に敵対する思想を内に秘めており、キリスト教を内側から転倒させ、食い破り、瓦解させていく効果を持つものである。
 
東洋思想は、太古から存在するグノーシス主義と密接な関係がある。グノーシス主義という名称自体は、初期キリスト教の異端として名付けられたものであるが、グノーシス主義的な思想はキリスト教の登場以前から存在していた。

グノーシス主義は旧約聖書の否定の上に成り立っており、この教えにおいては、聖書の創造神である「父なる神」は、悪神(デーミウルゴス、ヤルダバオート)として侮蔑の対象とされる。そこでは、聖書の創造神は愚かな悪神であるがゆえに、他の「神」を否定して自らを「唯一の神」と称するようになったとされて、この「偽りの神」よりも上位に「真の神」(真の至高者)が存在し、その至高者に回帰することが人間の「救済」であるとみなされる。

グノーシス主義とは、このように聖書の秩序を完全に転覆させて、「唯一の神」の概念を否定し、聖書の神に対する反逆を正当化する教えである。
  
そこで、グノーシス主義とは、聖書に照らし合わせると、その起源は蛇(サタン)によって人類に吹き込まれた悪魔的な思想にあると考えられ、その秩序転覆の教えが、古代バビロニアなどのオリエント文化において発展し、東洋思想や文化の中に保存されて、今日に至っているものとみなせる。

グノーシス主義それ自体は宗教ではなく、厭世的・悲観的な世界観であり、時代や社会や宗教の枠組み超えていつでも生じうるものであり、さまざまな宗教に形を変えて入り込み、その宗教を内側から乗っ取り、変質させてしまう効果をも持つ。
 
ペンテコステ・カリスマ運動は、このグノーシス主義的思想がキリスト教に入り込んでできた混合物の一つである。

その証拠の一つとして、手束氏のようなカリスマ運動指導者が提唱している「父・母・子」の異端的三位一体論は、グノーシス主義に原型が見いだせるのである。

以下で引用する荒井献氏によるグノーシス主義神話論では、グノーシス主義的な三位一体論が解説されているが、そこでは、グノーシス主義において「真の神」とされる至高者「原父(プロパテール)」(または「霊(プネウマ)」)は、原初、女性的属性(「思い(エンノイア)」や「知恵(ソフィア)」や「魂(プシュケ)」といったギリシア語の女性名詞で表される)と対をなし彼らの「子」と共に「三位一体」をなしていたという。

ちなみに、「男女が対をなす」という考え方は、グノーシス主義に特徴的であり、この考えに従って、グノーシス主義においては「真の神」も男女の対をなすとみなされる。それが「子」と共に原初は「父・母・子」の「三位一体」を形成していたというのである。

ところが、グノーシス主義神話においては、ある「事件」が発生する。女性的属性の中でも最下位である「ソフィア(知恵)」が、単独で子を生みたいと願い、至高者の命令なくして、また自らの「伴侶」である男性人格を抜きに、自ら至高者を「知ろう」とした。その過ちの結果として、彼女は上界から転落しかかり、中間界に醜い悪神であるデーミウルゴスと諸々の権威と支配を産んだ。さらにそのデーミウルゴスによって、下界に狂ったこの世と堕落した肉体を持つ人間が生まれたという。これはグノーシス主義において一般に「ソフィアの転落」と呼ばれている出来事である。

つまり、グノーシス主義においても、男女のペアが存在しないことには子が生まれないという前提があったようで、女性的属性であるソフィアが、自分だけで子を生もうと願ったことは、「過失」とされている。しかし、グノーシス主義では、ソフィアは同情されても、罰せられることはない。そして、人間の内にはこの「母」を通して、「真の神」である「霊の欠片」が宿っているので、人間は本来的に、創造神よりも優れた存在であり、創造神はその「真実」を人間の目から不当に隠しているがゆえに、人間は無知の中に閉じ込められて悪神の道具となって支配されているだけで、人間は真の神についての「叡智」を告げる「真実の開示者」に出会うことによって、自らの出生をめぐる「真実」を悟り、堕落したこの世と悪神である創造神を否定的に越えて、魂の本来の故郷である上界に戻って行く、それがグノーシス主義的な「救済」だとされるのである。

キリスト教における「救済」とは神の側からの恵みであり、神の介在なくして成り立たないものであるが、グノーシス主義における「救済」とはすべて人間が自ら「叡智」に目覚めることにより自己の出自を悟り、本来的自己に回帰することが「救済」とされるのである。
  

「グノーシスの神話論
 <略>
 ――はじめに上界に、至高者(「原父(プロパテール)」「父(パテール)」または「霊(プネウマ)」があった。彼は女性的属性(「思い(エンノイア)」(「知恵(ソフィア)」または「魂(プシュケ)」)と対をなし、彼らの「子」と、いわば「三位一体」を形成していた(この三体は<略>「父」と男女二体の「子」から成り立っている場合もある)。

 女性的属性は至高者(または男性の「子」)を離れて、上界から中間界へと脱落し、ここで「諸権威(エクスウーシアイ)」あるいは「支配者たち(アルコンテス)」を産む。彼ら――とりわけその長なるデーミウールゴスーーは、至高者の存在を知らずに、「母」を凌辱し、下(地)界と人間を形成する。こうしてデーミウールゴスは「万物の主」たることを誇示し、中間界と下界をその支配下におく。しかし至高者は、女性的属性を通じて人間にその本質(霊)を確保しておく。

デーミウールゴスの支配下にある人間は、自己の本質を知らずに、あるいはそれを忘却し、「無知」の虜となっている。人間は自力でこの本質を認識することができない。そこで至高者は、下界にその「子」を啓示者として遣わし、人間にその本質を啓示する。それによって人間は自己にめざめ、自己を認識して、「子」と共に上界へと帰昇する。中間界と下界(宇宙全体)は解体され、万物は上界の本質(霊)に帰一し、こうして「万物の更新」が成就する。」

(『トマスによる福音書』、荒井献著、講談社、1994年、p.103-104。
改行・ふりがな等は読み見やすさを考慮して筆者が変更を加えた。)


 



・自ら神のようになり創造の力を得たいと願った「女性的属性」の欲望を正当化するために作られたグノーシス主義神話


しかしながら、以上のような神話を読めば、グノーシス神話における女性的属性「ソフィア(知恵)」は、大した悪者の反逆者だったのではないかという疑問が生じざるを得ない。以下の記述を読んでも、彼女を「過失」へと突き動かしたのは、「原父」の力によらず、自分だけが単独で「原父」と同じように、自分に似た生命を創造する力を得て、神のようになりたいという願望であったことが分かる。

セツ派のグノーシス文書である『ヨハネのアポクリュフォン』には、ソフィアの「過失」の動機が次のように描かれている。

「今度は、『見識の知恵』でありアイオーンでもあるソフィアが、『見えざる霊』と『先住の知識』を思い抱きながら、自らの内に一つの考えを宿した。自分と似た姿のものを生み出したいと思ったのだだが、それまでも賛同することのなかった『霊』の同意もなければ、斟酌してくれる伴侶もいなかった。ソフィアの男性格は賛成しなかった。ソフィアは伴侶を見いだしておらず、『霊』の同意もなければ、伴侶の知識もなしにこの考えを抱いた。そして、子を産んだ。不屈の力を内に秘めたソフィアの思い付きは無益には終わらなかったのだ。だが、伴侶なしに彼女が生み出したものは不完全で彼女に似ていなかった。母に似ていないだけでなく醜かった。(Ⅱ・9-10) 『原典、ユダの福音書』、ロドルフ・カッセル、マービン・マイヤー他著、日経ナショナル ジオグラフィック社、2006年、p.171から引用、下線は筆者による)


 
ソフィアがどうやって単独で子を産むに至ったのか、ここには具体的な記述がないが、考えられることはただ一つ、ソフィアが「原父」の子を生むために、彼の創造の力を何らかの方法で盗んだということである。そうして産まれたのが醜い悪神ヤルダバオートであり、彼女はその自分に似ても似つかぬ醜い子を見ると、上界の外へ投げ捨てたという。

こうして、グノーシス主義ではソフィアの過失がすべての悲劇の原因となって、あらゆる出来事に秩序転覆と反逆の思想が満ち溢れるようになるのだが、その転覆行為に一切、責任が追及されることがない。上記の「過ち」ゆえに、「ソフィア」は上界から転落しそうになるが、彼女は激しい後悔のゆえに同情を受けて上界からの追放を免れる。

グノーシス主義神話においては、霊的存在には序列があるため、本来、最下位の女性的属性が、最上位の「真の神」に対して越権行為に及んだことは「反逆」であるはずだが、それも後悔すれば罰せられずに赦されてしまう。さらに、グノーシス主義神話においては、男女の対が完全であると主張されているにも関わらず、女性的属性であるソフィアが自分一人だけで子を生んだわけだから、それ自体が神話そのものを崩壊させるような矛盾である。

しかし、グノーシス主義では、こうして秩序を揺るがしたソフィアとその産んだ子らが罰せられ、退けられることによってこの問題が片づけられる、ということにはならない。

むしろ彼女の「過ち」によって、人間には逆に「神聖な霊の欠片」が伝わることになったので、人間がその「神聖な自己」に目覚めて本来的故郷に帰ることによって、ソフィアの過ちが「修復される」のだとされ、彼女の過ちは正当化される。
  

「神聖なる世界とその下に位置するこの世界の欠乏はすべて『知恵』が犯した過ちに始まったものであり、人々の内に宿る光が再び神聖さを取り戻せば、ソフィアの過ちは修復され、完全なる神聖さが実現されるのである。」(同上、p.173)


こうして、グノーシス主義神話においては、人間とは自らの出生の「真実」を知ることによって「母の過ちを修復する」ためにこそ存在しているのだと言って過言ではない。それによると、人類は、本来は彼らが悪神とみなされている創造神と同様に、真の父の同意なしに、母の過失によって、「望まれない子」として「母子家庭」に生まれて来たことになるが、その人類が自分の出自を正当化して、自分は創造神ではなく「真の父としての至高者の子供である」と自称して、「真の父」に回帰することによって、「母の過ちが結果的に修復される」のだという。

こうして「子」が「母」の過失を正当化し、母の願いを正当化するための道具となって生きることを最大の目的として作り出された物語が、グノーシス主義だと言えるであろう。



・「母」を守るのが「子」の使命とする転倒した東洋思想

以上のようなグノーシス主義神話の特徴を踏まえた上で、改めて東洋思想の思想家である鈴木大拙氏が、東洋思想においては「母」を守ることが根源にある、と述べていることを考えてみると興味深い。

鈴木氏は述べる、
  

「万物分割の知性を認識すること、これもとより大事だが、「その母を守る」ことを忘れてはならぬ。東洋民族の意識・心理・思想・文化の根源には、この母を守るということがある。母である。父ではない、これを忘れてはならぬ。

 欧米人の考え方、感じ方の根本には父がある。キリスト教にもユダヤ教にも父はあるが、母はない。キリスト教はマリアを聖母に仕立てあげたが、まだ絶対性を与えるに躊躇している。彼らの神は父であって母ではない。父は力と律法と義とで統御する。母は無条件の愛でなにもかも包容する。善いとか悪いとかいわぬ。いずれも併合して「改めず、あやうからず」である。西洋の愛には力の残りかすがある。東洋のは十方豁開である。八方開きである。どこからでも入ってこられる。

 ここに母というのは、わたしの考えでは、普通にいままでの注釈家が説明するような道といったり、また「ゴッドヘッド」といったりするものではないのである。もっともっと具体的な行動的な人間的なものと見たいのだ。しかし今は詳説するいとまをもたぬ。」
(『東洋的な見方』、鈴木大拙著、岩波書店、p.13-14、太字、下線は筆者による)


鈴木氏の言葉から考えられることは、もし「母」が「子」によって守られねばならないほどに弱い存在でなければ、あるいは「母」が絶えず何者かに脅かされているという前提がなければ、「母を守る」という言葉は、決して生まれて来ないという事実である。

むろん、「守る」という言葉の中には、保存するとか、継承するとか、崇め、奉るという意味もあろうが、それだけではない。たとえば、「母を守る」とは言っても、「父を守る」とは言わないからだ。

特に、聖書の「父なる神」は全知全能であり、人間によって守られなければならないような弱い存在ではない。むしろ、「父なる神」の方が、信ずる者を日々「子」として力強く守って下さるのである。聖書の秩序は一貫して「強い者である親が弱い子供たちを守る」というものである。

ところが、東洋思想はそれとは逆で、弱い立場にある「子」が、自らよりも強い者である「母」を守ることを求めるのである。

手束氏は、心理学者河合隼雄氏の言葉を引用して、こう述べている。
 

「河合隼雄氏は日本社会の様々な病理的現象の背後には、父性が欠如し、母性が過剰になっているとことにあると分析している。さらに遡って河合氏は、このような日本の母性文化の発生の理由を、日本の宗教の母性的性格に見ている。日本人は『父なる宗教を知らぬ国民』なのである。」(『教会成長の勘所』、p.74-75)


もし河合隼雄氏の言うように、「日本人は父なる宗教を知らぬ国民』」であるならば、鈴木氏が述べる「母を守る」という言葉も、東洋思想の心理的特徴が本質的に父を持たない「母子家庭」であるか、もしくは、「母」が「父」に比べて圧倒的に弱く、「母が父によって不当に脅かされている」という被害者意識を前提に成立しているものと考えられてならない。

手束氏が『教会成長の勘所』でこう述べていることを思い出そう。
 

今日の『フェミニズム神学』の評価すべきところは幾つかあるが、そのうちの一つはこれまで父性的男性的な傾向の強かったプロテスタント的キリスト教のあり方に批判を加え、長い間隠され抑圧されていた母性的女性的な要素を回復しようとしたことにある。」(同上、p.77-78)


鈴木大拙氏の言う「母を守る」という言葉もこれと同じで、「キリスト教の父なる神の二分性の脅威から東洋的な母性を守らなければならない」という前提あってこその言葉のように思われる。

むろん、鈴木氏はキリスト教社会に生きておらず、リューサーのようにキリスト教がもたらす女性蔑視により被害を受けたと主張するわけでもなく、また、日本において東洋思想が抑圧されたマイノリティに追いやられている現実もないため、鈴木氏が一体、「母を守る」という言葉によって、何を具体的に指していたのか、文脈は明らかでない。

しかし、鈴木氏自身の主張全体を振り返っても、東洋思想における「母」を脅しうる存在とは、キリスト教の父性原理の二分性を置いて他にないものと考えられる。

そして、キリスト教の父性原理とはすなわち聖書の御言葉なのである。

鈴木氏の言う「母を守る」とは、以上に挙げたような、「原父」に逆らった母ソフィアの過失を「修復」することがその「子」である人類の使命だ、とみなすグノーシス主義の主張を考慮すると、より理解しやすい。

鈴木氏が「善いとか悪いとかいわぬ。いずれも併合して「改めず、あやうからず」である。西洋の愛には力の残りかすがある。東洋のは十方豁開である。八方開きである。どこからでも入ってこられる。」と主張しているのも偶然ではない。

彼らが目指しているのは、「父」だけが最高の権威者で、他の者はみな「父」に従わなければならないという制約の存在しない、「母」が「父」に等しい力と権威を持ち、「父」の御言葉に縛られる必要がなく、これに背いたからと言って罪に定められることもなく、「善悪」の判断自体が存在せず、どんなものでも受け入れ、どこからでも入って来られる世界であり、言い換えれば、「母」の欲望が無制限に肯定され、正当化される世界なのである。

つまり、こうした人々が否定しようとしているのは、人は聖書の御言葉に基づいて、父なる神の意志に従わなければならないという聖書の事実、それに背けば、罪に定められるという事実なのであり、彼らの言う「キリスト教の二分性の抑圧から母性原理を回復せよ」という主張は、結局、神に背いたために、神の家族から疎外された母子(=人類そのもの)を、神の意志に反して、神の家族に加えようという企てを指していると言えよう。

いずれにしても、鈴木大拙氏、手束正昭氏、リューサーなどの面々が、全く異なる立場から、キリスト教に対する同様の批判を提起していることは興味深い。そこで、こう言えるのではないだろうか。キリスト教徒を名乗っているかどうかに関わらず、また性別の如何や暮らしている国や社会の形態に関わらず、ある人々にとっては、キリスト教の父性原理の二分性それ自体が重大な脅威と映り、彼らはどうしても、キリスト教の「二分性」を、この宗教の「欠点」として告発し、これを乗り越えるために、キリスト教に母性原理を回復せよ、と訴えずにいられないのである。

しかし、彼らが「キリスト教の父性原理の二分性が母性原理を抑圧している」と述べる時、それは結局「聖書の御言葉の二分性が人類全体を脅かしている」と言っているに等しいのである。

こうした人々は、聖書の「二分性」につまづいているのだが、つまづいた自分自身を反省して自己吟味するのではなく、むしろ、自らをつまづかせたキリスト教の側に「重大な欠点」があって、キリスト教がそれを克服せねばならないと述べることで、キリスト教に「有罪」を宣告する。

そうした告発が、キリスト教界の内側から出てくるときには、それは解放神学や、ペンテコステ・カリスマ運動や、あるいはカルト被害者救済活動のように、うわべはキリスト教の装いをまとって、キリスト教の中から始まった自己批判や、改革運動のような形を取る。

しかし、彼らの主張は「聖書の御言葉のみ」に基づく信仰を否定して、本来、キリスト教に異質な思想(異端)を持ち込むことであるから、必然的に、それはキリスト教を内側から変質させて、キリスト教を内側から食い破って、破壊しようとするキリスト教への敵対運動になる。

他方、キリスト教の「二分性」への告発が、キリスト教の外側から発せられる時には、それは鈴木大拙氏の主張や、次に述べる国家神道の理念のように、明らかにキリスト教とは異なる(東洋)思想を公然とキリスト教と合体させよ、という主張になる。

だが、これらのキリスト教批判は、外側からの批判であれ、内側からの批判であれ、本来的には同一の起源を持つのであり、それは以下に述べるように、キリスト教を変質させてグノーシス主義的原初統合を実現しようという試みに他ならない。

彼らが最も激しく逆らっているのは、「わたしの他に神はない」とする聖書の唯一の神という概念である。彼らは、父なる神が単独で神であるという事実に我慢がならず、何とかして、唯一の神から神としての性質を盗み取りたいのである。それを、キリスト教における父性原理の「二分性」への批判と、「母性原理の回復」を主張することによって成し遂げようとしているのである。

つまり、聖書の御言葉を否定して、神の意志を抜きに、人類が単独で己の欲望を成し遂げて、神に至ることを正当化したいという欲望こそ、
おそらく、鈴木大拙氏の言う「母を守る」ことの意味ではないかと考えられる。

「唯一の父の意志に縛られず、従わないで良い世界、御言葉の切り分けを否定して、どんなものでも主人として受け入れることが可能な世界」、だからこそ、「八方開き」なのである。

だとすれば、そのような無分別な「母」から生まれて来た「子」とは、まさに父不明の「父なし子」、「私生児」ということにしかならないであろう。
  
だが、彼らには己が罪に定められることが我慢できない。「母の過ち」を擁護することによって、何とかして自らの出生を正当化したい。そのためにこそ、彼らは「キリスト教には母性原理の回復が必要である」と唱え、自分たちが「父なる神」の正統な家族であるかのように訴えて、神の家の乗っ取りを企むのである。

そのような理屈を正当化するために、彼らは「キリスト教にグノーシス主義的な「男女の原初的統合」を「回復」することが必要である」と主張するのである。

こうして結局、東洋思想もその根底にはキリスト教の唯一の神への敵意、聖書の御言葉へ敵意と否定を宿していることになる。これは決してキリスト教と別個に発生し、発展して来た思想ではなく、その起源は、グノーシス主義なのである。

<続く>


ペンテコステ・カリスマ運動の反聖書性ーキリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動⑥ 地上天国を目指す異端思想の家族モデルの型ー

➀ 文鮮明夫妻を「真の父母」とし、信者が「子」となって「神の家族」を形成することで地上天国が実現すると述べる統一教会の「全人類一家族理想」

統一教会は、2015年に「世界基督教統一神霊協会(統一教会)」というかつての名称から、「世界平和統一家庭連合」と改称された。この名称だけを見ても、いかにこの宗教が自らメシアと崇めている「真の父母様」である文鮮明を中心とする家族モデルを、信者全体の信仰生活の極めて重要な拠点として思い描いているかがよく伝わって来る。

さて、統一教会が理想と思い描いている信者の家族モデルとはどのようなものかは、以下の統一教会信者とおぼしき人物のブログの抜粋を通してもよく理解できる。
 

ブログ「原理に帰りましょう」
記事
「全てを許してやりたいのが親の心情」から抜粋

「神様の創造理想は、実体を持った人間を創造し、人間に責任分担を与え、愛を完成すること、そして人間と共に地上天国、天上天国を完成することでした。しかし人間始祖アダムとエバが堕落することにより、神様の理想とは似ても似つかない地上地獄、天上地獄を形成してしまいました。

 真の愛による真の生命の創造で神様の真の血統が繁殖するはずでしたが、偽りの愛による偽りの生命が誕生し、サタンの血統を繁殖してしまったのです。

 その血統を転換するために、メシヤすなわち 真の父母 を神様は送って下さいました。
 
私たちは真の父母を迎え、同じ神様の血統を共有する全人類一家族理想を成就しなければならないのです(以下、引用中の太字は全て筆者による)



統一教会では、宗教指導者の執り行う合同結婚式を通じて信者が自らの家庭を築くことにより、現実には全く血のつながりのない宗教指導者の「聖なる血統」を霊的に継承することができ、それによって信者は罪から清められて「神の家族」の一員に加えられると教えられている。

その教えによれば、文鮮明は人類を罪の堕落から救うメシアであり、信者たちは、この宗教指導者の夫妻を「聖なる父母」(「真の父母様」)として崇め、文鮮明の「子供」となって、「お父様」の願いを実現するために生きることこそ、信仰生活の基礎であると信じている。

おそらくは、信者自身の家庭にも同様の構図があって、信者が「真の父」である文鮮明の願いを体現して生きるのと同じように、信者の子供も、親に服従し、親の願いを体現して生きることが求められているのであろう。

このように「真の父母」によって結ばれる「神の家族」である信者の家庭を地上で増やしていくことで、「全人類一家族理想」が成し遂げられ、地上天国が成就すると、彼らは言うのである。「全人類一家族理想」という用語からも分かるように、全人類を統一教会の信者として、「真の父母」を中心とする「一つの家族」に結びつけることそ、彼らのミッションとなのである。

このように、信者が宗教指導者の夫妻を「聖なる両親」と仰ぎ、その「子供」となって彼らの教えに帰依することで、この世の堕落から救われて、聖なる神の家族の一員に加えられ、それによって「神の家族」が拡大して行くという考えは、異端思想のほとんどに共通して見られる特徴である。

そのような教えは、宗教指導者の教えに従うことで、信者の家庭が清められ、「聖家族」が地上で増え広がって行くことにより、やがて全人類がこの一つの神の家族に連なり、地上天国が成し遂げられると教える。

「全人類一家族理想」――すなわち、聖書によれば目に見えないものである神の国を、目に見える地上の王国に置き換え、地上天国を成し遂げるために、全人類を一つの教え、一組の
「真の父母」に帰依させて、「一つの家族」に結びつけること――それこそ、異端思想の時代を超えて変わらない普遍的な目標であり、悪魔が夢見るまことの神の国の模倣としての「地上天国」の「理想」なのである。



② 牧師夫妻を「霊の父母」とし、信者が「子」として牧師夫妻を崇めて「一つの霊的家族」として交わることが「教会成長の勘所」だとするプロテスタントにおける異端思想

驚くべきことに、そのような異端的な教えは、プロテスタントにも入り込んでいる。かつて記事「クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(1)」で記したように、カリスマ運動の指導者である日本基督教団高砂教会の手束正昭牧師は、著書『教会成長の勘所』において、クリスチャンは、自分の属する教会の牧師夫妻を「礼典的・象徴的存在」として崇め、牧師夫妻を「霊の父、霊の母」として、これに「子」として従うべきであるという、統一教会とほとんど変わらない家族モデルを提唱している。

「クリスチャンには三人の父がいると言われる。まず第一には、言うまでもなく、『肉親としての父』である。次に、信仰の対象としての『天の父』、そして第三には、『霊の父』である牧師である
(『教会成長の勘所』、手束正昭著、マルコーシュ・パブリケーション、2003年、
p.74)



むろん、記事でも記して来たことであるが、聖書には牧師を「霊の父」として崇めることを奨励する記述は全くないどころか、それは聖書が逆に明確に禁じている行為である。

「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師は、ただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、すなわち、キリストだからです。」(マタイ23:8-10)

しかしながら、手束氏は聖書の記述などお構いなしに、
牧師夫妻を「霊の父母」とする家族に信者が属して交わることこそ教会成長論の勘所だと説き、統一教会とほとんど変わらない「リバイバル」という地上天国の夢、一家族理想に邁進して行くのである。


・異端的な「父・母・子」の三位一体論に基づくプロテスタントにおける「母性原理回復」の試み

手束氏がこのような「霊の父母子」という家族モデルの提唱に至ったその背景にあるのは、同氏による異端的三位一体論である。

手束氏はフェミニズム神学者らの主張に基づいて、聖霊を「母なる霊」とみなすことで、父なる神・聖霊・子なるイエスの交わりを、「父なる神・母なる聖霊・子なるイエスの交わり」としてとらえる異端的な三位一体の解釈に至った。(このことは記事クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(2)でも触れた。)

つまり、手束氏は、三位一体を「父・母・子」とみなす異端的な解釈にならって、信者らも、「霊の父母」である牧師夫妻を頂点に、「一つの霊の家族」となるべきであり、その交わりが成し遂げられることによって、教会が成長して行く、と述べるのである。そのようにして成長する教会が数多く現れることが、リバイバルの秘訣であると言うわけである。
  

三位一体の神ご自身が『父性的存在』と『母性的存在』と『子的存在』の交わりとしてあられるならば、当然教会においても、このような交わりが必要であり、そのような交わりが成就するときに、教会は健全となり、安定性を持ち、従って成長していくことになるのではなかろうか。

 パウロはテモテを『愛する子』(第二テモテ一・二)と呼んでいる。牧師や牧師夫人にとって、信徒は『愛する子』であり、『霊の子』である。信徒にとって、牧師は『霊の父』であり、牧師夫人は『霊の母』である。ここにおいて、『神の家族』(エペソニ・十九)であり、『霊の家族』である教会は成立する。

だとするならば、牧師は父性原理の体現者として信徒を教え導いて秩序付け訓練することに秀でなくてはならないし、牧師夫人は母性原理の具現者として、信徒を受容し、慈しむことのできる人でなくてはならない。このとき、教会は落ち着いた安定性を得、また信仰において成熟していくことになるのである。このような雰囲気を持つ教会には、必然的に多くの人々が集まってくるのである。」
(『教会成長の勘所』、p.79)


  
それだけでなく、手束氏がこのような「父・母・子」という異端的三位一体の解釈に基づき、牧師夫妻を「霊の父母」、信徒を「霊の子」とする家族モデルを提唱しているのは、それによって、「キリスト教に母性原理を回復するため」という目的があることも見逃せない。

プロテスタントがカトリックの堕落と腐敗に抗議して、これと訣別すべく生まれたことは知られているが、手束氏はまるで歴史を逆行させるように、カトリックには聖母マリア崇拝がもたらされたことによって、多少なりとも母性原理が回復されたが、聖書の御言葉だけを中心として、マリア崇拝を退けているプロテスタントには、御言葉に基づいて、善・悪を峻別する「分割」、「切断」、「二分」という父性原理ばかりに重きが置かれ、母性的な受容性がなくなり、その結果、プロテスタントは安定や健全さの欠ける、人間を精神病理に追い込むような、「極めて父性的で、厳粛な宗教に陥ってしまった」と嘆く。

「著名な心理学者河合隼雄氏によると、父性とは『切断する』ことにその特性を持っている。物事を上と下に、善と悪に、主体と客体に分類して、秩序付けや成長を促していく。他方、母性とは『包含する』ことにその特性があり、すべてのものを良きにつけ悪しきにつけ受容していくのである。

人間が精神的に健全に成長し成熟していくためには、どうしてもこの父性原理と母性原理のバランスが必要なのであり、どちらかに偏重すると、いろいろな点で不健全さ、不安定さを免れ得ない。河合隼雄氏は日本社会の様々な病理的現象の背後には、父性が欠如し、母性が過剰になっているとことにあると分析している。さらに遡って河合氏は、このような日本の母性文化の発生の理由を、日本の宗教の母性的性格に見ている。日本人は『父なる宗教を知らぬ国民』なのである」(同上、p.74-75)


 

「ところで、<略>その後のキリスト教の歴史においては、どちらかと言うと、母性的要素がことさら抑えられてきたように思える。特に我らプロテスタント教会はその感が強い。

カトリック教会の場合は『マリヤ崇拝』を導入することによって、何とか父性の偏重にバランスをとろうとした努力がうかがえるのであるが、プロテスタント教会は“聖書のみ”の立場から、聖書からは導き出し得ない『マリヤ崇拝』を廃棄せざるを得なかったのである。その結果、プロテスタントは、<略>極めて父性的で、厳粛な宗教に陥ってしまったのである。

しかしそこには人間性の安定や健全さを求めることは難しく、従って、プロテスタント国においては精神的な病を患う人々がより多く排出されることになったのである。父性というのは、上と下、善と悪を峻別して、秩序立てていこうとするので、どうしても心理的葛藤が起こりやすいからである」(同上、p.76-77)



このような手束氏の主張は、これまでも何度か言及して来たように、聖書の御言葉の「二分性」をキリスト教の「短所」として非難する仏教学者・禅の指導者鈴木大拙氏の主張にそっくり重なっている。手束氏は自身がキリスト教徒を名乗っており、プロテスタントの牧師であるにも関わらず、仏教学者の主張に歩調を合わせるかのように、プロテスタントの聖書の御言葉中心主義を否定的なものとしてとらえ、善悪を峻別する御言葉の「二分性」を、人間にとって不都合なもの、人間を狂わせる、精神病理に追い込む不健全なものとみなし、この「病理的な弱点」を克服するために、プロテスタントには、善悪を問わずすべてを受容するような(東洋的な)母性原理の回復がぜひとも必要であるとして、そのために「母なる聖霊」や「霊の母」としての牧師夫人論を持ち出すのである。



・「創造」や「生命を与える」力の源を「父なる神」ではなく「女性原理」にあるとするフェミニズム神学の誤り
  
ところで、一体、フェミニズム神学とは何なのであろうか。
手束氏の以下の文章からは、聖霊を「母なる霊」とみなす異端的三位一体の解釈が、解放の神学の一派であるフェミニズム神学の強い影響を受けて生まれたものであることがよく分かる。
そして同氏が、フェミニズム神学がキリスト教が父性原理のうちに長い間、抑圧して来た母性的・女性的な要素を回復すべきと主張したことを、高く評価している様子も伺える。
 

「『父なる神』と『母なる聖霊』

 今日の『フェミニズム神学』の評価すべきところは幾つかあるが、そのうちの一つはこれまで父性的男性的な傾向の強かったプロテスタント的キリスト教のあり方に批判を加え、長い間隠され抑圧されていた母性的女性的な要素を回復しようとしたことにある。<略>

フェミニズム神学の論者たちは言う、『聖霊は女性ではないのか』と。従来、三位一体の一位格である聖霊もまた『父なる神』『子なるキリスト』に続いて、男性的人格として見なされてきた。
しかし聖霊を示すヘブル語のルァハは女性形であるばかりか、『人間のダイナミックな生命力が表現される特別な呼吸の出来事』を意味した。これは具体的には性的興奮と分娩を指しているという。

しかも創世記の冒頭の天地創造の物語において、創造を直接的にもたらした神の言葉の前には、『神の霊』(ルァハ)が働いていたのである。さらに、『新しい存在』(新しい被造物)であるナザレのイエスの誕生に際しては、聖霊が介入している。『聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生まれ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう』(ルカ1:35)。

つまり、聖霊の中心的な働きは創造や生命を与えるということにあるのであり、これは勝れて女性的母性的特徴と言える。このように見てくると、三位一体の教義も、新しい視点の下に解釈していくことが可能となる。すなわち、『父なる神』と『母なる聖霊』によって生み出されたのが『子なるキリスト』であり、三位一体は神の家族的象徴性を担っているということになる」(同上、p.77-78)

 

しかし、すでに書いたことであるが、従来の神学においては、聖霊はギリシア語では“pneuma”(中性名詞) 、「性を持たない人格」として扱われて来た。また、ラテン語では“Spiritus Sanctus”(男性名詞)、他の言語においても、男性か中性のどちらかの人格とみなされ(たとえば、露語 Святой Дух 男性名詞)、少なくとも、フェミニズム神学を除き、従来の神学上、女性人格とみなされることはなかった。

聖書を見ると、「聖霊」は確かに「息」と密接な関係にあり、命を与えるという役割を担っていることが分かる。創世記において、神が人を創造された時、神は人に息を吹き込まれることにより、人に命(霊)を与えられた。

「その後、神であるは、土地のちりで人を形作り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2:7)

しかし、アダムに吹き込まれた命は永遠性がなく、アダムは罪によって堕落したため、死が人類に入り込んだ。しかし、キリストが人となられ、十字架の死と復活を通られたことにより、「最後のアダム」であるキリストを信じる者は、永遠に滅びることのない、神の非受造の命としてのキリストの御霊を受けることができる。

キリストの御霊は、命を与える源であるだけではなく、キリストご自身の人格と一つに結びついている霊である。主イエスは弟子たちに息を吹きかけて、この永遠に命なる御霊を受けるように、と言われた。これは信じる者に新しい命がもたらされたことを意味する。


「聖書に、「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。」(Ⅰコリント15:45)

「イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけられて言われた。「聖霊を受けなさい。」(ヨハネ20:21-22)


このように、確かに、聖霊には「命を与える霊」としての役割がある。しかしながら、だからと言って、果たして、手束氏の言うように、聖霊を女性人格とみなすことが可能なのか。手束氏は聖霊を女性人格とみなす根拠としてこう述べる、「聖霊の中心的な働きは創造や生命を与えるということにあるのであり、これは勝れて女性的母性的特徴と言える。」と。

多くの原始宗教において、女性は、生命、創造、多産、豊穣などの象徴として扱われて来た。しかしながら、我々は、原始宗教の固定概念に立脚して物事を考えているわけではないので、先入観にとらわれることなく、よくよく冷静になってこの問題を考えてみたい。

果たして、フェミニズム神学の言うように、「創造や生命を与える」行為は、「勝れて女性的特徴」なのであろうか?

筆者の観点から見ると、解放神学というものは、聖書を裏返しにして、神と御言葉に反逆する秩序転覆の思想である。解放神学については、記事「偽りの教えの例――弱者解放の福音の誤りとグノーシス主義(10)」を含む、いくつもの記事を書いて来たので、そちらも参照されたいが、フェミニズム神学も、解放神学の一派である。

フェミニズム神学に限らず、フェミニズムという思想そのものが、男性(父性原理)に対する強い嫌悪感に基づいて、これに対する反発から、母性・女性原理を高く掲げるという構造になっている。これは聖書の説く男女の秩序を転覆させる思想であり、東洋思想(グノーシス主義)とも密接な関係があると筆者はとらえている。

だから、先入観に惑わされずに、この問題をよく考えてみる必要がある。聖霊に性を見いだすかどうか、という問題を脇に置いても、筆者の目から見ると、命を与える役目は、あくまで男性にあるように思えてならないのである。女性は、これを受ける器である。女性は、分与された命を受け取り、これを自らの命と結びつけて新しい生命として養い、世に送り出すことはできても、女性だけがひとりでに命を生み出す能力はない。従って、命を分け与えることは、男性の本来的な使命であると思われてならないのである。

聖書においても、エバはアダムから生み出されたのであり、女性が先に生まれて、女性から男性が生み出されたわけではなかった。イエスを産んだマリヤも、聖霊の働きがなければ、一人では何も生み出せなかったであろう。もし手束氏の言うように、聖霊を「母なる霊」とするならば、キリストの誕生は、女性が女性の霊によってみごもったことになるが、そんな説明が成立するであろうか?

(さらに、手束氏の考えに基づくと、「父なる神」と「母なる聖霊」の交わりの結果、「子なるイエス」が生まれたことになるが、そうであれば、イエスの本当の「母」は聖霊ということになるから、マリヤはカルケドン信条に定義されているように「神の母」ではなく、代理母でしかないということになろう。この点でも、完全に手束氏の主張は異端である。)


聖書の秩序は常に、男性が命を与える側に立つというものである。父なる神がアダムを創造され(創造された側のアダム――人類――は、神の命なる霊を受ける器という意味では、霊的に女性。これも教会の型)、アダムの肋骨からエバが作り出された(アダムとエバとの関係も、キリストと教会を予表する)、聖霊が乙女マリアのうちに働き、キリストの誕生に至らせた(これもまたキリストと教会の型)、ただひとりの男子キリストが十字架にかかられて死なれたそのわき腹から、水と血と霊によって生まれたのが教会であり、キリストは、十字架の死と復活を経験されたがゆえに、永遠に朽ちない命を与える御霊を、信じる者たちに分け与えることができる。

こうして詳細に見て行くと、聖書的な観点からは特に、創造や、生命を与える」行為は、母性原理ではなく、むしろ、父性原理(父なる神)の特質であると言って差し支えないことが分かる。むろん、フェミニズム神学にとっては、このような考えこそが憎悪の対象なのである。フェミニズム神学は、父性原理に対する嫌悪感から、「創造」と「生命を与える」という栄誉ある役割は父性原理にあるのではなく、女性原理にあると主張して、「創造」という役目を、父なる神から母性原理の役目へと奪おうとしているのである。

そのように、命を与えることが、あたかも母性原理であり、女性の専売特許であるかのような誤解は世に広く普及しているが、少なくとも聖書においては、「創造」と「生命を与える」力の根源は、創造主である父なる神にこそある。そこで、いみじくもキリスト教「神学」を名乗っているにも関わらず、父なる神による創造という聖書的事実を退けて、女性こそ創造者であるかのように、母性・女性原理を高く掲げるこの教え(フェミニズム神学)は完全に、聖書の定める男性と女性との秩序の転覆をはかるものだと言えよう。

従って、男性である牧師たちが、自らこのような理念を信奉するならば、必ずや、彼らは男性としてのプライドと名誉を失うことになるであろうと筆者は確信する。なぜなら、この思想の中には、根本的に男性(父性原理)そのものに対する激しい嫌悪と蔑視が含まれているからである。



・解放神学(フェミニズム神学)とそれに基づく(ペンテコステ・)カリスマ運動は、キリスト教ではなくキリスト教に敵対する東洋思想(グノーシス主義)の一種である

フェミニズム神学を含め、解放神学もそうなのだが、手束氏の主張も含め、キリスト教においては「父性原理に基づく二分性ばかりが強すぎるので、母性原理の受容性を補うことによって、その欠点を克服しなければならない」という主張は、根本的には、みな異端であると言って良い。

なぜなら、これは聖書の御言葉を毀損することによって、キリスト教そのものを歪曲する試みであり、キリスト教とは全く相容れない思想がその根底にあるからである。その思想こそ、東洋思想である。

そのことは、こうした思想がすべて、仏教学者・東洋思想家・禅の指導者である鈴木大拙氏の主張とぴったり一致することからも分かることである。結局、「キリスト教における母性原理の回復」を唱える教えは、すべて東洋思想を基盤としているのだと言って過言ではない。従って、それはどんなにキリスト教の仮面をつけて、キリスト教のように装っていても、本質的にキリスト教ではないものから出てきているのである。

記事「偽りの教えの例――弱者解放の福音の誤りとグノーシス主義(11)」でも記したことであるが、女性解放の神学の代表者、ローズマリー・リューサーは、解放神学は、魂と肉体、主体と客体の二元論が、古典的キリスト教の「欠点」であるとして、これを克服せねばならないと述べた。彼女は、古典的キリスト教は、男性だけが神の像に似て造られた「人間性」の真髄を備えた存在であり、女性は完全な神の像を持たず、頭である男性と共にあって初めて真の人間性を持つことができるとしている点で、キリスト教は女性を男性の客体、「対象物」におとしめているとして非難した。

リューサーは欧米諸国のようなキリスト教社会においては、このような聖書的男女二元論が原型となって、社会の全ての抑圧形態に作用しており、この二元論の断絶があらゆるものに応用されて、人類社会に無限の断絶をもたらしており、それゆえ、社会には「もろもろの権威と支配」が乱立し、疎外が満ち溢れたのだと言って、伝統的なキリスト教に「有罪」の宣告を下す。そして、キリスト教の二元論から来る断絶・疎外を解消し、人間を「客体性」から解放することが、人間の救済である、と主張するのである。
 
記事「カルト被害者救済活動の反聖書性について―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動④ー」でも見て来たように、フェミニズム神学者が非難しているようなキリスト教の「二元論」は、創造主と被造物との二分性、すなわち、「知る者」である神と「知られる者」である人との主客の区別を根源として発生して来るものである。

男女の二元論から始まり、「主客の区別」そのものに反対し、人間の「客体性」からの解放を唱えるリューサーの主張は、全くもって鈴木大拙氏の主張にそっくりであることに驚かされる。
再び、鈴木大拙氏の文章を引用しよう。
 

分割は知性の性格である。まず主と客とをわける。われと人、自分と世界、心と物、天と地、陰と陽、など、すべて分けることが知性である。主客の分別をつけないと、知識が成立せぬ。知るものと知られるもの――この二元性からわれらの知識が出てきて、それから次へ次へと発展してゆく。哲学も科学も、なにもかも、これから出る。個の世界、多の世界を見てゆくのが、西洋思想の特徴である。

 それから
分けると、分けられたものの間に争いの起こるのは当然だ。力の世界がそこから開けてくる。力とは勝負である。制するか制せられるかの、二元的世界である。」(『東洋的な見方』、鈴木大拙著、岩波書店、p.10-11)

 

「西洋文化といえば、ギリシャ、ローマ、ユダヤ的文化の伝統ということになる。その不完全さは、宗教の上に最も強くあらわれる。自分はキリスト教をみだりに非難するのでなく、また悪口するのでもない。これはいうまでもないところだが、キ教には、二分性から来る短所が著しく見え、それが今後の人間生活の上に何らかの意味で欠点を生じ、世界文化の形成に、面白からぬ影響を及ぼすものと信じる。キ教はこれを自覚して、包容性を涵養しなくてはならぬ。

 二分性から生ずる排他性・主我性などは、はなはだ好ましからざる性格である。二分性を調節して、しかもそれを包含することになれば話はわかるが、これがないと、喧嘩が絶えない。」(同上、p.169-170)



鈴木氏は、西洋思想における「分割する知性」、すなわち、「主客の区別」の根源となっているものは、キリスト教における創造主と被造物との区別であると見る。そして、この「主客の区別」から生じる「二分性」、「排他性」、「主我性」を極めて否定的なものとみなす。

もしそこにリューサーの言葉をあてはめるなら、聖書によれば、創造主は「知る者」であるが、被造物としての人間は神によって「知られる者」(客体)であるから、神によって造られた人間は、男女を問わず、みな神の満足の「対象物に貶められている」ということになろう。

以上からも分かるように、東洋思想が最も激しく反発しているのは、人間は神によって造られた「客体」に過ぎず、どこまで行っても、神(主)ご自身にはなれない、という点なのであるそして、その点はフェミニズム神学者の主張とも根本的に一致する。
 
造られた者であるがゆえに、人は神ご自身ではなく、神から切り離されて、神性から疎外されている、どんなに信仰が増し加わっても、人自身は完全な聖に達し得ず、造られた被造物ではあっても、創造主たる神にはなれない――この点こそ、東洋思想の学者や、フェミニズム神学者らが、最も激しく反発する点である。

「男性だけが神の像に似せて創造され、男性からできた女性は、男性に比べ、完全な神の像を持たない、という聖書の見解は、女性を貶めている」というリューサーの主張は、結局のところ、「神だけが神であって、人間は神のかたちに似せて創造された被造物に過ぎないので、完全な神のかたちを持たない、という聖書の理屈は、人類全体を貶めている」と言っているのと同じなのである。そのような考えには根本に、人間が完全な神のかたちを持たない(人は神になれない)という聖書の事実に対する嫌悪・反発・抵抗がある。

従って、こうした思想の持主が、キリスト教は、聖書の御言葉の「二分性から生じる排他性・主我性」という「短所」を克服することこそ、必要である、と述べているのは、結局のところ、「神と人との区別を廃止して、人を被造物という客体性から解放せよ」と言っているのと同じなのである。

お分かりと思うが、このような思想は、結局、聖書の「唯一の神」という概念そのものに逆らっているのである。グノーシス主義が、自らを唯一の神であるとする創造主の宣言を「悪神の傲慢」として嘲笑・否定するのと全く同じ構図がそこにある。(記事「キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動④ー」参照。)

従って、彼らの述べる、「人間を(被造物の)「客体性」から解放せよ」という主張は、「わたしのほかに神はいない」とする聖書の唯一の神を退けて、人が神の地位を乗っ取り、自ら神になろうとする反逆に他ならないのである。

わたしより先に造られた神はなく、
 わたしより後にもない。
 わたし、このわたしが、であって、
 わたしのほかに救い主はいない。」(イザヤ43:10-11)

わたしがである。ほかにはいない。
わたしは光を作り出し、やみを創造し、
平和をつくり、わざわいを創造する。
わたしは、これらすべてを作る者。」(イザヤ45:6-7)

「ああ。
陶器が投機を作る者に抗議するように
自分を造った者に抗議する者。
粘土は、形造る者に、
「何を造るのか。」とか、
「あなたの作った物には、手がついていない。」
などと言うであろうか。」(イザヤ45:9)

「ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている
 陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。
  造られた者が、それを造った者に、
 「彼は私を造らなかった。」と言い、
  陶器が陶器師に、
「彼はわからずやだ。」と言えようか。」(イザヤ29:16)



・キリスト教の「父なる神」に対抗して東洋思想が賛美する「神秘なる母性(母なる混沌)」

さて、それでは、一体、以上のように「唯一の神」を否定して、人間を「客体性」から解放することを主張する思想の持ち主は、一体、どのような方法で、キリスト教の「二分性」を克服することを目指すのであろうか?

それは、キリスト教に「母性・女性原理を回復する」ことによってである。彼らはキリスト教において「父性原理」と「母性原理」を新たに融合することによって、未だかつてない新しい境地に至ることができるかのように主張しているのである。キリスト教と東洋思想とを合体させて混合態を造ることを使命としていると言っても良い。

鈴木大拙氏は、すでに記事で述べた通り、キリスト教の「二分性」から来る「排他性」の問題を解消する方法として、キリスト教に母性原理を補い、「主客(善悪)未分以前の母なる混沌」への「嬰児的回帰」を提唱する。

鈴木氏は、それを「神が光あれ、と言われる以前の状態」と表現する。結局、それは光と闇が分かたれる前の状態、サタンが堕落して神から切り離される前の状態、人間が神によって創造されて、堕落によって楽園を追放されて、神から切り離される前の状態に回帰しようとする試みである。

つまり、事の善悪に拘泥せず、万物をあるがままに受け止め、知性が先走る状態を克服して「知」と「行」とを一つにすることで、知性による分割発生以前の「未分的」で「全一的」状態を取り戻すこと(いうなれば、「真如」に回帰することであろうか)、そのようにして、、「二度目の林檎を食べる」ことが必要であり、それが禅の悟りの本質であるかのように鈴木氏は述べているのである。

相当に長い引用であるが、母性原理・女性原理の回復という言葉が、何を意味するのかを理解するのには役立つと思うので、以前の記事でも度々挙げたが、同氏の言葉を再び引用しておく。
 

「なぜ、西洋的に見たり考えたり行動したりしてゆくと、行き詰まりを見なくてはならぬかというと、人間の生きている世界は、五官で縛られたり、分別識で規定せられる外に、いま一つ別の世界があるのである。これを明らかにしておかぬと、人間は生きてゆけぬのである。生きていると思っていてもそれは自己欺瞞で、虚偽の生涯である。『今一つ別の世界』などいうと、また数の概念に収めこんで、そんなものが、この可視的、可把握性の世界の外にあるかのごとく、思惟せられるのであろう。これが言葉なるものの短所で、禅者はことにこの点に気を配る。」(『東洋的な見方』、p.22)

 

人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである。すなわち薄っぺらだということになる。これに反して情意的なものは未分的すなわち全一的であって、人間をその根本のところから動かす本能を持っている。人間は行為を再先にして、それから反省が出る、知性的になる。知が行を支配するようになるのは、知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになるところが出なくてはならぬ。

アダム、イブの世界には『行』のみがあって『知』がなかった。それでエデンの楽園が成立した。一旦、知が出ると、失楽園となったのである。入不二法門の世界では、その知をそのままにして、もとの行の世界、意の世界を、新たな面から再現させている。この点で入不二界はエデンと相違するのである。一段の進出といってよいのである。二度目の林檎を食べぬといけない。」(『東洋的な見方』、p.195-196)

 

「東洋民族の間では、分割的知性、したがって、それから流出し、派生するすべての長所・短所が、見られぬ。知性が、欧米文化人のように、東洋では重んぜられなかったからである。われわれ東洋人の真理は、知性発生以前、論理万能主義以前の所に向かって、その根を下ろし、その幹を培うところになった。<略>

 主客未分以前というのは、神がまだ「光あれ」といわれなかったときのことである。あるいは、そういわんとする刹那である。この刹那の機を捕えるところに、東洋真理の「玄之又玄」(『老子』第一章)なるものがある。<略>

 「光あれ」という心が、神の胸に動き出さんとする、その刹那に触れんとするのが、東洋民族の心理であるのに対して、欧米的心理は、「光」が現れてからの事象に没頭するのである。主客あるいは明暗未分化以前の光景を、東洋思想の思想家である老子の言葉を借りると、「恍惚」である。荘子はこれを「混沌」といっている。また「無状の状。無象の象」(『老子』第十四章)ともいう。何だか形相があるようで何もない。<略>またこれを「玄牝(げんぴん)」ともいう。母の義、または、雌の義である。ゲーテの「永遠の女性」である。これを守って離れず惑わざるところに、「嬰児(えいじ)」に復帰し、「無極(むきょく)」に復帰し、「樸(はく)」に復帰するのである。ここに未だ発言せざる神がいる。神が何かをいうときが、樸の散ずるところ、無象の象に名のつけられるところで、これから万物が生まれ出る母性が成立する。分割が行ぜられる。万物分割の知性を認識すること、これもとより大事だが、「その母を守る」ことを忘れてはならぬ。東洋民族の意識・心理・思想・文化の根源には、この母を守るということがある。母である。父ではない、これを忘れてはならぬ。

 欧米人の考え方、感じ方の根本には父がある。キリスト教にもユダヤ教にも父はあるが、母はない。キリスト教はマリアを聖母に仕立てあげたが、まだ絶対性を与えるに躊躇している。彼らの神は父であって母ではない。父は力と律法と義とで統御する。母は無条件の愛でなにもかも包容する。善いとか悪いとかいわぬ。いずれも併合して「改めず、あやうからず」である。西洋の愛には力の残りかすがある。東洋のは十方豁開である。八方開きである。どこからでも入ってこられる。

 ここに母というのは、わたしの考えでは、普通にいままでの注釈家が説明するような道といったり、また「ゴッドヘッド」といったりするものではないのである。もっともっと具体的な行動的な人間的なものと見たいのだ。しかし今は詳説するいとまをもたぬ。」(同上、p.13-14)


 こうして、鈴木氏は、「人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである」とした上で、キリスト教の「知性による分割」、「二分性」を否定的なものととらえ、同氏が「人間の本質」であるとする、「情性的なもの、意欲的なもの」に回帰するために、神人とが分かたれる前の「主客未分以前」、「明暗未分化以前」、「知性発生以前」、「善悪未分以前」の状態に回帰することが必要であると述べる。

そして、このような神と人との主客の区別が発生する以前の原初的な状態のことを、鈴木大拙氏は「恍惚」とか、「混沌」とかいう言葉で呼ぶ(まさにペンテコステ運動にふさわしい言葉ではないだろうか?)

そして、この原初的な混沌を「母なる混沌」として(玄牝(げんぴん)と呼ぶ。

ここでなぜ「母」なのか。なぜ女性なのか、という疑問が生じよう。

なぜなら、もし聖書の父なる神が「光あれ」と言われる前の状態に回帰するというならば、そこには、父なる神お一人だけしか存在する方はいないはずだからである。

ここで、いつの間にか、聖書の「父なる神」が、東洋の「母なる混沌(神秘なる母性)」にすり替わっていることに気づくのである。鈴木氏は言う、「万物が生まれ出る母性」と。つまり、東洋思想においては、万物を生み出す源は「父なる神」ではなく「神秘なる母性」でなければならないのである。従って、東洋思想の「神」とは、母なる神なのだと言っても差し支えない。

それは、カリスマ運動の指導者・手束正昭氏が、「創造や生命を与えるということ<…>、これは勝れて女性的母性的特徴と言える。」と述べているのと同じである。

このような考えは、東洋思想において古くから存在して来た。鈴木氏は老荘思想を根拠に挙げる。老子の思想においては、この「神秘なる母性」は「玄牝」と呼ばれる。
 

河瀬直美監督 映画『玄牝』公式サイトから抜粋

玄牝とは?
『谷神不死。是謂玄牝』――谷神(こくしん)は死せず。これを玄牝という。
タイトルの「玄牝」とは、老子の『道徳経』第6章にあることば。大河の源流にある谷神は、とめどなく生命を生み出しながらも絶えることはない。谷神同様、女性(器)もまた、万物を生み出す源であり、その働きは尽きることがない。
 老子はこれを玄牝――“神秘なる母性”と呼んでいる。


このように、東洋思想の基本には、生命の源は「永遠に女性的なるもの、神秘なる母性」にあるという考えがあり、生命を生み出し、創造する力を「母性」に求める。そして、人は知性によって自他の区別が生じる前の、赤子のような無意識の状態に戻り、「神秘なる母性」に身を委ねてこれと一つとされることが、人間にとっての究極の解決であると言うのである。

むろん、これはキリスト教における「父なる神」の否定であり、「父なる神」による天地創造という聖書の事実そのもの否定と言って良い。聖書をどう歪曲しようとも、聖書の神は父なる神であって、母なる神ではない。初めからないものに回帰せよと言われても、荒唐無稽な話である。

しかしながら、それでも聖書を巧妙に曲げるために、手束氏のようなカリスマ運動の指導者は、「父・母・子」の異端的三位一体論を唱えることにより、キリスト教に「母性原理の回復」がなされねばならないと主張して、「母なる聖霊」論を持ち出すのである。

そこで、この「母なる聖霊」論は、本質的にキリスト教とは無縁の(むろん異端という意味で、絶対にキリスト教ではあり得ないのだが)、もともとは東洋思想に由来する発想なのだと言うことができよう。すなわち、手束氏の言う「母なる聖霊」とは、東洋思想における「神秘なる母性」、「母なる混沌」の言い換えなのである。

つまり、ペンテコステ・カリスマ運動(筆者はこれらの運動を一つにまとめて問題ないと考えている。日本基督教団の手束氏の著書は、聖霊派の枠組みをはるかに超えて、プロテスタント全体に行き渡っている)は、うわべだけはキリスト教の装束をまとってはいても、実際には東洋的な「神秘なる母性」を崇拝する別の教えなのだと言って差し支えないであろう。

全く恐ろしいことである。こうなってもまだペンテコステ・カリスマ運動をキリスト教だと考えて信奉している信者は哀れとしか言いようがない。そして、この東洋的な「神秘なる母性」への崇拝こそが、聖書が全体を挙げて告発する「大淫婦バビロン」の本質なのである。マリア崇拝、フェミニズム神学も含め、キリスト教に「母性原理を回復せよ」という主張は、すべてここから出てきていると見て良い。

<続く>


クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か(終)

教会成長論 総括

 さて、あまりにも昔の話になってしまったので、すっかり忘れておられる方も多いかも知れないが、教会成長論についての総括を書いておきたい。
 これまで、手束正昭著『教会成長の勘所』(マルコーシュ・パブリケーション)を手本にしながら、教会成長論の教えがどれほど非聖書的かつ危険なものであるかを指摘してきた。最後の記事では、クリスチャンは神の子か、それとも神の養子かというテーマで話を進めたが、今、このテーマ全体を振り返りながら、氏が述べている「霊の親」の教えの危険性について、話をまとめたい。
 内容はすでに教会成長論という枠組みを超えて、ペンテコステ・カリスマ運動へと広がりを見せようとしている。そこで、教会成長論の分析はこれで終了とし、以後、改めて、議論を続行することにしたい。
 

1.「養子論的キリスト論」はなぜ異端なのか

 手束正昭氏の理論の異端性は、すでに見てきたように、何よりも、手束氏が早くから唱えていた「養子論的キリスト論」の中に最もはっきりと現れている。(これについては、すでに述べたように、『キリスト教の第三の波 ―カリスマ運動とは何か』p.29-35、『続キリスト教の第三の波』p.15-36を参照。)

 「養子論的キリスト論」とは、文字通り、イエス・キリストは神の子ではなく、神の「養子」だったとする説である。なぜなら、手束氏の見解によれば、イエスは、聖霊の力によらずして、本来的に、神の子としての資格と力を持たなかったからである。
 手束氏によれば、イエスを神の高みにまで引き上げたのは、聖霊による受胎、そしてバプテスマを受けて後の聖霊による満たしであり、この聖霊こそが、イエスに神の子たる資格を付与している根源であり、聖霊なくしては、イエスは私達と同じ人間であり、キリストではありえず、神の子としての資格を本来、持たなかった(つまりイエスは本来、神の子ではなかった)ということになる。
 つまり、聖霊なくして、イエスはただの人に過ぎなかった、というのが、手束氏の述べている「養子論的」キリスト論の本質であり、この説は異端とされたネストリウス派の教えの影響を強く受けて生れたものである。

 (ここで、私の言っていることがよく分からない、という人のために、手束氏の著書より、正統派の教えとされたキュリロスの説と、異端の宣告を受けたネストリウスの説の違いについて、もう一度、説明を補足しよう。手束氏は言う、
「ナザレのイエスにおいて無比なる仕方において働いていた聖霊の豊かさこそが、彼をしてキリストたらしめたと言える。
 キュリロスはキリストを聖霊の送り手としては認めるが、担い手としては認めようとしない。アナテマ九項に言う、『イエスの行い給うた奇跡は、イエスが神より享受し給いし聖霊によりて行い給うたものであると思うてはならぬ。何故ならば、この聖霊自体がイエス自身の聖霊であるのである』。

つまり、キュリロスはイエスが人に変化した神であるが故に奇跡をなし得たのであって、イエスと共に働いた聖霊がそれをなしたと考えてはならぬ、聖霊とはキリストの霊であり、キリストから発する、と言うのである。

これに対してネストリウスは、イエスの奇跡は『聖霊とロゴスなる神との間に存在せし連続関係による』のであり、聖霊こそがイエスをして“カリスマティカー”(カリスマの業を行う者)たらしめた原因であることを明確にしている。
 このカリスマティカーなるイエスとの聖霊による連続性は、同じくカリスマティカーとしてのキリスト者を生み出すことを可能にすることになる。もし、あのエペソ公会議においてネストリウスが異端として退けられることなく、その主張がキリスト教会の主流をなしていったならば、それ以後のキリスト教のあり方も俄然違ったものとなり、教会はカリスマ的なダイナミックなものとして生き続けていったことであろうと思う時、私は残念でならない。」『続キリスト教の第三の波』、p.35-36。

 このようにして、手束氏はその理論において、私たちクリスチャンが十字架を通して生まれ変わって神の子とされる必要性を強調するのでなく、クリスチャンが聖霊を受けることによって、イエスに等しい神の養子として引き上げられ、イエスのような「カリスマティカー」としてダイナミックに働くようになることを強調するのである。ここでは、人を生まれ変わらせる力として、聖霊の力だけが強調され、十字架による新生の必要が事実上、否定されていると言えよう。)

 手束氏のキリスト論の異端性は、すでに述べたように、この他、『教会成長の勘所』における、「父なる神、母なる聖霊」という主張にもはっきりと表れている(p.77)。従来の三位一体論には、聖霊を「母なるもの」として捉える見解はなく、三位一体の神は相補関係にあるのではなく、あくまでそれぞれが独立した神の位格であるとされてきた。にも関わらず、手束氏は「父なる神」と「母なる聖霊」とがあたかも相補関係にあって、互いに無い役割を補い合う存在であるかのような説を展開する。そのような考えに立つと、必然的に、二つの神格の交わりから生れたのが御子イエスであるということになる。そのような説に立つと、御子には「父なる神」と「母なる聖霊」への依存性が生じることになり、御子の独立性は成立しなくなる。

 このような説は、イエス・キリストが完全な神であられ、同時に、完全な人としての条件を持って地上に来られたとする従来のキリスト論、従来の正統な三位一体論から完全に逸脱している。カルケドン信条に照らし合わせれば、異端であることは明らかである。
 

2.「養子論的キリスト論」を信じることに伴う危険

 さて、手束正昭氏の「養子論的キリスト論」を受け入れ、それを信奉するようになると、私達の信仰にはどういう危険な変化が起きるのだろうか。

① キリストの十字架上での罪の贖いの否定
 まず、イエス・キリストの十字架上での罪の贖いは、私たちがキリストの神性・人性を完全に認めないならば、効力を持たないことになる。
 もしもキリストが聖霊によらずに単独では神の子たりえず、本来的に人間であったという説に立つならば、私たちにとって、十字架は、神の側から提供された、神の独り子による罪の贖いではなく、人間による犠牲ということになってしまうから、神と人とを和解させる効果を持たないことになる。

 従って、もしも私たちがキリストの完全な神性を信じないならば、私たちはキリストの十字架による罪の贖いを信じていないことになる。なぜなら、聖書ははっきりとこう言っているからである、「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。
 聖書は、キリストが神の「御子、ひとり子」であったと記しており、神の養子であったとは教えていない。キリストは完全に、何一つ欠けるところのない「神のひとり子」だったからこそ、神と人とを和解させる贖いの犠牲となられるにふさわしいお方だったのである。

「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである」(ヨハネ3:17-18)

 このように、神のひとり子たるキリストを信じない者は、罪の赦しを得ることができず、救いにはあずかれないことを聖書は教えている。従って、「養子論的キリスト論」を信じ、キリストが本来的に神の「養子」であったと考える者が、救いの条件を満たしていないのは明白である。このような教えを信じている者について、聖書は何と言っているだろうか。
イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である」(ヨハネⅠ4:3)
御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」(ヨハネ3:36)


② 神と人との唯一の仲保者としてのキリストの否定

 『教会成長の勘所』によれば、神は人間とは異なる次元に住まう方であり、肉なる人間は、神と直接交信することができないので、神の恵みと救いを受け取るために、信徒は牧師を仲保者として介さなければならない、とされている(p.21)。だが、このような説は、すでに述べたように、聖書が神と人との唯一の仲保者であると教えているイエス・キリストを否定し、人である牧師がキリストに成り代わって神と人との仲保者になろうとする異端の教えである。

「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。神は唯一であり、神と人との仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられた<略>」(テモテⅠ2:4-5)

「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである」(エペソ2:14-16)

 完全な神であられ、同時に、完全な人となって世に来られたキリストだけが、ご自身の死と復活によって、人を神と和解させることのできる唯一の仲裁者なのである。このキリストを信じることによってのみ、人は神にふさわしく生まれ変わることができる。このただひとりの仲保者、聖なる犠牲の小羊であるキリストを通さずして、私達はたとえどんなに優れた牧師を仲裁者に立てたとしても、決して、神からの救いも、恵みをも受け取ることはできない。優れた牧師も、信徒と同じく、肉なる人間の一人に過ぎず、人を神の国にふさわしく生まれ変わらせる力は十字架の他にないからである。

「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」、「肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である」(ヨハネ3:3,6)
「自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう」(ガラテヤ6:8)


★本来の正しい教義

正しい教義 キリストだけが神と人との仲保者

★今日広まっている異端の教義

牧師がイエス・キリストに成り代わっている

 教会成長論は、牧師がキリストの代わりに神と人との仲裁者に成り代わろうとし、信徒にキリストへの信仰ではなく、牧師への崇拝を求める教えである。このように、キリストを通さずに、肉なる指導者を介して救いを得ようとする信者が、永遠の命に到達することは決してない。
 

③ クリスチャンが神の子である事実の否定
 聖書は言う、「神は<略>天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、<略>愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである」(エペソ1:3-5)
 このように、私たちクリスチャンは、万物の存在以前から、神の愛によって、神の子供として正式に選び出された。私たちは、父なる神の正統な子供であり、御国の正統な後継者であるがゆえに、救いや、その他諸々の恵みを約束されているのである。

 だが、もしもキリストを神の不完全な子、神の養子としてとらえるならば、私たちクリスチャンもキリストと同様に、神の養子に格下げされ、神の子たる資格と権利を本来、持たない者になってしまう。これは、私たちを子として愛して下さる父なる神の愛を否定することにつながるだけでなく、このような教えを信じていると、信徒は神の国の正式な後継者としての資格をやがて失うのは明白である。

「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪によって死んでいた者であって、<略>この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて<略>生れながらの怒りの子であった。しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜った慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった」(エペソ2:1-7)

 もう一度考えてみよう、私たちの本当の父は誰なのだろうか?
 子供の頃、きっと誰しも一度は、自分が本当に両親の実の子なのか、それとも、継子なのかと、疑ってみたことがあるのではないだろうか。子供にとっては、自分が実の子であるのかどうかという疑問は、アイデンティティの根幹に関わる一大事のように思える。その差が、自分が親から本当に愛されるにふさわしいかどうかを決定する重大な要素のように思われるのだ(もちろん、実子かどうかという一点によって、親の愛をおしはかることはできないのだが、子供の目から見れば、これは重大問題のように思われる)。

 クリスチャンにとっても、同様のことが言える。私たちが誰を自分のまことの父と考えるのかという問題は、実際にはかりしれないほどの重大性を持っている。私たちが、まことの父とは唯一の神であると考えるのか、それとも、実は別な誰かが本当の父親として存在すると考えるのか、その違いは、私たちクリスチャンのアイデンティティを左右するだけでなく、御国の後継者としてのクリスチャンの資格そのものを根幹から揺るがす重大事である。

 仮に手束氏の説に立って、クリスチャンが神の養子であると信じるとしよう。すると、その人間にはどのような将来が待ち受けているのだろうか。聖書を見てみよう。

 パウロは言った、「あなたがたは律法の言うところを聞かないのか。そのしるすところによると、アブラハムにふたりの子があったが、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生れた。女奴隷の子は肉によって生れたのであり、自由の女の子は約束によって生れたのであった。さて、この物語は比喩としてみられる」(ガラテヤ4:21-24)
 神の祝福によって、諸国民の父と呼ばれることが約束されていたアブラハムには、長い間、子が生まれなかった。そこで心配したアブラハムと妻サラは、神の約束の成就を待つのでなく、人間的な思惑によって、ハガルという女奴隷を通して、アブラハムに息子をもうけてしまった。だが、その子は女奴隷の血を引いているわけであるから、アブラハムとサラの正式な子ではない。そして、その後、神の約束が成就して、アブラハムとサラの血を引いた正統な息子イサクが生れた。

 女奴隷とその息子は分を超えて思い上がっていたので、イサクと世継ぎの資格を争うだろうとの危惧があった。そこで、女奴隷ハガルとその息子は、アブラハムの家から追放された。パウロは旧約聖書に記述されるこの出来事を「比喩」としてとらえて、次のように説明する。

 「兄弟たちよ。あなたがたは、イサクのように、約束の子である。しかし、その当時、肉によって生れた者が、霊によって生れた者を迫害したように、今でも同様である
しかし、聖書はなんと言っているか。『女奴隷とその子とを追い出せ。女奴隷の子は、自由の女の子と共に相続をしてはならない』とある。だから、兄弟たちよ。わたしたちは女奴隷の子ではなく、自由の女の子なのである」(ガラテヤ4:28-31)

 ここに私たちは、手束氏の言うような、神の「養子」たちに定められた運命を象徴的に見ることができる。

 十字架によって生まれ変わり、真理に従って歩むクリスチャンたちが、いずれ、偽りの信仰を持つ、律法と肉によって歩む世の子らから迫害されるだろうことについては、イエスも予告している。
人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう。更にあなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう。彼らがそのようなことをするのは、父をもわたしをも知らないからである」(ヨハネ16:2-3)。
「あなたがたは両親、兄弟、親族、友人にさえ裏切られるであろう。また、あなたがたの中で殺されるものもあろう。また、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう」(ルカ21:16-17)

 この御言葉は、「私は神に仕えている」と標榜する信者の中に、実は神を知らず、キリストを知らない、肉によって生まれた者が混じっており、彼らが誤った信仰に立って、真の信仰者を迫害するだろうことを示している。このような、「父を知らない、キリストを知らない」信者は、肉に従って歩む者であるから、父なる神によって生まれたのでないのに、子供であると標榜している、いわば、キリスト教の私生児のようなものである。

 だが、私生児の方が、正統な子供たちよりも威厳があるような振る舞いをし、自分こそが最も神の国にふさわしい後継者であるかのように触れ回り、教会の会堂を占拠して、本当の信仰者を次々追い出したりする(というよりも、必ずそうなる)ことを聖書は告げている。

 パウロは、このようなキリスト教の「養子」たちは、いずれ、ハガルとイシマエルと同じ道を辿らなければならないことを告げている。御国の正統な後継者でない女奴隷とその子は、必ず、追い出されなければならないのである。

「聖書はなんと言っているか。『女奴隷とその子とを追い出せ。女奴隷の子は、自由の女の子と共に相続をしてはならない』とある」(ガラテヤ4:30)
イエスも言われた、「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけがはいるのである」(マタイ7:21)。

 このように、神の国の真の後継者は、霊によって生まれ、キリストのものとされ、神の子と約束されているクリスチャンだけである。肉によってはアブラハムの子孫を名乗る資格はないかも知れないが、霊によって、約束の相続人と定められているクリスチャンこそが、御国の相続人なのである。
もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである」(ガラテヤ3:29)。
「このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。したがって、あなたがたはもはや僕ではなく、子である。子である以上、また神による相続人である」(ガラテヤ4:6-7)

 私たちは、神に向かって「アバ、父よ」と呼びかける特権を与えられた、神に愛される神の正式な子供である。この絶大な特権を、どうして養子という惨めな身分と取り替える必要があるだろうか。そんな必要はどこにもない。


④ イエスの名を通して信ずる者に与えられるすべての恵みの否定
 もしも私たちがキリストの完全なる神性を否定し、神と人との唯一の仲保者であるキリストを否定するならば、私たちは救いを失うだけでなく、神から一切の恵みを得ることもできなくなってしまう。

 「あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう」(ヨハネ16:23)と、クリスチャンには、御言葉のうちにとどまるならば、イエスの名を通して、父なる神から必要な恵みをいただけることが約束されている。ところが、もし、手束氏の説に従って、クリスチャンがイエスを通して父なる神に祈り求めるのではなく、「霊の父」である牧師を通して、祝福を得ようとするならば、私たちは聖書が約束している恵みを全く受け取ることができなくなってしまう。


⑤ 信徒の牧師への依存や隷従

 さらに、もしも私たちが聖霊を「母なるもの」ととらえ、「父なる神」と「母なる聖霊」を通して生まれたのが御子イエスであると考えるならば、イエスには「父なる神」と「母なる聖霊」への依存性が生じることになる。すると、 同じことが、信徒にもあてはまる。もしも信徒がイエスを通して父なる神に祈るのでなく、「霊の父」である牧師や、「霊の母」である牧師夫人を通さねば神と交われないという教えを信じるようになれば、信徒は、信仰生活全般にわたって、牧師(または牧師夫人)へ依存しなくてはならなくなるだろう。

 聖書は言う、「あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである」(ガラテヤ5:13)。信徒には救いと同時に自由が与えられたのである。しかし、その自由を牧師への依存ととりかえてしまえば、信徒は再び、人の奴隷と成り下がってしまい、この世の掟、肉に従って歩む奴隷の子へと転落し、神の怒りがその上にとどまる生まれながらの怒りの子へ逆戻りしてしまうのである。


 このようにして、教会成長論とは、教会を立派な会堂建築や、多額の献金集めや、信徒数の増加に駆り立てて、教会の権勢を誇ろうとする終わりない競争、「目の欲、肉の欲、持ち物の誇り」というむさぼりの欲に陥れるだけでなく、クリスチャンからイエス・キリストへの信仰を奪い取り、代わりに牧師崇拝を植えつけるものであり、救いを失わせるものであることを見て来た。

 手束氏の教会成長論は、牧師を「礼典的・象徴的存在」として、信徒が下にも置かないほど崇め、牧師を経済的にも何不自由なく厚遇するように教えている。
 だが、そのようにして信徒から尊ばれ、崇められ、もてはやされようとする聖職者に対して、イエスは何と言われただろうか。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる」(ルカ16:14-15)
あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」(ルカ16:13)

 教会成長論の影響を受けて、富に仕えるようになった教会は、必然的に、神を裏切り、神の御前で忌み嫌われる教会となることを、私たちは聖書から十分に学び知ることができる。富に仕え、営利を追い求めるようになった教会が、同時に神に仕えることは不可能である。そしてそのようなむさぼりに取りつかれた教会の中にとどまっている信徒は、実際に、イエス・キリストを否定する誤った異端の教えを信じるようになり、救いを失っていくのである。

 正統な教義にはっきりと反しているにも関わらず、このような教えを吟味もせずに取り入れた結果、はかりしれない悪影響を受けた教会は多いと考えられる。『教会成長の勘所』は、ペンテコステ・カリスマ運動の影響を受けた多数の教会で好意的に迎えられた。同書の裏表紙に推薦の辞を書いているのは、全日本リバイバルミッション代表 日本教会成長研究所全国講師 有賀喜一氏である。長年、講壇に立って信徒を教えてきたはずの牧師が、この書物の明らかな異端性をどうして見破ることができず、一方的な賛辞を送っているのか、驚く他ない。

 ところで、私は異端に関する分析は興味本位で行われてはならず、ある説を異端であると宣言するためには、慎重な分析と、十分すぎるほどの根拠が必要になると考えている。そこで、手束正昭氏の説を詳しく分析するために、私はこれまでにもかなり長い記事をいくつも書いてきただけでなく、氏の著書の大半を自費で購入したことをお断りしておきたい。

 特に、私の手元にある『教会成長の勘所』は、幸運なことに(!?)手束氏の直筆のサイン入りであり、「主を畏れよ!2008.8.31」とある。
 だが、その言葉はそっくり著者に返そう。主を畏れるべきなのは、一体、誰なのか、諸教会とクリスチャンは今、改めて考えてみる必要があるだろう。

 メガ・チャーチを目指した多くの牧師たちが、『教会成長の勘所』を手本にして、教会運営を目指し、誤った道に堕ちて行っただろうことが憂慮される。営利優先の教会運営に走って、多数の信徒を傷つけ、食い物にした沖縄の諸教会も、恐らく、この書物の影響を強く受けていたのではないかと私は想像している。

 しかしながら、『教会成長の勘所』が諸教会にもたらした悲しい影響はこれだけでは終わらない。この著書においては、この他にも、セル・チャーチ論、悪霊追い出しの理論等、ペンテコステ・カリスマ運動において重要な役割を果たしたいくつかのプログラムについての分析が進められており、いずれも一読しただけで、大きな危険性を含んでいることが感じ取れる。だが、そのことについては稿を改めて論じることにしよう。

 繰り返すが、教会成長論を信じてはならない。このような教えに影響されてはならない。私たちクリスチャンにとってのまことの父、まことの教師は、天にお住まいになられる神ただお一人である。それを「霊の父」としての牧師と取り替えようとするような教えを信じてはならない。

 私たちは神の子とされている貴いアイデンティティを忘れないようにしよう。クリスチャンは聖霊を受けることによって、イエスに並ぶ「カリスマティカー」とされることによって、御国にふさわしくなるのではなく、バプテスマを受け、十字架を信じて新生し、聖霊によって生まれ変わることによって、キリストと同じく神の子としての資格を与えられ、御国にふさわしい者へと変えられるのである。
 十字架による生まれ変わりには、華々しい奇跡や、五感で感じられるダイナミズムは伴わないかも知れない。だが、たとえ肉体的な感覚が何一つ伴わなくとも、人の罪を贖い、人を生まれ変わらせる力は、イエスの十字架にしかないことを、私たちクリスチャンは聖書を通して確かに知っているのである。

「あなたがたは、みな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。」(ガラテヤ3:26-27)

 私たちはキリストへの信仰にとどまり、そこから一歩も外へ出ないよう注意しよう。教会はキリストの御身体として機能する時にこそ、調和の中で、麗しさを発揮するのであって、キリストを否定し、キリストを捨て去った教会成長論の影響を受けた教会が、正常な機能を失い、やがて崩壊に至ることは疑いがない。そのような教会では、信徒は傷つけられ、救いを失って、絶望の中に投げ出されていくだろう。
 教会成長論は教会をカルト化させ、信徒から救いを奪う危険な教えである。そのことを、今までの記事の中で十分にご理解いただけたならば幸いである。
 


クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(4)

6)クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か。

 それでは、イエスが純粋に「上から来た者」、すなわち神であると認め、カルケドン信条を認めて、曖昧な「養子論的キリスト論」をきっぱりと退けることにしよう。すると、手束氏が言うように、今日の肉なる人間に過ぎないクリスチャンとイエスとの間には、「非連続」性、つまり大きな断絶ができてしまって、イエスはクリスチャンの決して到達し得ない高みにある「例外的人間」となってしまうのだろうか?
 いや、それもまたとんでもない誤解である。

 聖書は言う、「すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生まれた者である」(ヨハネⅠ5:1)。
 「もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである」(ヨハネⅠ4:15)
 「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である」(ローマ8:14)
 「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』ということができない」(コリントⅠ12:3)

 つまり、聖書が述べているのは、イエスを神の御子と信じて告白した時点で、クリスチャンはすでに、「イエス・キリストによって神の子たる身分を授けられ」(エペソ1:5)、「聖霊の宮」(コリントⅠ6:19)となり、罪赦されて、聖められ、神の中にいて、神の子とされ、神の家族となっているということなのである。そして私たちは父なる神に向かって「アバ、父よ」と祈ることのできる神の子としての特権をいただいているのである。

 イエスを信じる信仰と、バプテスマを受けることを通して、クリスチャンは象徴的な肉体の死と、霊によるよみがえりを経験し、神の子となり、イエスを長兄として全ての信徒と兄弟姉妹になるのである。

 「だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。あなたがたは新しく生まれなければならない」(ヨハネ3:5-7)と、イエスは言われた。
 クリスチャンはイエスを信じて信仰告白をして、水によるバプテスマを受けた時点で、すでに内に聖霊をいただいて、新しいいのちを生きている。罪の法則に支配される肉体に死んで、霊によって新しくよみがえっているのである。
 もちろん、バプテスマを受けたからといって、実際には、肉体はまだ死んではいない。キリスト者が本当に永遠の命にあずかるためには肉体があがなわれなければならない。だが、バプテスマを受けた時から、「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである」(コロサイ3:3)と、クリスチャンは新しい霊の法則によって生きるようにされている。

 クリスチャンを神の子たらしめているのは、水と霊による新生であり、聖霊だけがクリスチャンを神の子と承認するのでもなければ、イエスへの信仰を抜きにして、水によるバプテスマだけがクリスチャンを新生させるわけでもない。
 キリスト者の新生は、イエス・キリストを通さなければ成就しない。イエスこそ律法の完成者であり、真理であり、道であり、誰一人、イエスを通さないで救われる者はいないし、永遠の命を得る者もいない。聖霊は真理であり、キリストを証する霊であるから、イエス・キリストと聖霊とは不可分の関係にあり、神からの聖霊を受けた者は必ず、イエスを神の子であり、主であると告白するはずなのである。

 「あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」(ローマ6:3ー-4)

 「あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった」(コロサイ2:12-13)。

「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである」(ローマ6:11)
「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」(ガラテヤ5:16)
「あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。<略>地上のものに心を惹かれてはならない」(コロサイ3:2)

 このようにしてキリストを信じることを通して、水と聖霊によって新生して、神の子とされたクリスチャンは、やがて来るべき時に、御国の相続人となる権利が与えられているのである。

「しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生まれさせ、律法の下に生まれさせて、おつかわしになった。それは律法の下にある者をあがないだすため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送ってくださったのである。したがって、あなたがたはもはや僕ではなく、子である。子である以上、また神による相続人である」(ガラテヤ4:4-7)。

「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。<略>もしキリストのものであるならば、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである」(ガラテヤ3:26-29)。

「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである」(テトス3:5-7)。

 クリスチャンが神の家族とされたのは、やがて来るべき日に、「福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかるものとなる」(エペソ3:6)ためであり、「この主キリストにあって、わたしたちは、彼に対する信仰によって、確信をもって大胆に神に近づくことができるのである」(エペソ3:12)。

 これはまことに驚くべき教えである。クリスチャンが神の子とされたということは、それは私達人間に過ぎないクリスチャンが、元々完全な神性と人性を持って生れたイエスと共同の相続人、つまりイエスと同じ神の子としての資格と権利を与えられたことを意味する。本来、決して同一線上に立てないはずの神と人とが、イエスのあがないによって、一つに結ばれ、同じ神の子として承認されるのである。そうして、やがて来るべき時に、私たちはキリストと栄光を共にする者になると予告されているのである。

すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである」(ローマ8:14-17)

 聖書では、クリスチャンはイエスが再び来られる時に、イエスの栄光の似姿へと変えられることが述べられている。
「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜ったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。愛する者たちよ。わたしたちはいまや神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである」(ヨハネⅠ3:1-2)

「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである」(コリントⅡ4:16-17)

わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう」(コロサイ3:4)

 これでもう誰にでも理解できるようになったと思う。イエスが何者であるかということが、すなわち、クリスチャンは何者であるかを決定するのである。イエスがクリスチャンの長兄であられるのだから、私達は皆イエスと等しい資格と権利を神から与えられるのである。
 従って、もしもイエスが神の養子ということになれば、私達クリスチャンも皆、「神のまま子」と呼ばれることになるだろう。しかし私達は、本来、御国の相続の権利を持たない養子や私生児ではなく、正統な神の子として、御国の正統な後継者として認められているのである。
 クリスチャンは神の子である、ここには養子という言葉から来る薄暗い響きは一切ない。

 もちろん、クリスチャンはバプテスマを受けたからと言って、即座に神の国に引き上げられて神の子の栄光に入るわけでは全くない。肉体においては依然としてこの地上の罪の法則から完全には解放されておらず、さらに、神による訓練の最中を生きているのである。
 つまり、クリスチャンは御子を信じ、バプテスマを受けた時から、資格においては完全に神の子とされて、御国の相続人に定められているとはいえ、地上にいる限り、まだ約束された相続分の権利を行使することはできない。主の再臨が成就し、肉体があがなわれるその時まで、クリスチャンはあたかも後見人が必要な未成年のように、父なる神の監督と訓戒の下にあって成長し、やがて成人した神の子として、全ての権利を受け取る時まで忍耐して待たなければならないのである。

「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。わたしたちは、この望みによって救われているのである」(ローマ8:23-24)。

「あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたには与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。<略>
肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」(ヘブル12:7-11)

「こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい」(エペソ5:1)
「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたはこの世と妥協してはならない」(ローマ12:1)
「肉の思いは死であるが、霊の思いは、命と平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである」(ローマ8:6-7)

 クリスチャンにとっての地上での生とは、「心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えている」(ローマ7:25)という二重性の中にありながら、それでも世と妥協せず、肉の思いを捨てて、霊によって生き、神の御心を行うことを選び取って、主なる神を喜ばせるように、自分を生きた供え物として捧げることを続ける訓練期間である。

 さて一体、手束氏はこのような素晴らしい神の子としての栄光と自由の約束を退けてまで、キリストを神の養子とみなし、クリスチャンもまた神の子ではなく、神の養子であるとみなすことによって、どのような結論に至りつくのだろうか。
 氏の著書には、後年になればなるほどますます支離滅裂な非聖書的見解が入り込むようになる。それは狂気じみていると言えるほどで、文章にも整合性がすっかり取れなくなってしまっている。正統な教えから逸れた者には誰でも同様の末路が待っていることを私は疑わない。真理は一つ、御霊は一つ、そこから出ては調和も統一性もなく、ただ混沌と支離滅裂だけがあるのだから。

 手束氏の聖霊理解も、後年になるほどますます常軌を逸したものとなっていく。

「信仰というものは、外に居給う神に私達が懸命に従おうというものではない。それは言うならば、以前のコルネリオの信仰であり、ユダヤ教の信仰である。いまや、私達は聖霊をいただくことによって、内に居給う神の促しに従って、その神と一つとなって生きていくことができるのである。それが私達の信仰である。そこにあるのは、外なる神から内なる神への転換であり、服従としての神から交わりとしての神への転換である。更にこれは旧約から新約への転換なのである。

多くの学者達は不十分なままでいる。旧約聖書は預言であって、新約聖書はその成就であると解釈し主張している。この解釈は確かにまちがいではないが、しかし重要なことは、旧約というものは外なる神であり、新約というものは内なる神であるということである。更に旧約というのは律法であり、新約というのは聖霊なのである
ルターは宗教改革の合言葉として『信仰によって義とされる』と言った。ルターは更に『初代教会に帰れ』と言った。しかし私は、律法に対して信仰というものを対比させ、また恩寵というものを対比させるだけでは、初代教会に立ち戻るには不十分であると考える。

 今、私は『律法によらず聖霊による』と言いたい。『信仰によって義とされる』というのでなく、『聖霊によって新創造される』と言いたい。今日のカリスマ運動はこのことをはっきりとさせた点に偉大な功績がある。ルターの宗教改革の不徹底さを補い、更に徹底していったのである。すなわち、律法によらず聖霊によって、私達は新しく造られたもの、『新しい存在』(ティリッヒ)になっていく。このことを強調したのである。そして、これが私達をして更に初代教会の持っていた信仰のダイナミズムへと誘うのである。
かくて、信仰によって義とされると共に、私達は聖霊によって新創造され“新存在になる”ということを求めなければならない
(『聖霊の新しい時代の到来』、手束正昭著、マルコーシュ・パブリケーション、2005年、p.33-34)

 これは目の前が暗くなるような主張である。ここには「聖霊による新創造」という考えだけが高々と掲げられており、キリストの名は影も形もない。あの誰でも知っている賛美歌「誰でもキリストのうちにあるならば その人は新しく造られた者 古きは過ぎ去り 全てが新しい」という伝統的な教え(コリントⅡ5:17)はどこへ消えてしまったのであろうか。キリストを抜きにして、どうして聖霊だけが独自に人を新創造することがあろうか。そんな考えは、聖書のどこからも引っ張り出せない。

 ここにはかろうじて「信仰によって義とされると共に」という言葉は残されているものの、一体、何に対する信仰によって人が義とされるのかさえ全く言及されていない。
 手束氏はキリストによらず、聖霊こそが人間を新しく創造するのだとしている。氏の見解によれば、一体、聖霊はどのように人を「新創造」することになっているのだろうか。

「普通“霊”を意味する『プニューマ』というギリシャ語は、同時に“息”とも訳せる言葉である。同様にヘブル語の“霊”を意味する『ルアハ』も風あるいは息の意味をもつ。私たちは息を吸い息を吐く。呼吸は命である。すなわち、聖霊は真の命を私たちにもたらすことを示している。その意味でクオリティ・オブ・ライフをもたらすと言える。
聖霊の働くところ、聖霊に満たされるところ、質の高い人生や生活が生まれてくる。創世記二章七節の後半に、『主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった』とある。“神のかたち”としての人間というのは、生物学的意味ではなく、霊的意味即ち“クオリティ・オブ・ライフ”質の高い命を持った人のことである
その最高の体現者こそナザレのイエスであり、この方こそその霊的命を完全に全うされたのである。そして、私たちもまた、聖霊によって、ナザレのイエスのように質の高い人生、生き方をすることが可能とされている。

キリスト教とは『聖霊による可能性の宗教』だと、私は主張してやまない。そして『聖霊による可能性の宗教』とは、即ち真の“クオリティ・オブ・ライフ”であるといえる。まことの質の高い人生、生き方を保証するのが聖霊である
」(同上、p.170-171)

 これはもはやキリスト教と呼ぶべきではない、何か新しい宗教ではないだろうかと私は思う。
 私は、手束氏がここで聖霊と呼んでいるものは、聖書が教えている聖霊と決して同一のものではあり得ず、何か別の霊であると心から確信する。聖書における聖霊は、真理、すなわちキリストを証する方であって、人に「質の高い人生」をもたらす存在などでは決してなかった。
 ナザレのイエスは聖霊を受けて真理を宣べ伝え、死に至るまでも父なる神の御心に従順であられたのであって、聖霊を利用して自己完結的に「質の高い人生」を生きたわけではないし、また、私達が質の高い人生を生きるための模範として、イエスが存在するわけでもない。
 それに、「質の高い命」や、「霊的命を全うした」とは一体、何のことだろう。命の質に上下があり、霊にも寿命があるという意味だろうか。

 この文章の中には、肉と霊の二重の法則の狭間で葛藤しながらも、神のことだけに思いを馳せ、約束された自由と栄光に思いを馳せながら、御心に従うように日々努力しているクリスチャンの姿は全く示されていない。真の意味で「神と一つになる」、すなわち、肉体があがなわれる時まで、神の子として、神の懲らしめを受け、サタンの支配するこの世で艱難を忍びつつ、希望をつないでいるクリスチャンの姿はない。

 思い出されるのは次の御言葉である。
 「いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたには与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。」

 そうだ、まさにこれはほんとうに、神の子に向けられた教えではなく、私生児に向けられた教えだと言えよう。だからこそ、このように、真理であり道であるイエスの役割を否定して、キリストの完全なる神性を否定し、イエスを私達肉なる人間と同一線上に置き、さらに、真理の御霊である方の役割を否定して、「まことの質の高い人生、生き方を保証するのが聖霊である」と、聖霊の役割をすっかり歪めてしまい、キリストによらない人間の新創造、すなわち何らかの霊を通しての神人同一を掲げて、父なる神による訓練を抜きにした、安易な解放や達成などの現世利益を強調しているのだろう。
 これが「養子論的キリスト論」の正体である。この養子的教えを信じる者は、本当に、父なる神の御国の正統な後継者にはなれない。いや、養子どころか、父を持たないみなし子にしかなれないだろう。

「偽り者とは、だれであるか。イエスのキリストであることを否定する者ではないか。父と御子を否定する者は、反キリストである。御子を否定する者は父を持たず、御子を告白する者は、また父を持つのである」(ヨハネⅠ2:22-23)。

<つづく>