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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

偽預言者に対する厳しい裁き

<続き>

偽りの預言の特徴その③ 預言の成就の有無と、預言の吟味の必要性について

 真実の預言者は自らの預言の成就に対して責任を負う。偽預言者は自分の預言が成就しなくとも一切責任を負わず、預言を吟味する作業を、ただ預言を受ける者の自己責任に委ねる。
 正しい預言の取り扱い方においては、預言を吟味する作業が、預言とほぼ同時に、複数の者によって行われる。預言を信じるかどうかが、預言を受けた者だけの自己責任とされることはない。


1)預言を吟味する作業を聞く者の自己責任にしてはならない


 聖書は、私たちが預言の真偽を厳しく峻別できるだけの知恵を持つことの重要性を強調している。特別な啓示を受けたと思う場合は特にそうであるが、預言に携わる全ての人が、預言を厳粛に取り扱い、内容を厳しく吟味し、正しいものと偽りとを区別する識別力を持っていなければ、預言はただ人の躓きの源となるだけである。

 厳しく、また、慎重に預言を取り扱う態度を保とうとするならば、大規模集会や、毎日開かれているカフェテラスのような便利な場所で、インフレ時の紙幣のように、手っ取り早く預言を大量に配り歩くような態度が、いかに誤っているか、すぐに分かるだろう。そのような安易な預言の大量生産においては、預言を吟味することの重要性はほどんどかえりみられていない。誤った預言を信じ、人生を狂わされる被害者が現われても、それは預言を浅はかに信じた信徒の自己責任ということにされてしまう。

 だが、聖書は、預言を信じるかどうかを、ただ聞く者の自己責任に任せるようにとは教えていない。聖書は全ての預言は必ず吟味される必要があることを教えている。
「預言をする者の場合にも、ふたりか三人かが語り、ほかの者はそれを吟味すべきである」(Ⅰコリント14:29)。
「御霊を消してはいけない。預言を軽んじてはならない。すべてのものを識別して、良いものを守り、あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい」(Ⅰテサロニケ5:19)。

 聖書では、預言が語られる場合、その場でそれが複数の者たちによって吟味され、識別される必要性があることが説かれている。従って、預言が吟味されることの必要性をきちんと認識している預言者ならば、預言を聞いた者が客観的にその真偽を吟味する心理的・時間的余裕さえないような場所、たとえば密室で、あるいは人の多すぎる場所で、あまりにも限られた短い時間で、慌しく預言を授けて、終わりにするようなことはないだろう。

 先に引用したジョン・ビビア氏の著書は、キリスト教界に横行する個人預言に関する偽りを暴露し、偽預言に騙されないようにと信徒に警告している点で、先駆的な価値を持っている。しかし、この著書には決して見逃すことのできない著しい欠陥があると私は思う。それはビビア氏が、個人預言のミニストリーそのものの誤りを追求していないことと、「それ(預言)を受け入れるか受けないかは、私たちに責任があるのです!」(p.93)と、預言に信憑性があるかどうかを吟味する作業を、ただ預言を受ける側の自己責任に帰してしまっている点である。

 この著書の中では、偽の預言を信じてしまうことから来る、つらく重い代償については語られているが、偽の預言を語る者に、どんなに重い責任が伴うか、どんなに厳しい裁きが待っているかということがあまり触れられていない。
 さらに、アメリカのキリスト教界において、おびただしい数の偽りの個人預言が横行していることを警告しながらも、偽預言者を一人として実名で告発していない点で、この著書にはあまりにも大きな欠点がある。指導者同士の告発のし合いや、訴訟沙汰を避けるためであったのか、理由は分からないが、いずれにせよ、誰が偽の預言を語ったのかという事実の詳細を知りながら、それでもその指導者の実名を挙げることなく、またその預言の詳細を記さないことは、事実上、偽預言者の活動を容認しているのと同じである。
 

2)偽預言者を見分ける方法と、偽預言者が受ける厳しい裁き

「『預言者が、わたしが語れと命じないことを、わたしの名によってほしいままに語り、あるいは他の神々の名によって語るならば、その預言者は殺されなければならない。』 <略>
 もし預言者があって、主の名によって語っても、その言葉が成就せず、またその事が起こらない時は、それは主が語られた言葉ではなく、その預言者がほしいままに語ったのである。その預言者を恐れるに及ばない。」(申命記18:20-22)

 聖書を見ると、預言者を名乗る者が、神に背き、主から出たのでない自分の心の幻を言葉を語ったり、主の言いつけに背いて道を踏み誤ったりする場合、はかりしれないほど厳しい裁きが待っていることが分かるだろう。列王記(上)第13章には、初めは大胆に神の言葉を語り、奇跡を行う預言者だった者が、人の言葉に騙されて、神の命令に背いた結果、道端で獣に食い殺されたことが記されている。

 聖書に登場する預言者たちは、いつも偽預言に対して公然と対処してきた。すでに述べたように、エリヤはバアルの預言者に対して公の場で毅然と対決したし、エレミヤはハナニヤの偽預言に公衆の面前で相対した。真の預言者たちはひるむことなく、偽預言者に対して、公然と、名指しで非難を行ったのである。

 偽預言者とはどのような人々を言うのだろうか。聖書は言う、「もし預言者があって、主の名によって語っても、その言葉が成就せず、またその事が起こらない時は、それは主が語られた言葉ではなく、その預言者がほしいままに語ったのである。」 
 破滅を予告する預言は、聞いた者がもし心から悔い改めるなら、主の御旨により撤回されることもあるだろう。だが、特に、平和についての預言は、成就しなければ、預言が偽りだったことの証拠となる。巨大なリバイバルや、教会成長、人生の具体的祝福、事業の成功、ミニストリーの成功などを約束した預言が成就しなければ、それはそれを語った預言者が偽りを語ったことを意味する。成就しない預言を語ったり、人を惑わせるような預言を公然と行った預言者が、公の場で、偽預言者として非難され、信頼を失うのは当然である。

 私は今日においても、偽預言者の預言は公の場できちんと証拠立てて検証され、それに虚偽があるならば明らかにされてしかるべきであると考える。政治家は公の場での発言に責任を問われる。教師も同じである。あらゆる職業人は自らの仕事内容に対して責任を負う。それならば、仮にも預言者を自称し、「主はこう言われます」と人前で大胆に語る者がいるならば、その人は神の名を用いて自分が行った預言を公に記録され、どんな内容であれ、成就したかどうか問われ、成就しなかった場合に、偽預言者として責任を負わされるのは当然である。

 こうして預言者その人自身と、預言内容を厳しく吟味する作業をしなければ、預言にまつわるこの大混乱状態の中で、偽りの預言を見抜くことは不可能である。誰が偽預言を語ったのか、厳しく吟味する作業を自分自身で進めて行かなければ、誤った預言がもたらす破滅的な影響を食い止めることは極めて難しい。

 さて、預言の正確な吟味を行うために、まず、預言はどんなものであれ、記録に残すように心がけたい。いつ、どこで、誰が(何という名前の預言者が)、誰に向かって、どんな内容を預言したのか、詳細に記録に残すようにしたい。そして一人ならぬ複数の者たちで、その場でもそうだが、その後、時間をかけて、預言の成就の有無を確かめる必要がある。たとえ一人で個人的に預言を受けた場合でも、それを秘密にせず、記録に残し、吟味した方が安全であるだろうと私は考える。

 さらに、昨今、多く見受けられる個人預言は、まるで占いのように曖昧かつ抽象的で、具体的な状況説明に欠けており、わざとぼかした内容となって伝えられるので注意したい。いかにも神からの言葉であるような雰囲気を醸し出すために、聖書の御言葉を引用して重々しく伝えられ、しかも、聞いた人がその助言にすぐに従うことを求めていたりする場合もあるが、よく考えてみれば、あまりにも前後の文脈に乏しく、状況説明もなく、結論さえも曖昧にぼかされてはっきり断言されておらず、本当に事実関係をよく理解した上で発言されているのかどうか判断する根拠が全くない場合が多い。しかも、聞いた人がその内容の曖昧にぼかされた部分を自分の想像で適当に補った上で、その個人預言の醸し出す「雰囲気から」、「空気から」、結論を自分で読み取って判断しなくてはならならない場合が多い。

 聖書の言葉が引用されていて、荘厳に聞こえるというだけで、このような発言を信じてはならない。抽象的で曖昧な預言については、きちんと発言者に具体性な説明を求め、具体的状況説明ができないようであれば、そのようなものは疑わしいと考えて退け、徹底的に主に向かって是非を問い、自分自身で聖書と照らし合わせて検証することを勧める。

 このように個人預言の内容が抽象的でぼかされた形になっているのは、聞いた人がそれを信じやすくするため(自分にとって都合の良い内容であれば、曖昧な内容でも人は信じようとするし、自分にとって不都合な内容の場合であっても、意味がよく分からないという不安な心理が、逆にその人を「従わなければ大変なことが起こるのではないか」という思いにさせてしまう。不安を煽ることによってその人を従わせるよう駆り立てる心理効果を狙ったものと見られる)、また、個人預言の内容をわざと抽象的にしておくことにより、語った者が後になって責任追及されることを避けるためであると思われる。しかし、抽象的で漠然とした内容が伝えられるなら、なおのことそうだが、それを鵜呑みにすることは絶対に避け、発言者に具体的説明を求め、徹底的に聖書に照らし合わせながら、前後の文脈と具体的な事実関係を検証していかなければならない。

 そこで、もし皆さんがどこかで個人預言を見たり聞いたりすることがあれば、たとえそれが自分に関わる内容でなくとも、聞いたこと、見たこと全てを詳細に記録しておくようにお勧めしたい。そして当該預言者の名前と言動をしっかりと記録にとどめて、できれば成就の有無についても書き残されたい。その預言が人々にどのような具体的影響をもたらしたのかを、つぶさに調べることができればベストだ(たとえば信徒の熱狂を煽って、教会の推進する特定のプロジェクトへの支持者を増やした等)。

 このような預言の識別作業を、クリスチャンが共同して行うことができれば、かなりのパーセンテージで虚偽の預言を明るみに出すことができ、偽預言者の活動をいくらかは押しとどめることもできるはずである。誰がどこでどのような預言を行い、その結果がどうなったのかという情報を蓄積することによって、私たちはいかなる預言者を信頼してよいのか、判断する有力な材料を得ることができる。

 あらゆる預言者は、自分が公の場所で発した全ての預言について、人々から検証され、信頼性について判定を下されるべきである。聖書のどこを見ても、言いっぱなしの預言などない。そして無責任な預言、偽預言で、聞く人を破滅させているような人物がいるならば、実名で責任追及されるべきである。そもそも公の場で、預言者たちが自ら実名を公表して職務中に行った発言について、発言者の名を伏せる必要はない。預言は語った者の名前とともにきちんとで記録されるべきである。

 神の名を用いて信徒を惑わすことを戒める法律は日本には今のところない。そこで、預言詐欺を食い止めるには、信徒が目を覚まして、預言に対するハードルを高くし、真偽を自分自身で見分けることを積みかさねる他ない。

 さて、最後に、偽預言者に対しては、神からの厳しい裁きが待ち受けていることは、すでに述べたが、終わりの時代にあって、民を惑わす偽牧者、偽預言者がおびただしく登場することが聖書では警告されている。ゼカリヤ書には、そのような偽預言者に対する厳しい告発の言葉が並べられている。

「テラピムは、たわごとを言い、
占い師は偽りを見、
夢見る者は偽りの夢を語り、
むなしい慰めを与える。
このゆえに、民は羊のようにさまよい、
牧者がいないために悩む」(ゼカリヤ書10:2)

 これは終わりの時代に対する警告であると私は解釈する。終わりの時代には、クリスチャンを自称する人々が、まるで辻占い師のように偽りの夢幻をさかんに語って、信徒を惑わせるようになり、そのために、教会にはまともな牧者がいなくなって、主の民があちこち彷徨うことになる。

「万軍の主は言われる、その日には、わたしは地から偶像の名を取り除き、
重ねて人に覚えられることのないようにする。
わたしはまた預言者および汚れの霊を、地から去らせる。<略>
その日には、預言者たちは皆預言する時、その幻を恥じる
また人を欺くための毛の上着を着ない。」(ゼカリヤ13:2,4)

 「預言者および汚れの霊を、地から去らせる」と書かれていることに注意したい。これは、終わりの時代には、圧倒的な数の預言者たちが、主の霊ではなく、「汚れの霊」によって、預言を始めることを意味すると解釈できる。だがやがて、そのような偽預言者たちの偽りが暴かれ、偶像が権威失墜して、恥を見る時が来る。そして正しい預言者は、人の耳に心地よい預言ばかりを誇らかに語ることはもうできなくなり、旧約時代の預言者と同じように、預言を金儲けの手段にせず、しかも、自分や民に与えられる厳しい預言内容のために、主の御前に嘆いたり、恥じ入ったりするだろう。

「万軍の主は言われる、
『つるぎよ、立ち上がってわが牧者を攻めよ。
わたしの次に立つ人を攻めよ。
牧者を撃て、その羊は散る。」(ゼカリヤ13:7)

 「わが牧者を攻めよ」、「わたしの次に立つ人を攻めよ」。文字通りに解釈するならば、何と恐ろしい言葉であろうか。神に次ぐ者として立ち、多くの羊の群れを任されていながら、羊を飼わず、己の懐を肥やすことばかり考えて、羊を食い物にしているような牧者は必ず主によって撃たれる。

 黙示録では、こうある。「そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。」(黙示録20:10) 

「事はすでに成った。わたしはアルパであり、オメガである。初めであり、終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受けるべき報いである。これが第二の死である。」(黙示録21:6-8)

 偽預言者、偽牧者に対する裁きはまことに厳しい。神を恐れず、偽り言を平然と語る人間にはならないようにしたい。
 

後日付記【2016年】:「わが牧者を攻めよ」というくだりは、キリストの十字架を指すのであって、偽預言者を指すのではないと指摘した人がある。だが、たとえそうであったとしても、やはり、偽預言者に対する裁きが厳しいものであることが聖書の随所から明らかであることは間違いがない。

さて、偽預言者とは具体的にどういう人々を指すのか。
今日、権力闘争と保身のためだけに、罪もない人々を偽預言者扱いして迫害中傷している人々がいるため、拡大解釈を防ぐ目的で、ここにきちんと証拠を記しておきたい。

数々の怪しい霊的ムーブメントを無批判に取り込んだがゆえに、背教の殿堂となっているアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と、「カルト問題を解決する」ことを口実にそこから生まれて来た腐敗したカルト被害者救済活動、および、他教会へ潜り込んでは信徒に偽りを吹き込む同教団信者の工作員としての活動について、当ブログではいくつもの記事を書いているが、特に以下を有力な参考材料として提示しておく。この教団が偽預言者の養成所のようになっていることがよく分かる。

罪と罰――カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか
――ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者 杉本徳久氏による
多くのクリスチャンに対する聖書と法に基づかない虚偽の告発と
 カルト被害者救済活動が持つ反聖書的な意義についての考察――
 
大いなるバビロンからの脱却 反キリストの原則の明確な発展
――アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動――
~村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会人事の私物化問題について~

カルト被害者救済活動の暴走
 ~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による魔女狩りとしての
鳴尾教会への恫喝訴訟と、AG信徒による他教会の乗っ取り事件~

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預言を売り物にするミニストリーの誤り

偽りの預言に関する記事の続き>

偽りの預言の特徴② 大量生産される預言、代価を求める預言は偽りである。

 正しい預言の取り扱い方においては、預言者は神に聞く姿勢を重視し、信徒としての生活を送りつつ、啓示が与えられる時まで、忍耐強く待つ。預言者が預言の代価として人々に金銭などの報酬(献金)や奉仕を求めることはなく、また個人預言と銘打って、お手軽に誰にでも預言を語ることはない。


1)預言に関する現代キリスト教界の混乱した状況

 神がいつ誰に何を啓示されるのか、それを人が前もって知ることはできない。サムエルが幼い頃、「主のことばはまれで、黙示も常ではなかった」(サムエル上3:1)とあるように、旧約時代、預言者たちには誰しも、主のことばを待つために、忍耐が要求された。預言者がいつでも好きな時に預言を語れるわけではなかった。
 
 それに加えて、預言者の任務は重いものであった。主が語って下さるその時まで、忍耐強く待ち、語りかけがなくとも、戒めを守って清い生活を送らなければならないだけでなく、語りかけがあれば従順に聞き、そして受け取った預言の内容が、たとえ民が聞けば悲鳴を上げるような内容であっても、忠実にその内容を民に伝えなければならなかった。
 そのため、預言者はしばしば預言内容を理由に民に恨まれ、迫害され、命を狙われた。だが、そうなっても、預言者には召命に従順であることが要求された。

 しかし今日、そのような、預言を取り扱うにふさわしい厳粛な態度を少しも持っていない人たちが、特別な賜物を見せびらかしたり、預言をビジネス・チャンスに変えて商売にしたり、人の運命を自在に操れる権力を持ちたいばかりに、自称預言者を名乗っている現状がある。こうした人々は啓示が上から下るまで待ちきれず、いつでもどこででもお手軽に預言を語れるようになろうと努力し、それが信仰的態度であると誤解したまま、主からの語りかけではない、自分たちの心のうちにある幻を、大衆に向かって語っている。

 そうした偽預言者の語る内容は様々である。中には、人を惑わすような、甘い繁栄や成功のヴィジョンばかりが預言として語られる集会がある一方で、人を脅し、不安に陥れるような不吉な預言ばかりが語られる集会もある。そして、そのような場所では、預言を受けた人に、無言のうちに、高い献金や、参加費、具体的奉仕が要求されている。(預言者が預言を利得の手段とし、わいろをもらって、預言内容をコントロールすることは罪である。 サムエル記上8:3、列王記5:16、ミカ3:11を参照。)
 
 今日、ペンテコステ運動の霊的なブームに乗って、数多くの場所で、自称預言者たちが「神の器」として講壇に立ち、大規模集会を開いて、「主の御告げ」と称して、順番待ちの列に詰めかけた不特定多数の会衆に、一人ひとり手を置いて祈ったりしながら、「個人預言」を語っている。主がそのように安っぽく人に語られることは決してないというのに、まるでコインを入れればいつでもコカ・コーラが出てくる自動販売機のように、預言を大量生産し、ビジネス・チャンスとするような動きが教界に起きている。

 このように、大規模に開かれる「預言のミニストリー」がある一方、小さな規模の内輪の集まりで、「主はあなたにこうおっしゃってます…」と言って、自分の心にひらめいた聖書の箇所を引用しながら、隣人に向かって、日常生活の細部に渡るまで、こと細かに指図を出しているような、お節介な自称預言者もある。

 さらに、預言に関する混乱の頂点を極める現象として、訓練さえ受ければ、誰でも預言者になれますと宣伝して、卒業生を預言者として世に送り出すための、預言学校なるものがキリスト教界内に開かれている。聖書のどこを見ても、学校を卒業して預言者となった人物はいない。にも関わらず、このような事業がまるで聖書的プロジェクトであるかのように大真面目に推進されている。
 まるで、ハリー・ポッターの物語の魔法学校を現実化させたかのような、預言者の学校については、キリスト教界の聖職者たちの中からさえ、深刻な懸念の声があがっている。多くの牧師たちが、このような学校やセミナーがうさんくさいものであることを心から確信している。にも関わらず、厳しい反対の運動が起こらないために、預言学校や預言者訓練セミナーは、キリスト教の装いのもとに、まるでれっきとしたクリスチャン的活動であるかのように、今も開かれているのである。

 さらに、預言カフェなどの教会外の催しもそこに加えれば、預言に関する今日的混乱は無限大に近いものとなる。まるで辻占いのように、神の啓示を安っぽく扱い、手っ取り早く売り物にしようとするような行事が、今日、堂々と指導者の承認を得て、複数の教会や、集会で行われているので注意されたい。
 預言者の召しをかくも軽々しく、まるで易者や辻占いと同列に扱うこのような流行が、聖書にかなった行為であり得ないことは、普通のクリスチャンであれば誰しも理解できるだろう。


2)預言を追い求めるとは御言葉に溢れることを追い求めることである

 このように預言の安易な大量生産に携わる人々が、自分たちの活動の正当化に用いるのは、大概、次の聖句である。「あなたがたは、みんなが学びみんなが勧めを受けるために、ひとりずつ残らず預言をすることができるのだから。かつ、預言者の霊は預言者に服従するものである」(Ⅰコリント14:31-33)。

 だが、この聖句を拡大解釈して、神の御心を信徒が自分の思惑によってコントロールすることや、聖霊の賜物を人間が自らの肉的な意志に服従させ、肉なる思いの中に閉じ込めることを正当化する根拠にすることはできない。私たちがそのような、賜物の濫用行為に走れば、聖霊は悲しんでその人から去って行かれるだろう。
 「あなたがたは…ひとり残らず預言をすることができる」という聖書の箇所は、決して、預言の安易な取り扱いを奨励し、クリスチャン全員が、まるで辻占い師のように、望めばいつでもどこででも誰に対してでも預言を語れるようになりなさいという意味で述べられているのではない。

 神からの啓示を受けることは、私たちが空腹時に冷凍食品を電子レンジで温めることとは全く別である。私たちがいつでもどこででも、望みさえすれば、神の懐から自分に必要な預言をもぎ取って行けるというような考えで、預言を取り扱うべきではない。それは主の言葉を軽んじ、御心をないがしろにすることである。

 預言を求めるためには、何よりも、私たちが神が働いてくださるその時まで、忍耐強く待つことをしなければならない。自分の心の必要性よりも、主に聞く姿勢を重視して、御心を追い求めなければならない。主のことばに出会うためには、自分の思いを排除して、聖霊の語りかけに耳を澄ます必要がある。心躍るような特別な方法を通して、神と個人的に出会いたいという願いには、一見、信仰的であるように見えても、その実、利己的な願望が含まれている。そのような思いは排除されなければならない。

 預言に関して間違った取り扱いが頻発しているのは、クリスチャンが、私たち人間の側が何を得たいか、知りたいか、という人間サイドの欲望に従って、神の御心を追い求めようとするからである。そのような自分サイドの願いに基づいて預言を求める姿勢を排除し、何が主の御心なのか、主は私たちに何を望んでおられるのか、という主の側からの視点に照準を合わせることをしなければ、クリスチャンは自分の心を喜ばせてくれる誤った預言に簡単に引きずられ、信仰から逸れて行ってしまうだろう。
 
 Dr.Lukeによる「新約の預言について」の解説にはこうある、「『キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。』(コロサイ3:16)とあるとおりです。私たちのうちに御言葉が豊かに住めば住むほど、溢れるように神の言葉を語ることができるでしょう。」

 この通り、預言の本質は聖書の御言葉である。現代にたとえどのような特殊な形で、上からの啓示が与えられることがあるにせよ、それが本当に真実、主から来たものであるなら、その内容は必ず聖書に合致するはずである。個々の預言にはそれぞれに違った色合いがあるだろうが、決して、それを聖書以上に重んじる姿勢をクリスチャンは取ってはならない。また、預言を何か心を躍らせてくれる特別な神との出会いのようにとらえ、特別に、超自然的な方法で、主からの語りかけをいただきたいばかりに、預言を追い求める姿勢は誤っている。

 私たちは聖書を開くとき、いつでも、内なる聖霊を通して、個人的に主と対話できる恵みをいただいている。大規模集会の盛り上がったムードの中で、「主はあなたにこう語られています…」と、耳に聞こえる語りかけをもらわなくとも、あるいは、祈った時に明確な回答のことばが心にひらめかなくとも、へりくだって愛なる神は、あなたの人生にいつも静かに共にいて下さり、インマヌエルの名の通り、「私はあなたを捨てて孤児とはしない」と言って下さるのである。私たちがこの地上で主と語らうことのできる恵みは、人生の終わりの瞬間まで、尽きることなく与えられている。すぐに信じられそうな、目に見える証拠に心を奪われ、外的な現象ばかりをしきりに追い求めることなく、静かに人に寄り添って、沈黙の中でも共に歩んで下さる主を信頼することを学びたい。

 預言を求めるとは、御言葉に溢れ、御心のうちに歩もうとすることと同義であり、従って、日々の生活の中で、いつも聖霊との対話を続けながら、それをクリスチャンと分かち合うことと同義であると考えて良いのではないかと私は思う。
 「預言をする者は、人に語ってその徳を高め、彼を励まし、慰めるのである。<略>預言をする者は教会の徳を高める」(Ⅰコリント14:3-4)という聖句も、このような文脈に立って解釈されるべきであろう。

 すでに述べたように、預言という概念の中には、未来予言的な啓示を受けることだけでなく、倫理的な訓戒などの意味も含まれている。クリスチャンが互いに主の御心に沿うために、互いに必要な事柄を訓戒し、忠告し合い、戒め合い、教え合い、より御言葉に精通するために励ましあうこと、それが預言を熱心に追い求めることである。

 肉的な思いで人を慰めようとする時、私たちは他人がすぐに安心できるような事柄、未来の成功を確信できるような事柄を語ろうとする。しかし、「信仰的に」、励ましや、慰めが与えられる時には、たとえ困難の中にあっても、忍耐強く主を見上げ、へりくだって、地道に愛に生きるように語られることが多い。壮大なヴィジョンや、成功の物語が語られることはまずない。
 従って、クリスチャンとして、あなたが何かわくわくするような特別な奉仕に召されているとか、巨大なリバイバルに仕える奉仕者となって、全国に影響を与えるミニストリーを率いるだろうといったような、大きな成功のヴィジョンが語られる時には、そのような自分の心を興奮させるような預言が、主から来たものとはまず考えられないことを疑うべきである(預言を吟味する必要性については、次の記事を参照)。

 真の預言は、人が主を見上げ、御言葉に溢れるために与えられるものであり、己が人生の成功や、己がプロジェクトに熱中するために与えられるのではない。従って、真の預言は、私たちが自己を厳しく振り返り、悪事から離れ、エゴイズムを捨てて、この世の誉れや、富を思い求める願いや、人生の成功者になりたいという欲望から遠ざかるように促すだろうし、ひょっとすると、私たちがこの世の富や、金銭や、権力に心惹かれ、執着していた罪や、権力者にこびへつらいながら、弱いものを足蹴にしていた不公平な態度などを暴き出し、悔い改めを迫ることがあるかも知れない。

 真の預言は、クリスチャンが公正と正義に基づいた生き方をし、へりくだって、苦しい時にも、主の御心のうちを歩むように促すはずである。預言の目的は、人の心を神に向けさせることであり、己自身に向けさせることではない。従って、私たちが心の中で抱いているプロジェクトの成功を保証してくれる預言に安易に飛びつくような態度は危険であるし、誤っていると私は思う。

 預言を熱心に求めなさいという勧めは、自分の思惑次第でいつでも神からの啓示を受けられる人になろうと努力することや、人生で迷った時、占い師や、民間療法師を頼るように、いつでも預言を求めて出かければよいという意味ではない。
 そのことをクリスチャンが理解せず、自分の心を静めて、自分の勝手な欲望に死んで、主の御心を探るということをしないまま、手っ取り早く人生の助言者(預言者ではなく助言者!)を求めて、様々な集会に出かけて行ったりすると、人の思惑によって人生を支配され、振り回され、大きな損失をこうむるという手痛い結果が起きかねない。


3)「個人預言のミニストリー」という形態は聖書には存在しない

 
 さらに、現代に横行している「個人預言」には、聖書的裏づけがないと私は考える。
 聖書においては、集会に訪れる不特定多数の信徒を対象とした、「個人預言のミニストリー」というものは、預言の重要な形態としても、伝道の形態としても、決して存在したことがない。(預言者が民の間での争いごとを知恵を持って裁くことはあったが、神からの語りかけを、訪れた一人ひとりに向かって語ることはなかった。)

 確かに、聖書を見れば、預言が特定の個人に向けて与えられる場合がなかったわけではない。だが、そのような場合は極めて限られており、さらに、個人に向けられる預言の内容は、具体的で、どのようにでも曖昧に拡大解釈できるような漠然としたものではなかった。
 しかもそのような「個人預言」(あえてそのように呼ぶならば)があった場合、その内容は、受けた人の心を喜ばせるどころか、恐れさせるような、ことさらに厳しいものである場合が多かった。

 個人の人生に何か信じがたいほど喜ばしく重大な事柄が起ころうとしている時には、神はその重要なメッセージを多くの場合、人には託されなかった。預言者を介して、つまり人を介して主が人に語られる時、人の耳に心地よいことが語られることは少なく、かえって厳しい忠告が語られることがほとんどであった。

 士師記第6章にその典型的な対比を見ることができる。イスラエルの民が悪事や偶像礼拝に走ったことの報いとして、異教徒ミデアン人のとらわれとなっていた時、ひとりの預言者が、神は「あなたがたはわたしの言葉に従わなかった」と民の罪を糾弾し、悔い改めを迫った(士師記6:7-10)。

 だが、神はこうして預言者を通して、民に耳の痛いメッセージを語らせた一方で、イスラエルを救うために密かに勇者ギデオンを選んでおられた。悩みの渦中にあったギデオンに向かって、主の使いが派遣され、「大勇士よ、主はあなたと共におられます」と励ました。
 注意すべきことは、人間が人間に向かって、「大勇士よ」と語り、相手を褒めちぎったのではないことだ。この偉大なメッセージを取り運んだのは、人ではなく、主の使いであった(士師記6:11-13)。

 同様に、アブラハムに向かって「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」(創世記12:1-2)と語られたのは、人ではなく、神ご自身であった。アブラハムとサラに子供イサクの誕生を予告しに来たのも、この世の人間ではなく、三人の神の使いであった(創世記第18章)。
 家族を騙して父から祝福を受け、兄と対立して家を追われるように出て行き、野宿していたヤコブの夢枕に立って、彼を祝福したのは神ご自身であった(創世記第28章)。ナジル人サムソンの誕生をマノアと妻に告げたのも、神の使いであった(士師記13:3-5)し、イエスの誕生を予告するために乙女マリアのもと、そして羊飼いたちのもとを訪れたのも天使であった。

 これにひきかえ、預言者を介して、つまり、人を介して主からの言葉が伝えられる時、その内容は大概、不快かつ恐るべきものであった。旧約聖書の例を挙げるなら、預言者ナタンはダビデの姦淫の罪を指摘し、子供の死を予告した(サムエル記下第12章)。預言者アヒヤは王ヤラベアムの妻に向かって、王が犯した悪事のために、ヤラベアムの家に厳しい裁きが下ることを告げた(列王記上第14章)。預言者エリヤはアハブ王に無惨な死を預言した、「犬がナボテの血をなめた場所で、犬があなたの血をなめるであろう」(列王記上21:19)。預言者ミカヤはユダの王ヨシャパテに勝利ではなく敗北を預言した(列王記上第22章)。

 新約では、神と信徒とを欺いたアナニヤとサッピラに対してペテロが罪を糾弾し、死を予告した、「見よ、あなたの夫を葬った人たちの足が、そこの門口にきている。あなたも運び出されるであろう」(使徒行伝5:9)。預言者アガボはパウロに言った、「聖霊がこうお告げになっている、『この帯の持ち主を、ユダヤ人たちがエルサレムでこのように縛って、異邦人の手にわたすであろう』」(使徒21:11)。

 このように、個人に預言が与えられる場合、厳しい内容のものが多かったが、ただし、例外的に、主の前に正しく生きている困窮した弱者のために、預言者がまさに必要としている具体的な助けを差し伸べることもあった。エリヤは自分が身を寄せた貧しい家の女主人の油が尽きないようにし、祈りによって子供を生き返らせ(列王記上第17章)、エリシャは貧しいやもめの子供が奴隷にされないように、貧しかった彼女の家の油がつきないようにし、ある婦人に子供が生まれることを預言し、祈りによって子供を生き返らせた(列王記下第4章)。
 だが、このように良い事柄が預言された場合、その預言は必ず成就したことに注意されたい。

 聖書全体を通してみると、預言者がことさらに困窮しているわけではない誰か特定の個人に向かって、あるいは不特定多数の人々に向かって個人的に、大きな成功などの喜ばしいニュースを預言するという場面は、極めて少なく、特に、健康や、商売繁盛や、社会的成功や、または祝福されたミニストリーのヴィジョンを約束するということはほとんどなかったことが分かる。

 従って、現代にあっても、個人預言セミナーなどの会場で、訪れる不特定多数の人々に対して、祝福の預言が与えられる場合、そのようなものは100%、聖書とは関係ない行事であるとみなすことができよう。もしもあなたが、「土曜日の午後、当教会では有名な神の器、誰某先生をゲストとしてお招きし、預言のセミナーを開きます。参加者には誰しも個人預言が与えられ、預言の賜物がある希望者には、特別な預言者訓練コースも別途用意されています。参加料は¥2,000」というようなチラシを見た場合、これは主の御心を敬虔に求める心から出たのではなく、人間の欲望から出たセミナーであると判断して差し支えない。

 参加費を徴収して預言に関するセミナーや集会を開くことは、預言をビジネスの手段とすることであり、非聖書的行為である。さらに、人を興奮させ、喜ばせる、人の耳に心地よい内容ばかりを預言することも、聖書にそぐわない行為である。こういったものは、御霊の現われを人間の思惑に従って行使し、思い通りに量産しようという試みであり、しばしば金銭欲が隠れた動機となっている。さらに、その「霊の賜物」が本当に主から来たものであるかどうかも、甚だ疑わしい。

 いずれにせよ、量産されるものは必ず質的低下を引き起こす。預言が大量生産されるところでは、必ず腐敗した、劣化した預言が語られている。そして悪質な預言のために人生を狂わされるクリスチャンが出ている。厳粛に取り扱われるべき預言を、このように手っ取り早く、安っぽく量産しようとする堕落と腐敗には決して近寄らないようにしたい。


偽預言者をゲストに招く教会

「主を恐れるとは悪を憎むことである。
 わたしは高ぶりと、おごりと、悪しき道と、
 偽りの言葉とを憎む。」(箴言8:13)

1.背教を取り締まらないアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団

 これまで、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の教会や、同教団の行うカルト被害者救済活動に対して、ここでは批判的な記事ばかりを書いてきた。そんな私の考えは、先入観や個人感情に基づくものだと考える人が、あるいはあるかも知れない。
 たとえば、子供時代に教会で受けた負の記憶から抜け出せないために、私は「アッセンブリー・アレルギー」にかかっているのだとか、相談した問題が上手く解決に至らなかったために、カルト被害者救済活動を逆恨みしているのだといった疑いをかける人もあるかも知れない。
 
 今、そのような疑問を持つ人がいるならば、あえて声を大にして疑惑を晴らそうとは思わない。どのような考えをお持ちでも構わないから、読者の方々には、ただ、今後じっくりと全ての人たちの言動を時間をかけて観察して欲しいと呼びかけるのみだ。誰がどのような動機に基づいて行動しているのか、長い目で見れば、必ず時が明らかにしてくれる。どうか全ての事柄について、早合点するのでなく、時間をかけて、じっくりと経緯を追い、事実を冷静に見定めることの重要性を見逃さないでいただきたい。
 私が書いていることはその判断のための材料の一つに過ぎない。

 クリスチャンの使命は、正しい教えを厳しく峻別して受け入れることであり、教師という名前をぶらさげてやって来る人誰でもを無条件に受け入れることではない。この点で、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団全体に関する私の疑惑は昨今、ますます強まっていることを述べないわけにはいかない。今、振り返っても、私はN教会で語られていた教えには正統なキリスト教から逸脱する部分が含まれていたと思わざるを得ないし、アッセンブリー教団がフランスではすでに準カルトに認定されている事実を、私たちは深刻に受け止めるべきであると思う。

 以下の記事の中で、私はN教会にいた頃、誤った個人預言のために無駄に奔走させられたことを書いた。その事件はN教会牧師の見解とは何の関係もなかったが、しかし、以前にも引用した佐々木正明氏の説明にも明確に表れているように、アッセンブリー教団の中には、個人預言だけでなく、ペンテコステ運動における様々な問題ある教えが、あまりにも数多く、何の批判も受けることなく浸透している。この教団では、正しい教えと、背教とを区別するチェック機能が働いておらず、外国で何らかの不祥事が公にされた後になって、ようやく問題ある運動と袂を分かつといった程度の対策しか取られていない。

 佐々木氏の次の説明に注意を払おう、「アッセンブリーズ・オブ・ゴッドは常に非聖書的見解や極端な主張をする人々を内に持ち、またその教えに晒されながら、大きな捕らえ方では、それらの人々を直ちに排除するのではなく、忍耐と時間をかけて、聖書をもって指導しながら、そのような主張や見解が沈静するのを待つという方向性を保って来たのです。(注3 最近の出来事としては、ベニー・ヒンのアメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッドへの加入と脱退の経緯が好例です。)」

 ここまで率直に語られている事実を私たちはきちんと直視したい。
 「アッセンブリーズ・オブ・ゴッドは常に非聖書的見解や極端な主張をする人々を内に持ち、またその教えにさらされながら」、それに厳しく断固たる対処をあえて取らずに活動して来た団体なのだということを、この教団の教職者自らが認めている。この事実は、どれほど深刻に受け止めても、行き過ぎということはないと私は思う。いかにこの教団が誤った教えの宝庫となって来たかを、これほど明確に示す文章は他にない。

 誤った教えは、教会の正常な機能を壊し、最終的には、教会に破滅をもたらす。腐敗が進行し、聖職者や教会の不祥事が世間に大々的に明るみに出た時点では、すでに多くの犠牲者が出ている。大勢の信徒が惑わされ、見える形、見えない形で損害をこうむり、心傷つけられて教会を離れたその後になって、やっと教団が重い腰を上げて、その運動を禁止しているようでは、その教団はとても正常な危機感を持って、背教を取り締まっているとは言えない。

 教界に多くの混乱をもたらしている個人預言に関しても、教団の対応には危機感が全く見られない。佐々木氏は言う、「私たちもまた、現行の個人預言の問題を、異端狩りのような取り扱いをするのではなく、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの伝統的な寛容性をもって対処したいと思います」。
 このような文脈で「寛容性」を強調することが不適切であることは、クリスチャンならば誰しも理解できるだろう。正しい教えと誤った教えを吟味する力もない教団の無力を、どうして「寛容性」という言葉でカモフラージュすることが許されようか。罪もない多数の羊を犠牲にして教会から離れさせた後になって、教職者は今更、誰に向かって、寛容性を訴えるのだろうか。寛容であるべきなのは、誤った教えに対してではなく、弱い人々の弱さに対してである(ここで守られるべきは信徒であって、道を踏み外した教職者ではない)。

 いみじくも神の言葉を述べ伝える者たちが、誤った教えを語って、信徒を惑わせ、背教と破滅へと誘い込みながら、そのような教職者に対する責任を何一つ取らせようとしない教団があるならば、それは正常に機能している団体とは言えない。信徒にだけのっぴきならない犠牲を負わせ、しかも犠牲の大きさが無視できないほどになってから、ようやく、ちょっとばかり教義を軌道修正をするような対応の中には、キリスト者の聖潔を命がけでまもり、背教に対して厳しく対処しようという覚悟は微塵も見られない。


2.アッセンブリー京都教会はなぜ偽預言者を招いたのか

 さらに、今まで私はできるだけ詳述することを避けてきたが、カルト被害者救済活動を推進するアッセンブリー京都教会に関しても、今回、ぜひはっきりと自分の見解を書いておきたい。それは私が最近、この教会(の組織構成および、同教会の主催するカルト被害者救済活動)にのっぴきならない危険性を感じるようになり、どうしても警戒を呼びかけないわけにはいかないと考えるためである。
 ただし、これはあくまで私個人の見解として述べるにとどめたい。これが私の勝手なる個人的な印象に過ぎないものなのか、それとも真剣に考慮に値する疑惑なのかどうかは、読者自身の判断に委ねたい。

 さて、キリスト教カルト被害者の一人であるコアラ氏が最近、次のような記事を書いている、
「今日、教会でゴスペル・コンサートがありました。
 日曜に、ゴスペル・コンサートの案内を見た時、ゲスト・スピーカーの名前を見て、心臓の鼓動が早くなりました。なせなら、その牧師は(以下D牧師)、私が所属していたカルト化教会、京都シティ・チャーチの開拓時代において、多くの預言を教会に与えた人だからです。<略>
 D牧師は、京都シティーチャーチに関する主の計画、御心を情熱的に預言し続けました。
それを聞くとき、私の心は躍りました。日本のリバイバルの為に、主は、この教会を始められた、そして、開拓を始めるときに、その一部として私を招いてくださった、なんという光栄に預かれるのかと、嬉しくなりました。
 D牧師から、次々と、心が躍るような『啓示』が預言として与えられました。
 それは、開拓を始めたばかりのメンバーにとっても、私にとっても、衝撃的で、希望となりましたし、神様からの召しについて、強い確信を与えるものになりました。」

 京都シティ・チャーチは深刻なカルト化の道を辿り、宣教師デローは国外逃亡、訴訟事件にまで発展した。コアラ氏は、自身がブログにおいて詳細に書いているように、アッセンブリー京都教会でカルト団体からの被害者の救済活動に携わる村上密氏の助けにより、カルト化教会の過酷な弟子訓練の影響下から脱出した。
 
 コアラ氏の記事の中で問題となっているオーストラリア人の「D牧師」が、ディーン・イートン(Dean Eaton)氏を指していることは誰にでも容易に想像がつく。なぜなら、アッセンブリー京都教会のホームページに掲載されているゴスペル・コンサートのパンフレットには、はっきりとゲスト・メッセンジャーとしてディーン・イートン氏の名が記されているからである。
 イートン氏はオーストラル・アジアン・クリスチャン・チャーチの牧師であり、「God in the Hands of Angry Sinners(怒れる罪人の手中に落ちた神)」の著者である。

 (この著書の表題が、18世紀アメリカ植民地においてリバイバル運動を率いた神学者ジョナサン・エドワーズ(1703-1758)の有名な説教「Sinners in the Hands of an Angry God(怒れる神の御手にある罪人)」をもじったものであることにすぐに読者は気づかれるだろう。 聖書のたとえ話に登場する、ぶどう園に取り立てに派遣された主人の一人息子を袋叩きにした雇い人を思わせるような、怒り狂った群集心理を表すこの表題は、まさに現代という時代を象徴するかのようである。
 全米で有名な歴史家Garry Wills、カルヴィニストの神学者R.C.Sproulが、これと同名の著書を著しており、特に、G.Willsの著書は、キリストが怒れる群集のサディズムの犠牲になるところを描いたメル・ギブソン監督の映画『パッション』と何らかの関わりがあるようであるが、このことについて、今は説明を省略させていただく。)

 さて、記事によると、コアラ氏はこのD牧師に、かつての誤った個人預言について直接責任を問うた、
 「私は、ゴスペルコンサートの案内を見て、D牧師の名前を見た時に、心が激しく痛んだと伝えました。そして、開拓初期に、D牧師から予言された事が実現しなかった事について、『あなたのした預言、あれは、なんだったのですか』と質問しました。
 そして、今でも、心が激しく痛む事、私は自分自身を捧げきっていた事を伝えました。
 D牧師の表情が、こわばりました。
 そして、『今、君は、この教会に来ているの?それは良かった。彼(注:デロー氏のこと)は最初は純粋に教会を始めたけど、途中でおかしくなったんだ』と言いました。
 D牧師が教会に与えた預言、私に与えた個人預言に対しての説明も、謝罪もいっさいありませんでした。
 私は、彼の目をまっすぐに見つめて、『私の心は非常に痛んでいます』と伝えました。
 彼は、私の目をまっすぐに見ながら『君がこの教会にいるのは良かった。君にあえてよかった』と繰り返しました。
 D牧師の人柄が見えたような気がしました。」

 神の名を用いて、何の根拠も持たない荒唐無稽な預言を多発して、信徒の興奮をいたずらにあおり、カルト的宣教師による誤った教会運営を助長しておきながら、預言が実現しなかったことに対しても、彼の支持した教会がカルト化したことに対しても、微塵の負い目も、後悔の念も見せなかったイートン氏。その不誠実な人柄がまさに明らかになった。

 公に偽の預言を語った者は、公に責任を追及されて当然であると私は考える。だが、預言詐欺を認めようとしない人物の前で、被害者にはなす術がない。怒りを抑え、この事件を飲み下すように自分に納得させようとしているコアラ氏の記事を読んで、一体、被害者だけがいつまで耐えねばならないのだろうかと、やるせない気持ちにならざるを得ない。
 
 だが、それよりも、もっと驚くべきはアッセンブリー京都教会牧師の態度である。
 村上密氏は「偽預言者」と題する4月27日の記事で、タイムリーに偽の預言の弊害に触れている。

 「偽預言者は主から受けたことばではなく、自分自身から出てくる霊感(inspiration)を語っています。真の預言者は神の啓示(revelation)を語ります。
 今日の偽預言者は占い師のようです。未来のことを語ります。それがどんなにすばらしい内容であってもそれはむなしいものです。語った中に、当たることがあります。当たったことが正しいことの証明なら語った全てが実現しなければなりません。しかし、全てが実現しているわけではなく、それに責任を取ることもありません。言いっぱなしです。又、聞いた人も責任を問うことをしません。何と責任のない預言でしょう。昔、預言者は生命をかけて預言したのです。」

 この文章はまるで一般論のように書かれているので、そのまま読み流してしまいそうだが、この記事がまさにこのタイミングで書かれた背景には、見えない文脈として、イートン氏の存在があることを疑わないわけにいかない。
 カルト被害者救出活動に深く関わって来た専門家である村上密氏と宗教トラブルセンターのもとには、どの聖職者がこれまでカルト化教会の体制を積極的に助長・支持してきたのかという情報が膨大に蓄積されているはずである。特に、京都シティ・チャーチの事件にも、直接、関わって来た村上氏が、そこでイートン氏が無責任な預言を繰り返した事実をこれまで全く知らなかったとはまず考えられない。

 だが、京都教会がイートン氏に関する詳細を知らなかったため、うっかり彼をゲスト・メッセンジャーとして教会に招いてしまったということが全く考えられないわけではない。もしもそうであれば、そのことについて村上氏はブログにおいて何かしら釈明を行うであろう。
 そして仮に、イートン氏が偽預言を過去に繰り返した事実を知った上で、村上牧師が彼をゲスト・メッセンジャーとして教会に招くことを容認したのであれば、村上牧師は偽預言者をゲストとして教会に招聘したことになる。そうだとすれば、彼は、片方で偽預言者の活動に協力しておきながら、もう一方で偽預言者を平然と非難することがどうしてできようか。

 善良な牧師であれば、過去に偽預言を行って信徒を惑わせた事実が判明すれば、その教職者とは、一切、関わりを断つだろう。自分の教会の大切な信徒の前に、不誠実な人間を講師として立たせようと思うような牧師はいない。従って、イートン氏が何者なのかという事実について、村上氏のブログに何一つ言及がないことは、読者にはかりしれない不信感を与える。

 「、預言者は生命をかけて預言したのです」と村上氏は書いている。
 「昔」とは一体、どいう意味なのだろうか。今日の預言者は、旧約聖書時代とは大きく役割が異なっているから、昔のような命がけの厳しさを求めることはもうできないという意味だろうか?

 氏は書いている、今日の預言は「言いっぱなしです。又、聞いた人も責任を問うことをしません。何と責任のない預言でしょう」。無責任なのは誰なのか。それはまず偽預言者本人であり、次に、偽預言者を決して公の場で糾弾しようとせず、過去に何があろうと不問にして集会に招いたり、偽預言者と協力してミニストリーを行う他の教職者たちである。そのことを一切記していないこの文章こそ、何と責任感に欠けることだろう?

 神の言葉を預かる預言者が、偽の預言をすれば、どれほど大きな責任を問われるかは、聖書にははっきり書いてある。すでに述べたように、ハナニヤは偽預言のために命を取られなければならなかった。さらに、偽預言者の言葉を聞いてはならない、彼らについて行ってはいけないと、聖書にはある。なのに、過去の自分の預言の誤りを何一つ認めようとせず、それによって生じた悪影響に対して一言の謝罪もない偽預言者が、今も無反省なまま、威厳ある指導者のように、堂々と講壇に立ってメッセージを語り、それを判断能力のない信徒が聞かされることが、どれほど会衆にはかりしれない悪影響をもたらすかという問題について、村上氏は少しの心配も持たないのだろうか。

 村上氏は同ブログの中で、儀間氏、有賀氏などの教会運営に対してかなり厳しい批判を向けている。だが、こうしたキリスト教界の大御所的な指導者の不正問題に対しては、声をあげる一方で、日本では比較的名の知られていない小者の似非指導者に対しては、その個人名をしっかり挙げて警戒を呼びかけることがなく、さらに自教会において彼らと協力した活動を行っているという矛盾を、私たちはどう受け止めれば良いのだろうか。


3.アッセンブリー京都教会と宗教トラブルセンターに対するその他の疑惑

1)被害者頼みのカルト対策

 アッセンブリー京都教会の活動について、私が不信感を感じざるを得ない理由はこの他にもある。以前、記事の中で、私は、村上密氏が、教職者として道を踏み外した者に対して、同僚の教職者や教団が率先して厳しい対応を取るべきことを述べず、かえって被害者の力によって悪徳牧師を救済する必要を呼びかけていることが、全くのナンセンスであるということを書いた。そのような被害者頼みのカルト対策活動は、道を踏み外した牧師に対して、教団が厳しく処罰を下すことの必要性を世間に忘れさせてしまう効果を持っている。

 村上氏が関わった多くのキリスト教会カルトの裁判のように、被害者自身が立ち上がることに重きを置いたカルト対策活動は、教団教職者の責任という問題をうやむやにし、教職者同士のもたれあい、かばあい、隠蔽体質、危機感のなさ、甘い対応を、かえって助長することにつながりかねない。(なぜなら、このような解決方法では、立ち上がる力のない被害者は泣き寝入りを強いられるしかないためである。)

 そこで、こうした被害者頼みのカルト対策は、実際の効果としては、教会のカルト化を食い止めるどころか、かえって助長する側面を持っていると言っても過言ではない。教会のカルト化に全力を挙げて対応すべきは、教団、聖職者本人であって、被害者ではない。そのことを世間に忘れさせてしまうような村上氏の主張は、カルト対策を根本から講じようとしている専門家にふさわしいものではない。


2)教会の二重の名称

 さらに、村上氏の言動には彼の活動の二重性を示すいくつもの事例がある。
 たとえば、アッセンブリー京都教会という名称について。
 重箱の隅をつつくような些細なことにこだわっていると思われるかも知れない。だが、教会の名称は教会の表札であるから、馬鹿にできない重要性を持っている。

 アッセンブリー京都教会の正式名称は七條基督教会である。アッセンブリー京都教会という名前は「世界の京都」をアピールする目的で使われているらしいが、通称に過ぎない。
 なぜこの教会は相応の手続きを踏んで、正式名称としてアッセンブリー京都教会という名前を採用しないのだろうか。なぜ二重の名称を使い続けるのだろうか。名称の使い分けがあるからと言って、即、何らかの実害が生じるわけではないにせよ、七條基督教会という名称も捨てられず、アッセンブリー京都教会の名前も捨てきれず、どちらをも選ぶことができない不決断と、何かしら不透明な印象をそこから受けるのは私だけだろうか。


3)カルト入信暦という負の経歴のPR

 次に、統一教会に入信していたという村上密氏の経歴について。
 クリスチャンは誰しも、自分がかつてバアルの神官であったという事実を誇ることはできない。信仰を知らず、罪深い生活を送っていた頃の知識は、信徒にとって恥にしかならず、クリスチャンがそれを人前で誇ることは全くのナンセンスである。
 しかし、キリスト教界では、昨今、元ヤクザ、元シンナー中毒者、等々、罪深いこの世的生活をしていた過去の経歴を、まるで逆手にとって宣伝し、ステータスとしてひけらかすかのような牧師が複数、登場している。この異常な現象については、「吉祥寺の森から」の著者杉本氏も「悪の経歴をPRしてはいけない」という記事の中で憂慮している。

「かつてやくざ、極道であろうと、刑務所に服役していた人物であろうと、キリストの道に入って改心し、人生を全く新しくやり直すことは良いことである。教会はそれを拒むことはない。だが、信徒になった後もなお、かつてのスタイル、様式をそのままに、自身の悪に染まった経歴をことあるごとにPRの素材に使うのはいったい、どういうことだろうか。<略>
 
 人の世ではやくざやちんぴら、暴力団、服役者だったという経歴は決してプラスに作用するものではない。その時点で大きなハンディを負っており、人の倍以上努力して周回遅れになった人生を取り戻そうという気持ちにならなければいけない。<略>

 悪の人生を歩いたことは反省すれば良い。だが、その後、その悪の経歴を自分の人生のためにPRしてはいけない。それはキリスト教の教えの勘違いに直結している。実際、望ましい実りはもたらされていない。松沢事件や藤本事件のように最悪の結果に直結してしまえば取り返しがつかない。悪の人生遍歴を宣教の手法として用いることは許されない。
(太字は筆者) 

(後日付記:
残念ながら、上記のように記しながらも、「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久氏は、後に村上密氏の活動への支持を公に表明し、村上氏の活動へ疑念を示す私のブログに対する大々的なバッシング記事を掲載して、自身のブログを炎上させるに至った。以後、杉本氏のブログとコメント者らは今日に至るまで、同教団及び村上氏サイドと組んで、私に対する様々な嫌がらせを続けている。

 残念なことである。私の記憶では、杉本氏はかなり早期にAG教団と村上氏の不透明性に相当に深刻な疑念を表明していたものと思うが、カルト被害者を救済するとの美名のゆえに、同氏らの活動に欺かれてしまった。そして教団の手先として虚偽のキャンペーンに加担して捨て駒とされる道を選んでしまったのである。

 杉本氏はこの記事の発表後ほどなくして、自身のブログにおいて、私へのバッシングのみならず、アッセンブリー教団の思惑通り、N教会(鳴尾教会)の現在の山田牧師夫妻に対する誹謗中傷のネガティブ•キャンペーンにも加担させられて行くことになる。当時からすでにこの記事のコメント欄で鳴尾教会関係者が危惧を示していた通り、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、村上氏とT氏(津村氏)がかつて鳴尾教会で引き起こしたスキャンダラスで不都合な事件を隠し通す目的で(この事件については最新の記事で詳述した)、鳴尾教会の現在の牧師山田夫妻に対して虚偽の情報を流布するネガキャンをしかけ、それによって事件の責任の所在をうやむやにしてごまかそうと準備していたのである。そのネガキャンに積極利用されたのが、杉本氏のブログであった。

 教団は公の声明を発表して公式に自らの見解を発表し、そこで反対者への弁明や反論を行うことができたのに、それをせずに、杉本氏のようなアッセンブリー教団とは何の関係もない個人のブログを利用して、教団にとって不都合な人間に対するネガティブ•キャンペーンを行わせるという卑劣な行為に及んだ。それを主導した人物が村上密氏であることには疑いの余地がない。

村上氏は教団と無関係な一個人を利用して、教団に有利なネガキャンを行わせて他者を中傷させた上、これらのキャンペーンに使われた虚偽情報を発表した全責任を、身代わりに押しつけて、使い捨てようとしたことになる。

このように、自らは矢面に立たず、自分は決して責任を問われることのない隠れた場所から、無関係を装いつつ、第三者を積極的に利用しながら、クリスチャン同士の対立を煽り、デマを流布して政敵を貶めるという手法は、村上氏におなじみのものであり、それは同氏が鳴尾教会の事件へ介入した際にも一貫して見られた行動である。

むろん、デマに惑わされ、これを流布するために利用された信徒の側にも逃れようのない重い責任が残ることは言うまでもないが、こうして教団に無関係な個人に全責任を負わせる形で、自分たちに都合の良い捏造された虚偽の情報を発表させては、卑劣で無責任なキャンペーンを組織ぐるみで推し進めて来たアッセンブリー教団の不誠実さ、身勝手さ、卑劣さは説明する必要もない。この点で同教団とその指導者らの犯した罪ははかりしれないほど重いものとなるだろう。)


 元ヤクザ、元麻薬中毒者といった過去の負の経歴が、まるで自慢話のように繰り返されるキリスト教界の倒錯した風潮の中で、元統一教会員であったという負の経歴もまた、牧師の大きな強みになっているようだ。
 カルト団体への入信暦があればこそ、現在、カルト被害者救出活動に携わっている村上密氏を筆頭に、まるで彼を手本として見習うかのように、アッセンブリー教団の中では、元統一教会の信者、元カルト化教会の信者が、牧師として献身するということが次々起きている。こうした人々にあっては、元カルト団体の信者であったということが、献身者となるにあたって、決して著しいマイナス要因としては働いていない。

 元統一教会員であった経歴を活かして、カルトの専門家として名を馳せたことにより、村上氏ははからずも、このような風潮を助長したのだと言えよう。こうして、今やキリスト教界は負の過去を持つ人々にとってのパラダイスになりつつあるのだろうか。
 だが、バアルの神官がキリストの神官に転職する際に、バアルに関する専門知識をアピールしているようでは、世も末だと私は感じざるを得ない。「バアル対策セミナー」が今やキリスト教界における重要な活動となっていることの恐ろしさを、今一度、読者に考えていただきたいと思う。

 元カルト団体への入信暦をPRしているようでは、元カルトの信者は回心前の過去をきっぱりと断ち切り、その罪を完全に離れたと、本当に言えるのだろうか。聖霊を汚す全てのものと、きっぱり分かれることの重要性を聖書は述べている。それなのに、不信仰だった頃の生き方が、キリスト教伝道者として名を成すための有力な専門知識になり、さらに、伝道の道具にさえなっているこの現状は何なのだろうか。


4)教会生長論に対するあいまいな態度

 さらに、教会成長論について。
 村上氏は記事の中で、他者の考えを引き合いに出しながら、教会成長論の弊害について触れている。それによれば、彼はあたかも教会成長論の弊害をよく認識しているように見えるが、しかし実際には、ここで彼は自分自身の意見をはっきりと打ち出していない。
 しかも、アッセンブリー京都教会は、私の見る限りでは、信徒を教会成長のための材料とする教会成長論と少しも縁を切ってはいない。各大学におけるバイブル・クラスの浸透や、各種イベント、コンサートの開催、そして全国のカルト被害者たちのブランチ化という形での京都教会への併合などの現象を見れば、明らかに、この教会は信徒の組織化、そして組織的な教会成長を目指しているし、実際にそれを実践して成長を遂げていると言えよう。
 さらに、聖書研究会などの形式を取った大学への浸透は、カルト団体の常套手段であることも忘れないでおきたい。

 私は、あらゆる教会成長論は全て誤りだと思っている。なぜなら、それは組織としての教会の拡大を計画的に行おうとする理論だからである。それは教会を訪れる信徒を組織化し、集団化し、一定の目的に従って、行動を様式化し、プログラミングすることを意味する。これは人間の自由に対する制約となるだけでなく、聖霊の自由な現われを肉的な思いでコントロールしようとする試みであり、伝道の目的を地上的な教会組織の拡大と同一視する誤った信仰観に基づいている。

 アッセンブリー京都教会には、組織構成にも、教会成長論の多大なる影響が伺える。つまり、カリスマ的指導者を頂点にいただく、トップダウン式のピラミッド的構造がますます顕著に育っている様子が伺えることが憂慮される。若い牧師たちは、主任牧師の負担軽減のために様々な雑用を引き受けている。宗教トラブルセンター代表者に送ったはずのメールに、何の断りもなく、いきなり別の牧師のアドレスから返信が帰って来るといった奇妙なことが起こるのもそのためである(この時点で、すでに宗教トラブルセンターでは守秘義務が完全には守られていないことが分かる)。

 だが、いかに忙しいにせよ、牧師が自ら雑用を手がけなくなり、メールのチェックや返信の作業までも代理人に任せるようになれば、もはやその時点で、彼のプロの職業人としての生命は失われたも同然である。 『神の汚れた手』という曽野綾子氏の小説を思い出すが、イエスは神の右に座するほどのその高い位を自ら捨てて、地上に苦しみ多い生を受け、大工の息子として庶民の生活を送り、自分の足で歩き、自分の手を煩わせながら、常に自らの手足を汚して、貧しい人々に神の愛を宣べ伝えた。華々しい活動だけに従事している人の人格が、華々しく生まれ変わることは昔も今も、未来にも決してないだろう。人から評価されない、地味で煩わしい仕事を地道にこなし続けながら、人は謙虚さを学んでいくしかないからだ。


5)引退したはずの牧師の教職への再登板

 T牧師について。
 私が以下の記事で触れたN教会のT牧師は、村上密氏の親族に当たる。T師はN教会において、独裁的教会運営や、伝道師に対する抑圧的な言動などといった、牧師にあるまじき一連の行動を取った疑惑を受けて、疑惑を晴らすことができないまま、責任を取って、N教会の牧師を辞職した。信徒はことの詳細が今も分からないままであるが、この騒動の影響により、N教会全体が深刻な打撃を受け、信徒の大量離脱が起こった。
 相当な年齢でもあったので、T師はもし何事もなければ、平和裏に引退して教職を完全に退いても不思議はなかったであろう。だが、騒動が持ち上がった時、村上氏は仲裁に乗り出し、その後、T師を自分の教会に招き、そこで教職者として再起用し、ブランチでの説教などに当たらせている。

 政治家ならば、不祥事があったとしても、しばらくの期間、公職を退いて「みそぎ」を受ければ、選挙に再出馬しても構わないと世間では考えられている。だが、そのような考え方を、クリスチャンの教職者にそっくり適用して良いものだろうか。教職者にあるまじき言動を行った牧師は、教会を辞任しさえすれば、それで「みそぎ」を受けたことになるのだろうか。T師の騒動のために教会を離れたクリスチャンには、今も誰からの助けの手も差し伸べられていない。
 しかも、村上氏は、社会的けじめをつけるために引退を宣言して辞職したはずのT師を、再び教職の任務に就かせることにより、この事件に関するT師の社会的決着を完全にうやむやにしてしまった。N教会で騒動の影響を受けた信徒たちの目から見れば、これはただ聖職者優先の、もたれあい、かばいあいの心理で動いているようにしか見えないだろう。


最後に。 神を選ぶのか、バアルを選ぶのか。
 
 最後に。
 「ベニー・ヒン・ミニストリー」などに代表されるように、ミニストリーに個人名を冠する牧師や伝道者には注意が必要である。村上氏のブログも氏の名前になっている。そこに掲載されているプロフィールによれば、氏は「終末に出現する偽キリスト、偽預言者、偽教師に対する備えを研究し、ライフワークとしている」のだという。
 
 だが、偽預言者を自分の教会にゲストとして招聘し、そのことに対して釈明すらない牧師が、終末に出現する偽預言者に対してどんな具体的備えをしていることになるのだろうか。偽預言者への対応を、彼はどう定義しているのだろうか。偽預言者を研究の見本として教会に招聘し、信徒への悪影響の度合いを調べることが、まさかカルト専門家の仕事だというわけではあるまい。

 偽預言者、偽教師と判明している教職者がいても、絶縁しようという考えを持たない教団や、牧師には注意が必要である。聖霊を汚すもの、聖絶のものときっぱり縁を切ろうとせず、教職者の不祥事の責任追及をせず、教職者同士かばい合い、馴れ合い、しかるべき犠牲を払って、自分の聖さを保とうとしないような指導者は、背教を助長しているのである。そのような指導者を、どうして信徒は信用することができるだろう。

 聖書は教えている、「あなたたちは、いつまで迷っているのか、神を選ぶのか、バアルを選ぶのか、はっきりしさない!」
 現代のキリスト教界に何よりも必要なのは、悪事や罪ときっぱり関係を断つことである。

 「主を恐れるとは悪を憎むことである。
 わたしは高ぶりと、おごりと、悪しき道と、
 偽りの言葉とを憎む。」

 高ぶりと、悪しき道と、偽りの言葉を憎むどころか、それを糾弾もせず、うやむやにし、むしろ助長するような人間に、神への恐れはない。

 一方ではカルトを取り締まると言いながら、もう一方ではカルトを甘やかし、不誠実な教職者を甘やかし、悪事をうやむやにし、ただ被害者だけに重い負担を負わせるような教会にとどまっていても、カルト被害者が苦しみから救われる日は決して来ないと私は思う。そのことに早く気づき、どうか一刻も早く安全なクリスチャン生活を取り戻されたい。


キリスト教界に広がる疫病としての「霊の戦い」

 中断していた個人預言に関する記事を続けるために、その前置きとなる記事を書いて置きたい。
 
 以前に書いた記事の中で、私は、聖霊派の最新流行の教えを、まるでごった煮のように混ぜ合わせて無批判に礼拝に取り入れる傾向にあったアッセンブリー教団の中で、私の母教会には、個人預言は取り入れられなかったと書いた。だが、じっくりと記憶を辿っているうちに、今まですっかり忘れていたある事件が記憶に浮かび上がってきた。

 確かに、N教会のT牧師が率先して個人預言を取り入れることはなかった。だが、私はその教会で個人預言の弊害を実際に体験していた。にも関わらず、それをすっかり忘れていたのは、N教会に関する否定的な記憶の中でも、とりわけ意味不明だったこの事件を、どう解釈してよいか分からず、当惑の中で、できれば忘れ去ろうとしていたからだろう。

 私が通っていた当時のN教会は、高齢化に見舞われていた。日曜学校にも子供は少なく、信徒の間には、愛に基づいた温かい心の交流がなかった。数少ない青年たちの間にも、よそよそしい交流しかなく、教会に古くから通っている信徒たちは、親族グループ毎に、派閥を形成して、時に対立していた。要するに、人を呼び込む魅力となるものが、この教会には何もなかった。

 聖霊派の礼拝スタイルは、人気歌手のコンサートか何かのように騒がしく、熱狂的なことで知られている。しかし、高齢化したN教会はその例外であった。N教会もやはりアッセンブリーの最新流行を追いかけるべく、騒がしい賛美歌その他を色々と取り入れてみたのだが、そのかいもむなしく、N教会の礼拝温度は一向に上昇することはなかった。

 N教会ではよく伝道集会が開かれ、その度ごとにゲストの講師が招かれていた。が、いつも教会の集客能力の低さだけが暴露される結果に終わった。未信者の出席率は限りなくゼロに近く、講師はいつも伝道用のスピーチ原稿を信者向けに急遽、変更を迫られた。
 それだけでなく、幾人もの講師が、しらけきった会場に我慢がならなかったのか、集会が始まると同時に、講壇から、さらに会場をしらけさせるような呼びかけを行った、
「みなさーん、ハレルヤですかぁ!? アーメンですかぁ!? 返事がない!! もっと大きな声で、さん、はい、ハレルヤ~!!」。
 この馬鹿馬鹿しい台詞に付き合わされて、会場の温度が北極並みに冷え込んだことは言うまでもない。

 さらに、講師の中には次のように語る者もあった、「私たちが訪れる教会の中には、講壇に立った途端、背筋にぞっと寒気が上ってくるほど、会場の雰囲気が冷たいところもあるんですよ~。」それはおそらくきっと、N教会そのもののことを指した皮肉だったのだろう、そう解釈してもおかしくない現実があった。

 10代の終わりの日々、私は得るものが何もなくなったこの教会で、ただひたすら退屈と孤独を持て余していた。そこにとどまる理由は何もなかったのだが、その頃、我が家には、この教会から離脱する自由を私に黙って与えてくれるほどの、先駆的な意見の持ち合わせがなかった。「日曜礼拝を守るのは信徒の義務である」、「什一献金を守るのは信徒の義務である」などの数々の教えにとらわれて、教会を離脱することは罪であるかのように思い込まされていた。

 こうして、教会に愛想を尽かしながらも、教会にとどまるしかなかった頃のある日、突然、とびきり魅力的な若い娘が、N教会を訪れた。モデルのような長身に、腰まであるかと思われるストレートの美しいロング・ヘアをなびかせ、大型バイクで颯爽と教会に乗りつけた。アッセンブリーの他教会から来たそうだが、N教会では場違いなくらいに明るく、活動的な女性であった。

 礼拝中に彼女を初めて見た時、とても敬虔で魅力的な人柄に思われた。賛美歌を歌っている時、その人は、感情の高まりに合わせて両手を高く掲げ、目には涙すら浮かべている。そのような賛美スタイルは、聖霊派の教会では、少しも珍しくなくなかったのだが、能面のような表情で、信徒たちが死んだような礼拝を行うN教会のスタイルとはあまりにもかけ離れていたため、私は新鮮な驚きに打たれた。

 その後、青年部などで顔を合わせて、何度か話すうちに、私はこの女性が心から主を愛しており、その気持ちを率直に表現することができる人なのだと感じて、さらに好感を持った。私より年上で、ちょっぴり頼れそうなところも気に入った。何よりも若者らしい率直さ、あけっぴろげな感情表現が気に入った。彼女も、N教会の若者たちが気に入ったことを隠さなかったので、私たちには親しくならない理由はなかった。
 だが、腑に落ちないことが一つあった。なぜか初めて会話した時に、心の中に何らかの違和感を感じたのだ。「警戒しなさい」という呼びかけを心のうちに聞いたように思った。

 この新しい友人を得て、N教会青年部にはそれまでになかった交流が生まれた。礼拝後に、若者が思うまま集まって、好きなだけ賛美歌を歌うことができるようになった。型にはめられない自発的な信徒の交流が生まれ、有志が集まって、食べ物屋に出かけ、互いの家を行き来し、一緒に食卓を囲み、祈り、相談し、打ち解けて話し合った。この率直な交わりこそ、私は待ち望んだ信徒の交わりであると思って、心から嬉しく思った。

 だが、次第に、この新しい友人がどのような教えの影響を受けているのかが明らかになった。彼女はペンテコステ運動の様々な流行を追いかけており、海外から招かれる宣教師の大会に通ったり、その筋の書物に盛んに目を通し、新しい教えの影響を受けていた。悪霊追い出しの祈り、病気の癒し、奇跡、霊の戦い、預言、FGBFMIの活動…、そういったものの存在を、私はN教会の信徒からでなく、誰よりも彼女を通して知らされた。

 そこには新しい宣教のスタイルがあった。従来の力を失ったキリスト教(=私には特にN教会の死んだような礼拝がその典型に思われた)に対する強力なアンチ・テーゼがそこにあるように見えた。力のない惰性的な礼拝の代わりに、力ある奇跡の業が提唱されていた。イエス時代の奇跡が、現代にも起こりうることを宣教師たちは確信し、驚くべき回心の物語を証として語っていた。
 美しい音楽と、いつまでも浸りきっていたいような、高揚感のある、洗練された集会のスタイルがあった。病や、悪霊の影響や、様々なとらわれからの解放などの、人の心を喜ばせる材料が盛んに提供されていただけでなく、何よりもそこには、何か新しい、これまでにない、未曾有のことが起ころうとしているという期待感があった。この新しいスタイルは、若者を引きつけるのに十分な要素を持っており、生気の抜けた教会にうんざりしていた私の目を引いた。

 いくつかの宣教師の大会に、私は彼女と他の信徒とともに出席した。だが、そのうちに、彼女は知り合いと共に、「主からいただいた預言」と称して、ノートに様々な事柄をびっしりと書き込んで持って来るようになった。その内容は、彼女の家族に関するものが多かったが、中には日本のリバイバルなどに関する預言もあったように思う。宣教師の大会の途中で、彼らがそれを神から与えられた預言と称して、講壇に提出したこともあった。宣教師は「預言は全て聖書に照らし合わせなければなりません…」と言って、その場で聖書を調べていた。
 彼女が授かったという預言の内容はあまりにも膨大で多岐に渡っていたため、私の興味をあまり引かず、私はそれを大して気に留めなかった。

 次第に、彼女はN教会の中で公然と、悪霊追い出しの祈りをしたり、病の癒しを求めて祈るようになった。新しい「霊的」な教えを彼女はN教会で実践し、問題を抱えた信徒たちのために祈った。この頃から、おそらく、N教会の信徒たちの一部は、彼女の行動を危険であると考えて、距離を置き、交流を断っていたのだろう。しかし私はそのことをどの信徒からも知らされなかったし、それに自分で気づくこともなかった。

 ある日、彼女はN教会の礼拝堂で、私のきょうだいが連れてきた友人に対して悪霊追い出しの祈りを始めた。その人に悪霊がついているという証拠は何一つなかったにも関わらず、彼女が強い口調で権威を持ってその必要性を主張したので、私たちは反対せず、その友人の面目をつぶしてしまっていることを後ろめたく思いながら、それでも悪霊追い出しの祈りに参加していた。

 そこへT牧師がたまたま通りかかった。牧師は憤った態度を隠そうともせず、言った、「きみたち、何をしてるんだ! もう遅いじゃないか(夕方の4時頃だった)、家に帰りなさい! 悪霊だって!? 何を馬鹿なことを言ってるんだ!? そんなものがここにいるわけないじゃないか!! 馬鹿なことはすぐにやめて家に帰りなさい!!」

 (後日付記   振り返れば、T牧師の牧会には不適切で納得のできない事柄が数え切れないほどあったが、それでもこの時は例外的にT師が正しかったと言える。だが、この悪霊追い出しに根拠がないことを指摘したT師も、ベニー・ヒンなどの流行の教えに傾倒して、自らクルセードに出席するために夫婦で海外へまで出かけて行き、甲子園ミッションの成功のために教会をあげて後押ししたりするような有様だったので、相当に教団の霊的ムーブメントに入れ込んでいたのだと言える。従って、この事件だけを引き伸ばしてT師の教えを擁護することは決してできないのである。どちらかと言えば、信徒らが未成年であったがゆえに、T師は、動の行き過ぎを懸念して注意したのだと見ることができる。

 この女性信徒は、当時、他教会の信徒とはいえ、アッセンブリー教団の公式な一員だったのであり、当時、彼女の入れ込んでいた様々な霊的ムーブメントも、アッセンブリー教団が公式に後押ししていたものであった。そこで、こうした見解は決して、一信徒の個人的な見解だと言えるものではなかったのである。さらに、そうした教えにT師自身も批判することなく深く関わっていたことを思えば、N教会の冷たい死んだように生気のない礼拝も、加熱して行き過ぎた霊的なムーブメントも、ともに対極にあるように見えながら、実は両方ともが、アッセンブリー教団の結んだ悪しき実だったとはっきり言える。

 結局、この事件もただ一人の信徒(しかも学生の年齢)の行き過ぎた活動という問題として片付けられるようなものでなく、過激な霊的ムーブメントを無批判に取り入れることにより、信徒を積極的に惑わせてきた教団側の無責任が引き起こした無数の実例の一つに過ぎなかったのであり、また、T師が教会内で青年伝道を正しく導くことができなかった結果として起きた出来事だったと言える。そこで、この事件は一人の信徒の責任だけに帰着させることはできず、また、これを持って当時のN教会やT師や教団を擁護する理由とすることも全くできないのである。)

 この事件を境に、彼女の態度が急変した。彼女はそれまでの友好的態度を捨てて、預言を通してつながっていた取り巻きと一緒になって、「T牧師の態度は間違っている。彼は私たちのミニストリーを妨害した。その誤りに対して、N教会は裁きを受けなければならない」と主張し、N教会を非難した。そして預言と称して、「N町はN教会の罪のために滅ぼされなければならない! 天からの火がN町に下るだろう!」と宣言した。

 今書くと、笑い出したくなるほど荒唐無稽な内容である。短大を卒業したばかりの年齢の若い娘が、悪霊追い出しの祈りを押しとどめられたことを理由に、N町がソドムと同様に滅びることを預言したのである。こんな内容を真に受ける大人がどこにいるだろう?

 しかしその頃、私は聖霊派の最新流行の教えそのものが、根本から誤っているという危機感を持っていなかった(数えてみると私は当時18歳であった)。彼女の言っていることが、あまりにも短絡的で、非聖書的であるということは感じられ、疑いを持ったが、それが完全な誤りであるとはすぐに確信できなかった。それはN教会で長年かけて、自分では納得できない事柄に、従順という名目で従わされてきたゆえの思考停止だったのかも知れないし、友人を失いたくないがゆえに真実から目を逸らそうとしたのかも知れない。

 いずれにせよ、彼女は私が彼らの預言の真実性を疑っていることを見抜き、私を仲間から除外した。私のきょうだいたちは依然としてぶっ通しの祈祷に連れて行かれた。N教会の信徒は、この時点で、多分、誰もがすでにこの現象の異常性を見抜いて、私たちを避けていたのだろう。教会の中には、誰一人、この若者グループに近寄る者もなかったし、必要な忠告をする者もなかった。 

 N町全体に対する滅びの「預言」には、日時もしっかり指定されていたので、私は一睡もせずにその夜を過ごし、翌日を迎えた。
 いつもと同じような朝が来た。それによって、この預言の偽りが暴露された。

 その後、彼女はN教会から姿を消した。それまでの活動が行き過ぎていたことを認める手紙を私は受け取ったが、言葉を返す気になれなかった。それから再会していない。何年も後になって、また別の宣教師の大会の会場でちらりと彼女の姿を見かけたように思う。

 この事件が何だったのか、長い間、私には理解できなかった。信徒の間に冷え切った交流しかなかったN教会で、せっかく気の合う信仰の友を見つけたと思ったのに、短期間でこの結果とは…。しかも、私は友人の無意味な言動に振り回された挙句、不安な日々を送り、ただ馬鹿を見させられただけで終わったのかと思うと、むなしさがこみ上げた。
 あの「預言」は何だったのだろう? あれほど心から神を礼拝し、清らかに主を賛美しているように見えた彼女の姿は何だったのだろう? 私たちが捧げたと思っていた礼拝やデボーションは何だったのだろう? 彼女とその取り巻き連は、神ではない、何者かの手下だったというのだろうか? 人を欺くために遣わされたというのだろうか? そんなことがあって良いだろうか? ジキルとハイドのような二重性がクリスチャンにあって良いものだろうか? いや、きっとあれは何かもののはずみのようなことであり、些細な間違いだったのだろう…。

 何もかも、考えても分からなかったし、それ以上、この問題を考えたくなかった。私は学生だったので、自分の学業に逃避して、この事件のことは忘れ去った。

 キリスト教会で危険な目に遭う、キリスト教会でクリスチャンに騙される、偽りの預言や、悪霊追い出しのために人生を狂わされる、そんなことが起きようとは、その頃、私には考えることもできなかった。N教会への失望はどうしようもなく膨らんでいたが、それは単にたまたま私の通っている教会が魅力に乏しかったためであると思っていた。もしN教会を離れて、自由に教会を探せるようになれば、もっと質の良い教会を見つけることができるだろうと私は思っていた。まさか、キリスト教界全体に誤った教えが怒涛のように流れ込み、数え切れない教会で異変が起き、腐敗が起こっているのだとは、想像することもできなかった。

 私は前述の彼女の一件を、極めて特殊な例外的事例であると解釈した。車の事故が起こったからといって、全てを車体の構造的欠陥のせいにできないのと同じく、腐敗した教会や、誤りに走った信徒が現われたからといって、教えそのものが間違っているとまで極言はできないだろう…。

 私は依然としてキリスト教界の中に正しい教えを探し求めた。宣教師たちの大会を巡り歩いたり、著書を読み漁ったりもした。驚く人もあるかも知れないが、貿易センタービルの事件が起こったその日の午後、私はN教会が盛んに後押ししてきたベニー・ヒンのクルセードに参加していた。もっとも、ベニー・ヒンは大会直前に「悪天候のためパイロットの判断により」来日しないと表明しており、チョー・ヨンギ氏その他が講壇に立っていたのだが…。

 アッセンブリーを去り、聖霊派の全てのイベントから遠ざかり、教界が私の人生にもたらしたはかりしれない弊害をやっと冷静に見つめられるようになった今、ようやく、私はかつての友人との事件のことを思い出した。そして、あれは彼女だけの判断ミスや、偶然ではなく、まさにペンテコステ運動の最新流行の教えがもたらした確実な実であったのだと理解した。彼女が誤った行動に至ったのは、聖霊派の教える「霊の戦い」を忠実に実行した結果だった。

 ペンテコステ運動の柱の一つである「霊の戦い」の教えに、何かしら致命的な欠陥が含まれているということは、以下に記すように、その教えの信奉者たちが、日本全国、至るところで非常識な問題ばかりを引き起こしているのを見れば、一目瞭然である。近年、キリスト教界の中で、悪質なカルト化に陥り、訴訟にまで発展している教会が複数あるが、その中には、「霊の戦い」に影響を受けて後、ひどく過激化し、常軌を逸した牧会活動を繰り広げるようになった例が散見される。

 現場で起きる事故の全てが、必ずしもプロジェクトの盲点や、欠陥を示しているわけではない。現場だけで起こった判断ミスの場合もあるだろう。だが、もしも現場で、類似した構造を持つ事故が、おびただしい回数、繰り返されているならば、それは必ず、プロジェクトそのものに人為的なミスが含まれていることを意味する。

 数年前に世間を騒がせたあの「真光元」の事件にそっくりな現象が、今、キリスト教界に多数、起きている。カルト化教会の指導者が、重病を患っているクリスチャンに、信仰だけに寄りすがって、奇跡的な治癒を求めて祈るよう促し、医学的治療を拒否させて、悪霊追い出しの連続祈祷などを行わせた挙句、患者を死亡させたり、重度の障害に至らしめるなどの事件が多発している。(たとえば次のサイトに転載されているAERA 2008年7月28日号の記事を参照。)
 さらに、霊の賜物を行使する名目での、個人預言の弊害もおびただしく報告されている。

 このような事件の数々を見るならば、ペンテコステ運動の教えである「霊の戦い」に影響を受けることが、どれほど危険であるかがよく分かるだろう。ペンテコステ運動に対する疑問の声は昔から今に至るまで絶えないが、注意しなければならないのは、この運動だけではない。今日、まるで疫病のように世界的規模で背教が「主の家」に浸透しており、今ほどしっかりと目を覚ましていることが必要な時代はない、というのが私の実感だ。

 私は以下の記事やコメントの中で、特定の教団や教会をターゲットにして何らかの反対運動を繰り広げるつもりはないし、いたずらにキリスト教界を敵視したり、蔑視したりするのも良くないということを述べてきた。
 だが、かといって、誤った教えに対して過度の寛容は禁物だ。悪魔と馴れ合うことなど人にはできない相談だからだ。そこで、これまで繰り返してきた忠告を、もう一度、繰り返そう。

 善良なクリスチャンは、キリスト教界からは即刻、離れた方が良い。そこにはあまりにも深く背教が浸透しているからだ。教界の腐敗に気づくのが遅れたために、私はここに示した事件とは比較にならないほど、もっと大きな事件に巻き込まれねばならなかった。しかも、そのカルト化教会はペンテコステ運動の影響下にはなかった。
 誤った教えを信奉する団体からは、できるだけ早く離脱しよう。何かが起こってからでは遅すぎるのだから。


霊を試して出所を見分ける必要性―肉を喜ばせる偽りの預言の特徴―

何のために聖霊の賜物を求めるのか

 「個人預言」を売り物にするミニストリーに限らず、今日、特にペンテコステ運動に関わりのあるクリスチャンの間では、聖霊の賜物を肉的な思いでコントロールし、自己充足的に使おうとする欲望が強く働いている。
 ペンテコステ・カリスマ運動の出発点となっている聖霊による満たしや、異言を語ることに対しても、広く誤解が広まっている。ある種のクリスチャンは、異言と聖霊の満たしに異様なこだわりを見せ、霊的な賜物を異常に強調するという誤りに陥っている。彼らは聖霊のバプテスマとそのしるしとしての異言をまるでクリスチャン全員の信仰生活に不可欠な通過儀礼であるかのように扱い、聖霊の賜物を特権のようにひけらかしたりしながら、ダイナミックな聖霊の現わればかりを求める一方で、日々主の掟を守り、貧しく困った人々に具体的な助けを差し伸べ、隣人を愛し、人に仕えて謙遜に生きるという地道な信仰的努力をおざなりにしている。

 このような聖霊の賜物への偏った異常なこだわりの根底にあるものは、神が恵みとして人に与える賜物を、人間の欲望によってコントロールしたいという願いである。つきつめて言えば、超常的な力を自在に我が物としたいという人間側の欲望が、出所不明な「霊の賜物」も含めて、霊的な現象への殺到を引き起こしているのである。そのような悪しき動機に突き動かされた人々は、稀有な霊的賜物をぜひとも手に入れたいと渇望し、そう望むことが「信仰的」であると誤解し、特別に神の臨在を感じられるような非日常的体験や、奇跡を熱心に求めて、それにあやかることで、特別に、個人的に、神との一体感を得られると考えて、霊的現象を強調する数々の集会に参加している。

 だが、神の尽きるところのない知恵や超常的な力を人間が我が物とし、自分の思惑に沿って自在に利用できるようになりたいという人間の欲望は、アダムとエバが楽園から追放されるきっかけとなった動機と同じく、むさぼりや、罪へとつながるものである。人間が宿命として定められたむなしい土の器を捨てて、さまざまな知恵や力を帯びることによって、神に近づき、神と一体化しようとする試みは、決して成功することなく、ただ滅びへとつながっている。

 キリスト者のうちにおいては、十字架を信じたその瞬間から、土の器なるその人の肉体を宮として、聖霊が住まわれるのであり、私たちはこの確信に強く立って、内なる聖霊に耳を傾ける姿勢を保ち、自己の外なる現象を通して、神との一体感を味わおうとするような誤った欲望を退けるべきである。

 「愛を追い求めなさい。また、霊の賜物を、ことに預言することを、熱心に求めなさい」(コリント第一14:1)と聖書は教えている。だが、クリスチャンが霊の賜物を求めることは、ここで言われているように、神と人への愛が動機となるべきであって、利己心に基づいて行われるべきことではない。聖霊の賜物は、あくまで、神と人に仕えるためにそれを用いるように与えられるものであり、稀有な賜物をひけからして自己満足したり、己が思惑通りに、世の中や人々をコントロールするために力を行使することが目的であってはならない。
 だが、現代という終わりの時代にあっては、聖書が幾度も警告しているように、巧妙な方法でキリスト教に偽装が入り込み、霊の賜物に関しても、偽装が進んでいる。「神と人に仕える」と標榜しながら、その実、利己心を満たし、多くの人々を自分に惹きつけて権力を得、ビジネス・チャンスを作るために活動している自称預言者が無数に存在し、数々の集会において、主から来たとは思えない出所不明の預言や「霊の賜物」によって人を惑わせているため、警戒が必要である。
 

 偽りの預言を見抜くために必要なことは何か

「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。<略>御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。」(ヘブル人への手紙1:1-3)
 旧約の時代、民は特別に立てられた祭司や預言者を通してしか神の御旨を知ることはできなかった。預言者が民全体に向かって、あるいは誰かに向かって、神の御旨を代理として告げた。民は自分で神と関わることはできず、とりなし手を必要としていた。

 だが、イエスの十字架を経て、新約の時代には、預言者を通さずとも、個々のクリスチャンはイエスの御名によって神に祈り、対話することを許された。では、預言の役割は終わり、預言者はいなくなったのかと言えば、そうではない。すでに引用したように、現代でも、個々のクリスチャンは、聖霊の賜物を求め、預言することを積極的に求めるべきだと教えられている。聖書を文字通りに読むなら、クリスチャンの誰もが預言をするように奨励されているとさえ言えよう。

 さて、預言とは一体何なのだろうか。広辞苑で引くと次の説明となる。
「キリスト教や啓示宗教で、神から預けられた言葉を人々に伝えること。また、その言葉。倫理的勧告や回心の呼びかけも含む」

 このように、預言とは、今日広く誤解されているように、他人や国家や社会の未来に起こることを予見し、ずばり言い当てるという占いのような行為のことを指しているのではない。そのような未来予言的な特殊な啓示も預言の中に含まれるとはいえ、その他にも、悔い改めの勧告や、悪事から離れるようにとの勧めなど、主の御心を忠実に反映した内容を適宜に語ることが預言の概念に含まれていると見てよいだろう。
 従って、誰もが預言を熱心に求めるようにとの聖書の勧めは、クリスチャン全員が預言者になるべきだということを全く意味せず(聖霊の賜物に役割分担があることは明らかなので、信徒全員が預言者となることはあり得ない)、人生の諸問題に立ち向かう時、何が御心があるのかを一人ひとりが適宜に見分け、また、他人に対しても、しかるべき勧告ができるように、それぞれが御心を熱心に追い求め、理解できるようになり、人前でも証できるようになりなさいという意味であると私はとらえている。

 だが、今日、預言を熱心に求めるべきであるという聖句を自己流に解釈した結果、勝手に預言者を自称するようになった人たちがおびただしく存在している。自分で自分を預言者に任命した人たちである。だが、こうした偽預言者の登場は今に始まったことではない。聖書を読むならば、旧約聖書の時代からこのような偽預言者が数多く存在していたことが分かるだろう。
 今、偽りの預言に惑わされないために、何が必要なのだろうか。巧妙に偽装された偽りの預言を私たちはどのようにして見分ければ良いのだろうか。


偽りの預言の特徴その①
 平和や繁栄、解放といった人の耳に快い事柄を預言する預言者には特に注意が必要である。彼らは預言の内容が成就してからでなければ本物の預言者であることが証明されない。
 真実の預言は人を悔い改めに導き、神への畏れを起こさせて悪から離れさせるが、偽りの預言の内容は人の心を神ではなく己が願望の成就に向けさせ、肉的な欲望を助長し、利己的な成功を求めさせる。

 聖書に登場する預言者による預言内容のほとんどは、民に悔い改めを要求し、悔い改めなき場合、裁きが来るという不吉なものであった。「民よ、罪を離れ、悔い改めよ、さもなくばあなたたちは滅びる」というメッセージが、ほとんどの預言において中心部分をなしていた。このような内容は、貪欲に、好き勝手に生きている大衆にとっては、限りなく不愉快かつ耳障りであったことだろう。

 「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせるこれはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである。」(マラキ4:5-6)

 預言者エリヤは、イスラエルの民が己が罪業の報いとしての災いから逃れることができるように、民を悔い改めさせて、主に立ち返らせるために遣わされた。このように、預言者の主たる役割は、父(神)と子(民)とを和解させるために、その間にとりなし手として立つことであった。預言者は民に対して、神の戒めから遠く離れた罪を悔い改めるよう厳しく迫り、罪に対しては裁きがあることを警告し、決して、人を喜ばせるためだけに祝福のメッセージを語ることはなかった。

 さらに、真の預言においては、義理人情も、上下関係も一切反映されておらず、ただ主への忠実さだけが問題にされていた。預言者サムエルが幼少期に初めて受けた啓示は、神に仕えながら神をないがしろにしている師匠エリの家に裁きが下るという衝撃的な内容であった。エリはサムエルの師匠であったにも関わらず、主からサムエルに与えられた預言の内容は、彼自身が語るのを恐れるほど、人間的な思いとはかけ離れたものであった。

 他の預言者の例を見ても、預言内容はやはり衝撃的であり、人々を畏れさせるものであった。預言者ゼパニヤは、罪を犯し続けている民に向かって、開口一番、言った、「主は言われる、『わたしは地のおもてからすべてのものを一掃する』」(ゼパニヤ書1:2)。預言者ハガイは民の不信仰と利己主義を非難して言った、「主の家はこのように荒れ果てているのに、あなたがたは、みずから板で張った家に住んでいる時であろうか」(ハガイ書1:4)。マラキは言った、「『子はその父を敬い、しもべはその主人を敬う。それでわたしがもし父であるならば、あなたがたのわたしを敬う事実がどこにあるか』<略>わたしはあなたがたを喜ばない、またあなたがたの手からささげ物を受けないと、万軍の主は言われる」(マラキ1:2-5,10)。ヨナはニネベの人々に呼ばわった、「四十日を経たらニネベは滅びる」、「物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかも知れない」(ヨナ3:4-9)。

 こうして預言者たちは神に対する人々の不従順を厳しく責め、滅びを予告した。しかしその一方で、人々が預言者の言葉に真摯に耳を傾け、罪を悔い改めた場合には、ニネベの街のように、裁きと滅びの預言は撤回され、人々の心に慰めがもたらされた。預言者が個人的に人々から金銭を受け取って、それを代価に預言したり、滅びを撤回したりしたことはなかった。

 さて、預言者たちが避けて通れなかったもう一つの重要な役割は、彼らの預言とは全く異なる内容を告げる偽預言者たちとの対決であった。エリヤは450人のバアルの預言者と、たった一人で驚くべき対戦を行って、450人の偽預言者を打ち破り、自分が正しい預言者であることを証明した。
 エレミヤは、バビロン捕囚という苦しみが、イスラエルの民の放縦への裁きとして与えられたものであり、民はそれを甘んじて受け、他国に仕えることによって心砕かれ、謙らなければならないという主からのメッセージを受け取った。そして、それに反するような預言があれば、偽りであるから聞いてはならないということを民に警告せねばならなかった。彼は言った、「主はこう仰せられる、『見よ、主の宮の器は今、すみやかに、バビロンから返されてくる』とあなたがたに預言する預言者の言葉を聞いてはならない。それは、彼らがあなたがたに預言していることは偽りであるからだ」(エレミヤ書27:16)。

 これに対し、ハナニヤという預言者が現われて、エレミヤの預言に真っ向から対立する内容を民に告げた、「主はこう仰せられる、『わたしは二年のうちに、このように、万国民の首からバビロンの王ネブカデネザルのくびきを離して砕く』」(エレミヤ28:11)。ハナニヤは、バビロン捕囚は速やかに終わり、民はこれ以上、苦しめられることなく、解放されることを主が望んでおられると告げた。捕囚がこの先ずっと長引くと宣言したエレミヤの預言よりも、速やかな解放を告げるハナニヤの預言の方が、よほど民の耳には心地よく響いただろうことは想像に難くない。

 エレミヤは、平和や解放を告げるハナニヤの預言に慎重になるよう人々に警戒を呼びかけた、「今わたしがあなたとすべての民の聞いているところで語るこの言葉を聞きなさい。わたしと、あなたの先に出た預言者は、むかしから、多くの地と大きな国について、戦いと、ききんと、疫病の事を預言した。平和を預言する預言者は、その預言者の言葉が成就するとき、真実に主がその預言者をつかわされたのであることが知れるのだ」(エレミヤ書28:7-9)。

 ハナニヤの耳障りの良い預言は、エレミヤの予想の通り、成就することはなく、彼の預言が偽物であることが時間と共に明らかになった。ハナニヤの預言は民の心に悔い改めや反省を引き起こさず、むしろ、自己安堵とおごりを助長し、それぞれが勝手に思い描いた解放の夢に熱中させることで、父なる神から遠ざけてしまった。それゆえ、彼の預言は神へのさらなる反逆をそそのかす効果を持っていたのである。

 エレミヤは、偽りの預言に対する責任のために、ハナニヤは死ななければならないと告げた、「ハナニヤよ、聞きなさい。主があなたをつかわされたのではない。あなたはこの民に偽りを信じさせた。それゆえ主は仰せられる、『わたしはあなたを地のおもてから取り除く。あなたは主に対する反逆を語ったので、今年のうちに死ぬのだ』と」(エレミヤ28:15-16)。
 偽の預言に対する責任がどれほど厳しいものであったか、私たちはこの事件から知ることができる。エリヤを打ち負かそうとした450人のバアルの預言者も皆殺しにされたことを思い起こしたい。

 さて、ハナニヤの例に限らず、エレミヤ書を見ると、当時、平和や安産や商売繁盛など、民を喜ばせるような内容ばかりを語っていた偽預言者たちに対して、厳しい警告が発せられている。当時の多くの預言者たちは、お布施を少しでも多く取り、利得をむさぼろうと、民を喜ばせるような預言を好き勝手に語っていた。そのような偽預言者の言うことを決して聞いてはならないと、エレミヤは人々に警告し、偽預言者に対しては、主の厳しい裁きを予告した。

「『それは、彼らが、小さい者から大きい者まで、
みな不正な利をむさぼり、
また預言者から祭司にいたるまで、
みな偽りを行っているからだ。
彼らは手軽にわたしの民の傷をいやし、
平安がないのに『平安、平安』と言っている。
彼らは憎むべきことをして、恥じたであろうか。<略>
それゆえ彼らは倒れる者と共に倒れる。
わたしが彼らを罰するとき、
彼らは倒れる
』と主は言われる。」(エレミヤ書6:13-15)

「『あなたがたに預言する預言者の言葉を聞いてはならない。
彼らはあなたがたに、むなしい望みをいだかせ、
主の口から出たのでない、自分の心の心の黙示を語るのである。
彼らは主の言葉を軽んじる者に向かって絶えず、
『あなたがたは平安を得る』と言い、
また自分の強情な心にしたがって歩むすべての人に向かって、
『あなたがたに災いはこない』と言う』」(エレミヤ23:16-17)

「『預言者たちはわたしがつかわさなかったのに、
彼らは走った。
わたしが、彼らに告げなかったのに、
彼らは預言した。
もし彼らがわたしの議会に立ったのであれば、
わたしの民にわが言葉を告げ示して、
その悪い道と悪い行いから、離れさせたであろうに。』」(エレミヤ23:21-22)

 こうして、エレミヤの時代、祭司も預言者も偽りの「預言のミニストリー」に携わり、そこから不正な利益をむさぼっていたことが分かる。預言は一大宗教ビジネスと化し、金儲けのために、聖職者たちは率先して、「主はこう仰せられる…」と言うフレーズを用いて、民を増長させるような内容ばかりを語っていたのである。だが、それは、自称預言者が勝手に作り出した幻に過ぎなかった。彼らの預言は、人々の心を父なる神に向けさせず、おのおのが思い描いた勝手な幻に夢中にさせることによって、神の御心からさらに遠く引き離した。

 私たちは日頃から、何を信じ、何を信じないか判断する基準として、自分の感情を頼りにしてしまっている場合が多い。自分の心に衝撃をもたらすような不吉な予言にはおのずから警戒態勢を取る一方で、自分の心に慰めや高揚感をもたらすような予言にはあっさりと心を開いてしまい、そこに弊害があるということに気づきにくい。

 しかし聖書は、平和への預言にこそ注意しなければならないと教えている。人の心を喜ばせる、耳障りの良い、なめらかな言葉の裏に、その人の魂を増長させ、滅びに導くような毒が隠されている場合があるからだ。
 ジョン・ビビア氏は先に挙げた『主は本当にそう語られたのか?』の中で、人々が偽りの平和や繁栄を約束する預言をあっさりと信じてしまう理由についてこう述べる。

 「それは、心の秘密に根ざしています。つまり、私たちがあのような"ことば"を受容するのは、それが心の中に隠された願いや動機を満足させるからです。つまり、あの種のことばは、自分の利益や昇格を願う肉的な欲望を満足させるのです。そのことに気づかないまま、いつのまにか私たちは、パリサイ人が願った報い――人にほめられ、認められ、豊かで快適な暮らしを送ること――を、自分の願いとするようになるのです。こうして、私たちは永遠の報いを見失い、一時的なものを受け入れてしまうのです。このため、本物と偽物とを見分ける能力が機能しなくなるのです。」(p.112)

 つまり、前述のエレミヤ書23:16-17にあるように、偽りの預言に騙される信徒たちは、心にある致命的な弱点を抱えている。彼らは「主の言葉を軽んじ」、「自分の強情な心にしたがって歩」んでおり、目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢に簡単になびいてしまうという性質を持っている。このような人々は、主の御心に沿って、貧しく、苦難を経てでも、心打ち砕かれて、地道に忍耐を養うことよりも、自分の肉の欲を手っ取り早く満足させてくれるような、お手軽な成功に心惹かれるのである。

 そのような利己心、むさぼり、野心などが敵に利用される弱点となって、彼らはキリスト教に偽装された詐欺の手口に簡単にひっかかる。「主は大きなビジネスチャンスをあなたに与えておられます。金銭のことは心配せずプロジェクトに踏み出しなさい」とか、「神は稀有な成功をあなたに約束しておられます。夢へ向かって勇気を持って踏み出しなさい」とか、あるいは、「この宣教計画にははかりしれない成功が約束されています」、「この国に巨大なリバイバルが起こると主は告げています」、「この教会は何千人もの信者を抱える大教会になるでしょう」などなどの、繁栄とむさぼりを助長する数々の偽りの言葉に心惹かれ、あっけなく騙されてしまう。それらの偽の預言は、主にあってつつましい生活を送ることを人々に損と思わせ、手っ取り早い成功や、名声を求めて貪欲に生きることを助長する。

 だが、ここですでに騙された人々だけを責める態度は間違いである。今日、肉の欲に惹かれるという弱点を全く持たない人間が一人でもいるだろうか。私たちは自分たちの弱さをかえりみて、決しておごることなく、自分の心を喜ばせてくれる他人の言葉にすぐに影響を受けないよう、よくよく警戒を怠らないようにしたい。指導者の言葉や、集会で起こる現象など、目で見ることができ、耳で聞こえる外的な影響力に左右されて、そのような影響力の中に主の現われがあると信じ込むのでなく、しっかりと聖書に立ち返り、心を鎮めて、自己の内に住まわれる聖霊にこそ、静かに耳を傾ける姿勢を取りたい。

<つづく>