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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

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この世を無罪放免しキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の反聖書的活動②

2.この世の常識によってクリスチャンを罪に定め、クリスチャンを裁判にかけることで、キリスト教徒を弾圧し、霊と肉の秩序を転倒させることに喜びを見いだすカルト被害者救済活動の異常な支持者たち 
  
2-1.この世の不信者を動員して信者を恫喝して黙らせるカルト被害者救済活動の手口

さて、カルト被害者救済活動の根底に流れる異端思想については、別稿でも詳述する予定であるが、私は異端思想の総称を「東洋思想」と呼べるのではないかと考えている。

東洋思想は日本人には極めてなじみ深いものであり、それは神と人との断絶を認めないことから始まって、キリストの十字架における分離と切り分けを否定して、全体と切り離された個人というものを認めず、個人を「母なるもの(全宇宙)」や「全体」(社会、家族、国家、世論、空気、すなわち最終的には「この世」)の一部とみなす。

この思想は、人間が罪によって神と断絶したことを認めず、被造物の堕落を認めないので、神と宇宙は一つであり、人はこの宇宙と切り離されることなく、それに生まれながらに包含されるという考え方に貫かれており、そこで、宇宙には神が満ちているというとか、木や石にも神が宿っているとか、人も生まれながらに神であるとか、目に見えるものはすなわちみな神であるという汎神論的な考え方を生む。 
 
このような考え方は、見えるものすべてを高く掲げ、人間の罪や堕落といった考えを否定するので、人の耳には心地よく響くかも知れないが、結局、神と人との断絶を認めず、被造物の堕落を認めない思想は、個人を全体から分離することや区別することも否定して、人を堕落した「この世」に永久に閉じ込めて束縛し、決してそこから外に出そうとしない点で、恐ろしい思想なのである。
 
しかし、日本人は古来からこのような思想に慣らされているので、物心ついた時から、全体の中で自分が何らかの役割を果たすことによって、初めて個人としての評価を得られるという考え方をすりこまれている。

ゆりかごから墓場まで、日本人は、絶えず社会や集団における人間関係のヒエラルキー、縦の序列の中で、自分よりも強い立場にある人間に積極的に奉仕し、権威者から覚えめでたい人となり、優秀だという評価を得なければ、自分が人としての価値を失うかのような恐れに縛られて生きている。そのような恐れを人に抱かせるためのシステムがこの世に出来上がっている。

そこでは、個人の尊厳というものが、社会全体においてその個人が果たす役割(あるいは貢献度)を基準としてはかられるのが当然視されているため、個人の尊厳というものが、そもそも他者によって外から評価されたり付与されるべきでなく、個人の尊厳とは、個人が生まれながらにして持っている絶対的な価値だとみなす考え方がないに等しい。

このようなシステムに従って生きている人は、集団と切り離されたところで、集団の中で何の役割も担わない個人というものを考えることができず、自分の価値を、自分を取り巻く集団における自分の有益性という外側からの評価と切り離して考えることが極めて困難である。
 
そこで、ほとんどの人は、外面的な評価を得るための競争に絶えず踊らされながら、大変な努力をして何かを達成しても、それによって満足することもなく、さらに多くの人々を凌駕して、さらに多くのものを手に入れなければ、自分の価値を確信できないという不安と焦燥感に追い立てられている。

クリスチャンは、曲がりなりにも、このような弱肉強食の世が堕落しており、この世で尊ばれているものに価値がないこと、また、人間が堕落した罪深い存在であり、キリストの救いを信じることなくしては、神と断絶していることを知っている。そして、キリストの十字架を信じることにより、信者が罪から贖われ、キリストの義を着せられ、堕落した「この世から召し出された」ことを知っている。この召し出された人々が、神の教会なのである。

召し出された人々は、この世の価値観とは違った価値基準によって生きている。神を信じる以前のように、この世の人々からどう評価されるかという恐れに縛られ、人の目により評価されるべく努力して生きるのではなく、神の目に喜ばれ、評価されることが、クリスチャンの新しい人生の目的である。
  
クリスチャンは世から召し出されたがゆえに、自分がこの世からは激しい憎しみの対象となっていることをも知っている。この世の君は、「空中の権を持つ君」、すなわち、サタンであり、この世の世論、社会の動向、世界の情勢、目に見える世界を直接、支配しているのは、悪魔なのである。しかし、この世にあるものは、必ずしも人の目にすべて悪く見えるものばかりでなく、良識や善と見えるような、良さそうなものも多く含まれており、こうした見せかけの偽善的な道徳や、見せかけの良識を巧みに利用しながら、悪魔はこの世という巨大な偽りの体系を築き上げているのである。

生まれながらの人々は、この世という体系が偽りであり、堕落していることを理解できない。たとえ何かがおかしいと気づいたとしても、罪のゆえに、彼らはこの世の奴隷とされており、死の恐怖のために逃げ出すことができない。

しかし、クリスチャンは、この世の暗闇の圧政から救い出されて、キリストの霊的統治のもとに置かれているため、悪魔がその支配を及ぼすことのできない領域にいる。それゆえ、信者は暗闇の勢力と彼らの支配する「この世」からは激しい憎しみの対象となっており、暗闇の勢力は何としても、この世から召し出された信者を、再びこの世の奴隷に戻そうとたくらんでいるのである。

聖書は、再三に渡り、信者がキリストにあって自由を失わず、キリストの復活の証人として立ち続けるためには、この世を愛してはならず、この世と妥協してはならないと警告している。しかし、この世を愛するとは、単にこの世の富を愛するだけでなく、世からの評価(自己の栄誉)を愛することをも意味する。
 
もし信者が神がどう自分を評価されるかを気にするのではなく、人の目に自分がどう評価されるかを気にして、この世の人々の批判を恐れたり、人から良い評価を受けたいがばかりに、外面を取り繕い始めると、早速、その人は神に対して生きるのではなく、世に対して生きる者となってしまう。

さて、カルト被害者救済活動に携わる人々は、クリスチャンを信仰の道から逸らすために、「この世」を巧みに利用して、クリスチャンを糾弾する「世論」を作り上げた。そして、この偽りの世論によって信者を圧迫することによって、信者が神ではなく、人(不信者)の目を恐れ、世間の評価を気にしながら生きるように仕向けているのである。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師や、杉本徳久氏のような、カルト被害者救済活動を主導する人々は、「キリスト教界のカルト化問題に警鐘を鳴らす」ことを口実に、キリスト教の信仰を持たない不信者を積極的に動員しては、キリスト教に対する世間の批判的な世論を形成し、キリスト教に対する憎悪と偏見を煽り、裁判などのこの世の強制力を用いて、教会に強制的に介入することを肯定し、「疑わしい」とみなしたクリスチャンを次々とバッシングしたり、裁判にかけることによって、不信者らをクリスチャンに対する弾圧に駆り立てている。

カルト被害者救済活動は、当初、キリスト教界の不祥事の犠牲となった人々を救済することを目指していたが、今やこの活動は、キリスト教そのものに対する憎しみに満ち、キリスト教に対して恨みや被害者意識を持つ人々で溢れかえっている。こうした人々が勝手に「被害」を主張しては、クリスチャンを次々弾圧しているのが現状である。
 
当ブログで悪質な嫌がらせ工作員として紹介している「さわやか読者」も、カルト被害者救済活動に強い影響を受けた人々から成っているが、この人々は実際にはキリスト教のことを何も知らず、関係者でもなく、部外者でありながら、キリスト教に対する憎悪と不信感から、信者を攻撃しているのである。

このような部外者を積極的に集めては、キリスト教に対するネガティブな世論を作り上げ、それをきっかけに、キリスト教徒への弾圧に乗り出し、自らの活動の需要を世間に訴えて、活躍の場を作り出そうとしているのが、カルト被害者救済活動に携わる人々である。

彼らはキリスト教界の不祥事を大々的に発表し、自ら世間におけるキリスト教のイメージを貶めておきながら、もう一方では、「キリスト教のイメージが世間で低下したので、これを正さなければならない」と言って、キリスト教界を力づくで自分たちの活動の支配下におさめようとする。

こうした活動は明らかにマッチポンプであり、彼ら自身が、自らの活動の需要を作り出すために、キリスト教界のイメージを限りなく貶めているのであり、さらに、信者をこの世の不信者らの圧力の下にひれ伏させるために、キリスト教を非難し貶める世論を作り上げ、本物の信者らを、彼らの作り出した世論に怯えさせ、彼らに従わせようとしているのである。

そのために、至る所で、ほえたける獅子のように暴れまわっては、クリスチャン・ブロガーなどに圧力を加え、信者を裁判に引きずり出し、信仰告白をやめさせ、神を信じ、御言葉に従う人々の信仰生活を妨害しているのである。
 
こうして、不信者によって信者を取り締まること、この世の霊的盲目にある人々を利用して、信者を恫喝し、怯えさせて黙らせて、神の霊的統治に関する事柄を、この世の悪魔的統治の支配下に置き、目に見えるものと見得ないものの秩序を逆転し、霊と肉との秩序を逆転させ、悪魔的統治を教会の上位に据えることこそ、村上密氏が唱えていた「カルト監視機構」の発想の根底にある恐ろしい思想なのである。
   
堕落した世の影響を聖書の御言葉以上に高く掲げ、信者を御言葉ではなく「この世」の言い分に従わせようとする圧力に、信者は従うべきではない。いかに上記のような活動の支持者らが「この世の常識」をふりかざして、クリスチャンを断罪していたとしても、信者がその言い分に影響され、欺かれるべきではない。

信者が従うべきは聖書の御言葉であって、この世の常識や世論の動向ではない。この世にあるものはすべて神から来たものではなく、サタンこそ「空中の権を持つ君」であり、悪魔こそ、この世を牛耳り、世論を操り、何が正しいことであるか、真理を捻じ曲げて、虚偽をまことしやかに是認する空気を作り出し、多くの人々を惑わしている張本人なのである。

ちなみに、世間に波風立てないことを第一とし、組織の序列に逆らうことを許さず、人にとって耳障りなことは言わず、世の「空気」に逆らわないで、権威者を立てて生きることを奨励する「和の精神」が、人の目に良さそうに見えても、実際には、どんなに危険な思想であるかについては、以下の記事「東洋思想とは何か。その柱は何を再建しようとしているのか」でも少し触れているので、こちらを参考にされたい。 
 
さて、前の記事「カルト被害者救済活動の暴走 この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険➀」でも述べたように、クリスチャンは、人の言動の背後に、どういう霊的思想があるのかを鋭く見分けねばならない。キリストの御霊に導かれ、聖書の御言葉に基づいて、これを体現するために生きる人々もいれば、この世には、悪霊の思想を体現し、悪魔の欲望の実現を悲願として生きる人々も存在している。

聖書の御言葉の信用を貶め、その真実性を毀損しようとするすべての思想は、どんなに良さそうな口実を掲げ、この世の常識を装っていても、神から来たものではない。 それはすべて悪魔から来たものであり、反キリストの霊の仕業である。

そこで、「キリスト教のカルト化の危機」を唱えることにより、キリスト教そのものが何かしら不完全で危険なものであって、聖書の御言葉そのものに何か問題があり、御言葉に忠実に生きることが、あたかも「カルト的思考」であるかのように信者に疑わせようとする影響力には注意しなければならない。

キリスト教界に起きている不祥事は、信者が聖書から逸れたために起きたのであって、聖書の御言葉に問題があって引き起こされているわけではない。にも関わらず、不祥事をきっかけに、キリスト教そのものや、聖書の御言葉そのものに疑いを抱かせようとする思想がどこから来たのか、不祥事をきっかけに、キリスト教やクリスチャンを断罪し、罪悪感や、憎悪を抱かせようとするまことしやかな「世論」が、どういう目的で作り上げられたのか、キリスト者は見分けねばならない。
   
こうして一見、「キリスト教の改革」を目指しているように主張しながら、クリスチャンの世論に巧みに偽装して、その実、キリスト教と聖書の信用を貶め、御言葉の真実性を信者に疑わせるために、不信者によって作り上げられた偽りの世論に、クリスチャンは耳を貸すべきではない。そのような「世論」を気にして怯えるべきでもなく、そこで自分が批判されることを恐れるあまり、彼らと歩調を合わせるべきでもない。むしろ、こうした議論が、信者の関心を巧みに神ご自身から、人の思いへと(この世へと)逸らして行こうとするものであることを見抜くべきなのである。
   


 
2-2.匿名掲示板における不信者の議論にクリスチャンを引きずり込み恫喝する手法
 
さて、匿名掲示板で行われている議論にクリスチャンが注意を取られることがないように警告しておきたい。多くのクリスチャンが、当初は本気でキリスト教界の堕落を憂い、聖書に忠実な信仰生活に立ち戻ることを提唱していたが、彼らは不信者とのむなしい議論に熱中するうちに、全く違う方向へ逸らされてしまったからである。

彼らは、不信者の議論に気を取られ、時を追うごとにますますこれに深入りして行き、引き返せなくなって行ったのである。彼らを突き動かしていたのは、自分が人々にどう見られるかという恐れであった。この世の不信者たちの間でキリスト教が批判され、信者が批判され、自分が批判されているのを見ているうちに、自分たちの評判を取り返さなければならないという思いに駆られ、いわれなき嘲笑や批判を抑えるために、不信者を説得したり、彼らと交渉しなければならないという誘惑に駆られたのである。

いわば、外見を気にする保身の思いや、誤りを正さねばならないという義務感が、彼らをこのような議論に引き込んでいくきっかけとなったのである。しかし、そのようにしてクリスチャンを自らの信仰告白という最も重要な舞台から引きずり出し、この世の不信者たちのむなしい争いに満ちた議論の中におびき出し、それによって恐れさせ、がんじがらめに縛って行くことこそ、不信者の議論の真の狙いなのである。

このむなしい論争に気を取られ、深入りして行った人々は、唯一の道から逸れ、泥沼の訴訟に足を取られ、以前のような信仰告白を続けられなくなり、帰らぬ人となった。ルーク氏、山谷少佐、坂井氏の例についてよく考えて欲しい。たとえ彼らがあかしを続けているように見えても、そこには以前のような輝きが、以前、最も彼らが真剣に訴えようとしていた主張の核心がない。彼らは、骨抜きにされてしまったのである。

これが、匿名掲示板の狙いなのである。彼らの議論は、暗闇から来たものだが、闇によって光を駆逐するのが、その目的なのである。識者ぶってキリスト教を批判している不信仰な信者たちや、すでにキリスト教に愛想を尽かして部外者となった人々や、世にどっぷりと迎合している不信者らを巧みに利用して、本物の信者を攻撃させては、恫喝によって口を封じ、もしくは、自主規制させることによって、信者に「世の光」を掲げさせまいとすることが目的なのである。

キリスト教を批判することは、一見、キリスト教の改革のために必要な自己反省のようにも見え、そこに識者らのさまざまなもっともらしい理屈が加われば、欺かれる人も出て来るかも知れないが、その実、そこにあるのは、巧みに聖書の御言葉そのものを疑わせようとする誘惑なのである。

真にキリスト教を改革したいなら、聖書の御言葉に立ち戻ることにしか道はなく、聖書の御言葉への忠実な信仰そのものを疑いや批判の対象とするのでは、より深い混乱が生まれるだけである。
 
さて、このようにして匿名掲示板を利用して政敵を叩くやり方は、自民党も利用していることで有名であり、統一教会など新興宗教等のカルト団体も盛んに使って来た手口である。カルト被害者救済活動も、政敵を追い落とすために、まさにこの方法に頼ったのであり、不信者を動員して信者をバッシングすることによって、キリスト教徒を恐怖に怯えさえ、「世」の支配下に置こうとしたのである。

しかし、クリスチャンには、「この世」と交渉する必要性はない。逆に、この世の方がクリスチャンによって裁かれ、罪に定められ、赦しを乞わなければならない立場にある。「この世」は初めから悪魔の配下にあって堕落しており、罪を犯している。「世」を巧みに利用して、世に調子を合わせることにより、自分の身を守り、信仰者を圧迫し、迫害している人々は、神の霊によって生きているのではなく、悪魔を父としているのであり、これらの人々には、いずれ主の御手が置かれ、彼らは自滅することになろう。

クリスチャンの武器は、小羊の血潮と、自分自身のあかしの言葉である。それによって兄弟たちは悪魔に打ち勝つことができると、はっきりと聖書に書いてある。

そこで、世間で批判されたくないという恐れや、人に自分がどう見られるかという恐れから、信者が悪霊に導かれる人々と交渉したり、彼らに懇願したり、あるいは説得されたり、彼らの誤りに満ちた思想を正してあげようと努力する必要はない。

クリスチャンの使命は、日々、しっかりと自分の信仰告白を握って、主の御名を証し続けることにある。悪魔以上の執拗さを持って、神に向かって彼らの悪しき所業を糾弾し続け、正しい裁きを願い求めることである。そうすれば、「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴える者」は必ず「投げ落とされる」ことになる。

「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。

 私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」(黙示12:10-11)      



2-3.聖書に基づかず、この世の論理によって、自らの活動を支持しないクリスチャン・ブロガーを断罪し、信者を裁判にかけることにより、この世の支配下に置こうとする杉本徳久氏の活動の危険
  
さて、「世の常識」を味方につけて、「この世」の罪を無罪放免する一方で、クリスチャンを容赦なく断罪しては、懺悔を迫り、処罰することに悦楽を見いだすという、カルト被害者救済活動の支持者らの転倒して異常な特徴は、村上密氏だけでなく、同氏の活動を積極的に支持する人々に共通して見られるものである。

当ブログにおいては、村上密氏の活動に支持を表明している杉本徳久氏から送られて来たおびただしい数の恫喝の書簡を公開しているが、それも「キリスト教のカルト化の危険を訴える」ということを口実にして、その実、クリスチャンを貶めることを真の目的としている彼らの活動の危険性を明らかにするためである。
 
2009年頃まで、筆者は村上密氏や杉本徳久氏の主導するカルト被害者救済活動に公に反対を表明していなかったが、その後、この活動が根本的に聖書に反しており、行き過ぎた魔女狩りや異端審問へ結びつくだけの、キリストの十字架に敵対する誤った運動であることに気づいたため、杉本徳久氏に対して、筆者は直接、この活動にはもう賛成できないことを告げ、かつて筆者が同氏のブログに書き込んだ活動への賛同のコメントを削除してほしいと正式に依頼した。
 
その際、筆者は、教会のカルト化問題を解決する糸口は、クリスチャンの不祥事を次々暴露することにより、クリスチャンを断罪したり、法廷に引きずり出して処罰することにはなく、ただ信者が聖書に立ち戻ることにしかないと、聖書に立脚して説明したのである。

しかし、これが杉本氏から筆者や当ブログに対する多年に渡る嫌がらせのきっかけとなった。杉本徳久氏から帰って来た返答は、罵詈雑言の羅列と、筆者の言い分が、「思い上がって自己中心な」「市井で求められる良識からは外れた文面であ」るという同氏の決めつけだけであり、その思い込みだけを根拠に、杉本氏はそれ以来、今日まで約7年間に渡り、当ブログに対する様々な嫌がらせ工作を続けているのである。

このような異常な執念は狂気の沙汰としか言えず、クリスチャンを何としても苦しめ、弾圧したいという彼らの飽くことのない悪魔的欲望と、クリスチャンに対する呪いや執念のような尽きせぬ憎悪に基づいていることを筆者は感じざるを得ない。

ちなみに、杉本氏は以上に記したような自らの見解をブログ記事に記しており、同記事は当初、筆者に対する一千件のコメントを伴うバッシング記事として、同氏のメインブログ「随想 吉祥寺の森から」に掲載された。

だが、たった一つのコメントを削除してほしいと依頼しただけの筆者を、一千件のコメントを伴う記事によってバッシングしたことに対しては、さすがに杉本氏へ批判が集中したと見られ、その批判を受けて、この記事は同氏が執筆している別のブログ「神々の風景 -religious scene」に移し替えられた。

その上、今年に入ってからは、杉本氏の不安定な心理状態を反映するかのように、この記事は非表示にされたり、ころころと変更が加えられていたが、今のところ、再び公開されているようである。
  



杉本徳久氏が何度もアドレスを変え、さらには非表示にしたりと
同氏の不安定な心理状態を示す幾度もの変更を繰り返しながら、

 「神々の風景」に掲載している筆者に対する嫌がらせ記事。
「神々の風景」という題名からも、同氏がキリスト教徒としての
正常な信仰を持っていないことが明白である。

同氏はプロテスタントそのものを敵視するかのように、
自らのブログにプロテスタント信者を弾劾する記事を次々と掲載、
キリスト教のイメージを世間で貶めることに貢献して来た。
  自らの活動を批判する信者に対する訴訟を積極的に提起しては、
キリスト教徒への弾圧と迫害に臨んでいる。
このような人物がクリスチャンであるとは誰も信じないであろう。
信者を名乗りながら、キリスト教の破壊を試みている人物である。

 
ちなみに、この記事は標題が「東洋からの風の便り ヴィオロン」となっていることからも分かるように、杉本氏が当ブログに対する嫌がらせを目的に、故意に検索結果に表示されるように作成したものであり、その上、当ブログの内容を大量に無断引用しているスパム記事である。さわやか読者の記録にも示しているように、杉本ブログを熱心に支持する読者らは、同氏の書いたこの嫌がらせ記事が検索結果の上位に表示されるように、日夜、工作を繰り返しているのである。

つまり、彼らは聖書に基づく正常な信仰告白である当ブログを駆逐して、彼らの異常で悪意ある情報だけをネットに残すことを目的に、日夜、工作を繰り返しているのである。おそらくはこれまでにもこうした方法により、自分たちにとって好ましくないクリスチャン・ブロガーを次々に沈黙に追い込んで来たのであろう。
 
杉本徳久氏自身や、その読者らが、当ブログの検索結果を操作するために行った不法なアクセス集中の履歴は、次の記事や資料において公開している。

村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(前編)

村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(中編)

村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(後編)
 
    
しかしながら、筆者は上記の嫌がらせ記事の公開を好都合と考えている。なぜなら、これによって杉本氏に対する公の責任追及や反論がより容易になるからである。
 
まずは同氏が上記の記事を掲載しているブログの題名である「神々の風景」という象徴的な言葉に注目したい。この標題は、杉本氏がキリストの十字架を信じておらず、己を生まれながらに神とするグノーシス主義者であることを明確に物語っている。
 
クリスチャンであれば、「神は唯一である」ことを例外なく認めているので、決して「神々」という複数形を肯定的な文脈で使わない。「神々」の存在を認めることは、自分はクリスチャンではなく、唯一の神を信じていないと自ら告白するに等しい。神を複数形とした時点で、これは唯一の神に対する敵対であり、まことの神と、それを信じる者たちに対する一種の冒涜・挑戦だと言っても差し支えない。
 
杉本氏が「神々」という言葉によって何を指しているか具体的なところは不明であるにせよ(おそらくは自分たち唯一の神を信じておらず、キリストの十字架を否定する生まれながらの人間が「神々」であると言いたいのではなかろうかと推測するが)、いずれにしても、複数の神の存在を肯定した時点で、同氏がキリスト教の信仰告白の大前提となる「神は唯一である」という事実を否定していることは明白となる。

いかに同氏がカトリックなどの宗派の教会組織に公に属する信徒であったとしても、この事実は、同氏が内面においては実際にはクリスチャンでないことを意味するに等しい。
 
「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(Ⅰテモテ2:5)
  
さて、上記の記事で、杉本氏はカルト被害者救済活動を支持できないとする筆者の見解に対し、事実に立脚しない捏造された文脈で、筆者を罵倒しながら理不尽な非難を繰り返している。同氏は書いている、

 10日ほど前、彼女からのメールを受け取った。それは、

 http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/51884112.html

 2009年3月26日 「沖縄 トランスフォーメーション・グロース」 

 に「ヴィオロン」の名で書き込んだコメントを消して欲しいという依頼であった。しかし、そこには非常に思い上がった上に自己中心的な、彼女が経験した「回心」とその後の心変わりについての理屈が並べられてあった。市井の社会で求められる良識からは外れた文面であった。」

だが、この見解も、杉本氏自身の常識から外れた身勝手な思い込みと偏見に満ちた思考パターンをよく示すものである。

まず、杉本氏のブログに書き込んだコメントは筆者自身が書いたものであり、著作権も筆者にあるので、筆者から削除の依頼があったにも関わらず、杉本氏がこれを削除しない正当な理由が存在しない。にも関わらず、杉本氏は、自分の活動が支持されなくなったという事実そのものが認めがたいので、削除を拒否することを正当化するために、何とかして筆者に罪を着せようと、筆者を罵倒する文脈を捏造して考え出しているのである。


 
以上は杉本ブログに記載されている文面。
杉本氏は、筆者が答えてもいない事柄を、
勝手な決めつけによって
解釈しているが、
なぜそのような見解に至ったのかは不明である。

筆者が勧めたように、真理の御霊には聞かず、
悪霊に聞いて、そのような返答を得たと見られる。
 思い込みに基づいて発した言葉であっても
いずれその重い責任を問われる日が来ることを
誰よりも杉本氏自身が自覚しなければならない。


  
当ブログにおいては、筆者が杉本氏から受け取ったおびただしい数の恫喝書簡の文面を公開しているが、それを読むならば、「思い上がって自己中心な」、「市井で求められる良識からは外れた文面」を記しているのは、筆者ではなく、杉本氏自身であることが、誰にでもよく分かるであろう。

2010年10月5日付   杉本氏が唐沢氏に提訴の報告を求めヴィオロンの記事を罵倒したメール
2010年10月17日付 杉本氏が唐沢氏の提訴予告について進行状況を報告せよと恫喝したメール
2010年11月20日付 杉本徳久氏が唐沢氏の提訴予告について謝罪を要求した恫喝メール
2010年12月8日付   杉本徳久氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に提訴を催促した恫喝メール
2010年12月15日付 杉本氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に記事削除を求めた恫喝メール
2011年12月6日付   杉本氏がヴィオロンの個人情報を特定して恫喝して来たメール
2011年11月28日付   杉本徳久氏が、唐沢氏とヴィオロンに送りつけた恫喝メール
2012年1月1日付    杉本徳久氏がヴィオロンの個人情報を晒すブログ記事を示した恫喝メール
2012年1月22日付 杉本徳久氏がヴィオロンに実力行使に出ると恫喝したメール
2012年3月8日付  杉本徳久氏がヴィオロンに期限を切ってブログ削除を要求した恫喝メール
2012年3月9日付  杉本徳久氏からヴィオロンの返答に対する罵倒と恫喝のメール
2012年3月10日付   杉本徳久氏がヴィオロンに自分を提訴せよと恫喝して来たメール

2016年4月25日付 杉本徳久氏がメールフォームから投稿した恫喝メール
2016年4月30日付 杉本徳久氏がヴィオロンへの提訴をほのめかした恫喝メール
2016年5月2日付   杉本徳久氏がヴィオロンを提訴してやると恫喝したメール
  
 
上記の嫌がらせ記事もそうなのであるが、杉本徳久氏の文面には、読んでいて恥ずかしくなるほど、また吹き出したくなるほどに、他者に対する礼儀を一切わきまえない自己中心な決めつけと、安物のドラマから抜き出して来たような陳腐な罵詈雑言、偏見と一方的な被害者意識に基づいた根拠のない思い込み、そして恫喝が溢れている。

さらに、同氏は、そうしたメールの中で、あまつさえ、自分にとって気に入らない記事を筆者が削除しなければ、筆者の個人情報を無断で公開するという脅迫行為にまで及んでいる。こうした文面のどこが「市井で求められる良識」にかなうのであろうか。

杉本氏こそ、自分の言葉に照らし合わせて、自らの行為を振り返らなければならない。同氏の書いた文章は、子供の書いた作文のように幼稚であるだけでなく、完全にマナー違反であり、なおかつ、違法行為をほのめかすものであるという点で、犯罪的でさえある。

このような脅迫行為を自分が暗闇で行っておきながら、同氏は未だに筆者を一方的に「自己中心だ」とか、「良識を備えていない」かのように非難しているのだから、その倒錯した論理に自分でまるで思いが至っていない愚かさに呆れ果て、恐れ入るのみである。

また、杉本氏は書いている。

「また、彼女ががらりと立場を変えて非難し始めた私や独裁カルト牧師の被害者信徒たちのことについて記した最新の投稿を熟読した後、私は彼女にこれらあなたが非難している人物の中には明らかに私が含まれていると読み取れるがその認識で良いのかと問いただす返事を送ったところ、彼女は私に対して真理の御霊に全てを問い尋ねよと言い、非難の対象が私であることを書き送ってきたのであった。一度、自分の口から出た言葉は後から消すことができないということがわかっていない。もし、それがネット上のものではなく紙媒体の印刷物であれば不可能である。」

これもまた甚だしい虚偽である。杉本氏の根拠のない被害者意識に基づく妄想的な思考を顕著に表す文章であると言える。筆者は、杉本氏に対してただ「真理の御霊に問い尋ねよ」としか答えておらず、筆者の書いた記事の中に杉本氏が含まれているなどと回答したことは一度もない。

そして実際、当時筆者がカルト被害者救済活動を支持できないことを表明するために書いた記事「キリストの十字架以外に救いはない」には、一切、杉本氏の実名は登場していないのである。この記事はカルト被害者救済活動に対する筆者の立場を明らかにするために、あくまで一般論の立場から書かれたものであり、特定の人物を名指しで非難するようなことを目的としていない。そして、カルト被害者救済活動に携わっている主要な人物も、村上密氏のように、当時、杉本氏以外にも、複数存在したのである。

にも関わらず、杉本氏は、何の根拠もなく、さらには筆者自身も認めてもいないにも関わらず、これが杉本氏を名指しで個人攻撃するために書かれた記事であると勝手に決めつけ、それを根拠に、筆者に対する多年に渡る様々な嫌がらせに及んだのである。

一体、杉本氏はこの件について、筆者が同氏に勧めたように「真理の御霊に問い尋ねた」のであろうか? 多分、真理の御霊ではなく、悪霊に問い尋ねたのではないだろうか。そして、悪霊から、「それはあなたのことだ」という答えが返って来たので、それを信じたのではあるまいか。もしそうでないというならば、杉本氏の良心の呵責がそのように思わせたのに違いない。

いずれにしても、筆者はそのようなことを全く答えていない。にも関わらず、筆者が言っていないことを、杉本氏が聞いたというのであれば、どこから聞いたのかが問題となる。それは「真理の御霊」の声ではなく、悪霊の声に違いないと推測せざるを得ないのである。なぜなら、悪霊は嘘つきだからである。

こうして、杉本氏は思い込みや決めつけだけに基づいて、自己中心で身勝手な話を「創作」して行き、これを基に他者への誹謗中傷や嫌がらせに及ぶのだが、それにしても、「一度、口から出た言葉は後から消すことができないことがわかっていない」というのは、誰よりも同氏自身に向けられるべき言葉である。

ネット上でも、一旦、発した言葉は取り消すことは難しい。それは、当ブログにおいて公開している杉本徳久氏による恫喝書簡を読んでも誰しも分かることであろう。こうした手紙は書かれてから年数が経過しているが、だからと言って、文面を通して、人の心の内側にあるものが完膚なきまでに明らかになる事実は変わらない。

当ブログでは、約十四年前の鳴尾教会で起きた事件に関する「教団文書 村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会人事の私物化問題」なども公開しているが、こうしたものは、歴史的に価値ある資料であり、たとえ民事や刑事事件としての時効を迎えていても、だからと言って、少しも価値が減ずるものではない。

人々のモラルを動かすのに時効はなく、真実が人の心に訴えかける衝撃の重さは時が経っても変わらない。まして人がクリスチャンとして行った行為に時効はない。我々は皆いつか神の御前に立って、自分の行なった言動に対して申し開きをせねばならないのである。
 
杉本氏は、自分が他人を暗闇で恫喝しておいても、こうした書簡が明るみに出されることはないと高をくくっていたのであろう。だが、「一度、口から出た言葉は後から消すことができない」

こうした書簡においても、杉本氏が、筆者が言ってもいないことを再三に渡り、単なる思い込みと決めつけだけに基づいて勝手に解釈し、それを根拠に筆者をなじっては、誹謗し、脅迫まで行い、数々の嫌がらせに及んだ事実が明らかになるが、そうした行為の責任を、杉本氏はきちんと考えて反省せねばならない。これらは罪に問われて当然の行為である。

同氏のして来たことには証拠が残っており、これを取り消すことは誰にもできない。不都合な記事を削除せよと筆者を恫喝しても無駄である。他者に向かって述べた理屈は、自分自身に跳ね返る。自分にできもしないことは、人にも最初から要求しないが良かろう。

 つい最近に至るまでも、杉本氏は再三に渡り、筆者に刑事告訴を予告するメールを送り付けているが、それにしては、告訴の脅しは一向に実行されたことがない。それも当然であろう。筆者をいわれなく脅し、嫌がらせ記事を次々と掲載し、コメント者を煽って嫌がらせに及び、当ブログに嫌がらせのアクセスを集中させて検索結果を操作して来たのは杉本氏自身であるから、その杉本氏が筆者を訴えるなど言語道断であり、そんな告訴が成立するはずもない。そんな訴訟に世間を納得させられるだけの正義の筋書きを見いだすことは誰にもできない相談である。

仮にそんな提訴を無理に成立させてみたところで、同氏には勝算もなく、ただ相手を苦しめるための時間稼ぎであることが明白となるだけである。そんな手段を用いてまでも、クリスチャンを次々と力づくで法廷に引きずり出しては断罪し、打撃を加え、キリスト教徒への弾圧と、クリスチャンの言論統制に日々いそしんでいれば、「日夜、兄弟たちを訴える者」という悪評がさらに定着して行くだけであり、それは同氏にとっても何の利益にもならない。

逆に、筆者自身も、筆者に対する嫌がらせ行為としてなされた個人情報の無断公開やそれによって生じた人権侵害等に関して、事実関係が特定され次第、当ブログに公表したいと考えている。杉本氏以外には、そのような行為に及ぶと筆者を脅迫して来た人物は存在しないのであるが。
 
さて、話を戻せば、以上の嫌がらせの記事や、恫喝メールにおいて、杉本氏が再三に渡り、「市民社会の常識」や「市民社会の一員としての責任」などといった言葉を振りかざしては、筆者を断罪しようとしていた様子が見て取れる。
 
このように、「世間の常識」を盾に取り、自分が世論を味方につけているかのような印象を与えながら、クリスチャンを聖書の御言葉ではなく、「この世の論理」によって追い込んでいく手法は、村上密氏がクリスチャンに対して使って来たものと同じである。

すなわち、カルト被害者救済活動の支持者らは、巧みに世間の常識やら、市井の良識やら、市民社会の責任といった、全く信仰によらないこの世の論理を持ち出して来ては、クリスチャンが信仰の事柄について判断するにあたり、聖書を基準とするのでなく、この世の基準に従って是非を問うよう仕向け、クリスチャンに自らの信仰告白を捨てさせて、この世の土俵へおびき出そうとするのである。

彼らはキリスト教界におきる不祥事を大々的に取り上げては、クリスチャンが「市民社会の常識を備えていない」とか「世間に迷惑をかけた」などと言いがかりをつけ、こうした事件をきっかけに、事件には何の関係もない信者らを非難して、不信者の前に「行き過ぎ」を反省させては懺悔させようとし、それがかなわないと、果てはクリスチャンを無理やり法廷に引きずり出してでも断罪し、何とかして弾圧を加えようとする。

彼らの目指しているものは、最終的に、キリスト教の教義や、聖書の御言葉、聖書の神を信じる信仰そのものを、何か恥ずべき、非常識な、カルト的な、傲慢で、思い上がって自己中心で、狭量な思考であるかのようなイメージを作り出し、聖書の神を信じているクリスチャンの信仰そのものを貶めることで、キリスト教とクリスチャンの信用を毀損し、最終的には、聖書の御言葉の信用を失墜させ、クリスチャンに御言葉への信仰を恥じさせ、信仰告白を捨てさせることなのである。

以上で挙げたような、杉本氏の書いた嫌がらせ記事や、恫喝書簡(それも杉本氏から送られて来たメールの一部に過ぎない)は、クリスチャンをこの世の圧力の前にひれ伏させて信仰告白を捨てさせるための一種の「踏み絵」だと見て良い。刑事告訴の脅しも同様である。

このような行為を平然と行う人間が、聖書に基づくクリスチャンとしての正常な信仰を持っていないことは明白である。

にも関わらず、このような人間が、自ら信者を名乗りながら、非聖書的な手法でクリスチャンを追いつめて断罪し、沈黙に追い込もうとするところに、彼らの活動の最大の卑劣さがある。
 
これはキリスト教徒に偽装してはいるが、その実、キリストへの信仰を全く持たない人々が、信仰者の群れに紛れ込み、キリスト教界を内側から破壊し、信者を攻撃して追い散らし、キリスト教そのもののイメージを貶め、聖書の御言葉の信用そのものを傷つけることによって、キリスト教とその信者をこの世の力の前に跪かせ、弾圧し、処罰することを目的として活動しているだけである。

こうしたすべての事柄は、キリストの御霊によらない、反キリストの霊によるクリスチャンへの弾圧なのであり、彼らが己の前に跪かせようとしているのは、信者のみならず、最終的には、すべてのクリスチャンが信じているまことの神ご自身なのだと言える。従って、彼らの活動は、唯一の神そのものを仮想敵とし、キリスト教そのものに敵対する運動なのであり、聖書の神に対する反逆であるという点で、極めて危険なものであり、その最期が滅びとなることは避けられないであろう。
  
こうした神に対する反逆行為と、クリスチャンに対するいわれなき弾圧を正当化するために、彼らは自己流の定義による「市民社会の良識」を持ち出しては、さも自分たちが世間代表のように振る舞っているのであるが、突き詰めてみれば、その「良識」とやらも、本当に世間の人々に支持されたものではなく、結局は、彼らが狭いネット上で作り出した身勝手な理屈に過ぎず、幻のような偽りの世論である。

彼らは、吠えたける獅子のように人々を恫喝して委縮させながら、クリスチャンを断罪し、見世物として嘲笑することを容認するような「空気」を盛んに作ろうとして来たのであるが、これはどうみても明らかに悪霊から来る働きである。

こうした暗闇の勢力から来る圧迫、「この世の霊」による卑劣な脅しに対して、御言葉を武器に毅然と立ち向かっていくことこそ、クリスチャンにとっての真の「霊の戦い」である。

悪魔は「兄弟たちの告発者」(黙示12:10)である。日夜、クリスチャンを訴え続けることが悪魔の日課なのである。これに対して、信者は沈黙していてはならない。

信者にはまず「アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血」(ヘブル12:24)がある。

十字架で永遠に流された小羊の血潮が、永遠に信者の潔白を証する。神がその独り子なるキリストを十字架につけてまで罪を赦されたクリスチャンを再び罪に定めることのできる存在はどこにもいない。

 「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」(ローマ8:33-34)

次に信者は、自ら御言葉に立脚した証の言葉を述べ続けることによって、悪魔の告発に打ち勝つ。「死に至るまで命を惜しまない」とは、死の恐怖におののいて退却しないという意味でもある。

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)と言われている通りである。
  
「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。
 私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」(黙示12:10-11)      

ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。
あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

「もうしばらくすれば、
 来るべき方が来られる。おそくなることはない。
 わたしの義人は信仰によって生きる。
 もし、恐れ退くなら、
 わたしのこころは彼を喜ばない。」
私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。
(ヘブル10:35-39)
 

最後に、もう一度、「霊の戦い」についてのパウロの言葉を引用しておこう。聖書は一貫して、信者に「雄々しくあれ、勇敢であれ」と命じている。クリスチャンはこの世の常識によって生きているのではなく、我々のために命を捨てられ、死んで、よみがえられたキリストへの信仰によって生きているのである。「義人は信仰によって生きる」。この事実を証するために、信者は恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者なのである。

終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい。
 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。」(エペソ6:10-13)

強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」申命記31:6)

さて、次回以降の論稿においては、カルト被害者救済活動の支持者らが盛んに唱えているような「世の常識」に見せかけた偽りの世論が、東洋思想と密接な関係があること、その根本にあるものが、キリスト教に対抗するグノーシス主義であることについて、より一層、踏み込んで考察を行って行きたい。

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この世を無罪放免しキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の反聖書的活動➀

(これはホームページに掲載する予定の論考の一部です。)

大いなるバビロンからの脱却 反キリストの原則の明確な発展
――カルト被害者救済活動の暴走――
~この世の原則を聖書の原則よりも上位に置いてキリスト教を貶める
村上密牧師と杉本徳久氏の思想と活動の危険性について~



 1.キリスト教のイメージを貶める一方で、神社の政治イデオロギーの危険には口を閉ざし、聖書に立脚して異端を識別するための真の霊的戦いの必要性を無視する村上密氏の活動の危険

前述の記事「東洋思想とは何か。その柱は何を再建しようとしているのか」においては、明治憲法時代に逆戻りし、戦前の軍国主義・国家主義・国家神道を復活させようとの狙いのもと、神社本庁が主導して行っている危険な改憲運動について触れた。

今や神社が七五三などの場面で利用される平和で世俗化した宗教団体ではなくなり、こうした過激かつ危険な政治運動に手を染めて、我々クリスチャンの信じる神への敵対行為を行う砦のようになっている事実を見るときに、これまで当ブログにおいて再三に渡り、その活動の危険性を指摘して来たアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密氏が昨年に行った「神社への油まき事件」についての告発と記者会見(クリスチャン・トゥデイ記事)も、改めて違う角度から見えて来るのである。

村上密氏はこれまで「キリスト教界のカルト化の危険」を声高に訴え、支持者らと共に、キリスト教界における不祥事を次々と世間に発表しては、その是正の必要性があることを訴え、これを口実に、自ら「カルト化の疑いがある」とみなしたクリスチャンを次々と法廷に訴え出ては、訴訟沙汰に巻き込んでいくことによって、キリスト教界の混乱とイメージダウンに貢献して来た。

筆者は、こうした法廷闘争などのこの世の争いを主要な舞台とする村上密氏による「カルトとの闘争」が、従来の平和的な福音伝道を中心とするプロテスタントの牧師活動から逸脱したものであるとみなし、こうした活動が、キリスト教界のカルト化問題の解決に役立つものとは一切考えていない。そのことは、最近の記事「悪魔の見果てぬ夢としての「カルト監視機構」、「村上密牧師による自己流の「異端審問」」等でも詳しく記して来た通りである。
 
まず、平和な福音伝道という牧師の本来的な使命から大幅に逸れている点で、村上氏の活動は、到底、正常なクリスチャンとしての信仰に基づくものとは言えない。また、聖書的な観点から見ても、この世の司法や警察という世俗の権力の力を借りて異端を取り締まる活動は、この世の権力を教会の内政よりも上位に置くことを意味し、それは結局、この世の堕落した悪魔的な統治を神の御霊による霊的統治以上に高く掲げることであるから、聖書の秩序を転倒させる行為であり、その点で、反聖書的であるばかりか、悪魔的な思想に基づくものであると言って差し支えない。

こうした村上氏の活動は、キリスト教界全体を泥沼の法廷闘争と行き過ぎた異端審問に巻き込み、恐怖政治を生むことはあっても、同氏が唱えているような、カルト化問題に対する解決をもたらすことは決してできない。このことについては、当ブログでは記事「カルト監視機構」という名の秘密警察の設立について」を通して、実に早い段階から警告して来た通りである。

キリスト教界のカルト化を解決する糸口は、クリスチャンが聖書に立ち戻り、キリストの十字架を原点として、聖書にそぐわない異端の教えを自ら識別して退ける判断力を持つことにしかない。そこで、村上氏の法廷闘争は、キリスト教界のカルト化問題を解決するには完全に無力であり、キリスト教界により深い混乱をもたらす源となるだけでなく、これはただ同氏がキリスト教界において権力を握るための政治闘争の手段に過ぎず、クリスチャンをますます聖書から遠ざけて、人間に権力を集中して行く危険な活動である。この問題についてはすでに記事「「キリストの十字架以外に救いはない」や、論稿「 罪と罰 カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反しているのか。」においても詳しく警告しているのでそちらを参照されたい。

また、村上密牧師がどういう人物であるかを判断するに当たっても、同氏がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の中で行って来た信頼できない不透明な活動について、以下の記事にまとめているので参照されたい。「 村上密牧師による鳴尾教会への不当な介入問題 まとめ
   
さて、名は体を表すとはよく言ったもので、世間を騒がせた「神社への油まき事件」に関しても、この事件を引き起こした男が韓国系のキリスト教の伝道者であることを警察に率先して情報提供した(=密告した)のは村上密氏であり、同氏は自らそのことを隠し立てなく自身のブログ記事で告白している

むろん、これまでにも「カルト化の疑いがある」とみなした牧師や信徒を次々と法廷に訴え出ることを辞さなかった同氏のことであるから、こうした行為も、公共の秩序維持、社会の安寧のために正義感から行ったという認識しかなく、「危険人物を当局に率先して売り渡した」という後ろめたさなど微塵も感じてはいないことだろう。

誤解のないように言っておけば、筆者は、この油まき事件を引き起こした人物を擁護するためにこの記事を書いているわけではない。いかにキリスト教信仰に熱心な人間であっても、神社の境内に油をまいたり、他宗教に対して攻撃的な活動に走ることは、容認されるべきではないと考えている。そのような過激で自己本位な活動が正常なキリスト教の信仰に基づくものであるとも考えていないし、そんな過激な行動を伴う「霊の戦い」が正常な信仰生活であると言うつもりもない。

だが、この事件に関しては、それとは別の文脈で注目しなければならないことがある。

それは、村上密氏がこれまで「キリスト教のカルト化の危険」を声高に訴え、キリスト教の内部で起きた不祥事を大々的に世間に公表することによって、これを自身がカルト化問題の専門家として脚光を浴びる機会として来ただけでなく、キリスト教の世間でのイメージを著しく低下させることによって、「カルト対策」という自分自身のライフワークの需要を自ら作り出して来たことである。

従って、この「神社への油まき事件」も、村上密氏にとっては、自らの続行する「カルトとの闘い」が世間で脚光を浴びるための最適の機会となったのであり、同氏がキリスト教の浄化が必要であると訴えて自らの活動の需要を世間にアピールするための絶好のチャンスとなったのである。
  
こうした村上密氏の活動には、クリスチャンが決して見落としてはならない巨大な盲点、落とし穴が存在する。
 
村上氏は、神社へ油をまいたキリスト教徒の活動だけを危険なものとして取り上げて、「キリスト教界のカルト化の危機」を声高に訴える一方で、神社はただその被害者であるという文脈で、神社の唱える信仰そのものの反聖書的な危険性という問題と、神社の主導する国家神道の復活という危険な政治イデオロギーに基づく活動の危険性には全く口を閉ざしている。

同氏はこれまで常に「キリスト教の行き過ぎた霊の戦い」の愚かさと危険性だけを強調することによって、キリスト教において「霊の戦い」という名で呼ばれるすべての活動が、何かとんでもなく狭量で偏見に満ちた、馬鹿馬鹿しく荒唐無稽な概念であるかのような印象を読者に抱かせようとして来た。その一方で、聖書に立脚した真の「霊的戦い」が確かに存在するという事実や、信者が聖書に基づいて正統な信仰と異端思想を鋭く識別して、誤った思想を退ける必要性を覆い隠そうとして来たのである。

聖書は「霊の戦い」そのものが存在していないとは全く言っていない。パウロは書いている。

「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
悪魔の策略に対して立ちむ悪ことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。

 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。…」(エペソ6:10-13)
 
聖書は、キリスト者には「血肉」に対するものではない、目に見えない霊の領域における戦い、すなわち、「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊に対する戦い」が確かに存在することを教えている。そして、信者がこの霊的戦いに勝ち抜くための武器が、聖書の御言葉であることも教えている。
 
「霊の戦い」とは、筆者の言葉で説明するならば、目に見えない霊的領域における激しい霊的・思想的論戦である。聖書によれば、キリストの御霊が存在するように、悪霊というものも存在するが、クリスチャンには悪霊そのものを根絶することはできない。従って、クリスチャンが「霊の戦い」においてしなければならないことは、悪霊そのものを根絶しようとすることではなく、悪霊から来る思想を見分け、これを受け入れずに退け、その嘘に欺かれて悪魔の吹き込む虚偽を信じないことである。

当ブログではこれまで幾度となく指摘して来たことであるが、霊の戦いとは、キリストの御霊に属する思想と、これに反する敵の吹き込む思想とを信者が厳粛に区別し、敵の偽りを見破り、退けるための論戦なのである。

人の行動の背景にはすべてそれなりの動機があり、その動機を作り出しているのは、その人の思想や信念である。一人の人間の言動をじっくり観察すれば、その人がどのような信念の持ち主であるかが分かるであろう。そして、その信念が聖書に立脚したものであるかどうかをつぶさに調べることによって、信者は、その人がやがて行き着こうとしている人生の目的も客観的に理解することができるのである。

すなわち、人を導いているものは、その人の持つ霊的・思想的信念なのであり、一方には、聖書の御言葉に立脚したキリストの御霊から来る思想があれば、他方では、悪霊に属する思想がある。そして、悪霊の思想は、必ず、聖書の御言葉を毀損し、歪曲し、御言葉の信用を貶めるという特徴がある。
 
さらに、当ブログでこれまでずっと分析を重ねて来たように、悪霊の思想である異端思想には、太古から現在に至るまで共通する特徴があり、共通する思想的な原型が存在するのである。
 
異端思想の根幹は、神が唯一であることを否定し、神と人とが罪によって断絶していることを否定し、神と人との交わりを回復するためのキリストの十字架の贖いを否定することである。

クリスチャンは、日々、聖書の御言葉だけに堅く立って、これに反する全ての思想を識別して退け、受け入れないように気をつけねばならない。実際に、暗闇の勢力による欺きは日々行なわれているのであり、信者が注意深い識別力を持って、何が聖書にそぐわない思想であるかを識別し、これを排除するために目を覚まして警戒することがなければ、暗闇の勢力の策略を見抜くことはできず、欺かれて翻弄され、貴重な時間と労力をむなしく失うだけであろう。
 
従って、霊の戦いとは具体的に何かと言えば、それは何か超能力のようなものによって普通の人には見えないお化けのような幻影を見いだしてそれと戦ような愚かしい闘いを意味せず、また、いわゆる「悪霊退散」などのように、お化けを撃退したり根絶することを意味せず、また、キリスト教に属さない他宗教をのべつまくなしに敵視してこれを根絶しようとする愚劣な闘争をも意味せず、それは、クリスチャンが聖書の御言葉を武器として、様々な影響力となって信者のもとにやって来る敵(暗闇の勢力)の吹き込む目に見えない様々な霊的思想を識別し、何が聖書に忠実である正しい思想かを見分け、敵の虚偽を見分けて退け、真理だけに立脚して生きるための絶え間ない論戦なのである。
 
つまり、霊の戦いとは、すなわち、聖書の御言葉を曲げようとする異端思想との闘いなのであり、それは激しい論戦である。この論戦の重要性は、キリスト教の初期の歴史に存在したいくつもの公会議や、霊的先人による異端反駁などを思い出すだけで十分に理解できよう。しかし、その戦いは、異端者を火刑にしたり、残酷な処罰を行うといった外的強制力によって成し遂げられるものではなく、異端思想とは何かという、偽りの思想の骨子を明らかにし、偽りが偽りである所以を聖書に照らし合わせて明らかに証明することにより、何が正統な信仰であり、何が異端であるかを識別し、偽りを退けて、正統な信仰を守り、継承する作業なのである。

この識別は、聖書が実際に奨励していることである。

愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしない。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。

人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。

イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」(Ⅰヨハネ4:1-3)

すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。」(Ⅰテサロニケ5:21)
 
上記の御言葉は、反キリストの霊というものが確かに存在しており、反キリストの告白する思想というものが実際にあることをクリスチャンに教えている。そして、クリスチャンが敵の霊を見分けるポイントが、その霊の告白する思想の内容にあることをも明確に教えている。つまり、ある霊の告白する思想が、神の御子キリストの十字架に対して、どのような立場を取っているかが、大きな見分けのポイントになるのである。
  
信者は、自分のもとに人や出来事を通してやって来る霊の述べる思想の内容を吟味して、「敵の霊を見分ける」ことをせねばならないのである。しかし、信者にもたらされる悪霊の影響力は、必ずしも、人の述べる思想や言動だけにはとどまらない。信者の日常生活に起きるすべての出来事によっても、信者の心に何らかの影響が及ぼされるのであり、環境によって引き起こされる影響力も、同じように吟味の対象とならなければならない。信者の日常生活には、暗闇の勢力が及ぼす事件というものも確かに存在するからである。

もし何の霊的識別の努力もしなければ、信者は、ただ暗闇の勢力の引き起こした事件によって翻弄され、悲しみのどん底や、落胆や、失意に追いやられ、絶望感、罪悪感、自己憐憫などの感情を吹き込まれ、神がキリストの十字架において信者のためにすべてを達成されたという聖書の事実から逸れて行き、この事実に基づいて信者はすでにすべての災いから救い出されているのであり、罪からも清められ、キリストにあって、あらゆる問題の解決をすでに得ているのだという事実を簡単に忘れてしまうであろう。

こうして、聖書の御言葉だけに堅く立って、御言葉に合致しない全ての影響力を退け、キリストの十字架を通して信者に与えられている特権としての義や、自由といった権利を守り抜くための絶え間ない戦い――思想的・霊的論戦こそが、クリスチャン生活の真の意味での「霊の戦い」なのである。

しかし、村上氏は、「キリスト教のカルト化問題」を取り上げる際、キリスト教界に起きている諸問題が、信者が聖書から逸れたために、すなわち、御言葉に合致しない敵(暗闇の勢力)の欺きを受け入れてしまったがために起きたものとして、信者に聖書に立ち戻ることを促すのではなく、むしろ、こうした問題が、あたかもクリスチャンがあまりにも聖書の御言葉だけにこだわりすぎて、「二元論思考」に陥ったために起きたものであり、まるでキリスト教そのものが、こうした問題を引き起こす原因を抱えているかのように描き出すのである。

こうして、村上氏は「キリスト教界における行き過ぎた愚かで過激な活動」が、まるでキリスト教そのものに原因があって起きているものであるかのように、キリスト教界やクリスチャンを糾弾し、巧みにキリスト教そのものの信用やイメージを貶める一方で、信者が実際に闘いぬかねばならない真の「霊の戦い」があることや、信者が聖書にそぐわないあらゆる欺きを鋭く見分けて、これを退けながら、実際に「霊の戦い」を闘いぬいて勝利し、御言葉に基づく信仰を堅く守る必要性を覆い隠してしまうのである。
  
「神社への油まき事件」も含めて、村上氏は、クリスチャンの恥ずべき過ちだけを盛んに取り上げることにより、キリスト教における神と悪魔、光と闇、天と地、霊と肉、新創造と旧創造、等々の「切り分け」や「二分」そのものが、何か非常に疑わしい、行き過ぎてカルト的な思考であり、非常識で誤った「二元論的思考」であるかのような印象を人々に抱かせようとするのである。
  
村上氏はキリスト教界に起きた誤った事件ばかりを取り上げることによって、クリスチャンが聖書に照らし合わせて何が正しく、何が間違っているのかを自ら識別して判断する必要性を覆い隠し、むしろ、そうした識別・区別の作業自体が、クリスチャンの独善的で、狭量で、独りよがりな間違った思い込みであるかのような印象を読者に抱かせるのである。

村上氏が「キリスト教における行き過ぎた霊の戦い」の馬鹿馬鹿しさだけを強調すればするほど、クリスチャンは、信者として自分が本来持っていなければならないはずの聖書への忠実さ、貞潔さ、正常な警戒心や、識別作業までが、まるで必要のない潔癖症か、あるいは、信者の高慢さや狭量さや偏見に由来する行き過ぎた態度であるかのように思わされ、これを自己反省して改めなければならないようなプレッシャーを感じさせられるのである。

こうして同氏は、非常に巧妙な形で、聖書における十字架の切り分けや、神の霊に属するものとそうでないものとの絶対的な区別(聖書の持つ「二分性」)そのものを、あたかも実在しない想像の産物や、クリスチャンの歪んだカルト的な思考の産物であるかのように描き出し、聖書の御言葉の真実性そのものを疑うように信者に仕向けて行こうとする

その一つの証拠として、村上氏は、「油まき事件」以後、同氏のブログを読んでクリスチャンから寄せられたというキリスト教特有の「二元論的思考の誤り」に関する信者の反省文を、得意げに自らのブログ記事でいくも披露している

むろん、そこに記載されている行動は、確かに、筆者の目から見ても、正しい「霊の戦い」とは言えない。しかしながら問題は、村上氏が常にこうした誤った事例の愚かしさばかりを強調することにより、聖書の神こそが、まことのただお一人の神であり、これを否定する思想がいかに危険であり、信者がいかに目を覚まして聖書を歪曲する思想の誤りに気づいて偽りを退ける作業が重要であるかという点に触れようとしない点である。

特に、クリスチャンを名乗り、プロテスタントの牧師であるはずの村上密氏が、キリスト教の不祥事だけを一方的に取り上げてクリスチャンを叩くことはしても、唯一の神を否定して「八百万の神」を唱える東洋思想に基づく神社の信仰の危険性、また、神社本庁が主導する軍国主義・国家主義・国家神道の復活へ向けての改憲を促す政治活動の著しい危険性という極めて差し迫って重要な問題について、全く触れようとしないことは不気味でさえある。
 
同氏は、こうして「この世の思想」の危険については完全に沈黙しながら、他方では、行き過ぎに陥ったクリスチャンの反省文を公然と掲げることにより、この世の思想の前に、クリスチャンをひれ伏させて、懺悔と自己反省を迫るのである。そして、クリスチャンが聖書に基づいてこの世(神社も含む)の思想の誤りを指摘して糾弾するなど、無礼千万な思い上がりに過ぎず、信者が聖書に基づいて偽りの思想を糾弾して退けようとする行為自体が、愚かで非常識な偏見に基づく寛容さの欠如であり、無用で行き過ぎたカルト的思考であるかのような印象を醸し出そうとするのである。
  
このようにして、キリスト教だけを断罪しながら、巧みに世の霊に寄り添うのが、村上氏の活動の常なる特徴である。同氏は、キリスト教界に起きた不祥事ばかりを一方的に取り上げて糾弾することによって、いつの間にか、まるで聖書に立脚したものの見方そのものが、過激で行き過ぎた危険な思想であるかのような印象を世間に抱かせ、かつ、キリスト教や聖書そのものに、何かこうした行き過ぎを生み出す源となるものがあるかのように思わせ、あたかもキリスト教が大変、危険な宗教であるかのように世間に思わせようとする一方で、神社の信仰や政治思想のようなものには一切、批判を加えないのである。

同氏の活動は、常にこうしてこの世の不信者の間で空気のように蔓延している反聖書的な思想の危険性についてはほとんど完全に口を閉ざしながら、キリスト教界の不祥事だけを大々的に取り上げることによって、キリスト教が危険な宗教であるかのように世間に思わせることに貢献して来た。また、この世の圧倒的大多数である不信者の世論を味方につけて、この世のマジョリティの力にものを言わせて、日本の人口においては1%程度のマイノリティであるクリスチャンを断罪し、自己反省を促し、懺悔を迫るという形を取って来た。

(ちなみに、クリスチャン人口が約6%にまで上昇したという記事(クリスチャン・トゥデイ)もあるが、いずれにしても日本の全人口においてクリスチャンが圧倒的マイノリティであることに大差はないと言えるだろう。)
 
このようにして同氏は、自らの非難の対象をほとんどキリスト教(と明らかにキリスト教の異端と分かっているもの)だけに絞り込むことによって、自ら牧師であるにも関わらず、キリスト教のイメージを貶めることに貢献して来た。そして、「この世」に蔓延している反聖書的思想の危険性は非難することもなく無罪放免するばかりか、むしろ、この世が「キリスト教の被害者」であるかのように主張して、この世の常識によってキリスト教界に起きた事件を裁き、この世の司法などの強制力を通してキリスト教に強制介入し、聖書の御言葉よりも、この世の常識を上位に据えて、この世の力によって教会を裁くことを正当化しようとして来た。

最終的には、同氏の活動は、聖書の御言葉に基づく信仰自体が、何かしら「過激なとんでもないもの」であり、「二元論的でカルト的な誤った思考」であり、キリスト教や聖書そのものが「カルト思想」を生む源であるかのような印象を人々に与えることにより、聖書の御言葉の真実性を毀損し、聖書の御言葉に忠実であろうとする信者の信仰を「カルト的な行き過ぎ」であると断罪し、そのような「行き過ぎ」に陥らないために、「キリスト教を監視する必要性」まで訴えるのである。
 
こうして、村上氏がキリスト教に起きた不祥事を奇禍として、キリスト教界において権力を掌握してこれを取り締まりの対象としようとしているだけでなく、クリスチャンが何が正しくて何が間違っているかをはかるためのものさしを、巧妙に「聖書」から「この世の常識」にすりかえ、キリスト教の行き過ぎだけを断罪しながら、他方で「この世」の誤った思想の危険性を無罪放免することにより、結局、「聖書の御言葉」よりも、「この世の常識」を上位に置こうとしていることに注意が必要である。

このような文脈で見ると、村上密氏が「神社への油まき事件」に関して行った記者会見は、これまで世間でとらえられていたのとは全く違った文脈で理解されるのである。すなわち、同氏はこの事件を通して、クリスチャンがまたしても神社に対して過ちを犯して「世間に迷惑をかけ」、キリスト教がまたもや過激な行き過ぎに陥って世間に対して「罪を犯している」かのような印象を与えることで、まるで先手を打って、神社本庁が主導する危険な改憲運動や、国家神道の復活といった反聖書的なイデオロギーのはかりしれない危険性について、クリスチャンが聖書に立脚して非難することが、より難しくなるように道を整えようとしているかのようである。
 
このような点で、村上氏の活動は、決して聖書の御言葉に立脚したキリスト教の信仰に基づいて生まれたものとは言えず、むしろ、同氏のすべての活動は、徹底的に信者ではなく、この世の不信者の目線に立ってなされたものである。同氏が牧師であるからと言って、キリスト教的な観点から活動しているのだと思い込むことはできない。むしろ、同氏は、この世を非難することもなく無罪放免し、クリスチャンだけに懺悔を迫ることによって、キリスト教そのものが危険な宗教であるかのように描き出し、結局は、キリスト教そのものと、聖書の御言葉の信用を貶めることに貢献しているのだと気づくべきである。

このような活動は、聖書の御言葉の信用を巧妙に貶めるものである点で、反キリストの霊とこの世の利益に積極的に貢献するものだと言える。

村上密氏による「カルトとの闘い」が、常にこうして信者の側ではなく、むしろ、信仰を持たないこの世の人々の側に立って、この世の価値観を基準として、この世の人々を利するために行われて来たことに注意が必要である。
 
当ブログでこれまで取り上げたいかなる事件においても、同氏は、徹頭徹尾、「勝ち馬に乗る」ことを目指すかのように、この世の「強者」に歩調を合わせ、この世の「強者」の利益を代弁すべく行動することはしても、声を上げることもできない「弱者」である信者の心の必要性をくみ上げ、これを代弁して行動することはなかった。

それは、同氏が初期に行った統一教会等に入信した信者らを、親族らの要請に基いて、拉致監禁という信者の人権侵害を伴う形で強制的に脱会させては「救出」していた頃から見られる特徴であり、また、鳴尾教会において、村上氏が教団や教会の規則を無視して不法に行なった介入と、その結果としての伝道師らの鳴尾からの追放という事件においても共通して見られた。

前者の拉致監禁を伴う「救出」活動においては、村上氏は、信仰を持たない人々の観点に立って、カルトに入信した信者の内心を容赦なく踏みにじり、強制的に過ちを認めさせて棄教を迫ったのであり、後者の鳴尾教会で起きた事件においては、同氏は最初から最後まで、自分の義理の父であり、当時、鳴尾教会の主監者であった津村氏という「強者」に味方して、弱者の立場にあった伝道師らの訴えを容赦なく見殺しにしたのである。

さらに、鳴尾教会がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団から離脱の決定を下した際にも、村上氏は教会へのスラップ訴訟に及んでまで、これを阻止しようとしたが、これもまた、同氏が弱い立場にある教会に対して、教団という権力側に立って威圧的に振る舞ったことを意味する。

村上氏があらゆる宗教のカルト化を監視する必要があるとして提唱した「カルト監視機構」も、そのメンバーはクリスチャンに限定されたものではなく、この世の有識者、あるいはキリスト教以外の他宗教の信者から成るものであった。 
  
こうして、キリスト教界のカルト化問題を監視するということを口実に、同氏は、日本の人口の圧倒的大多数を占める「強者」である不信者の側に立って、1%程度の信仰者全体の信仰生活を監視し、取り締まる必要性を訴える。不信者の利益を確保するために、クリスチャンを監視・断罪・処罰・抑圧することを肯定するという極めて恐ろしい思想を提唱するのである。

こうして常にこの世の「強者」に味方しては、真の弱者の声を容赦なく圧殺し、見殺しにするという村上氏の手法は、同氏が教会のカルト化問題の解決方法として積極的に推し進めて来た裁判という手法に関してさえ、同じように観察された。キリスト教界の不祥事の犠牲になったとされるいわゆる「カルト被害者」全体の中でも、村上氏が勧めているような裁判を提起することのできる人間はほんのわずかしかいない。訴訟に至るケースは、世間を揺るがすような大がかりな不正事件の場合のみであり、ほとんどの小さな事件は、世間に公表されることもなく、被害者の泣き寝入りで終わっている。だが、そのような弱者の声なき声に対して、村上氏の活動は、何ら答えも解決をも与えるものではない。村上氏自身が、キリスト教の大々的な不祥事をきっかけに、世間で注目を集めて来たという事実を見ても、同氏が、裁判にもならず、自分にとって何の手柄にもならない小さな事件の被害者は容赦なく切り捨てて来たことがおのずと理解できるのである。
 
このように同氏が、キリスト教界の不祥事を大々的に取り上げることにより、盛んにキリスト教が世間に迷惑をかけているかのような印象を世間に与え、クリスチャンを世間に対して不利な立場に置いて、聖書の御言葉ではなく、「世間の常識」や、「この世の司法の力」をふりかざして、「世」にとって有利なように、キリスト教界に介入し、クリスチャンの信仰生活を取り締まろうとして来たことが、一体、なぜなのか、考えてみる必要がある。
 
このような特徴を見れば、結局、同氏の活動は、キリスト教そのものに敵対する運動であると言わざるを得ない。これは聖書の真理を否定し、この世の原則を聖書の御言葉以上に高く掲げて、信者の信仰生活を抑圧の対象とし、内心の自由を奪い、果てはキリスト教のみならず、あらゆる宗教をも疑いの眼差しで見て監視の対象とし、すべて神と呼ばれるものを否定して、神への信仰を否定して、自ら全宗教界に君臨するという、反キリストの欲望へと結びつくものであることは、すでに記事で訴えて来た通りである。

この点で、村上氏の活動は、キリスト教の名誉を棄損し、キリスト教の信用そのものを貶めるために行なわれるキリスト教に敵対する、キリスト教の内側からの破壊活動だと言って過言ではない。いかにキリスト教の牧師を名乗っていても、同氏が実際に目指しているのは、いわば神への信仰そのものを取り締まり、これを監視し、抑圧することであり、結局、それは神に代わって信者の内心を裁くことにより、神以上に己を高く掲げることであり、従って、それは神そのものを仮想敵とし、信仰そのものに敵対する活動だと言って差し支えないのである。

そのように見て行くと、村上氏が自分もキリスト教の牧師であるにも関わらず、なぜ「油まき事件」を通して、神社を擁護し、キリスト教の信用をより一層貶めるという結果に至っているのかも納得できるであろう。

それは同氏の活動がもともと、キリストの御霊から出ておらず、この世の霊、反キリストの霊に導かれる運動だからである。

村上氏の活動が、常に真の弱者を見殺しにする「強者の論理」に貫かれているのも、同じ理由からである。それは同氏の活動が、「叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせ」ず、「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともな」い(イザヤ42:2-3)キリストの御霊の謙虚さに基づくものではなく、むしろ、力と恐怖によって人を支配する弱肉強食のこの世の論理に基づいているためなのである。

この世の霊に導かれていればこそ、同氏は常に勝ち馬に乗ることを目指して、「強者」の利益を確保するために、「強者」の観点から物事を見、「強者の世論」と歩調を合わせて活動して来たのである。
   
同氏の活動が誰の利益になっているのかという観点から物事を見れば、同氏が神に仕えているのか、それとも、この世に仕えているのか、答えは明白であろう。
 
神社への油まき事件も、極めて愚かしい出来事であったとはいえ、それはあくまでキリスト教の一伝道者の行った活動に過ぎなかった。だが、神社の政治活動は、日本全国の神社を巻き込み、国家単位で、国家神道を大規模に復活させることを最終目的に掲げている点で、前者とはくらべものにならないほどの絶大な危険性を持つ。にも関わらず、村上密氏はキリスト教徒の誤りだけは強調しながら、後者のはかりしれない危険性を覆い隠してしまうのである。
   
村上氏が盛んに「キリスト教の霊の戦い」の愚かさを強調している真の意味についても、我々クリスチャンはよく考えてみなければならない。

もし信者一人一人が、聖書の御言葉に精通して鋭い識別力を持ち、村上氏が一体、何の霊に導かれているのかを試し、明らかにし始めるなら、村上氏にとっては大変、困った事態が持ち上がるであろう。

誰よりも同氏が、自分が何の霊に導かれているのかが明るみに出されると困るのである。それだからこそ、同氏はこの世の常識を隠れ蓑にしつつ、キリスト教における行き過ぎた不祥事や、荒唐無稽な「霊の戦い」ばかりを強調することによって、先手を打って、クリスチャンに自己反省を促し、クリスチャンが決して世の罪に気がつかず、間違っても聖書の御言葉に基づいて、この世の堕落した思想の危険性を見抜き、それを訴え、糾弾し、排除したりすることがないよう、予め阻止しているのである。

聖書の御言葉に基づく「切り分け」や「二分」そのものを、何かしらカルト的な疑わしい狭量な思考のように思わせる影響力には注意が必要である。結局、それはクリスチャンに罪を着せる一方で、堕落した「この世」の罪を無罪放免するために流布されている偽りだからである。


牧師制度という個人崇拝の悪―偶像崇拝が大衆にもたらす偶像との一体化願望と失望

・神と人との唯一の仲保者であるキリストを退けて、信者の上に人間の指導者・教師を置く牧師制度は聖書の御言葉に反している
      
 
 「人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方に逸れていく時が来るであろう。しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。」(テモテへの第二の手紙4:3-5)

悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。」(テモテへの第二の手紙3:13-14)
  
これまで、キリスト教界に問題が起きるのは、牧師制度が原因である、ということについて述べて来た。なぜ牧師制度はあるべきでないのか。聖書では、主イエスは次のように語られた。

「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
あなたがたは、地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。
また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。」(マタイ23:8-10)

このように、聖書はキリストを信じる信者の間に序列があるべきでないこと、信者にとっての教師とは、見えないキリストただお一人だけであることをはっきりと示している。

それにも関わらず、主イエスの御言葉に反して、信者が信者の上に立ち、神と人との唯一の仲保者であるキリストを否定し、押しのけてまで、他の信者の教師、模範、指導者となり、他者を教えることを、制度化することによって固定化しているものが、牧師制度である。

このようにキリストの御言葉の根幹を否定して成り立っている牧師制度がある限り、キリスト教界には問題が起き続け、是正は不可能であろう。むろん、カトリックであれば、プロテスタント以上の厳格なヒエラルキーがあり、神の代理人としての法王が立てられているわけだから、プロテスタント以上に深刻な問題が存在することは言うまでもない。
  
牧師制度が決定的に聖書に反するものであることを、我々は、牧師を置いている諸教会に起きる出来事を通してだけでなく、牧師制度を批判しながらも、牧師であることをやめられなかったアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の「カルト対策専門家」を自称する村上密氏と、KFC(Kingdom Fellowship Church)のDr.Lukeという二人の指導者の失敗例を通して理解することができる。

この二人は、それぞれ異なる立場から、キリスト教界の諸問題に警鐘を鳴らし、キリスト教界の道徳的腐敗を糾弾していた。Dr.Lukeは脱カルト協会の会員であり、キリスト教界のカルト化現象を、村上密と異なる立場から批判していた。

だが、両者の言動はともに深刻な二重性を帯びたものであった。彼らは一方では、他の牧師たちの権威主義・自己の絶対化・独裁化を批判しながら、他方では、自分自身が信者の指導者となって、神ご自身に代わって彼らを教え、導くという誘惑を捨てられなかったことである。
 
彼らはカルトにおける独裁を非難しながらも、同時に、自分も指導者の立場に立って人前に栄光を受けることをやめられず、その罪により、次第に彼らはカルトと同じように、自己を絶対化して行く羽目に陥ったのである。

そもそも、政治や、宗教に限らず、人の上に立とうとする人間は、自分に従って来る人々の要求を少しでも多く叶えてやろうとして、あるいは、彼らの期待を裏切って失脚させられることを恐れるあまり、自分をあるがまま以上に、偉大な存在、崇高な存在に見せかけようとする誘惑を免れることはできない。
 
人並み以上のカリスマ性、実力が伴わなければ、誰も指導者になることはできないであろう。従って、どんな分野であれ、指導者となれば、その人は実際に自分に備わっている以上の実力が自分にあるかのように見せかけないわけにはいかなくなるのである。

だが、そのようなヴァーチャルな自己像の演出によって、本当の自分自身を偽って生きることこそ、神の御前に大いなる罪であると筆者は見ている。
 
「カルト問題に悩んでいる人々の心に寄り添い、その悩みに真摯に耳を傾け、問題解決に助力する親切で正義感溢れる優しい指導者」を演じようとしているうちに、上記の二人にも、現実から著しく乖離したヴァーチャルな自己イメージが生まれ、そこからやがて超人めいた、ありもしない偉大な人間像が生まれて来て、個人崇拝が発生したのである。そうしたことが起きた責任は、美化された自己イメージを積極的に作り上げた本人だけにあるのではなく、そうした指導者をもてはやし、自惚れに陥らせた周囲の信奉者たちにもある。
 
筆者は、村上密牧師についても、Dr.Lukeに関しても、全く同じ現象を見るが、それはこの二人に限らず、牧師を取り巻く一般的な状況なのであり、要するに、指導者と、それに群がる信奉者たちが、渾然一体となって、一人の人間の限界を超えて、超常的な権威や力を持つ「偉大な指導者」のイメージを作り上げ、そのイメージに集団的に耽溺して行くのである。彼らが崇めているのは、もはや現実の人間ではなく、彼ら自身が作り出した虚構の人間像であると言って差し支えない。
 
ペンテコステ・カリスマ運動は、もともとそのような虚構の「偉大なカリスマ指導者像」を作り出すことを主たる特徴とする運動であった。ペンテコステ運動には、例外なく「霊の器」とされるカリスマ的指導者がつきものであり、ほとんど個人崇拝と言っても良い形で、この霊的指導者の超自然的な能力へ信者を傾倒させるという伝道スタイルを持っている。
  
Dr.Lukeも村上密も両者ともにペンテコステ運動の出身である。
  
筆者は一連の記事において、ペンテコステ運動の起源は聖書にはなく、これは人間が生まれ持った魂の力を啓発・覚醒させることによって超自然的体験を味わい、それによって自力で神に到達したかのように錯覚する神秘主義の教えであることを幾度も明らかにして来た。
 
従って、まさにこうした運動の只中から登場して来た二人の指導者が、共にカルトを非難しながら、自分自身がカルト化の過程を辿ったのは、全く不思議ではない。カルトも、アンチカルトも、牧師制度から生まれた悪なのであって、どちらもが聖書に立脚しない、マッチポンプのように腐敗した運動に過ぎない。牧師制度を温存する限り、結局、すべての団体がカルト化という結末を辿らざるを得ないのである
   

さて、ギリシア神話に登場する楽人オルフェウスの最期を通して、私たちは指導者との一体化を求める大衆の願望と熱狂の恐ろしさを考えることができるかも知れない。伝説によれば、オルフェウスは地球上の全ての生き物を酔わせることができるほど卓越した音楽家であったが、冥土から連れ戻すのに失敗した亡き妻の思い出を生涯、忘れられず、妻と死別後、独身を貫き、そのことで女たちの恨みを買い、ついに女らに八つ裂きにされて河に投込まれたという。

ここで筆者は、ギリシア神話に言及したいのではなく、目に見える人間に過ぎない者が、カリスマ指導者となって、多くの信者たちを誘惑して心を惑わせることの罪と、それに伴う悲惨な結末に思いを馳せずにいられない。
 
ペンテコステ運動の指導者や、その礼拝に伴う巧みな舞台(しるし・不思議・奇跡)演出の仕かけは、まるでオルフェウスの音楽のように、人々の心を酔わせ、惹きつける。

しかし、目に見える物質世界に存在するものは、人であれ、あるいは何らかの現象であれ、感覚刺激であれ、すべて束の間、現れて、はかなく消えて行くものであり、決して人の魂を真に満足させることはできない。
 
それらの魅力的な指導者や舞台装置は、マジシャンの幻影のごとく、束の間、人の心を酔わせはしても、束の間の酔いの後で、禁断症状にも似た、より一層、重い失望と幻滅を人々の心にもたらすだけである。

偶像というものは、それが木切れであろうと、金の子牛の彫像であろうと、生きた人間であろうと、結局、全てはこの世の限定された事物(被造物)を「神」に祭り上げようとしたものであるから、それはまことの神ではないため、決して人の心を真に満足させることができない。
 
感覚的な陶酔や興奮も、それを追い求める人には、偶像となって、心を煽ることはあっても、結局、それは人が真に願っているものを決して与えない。だから、いたずらに心を煽られた人々は、最後には、求めても求めても与えられないことへの憤りから、彼らを酔わせるイリュージョンに殺到し、これを引き裂いてしまう。
   
それくらい人々の心を盗むことの罪は大きいと筆者は考えている。

エクレシアとは、ただ一人の男子キリストだけに捧げられた貞潔な花嫁であって、キリスト以外の「夫」はあってはならないのである。そこで、エクレシアの心をいたずらに誘惑しようとする者は、何人であろうと、神の御怒りに晒され、悲惨な最期を遂げることを免れられないだろうと筆者は予想する。

私たちには、「求めなさい、そうすれば与えられます」と言っておられるまことの神がいつもそばについておられる。神は私たちの心の願いに耳を傾け、悩みを共に背負い、重荷を代わりに担って下さり、常に私たちのために心配して下さる。それなのに、そのはかりしれない愛と慈しみと理解を持ったただお一人の神を退けてまで、「求めても、求めても、何も与えることのできない偶像」にすがる人々の罪は重く、また、人々にまことの神を捨ててむなしいものにつき従う罪を犯させた指導者の罪もはかり知れず重いのである。

聖書における神は、全知全能で、永遠に変わらないお方であり、この世のいかなる制約や限界にもとらわれず、信じる者たちの心の中に住んで下さり、その心を知って、すべての必要をかなえることができるが、この世の物質から成る偶像は、遍在することもできず、人の心をおしはかることもできないので、どんなに人々がそれを慕い、追いかけたとしても、彼ら全員の期待に応える術をもともと持ち合わせてはいない。
 
そこで、自分自身を現人神のように見せて、多くの人々の人気をさらう指導者は、決して、自分を慕ってやって来る熱狂的な大衆の願望に、応える術を持っておらず、遅かれ早かれ、大衆の幻滅と失望に晒されることになるが、その時、大衆のフラストレーションにどう対処するか、選択を迫られる。

考えられる選択肢は三つである。一つ目は、オルフェウスのように、大衆の要求を拒んでその不満と怒りによって滅ぼされる道であるが、誰しもこれは拒否するであろう。
 
二つ目は、来る者拒まずの八方美人性を発揮し、みんなの願いを叶える慈愛に満ちた母のような存在を演じ、あらゆる人々と霊的姦淫に陥ることによって、すべての人の期待に応えようと努力する道である。
 
ペンテコステ運動にはこの第二の八方美人的な特徴が顕著である。これはペンテコステ運動に関わる信者の特徴だと言っても過言ではない。アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の繰り広げる被害者であれば誰でも来る者拒まずのカルト被害者救済活動も、この路線に立っていると言えよう。

だが、この第二の方法もそう長くは持ちこたえない。どんなに各方面に良い顔をして、みんなの期待に応えようと努力してみたところで、しょせん、人間にできることには限界がありすぎるからだ。だから、やがて失望して去って行く人々が現れることになる。

そこで第三の道は、指導者が大衆に甘い顔をせず、禁欲主義的サディストとなって、大衆の欲望を鞭打ち、快感の代わりに苦痛を与えて、服従を要求することである。
 
偶像が偶像として生き残り、指導者が指導者として生き残るためには、結局、この第三の道に至るしかない。第二と第三――飴と鞭を使い分けながら、時には甘く、時には厳しく、自分につき従って来る人々の願望に対処しているうちに、やがて指導者には第三の道だけが残り、独裁者と化して行くのである。

村上密牧師や、Dr.Lukeといったような、「キリスト教界の諸問題を告発し、そこで被害を受けた人々に理解を示す、優しく親切な指導者」を演じていた人々も、結局は、善良で親切な仮面だけをずっと被り続けるわけにいかず、第二から第三へ移行して、独裁化という過程を辿らざるを得なかったのである。そこで、反対者は容赦なく駆逐し、刃向って来る者には裁判も辞さずに徹底的に報復するという残酷な側面が明るみに出たのである。

筆者は、ここにこそ、キリスト教が厳しすぎるまでに父性原理だと呼ばれることの根拠、また、そうでなくてはならない理由があると考えている。
 
ペンテコステ運動が、「キリスト教には御言葉に基づく二分性の切断の原理ばかりが強すぎて、あらゆるものを受容する母性が足りない」と非難して、キリスト教に母性を補うことを目的として、「母性的な福音」を提唱して、キリスト教の変革を試みたことは、他の記事でも説明して来た。
 
しかし、あたかもキリスト教に欠陥があるかのように主張して、キリスト教の変革を試みたこの運動は、キリスト教の「欠陥」を補うどころか、余計な混乱しかもたらすことはなかったのである。
 
なぜなら、もともとキリスト教には、「欠陥」など存在しないからである。キリスト教の主たる原則は、ただ唯一のまことの神にのみ従う排他的な信仰にあり、その排他性が消え去れば、キリスト教はキリスト教ではなくなる。

唯一の神のみに従う貞潔な信仰は、「欠陥」などではあり得ず、すべてのものを優しく受容する母性などと言った八方美人性は、背教への道でしかないのである。従って、「父性原理の排他性を克服するために、母性原理が補われたキリスト教」などというものは存在せず、そのようなものはキリスト教と異教との混合としてのバビロンでしかないのである。
 
旧約聖書の時代から、異教の民と異なり、イスラエルの民には、唯一の神に従うための厳格で排他的な規律が要求され、世の要求に甘い顔をする八方美人性は禁止された。
 
預言者モーセを通して、民には厳しい聖潔の基準が要求された。

「あなたの父と母とを敬え<略>。
 あなたは殺してはならない。
 あなたは姦淫してはならない。
 あなたは盗んではならない。
 あなたは隣人について偽証してはならない。
 あなたは隣人の妻をむさぼってはならない。<略>またすべて隣人のものをほしがってはならない」(申命記5:16-21)

イスラエルの民には、性的むさぼり、不品行はとりわけ禁止されていた。なぜなら、それはまことの神以外のものを神とする偶像崇拝に本質的につながる罪だからである。

だが、イスラエルの民に、唯一の神への貞潔が消え失せ、御言葉の峻厳な区別・排他性が失われ、八方美人性がはびこることになった時代には、背教が蔓延し、神殿にも、神殿男娼などがはびこった(列王記15:12  男性であった)。

こうした現象も、八方美人的な偶像崇拝(異教)が紛れ込んで来たことの結果である。
 
異教は、人間を喜ばせることを主たる目的とし、そのために一切の儀式を定めているため、偶像との一体化を確認させるための様々な儀式をも許容している。

しかし、旧約聖書時代のユダヤ教は、神以外のものと交わる八方美人的な混合を「むさぼり」として退け、全面的に禁止した。

旧約聖書の唯一の神への信仰の排他性は、新約になったからと言って消え失せたわけではない。唯一の神以外のものを神としてこれと交わる行為は、新約においても、霊的姦淫として罪に定められている。
  
しかしながら、神以外のものを神とするとは、何も異教の神々を拝んだり、あるいは木切れや、刻んだ像を拝んだり、己の欲望を神としてこれをむさぼったり、誰か素晴らしい指導者を神のように崇拝することばかりを意味しない。

人間が自分自身に与えられた限度を超えて、自分を何か偉大な者であるかのように見せかけ、美化する時、その人は「自己を神とする」という偶像崇拝の道へ一歩を踏み出しているのである。
  
あらゆる人間にとって、罪の始めの第一歩は、自分の分を越えて、何かをむさぼりたいと願うことにある。その第一歩は、ただ他人のものを奪い取りたいという願望だけでなく、自分自身のあるがままの現実を偽って、自分を偉大に見せかけたい、という願いから始まるのではないだろうか。
 
アダムとエバの堕落は、彼らが神に許された限度を越えて分別をつけて、神と対等になろうとしたところから始まった。彼らはその罪によって、ただ神の戒めを破ったのみならず、何よりも、自分自身の被造物としての本質を偽って、自分自身を神と「対等」に見せかけようとしたのである。
 
彼らは、それによって、神と人との境界を乗り越え、自分たちが神の助けなしには生きて行くことのできない弱く限界ある存在であることを否定し、神を抜きに、神の偉大さと知恵を我が物として、神の助けなしに生きて行くことができるかのように、神から与えられた制約のくびきをふるい落とそうとした。彼らは、それによって、神に従う者として生きるのではなく、神を自らに従わせる立場に立とうとしたのである。

だが、人間がそのようにして自分の分を越えて、自由や解放を手にしようとする時には、必ず何らかのしっぺ返しがその人にふりかかる。彼らは神にはなれず、むしろ、そこから、人類の悲劇が始まったのである。
 
オルフェウスは亡き妻への貞潔を守り抜き、妻以外の人々の関心を揺さぶることをしなければ、悲惨な最期を辿ることもなかったことであろう。
  
ペンテコステ運動にも同じことが言える。
  
神と人との関係は、原則的に、一夫一婦制である。神は唯一であり、神と人との仲保者はイエス・キリスト以外にはいない。にも関わらず、その一夫一婦制の原則を破って、人間の指導者がキリストとエクレシアとの間に割って入って、エクレシアの心を盗もうとするならば、必ず、その指導者と、神への貞潔を捨てた信者たちに、ひどい末路が降りかからないわけにはいかないのだ。
 
つまり、カルト化現象は、何かしらの難解な教義的な逸脱の結果として起きることではなく、一部の教会や指導者が悪に傾いたために起きるものでもなく、信者が唯一のまことの神だけに従う信仰を捨てて、目に見える人間の指導者を含め、神でないものを神としたことによって起きる当然の結果でしかないのである。

だから、キリスト教にはカルト化という問題は存在しない。あるのはまことの神を神としないで、神でないものを神とする人間の罪と背教だけである。
 
そこで、カルト問題をしきりに取沙汰している「専門家」らの重大な盲点は、信者が自らまことの主人である神を捨てたがゆえに、カルト化という苦しみに遭ったにも関わらず、まるでそうした罪が信者にはなく、信者は被害者でしかないかのように、彼らの背教の罪を覆い隠しているところにある。さらに、カルト化現象が起きるのは、まるでキリスト教に原因があるかのように主張して、聖書の御言葉の信用を傷つけ、まことの神を悪者としてまで、人間の弱さや罪を弁護しようとしていることである。
 
カルト化現象なるものは、キリスト教の中に、キリスト教でないものが侵入した結果として起きているに過ぎず、それは聖書に原因があって起きているわけでもなければ、聖書の御言葉に基づく正しい信仰に原因があって起きて来たものでもない。

にも関わらず、「カルトの専門家」らが、しきりにカルト被害者を擁護して、人間の罪を語らないのは、彼ら自身が牧師であるか、または牧師と同等の指導的地位に立っており、自分自身が、人間を栄光化するという罪を犯しているからに他ならない。この人々は、あたかもキリスト教の改革を唱えるクリスチャンのように振る舞ってはいるが、実際には、彼ら自身が悪質に聖書に反する立場に立っているのである。だから、彼らの言動が、結局、キリスト教をより一層、貶め、破壊するものとなるのは当然である。
 
宗教指導者を絶対化して崇め奉るカルトも、カルトを糾弾することによって自らを栄光化しようとしている「専門家」らも、結局は、同じ穴の狢なのである。

こうした偽りの指導者によって打ち出される「カルト対策」なるものは、どこまで行っても、カルトと同じように、信者を迷わせるだけでしかなく、求められた解決を打ち出せないまま、やがて人々の不満の矛先を向けられ、何かしら悲惨な末路を辿ることになるのであろう。

我々はそうした一切の希望なき運動を離れ、ただ聖書の御言葉に立ち戻り、まことの命であるキリストに直接、結びつき、人間の教師ではなく、御霊によって直接、教えていただき、健全で正しい信仰生活を送りたい。
  
  
★本来の正しい教義

正しい教義 キリストだけが神と人との仲保者

★今日広まっている異端の教義(ペンテコステ・カリスマ運動)

牧師がイエス・キリストに成り代わっている


大衆が作り出す幻としての偶像崇拝宗教

「人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方に逸れていく時が来るであろう。しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。」(テモテへの第二の手紙4:3-5)

「悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。」(テモテへの第二の手紙3:13-14)

1.キリスト教界のバビロン化を糾弾しながら、自らがバビロンと化していった人々
 
 信仰的な事柄について、クリスチャンが判断を下す際、第一に、聖書に基づき、第二にも、聖書に基づき、第三にも、聖書に基づいて吟味し、それに加えて、あらゆる知識を総動員して徹底的に検証作業を行なうことが有益であると筆者は思う。

 日本のキリスト教界のカルト化などという現象を論じる人々は、この問題をまず第一に、聖書的な観点から論じるべきである。

 筆者が初めてこの記事を書いてから、すでに7年以上の月日が過ぎた。2009年当時、「キリスト教界のカルト化」というテーマは、信者の間ではかなり熱心に議論されていたが、キリスト教界に起きる不祥事を次々告発し、またその原因がキリスト教にあるかのように主張していたカルト被害者救済運動の支持者たち、および、「ニッポンキリスト教界の腐敗」を声高に非難していた人々は、恐ろしいことに、聖書の教えから逸れて、異端の教えの信奉者となって行ったのである。

 キリスト教界の「カルト化」を糾弾しているうちに、神と教会とクリスチャンの敵と化してしまった人々の代表者が、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師(カルト被害者救済活動の主導者)、それから、KFCのDr.Luke(脱カルト協会の会員)である。

 さて、Dr.Lukeの主張からは、筆者は2009年当時、大いに学んだことがあったが、今から振り返ると、同氏の主張の中には巨大な盲点もあったことが分かる。

 たとえば、同氏は自らの記事の中で、精神病理学的観点から、キリスト教界の不祥事の問題に光を当てようとしてこう述べていた。
 
「個人にしろ、国家にしろ、自己増殖&自己保存欲求に従って行動するわけで、<略>そのことを念頭におけば世界がどう動くかは予想できる。<略>

今後大衆が切に求める、また自身をすらそれに委ねるであろうもの-それは自己保存欲求を満たしてくれる存在。それは本来神だったのであるが、人類は『何か』に置き換えたいのだ。

ここにバビロン由来の宗教・経済複合体が侵入する隙があるのだ。『何か』がすなわちアイドル(偶像)となる。ゆめゆめあなどってはなりませぬぞ、アイドルとはかくも深く人間の実存性と関わるものなのだから。」

 この言葉自体は、誤ってはいないものと筆者は思う。これは、生まれながらの人間の欲望を抱く欲望をよく表している。人は常に神でないもの(すなわち自己)を神に置き換えたいと言う願望を心の中に持っており、「アイドルが欲しい」というのが、人間の最たる願望なのだという。むろん、人間にとっての崇拝の対象は、目に見えない神のみであるべきなのだが、それを別のものに置き換え、あるいは、神への信仰に何か別のものをつけ加え、唯一のまことの神だけへの従順を捨て去って、別のものを跪拝の対象に含めようとする罪なる傾向が、人類に潜んでいることを指摘したものである。

 そうした願望の集大成が、「セルフ」という言葉で呼ばれる。セルフとは、人の生まれながらの自己のことであり、その生まれながらの自己から、人間の自己肯定、自惚れ、自己義認、自己正当化など、自分を中心した様々な欲望が生まれて来る。要するに、神を抜きにして、神に認められていないのに、自分で自分を肯定し、自己保存したいという人間の本能的な願望である。

 そして、生まれながらの人々が、この罪深いセルフの願望を通して手を結び、自己を守るために連帯して、セルフの欲求を担保するために作り上げたものが、バビロン的な異端なのである。バビロンとは混乱・混合のことであり、これはキリスト教と異教的な要素が混じり合って生まれた、キリスト教に偽装する反聖書的な教えのことである。

 ここまでの点において、筆者は今のところ異論はない。終末の反キリストが他ならぬキリスト教の中から登場するであろうことは、ドストエフスキーなども警告していたことである。つまり、世が終わりに近づくに連れて、キリスト教も世俗化が激しくなり、「狭き門」であるイエスの教えを捨てて、人間の生まれながらの本能(セルフ)やこの世と妥協した堕落した福音が生まれるというのである。それがバビロン化したキリスト教である。

 別の記事においても、Dr.Lukeは同様に、自己増殖と自己保存の欲求に突き動かされる「セルフ」こそが、偶像礼拝の源であり、信仰にとって最大の障害となると警告していた。

 しかし、Dr.Lukeの言説の問題はここからである。

私たちは絶えずセルフかキリストかの選択に直面しているのだ<略>。すなわち肉とはセルフの実体化であり、信仰とはキリストの実体化である。この『実体化』という概念は昨今のオブジェクト指向言語でも採用されているが、まさに適切な用語と思う<略>。

かくしてこの世はセルフのぶつかり合いであるからともかくとして、ニッポンキリスト教の根本病理は、前からずっと指摘しているとおり、『セルフの病理』なのだ。個々の現象をあれこれあげつらったところで、それは『実』に過ぎない。根本にあるのは自分で自分の生存を担保し、自己増殖を試みる動機である。<略>

このために経済・宗教-いずれもセルフがセルフを救うシステム-が偶像となり、またセルフを喜ばせるもの、セルフを増長させるもの、これが肉の欲・目の欲・暮らし向きの自慢の3つのチャネルから侵入する。かくして経済・宗教複合体の侵入により、ニッポンキリスト教は、否、世界的にもバビロン化されてしまっている。キリスト教はまさにセルフの要塞と化し、むしろセルフを否む信仰あるいは福音にとっての最大の障害、あるいは敵にすらなっている。

この最後の文章に注目してもらいたい。

キリスト教はまさにセルフの要塞と化し、むしろセルフを否む信仰あるいは福音にとっての最大の障害、あるいは敵にすらなっている。

 Dr.Lukeのこの言葉に、信者は多大な注意と警戒が必要である。なぜなら、ここに大きな論点のすり替えがあるためなのである。

 筆者は、バビロン化したキリスト教、すなわち、セルフとの混合となってしまったキリスト教は非難されても仕方がないものと思うが、だからと言って、キリスト教そのものを根底から否定するのは、大きな間違いであると考える。

 たとえば、冷蔵庫に入れていた人参なり大根なりが、古くなって一部が痛んだとしても、だからと言って、全体を捨て去るべきであろうか? 病にかかったり、凍ったり、劣化したりして痛んだ箇所は切除せねばならないが、その一部を取り上げて、「これが全体だ」と主張して、全体を否定するのは愚かな間違いである。

 キリスト教がバビロン化するのは、キリスト教に非キリスト教的な要素が加わったために起きることであって、つまり、聖書の教えに、聖書以外のエキスを混合されたことの結果なのである。

 従って、聖書以外のところから付け加えられたもの(セルフ)が取り除かれさえすれば、キリスト教は本来の姿を取り戻すのである。

 悪いのは、セルフであって、キリスト教に罪はないのである。

 むしろ、正しいキリスト教は、この悪しき欲望の源である人間の生まれながら自己(セルフ)が、キリストと共に十字架につけられて死んだ、という認識を出発点として始まるのである。

 エクレシア(教会)は、主と共なる十字架上で、自己を焼き尽くされて死んだ人々の集まりである。

 従って、セルフの死未満のものは、本来、キリスト教とは呼べないし、エクレシアでもないし、これをキリスト教に含めるのは大きな間違いなのである。

 にも関わらず、Dr.Lukeは、「キリスト教こそセルフの要塞となり、福音の敵となっている」と主張して、ただ単に人間の作った組織や団体としての教会からの「エクソダス」を提唱するのみならず、「キリスト教からのエクソダス」まで提唱し、聖書の御言葉から時を追うごとに逸れていき、ついには何やら別の福音を打ち立てるに至ったのである。

 そうなったのは、同氏の批判には、もともと重大な欠陥が含まれており、同氏が聖書の御言葉を永遠に正しいものととらえず、バビロン化したキリスト教からバビロン的要素を取り除く(聖書の御言葉に立ち戻る)ことによって、正しい信仰に立ち戻ろうとしたのではなく、キリスト教を非難して、キリスト教と訣別することによって、異なる信仰に至ろうとしたことが原因である。

 同氏の主張においては、巧妙に、混ぜてはならない二つのもの(キリスト教とセルフ)が混ぜ合わせられており、本来、セルフに帰されるべき罪が、キリスト教へと転化されていることに気づかなければならない。

 Dr.Lukeの主張は、あたかもセルフ(アダム来の人間の罪深い古き人)を糾弾しているようでありながら、その罪をキリスト教にかこつけて、キリスト教全体を糾弾する転倒した理屈となっていることに注意が必要である。

 Dr.Lukeは、自分自身の主張に潜むこの極めて重大な論理のすり替えに、自分で気づいていなかったようである。そのため、この欠陥によってとんでもないところにまで持ち運ばれ、自らキリスト教の敵と化し、それでなく、聖書の神の敵と化したのである。

 そのことは、同氏が今や(2016年時点で)「自分は神である」と宣言していることからも見て取れる。このような主張は、善良なクリスチャンからは決して出て来ることのないものであり、まさに神から神の地位を奪って神になろうとした悪魔の主張を思わせるものである。

 Dr.Lukeは、クリスチャンには神以外の「アイドル」は決してあってはならないことを明確に主張しながらも、結局のところ、自分自身が、信者の「アイドル」となって脚光を浴びる道を捨てられなかったのである。

 一方では、同氏は自らのセルフを主と共なる十字架に渡すことを主張していたが、自分自身がその道を通らされることになった時、自分の肉欲、願望を十字架に渡すことを拒み、感覚を楽しませる享楽的な生活を捨てられず、多くの信徒たちの目を神ではなく自分自身に向けさせ、自分に心酔させる楽しみを捨てることができなかったのである。

 こうして、同氏はセルフに生きることを自ら選んで、神の御言葉を捨てたのであった。

 その結果、同氏のセルフが、彼に心酔し、支えるファンクラブのような支持者たち(大衆)のセルフと絶妙に響き合って、セルフの欲望を増幅させる集団的陶酔状態を作り出した。

 これが、「Dr.Lukeという幻想をアイドル化したKFC」である。

 こうして、「セルフがセルフを救うシステム」を糾弾していたはずのDr.Lukeは、自らセルフを慰め、救うための偶像となって、そのシステムをKFCに固定化してしまった。

 このようなことが起きたのは、Dr.Lukeがキリスト教のバビロン化という憂慮すべき事態を糾弾しながらも、その原因が、人間(Dr.Luke自身も含む)の自己の罪にあることを見ずして、あたかもキリスト教にその原因があるかのように主張して、神と聖書の御言葉と教会とクリスチャンを悪者にしたためである。

 「あらゆる人を偽り者としても、神を真実な方とせよ」と聖書にある通り、同氏は、セルフを糾弾しても、キリスト教と聖書の神を糾弾してはいけなかったのである。

 むろん、キリスト教という呼び方には、筆者も多少の抵抗がある。キリスト教は本当は人間の作った教えではなく、神の御言葉の霊的なリアリティだからである。だが、訳語の問題は今は脇に置いておこう。

 どんなに教会と呼ばれるところが世俗化して悲惨な状態になり、真にキリストを知る信徒らが減少しているように見えたとしても、それはこの世の移ろいゆく有様に過ぎず、神の御言葉は永遠に変わらないのである。

 また、神が定めたエクレシアも、この地上における教会の有様とは関係なく、永遠に変わらないものとして存在している。同氏は、現状のキリスト教の有様が混乱しているからという理由だけで、神の御言葉にまで間違いがあるかのように唱えて、キリスト教全体を否定して、教会とクリスチャン全体を退けるべきではなかったのである。

 これと同じことが、村上密牧師にも起きた。

 村上氏は、「キリスト教界のカルト化、牧師の独裁化という現象」を声高に非難し、キリスト教界で被害を受けたと主張する人々に手を差し伸べるうちに、Dr.Lukeと同じように、自分自身が牧師となって信徒の上に立つ栄光に幻惑され、なおかつ、神よりも人間の利益を優先する偽りの指導者、福音の敵となって行った。

 村上氏は「カルト化や独裁化」といった現象は、ごく一部の悪い牧師だけに起きることであって、自分には無関係だと考えたのであろう。(Dr.Lukeがセルフとはキリスト教につきものであって、自分自身の欲望を指すものだと考えなかったのに似ている。)

 このように「他人に教えておきながら、自分を教えない」盲点があだとなって、村上氏は自分を疑うことができなくなり、その結果、同牧師も、カルト化牧師と同じように、独裁化し、自己の無謬性を主張するよういなり、同氏の率いるカルト被害者救済活動も、反対者に対して言語を絶する制裁を行うような、カルト以上のカルトとなって化して行ったのであった。

 また、その過程で、村上氏は、あたかもキリスト教にカルトを生む原因があるかのように主張して、キリスト教の「二元論」を克服すべきものとして訴えた。

 こうした主張は、ペンテコステ運動に典型的なものであり、ペンテコステ運動はもともと「キリスト教には父性原理の二分性ばかりが強すぎるから、すべてを包含する母性的な要素を補わなければならない」と主張していたのである。

 だが、このような主張は、神の御言葉の切り分けの機能までも否定し、神の聖なるものと、汚れたものをごっちゃにし、神が受け入れられるものと、そうでないものの区別を曖昧にして行く大変危険なものである。

 村上氏は、キリスト教界で傷つけられたとする被害者を傘下に集め、彼らの面倒をみているうちに、いつしか、キリスト教そのものを(Dr.Lukeと同じように)憎むべきものとして告発するに至ったのである。

 人間の利益に寄り添うことを重視し、神の利益をかえりみない人々に共通する末路である。

 これらの人々が堕落して福音の敵となったのは、彼らの心に、ともに「大衆のアイドルとなりたい」という願望があって、これを捨てきれず、また、自分を頼ってやって来る人々の要求を拒みきれず、そうした願望に突き動かされた結果、誰もの願いを満たしてやりたいと考えたからに他ならない。

 本当は、カルト化現象は、キリスト教から生まれるものではなく、人間の罪から生まれるものであって、信者が聖書の御言葉から逸れ、聖書の唯一の神だけに従うことをやめて、神以外のもの(大抵は人間の指導者)を神のごとく拝み、奉ったことから生じる必然的な結果なのである。

 だから、カルト化現象のためにどれほど傷つけられた「被害者」がいたとしても、その人は、自分を被害者だと思う前に、神が被害を受けられたことに思いを馳せるべきである。

 その信者は、自分がまことの神から逸れて、人間の指導者を神として歩んだ過去をはっきりと罪として告白し、悔い改めることなしには、神の懐に戻ることはできないであろう。それをせずに、ただ自分は一方的な被害者だと主張していたのでは、神もその人を助けることができないであろう。

 にも関わらず、人間に優しく、人間の利益に寄り添って行動するために、村上密牧師は、被害者を名乗る人々の心の中でのキリスト教に対する敵対感情を助長するばかりで、彼らを悔い改めには導かなかった。

 そして、彼らがカルト化牧師を失った心の空洞に、今度は自分が入り込み、自分が彼らの新しい主(あるじ)となって彼らの心を支配したのである。

 そんな有様だから、こうした人々の活動が、聖書の神に敵対するものとなるのは、必然である。彼らはキリスト教界で起きている憂慮すべき事態を声高に叫びはしても、決して、信者をまことの神だけに頼って生きるように導かないからである。

 だから、このように信者をまことの神から遠ざけ、迷わせるだけの存在が、やがて反キリストに与し、神と教会と信者を敵に回すものとなって行くのは、全く不思議ではない。

 彼らは人間のセルフを糾弾する代わりに、これを擁護して、神を糾弾し、神の御言葉を糾弾することを選んだのである。こうした人々は、当然ながら、ふさわしい報いがある。

 今後、彼らを待ち受けているのは、信奉者もろともの破滅だけである。


2.「キリスト教の危機」を唱えて信者を食い物にする擬似キリスト教的セルフ教

 悪徳商法や、霊感商法が、常に人の不安につけ込んで支配するように、「キリスト教界に起きた諸問題」を餌にして、人の心を釣り上げようとする似非指導者も、れっきとして存在することを、我々は覚えておく必要がある。

 キリスト教の改革を装った偽りの運動に欺かれないようにする必要がある。彼らは商売のために、困った人々を救う優しい指導者を演じているに過ぎない。

 もともと、キリスト教界にはあまりにも多くの自己啓発的な商売のためのプログラムが溢れ、バビロン化が甚だしい。教会成長論、弟子訓練プログラムによる世界征服、日本や世界全体のリバイバル化、特定の国を神の国と同一視する考えなど、誤った運動は枚挙に暇がない。

 だが、だからと言って、そうした誤った運動を非難するだけでなく、「キリスト教界全体を非難して、そこからの脱出を訴えること」もまた、ある人々の商売の一環となっているのである。

 これらのプログラムは、すべて人間が始めたものであって、聖書の御言葉に基づくものではない。だからこそ、「被害者救済」を唱える上記の運動も、絶え間ない分裂といがみ合いに見舞われているのである。
 
 聖書ははっきりと言う、知性が腐って、真理にそむき、信心を利得と心得る者どもの間に、はてしのないいがみ合いが起ると。

富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる。無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である。

しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。」(テモテへの第一の手紙6:5-10)

 しかしながら、主イエスの救済は、十字架上ですでに完了した以上、乱れた地上社会をもう一度、罪と汚れから救ってもらうために、我々は、新たな救済者を待ち望む必要ないのである。ましてや、キリストを知っている人々から成る教会を「浄化」「改革」してもらうために、キリスト以外の指導者を待ち望む必要などないのである。

 キリストこそ、世の全ての罪を取り除くために来られた贖いの小羊であり、この方に従うことこそ、すべての問題の解決である。

 「世の中の危機」「教会の危機」「カルト化の危機」などを唱えて、しきりに信者の心に不安を煽り、新たに生まれたその「危機」に対する「救済」を提供しようとやって来る目に見える指導者に従う必要はない。

 「キリスト教の危機」を訴えて、キリスト教があたかも欠陥宗教であるかのように主張し、「あなたたちクリスチャンが抱える問題を私が解決してあげよう」などと言って、上から目線で信者の前に登場して来る指導者に、自分を委ねる必要はない。

 己を神以上と考えている人たちだけに、そういう主張ができるのである。聖書以上に自分を正しいと考えている人間でなければ、キリスト教の「欠陥」を主張することはできない。
 
 だから、そうした謙遜さを装いながら、神ではなく、人間の利益の擁護者として登場して来る傲慢な人々の言い分に惑わされてはならない。

 キリスト教に危機など存在しない。あるのは人間の神に対する背信の罪と、その罪の結果として人間に当然のものとして起きた危機だけである。

 従って、そうした「危機」を解決するために必要なのは、キリスト教を非難することではなく、人が己のセルフの罪をかえりみて、これを悔いて神に立ち戻ることだけである。

 繰り返すが、神に罪があるのではなく、キリスト教に罪があるのではなく、聖書の御言葉に非があるわけでもなく、人間の側に罪があるだけなのだ。

 にも関わらず、あたかも「キリスト教にカルト化の原因がある」かのように訴えて、セルフを甘やかしつつ、キリスト教を悪者としている人々は、今日も、「イエスを十字架につけろ! バラバを赦せ!」と叫んでいるのであって、教師を装いながら、そのような主張を繰り広げる人々に将来的に待ち受けている神の裁きは、とりわけ厳しいものとなるであろう。