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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

キリストの花嫁たる教会の聖と高貴さについて―キリストと共にすべての権威を超えて支配する教会―

オリーブ園に非常にタイムリーな記事が載っているため、転載したい。オースチン-スパークスの「土台のある都」 第六章 都――天の統治の座 (5)から。


三.その行政上の特徴

 教会に関して、また私たちの現在の題目である「土台のある都」としての教会のために、この手紙の中に示されている三番目の点は、その行政上の特徴です。この手紙の中にこれを明らかに示す数々の事柄が示されています。この都、この教会を構成するこの民の天的性質と霊性のゆえに、そこには一つの強力な行政上の要素があります。これに関して一つか二つの節を見ることにしましょう。

 エペソ一・二一~二二。「すべての支配、権威、力、主権、この世界だけでなく来るべき世界においても唱えられるあらゆる名を遥かに超えて高くされました。また神は、万物をキリストの足の下に服従させ、そして彼を万物の上にかしらとして教会に与えられました……」。主御自身と共に、そして教会の主権的かしらとしての彼の地位から始まります。

 二章六節。「キリスト・イエスの中で、私たちを彼と共に復活させ、彼と共に天上に座らせて下さいました」。ですから、彼の地位だけでなく彼の存在とも一つになる特権を私たちは与えられています。私たちは彼と霊的に結ばれたと見なされています。天上における彼の地位だけでなく、天上における彼の存在とも一つなのです。それはあらゆる支配、権威、力、主権等を遥かに超えています。教会は彼のこの地位とつながっています。

 三章一〇節。「それは今や天上にいる主権者たちや権力者たちに対して、教会を通して神の多様な知恵を知らせるためです」。これは行政上の要素ではないでしょうか?教会により、神は主権者たちや権力者たちという知的存在を支配しておられること、この知的存在に強い印象を与え、彼らを教え、御自分の多くの面にわたる知恵を知らせておられることは、極めて明白です。

 六章一二節から。この天上では、教会は戦いの中にあると見なされている一方で、教会は権力の座にあるとも見なされています。これは優位に立つため、優勢になるための戦いではなく、むしろ優位性を示すため、次の事実を示すための戦いです。すなわち、これらの主権者たちや権力者たちは敗北しており、天上にあるキリストとその教会とに服しているという事実です

 ここでエペソ六章と黙示録一二章とを比較する必要があります。エペソ六章では、教会は天上で主権者たちや権力者たちと格闘中であると見なされています。黙示録一二章の場合、一つの群れが悪しき者、暗闇の軍勢の激しい襲撃を受けています。その後、この群れはそれらの軍勢を天から投げ落とし、それらの軍勢が活動していた領域を統治する地位を完全かつ最終的に受け継ぎます。これがこの戦い、敵との大きな最後の戦いの終わりです。この戦いにより、敵は空中または天上の自分の場所から投げ落とされます。エペソ六章から黙示録一二章に目を向けるとよいでしょう。エペソ六章では戦い、代々にわたる戦いが進んでいます。黙示録一二章では、この戦いが最高潮に達していることがわかります。その結果、依然として天上にいたエペソ六章のこれらの軍勢は天から追い出され、もはやそれらのための場所は見つからなくなります。そして教会は天に残されて、王座の支配する地位を完全に占めます。



 以上の記事では、キリストは万物のかしらであり、万物を足の下に従わせ、「すべての支配、権威、力、主権、この世界だけでなく来るべき世界においても唱えられるあらゆる名を遥かに超えて高くされ」た方であるが、教会は、万物のうちから初穂として贖われたキリストに連なる存在として、キリストをかしらとしてその支配に服し、キリストと共に復活し、彼と共に天に座らされた者として、サタンが最終的な滅びと罰を受けるまでの間、この世を超越したキリストの目に見えない絶大な支配を、この地上において目に見える形で体現し、サタンのわざを打ち壊し、サタンを天から投げ落としながら、神の国の前進に寄与すべきミッションを負っていることが理解できる。
 
 前の記事にも書いた通り、キリスト者はこのように誰しもが、自覚しようとすまいと、暗闇の勢力との間での主権の激しい争奪戦にすでに巻き込まれているのである。
 
 それは、霊的陣地を巡る激しい争奪戦であり、戦いを開始するからには、必ず、勝利をゴールとせねばならない。
 
 この争奪戦の原則は、この世のチェスや将棋やオセロなどのゲームと基本的に同じである。戦いに勝利して、敵を敗北に追い込み、敵の財産を奪い、陣地を勝ち取り、そこに敵である暗闇の勢力の支配とは異なる、キリストの復活の命の支配を打ち立てることが目的なのである。

 パウロは次のように述べた、わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(Ⅱコリント10:4-6)

   すなわち、キリスト者は誰しも霊的戦いに遭遇しており、その戦いの中で、敵の要塞を打ち破り、敵の屁理屈をすべて打破し、敵の武装を解除して、その領土を明け渡させ、財産を分捕り、敵軍を捕虜として自らの隊列に加える権限を与えられているのである。

 キリスト者はこの戦いに無知であってはならない。霊的な敵を敗北に追い込み、捕虜として引いて行き、凱旋の行進で辱めてさらしものとして処罰を加えるまで、決して退かない覚悟を決めねばならない。
 
 だが、神の民と暗闇の勢力との間の争いについては、往々にしてクリスチャンがあまりにも未熟かつ無知なので、神の子供たちよりも、暗闇の勢力の方がはるかに狡猾で戦いに精通しており、それゆえに、先に神の子供たちに攻撃をしかけて優位に立とうとして来ることが多い。

 たとえば、カルト被害者救済活動を率いる村上密が、教会に恨みを持つ被害者を募っては、諸教会に裁判をしかけ、その教会を弱体化して、牧師を追放し、自らの教会に併合する(ブランチ化する)ということを繰り返して来たことをよく考えてもらいたい。

 彼らは、諸教会に激しい戦いをしかけて弱体化・疲弊させるために、自称被害者らを募り、その証言を利用しては、諸教会を中傷し、リーダーに悪者のレッテルを貼り、ネガティヴ・キャンペーンを張って悪評をまき散らし、信徒の離散を促し、さらに、それでも教会に残った信徒には、密偵を送り込んでは分裂工作をしかけて結束を弱め、それでも教会が陥落しなければ、教会に裁判をしかけ、教会が徹底的に弱体化したところを狙って、リーダーを追放し、教会の領土、信徒、財産を奪って、暗闇の勢力の財産に加えるのである

 このようなことは、福音伝道を主たる職務とする牧師の活動に全くそぐわないことは言うまでもないが、しかし、こうした彼らの活動は何よりも、暗闇の勢力が、村上密という一人の人間を利用しながら、神の教会に激しい戦いをしかけて、教会を弱体化させては陥落し、暗闇の領土として加えて支配するという方法論を取って来たことをよく示している。

 これは神の教会と暗闇の勢力との間で、激しい陣地の争奪戦がすでに開始していることを表している。すでに数多くの教会が脅しつけられて圧迫を受け、降伏するか、弱体化しており、Dr.Luke率いるKFCなども、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団によってすでに陥落された恥ずべき集会の一つであると言える。

 我々は、こうして、霊的な敵が、神の教会に執拗かつ激しい攻撃をしかけては教会を城のごとく陥落し、暗闇の領土に併合しようともくろんでいると分かっている以上、キリスト者の側でも、これに積極的に応戦して、敵に反撃し、敵の作戦を打破し、その悪しき計画を破綻せて、むしろ、敵の領土を奪い取って、キリストの復活の命によって支配される陣地を拡大せねばならない必要性に直面していることに気づかねばならない。

 つまり、我々は敵の望んでいることと正反対の現実が起きるよう、手を尽くして立ち向かわねばならないのである。

 敵が以上のように卑劣な方法と作戦を用いて、キリストの花嫁たる諸教会を蹂躙・冒涜し、教会から神の聖を取り除こうとしているならば、神の子供たちも、ただその作戦から自らを防御するだけでなく、これに徹底的に応戦して、敵に反撃して勝利をおさめなければならない。

 敵の中傷に対して、それが嘘であると説明して自己弁護しているだけでは全く足りない。霊的な敵どもは、神の教会を地上から殲滅・駆逐することを目的としており、その目的を成就しない限り、決して攻撃の手を休めることもなく、ターゲットから手を引くつもりもないことを理解して、これはどちらかが殲滅されるまで、決して終わらない戦いであって、神の子供たちも、決して手をこまねいていてはならず、敵と同じだけ執拗さと激しい憤りを持って、敵軍が完全に殲滅して力を失うまで、徹底的に攻撃をしかけて敗北に追い込まねばならないことを自覚すべきなのである。

 むろん、我々は誰からも戦いをしかけられていないのに、自ら誰をも攻撃する必要はないし、誰からも憎まれていないのに、誰をも憎む必要はない。

 しかし、神の教会の殲滅を目的として悪霊の思いを体現して活動している人間どもが確かに存在するという事実が分かったならば、これらの連中は完全に福音の敵であるから、それに立ち向かう過程で、容赦してはいけないことを知るべきである。彼らが自ら犯した悪事に対する処罰を受け、恥をかかされ、逃げ去り、彼らが神の教会をさらしものにして嘲笑したのと同じように、いや、その何倍も、嘲笑され、辱められ、さらしものとされる結果に追い込むまで、決して攻撃の手を緩めてはならないのである。

 なぜなら、こちらが徹底的に応戦しない限り、彼らは次々と教会に打撃を与えては教会を破壊することを決してやめないからである。キリスト者は敵のわざを完全に破壊するために、具体的な反撃を行わねばならないのである。
 
 それは、真の意味での「聖戦」であり「十字軍」である。

 ほとんどのクリスチャンは、信仰生活とは、教会で讃美歌を歌い、楽しい昼食会を開き、お気に入りの信徒たちと歓談にふけり、折り紙を折ったり、キャンプに行ったりすることだと考えており、霊的な戦いが常に進行中であることを全く知らないし、意にも解さない。

 しかし、そのような未熟なクリスチャンであっても、思ってもみない激しい攻撃をしかけられれば、さすがに何かが起きていることに気づかないわけにいかないだろう。

 だが、落胆することは全くない。戦いが起きるときには、それを機に、キリスト者の側でも、積極的に敵の要塞を打ち砕き、敵陣を我が物として勝ち取るチャンスが与えられていることを思うべきである。

 神は、我々が勇敢にその戦いを戦い抜いて、勝利をおさめることを願っておられる。

 そこで、こちら側も、勝利するまで退かない覚悟を固めねばならない。

 さて、我々が用いる武器とは、敵が用いているような肉による方法ではない。我々は聖書の御言葉に立って武装することで、敵の嘘を論破して打ち破り、彼らの暴虐を声を大にして非難し、彼らの悪事の証拠を白日のもとに晒すことで力を失わせ、また、この世のあらゆる正当かつ常識的で合法的な手段に則り、彼らを武装解除して抑える(縛り上げる)ために必要な具体的な措置を取るのである。

 そのように反撃を続けることで、我々は敵の要塞を最終的に陥落し、敵の領土を完全に明け渡させて、これを神の国の主権が及ぶ領域に加え、敵軍のリーダーとその手下たちを戦利品として勝ち取ることができる。彼らを凱旋の行列でさらし者として辱め、処罰することが可能である。

 多くのクリスチャンは、全くと言っていいほど次の重要な事実を知らない。

 すなわち、神の教会を冒涜・蹂躙することは、この世においても、来るべき世においても、重い罪に相当するにも関わらず、サタンを中傷することは少しも罪にはならないのだと。サタンにはどれほど激しい憎悪と悪罵の言葉を浴びせても、決してやりすぎということはなく、どんなに口汚い非難や冒涜の言葉でさえ、むしろ全く足りないくらいなのである。

 クリスチャンには、悪魔に対する憎しみがなくてはならない。何よりも、悪を憎む心がなくてはならない。悪魔の犯した罪が、永遠の刑罰に相当することを考えれば、クリスチャンが悪魔に対して向けるべき憎しみと非難は底なしであって当然なのだ。

 我々は贖われる前の記憶では、滅びゆくアダムである人間の一人として生まれているので、どのような人間に対しても、まずは同胞としての憐れみの感情を持つであろう。同じ人間に対して憎しみや敵意を向けたり、戦いの相手とみなすことはためらわれるはずだ。

 しかし、信仰者になった以上、我々は、ただ単に人間的なものの見方から、全ての人間を自らの同胞として考えることをやめて、神の側から物事を見、神の国の権益に立って、何が神に栄光をもたらすかという観点で物事を見るように、思考を変えて行かなくてはならない。

 その過程で、私たちは、たとえクリスチャンの同胞を名乗り、兄弟姉妹を名乗っていたとしても、明らかに贖われていないと分かる行動を取る者たち、もっと言えば、明らかに暗闇の勢力の手先となって、聖徒たちに敵対し、神の教会やクリスチャンの破壊と殲滅を願い、それを職業として実行に移しているような者たちに対しては、兄弟姉妹としての容赦や憐れみを決して持ってはいけないことを知るべきなのである。

 こういう悪しき人々の存在を利用しながら、霊的な敵が、キリスト者の殲滅と死を願って攻撃をしかけている以上、キリスト者の側が、こうした敵どもに対する憐れみや容赦を持つことは、自ら敗北を望み、死を望んでいるのと同じであり、それは憐れみではなく、取り除かれねばならない甘さ、弱さでしかないことを理解せねばならない。

 神の教会は、教会を冒涜して荒らし回る者たちの薄汚い手をはねのけて、キリストの花嫁たる高貴さと尊厳を公然と証明せねばならない。

 その根拠として、教会はすでに「すべての支配、権威、力、主権、この世界だけでなく来るべき世界においても唱えられるあらゆる名を遥かに超えて高くされ」た方の頭首権に服し、この方と共に、この方の御名によって、この世だけでなく来るべき世においても、すべての支配、権威、力、主権を超える絶大な権威を与えられていることを思うべきである。

 サタンを天から投げ落とす権威は、教会にこそ与えられている。神はその仕事を教会に託しておられるのだから、教会はその権威を大胆に行使すべきである。それによって暗闇の勢力が権威を行使していた領域を明け渡させ、そこにキリストの復活の命による支配を打ち立て、御国の前進に貢献すべきなのである。

 キリストの花嫁は、花婿なるキリストのゆえに、高貴で聖なる貴い存在であり、勇敢な戦士のように強い存在でもある。この花嫁は、決して穢れた者たちに自分を冒涜させたり、蹂躙させたりすることはせず、むしろ、最後までキリストに対する貞潔を捨てず、むしろ、穢れた者たちが、この花嫁のゆえに、恥をかかされて敗退するよう、勇敢に戦いを戦い通す。

 この花嫁は、賢い花嫁であり、花婿なるキリストが地上に来られるまでの間に、花婿に栄光を帰するよう迎えるべくすべての支度を整える。

 繰り返すが、教会は、キリストの花嫁であるから、キリスト以外の何者にも服することをせず、神の知恵に逆らうあらゆる高慢を論破し、暗闇の勢力を敗北に追い込み、その陣地と手下を戦利品として勝ち取りながら、そこにキリストの支配権を打ち立てて、神の国の前進に寄与し、花婿なるキリストに栄光を帰すべきなのである。

 悪魔がほえたけるししのごとく獲物を求めて徘徊していても、全く恐れるに足らない。勝利はキリストにあり、教会にあるのだから。
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