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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。

今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。

正しい人がやっと救われるなら、
 不信心な人や罪深い人はどうなるのか

と言われているとおりです。だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。」(1ペテロ4:17-19)

* * *

「天のお仕事」を始めてからしばらく経つ。

ある指導者が「私たちはキリストだ!」と豪語している。この理論の誤りについては、後ほど記事にする予定である。エクレシアはキリストの体であって、キリストご自身ではない。ところが、彼らはそんな初歩的な聖書理解さえ失い、エクレシアはキリストだと言い始めた。

その指導者は神学を無用なものとして否定・攻撃しているが、それも当然、彼らはかしらであるキリストに服することを拒んでいるので、体の欲望に導かれるまま進んでいるだけで、自分で物事を考える力がそもそもないのだ。

それはまるで首を切り落とされた罪人が、頭がなくなったのに、まだ動き、よろめき、手足をばたつかせながら、この世をさまよっているかのごときグロテスクな光景である。それがキリストとは何の関係もない腐乱死体に過ぎないことは、この先、如実に証明されるであろうと思う。

唯物論とは、かしらであるキリストを否定して、からだに過ぎない者が、己を神だと宣言する「さかさまの理論」に他ならない。彼らは、ヘッドから切り離され、ヘッドを否定して、ボディだけで生き残れると主張して、ボディを鍛える。だが、そんな生き方が可能なはずがなく、頭を失った体は、短い期間で、己を守れなくなり、その体の細胞は壊死して行き、腐臭を漂わせることとなる。

前にも書いた通り、ハンセン病者の体が形を失って行くのは、痛みの感覚がなくなることによる。頭を失えば、体は神経の感覚がなくなり、痛みを感じなくなる。痛みの感覚が失われるからこそ、自分の弱い部分を守れなくなり、自分を自分で痛めつけ、人の形を失い、崩壊して行くことになる。

筆者はそういう恐るべき自己顕示、自己栄化に生きる道を拒み、十字架の死にとどまって、地道に天の仕事を遂行している。そこから復活の命が現れるためだ。

筆者の言う「天の仕事」とは、悪魔と暗闇の勢力が作り出した偽りの理論の嘘を明るみに出し、彼らの罪を証明する作業である。

それは根気強い地道な作業の積み重ねだが、敵の城を崩すためには、避けて通れない道だ。考えれば考えるほど、敵がいかに卑劣な論旨のすり替えを行っているがよく分かる。

こうして、暗闇の勢力との論戦を繰り広げるうちに、分かったことがいくつかある。

第一に、悪魔はまともな理論をどうしても作れないこと。悪魔の作った理論には必ずほころびがあり、自己矛盾があり、論理破綻がある。それを見つけ出し、嘘の嘘たる所以を明らかにすることによって、悪魔の理論が崩壊する。

端的に言ってしまえば、敵の理論は、自己矛盾による無限ループに陥っており、目指している目標を決して達成することができない。その事実が明るみに出されれば、それは誰にとっても無用な理論として打ち捨てられることになる。

第二に、悪魔には人権がない。だから、悪魔と暗闇の勢力に与した人たちには、他人を傷つけることしかできず、自分を守ることができなくなるという特徴がある。 つまり、自らの正当な権利を擁護するために立ち上がるということが、彼らにはどうしてもできないのだ。

だから、彼らは攻撃されっぱなしになり、自己防衛できないまま、弱体化して行く。彼らが応戦すると叫ぶのは、報復措置として不法行為を行うという予告でしかなく、彼らは不法行為を行わずして、正当な方法で身を守ることができない。

だから、彼らが自己防衛に成功したように見えるときでさえ、そこには不法行為がつきものであって、その事実を静かに指摘することによって、彼らの成功は失われる。

また、彼らは欲望に満ちており、自己を顕示するための享楽的な活動にしか精を出せないため、最も苦しい戦いを地道に孤独に戦い抜いて、身の安全をはかり、自分を守り通さねばならないときに現場を離れ、お祭りに精を出す。防衛のシェルターが敗れても繕わず、自分を守れない。

彼らは採算度外視で拡大すること、繁栄することばかりを目指し、破れ目を修復し、弱ったもの、傷ついたものを包み、病んでいるものを癒し、自己や他人を世話することがどうしてもできない。だから、彼らの言う成長は、ハリボテの人形のように中身のないものとなり、その空虚さを明るみに出せば、その成長は、風船のように弾け飛んで消え失せる。

* * *

今、筆者の中で、激しい争奪戦が起きている。それは自己のアイデンティティを巡る争奪戦である。キリストに贖われた新しい人として立つか、それとも、過去の残滓にとどまるか、重要な戦いの正念場である。

反カルト運動の指導者や支持者らは、長年に渡り、自分たちが一度、捕虜とした人間を、生涯に渡り、奴隷として拘束し、逃がさないために、手かせ、足かせをつけては、その人間を決して自由にしないと宣言して来た。

だが、神はそれとは全く異なる結論を私たちのために提示して下さる。

それが、真理によって私たちが得た自由、キリストにある新しい人である。

筆者はその真理を掴み取り、それを堅く握って手放さずに、先へ進んで行く。ここから先は、エクソダスの道、別れた紅海を渡っていく道だ。敵軍はもう追いつけない。

筆者はある人を数年前に「サタンに引き渡す」と書いた。筆者が反カルト運動と完全に決別し、聖書の真理に立つための戦いの覚悟を決めた瞬間であった。

たとえこの地球上の誰一人、理解せずとも良いから、一人になっても、聖書の御言葉に固く立ち、神がキリストにあって私たちのために約束して下さった絶大な栄光の真理に固く立って、その約束を破壊しようとする者に、断固、立ち向かうことを決めた。

それからしばらくの間、依然として激しい戦いが続き、筆者は、あまりの戦いの激しさに、何度か、それをやめようとしたことがあったが、その度毎に、暗闇の勢力が、筆者に敵対していたその人間を、敵軍の捕虜として、筆者の手の届かないところへ連れ去って行った。

筆者が最も劣勢にあって、ほとんど絶望しかかっているような時にさえ、その人は悪魔によって捕えられたまま、筆者との間で停戦を結ぶこともできず、打ちのめされ、罪を宣告されて、ついに筆者の力によらず、暗闇の勢力によって連れ去られたのである。

そうして、戦いの渦中で、その人は筆者から引き離されて、暗闇の勢力によって、二度と戻って来られない領域へ連行された。

筆者は、それを見ていささか驚いた。暗闇の勢力は、自分たちを守るために一致団結しているのかと思っていたが、そうではないことが分かったからである。暗闇の勢力の中にも、序列があって、彼らは破滅を宣告された者を捕虜として、彼らをより深い破滅へと引きずり込むために活動しているのだ。

だから、彼らは自分たちが助かるために連帯しているのではなく、破滅を宣告された者から順番に、より深い破滅へ引きずり込むために連帯していると言って良い。何にせよ、それは破滅を運命づけられた者たちによる連帯だから、助け合っているように見えるのは表面的なことでしかなく、その連帯の中にいる人間は、結局、全員が破滅することになる。

そういうわけで、長年、筆者を苦しめて来た人物は、筆者には手を触れることができなくなり、遠く、遠くへ連れ去られて、戻っては来れない領域に行った。再度、戦いをしかけて来ることがあれば、その時が、その人の完全な終わりになるだろう。

そこで、筆者はさらなる戦いのために、後ろを振り返らずに、別れた海を新しい地へ向かって前進している。新しい地へ到達するのか、それとも、諦めて途中で立ち止まって、溺れ死ぬのか、それは私たちが自ら選択する道なのだ。

他人のことを論じているうちに、自分自身が失格者にならないよう、よく気をつけて歩まなければならない。
 
過去は私たちを常に出てきた故郷に引きずり戻そうと狙っている。だが、私たちは後ろのものを忘れ、前へ向かい、目の前に置かれた賞与を目指して走り抜かねばならない。たとえ目の前に広がっているのが、海でしかなかったとしてもだ。

主が用意される道は、薄暗がりの中にあって、それが勝利の凱旋の道だと分かることはほとんどない。そこを歩いているときに、その道が天に続いていると分かることもまずない。

戦いは激しく、恐れや不安が取り巻き、孤独と戦いながら、身一つで手探りに進むしかない。後になってようやく分かる、そうして人知れず支払った代償、孤独に歩んだ戦いの道を、神はご覧になって、評価されていたこと。そのように代価を払うことでしか、決して成果を勝ち取ることはできないことが。

だからこそ、筆者は誇示しようと思えば、誇示できるものがあっても、キリストご自身以外のものを誇ることはすまいと決めた。やろうと思えばできないことではなかった。だが、その度毎に、心を押しとどめるものがあり、その神聖さ、厳粛さを決して手垢にまみれたものにしないためには、事を秘めなければならないと分かった。 

今まで、筆者のために尽力してくれた人たちも、いなかったわけではないが、筆者は、それを誇ろうとも思わないし、その人たちに、お礼も言うまいと決意している。お礼を言ってしまえば、天での報いがなくなるだろう。ただ黙って、互いにやるべきことを果たしただけと、感謝もねぎらいもなく、素っ気なく別れるのが良い。

そういうわけで、筆者は表情を固くして、本音を語らない。まだ戦いは続行しており、終戦などしていない。どうして今、すべてが終わったかのように安堵して、喜ばしい台詞を口にし、くつろぎの時のように過ごすことができるのか。

腰に帯をし、身を引き締めて、霊的な武器で固く武装して立ち、大切な結論は、心に秘めておけ。神にのみ心を打ち明けよ。人にどうこう言わせてはならない。命と引き換えにしてでも、守り抜かねばならない宝がある。

むろん、それは神がご自分の独り子を通して私たちに与えて下さった完全な救いのことであり、完全な贖いのことであり、この古き世界からのエクソダスのことだ。

エジプト人が溺れ死んだそのときに、やっと筆者は笑顔を見せることができるかも知れないが、それも束の間であり、一つの仕事が終わっても、高く、高く、さらなる高度へ向かっていかねばならない。

世にどっぷりと浸かっていればいるほど、人の物事の判断はダメになる。神の御前に静まり、全てを置いて、御心を尋ね求めねばならない。人間の利益の全てを脇において、神が何を願っておられるのか、その観点から物事を見ることが、どうしても必要なのである。

2009年に起きた出来事を、確固として握り、手放さないようにせねばならない。それを考えていたとき、自民党政権は、2009年に終わっていたのだと気づいた。それ以後の歴史は全部、嘘であり、泥棒の歴史であり、政権交代によって、この国の民意が打ち立てるはずだったものの否定、破壊の連続だったのだと・・・

あの時に掴んだはずのものを守り通せず、敵の恐るべき卑劣な作戦に打ち勝つ術を知らなかったから、我が国の現在があるのだと。

* * *

筆者が訴訟について具体的なことを書かなくなったので、何も進展していないと考えている人々は多いかも知れない。

前にも書いた通り、真に勝利が確定していないのに、快哉を叫ぶのは極めて愚かなことであって、私たちは神が勝たせてくださるなら勝つが、神が味方して下さらなければ、そうではないと、謙虚に言わなくてはならない。

敵の足元は崩れており、 それは感情論ではなく、峻厳な事実である。だが、今、そのことについて書こうとは思わない。

地上に立派なエルサレム神殿が建っているとき、まさかイエスが生きた神殿であることを理解した人はほとんどなかった。イエスは神殿が破壊されても3日で建て直すと言われた。それはご自分のことを指して言われたのである。

神の国の秩序、新エルサレムの秩序は、私たち信じる者の中に来ている。なのに、そのことを知っている人はとても少ない。地上の多くの人々は、あの山、エルサレムへ駆けつけ、自分好みの指導者の発言の中に、神の国があると信じている。

しかし、聖書は警告している、人に惑わされるなと、あそこに、ここにキリストがいると言われても、彼らに着いて行くなと。

東京都知事選などを見ていると、我が国の主都は魔都となったと思わざるを得ない。筆者は候補者全員を見渡して、誰も選ぶ人がいない、という結論にしか至り着かないからである。

多くの人たちは知らない、この国に裁きの時が迫っていること。前からずっと書いていることだが、オリンピックは開かれず、コロナは収束せず、東京に迫っているのは巨大地震である。

今、この主都に新しいものを建設する時ではない。

だが、筆者は地上を取り戻すために奔走している。人間の失われた尊厳を、失われた調和を、失われた正義、真実を回復し、神が私たちのために用意して下さった新しい人を着る約束を、確かにこの手にしっかりと握るために。

貧しい者が天の国を得、悲しむ者が慰めを得、義に飢え渇く者が満ちたり、心の清い人が神を見るために。 

だからこそ、戦いがあり、語らなければならないのだ。私たちのアイデンティティは何か。神がキリストの十字架を通して、私たちのために用意して下さったものは何か。

私たちは死に物狂いで、キリストを選び、御言葉の中にとどまらねばならない。古き自己を否み、日々の十字架を取って、キリストに従い、まといつく罪を振り切って、あらゆる古き人の痕跡を脱ぎ捨て、しみも、しわも、その類いの一切ない、栄光の花嫁なる教会を自ら選択し、そこに立ちおおせねばならないのだ。
 
今の時代は、イエスが地上を生きておられた時代と同じで、地上には数々の立派な神殿が築かれ、厳かな儀式があり、きらびやかな衣をまとった聖職者たち、教師たちがいる。

だが、私たちは自分自身の心の内に、神の国が到来しており、神の神殿を破壊する者は滅ぼされる、という法則を思い出さなければならない。

あの教会でも、この指導者でもなく、私たち自身が、ノアの箱舟であり、次なる時代のために備えられた贖いの初穂なのであり、キリストを長兄とする神の家族なのである。

だから、すべての指導者や、カウンセラーを名乗る人々から離れなさい。見えない神ご自身、キリストから与えられた油である御霊に直接、教えられて歩みなさい。

目に見える指導者につき従えば、待っているのは、霊的搾取だけである。そしてついには、滅びへと誘い込まれることになる。
 
よく見ておいてもらいたい。多くの人たちが、自分は「紅海を渡り」、「キリストに連なる者」になったと豪語している。ある人々は、「キリストご自身になった」とさえ言う。自分たちは新創造であって、約束の地にたどり着いたと彼らは言う。

だが、彼らのエクソダスが本物でなければ、彼らは紅海を渡り切ることはできず、途中で溺れ死ぬことになる。今、筆者が、追っ手がようやく筆者に手を触れられなくなったと述べているだけで、紅海を渡り切ったとは述べていないことに注意してもらいたい。

パウロでさえ、自分はすでに得たとは思っていない、得ようとして前に向かって身を伸ばしていると述べているのに、すでにすべてを得たかのごとく豪語している人々の発言には注意する必要がある。
 
それは各人の激しい戦いである。みんな仲良く、手を携えて天の門をくぐることなどできない。神はそれぞれの生き方に報いられる。御言葉を聞いても従わない者は、神の国に到達することはできない。これは厳粛な結論である。 
 
筆者の周りでは、箱舟建設を嘲笑する声が絶えなかったが、すでに大雨が降り始めている。エジプトのファラオのように、筆者を奴隷にしておきたい蛇のような人たちが、何度、エクソダスを阻もうと追って来ても、私たちの前進は、それによって妨げられることはない。

策が多いから功を奏するのではなく、神が知恵を与えてくださるからこそ、助かるのだ。

この国の人々は、あたかも安全配慮義務を怠ったまま、高い高い塔を建てている建設現場の労働者のようだ。あるいは、兵糧もないのに、大戦争を開始すべく、他国に奇襲をしかけている国のようだ。

この地が大きく振るわれるとき、彼らが築いた脆い土台では、塔は立ちおおせない。彼らの皮算用では、大戦争を遂行するに十分な費用は賄えない。しかも、彼らは、初戦が終わっただけなのに、もう終戦が来た、勝利は確定したなどと言って喜んでいる。

まるで我が国のかつての大戦の時と同じである。

真に砂上の楼閣を建てているのが誰であるかは、数年も経過しないうちに、はっきりと分かるだろう。今、一人、また一人と紅海を渡り切れずに、敵に連行されて行く人々が現れている。ここから先、その人数はもっと増えて行くことになる。

筆者の論を、極めて少数説だとして嘲る人々がいるが、主イエスは再び地上に来られるときに、この地に信仰が見られるだろうかと言われたのであり、ノアの時代には、人類のうちで救われた者は8人しかいなかった。

キリスト教が、マジョリティの福音だと書いてある箇所は聖書のどこにもない。
 
裁きは、神の家から始まる。信仰による義人も厳しく試されている以上、不信心な者、罪深い者の行く末は、筆舌に尽くしがたいものとなる。頭なる方を否定して、体を神とした人間の末路は、三島由紀夫の最期を思い浮かべるだけで十分である。
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神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。

今、日本社会の根本的な秩序が崩れ落ちようとしている。行政も、司法も、立法も、雇用環境も、何もかもだ。すべての分野においてメルトダウンが起き、倫理道徳は遺棄され、物事の正常な判断が破壊されている。
 
この状況において、私たちは何をするのか、問われている。

それに対する答えは、以前と変わらず、正しいことを正しいと主張して、事実を明るみに出し、あくまで現行の法秩序の中で、物事を是正し、あるべきところに帰着させるために、これまで通り、戦いを続けるだけだ。

フランクルの言葉を借りて、コロナ禍で人間性が試されたと言う人がある。今も状況は同じだ。全てがカオスと化すとき、人はどう振る舞うかが試されている。どんなに証拠を集めても、最後は主観がものを言う。私たちが何をあきらめずに求め、主張し続けるのか、最後にはそれだけがものを言うのだ。


* * *

なぜこれほどまでに地が忌むべき場所となり、人は清さを失い、社会からは公正も正義も真実も失われ、どちらを向いても腐敗堕落しか見られなくなったのか。

そのことを考えるとき、世を嘆く以前に、我々の眼差しがまず神を一心に見上げることから逸れたことを思う。人が御言葉に背き、神を忘れたそのズレの度合いだけ、地は狂うのだと。
 
この地は見捨てられ、地はよいどれのようにふらつき、人はまるでみなし子のようだ。なぜそうなったか。人が神を捨てたからだ。 

世直しや、腐敗の除去を叫ぶ以前に、人が神に立ち帰らないことには、神は働いては下さらない。
  
今、この地に必要なのは、罪と滅びの宣告、それだけだ。人にやさしい言葉は捨てねばならない。

たとえば、筆者が何かに対して異議申し立てをしたり、批判したりする度ごとに、噛みついて来る人々があるが。それを見たからと言っても、批判の声をあげることを決して恐れてはならない。

「それで、こう書かれています。
神は、高慢な者を敵とし、
 謙遜な者には恵みをお与えになる。
 だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。」(ヤコブ4:6-7)


人の歓心を失うこと、この世に波風を立てること、暗闇の勢力の反発を恐れてはならない。体を殺すことはできても、魂をゲヘナで滅ぼすことができない人々を恐れるには足りないからだ。

 人間は自分にとってやさしいか、人に対してやさしいか、社会に益があるかで他人をはかろうとする。自分にとって不快なもの、やさしくないもの、すぐに役立ちそうにないものを悪と決めつけ、断罪する。
 
だが、神は人にとってやさしいかどうか、という基準で物事をご覧にならない。人の自己は堕落しており、サタンへと通じている。 自分にとって好ましく、やさしく感じられるものを善とみなす考えは、エデンの園でアダムとエバを堕落させた誘惑そのものなのだ。

神の評価は、人にとってどう感じられるかとは全く関係がない。ただ神に対して、我々がどう振る舞うかに尽きる。神から見て好ましいかどうかであって、人に対してではない。そして、神は公正、正義、真実を望まれる。

このような目線の違いをはっきり区別できるようになるためには、私たちは世の基準を離れねばならない。暗がりでものを見るように、私たちの価値観が、少しずつ転換して行くことが必要だ。

「自分」を中心に物事を考えるのではなく、「神」を中心に物事を考えること。人に接近すればするほど、世にどっぷり浸かれば浸かるほど、人は神からどう見られているかを中心に物事を考える清さを失う。

そこで、筆者は何ヵ月間もかけて、ただ主の中に入り込むために、思いのすべてを神に傾注することが必要だと感じている。この世との切断だ。自分を主なる神の御前に全焼の生け贄として捧げ切ること。全ての思いを虜にしてキリストに従わせること。それがなされればなされるほど人は強くなるだろう。

もしも本気で天を地に引き下ろし、この地に正義や真実を打ち立てたいと願うなら、まず神の御前に自分を完全に捨て、心を注ぎ切る勇士たちが現れねばならない。

ギデオンが召されたときのことを考えるべきだ。 
 
「ギデオンは彼に言った。「わたしの主よ、お願いします。主なる神がわたしたちと共においでになるのでしたら、なぜこのようなことがわたしたちにふりかかっ たのですか。先祖が、『主は、我々をエジプトから導き上られたではないか』と言って語り伝えた、驚くべき御業はすべてどうなってしまったのですか。今、主 はわたしたちを見放し、ミディアン人の手に渡してしまわれました。

主は彼の方を向いて言われた。「あなたのその力をもって行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことができる。わたし があなたを遣わすのではないか。」」(士師記第6章13節-14節 )


薄暗がりの中で次第に目が慣れるように、神は我々の眼差しを人の権益から神の権益へと移される。

見なさい、あなた方は自分たちの権益が脅かされ、自分たちの肩身が狭くなり、自分たちが奴隷のように虐げられ、捕虜のように引いていかれ、囚人のごとく閉じ込められ、脅かされていると言う。しかし、その前にまず見なさい、脅かされているのは、神の権益なのだと。神の威光と尊厳が傷つけられ、神が退けられ、侮られているのだと。

いつになれば、あなたたちは自分から目を背け、神の権益が脅かされていることに目を向けるのか。いつになれば、自分を離れ、神の視点から物事を見て、今この地を神がどのようにご覧になっているかを考えるのか。

もしそのことに心が至れば、あなた方はもはや今までのように、自己の都合だけを語ることはできなくなるはずだ。人類の代表として、神に向かって言わねばならない言葉があるはずなのだ。

ただ神に栄光と尊厳を帰すること、そうすれば、その分だけ神もあなたをかえりみて下さるだろう。光を受けたいならば、光の方へ向き直るしかない。この地が暗闇の中に投げ入れられ、死にかかっている状態を憂慮するなら、心を天に向け、まことの主なる神にのみ心を向けて、悔い改めて、神に立ち帰ることしかない。それを他人に要求せず、あなた自身がそうするしかないのだ。

エクソダスとは、回心であり、切断であり、人がただ神の方だけを向き直ることーーただキリストのみを心の伴侶として生きるその決意のことなのだ。 

一体、全地を見回し、今、人の観点からではなく、神がこの地をどうご覧になっておられるのかという観点から、この地の腐敗に心を痛める、まことの花婿なるキリストの花嫁にふさわしい人間が一人でもいるだろうか。

誰もが背き、迷い出て、勝手な道を行った。未だに人々はめいめい好き勝手な教師たちに群がっている。

だが、主はご自分の心にかなう人々を集められる。ひそかに召し出され、集められる。いつか地が回復されるときまでに、ご自分の勇士たちを集められる。 

そこにあなたがいるのかいないのか、自分に問うてみるがよい。あなたの心は誰に向けられているのか。あなたが神の御心に心を留めないにも関わらず、神だけがあなたに心を留められると考えることは、神を侮っている。
 
だから、横暴な主人であるこの世を捨てて、ただキリストの御もとに、清い花婿のもとへ召し出され、花嫁仕度をしなさい。

人間の権益、人間の感情と思いを離れ、聖なる方の御思いに、ほんのわずかでも心を向けてみなさい。そうすれば、あなたはきっと自分の言い分を脇に置いて、まず神の必要をかえりみざるを得なくなるはずだ・・・。  

以上のような必要性から、筆者はますます人の権益を離れ、自分を十字架で死に渡し、神の権益の観点に自分を移して行かねばならないと考えている。
 
* * *

安倍氏の私怨を晴らすためとも言われた広島代理選挙で、フライングがバレた。買収によって正しい結果を出すなど無理な相談なのだ。堅固な成果を打ち立てるためには、正しい手法を使うしかないのだから。

だから、もしも不正により裁きを曲げる人々がいても、嘘は必ずバレる時が来る。真の勝利を得るよりも前に、自分たちは勝ったと、快哉を叫ぶことは、やはり愚かすぎて勧められることではない。

勝利を得るための戦いは、極めて地道で根気強い論証作業の積み重ねであり、それは人情による癒着や、情けによって左右される世界ではないのだ。むしろ、魂では愛着の対象となるものを切り捨て、己自身に死なねばならない。それは肉と皮を切り捨て、骨だけを残すような作業である。情によって覆されることのない論理を構築し、その骨組みに固く立つことが必要なのだ。

人間とは、肉と皮からできているものではないということを、どれくらいの人たちが知っているだろうか。フワフワしたもの、ファジーなもの、曖昧でグレーなものばかりが好まれるこの悪しき時代にも、外科医は人が歩いている姿を見て、外側の造作ではなく、骨格を見る。骨が歪んでいれば、将来、発生する病気まで分かるというのだ。

神の御言葉はすべてを切り分け、真実と嘘を切り分け、何が永遠に残る価値であって、何がそうでないか、物事の真の有様を裸のようにえぐり出すことができる。

「というのは、神のことばは生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。

更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。 」(ヘブル人への手紙4:13)


物事の骨子の部分こそ、すべてを規定するのであり、肉と皮はあってないようなものだ。肉と皮は、火に焼かれればすぐに消えるが、骨は焼けても残る。

御言葉は、それ自体が、何度も何度も火に焼かれて洗練された金のようで、検証作業が尽くされているので、試されても、ぐらつくことなく、固く立ちおおせることができる。 
 
だから、「私はある」と言われる方と、全ては無であるという勢力が対峙して、後者が勝つことはない。もしそういうことがあるとすれば、それは不正にしかよらない。

筆者は不正義は見飽きているため、目もくれずに真っ直ぐ進んで行くだけだ。時代を前に進めるために筆者はこの仕事をしている。

筆者は長いスパンで物事を見、完全に満足するまで終結宣言を出さない。深く潜水し、息の長い勝負をしたい。

そこで、様々な仕事の中で、証拠固めの作業を続けている。敵の嘘を崩壊させるためには、足元から基礎を固めていかねばならない。フワフワした肉と皮ばかりの理論ではなく、固い骨格を作り上げ、がっちりと基礎を固めて動かせないようにしていくことが重要なのだ。

* * *

次々と人に訴えられながら、自分は有罪にならなかったと誇る人がいる。愚かなことだ。危ない橋を自ら渡りながら、最悪の事態に至らなかった事実を誇るなど、愚か者のすることである。 全ての証拠は語るのだ。表面的に何も起きていないように見えるからと言って、真に何も起きていないと考えるべきではない。抜け駆けや反則を常とし、蛮勇を誇る人たちは必ず罠に落ちる。

世間的に高い地位にあり、知名度があっても、過去に問題を起こした人物や団体については、調べていくと、何らかの悪事の証拠が残されている場合が多い。

そこで、筆者が遭遇する事件も、一つ一つ記録に残していくことの重要性を思わされる。その蓄積が後世の人に手がかりとなるのだ。

聖職者、法曹界の人間、政治家、行政職員などを問わず、権威ある立場にある人々による暴言、失言、不法行為、正当でない判断の情報は、克明に記録され、国民に共有されるべきだろう。

彼らは国民から監視される立場にあるのだから、そうなるのは当然である。もしも困った人が、最後の望みをかけて、法的手段を講じようとしたとき、それを出迎える弁護士や裁判官、政府の職員、聖職者らが、法をねじ曲げて、不正義を助長し、弱い者の口を封じる悪人だった場合、庶民は一体、どこに助けを求めれば良いのか?

すでに相当量の情報がネット上でアクセス可能となっている。これまでに、筆者が望みもしないのに、筆者が集めた証拠を、勝手に敵対勢力が暴露したことがあるが、その情報も、民草にとっては、極めて重要な判断材利となるものばかりだ。

だから、筆者のこれまでの努力の成果はむなしいものではない。いつかは情報を共有することになろう。

すべては国民のもの。司法も、行政も、立法も、何もかもだ。私たちの家を強盗の巣にはさせてはいけない。だが、そのためにも、筆者は見えない領域において、神の御前を歩まなくてはならない。

多くの人は、自分を有利にするために、この世の権力を利用することを考え、人におもねり、ご機嫌を伺うだろう。だが、筆者は天の権威を利用することを考える。 

* * *

この戦いは筆者のためではなく、神の国の権益のためだ。筆者はそのための兵士として召された。この国に真実のために命をかける者を神は召される。敵が尊大に勝ち誇っている時代はもうすぐ終わる。

書けば書くほど分かってくることがある。それは、言葉は武器であり、フワフワした雰囲気や、属人的な絆を断ち切って、物事の本質を明るみに出す力があるということ。私たちが主張することをやめてはならない理由はここにある。

ゴリアテは勝利を確信して快哉を叫んだが、次の瞬間に敗北した。神は生きて働いておられる。人は時間を巻き戻すことはできないが、神にはできる。

ところで、筆者が裁判所が好きだと思うのは、ここでは時間の概念が止まっており、物事を初めから是正することが可能だからだ。だが、神はそれ以上に、アダムの堕落という人類最悪の地滑りをさえ、時を超えて是正することのできる方なのである。
 
グノーシス主義者は、過去や現在の功績をもとに、未来をはかろうとする。彼らが主張するのは、いつも決まってエデンへの逆戻りだ。しかし、キリスト者は未来から現在と過去を逆算する。

悪魔はカルバリで打ち破られた。永遠の滅びが決定している。それが我々の物事の判断基準であり、我々はその事実に立脚し、全てをそこから逆算し、現実を是正して行く。

いわば、未来に立って、現在と過去という時に向かって、光を照射するのだ。
 
だが、そのようなキリスト者は、世人から見れば、あらゆる面で、実に馬鹿げた非現実的空想を信じている愚か者だろう。たとえば、福音書に記されている奇跡などは、現代にはあり得ない、死者の復活などあり得ない、悪魔などいない、キリストの再臨など夢物語だ、と言う人々は多い。

彼らは言う、こんなものを信じるのは、馬鹿げた妄想の世界の住人だけだと。

しかし、信仰者にとって、それは創作ではない。むしろ、それこそが確かな霊的リアリティなのである。

自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」(2コリント2:14)

だとしたら、一体、それが創作ではないことをどうやって証明するのだ? それは、見えない世界におけるリアリティを現実に引き下ろし、適用することによってだ。

よくキリストの再臨を天を仰いでぼんやりと待つ人がいるが、必要なのは、そんな空を打つような作業ではない。基礎固めの作業だ。すでに知っている結論(霊的事実)を現実に引き下ろし、地に適用すること。 それは私たちが知っている霊的事実を、地に投影し、地に「アーメン(その通りです)」と言わせる作業だ。

創世記第一章1から4節までにはこうある。

「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。」

私たちはそれぞれ使徒行伝の続きを生き、また、自ら天地創造の場面に立ち会い、創世記第一章に身を置いているも同然である。

キリスト者は、天に立つ者である。そこから地を見下ろすと、地は形がなく、混沌として、闇に包まれている。形がないとは、実体がないということで、事実が何であるか、地上では何一つはっきりしない。その世界はリアリティを失った虚無の深淵のごとく、移ろいゆく形のない世界だ。

しかし、神の霊が水の面にある。神の霊とは、御言葉であり、光だ。その光は、水に反射する。反射とは、アーメンと言葉を返すこと、言い分を肯定することだ。

我々人間は、自分自身が神に造られた被造物として、御言葉にアーメンと頷く存在である。他方で、我々はキリストを信じ、彼と共に天の御座に就く者として、御言葉に規定されたリアリティを、天から光として地に照射する。水はこれを大量に反射する。すなわち、我々の信仰告白にその通りだと頷く。その光の反射により、地の形が現され、この世の成り立ちが証明される。新しいリアリティが地を覆う。

その光の世界は、光を持たない闇の世界と区別されて、天と地は異なる秩序によって支配される。私たちは御言葉の光によって、レントゲン撮影のように、この地に存在する事物の本質を明るみに出し、その成り立ちを証明する。

嘘偽りを好む人間は、闇の中に隠れ、光のもとに出て来ない。そうして照らされなかったものは、すべて闇から闇へと消えて行くものでしかない。

そうして光によって検証され、試され、価値を証明されたものだけが、真に形あるもの、リアリティとして立ちおおせる。物事の価値を裏づけるのは、我々の投げかけた言葉、我々が照射した光なのだ。

聖書によれば、信じる者は、栄光から栄光へと、鏡に映すように、キリストの似姿に変えられていく。これは形なく、むなしく、混沌としていた地に光が照射されるのにも似ている。キリスト者は、自ら光を反射する者であると同時に、その光をこの世に向かって照射する者でもある。

だからこそ、神の子供たちは世の光なのであり、私たちが御言葉を持って、光を照射することにより、真実と偽りのコントラストがはっきりと浮かび上がる。

照らされなかったものは、無かったと同然に闇の中に過ぎ去る。
 
こうして、私たちの検証作業は、天と地とが共同して事物の形を明らかにするもの。何が永遠に属するもので、何がそうでないかを、決定的に明らかにし、区別するものだ。

だから、物事の是非、正邪、善悪を切り分け、何が真実であって、何が偽りであるかを明らかにするためにも、私たちは自分の言葉を発し、信仰を告白して行かなければならないのである。

* * * 

神の御言葉は首尾一貫しており、ほころびがないが、悪魔の理論には必ず、齟齬がある。悪魔は嘘を吐くとき、本音を吐いていると言う。

闇の勢力の振りかざす論は、嘘に基づいているので、必ず、どこかに論理破綻があり、それは自己矛盾している。そのほころびを丹念に取り出し、指摘していくことによって、偽りの論を覆すことができる。

敵を倒すには、敵の言葉をそのまま使えばよい。論理破綻があることを静かに指摘すること。最も有効な異議申し立ての手段は、論理破綻を明るみに出すことなのだ。そうすれば、亀裂が入った壁が崩れ落ちるように、理論そのものが崩壊に至る。

普通に考えれば、悪魔の理論であっても、権威を持って宣言された言葉を覆すのは難しいと思われるかも知れない。だが、狭き門を通過するのは、キリスト者の義務、らくだが針の穴を通ることこそ、我々の救いなのだ。 

神の御言葉は、この世のすべての言葉よりもなお強固な耐性を持ち、永遠に立ちおおせる。
 
悪魔はキリストを十字架につければ、復活が起きることを知っていたのに、御子をはりつにして殺した。今も暗闇の勢力のやり方は同じ。

だから、迫害や圧迫、報復を恐れてはならない。体を殺しても、魂をゲヘナで滅ぼすことのできない者共のすべての脅しを恐れてはならない。
 
私たち信じる者には、日々の十字架の死を通して命が働く。死が大きければ大きいほど、そこに働く命も大きい。天的な戦いにおいて被る被害は、全て神が余りある命の恵みにより覆われる。死は、命に飲み込まれる。

だから、地が混沌としているのを見、暗闇の勢力のわざを見ても、落胆することはない。 

神に従いなさい、そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなた方から逃げ去る。恐れおののいて、転び、まろびつ、命乞いをしながら、あなたの前から姿を隠し、逃げ去っていくだろう。

そして、私たちは清く、汚れなく、しみもしわもない天のエルサレム、栄光の教会として、キリストに似た者とされ、天の栄光に輝く。

その現実が現れるまで、決して退却することなく、根気強く、言葉による切り分けを続けて行くべきである。
 
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(2コリント4:16-18)


あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死にそこに葬られたいのです。

「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女にお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マルコ10:6-9)

「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、
そんなひどいことを強いないでください。
わたしは、あなたの行かれる所に行き
お泊りになる所に泊まります。
あなたの民はわたしの民
あなたの神はわたしの神。
あなたの亡くなる所でわたしも死に
そこに葬られたいのです。
死んでお別れするならともかく、
そのほかのことで
あなたを離れるようなことをしたなら、
主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」(ルツ1:16-17)

* * *

先日の和解協議において、被告Aは訴えを取り下げろ、さもなくば和解しない、という条件を提示して来た。

一つ前の協議において、被告Aは双方からの控訴の取り下げを和解の条件としていたにも関わらず、その要求をさらに拡大して、原審において、ちょうど被告Bと息を合わせて筆者に反訴を予告したときと同じように、筆者が訴えそのものを取り下げなければ、和解協議を決裂させるぞと言って、自らにとって不利な判決を撤回させようとして来たのである。
  
それに伴い、彼ら(人物は特定できないし、いかなる協力関係があるのかも不明だが、あえて「彼ら」と表記しておく)は、まずは当サイトの名前を悪用した権利侵害サイトを作り、そこにおいて、筆者のドッペルゲンガーを作って、彼らの前にひざまずかせ、懺悔させ、訴えの取り下げの「リハーサル」を行わせた上で、現実に行われた和解協議の場においても、訴えの取り下げを要求し、掲示板においても、匿名の投稿者が次のような投稿を行って、訴えを取り下げなければ、ひどい目に遭うぞと予告したのである。



これを見れば、筆者が向き合っている相手が、いかにまともではない人々であるかということが誰にでもよく分かるであろう。
 
しかも、こういう投稿は、これまでにも絶えまなく行われて来たのであって、何ら珍しい内容でもない。要するに、ブログを執筆するのをやめなければ、人生が破滅するぞと脅していた今までと同様である。

結局のところ、彼らはこう言っている。「被告らに対する訴えを全面的に取り下げないと、なしりすましサイトを100個作るぞ。それから、あんたを何重にも提訴・刑事告訴してやる。和解協議が決裂するくらいのことでは済まない。犯罪者にされていいのか。人生が破滅するんだ。考え直せ」

彼らは、何としても、筆者に訴えそのものを取り下げさせることで、判決を無効にしたいのである。
 
命が惜しいなら、主張を撤回せよとの「踏み絵」である。
 
控訴審では、秘匿の措置が認められていないので、判決に向かってためらいなく突き進めない事情がある。それを分かった上で、裁判所も判決言い渡し日をあえて未定としており、和解協議を勧めたのであり、さらに、被告Aも以上のような条件に、筆者が応ずるよう迫っているのである。

しかしながら、筆者はこの訴訟においては、もともと完全な敗訴もしていないし、完全な勝訴もしていない。さらに、被告Aは何年間にも渡り、筆者を告訴しようとしても、できなかった経緯があるため、この先も、告訴が受け入れられる見込みはまずないものと考える。

被告Bについても、被告Bが筆者を告訴したと主張する前から、筆者自身がすでに被告B対策を幾重にもして来たのであり、先週もさらに大量の資料を警察署に送って備えとしたところである。

さらに、以上のような投稿がなされたのを皮切りに、掲示板も、これまでは文体などが投稿者の身元の確認に役立つと考えて様子を見て来たのだが、そろそろ時期が来たと判断した。発信者を特定してIPアドレスを警察に提供し、犯人を告訴し、損害賠償請求訴訟を提起するための準備に入る。

だから、掲示板が聖域になるなどといった考えは捨ててもらわなければ困る。身元が特定された暁には、当然のこととして、人物が公表される可能性があることを十分に考慮してもらわなくてはならない。そうなれば、手が後ろに回るのは、こうして藪の中から石を投げて無責任な生き方をしている匿名の投稿者なのであって、筆者ではない。投稿前によく考えることをお勧めするのみである。
 
さて、和解協議において、被告Aから訴えを取り下げないと、和解に応じないとの条件が、裁判官を通して告げられたとき、筆者は尋ねた。

「判決が下された後に訴えを取り下げたらどうなるのですか?」
「判決は法的には効力を失うでしょう」

筆者はしばらく言葉を失った。判決を無効にしたならば、賠償も行う義務はないのであって、何のための和解なのか。ごくわずかな金銭と引き換えに、命に等しい約束を手放させようなどというこの卑劣な条件に、心の底から憤りが込み上げて来た。

ここに懐剣があれば良いのに・・・、との思いが脳裏をよぎった。

もちろん、裁判所には小刀一つ持ち込むことはできないが、筆者は、まるで武家の娘になったような気分で、裁判官の前で、黙って懐剣を差し出し、テーブルの上に置くことができればいいのに・・・との思いに駆られた。

「一体、あなた方は、私を誰だと思っているのですか。私がはした金と引き換えに、個人情報を開示されたくないとか、提訴や告訴をされたくないなどという願いと引き換えに、自分を生かすと言ってくれた人の言葉をやすやすと裏切って、命乞いをするような女だと、本気で思っているのですか? あなた方はあまりにも大きな考え違いをしています。そんなことをして自分の操を穢すくらいなら、私はいっそこの場で自分の命を絶って、この先の世界を一瞬たりとも見ないで済むことを願います。」

むろん、筆者は自殺などするつもりもない。以上は単なる比喩である。しかし、そのような思いが込み上げて来たとき、筆者は同時に、何かえも言われぬ感動を覚えた。

いつの間にか、判決は、筆者にとって、もはや二度と離れることのできない、かけがえのない命となり、友となっていた。これがあったからこそ、今日まですべてを耐え抜き、控訴審まで来ることもできたのだ。

これは筆者の苦悩を深く理解し、ねぎらってくれた裁判官が、その善良な思いのすべてをかけて、筆者に「生きよ」と命じてくれた、忘れ形見のような命である。

この判決と引き離されるくらいなら、筆者は、むしろ、死を選ぶ。この宣言を自分で否定して、これまで戦ったプロセスを自分ですべて否定して、抜け殻となった宣言を手に生きるくらいならば、喜んですべての苦難を引き受け、何重にも告訴・提訴された上、潔く死に追いやられることを願うだろう。

敵は何でも願うことを筆者に対してすれば良い。だが、筆者はそのすべてを恐れない。全く恐れないし、逃げようとも、隠れようとも思わない。筆者は全力でそのすべてに立ち向かい、提訴されるなら反訴するし、告訴されるなら、虚偽告訴罪を主張して、どんなに訴訟が泥沼化しようと、命の限りを尽くして徹底的に立ち向かい、彼らの常軌を逸した残酷さを証明し、身の潔白を証しする機会とするだけである。
 
筆者が恐れるのは、自分に害を加えられることではなく、自分を愛し、かばい、助け、命を与えようとしてくれた人の言葉を裏切って、否定することなのだ。そうして、自分一人だけ、身の安全を保ち、生き延びようとして、再び、真っ暗闇の世界に投げ出され、その挙句、栄誉だけでなく、命をも失うことなのである。

確かに、判決は人間の言葉であるため、神の御言葉のように完全なものではないが、自分に命を与えてくれた権威ある裁判官の判決を否定し、裏切ることは、神の御言葉を否定し、裏切ることにも通じるほどの恐ろしい効果がある。

判決を保とうとすることが、筆者の破滅につながるのではなく、逆に、筆者を生かし、守る命である判決を裏切り、これを否定し、捨てることこそ、筆者の身の破滅につながるのである。

それは、聖書がファンタジーだと言って、聖書の神の御言葉の正しさを否定している人が、その後、正常な意識を保って生きられなくなるのと同じである。

被告らは、筆者のブログをファンタジーだ、創作だと言っているが、その背後には、聖書の神の御言葉の揺るぎないことを否定しようとする思いがある。だからこそ、彼らは権威ある裁判官の下した判決にも服さず、これを何とかして自分たちの言葉で飲み尽くし、否定し、覆そうと試みているのである。

それは彼らが自分たちは裁判官よりも上に立っていると考えていることの証拠である。しかし、 聖書の秩序はこれとは逆であり、死ではなく、命が死を飲み尽くすのだ。

だから、この踏み絵を踏んではならない・・・ということが、筆者には実によく分かった。

この訴訟を提起した時、筆者には支援する者はなく、ただ一人、裁判官が、筆者の心を知っており、これを汲み上げてくれた。その後、裁判官が下してくれた判決は、筆者に命を吹き込んで、新たな場所へと導き、そこで新たな人々に出会わせてくれ、かけがえのない助言者や、理解者をも与えてくれた。

以前は支援者もなかったが、今はもうそうではない。職場も、同僚も、筆者の生活も、すべてこの宣言文が書かれた後に与えられたものであり、筆者はこれまでどんなにこの宣言に助けられて、支えられて生きて来たろうか。

その判決文から権威ある命の効力を除き去って、これを抜け殻同然の空文句に変えてしまうことに自ら同意するくらいならば、筆者はこの判決文と、目に見えない領域で、しっかりと手に手を取りあったまま、その場で一緒に殺されてただちに息絶えることを選ぶだろう。

判決文の威力を殺すことは、筆者を殺すことと同じなのであり、私たちは不可分の存在なのであるから、判決が無効化された世界に、筆者一人だけが生きていることはできない。

だから、絶対にこれを無効化するようなことに同意してはならない。

そこで、筆者は一計を案じ、自分にできるただ一つのことを提案した。

それは、判決の正しさを守り通す代わりに、筆者が自分の主張を放棄するという、これまでに幾度となく取って来た策である。

筆者はそれまでの協議の深刻な雰囲気とは打って変わって、にっこりと笑って裁判官に言った。

「私は判決文をスキャンして一般に公開したこともありませんし、事件番号も公開していません。この事件記録を閲覧した人も、今日まで誰もいませんので、被告Aについては、誰もどんな判決があったのか、現物を手にして見たわけではありません。客観的な証拠がないので、ネット上では当てにならない噂しか流れていないのです。被告Bも、自分に関することしか書いていませんので、被告Aのことは誰も知る術がありません。

ですから、そうした状況で、私が訴えを取り下げることで、判決を無効化する必要もないのです。公開しなければ、判決もただ裁判所の記録として残るだけで、その外に出て行くことはありません。実態が分からない以上、誰にも不名誉を与えることはないのです。

ですが、ネットに書かれた個人情報は、いつまでも人の目に触れるところに残り続けて、現実的な悪影響を及ぼす恐れがあります。被告Aは、個人情報を消して欲しいのでしょう? それなら、たとえこの先、被告Aが私を提訴し、告訴したところで、到底、目的は遂げられるものではありません。権利侵害の事実は、自ら立証しなければ認められませんし、権利侵害に当たらないと判断されれば、削除も認められませんので、すべての記述を取り去るためには、膨大な分量の書面を、ものすごい時間をかけて書き続なければなりません。多分、一生かかっても、目的は達成できないと思います。

そんな無駄な訴訟を起こしても意味はありませんから、その代わりに、私が自分で記述を修正してはどうでしょう。本当は一年くらい欲しいところですが、もっと早くしろというなら、可能な限り、迅速に行うことはできます。それで、この先は双方、互いの個人情報を書かないという約束で、和解すればどうでしょう?」

裁判官はその要望を被告Aに伝え、被告Aは、弁護士と協議すると言って、その日の話し合いは終了した。

すでに夕方になっていたが、筆者にはまだ裁判所に用事があったので、帰宅するわけにいかず、裁判官は何度も「被告を先に返しますよ?」と筆者に念押ししてから、実際にそうした。

実は、裁判所には、勝訴(もしくは勝訴的和解)を遂げた方が先に帰宅するという暗黙のルールがあるのだ。被告Aが先に帰宅するということは、あたかも被告Aが勝ったと言っているも同然であるが、筆者にとっては、それは些細なことであった。

被告らは、見かけの栄誉を何より重んじる。人前に自分がどう映るかを気にする。しかし、筆者は人に知られないリアリティを重んじる。だから、外見的に、被告Aが勝訴したかのごとく扱われたとしても、別にそのことで何とも感じることはない。この点で、被告らの考え方と、筆者の考え方は、正反対なのである。

これまで被告らの書面を公開しようかと考えたことも何度もあったが、それをしないで来たのも、何かしらそれを押しとどめるものがあったためである。公開すれば、どんなにひどい主張をされているのか、万人に開示して訴えることもできたであろうが、なぜかそれに踏み切れない思いがあった。

おそらく、それも理由のないことではなかっただろう。

この訴訟は、筆者にとって、人の思いを超えたところにある、何かしら神聖と言っても良いほどの価値のあるものである。特に、原審はそうであった。だから、たとえ判決が、裁判所から一歩も外に出ず、誰にも閲覧されず、何が書かれているのかも分からないまま、まるで聖域のような領域に、膨大な事件記録の一つとして、人知れず眠るだけであったとしても、その誰にも知られないリアリティの中に、筆者の栄誉、筆者の正しさが、確かに込められていることを感じてならないのである。

逆に言えば、筆者が訴えを取り下げ、その事実が、仮に誰にも知らされなかったとしても、それは確かなリアリティであるから、人が知ろうと知るまいと、筆者が判決を否認し、自分の正しさを認めてくれた人の言葉を裏切った事実は、宇宙的な規模で悪影響を及ぼし、何万光年先になっても拭い去れない罪と恥の記録になるに違いない。
 
筆者が肯定していればこそ、判決は尊い価値を持って、聖域の中に静かに保たれるのであって、もしも筆者がこれを否認すれば、それはまるで悪党どもによって暴かれた墓のように、さらしものにされ、土足で踏みつけにされ、神聖さを失って、蹂躙・冒涜されることであろう。

筆者は、これまでそのような瞬間を何度も見せられて来た。筆者が心の中で手放さなかった人々、手放さなかった団体、守り通したものだけが、確かな揺るぎないリアリティとして保たれるのであって、もしも筆者が、それらを守り通すことを断念したならば、それは敵の陣営に引き渡され、防衛の外に追いやられ、蹂躙されて、恥をこうむることになる。

だから、筆者と判決とは、互いに守り合い、かばい合う関係にあり、それはかけがえのない強い愛の絆にも似て、私たちは見えない領域で結ばれた手を、互いにしっかりと握り合い、死に至るまで、決して離してはならない。筆者が新たに出会った人々との関係においても、同様の愛の関係が成立しているのである。

それは死によっても、引き離すことができないほどの強い結びつきであり、命をかけてでも、守り抜きたいと願う、かけがえのない価値である。

ところで、筆者にも、和解協議の期日が来る前に、弁護士に相談することができそうなチャンスがあった。だが、のど元まで出かかった言葉を、筆者は飲み込んで、何も言うべきでないと思い直した。

信頼できる人に、せっかくの貴重な時間を、わざわざこのような事件のために費やさせる必要もないと思っただけではない。それ以上に、筆者の助言者は、ただ一人、キリストだけであり、御霊だけであるから、誰にも助けを乞わずとも、自分自身で何が正しく、何が間違っているかを判断することができるはずだと信じた。その強さ、独立性を失ってはならない、と思い直したのである。

さて、前回の期日に、双方から控訴の取り下げを行うという提案がなされた後、控訴の取り下げを行うと、事件記録が横浜地裁に戻って来ることを筆者は書記官から聞かされた。

その時、筆者の心には大きな喜びが湧き起こり、まだ結果が確定もしていないうちから、そうなることが動かせない事実であると感じた。被告Aから訴えの取り下げを要求された時でさえ、その確信は変わらなかった。

あの陰気な東京高等裁判所の建物ではなく、この海と空のある地にこそ、事件記録を迎えてやりたい。戻って来たら、おまえはよくやった、勇敢に戦った、と言って、その栄誉をたたえて、いつまでもここで静かに眠りなさいと、まるで祖国のために勇敢に戦って戦死した夫の亡骸を迎える妻のように、心の中で花束を携えて、出迎えてその労をねぎらってやりたい。

そして、その後も、筆者の生きているそば近くの、人に知られない静かな聖域のような一区画に、記録を眠らせておこう。あの電話会議が実際に行われた明るい裁判所の中に、海と空を同時に見ることのできるこの開放的な空間の只中に、その記録を保ち、それがいつも自分と共にあること、今も生きて効力を及ぼしていることを思い出し、見えない領域で互いを見守りながら生きて行きたい。

そうこうしているうちに、きっとその判決は、ますます不思議な効力を及ぼして、多くの人々を筆者のもとに送り、多くのかけがえのない宝をこの地にもたらしてくれるに違いない。それは誰も見ることのない秘められた聖域として、契約の箱のように、この地に眠るだろう。

筆者は人生で初めて、自分以外のものを、命がけで守りたいと願った。冒頭に挙げた御言葉は、ただ人間の男女のことを指しているだけではない。霊的には、それにはもっと深い意味があって、それは神の御言葉と、人が一体となること、御言葉なるキリストが、信仰によって、人の内に住まわれ、神と人とがもはや不可分の引き離せない関係になることを言い表している。

神はどれほど人を愛され、また、人の側でも、神を慕い求めた結果、神と人との出会いが生まれることだろうか。双方からの強い願いの結果、神が人に対してご自身を現して下さり、人の内側に住まわれるという信じ難い出来事が起きるのである。

そのことが、この事件を通して、筆者はよく分かる気がする。

判決はもはや筆者と不可分の関係になったのであり、今更、これを分離することはできない。歴史を逆行して、出会わなかった前に戻ることはできないし、出された宣言を無効化することもできない。 神が出会わせて下さったものを、人の力で引き離すことはできない。

だが、筆者は新たに出会った人たちにも、全く同様のことを思う。私たちは、人の力によって、決して引き離すことのできない領域で出会い、結び合わされたのだと。その結びつきから、未だかつて見たことのない新しい歴史がすでに始まっているのだと・・・。

そういう意味で、判決以前の世界と、判決以後の世界は、まるでノアの洪水のように、大きな境界となって、筆者の人生を二つに分けている。それには、まるでB.C.(Before Christ)とA.D.(Anno Domini)を隔てるくらいの威力があり、これも大きな十字架なのである。洪水と共に、以前の筆者は死んだのであり、泥沼の法廷闘争にも、すでに終止符が打たれた。その大いなる宣言がある以上、今更、被告らが筆者に何を述べたとしても、結論は変わらない。

紛争は、もはやとうに終わっているのであって、筆者には、ただ筆者に命と平安を与える命令に服し、これを忠実に実行に移すために労する義務と、これにそぐわないすべての行きがかりを最終的に終わらせるために知恵を尽くす任務が任されているだけである。


覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。

「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやたことは、屋根の上で言い広められる。」(ルカによる福音書12:2-3)

さて、この一週間、筆者は示談書の内容を考えながら、ネット上の動きを観察していた。神は私たちに非常に丁寧かつ誠実にすべてを教えて下さる方であるため、私たちがお人好しや、楽観のゆえに、危険な領域に足を踏み入れようとしていても、信仰があって、主に聞く姿勢をきちんと持っているならば、きちんと警告して下さる。

前の記事に書いたように、筆者はすべての行きがかりを帳消しにする用意があったのだが、そういう行き過ぎた行為に及んではならないと、はっきりと示されたものと思う。

それはこの重要な時期に、紛争当事者が関わっていないとも決して言い切ることのできない、大きな疑惑を呼ぶ新たな権利侵害がネット上で続行したためである。
 
人物は特定されていないとはいえ、これは非常に残念なことである。筆者はこの事件についてはそっとしておいてほしいと書いたところであるが、一体、なぜ、ある人々は罪赦されることができるチャンスを自ら踏みにじり、救いが与えられているのに、そこから目を背け、暗闇の中に逃げ込んで行くのであろうか。

こうした権利侵害が今も続いている以上、犯人がきちんと特定されるまでの間は、その手がかりとなる可能性を含む情報を抹消してはならないと分かった。何より、これまで積み上げて来た事実関係を自ら否定するような行為に及ぶべきでない。
 
だが、もともと示談とは、あくまで一定の範囲の出来事について決着をつけるだけのものであって、紛争の永久解決を意味しないから、その範囲が限定されるのも、やむを得ないことである。

交通事故でも、事故後、すぐに示談を結んでも、しばらく経ってから後遺症が発生すれば、その時は別途、対応が必要になる。多くの場合は、後遺症には別途対応する旨が、示談書に予め盛り込まれる。

このように、もともと示談は紛争の永久的解決としての和解とは異なる上、さらに、一般に、クリスチャン生活における戦いの成果は、専有した領域の大きさで決まる。光の子らがもしも退却するならば、その領域は悪の諸霊に明け渡される。もしも私たちが自ら権利を放棄するなら、放棄した部分は、敵対者が占めることになる。

だから、紛争をとにかく早く終わらせたいという人間的な思いだけで、すべてのことが明らかになっていないうちに、事件を終結させたり、重要な証拠を消してしまうようなことをしてはならないのである。そのようなことをしてしまうと、物事が非常に中途半端なままに終わってしまい、本来、明らかにすべきであった結論が出されないまま、歴史的後退が起こってしまう。

当ブログを巡る訴訟では、筆者が人間的な感情に流されて判断を誤らないよう、随所で、天からの警告のようなものがなされて来た。

たとえば、筆者は当初、控訴もせずに、第一審判決で争いを終わらせるつもりだったが、それにも関わらず、判決の確定前に、控訴せざるを得ない新たな事情が出来た。それは筆者の予想を超えた事態であって、筆者自らが紛争の継続を願って起きたことではなかった。

また、控訴審では議論を戦わせることも念頭に置いていたが、それもしてはならないと示され、代わりに一方の紛争当事者との和解協議となった。その和解協議で、筆者は紛争の永久解決を目指すつもりであったが、それも今はしてはならず、踏み越えてはならない限度が明白にあることが示されたのである。

一言で言えば、原審判決は守らねばならないのだが、それが許した範囲を超えて、紛争を終わらせたいがための和解条項を結ぶことは、許されていないと分かったのである。さらに、紛争当事者は、おそらくは筆者の赦し自体も、届くかどうかが分からない場所にいる。赦しや救いを受け取り、和解が成立するような状態ではないということである。

こうした一つ一つの出来事は、筆者が人間的な感情に流されて判断を誤らないように示された天からの警告であると筆者は受け止めている。

前から述べている通り、当ブログはインターネット上で激しい権利侵害を受け続けており、今もそれは続行している。最近の裁判の流れとして、悪質な権利侵害サイトにリンクを貼るだけでも、有罪となる世の中だということを読者には周知しておきたい。そして、ネット上で行われている犯罪行為は、決して放置されているわけではないし、犯人が特定されれば、公表するつもりであることは前々から予告している通りであるから、こうした犯罪行為には、読者は絶対に関わらないように注意されたい。

リンクだけで警察に逮捕されます」(日本表現の自由協会)

「2ちゃん」にリンク貼るだけで名誉毀損 ウソの内容を書き込むのと同じと判断(東京高裁2012年(平成24年)4月18日判決)

筆者は、誰も罰せられることを望んでおらず、罪を犯した人にも、悔い改めて、罪赦されて、人生をやり直して歩き出して欲しい・・・と願っている。

それは嘘ではなく、どんな人間が相手であっても、筆者は自ら紛争を拡大したいとか、長引かせたいなどとは微塵も願わない。だが、そのことと、今もインターネット上で続いている犯罪行為の全容を明らかにすることは、全く別の話なのであって、今回の訴訟でも、本来の目的は、これらの権利侵害の全容を解明することにあった。

その目的がまだ果たされていないうちに、浅はかな楽観に基づき、今後、その究明の妨げとなるようなことを自らしてはいけないし、するわけにもいかない、ということが、今回、示されたのである。

だが、これも主の采配である。おそらく、こうした事態が起きなければ、筆者は楽観に基づいて、紛争は解決したものとして、踏み越えてはならない境界をあっさり踏み越えていたかも知れない。

残念なことであるが、筆者がどんなに赦したいと願っても、筆者の思いだけでは、事は成らず、相手が罪を悔い改めてもいないのに、筆者がその罪を赦すこともできないし、相手が守らない約束を、筆者だけが結ぶこともできない。片方だけがどんなに願っても、それによって最終的な和解が成立するわけでもないし、感情的な行きがかりを決着させることと、事実を明らかにすることは異なる。
  
しかし、繰り返すが、このような展開になっていることにも、神の深い采配が働いているのであって、冒頭に挙げたとおり、神は物事を明らかにされる方であって、隠す方ではない。今後、ますます事の真相は明らかになる方向へ向かうのであり、すでに明らかになっている事柄については、やはりきちんと公に記録に残しておかねばならないのであって、筆者の人間的な思いだけで、これを白紙撤回するわけにはいかないのである。

死に至るまで、キリストの復活の証人であり続けるとは、おそらくそういうことなのであろう。私たちの灯は、公然と街の上に掲げておかねばならない。それを隠すなら、証には意味がなくなってしまう。

迫害されたから、権利侵害に及ばれたから、紛争から早く解放されたいから、あるいは、提訴するとか、告訴するなどと脅されたから、そそくさと事実を闇に葬り、隠れたところで取引したり、公然と証言したことを撤回するというのでは、私たちの証は力を失ってしまう。

そういうわけで、今回の教訓は重く、おそらくは罪の赦しが相手に届かないことをよく物語っているように思う。この訴訟に提出された記録も、早晩、きちんと整理し公表することが、必要不可欠になるものと考えている。紛争を激化させるためではなく、何が行われたのか、事実を明らかに記録しておくため、そして、それに基づき、今後も、何が起きるかを記録して行くためである。

ところで、私たちは、兄弟姉妹を引き裂き、互いに対立させ、教会を分裂させようとする目に見えない力が働いていることに注意しなければならない。

筆者はかつて横浜である牧師が率いていた集会においても、敵の様々な陰謀工作が働いて、中傷が横行し、集会が分裂に追い込まれ、兄弟姉妹が互いに信頼を保てなくなり、牧師と筆者とを互いを引き離し、集会をバラバラにする作戦が功を奏するところを見せられた。

その結果、牧師は筆者に対して罪を犯すこととなり、筆者もその牧師の考えには全く共感できなくなり、その後、集会そのものが異端化するという事態が起き、我々は全く無関係となっているが、そうなるまでに、教会の破壊を試みた敵の分裂工作がいかに卑劣かつ巧みであったかは、今となっては十分に理解している。

その時のみならず、現在になっても、この牧師も、筆者も、誰も依頼もしていないのに、事件に全く無関係な者が、この牧師と筆者を何とかして対立させて、公の場所で対決させ、かつて兄弟姉妹だった人々が、いがみあい、教会が分裂する有様を、見世物にしようと願って、様々な情報をばらまいている。

その勢力が、今も自分は姿を隠して、様々な事件に介入し、当事者になりすましたり、その代弁者になることで、実生活においても、兄弟同士の争いを激化させ、インターネット上にも、人々の争いを煽る情報をひたすら投稿し続けているのである。

このような形で、人々の「代理人」になろうとし、他者の思いをあたかも代弁するかのように見せかけながら、クリスチャンの紛争や対立を煽り、徐々に人々の存在を乗っ取り、その相手を貶めて行くことが、この勢力のかねてよりの常套手段であったことに注意を向けたい。

むろん、こうした行為を行っているのが誰であるのかは、現時点では特定されていないが、彼らのやり方は常に同じであるから、その行動パターンの中に、彼らの本質的な特徴がよく表れていると言えよう。
 
彼らは、人々の許可がないのに、勝手に他者の代弁者となったり、権限もなく、他者の争いに介入することで、争いの火に油を注ぎ、兄弟同士をいがみあわせ、対立を修復不可能なまでに押し広げ、教会を分裂させるのである。

その上、クリスチャンを公開裁判の場に引きずり出し、できるならばそこで有罪宣告を受けるよう仕向け、教会が立ち直り不可能な打撃を受け、まことの主を信じるクリスチャンが孤立し、兄弟姉妹を通じて命を受けられなくなるようにし、神の花嫁たる教会を辱めて、神ご自身が損失を受けられるように仕向けることを目的にしている。

私たちを分裂させ、互いに敵対させようと、陰から争いの火に油を注いでいる存在が確固としてあることに、まず気づかねばならないのである。
 
だが、筆者は、そのように、自分は名を隠して、陰から人々の対立や争いを煽り立てている人物こそ、存在を暴かれ、名を公開され、裁判にかけられ、損害賠償請求を行われるに最もふさわしい者であると考えている。

自分は正体を隠したまま、他者になりすましたり、頼まれてもいないのに、自分には無関係の争い事に次々と介入・干渉しては、兄弟姉妹の対立を激化するために、火種をふりまくような者は、断じて裁かれねばならない。たとえその者が刑事罰を受けて、監獄の向こうに行くようなことがあっても、筆者は追及をあきらめるつもりはないことも、断っておきたい。

だから、このような問題が進行中である事情を考えると、なおさらのこと、今、証拠となる情報を消し去ってしまうような愚かで浅はかな約束を結ぶことはできないのである。
 
何とかしてクリスチャンを中世のような見世物裁判に引きずり出しては互いに争わせようとする人々がいることを分かっていながら、その脅しに屈するわけには行かない。かえって、こういう人々の名を特定し、その所業を公表し、彼らを排除し、報いを受けさせることによって、初めて教会は平和を取り戻せる。

それによって、誰がクリスチャンを最も憎んでいるのか、誰が匿名に隠れて、兄弟同士の対立を煽って来たのか、誰が教会に最も大きな打撃を加えて来たのか、世間の前にはっきり証明できるだろう。それは筆者では断じてないのである。

そういう意味で、現在の筆者は、かつてとは様々な点で異なっている。新しい人たちが筆者の周りに現れたおかげだ。もしも時を遡ってやり直せるなら、多分、あの時、こういう言葉で助言はしなかった、ああいう風に伝えただろう、などと思うことはたくさんある。

だが、以前と何より異なっているのは、真心から仕えて構わないと思うリーダーに出会ったことだろう。人を陥れたり、欺いたり、策略を弄しない、約束を守る謙虚なリーダーに出会ったことである。それによって、権威に服従することは、何ら困難ではなく、私たちは権威者に対してもの申すとき、王妃エステルが王の前に命をかけて進言したように、命がけでなければならないことが、よく理解出来るようになった。

私たちは、権威者が誤った道に逸れかけているときは、適宜、忠告せねばならないが、それはあくまで権威への服従の中で行われるべきことであって、忠告に名を借りて、秩序を覆すことが求められているわけではない。その服従とは何であるのか、どのようにすれば、敵の策略に翻弄されずに、信頼関係をつなぎとめることができるのか、様々な場面で、筆者は学ばされている。

以前から、筆者には(霊的な意味において)関節をつなぐ力があると書いて来たが、切れかけた絆も、完全な断絶に至っていないうちは、修復できる。弱った部位に命の息吹を注ぎ込み、傷を丹念に修復し、体が一体性を保って、健全かつ敏捷に機能するようになるまで、ひたすら命を吹き込み続け、回復をはかる。

王妃エステルは、ユダヤ人たちが絶滅を命じられることで、体(宮)としての教会が消滅しないで済むよう、彼らを不当な命令から救うために、命がけで、王に進言をする役割を担った。そのために、彼女は十字架の死を通る必要があったのであり、私たちが今日、何かをリーダーに本気で進言するときには、必ず、命がけと言っても良い服従のプロセスが必要となる。それがあって初めて、忠告は功を奏し、団体の滅びが押しとどめられるのであって、敵のあらゆる分裂工作は、私たちがそれを乗り越えて信頼を維持することを学ぶための戦いなのである。
 
そのようにして、激しい戦いの中で、互いの信頼関係を確固として維持し、互いに守り合い、弱った部位には命を吹き込み、回復されるべきは、兄弟姉妹と呼ばれる人々であって、兄弟たちを分裂に追い込む者ではない。

そういう意味で、憐れみを注ぐべき対象を見誤ってはならないのであり、当ブログを巡る訴訟は、教会に対する迫害が完全に終わらない限り、本当の意味では決着を見ないのであるから、やはり過去に起きた事実を白紙撤回するなどということはできないのである。

この先、控訴取り下げが行われたり、示談が結ばれたからと言って、ネット上でクリスチャンの争いを煽っている勢力に対する追及が終わるわけではなく、控訴審で取りこぼした課題も、それとは別に、これから解決を図らねばならないのであって、決着が着いたと言える日はまだ来ていない。

そういうわけで、今、越えようとしているステップは、ほんのわずかな一歩でしかなく、筆者にはこれからまだ解決せねばならない多くの仕事が残っている。
  
王妃エステルは、命がけで王の前に立つことで、ユダヤ人を絶滅から救っただけではなく、ハマンの処刑に貢献したことを、忘れるわけにはいかない。兄弟たちを分裂させ、主の民に滅びを願うような者は、相応の報いを受けねばならない。たとえ兄弟姉妹の絆が断ち切れて、もはや修復不可能になっているように見える場合にも、それは同じである。

だから、筆者にとって極めて重要であった聖徒の交わりをかく乱し、破壊し続けて来た者どもには、しかるべき報いを受けさせねばならない。そのために、暗闇で行われて来たことを明るみに出すことが、今後は最も先決の課題となる。必ず、その者は最後に存在を暴かれ、裁かれることになるため、くれぐれも読者はそうした犯罪行為に加担されないよう注意されたい。

* * *

<補足>

ところで、刑事事件においては、証拠の有無のみならず、被害者が犯人の処罰を求める感情がどれくらい強いのかも、ものを言う。そこで、示談というのは、刑事事件における罪を軽くすることにも貢献できるかも知れない非常に重要な手続きだったわけである。

筆者はこれについても、考えていたところであった。そのようなタイミングで、円滑な紛争解決や温情が注がれる余地を排除するような新たな権利侵害事件が起きたことは、非常に運命的かつ予表的な出来事であると筆者は思っている。もしも救われるべき人間を相手にしているならば、このようなことは決して起きないからだ。

示談が成立していなければ、訴えられた人間には、刑事事件を有利に運ぶ強力な材料がなくなるが、示談後にも、同様の権利侵害を行っていた事実が発覚するとか、再犯したなどの事実が加われば、それも非常に悪い印象を残すことになる。

これまで当ブログを巡る事件において、筆者は相手方のために、何度も、何度も、猶予をもうけて来たが、その温情も猶予も、紛争を有効に終わらせるために機能したことが一度もなく、かえってこじらせるために悪用されて来た経緯がある。そのことを考えても、やはり、罪赦されるチャンスがいくらでもあるのに、罪赦されることを自ら拒んで、自ら救いから遠ざかって行く人間というものも、この世には存在するのではないかという気がしてならない。

訴訟に関する記録は、いつかはまとめて公表せねばならないと考えて来たが、紛争を拡大しないために、今までこれを控えて来た。示談成立がないような場合には、やむをえないので、ただちに公開し、別訴を提起するなどして、対策を講じねばならない。

なぜなら、紛争のもう一方の相手方が筆者を告訴したなどと言っている以上、筆者も安全策を講じる必要があるためだ。しかし、そうすると、筆者を刑事告訴したとしている牧師の名も、当然ながら本人の書面により全国に向けて明らかになる。果たして信徒を告訴する牧師のもとへ行きたいと願う信徒がいるのかどうか、甚だ疑問である。

しかも、その牧師が、一審ではブログ記事をすべて削除して和解すると言っていたのに、途中で態度を翻したことも、本人の書面を通して明らかになり、なおかつ、当ブログの著作者人格権を侵害した事実があることや、当事者からの依頼もないのに、他者のプライバシーを侵害する記事をブログに多数、掲載している行為が、明らかに、不法行為に当たることも明白となる。

このように、他者の代理人となって紛争に介入することは、筆者の目から見ると、非常に怖いことなのである。今までにもこの人は、多くの事件に資格なく干渉を繰り返して来たわけであるが、それでも、その当時、それは誰かの依頼を受けてやっていることであったため、他者の権利を守るという大義名分がついていた。

だからこそ、筆者は、その人は他の牧師から依頼(提携)を受けて、非公開の資料を公にするようなブログ記事の公開に踏み切ったのだろうと考えていたが、その牧師は、そんな提携はない、それは筆者の考え違いであると嘲笑った。そして、本人の言によると、実は、その牧師は、誰からの正式な依頼も受けていないのに、勝手に他者の代理人になって、他者のプライバシー権を暴き、自分とは無関係の紛争に介入したことが、本人の書面の内容から、明らかとなった。これは極めてまずいことである。

捜査機関が、誰からの依頼もないのに、独自に動き出し、人々の身辺調査を秘密裏にやり出したら、どうなるだろうか。しかも、自分たちの機関に逆らった人々の情報を秘密裏に集めて勝手に公表するようなことをすれば・・・?そうした懸念があることを、ずっと前から筆者は訴え続けて来たのであるが、相当にそれに近いところまで現実が追いついていることが発覚したのである。もはや「代理人」や「相談役」という肩書さえかなぐり捨てて、他人の名を勝手に使って、縦横無尽に争いに介入するところまで来てしまったのであり、その次なるステップとして残るのは、あからさまな「なりすまし」のみ・・・。

よく考えてもみられたい、一体、誰が頼まれてもいない他者の代理人に勝手になって、他者の人物像を勝手に「創作」などしているのであろうか? 誰が他者の名を使って、クリスチャン同士の対立の火に油を注ぎ、教会を分裂させ続けて来たのか?

筆者が訴えて来たのは、そうした「なりすまし」の目的は、教会の簒奪にあるということ、すなわち、聖なる者でない者が、聖なる者の名を詐称して、自分には手に入れられない高みにある宝を奪い取り、これを破壊し、最終的には、教会を乗っ取ることで簒奪し、神ご自身を簒奪することにあるということである。

クリスチャンの名や存在を簒奪することは、聖なる神の教会を簒奪することを意味し、花嫁なる教会の簒奪は、花婿なるキリストの簒奪・蹂躙を意味する。本物を駆逐・破壊して、偽物だけを残すこと。これが異端の目的なのであり、実は異端狩りに熱中している人たちこそ、最も教会を簒奪・破壊している危険な存在なのである。

そのことを、当ブログでは再三再四、主張して来たのだが、それがついに誰の目にも明白になるほどまでに客観的に明らかになろうとしているのが現在である。


今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。

愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。

あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。しかし、キリスト者として苦しみを受けるなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。

今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。
「正しい人がやっと救われるのなら、
不信心な人や罪深い人はどうなるのか」
と言われている通りです。だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。」(Ⅰペテロ4:12-19)

兄弟たちは、小羊の血と

 自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12:11)

* * *

夏が終わると同時に、筆者の心の休暇も完全に終わり、筆者に与えられた厳しい任務の全容が見えて来た。

人を助けることを仕事とするために、筆者は相応しい仕事に就き、干潟を開拓している最中であると書いた。しかし、人を助けるためには、人に対して優しい態度を取るのではなく、逆に、人の欲しない事柄を告げて、厳しい態度を取らねばならないという逆説があることを思わされる。

人間の欲望を助長し、人間を甘やかし、人間の罪を大目に見ることと、人を助けることは、正反対なのである。

筆者の訴えを裏づけるために、憎まれたり、嫌われる役目を果たしてくれた大勢の人たちがいる。警察も、行政の役人も、裁判官も、他者に違反を突きつけ、犯人を悪者とし、上から指導したり、有罪を宣告するために働かなくてはならず、その意味で、彼らは決して人に優しい仕事をしていない。

だが、そのようにして他者を罪に定めねばならない悲しみを知っているがゆえに、この人たちには、筆者がなぜ他者を告発するような訴えを出さざるを得なくなったのかを理解するだけの深い同情や思いやりもあった。

すべてがすべてそういう人たちばかりだったとは言わないが、不法行為は裁かれなければならないとの信念のもと、彼らの多くが、忠実に役目を果たしてくれたのである。

だとしたら、筆者は、彼らの仕事の成果を無駄にしないように働かねばならない。他人には、厳しい罪の宣告を口にさせておきながら、自分だけは、人に受け入れられ、誰にも苦言を呈さなくて済むよう上手く立ち回り、甘言だけを弄して、彼らの積み上げた仕事の成果を自ら台無しにするような生き方をするわけには行かないのだ。

そういう意味で、次第に、筆者自身が、彼らと同じように、権威を持って他者を裁くという立場に立つ時が近づいているのを感じる。もはや裁判官や、警察官や、弁護士や、役人など、宗教指導者はもちろんのことだが、誰か自分以外の権威者に決定を委ねるのではなく、彼らの果たしてくれた功績を基礎として、その上に、自ら判断を打ち立てねばならない時が近づいているのである。

聖書の神は、決して人類に媚びて、人に甘い顔をされる神ではない。

以前、当ブログでは、旧約聖書において、神がどれほど厳しい宣告を自らもしくは預言者を通じて人類に突きつけられたかを列挙したことがある。

ゼファニヤ書などは冒頭からこのように始まっている。

「わたしは地の面から
すべてのものを一掃する、と主は言われる。
わたしは、人も獣も取り去り
空の鳥も海の魚も取り去る。
神に逆らう者をつまずかせ
人を地の面から絶つ、と主は言われる。」(ゼファニヤ1:2-3)

人を地の面から絶つ・・・何度神はそのような宣告を人類に対してなされたことであろか。すべては人類の罪のためであった。

神は決して人類に対し、決して媚びて語りかけられるようなことをせず、一貫して、人類が耳を塞ぎ、足早に逃げ去り、聞かされたくないと願うような宣告を突きつけ続けて来られた。

神が人類に突きつけられた事実とは、人類は罪を犯し、神に背いており、生まれながらに死の宣告と永遠の滅びの刑罰にしか値しないという内容である。そして、その宣告の集大成が、カルバリの十字架なのであり、そこでキリストが受けられた死の刑罰こそ、生まれながらの人類にふさわしい神からの最終的な「判決」であり、恥辱に満ちた人類の真の姿だったのである。

だが、私たちはその刑罰をキリストだけに押しつけ、自分は一切無関係で生きて行くのでは、いつまで経っても、その贖いは、私たちのものとはならない。

自分で自分を十字架につけたり、自分で自分を苦しめたり、蔑む必要はないとはいえ、それでも、私たちには、日々、主と共に十字架を負う姿勢は必要である。主の十字架が私たちに適用されるからこそ、私たちはもはや罪の宣告を受けなくて良くなるのであり、その代わりに、その十字架が、罪赦されていない罪人と、私たちの間を、決定的に分けてしまう。

だから、この十字架の切り分けにより、私たちがどんなに和解を願っても、決して和解することもできず、一つになることのできない人たちが出現して来るのである。

地上の裁判官の最も主要な仕事は、他者に対して罪の宣告を下すことである。裁判官は、紛争当事者に和解を勧めることもあるが、最も重要な仕事は、やはり判決を書くことにあると言える。しかし、判決は、実に多くの場合、訴えられた者の不法行為を認定して、賠償を命令するものとなる。

裁判官がその役目を果たしてくれるからこそ、原告はそれによって救われるのである。

しかし、もしもこの世の裁判官が、判決を書く際、権力者や、宗教指導者や、企業の代表や、有名人などといった、この世で力と名声を持つ人々に媚び、自分が彼らに恨まれたり、報復されること怖さに、彼らをできるだけ罪に問いたくないと考え、この世の権力者に有利な判決を書いたとすれば、そんな訴訟に、あなたは原告として何を期待することができようか。

ところが、そういう日和見主義的な裁判官も、この世には相当数、存在するものと思われる。だが、裁判官に求められるのは、そんな自己保身や、この世の名声に気を取られ、この世の権力を持つ者を擁護し、彼らの罪を無罪放免したり、彼らに有利な決定を下す姿勢ではない。

そんな裁判官に訴訟を委ねるくらいなら、自らが判断した方がはるかにましなのである。だが、それを考えるとき、やはり、自分が恨みを買うことも恐れず、判決が憤りや反発を呼び起こすことも十分に理解した上で、それでも事実を厳粛に見据え、たとえ権力者であっても、悪者に対しては厳しい宣告を下すことが、人にとって非常に困難を伴う作業であることも分かる。

裁判官は、この世の権力者に媚びてはならないだけでなく、人類そのものに媚びてはならない。人類というものに幻想を抱き、人間を美化してとらえ、人間がそんなに悪いことをするはずがないとの先入観から、人をできるだけ罪に問いたくないなどと考え、どんな罪でも、できるだけ赦すべきだなどと説いて、和解勧告ばかりを行ったり、不法行為を認定して厳しい判決を書くべきときに、かえって不法行為を大目に見る判決ばかりを書き続けていたのでは、この世の秩序は崩壊してしまう。

そういう意味で、裁判官の仕事は、決して生まれながらの人類を満足させることにはなく、人間の罪なる本質をできる限り明らかにすることは避けて通れない、と言えなくもない。

このように、あらゆる紛争においては、誰かが命を得るためには、誰かが罪を宣告されねばならないという側面がある。罪人に対して、いつも容赦する決定が下されているのでは、誰も報いを得る者はない。赦しがあるとしても、それは、悔い改めと、謝罪と、償いのあとにもたらされるものであり、罪の自覚がないところに、謝罪も、償いも、赦しも、あるはずがなく、人は悔い改めない限り、罪赦されることなく、神に立ち返り、義とされることもないというのは、聖書の事実である。

そこで筆者は、キリスト者に与えられた使命は、どこかしら、この世の裁判官と似ており、決して、この世に迎合し、その罪を大目に見ることではないのだと知らされる。バプテスマのヨハネが、人々に悔い改めを迫ったように、十字架が、今も人類に対する罪の宣告なのであり、それゆえに、そこにはりつけられている人類の罪なる本質を決して見誤ることなく、その事実に立って、すべての物事を見据えねばならないのだと思い知らされる。

そういう意味で、筆者の仕事は、決して人間にとって喜ばしいものではないし、そうであってはいけないのであって、この世において真に正しい裁きが実現することを願うなら、筆者自身が、人類に対して媚びて甘い判断や決定を下してはならないのであって、決して人間的な感情から、対立を恐れ、違反を容赦してはならないのだという厳しい現実があることを思わされる。

おそらくプロテスタントもそうであるが、地上のキリスト教のあらゆる組織や団体が、地の塩としての役目を失ったのは、人助けと称して、この世に迎合し、人間が「恵まれる」ことだけを目的に、自己満足的なイベントを追及し、人類に対して甘い言葉しかかけなくなったためであろう。

カルト宗教にはすべてそういう要素がある。偽りのキリスト教は、偽りの救済論に基づき、罪ある人々が、罪を悔い改めずとも、罪あるままで、自己救済によって、救いを得ることができると説く。

偽りのキリスト教には、キリストの十字架の贖いがないので、そこには、その代わりに、人類の自己流の「罪滅ぼし」がある。それは一生続き、人生のすべてを投入してもまだ足りないのであって、罪滅ぼしのために、カルトの集団生活があり、不法行為が存在すると言って良い。

つまり、カルトの集団生活とは、人類の自己救済の手段なのであり、カルト宗教が犯す不法行為のすべては、彼らが結局、返済しきれない罪の負債をごまかして終わるための自殺行為のようなものなのである。

当初は「世界救済」などという名目をつけて、善行を行っているように見えても、そこで行われているのは、結局、自己救済のための不毛な「罪滅ぼし」である。

しかし、今日の組織としてのキリスト教にも、この世における労働にも、それと非常に似た要素が見いだせる。

最近、ふとしたことから、プロテスタントにおいては、2017年に日本信徒前進大会なる奇怪なイベントが催されていたらしいことを知ったが、そこに出席した信徒も、「恵まれる」どころか、きっとその正反対の災いしか受けなかったであろうと確信する。

以前には、こうしたイベントは「リバイバル」を売り物にしたお祭り騒ぎ的な内容のものが多かったが、クリスチャン・トゥデイの記事を読む限り、今は殺伐とした世相に合わせて、終末を感じさせる内容にシフトしつつあるように感じられる。

だが、どんな内容であれ、こうしたイベントは、すべて筆者にはマサダの自決へと続く「蛇の道」であるように思われてならない。以前から、「喜びの集い」や「リバイバル待望集会」や「聖霊降臨待望会」や「再臨待望集会」などと、様々な名をつけては、全国各地の信徒たちが、集団決起大会のようなイベントに、鈍行を乗り継ぐなどしながら、多大な時間的・経済的負担を負って駆けつけていたことを筆者は知っている。

しかし、筆者は、個人的には、それらのイベントのすべてが、要するに信者が浮世のすべての悩みを忘れ、我を忘れて現実逃避するためのまやかしでしかないから、そのようなイベントが、信者に幸いをもたらすことは決してないどころか、彼らの生活を後退させるだけであるとみなしている。

ノアはこの世に身を置いて、世人から嘲られながら、箱舟を建設していたのであり、洪水が来たときに、初めてノアの信仰の正しさが明らかになった。

ところが、今日の実に多くの信者たちは、洪水が来てもいないのに、早々と箱舟を作ってその中に閉じこもり、この世に出て行って奮闘するどころか、この世と接触して悩み苦しみを受けるなどたくさんだとばかりに、自分たちの間でしか通用しない特別な掟を振りかざし、特別空間としての箱舟に逃げ込み、いつか洪水が来て、自分たちの引きこもり生活の正しさが証明されると言っては、自分たちは「選民だ」と互いに囁き合い、慰め合っている。

その間にも、時は流れ、世の中では様々な事件が起き、彼らの家庭においても、子供たちが苦しんだり、夫婦が争ったり、彼らが自ら責任を果たして積極的に解決しなければならない出来事がたくさん起きるのだが、この人々は、信仰のイベントこそ、人生の中心であるかのようにみなし、彼らにとっては無菌室に等しい、居心地の良い特別の閉鎖空間(箱舟)に閉じこもり、そこから独自の理論を振りかざして物事を口先だけで論じているだけなので、この世においていかなる問題が起きても、見向きもせず、その解決に取り組むことも、責任を果たすこともない。

彼らはただ箱舟にさえ乗っていれば、この世のすべての困難は自動的に解決されるかのようなまやかしの救済論に身を委ね、実際に汗水流して取り組まなければならない様々な現実的な困難に取り組むことを自ら放棄して避けているので、そのような状態が長く続けば続くほど、現実に起きる様々な問題に対処する能力が低下して行き、この世も、彼らが現実逃避にいそしんでいるうちに、ますます悪くなって行くだけであり、彼らにはそれを止める力もない。

結局、この人々は、この世に正しい秩序をもたらすために働いているのではなく、この世の悩み苦しみから手っ取り早く逃避し、我を忘れるために、イベントに駆けつけているだけで、その現実逃避が「救済」であるかのように錯覚させられているだけなのである。

その光景は、カルト宗教の集団生活と何ら変わることはない。まだ地下鉄にサリンを蒔くところまで至っていないだけで、その末路は非常に厳しいものになると、筆者は予測せざるを得ない。

もっと進んで言えば、こうした特別なイベントだけでなく、彼らが何より重んじている日曜礼拝、教会生活そのものが、カルト宗教の集団生活と何ら変わらない、「現実逃避」なのであって、それは信者が自分自身の真の罪ある状態から目を背けるための「引きこもり生活」と呼んだ方が良いものであると筆者は感じている。

もしも彼らが真に現代のノアでありたいならば、この世に積極的に出て行き、そこにおいて、たとえ嘲られ、自分が劣勢にあるように思われても、粘り強く戦って、不正義の中に正義をもたらすために努力を重ねるべきであろう。

いつまでも手をこまねいて待っているだけで解決する問題などあるはずもなく、「自分たちは選民だ!」と豪語しながら、身内だけで集まり、自画自賛を重ねるだけで、世が罪を認めて彼らのもとにやって来ることは決してなく、天を地に引き下ろし、正しい秩序と裁きが、この世に実現するために、時を無駄にせず、労苦を惜しまないで取り組むべき様々な問題がある。

さらに、信仰者には、世に勝利した者が着いておられる。それなのに、なぜ大胆に世に出て行くのではなく、むしろ逆に箱舟など作って、そこに引きこもる必要があるのか。

「神から生まれた人は皆、世に勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(ヨハネの手紙一5:4-5)

その信仰はどこへ消えたのか。その不安心理はどこから来るのか。筆者はとても奇妙に思う。

だが、そういうことになるのは、きっと彼らが真に十字架の贖いを受け入れて、罪赦されていないことの証なのであろう、と思わざるを得ない。

これは恐るべき逆説である。病院は、病人のために必要な場所であって、健康な人のための場所ではない。同じように、地上の組織や団体としての教会は、罪人のために存在するのであって、罪赦された人のためには必要ない。

イエスは、病を癒し、罪を赦すために来られたが、イエスの救いにあずかった人々は、自由になって召し出されて行ったが、その救いを拒んだ人たちは、どこにも召し出されることなく、かえって隔離されてしまったのである。

誰も彼らを力づくで隔離したわけではない。だが、彼らは罪赦されていないからこそ、自分たちは清められなければならないと考え、いつか罰せられる日に怯えて、身を寄せ合い、かばいあうために、バリケードを作り、そこを自分たちの安全地帯とし、神からも人からも顔を伏せて生きているのではないだろうかとみなさざるを得ない。

だが、自分たちがいつまでも罪のゆえにこの世から隔離され続けているなどとあまりに恐ろしすぎて認められないので、自分たちは贖いのために精進を重ねているのであって、聖化の途上にあるなどといったことを自分に言い聞かせ、何とかして罪赦されていない現実の恐怖から目を背け続けているのではあるまいか。

つまり、この世で一般的に教会生活とみなされているものは、いわば、己が罪を自己申告した人々による隔離生活のようなものであって、罪赦されたという確信がない限り、その人たちは、何度でも、罪悪感を薄めてもらうための投薬を求めて、隔離病棟に通い続けるしかないのである。そのような生活を重ねれば重ねるほど、罪の赦しが得られるどころか、ますます赦しは遠のき、不安と、ごまかしが増し加わって行くだけである。

そういう生活は、はたから見ると、カルト宗教の驕りに満ちた「世界救済」を目的にした集団生活と何ら変わるところはないように見える。だからこそ、その末路も、カルト宗教と同じものになるだろうと筆者は感じているのである。

5年、10年、あと何年かかるか分からないが、毎年のごとく繰り返されているこうしたイベントが、いつか最後には破滅的な内容になるだろうとの予感を持たないわけにいかない。

だが、そのようなことは脇に置いておこう。今までずっと書いて来たように、筆者の目から見れば、この世における労働も、実は、教会生活と本質的には全く変わらない、人類の自己救済のための集団生活(隔離生活)なのである。

あの悪名高いカルヴァンの予定説――人は救いの確信を内側に持つことはなく、神にしか、誰が救われるか分からないという、あの荒唐無稽な説が、救いの確信を持てない大勢の人々に不安を抱かせ、その不安心理から逃れるために、人々が労働に励む――という悪循環を作り出す。

その労働とは、とどのつまり、神に救われているかどうかが分からない人々が、自己の不安と罪意識から逃れるために、外側を飾って、自分が善行に励んでいるように見せかけるための、自己救済としての終わりなきバベルの塔建設の試みに他ならないのである。

だから、そのような文脈での労働は、従事すればするほど、ますます神への反逆としてその本人に豊かさではなく、死と呪いとをもたらすものとなってしまう。

筆者はある時にそのことに気づき、こうした悪循環としての労働からは退かねばならないことに気づいた。そして、自己救済のための労働ではなく、真に意味のある働きをせねばならないと理解した。

だが、その真に意味のある有益な仕事とは、筆者が当初考えたような、単純な人助けではなかったのである。

裁判官の主要な任務が、人の罪を告げ知らせ、場合によっては、死さえ宣告せねばならないものであるように、やはり、信仰者に与えられた最大の任務も、人に罪を告げ知らせ、裁きと、処罰の日があることを告げて、悔い改めを求めるという、この世では栄光の少ない仕事なのであろうという気がしてならない。

人類の耳に心地よい自画自賛の言葉をささやき、誰に対しても「あなたの罪は赦された」と言うのはたやすい。だが、違反と、罪の宣告を厳しく告げなければならないときに、そのような心地よい言葉ばかり並べて、罪人を大目に見ているならば、後でひどい処罰がその人自身に下るに違いない。

人々に率直に罪を宣告し、謝罪と、償いを求め、この世において、地の塩としての役目を果たすことは、非常に苦労の多い仕事であり、それは、人間にとっては、同胞を敵に回すがごとく、とても気の進まない、憎まれる、嫌な仕事であり、この世における報いも非常に少ないように見えるだろう。

だが、それを果たさなければ、私たちキリスト者に地の塩としての価値はないのである。そして、救いとは、この世から離れたところに存在する内輪の集まりでもなければ、集団生活でもない。

私たちはこの世のあらゆる不合理の只中に立って、決してそこから逃げることなく、その最中に正しい裁きと秩序がもたされるよう、奮闘しなければならない。

そして、十字架において御子の贖いが達成されていればこそ、私たちの奮闘にも、勝利が約束されているのである。この勝利の約束から、私たちはすべてのものを引き出す。地上における助力者も、必要な物資も、適宜、必要な時に届けられる情報も、慰めも、決定も、必要の何もかもである。

神の国と神の義を第一として生きている限りにおいて、私たちには、地上生活においてすべての必要を満たされることが約束されている。そして、真に命の豊かさに至り着く道を、見つけたいと願うならば、この優先順位は、決して逆転されてはならない。地上において人前に栄光を受け、人に喜ばれ、受け入れられることが、神から喜ばれ、栄光を受け、受け入れられることよりも優先されるようなことは、決してあってはならないのである。

当ブログが、神の御前に立ち続けることができているのも、それがあるためなのである。

もしも筆者が世に迎合し、さらに世に迎合している偽りのキリスト教に迎合し、人の恨みを買いたくないとか、争いを避けて通りたいというだけの理由で、地の塩としての役目を果たすことをやめて、罪人の罪を大目に見ることを始めたなら、当ブログも、役目を終えたものとみなされ、踏みつけにされて終わるだけである。
 
歴代預言者のすべてが同じ細く狭い道を通った。このように、キリストの十字架の贖いの正しさを主張するならば、どうしても人々の罪を告発するという仕事を避けて通ることはできない。神と人(富、世)との両方に兼ね仕えることは絶対にできないのである。
  
そういう意味で、この先の道は、今まで以上に狭き門、細い道となることであろうと思う。現代のキリスト者が最もなさなければならないのは、おそらく、神の家を支配する穢れを告発し、これに触れないようにしながら、本物の見えない神殿を構築することなのであろうと思う。

かつて多くの人たちが、日本のプロテスタントの嘆かわしい現状を訴え、改革に着手しようとした。その人たちが、真に御言葉に立って、神の家を告発していた間は、いかにその言葉が厳しくとも、神もその人を守って下さったことであろうと思う。

だが、その人たちは、みすぼらしい干潟のほとりで、神からのみ栄光を受けるために、人からは忌み嫌われる仕事を忠実に果たすことをやめて、かえって人からの栄光を受けようと、不公平な判断を下し、ついには、神の家を支配する穢れに自ら迎合し、干潟など見るのも嫌だと、きらびやかな公共事業を建設する方向へとなびいて行ってしまった。

その結果、彼らは堕落し、不法行為に手を染め、かえって筆者がその人たちからバトンを奪い、その人たちに罪を告げ知らせるという厳しい任務を任されている。
 
だが、筆者は、もしも地の塩としての役目を捨てるなら、誰であろうと同様のことが起きるであろうと理解している。

私たちは一体、何に依拠して、他者に対して厳しい宣告を突きつけることができるのか。カルバリで下された神の判決に立ってである。それがあればこそ、この世の何人をも恐れずに、私たちはあるがままの事実を彼らに対して宣告することができる。逆に私たちが世に媚びることは、十字架を曲げることであって、神を敵に回す行為を意味する。

筆者はこれまで地上の紛争を通して、裁判官が筆者を死地から救い出してくれるように考えたり、あるいは、警察官に助けられたり、善良な上司や、信仰の友に出会い、それによって、大いに救われたように考えて来たこともあったが、事実はまるでそうではないことがよく分かった。

そういうものはすべて神が備えて下さった束の間の条件の一つに過ぎず、それらすべての条件を超越したところに、キリスト者は立たされている。そして、最終判断はすべて、キリスト者自身が、誰にも奪われることなく、自ら下さねばならないのである。それは、神と二人三脚で進む孤独な道であって、そのようにしてすべてを自ら判断することができなければ、どんな困難をも人は切り抜けることはできない。

このようにして、他者に対して罪の宣告を行うという筆者の「任務」は、この先もずっと続くであろうし、それが筆者の仕事なのだということを、筆者は理解させられている。そのために、誤解や、迫害を受けることも、当然に予測される試練のうちであるし、もしこの「任務」が真に必要なものであれば、それを切り抜ける方法も、必ず天に備えられているはずである。

「キリスト者として苦しみを受けるなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。」と聖書に言われている通り、それは何ら恥ずべき試練ではないし、いつか重い栄光で報いられる時が来る。

だから、もしもあなたが箱舟を作りたいならば、心の中に、神と自分とのみが入れる箱舟を作り、そこに避難しなさい。鳥が高い高い崖の上に巣を作り、そこに我が子を置くように、決して他者の入り込めない高みに、小さな安全地帯を設け、そこで、神と一対一で、誰にも知られないひそかな語らいを持ちなさい。いつ、誰に対し、どんな判断や決定を下さなければならないか、あなたが人々に何を告げねばならないかも、そこで考え、主に相談して決めなさい。

そうすれば、そこでひそやかに下された決定が、やがて大きな影響力となって、地上の出来事に波及し、あなたは自分の下した宣告が、まるで動かせない判決のようになって、すべての物事に効果を及ぼすのを見るだろう。

悪者は断ち切られ、正義が実現されて、命の水と、豊かさが川のように溢れ流れる。だが、そうなるまで、あなたは祭司として身を清め、神の御前で多くの孤独な時を過ごさねばならない。決して世に媚びたり、迎合したり、報復を恐れず、人からの寵愛を失うことを恐れず、非難されることを恐れず、神との間に、誰をも置くことなく、自分のすべてを、神の国とその義を地上に実現するために捧げなさい。

カルトの集団生活からは、何一つ生まれるものはなく、そこにあるのは、嘘と、虐げと、不法行為だけであるが、あなたが人の目からは完全に隠れたところで、生きておられるただお一人の神に捧げたものは、何一つ忘れられることはなく、豊かな報いと共に返される。地上の人々は、あなたの生き方を損だと言って、あなたが自分の幸福をすべて後回しにしてむなしいもののために身を捧げていると嘲るかも知れないが、恐れることはない、主はあなたの労にちゃんと報いて下さるからである。