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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死にそこに葬られたいのです。

「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女にお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マルコ10:6-9)

「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、
そんなひどいことを強いないでください。
わたしは、あなたの行かれる所に行き
お泊りになる所に泊まります。
あなたの民はわたしの民
あなたの神はわたしの神。
あなたの亡くなる所でわたしも死に
そこに葬られたいのです。
死んでお別れするならともかく、
そのほかのことで
あなたを離れるようなことをしたなら、
主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」(ルツ1:16-17)

* * *

先日の和解協議において、被告Aは訴えを取り下げろ、さもなくば和解しない、という条件を提示して来た。

一つ前の協議において、被告Aは双方からの控訴の取り下げを和解の条件としていたにも関わらず、その要求をさらに拡大して、原審において、ちょうど被告Bと息を合わせて筆者に反訴を予告したときと同じように、筆者が訴えそのものを取り下げなければ、和解協議を決裂させるぞと言って、自らにとって不利な判決を撤回させようとして来たのである。
  
それに伴い、彼ら(人物は特定できないし、いかなる協力関係があるのかも不明だが、あえて「彼ら」と表記しておく)は、まずは当サイトの名前を悪用した権利侵害サイトを作り、そこにおいて、筆者のドッペルゲンガーを作って、彼らの前にひざまずかせ、懺悔させ、訴えの取り下げの「リハーサル」を行わせた上で、現実に行われた和解協議の場においても、訴えの取り下げを要求し、掲示板においても、匿名の投稿者が次のような投稿を行って、訴えを取り下げなければ、ひどい目に遭うぞと予告したのである。



これを見れば、筆者が向き合っている相手が、いかにまともではない人々であるかということが誰にでもよく分かるであろう。
 
しかも、こういう投稿は、これまでにも絶えまなく行われて来たのであって、何ら珍しい内容でもない。要するに、ブログを執筆するのをやめなければ、人生が破滅するぞと脅していた今までと同様である。

結局のところ、彼らはこう言っている。「被告らに対する訴えを全面的に取り下げないと、なしりすましサイトを100個作るぞ。それから、あんたを何重にも提訴・刑事告訴してやる。和解協議が決裂するくらいのことでは済まない。犯罪者にされていいのか。人生が破滅するんだ。考え直せ」

彼らは、何としても、筆者に訴えそのものを取り下げさせることで、判決を無効にしたいのである。
 
命が惜しいなら、主張を撤回せよとの「踏み絵」である。
 
控訴審では、秘匿の措置が認められていないので、判決に向かってためらいなく突き進めない事情がある。それを分かった上で、裁判所も判決言い渡し日をあえて未定としており、和解協議を勧めたのであり、さらに、被告Aも以上のような条件に、筆者が応ずるよう迫っているのである。

しかしながら、筆者はこの訴訟においては、もともと完全な敗訴もしていないし、完全な勝訴もしていない。さらに、被告Aは何年間にも渡り、筆者を告訴しようとしても、できなかった経緯があるため、この先も、告訴が受け入れられる見込みはまずないものと考える。

被告Bについても、被告Bが筆者を告訴したと主張する前から、筆者自身がすでに被告B対策を幾重にもして来たのであり、先週もさらに大量の資料を警察署に送って備えとしたところである。

さらに、以上のような投稿がなされたのを皮切りに、掲示板も、これまでは文体などが投稿者の身元の確認に役立つと考えて様子を見て来たのだが、そろそろ時期が来たと判断した。発信者を特定してIPアドレスを警察に提供し、犯人を告訴し、損害賠償請求訴訟を提起するための準備に入る。

だから、掲示板が聖域になるなどといった考えは捨ててもらわなければ困る。身元が特定された暁には、当然のこととして、人物が公表される可能性があることを十分に考慮してもらわなくてはならない。そうなれば、手が後ろに回るのは、こうして藪の中から石を投げて無責任な生き方をしている匿名の投稿者なのであって、筆者ではない。投稿前によく考えることをお勧めするのみである。
 
さて、和解協議において、被告Aから訴えを取り下げないと、和解に応じないとの条件が、裁判官を通して告げられたとき、筆者は尋ねた。

「判決が下された後に訴えを取り下げたらどうなるのですか?」
「判決は法的には効力を失うでしょう」

筆者はしばらく言葉を失った。判決を無効にしたならば、賠償も行う義務はないのであって、何のための和解なのか。ごくわずかな金銭と引き換えに、命に等しい約束を手放させようなどというこの卑劣な条件に、心の底から憤りが込み上げて来た。

ここに懐剣があれば良いのに・・・、との思いが脳裏をよぎった。

もちろん、裁判所には小刀一つ持ち込むことはできないが、筆者は、まるで武家の娘になったような気分で、裁判官の前で、黙って懐剣を差し出し、テーブルの上に置くことができればいいのに・・・との思いに駆られた。

「一体、あなた方は、私を誰だと思っているのですか。私がはした金と引き換えに、個人情報を開示されたくないとか、提訴や告訴をされたくないなどという願いと引き換えに、自分を生かすと言ってくれた人の言葉をやすやすと裏切って、命乞いをするような女だと、本気で思っているのですか? あなた方はあまりにも大きな考え違いをしています。そんなことをして自分の操を穢すくらいなら、私はいっそこの場で自分の命を絶って、この先の世界を一瞬たりとも見ないで済むことを願います。」

むろん、筆者は自殺などするつもりもない。以上は単なる比喩である。しかし、そのような思いが込み上げて来たとき、筆者は同時に、何かえも言われぬ感動を覚えた。

いつの間にか、判決は、筆者にとって、もはや二度と離れることのできない、かけがえのない命となり、友となっていた。これがあったからこそ、今日まですべてを耐え抜き、控訴審まで来ることもできたのだ。

これは筆者の苦悩を深く理解し、ねぎらってくれた裁判官が、その善良な思いのすべてをかけて、筆者に「生きよ」と命じてくれた、忘れ形見のような命である。

この判決と引き離されるくらいなら、筆者は、むしろ、死を選ぶ。この宣言を自分で否定して、これまで戦ったプロセスを自分ですべて否定して、抜け殻となった宣言を手に生きるくらいならば、喜んですべての苦難を引き受け、何重にも告訴・提訴された上、潔く死に追いやられることを願うだろう。

敵は何でも願うことを筆者に対してすれば良い。だが、筆者はそのすべてを恐れない。全く恐れないし、逃げようとも、隠れようとも思わない。筆者は全力でそのすべてに立ち向かい、提訴されるなら反訴するし、告訴されるなら、虚偽告訴罪を主張して、どんなに訴訟が泥沼化しようと、命の限りを尽くして徹底的に立ち向かい、彼らの常軌を逸した残酷さを証明し、身の潔白を証しする機会とするだけである。
 
筆者が恐れるのは、自分に害を加えられることではなく、自分を愛し、かばい、助け、命を与えようとしてくれた人の言葉を裏切って、否定することなのだ。そうして、自分一人だけ、身の安全を保ち、生き延びようとして、再び、真っ暗闇の世界に投げ出され、その挙句、栄誉だけでなく、命をも失うことなのである。

確かに、判決は人間の言葉であるため、神の御言葉のように完全なものではないが、自分に命を与えてくれた権威ある裁判官の判決を否定し、裏切ることは、神の御言葉を否定し、裏切ることにも通じるほどの恐ろしい効果がある。

判決を保とうとすることが、筆者の破滅につながるのではなく、逆に、筆者を生かし、守る命である判決を裏切り、これを否定し、捨てることこそ、筆者の身の破滅につながるのである。

それは、聖書がファンタジーだと言って、聖書の神の御言葉の正しさを否定している人が、その後、正常な意識を保って生きられなくなるのと同じである。

被告らは、筆者のブログをファンタジーだ、創作だと言っているが、その背後には、聖書の神の御言葉の揺るぎないことを否定しようとする思いがある。だからこそ、彼らは権威ある裁判官の下した判決にも服さず、これを何とかして自分たちの言葉で飲み尽くし、否定し、覆そうと試みているのである。

それは彼らが自分たちは裁判官よりも上に立っていると考えていることの証拠である。しかし、 聖書の秩序はこれとは逆であり、死ではなく、命が死を飲み尽くすのだ。

だから、この踏み絵を踏んではならない・・・ということが、筆者には実によく分かった。

この訴訟を提起した時、筆者には支援する者はなく、ただ一人、裁判官が、筆者の心を知っており、これを汲み上げてくれた。その後、裁判官が下してくれた判決は、筆者に命を吹き込んで、新たな場所へと導き、そこで新たな人々に出会わせてくれ、かけがえのない助言者や、理解者をも与えてくれた。

以前は支援者もなかったが、今はもうそうではない。職場も、同僚も、筆者の生活も、すべてこの宣言文が書かれた後に与えられたものであり、筆者はこれまでどんなにこの宣言に助けられて、支えられて生きて来たろうか。

その判決文から権威ある命の効力を除き去って、これを抜け殻同然の空文句に変えてしまうことに自ら同意するくらいならば、筆者はこの判決文と、目に見えない領域で、しっかりと手に手を取りあったまま、その場で一緒に殺されてただちに息絶えることを選ぶだろう。

判決文の威力を殺すことは、筆者を殺すことと同じなのであり、私たちは不可分の存在なのであるから、判決が無効化された世界に、筆者一人だけが生きていることはできない。

だから、絶対にこれを無効化するようなことに同意してはならない。

そこで、筆者は一計を案じ、自分にできるただ一つのことを提案した。

それは、判決の正しさを守り通す代わりに、筆者が自分の主張を放棄するという、これまでに幾度となく取って来た策である。

筆者はそれまでの協議の深刻な雰囲気とは打って変わって、にっこりと笑って裁判官に言った。

「私は判決文をスキャンして一般に公開したこともありませんし、事件番号も公開していません。この事件記録を閲覧した人も、今日まで誰もいませんので、被告Aについては、誰もどんな判決があったのか、現物を手にして見たわけではありません。客観的な証拠がないので、ネット上では当てにならない噂しか流れていないのです。被告Bも、自分に関することしか書いていませんので、被告Aのことは誰も知る術がありません。

ですから、そうした状況で、私が訴えを取り下げることで、判決を無効化する必要もないのです。公開しなければ、判決もただ裁判所の記録として残るだけで、その外に出て行くことはありません。実態が分からない以上、誰にも不名誉を与えることはないのです。

ですが、ネットに書かれた個人情報は、いつまでも人の目に触れるところに残り続けて、現実的な悪影響を及ぼす恐れがあります。被告Aは、個人情報を消して欲しいのでしょう? それなら、たとえこの先、被告Aが私を提訴し、告訴したところで、到底、目的は遂げられるものではありません。権利侵害の事実は、自ら立証しなければ認められませんし、権利侵害に当たらないと判断されれば、削除も認められませんので、すべての記述を取り去るためには、膨大な分量の書面を、ものすごい時間をかけて書き続なければなりません。多分、一生かかっても、目的は達成できないと思います。

そんな無駄な訴訟を起こしても意味はありませんから、その代わりに、私が自分で記述を修正してはどうでしょう。本当は一年くらい欲しいところですが、もっと早くしろというなら、可能な限り、迅速に行うことはできます。それで、この先は双方、互いの個人情報を書かないという約束で、和解すればどうでしょう?」

裁判官はその要望を被告Aに伝え、被告Aは、弁護士と協議すると言って、その日の話し合いは終了した。

すでに夕方になっていたが、筆者にはまだ裁判所に用事があったので、帰宅するわけにいかず、裁判官は何度も「被告を先に返しますよ?」と筆者に念押ししてから、実際にそうした。

実は、裁判所には、勝訴(もしくは勝訴的和解)を遂げた方が先に帰宅するという暗黙のルールがあるのだ。被告Aが先に帰宅するということは、あたかも被告Aが勝ったと言っているも同然であるが、筆者にとっては、それは些細なことであった。

被告らは、見かけの栄誉を何より重んじる。人前に自分がどう映るかを気にする。しかし、筆者は人に知られないリアリティを重んじる。だから、外見的に、被告Aが勝訴したかのごとく扱われたとしても、別にそのことで何とも感じることはない。この点で、被告らの考え方と、筆者の考え方は、正反対なのである。

これまで被告らの書面を公開しようかと考えたことも何度もあったが、それをしないで来たのも、何かしらそれを押しとどめるものがあったためである。公開すれば、どんなにひどい主張をされているのか、万人に開示して訴えることもできたであろうが、なぜかそれに踏み切れない思いがあった。

おそらく、それも理由のないことではなかっただろう。

この訴訟は、筆者にとって、人の思いを超えたところにある、何かしら神聖と言っても良いほどの価値のあるものである。特に、原審はそうであった。だから、たとえ判決が、裁判所から一歩も外に出ず、誰にも閲覧されず、何が書かれているのかも分からないまま、まるで聖域のような領域に、膨大な事件記録の一つとして、人知れず眠るだけであったとしても、その誰にも知られないリアリティの中に、筆者の栄誉、筆者の正しさが、確かに込められていることを感じてならないのである。

逆に言えば、筆者が訴えを取り下げ、その事実が、仮に誰にも知らされなかったとしても、それは確かなリアリティであるから、人が知ろうと知るまいと、筆者が判決を否認し、自分の正しさを認めてくれた人の言葉を裏切った事実は、宇宙的な規模で悪影響を及ぼし、何万光年先になっても拭い去れない罪と恥の記録になるに違いない。
 
筆者が肯定していればこそ、判決は尊い価値を持って、聖域の中に静かに保たれるのであって、もしも筆者がこれを否認すれば、それはまるで悪党どもによって暴かれた墓のように、さらしものにされ、土足で踏みつけにされ、神聖さを失って、蹂躙・冒涜されることであろう。

筆者は、これまでそのような瞬間を何度も見せられて来た。筆者が心の中で手放さなかった人々、手放さなかった団体、守り通したものだけが、確かな揺るぎないリアリティとして保たれるのであって、もしも筆者が、それらを守り通すことを断念したならば、それは敵の陣営に引き渡され、防衛の外に追いやられ、蹂躙されて、恥をこうむることになる。

だから、筆者と判決とは、互いに守り合い、かばい合う関係にあり、それはかけがえのない強い愛の絆にも似て、私たちは見えない領域で結ばれた手を、互いにしっかりと握り合い、死に至るまで、決して離してはならない。筆者が新たに出会った人々との関係においても、同様の愛の関係が成立しているのである。

それは死によっても、引き離すことができないほどの強い結びつきであり、命をかけてでも、守り抜きたいと願う、かけがえのない価値である。

ところで、筆者にも、和解協議の期日が来る前に、弁護士に相談することができそうなチャンスがあった。だが、のど元まで出かかった言葉を、筆者は飲み込んで、何も言うべきでないと思い直した。

信頼できる人に、せっかくの貴重な時間を、わざわざこのような事件のために費やさせる必要もないと思っただけではない。それ以上に、筆者の助言者は、ただ一人、キリストだけであり、御霊だけであるから、誰にも助けを乞わずとも、自分自身で何が正しく、何が間違っているかを判断することができるはずだと信じた。その強さ、独立性を失ってはならない、と思い直したのである。

さて、前回の期日に、双方から控訴の取り下げを行うという提案がなされた後、控訴の取り下げを行うと、事件記録が横浜地裁に戻って来ることを筆者は書記官から聞かされた。

その時、筆者の心には大きな喜びが湧き起こり、まだ結果が確定もしていないうちから、そうなることが動かせない事実であると感じた。被告Aから訴えの取り下げを要求された時でさえ、その確信は変わらなかった。

あの陰気な東京高等裁判所の建物ではなく、この海と空のある地にこそ、事件記録を迎えてやりたい。戻って来たら、おまえはよくやった、勇敢に戦った、と言って、その栄誉をたたえて、いつまでもここで静かに眠りなさいと、まるで祖国のために勇敢に戦って戦死した夫の亡骸を迎える妻のように、心の中で花束を携えて、出迎えてその労をねぎらってやりたい。

そして、その後も、筆者の生きているそば近くの、人に知られない静かな聖域のような一区画に、記録を眠らせておこう。あの電話会議が実際に行われた明るい裁判所の中に、海と空を同時に見ることのできるこの開放的な空間の只中に、その記録を保ち、それがいつも自分と共にあること、今も生きて効力を及ぼしていることを思い出し、見えない領域で互いを見守りながら生きて行きたい。

そうこうしているうちに、きっとその判決は、ますます不思議な効力を及ぼして、多くの人々を筆者のもとに送り、多くのかけがえのない宝をこの地にもたらしてくれるに違いない。それは誰も見ることのない秘められた聖域として、契約の箱のように、この地に眠るだろう。

筆者は人生で初めて、自分以外のものを、命がけで守りたいと願った。冒頭に挙げた御言葉は、ただ人間の男女のことを指しているだけではない。霊的には、それにはもっと深い意味があって、それは神の御言葉と、人が一体となること、御言葉なるキリストが、信仰によって、人の内に住まわれ、神と人とがもはや不可分の引き離せない関係になることを言い表している。

神はどれほど人を愛され、また、人の側でも、神を慕い求めた結果、神と人との出会いが生まれることだろうか。双方からの強い願いの結果、神が人に対してご自身を現して下さり、人の内側に住まわれるという信じ難い出来事が起きるのである。

そのことが、この事件を通して、筆者はよく分かる気がする。

判決はもはや筆者と不可分の関係になったのであり、今更、これを分離することはできない。歴史を逆行して、出会わなかった前に戻ることはできないし、出された宣言を無効化することもできない。 神が出会わせて下さったものを、人の力で引き離すことはできない。

だが、筆者は新たに出会った人たちにも、全く同様のことを思う。私たちは、人の力によって、決して引き離すことのできない領域で出会い、結び合わされたのだと。その結びつきから、未だかつて見たことのない新しい歴史がすでに始まっているのだと・・・。

そういう意味で、判決以前の世界と、判決以後の世界は、まるでノアの洪水のように、大きな境界となって、筆者の人生を二つに分けている。それには、まるでB.C.(Before Christ)とA.D.(Anno Domini)を隔てるくらいの威力があり、これも大きな十字架なのである。洪水と共に、以前の筆者は死んだのであり、泥沼の法廷闘争にも、すでに終止符が打たれた。その大いなる宣言がある以上、今更、被告らが筆者に何を述べたとしても、結論は変わらない。

紛争は、もはやとうに終わっているのであって、筆者には、ただ筆者に命と平安を与える命令に服し、これを忠実に実行に移すために労する義務と、これにそぐわないすべての行きがかりを最終的に終わらせるために知恵を尽くす任務が任されているだけである。

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覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。

「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやたことは、屋根の上で言い広められる。」(ルカによる福音書12:2-3)

さて、この一週間、筆者は示談書の内容を考えながら、ネット上の動きを観察していた。神は私たちに非常に丁寧かつ誠実にすべてを教えて下さる方であるため、私たちがお人好しや、楽観のゆえに、危険な領域に足を踏み入れようとしていても、信仰があって、主に聞く姿勢をきちんと持っているならば、きちんと警告して下さる。

前の記事に書いたように、筆者はすべての行きがかりを帳消しにする用意があったのだが、そういう行き過ぎた行為に及んではならないと、はっきりと示されたものと思う。

それはこの重要な時期に、紛争当事者が関わっていないとも決して言い切ることのできない、大きな疑惑を呼ぶ新たな権利侵害がネット上で続行したためである。
 
人物は特定されていないとはいえ、これは非常に残念なことである。筆者はこの事件についてはそっとしておいてほしいと書いたところであるが、一体、なぜ、ある人々は罪赦されることができるチャンスを自ら踏みにじり、救いが与えられているのに、そこから目を背け、暗闇の中に逃げ込んで行くのであろうか。

こうした権利侵害が今も続いている以上、犯人がきちんと特定されるまでの間は、その手がかりとなる可能性を含む情報を抹消してはならないと分かった。何より、これまで積み上げて来た事実関係を自ら否定するような行為に及ぶべきでない。
 
だが、もともと示談とは、あくまで一定の範囲の出来事について決着をつけるだけのものであって、紛争の永久解決を意味しないから、その範囲が限定されるのも、やむを得ないことである。

交通事故でも、事故後、すぐに示談を結んでも、しばらく経ってから後遺症が発生すれば、その時は別途、対応が必要になる。多くの場合は、後遺症には別途対応する旨が、示談書に予め盛り込まれる。

このように、もともと示談は紛争の永久的解決としての和解とは異なる上、さらに、一般に、クリスチャン生活における戦いの成果は、専有した領域の大きさで決まる。光の子らがもしも退却するならば、その領域は悪の諸霊に明け渡される。もしも私たちが自ら権利を放棄するなら、放棄した部分は、敵対者が占めることになる。

だから、紛争をとにかく早く終わらせたいという人間的な思いだけで、すべてのことが明らかになっていないうちに、事件を終結させたり、重要な証拠を消してしまうようなことをしてはならないのである。そのようなことをしてしまうと、物事が非常に中途半端なままに終わってしまい、本来、明らかにすべきであった結論が出されないまま、歴史的後退が起こってしまう。

当ブログを巡る訴訟では、筆者が人間的な感情に流されて判断を誤らないよう、随所で、天からの警告のようなものがなされて来た。

たとえば、筆者は当初、控訴もせずに、第一審判決で争いを終わらせるつもりだったが、それにも関わらず、判決の確定前に、控訴せざるを得ない新たな事情が出来た。それは筆者の予想を超えた事態であって、筆者自らが紛争の継続を願って起きたことではなかった。

また、控訴審では議論を戦わせることも念頭に置いていたが、それもしてはならないと示され、代わりに一方の紛争当事者との和解協議となった。その和解協議で、筆者は紛争の永久解決を目指すつもりであったが、それも今はしてはならず、踏み越えてはならない限度が明白にあることが示されたのである。

一言で言えば、原審判決は守らねばならないのだが、それが許した範囲を超えて、紛争を終わらせたいがための和解条項を結ぶことは、許されていないと分かったのである。さらに、紛争当事者は、おそらくは筆者の赦し自体も、届くかどうかが分からない場所にいる。赦しや救いを受け取り、和解が成立するような状態ではないということである。

こうした一つ一つの出来事は、筆者が人間的な感情に流されて判断を誤らないように示された天からの警告であると筆者は受け止めている。

前から述べている通り、当ブログはインターネット上で激しい権利侵害を受け続けており、今もそれは続行している。最近の裁判の流れとして、悪質な権利侵害サイトにリンクを貼るだけでも、有罪となる世の中だということを読者には周知しておきたい。そして、ネット上で行われている犯罪行為は、決して放置されているわけではないし、犯人が特定されれば、公表するつもりであることは前々から予告している通りであるから、こうした犯罪行為には、読者は絶対に関わらないように注意されたい。

リンクだけで警察に逮捕されます」(日本表現の自由協会)

「2ちゃん」にリンク貼るだけで名誉毀損 ウソの内容を書き込むのと同じと判断(東京高裁2012年(平成24年)4月18日判決)

筆者は、誰も罰せられることを望んでおらず、罪を犯した人にも、悔い改めて、罪赦されて、人生をやり直して歩き出して欲しい・・・と願っている。

それは嘘ではなく、どんな人間が相手であっても、筆者は自ら紛争を拡大したいとか、長引かせたいなどとは微塵も願わない。だが、そのことと、今もインターネット上で続いている犯罪行為の全容を明らかにすることは、全く別の話なのであって、今回の訴訟でも、本来の目的は、これらの権利侵害の全容を解明することにあった。

その目的がまだ果たされていないうちに、浅はかな楽観に基づき、今後、その究明の妨げとなるようなことを自らしてはいけないし、するわけにもいかない、ということが、今回、示されたのである。

だが、これも主の采配である。おそらく、こうした事態が起きなければ、筆者は楽観に基づいて、紛争は解決したものとして、踏み越えてはならない境界をあっさり踏み越えていたかも知れない。

残念なことであるが、筆者がどんなに赦したいと願っても、筆者の思いだけでは、事は成らず、相手が罪を悔い改めてもいないのに、筆者がその罪を赦すこともできないし、相手が守らない約束を、筆者だけが結ぶこともできない。片方だけがどんなに願っても、それによって最終的な和解が成立するわけでもないし、感情的な行きがかりを決着させることと、事実を明らかにすることは異なる。
  
しかし、繰り返すが、このような展開になっていることにも、神の深い采配が働いているのであって、冒頭に挙げたとおり、神は物事を明らかにされる方であって、隠す方ではない。今後、ますます事の真相は明らかになる方向へ向かうのであり、すでに明らかになっている事柄については、やはりきちんと公に記録に残しておかねばならないのであって、筆者の人間的な思いだけで、これを白紙撤回するわけにはいかないのである。

死に至るまで、キリストの復活の証人であり続けるとは、おそらくそういうことなのであろう。私たちの灯は、公然と街の上に掲げておかねばならない。それを隠すなら、証には意味がなくなってしまう。

迫害されたから、権利侵害に及ばれたから、紛争から早く解放されたいから、あるいは、提訴するとか、告訴するなどと脅されたから、そそくさと事実を闇に葬り、隠れたところで取引したり、公然と証言したことを撤回するというのでは、私たちの証は力を失ってしまう。

そういうわけで、今回の教訓は重く、おそらくは罪の赦しが相手に届かないことをよく物語っているように思う。この訴訟に提出された記録も、早晩、きちんと整理し公表することが、必要不可欠になるものと考えている。紛争を激化させるためではなく、何が行われたのか、事実を明らかに記録しておくため、そして、それに基づき、今後も、何が起きるかを記録して行くためである。

ところで、私たちは、兄弟姉妹を引き裂き、互いに対立させ、教会を分裂させようとする目に見えない力が働いていることに注意しなければならない。

筆者はかつて横浜である牧師が率いていた集会においても、敵の様々な陰謀工作が働いて、中傷が横行し、集会が分裂に追い込まれ、兄弟姉妹が互いに信頼を保てなくなり、牧師と筆者とを互いを引き離し、集会をバラバラにする作戦が功を奏するところを見せられた。

その結果、牧師は筆者に対して罪を犯すこととなり、筆者もその牧師の考えには全く共感できなくなり、その後、集会そのものが異端化するという事態が起き、我々は全く無関係となっているが、そうなるまでに、教会の破壊を試みた敵の分裂工作がいかに卑劣かつ巧みであったかは、今となっては十分に理解している。

その時のみならず、現在になっても、この牧師も、筆者も、誰も依頼もしていないのに、事件に全く無関係な者が、この牧師と筆者を何とかして対立させて、公の場所で対決させ、かつて兄弟姉妹だった人々が、いがみあい、教会が分裂する有様を、見世物にしようと願って、様々な情報をばらまいている。

その勢力が、今も自分は姿を隠して、様々な事件に介入し、当事者になりすましたり、その代弁者になることで、実生活においても、兄弟同士の争いを激化させ、インターネット上にも、人々の争いを煽る情報をひたすら投稿し続けているのである。

このような形で、人々の「代理人」になろうとし、他者の思いをあたかも代弁するかのように見せかけながら、クリスチャンの紛争や対立を煽り、徐々に人々の存在を乗っ取り、その相手を貶めて行くことが、この勢力のかねてよりの常套手段であったことに注意を向けたい。

むろん、こうした行為を行っているのが誰であるのかは、現時点では特定されていないが、彼らのやり方は常に同じであるから、その行動パターンの中に、彼らの本質的な特徴がよく表れていると言えよう。
 
彼らは、人々の許可がないのに、勝手に他者の代弁者となったり、権限もなく、他者の争いに介入することで、争いの火に油を注ぎ、兄弟同士をいがみあわせ、対立を修復不可能なまでに押し広げ、教会を分裂させるのである。

その上、クリスチャンを公開裁判の場に引きずり出し、できるならばそこで有罪宣告を受けるよう仕向け、教会が立ち直り不可能な打撃を受け、まことの主を信じるクリスチャンが孤立し、兄弟姉妹を通じて命を受けられなくなるようにし、神の花嫁たる教会を辱めて、神ご自身が損失を受けられるように仕向けることを目的にしている。

私たちを分裂させ、互いに敵対させようと、陰から争いの火に油を注いでいる存在が確固としてあることに、まず気づかねばならないのである。
 
だが、筆者は、そのように、自分は名を隠して、陰から人々の対立や争いを煽り立てている人物こそ、存在を暴かれ、名を公開され、裁判にかけられ、損害賠償請求を行われるに最もふさわしい者であると考えている。

自分は正体を隠したまま、他者になりすましたり、頼まれてもいないのに、自分には無関係の争い事に次々と介入・干渉しては、兄弟姉妹の対立を激化するために、火種をふりまくような者は、断じて裁かれねばならない。たとえその者が刑事罰を受けて、監獄の向こうに行くようなことがあっても、筆者は追及をあきらめるつもりはないことも、断っておきたい。

だから、このような問題が進行中である事情を考えると、なおさらのこと、今、証拠となる情報を消し去ってしまうような愚かで浅はかな約束を結ぶことはできないのである。
 
何とかしてクリスチャンを中世のような見世物裁判に引きずり出しては互いに争わせようとする人々がいることを分かっていながら、その脅しに屈するわけには行かない。かえって、こういう人々の名を特定し、その所業を公表し、彼らを排除し、報いを受けさせることによって、初めて教会は平和を取り戻せる。

それによって、誰がクリスチャンを最も憎んでいるのか、誰が匿名に隠れて、兄弟同士の対立を煽って来たのか、誰が教会に最も大きな打撃を加えて来たのか、世間の前にはっきり証明できるだろう。それは筆者では断じてないのである。

そういう意味で、現在の筆者は、かつてとは様々な点で異なっている。新しい人たちが筆者の周りに現れたおかげだ。もしも時を遡ってやり直せるなら、多分、あの時、こういう言葉で助言はしなかった、ああいう風に伝えただろう、などと思うことはたくさんある。

だが、以前と何より異なっているのは、真心から仕えて構わないと思うリーダーに出会ったことだろう。人を陥れたり、欺いたり、策略を弄しない、約束を守る謙虚なリーダーに出会ったことである。それによって、権威に服従することは、何ら困難ではなく、私たちは権威者に対してもの申すとき、王妃エステルが王の前に命をかけて進言したように、命がけでなければならないことが、よく理解出来るようになった。

私たちは、権威者が誤った道に逸れかけているときは、適宜、忠告せねばならないが、それはあくまで権威への服従の中で行われるべきことであって、忠告に名を借りて、秩序を覆すことが求められているわけではない。その服従とは何であるのか、どのようにすれば、敵の策略に翻弄されずに、信頼関係をつなぎとめることができるのか、様々な場面で、筆者は学ばされている。

以前から、筆者には(霊的な意味において)関節をつなぐ力があると書いて来たが、切れかけた絆も、完全な断絶に至っていないうちは、修復できる。弱った部位に命の息吹を注ぎ込み、傷を丹念に修復し、体が一体性を保って、健全かつ敏捷に機能するようになるまで、ひたすら命を吹き込み続け、回復をはかる。

王妃エステルは、ユダヤ人たちが絶滅を命じられることで、体(宮)としての教会が消滅しないで済むよう、彼らを不当な命令から救うために、命がけで、王に進言をする役割を担った。そのために、彼女は十字架の死を通る必要があったのであり、私たちが今日、何かをリーダーに本気で進言するときには、必ず、命がけと言っても良い服従のプロセスが必要となる。それがあって初めて、忠告は功を奏し、団体の滅びが押しとどめられるのであって、敵のあらゆる分裂工作は、私たちがそれを乗り越えて信頼を維持することを学ぶための戦いなのである。
 
そのようにして、激しい戦いの中で、互いの信頼関係を確固として維持し、互いに守り合い、弱った部位には命を吹き込み、回復されるべきは、兄弟姉妹と呼ばれる人々であって、兄弟たちを分裂に追い込む者ではない。

そういう意味で、憐れみを注ぐべき対象を見誤ってはならないのであり、当ブログを巡る訴訟は、教会に対する迫害が完全に終わらない限り、本当の意味では決着を見ないのであるから、やはり過去に起きた事実を白紙撤回するなどということはできないのである。

この先、控訴取り下げが行われたり、示談が結ばれたからと言って、ネット上でクリスチャンの争いを煽っている勢力に対する追及が終わるわけではなく、控訴審で取りこぼした課題も、それとは別に、これから解決を図らねばならないのであって、決着が着いたと言える日はまだ来ていない。

そういうわけで、今、越えようとしているステップは、ほんのわずかな一歩でしかなく、筆者にはこれからまだ解決せねばならない多くの仕事が残っている。
  
王妃エステルは、命がけで王の前に立つことで、ユダヤ人を絶滅から救っただけではなく、ハマンの処刑に貢献したことを、忘れるわけにはいかない。兄弟たちを分裂させ、主の民に滅びを願うような者は、相応の報いを受けねばならない。たとえ兄弟姉妹の絆が断ち切れて、もはや修復不可能になっているように見える場合にも、それは同じである。

だから、筆者にとって極めて重要であった聖徒の交わりをかく乱し、破壊し続けて来た者どもには、しかるべき報いを受けさせねばならない。そのために、暗闇で行われて来たことを明るみに出すことが、今後は最も先決の課題となる。必ず、その者は最後に存在を暴かれ、裁かれることになるため、くれぐれも読者はそうした犯罪行為に加担されないよう注意されたい。

* * *

<補足>

ところで、刑事事件においては、証拠の有無のみならず、被害者が犯人の処罰を求める感情がどれくらい強いのかも、ものを言う。そこで、示談というのは、刑事事件における罪を軽くすることにも貢献できるかも知れない非常に重要な手続きだったわけである。

筆者はこれについても、考えていたところであった。そのようなタイミングで、円滑な紛争解決や温情が注がれる余地を排除するような新たな権利侵害事件が起きたことは、非常に運命的かつ予表的な出来事であると筆者は思っている。もしも救われるべき人間を相手にしているならば、このようなことは決して起きないからだ。

示談が成立していなければ、訴えられた人間には、刑事事件を有利に運ぶ強力な材料がなくなるが、示談後にも、同様の権利侵害を行っていた事実が発覚するとか、再犯したなどの事実が加われば、それも非常に悪い印象を残すことになる。

これまで当ブログを巡る事件において、筆者は相手方のために、何度も、何度も、猶予をもうけて来たが、その温情も猶予も、紛争を有効に終わらせるために機能したことが一度もなく、かえってこじらせるために悪用されて来た経緯がある。そのことを考えても、やはり、罪赦されるチャンスがいくらでもあるのに、罪赦されることを自ら拒んで、自ら救いから遠ざかって行く人間というものも、この世には存在するのではないかという気がしてならない。

訴訟に関する記録は、いつかはまとめて公表せねばならないと考えて来たが、紛争を拡大しないために、今までこれを控えて来た。示談成立がないような場合には、やむをえないので、ただちに公開し、別訴を提起するなどして、対策を講じねばならない。

なぜなら、紛争のもう一方の相手方が筆者を告訴したなどと言っている以上、筆者も安全策を講じる必要があるためだ。しかし、そうすると、筆者を刑事告訴したとしている牧師の名も、当然ながら本人の書面により全国に向けて明らかになる。果たして信徒を告訴する牧師のもとへ行きたいと願う信徒がいるのかどうか、甚だ疑問である。

しかも、その牧師が、一審ではブログ記事をすべて削除して和解すると言っていたのに、途中で態度を翻したことも、本人の書面を通して明らかになり、なおかつ、当ブログの著作者人格権を侵害した事実があることや、当事者からの依頼もないのに、他者のプライバシーを侵害する記事をブログに多数、掲載している行為が、明らかに、不法行為に当たることも明白となる。

このように、他者の代理人となって紛争に介入することは、筆者の目から見ると、非常に怖いことなのである。今までにもこの人は、多くの事件に資格なく干渉を繰り返して来たわけであるが、それでも、その当時、それは誰かの依頼を受けてやっていることであったため、他者の権利を守るという大義名分がついていた。

だからこそ、筆者は、その人は他の牧師から依頼(提携)を受けて、非公開の資料を公にするようなブログ記事の公開に踏み切ったのだろうと考えていたが、その牧師は、そんな提携はない、それは筆者の考え違いであると嘲笑った。そして、本人の言によると、実は、その牧師は、誰からの正式な依頼も受けていないのに、勝手に他者の代理人になって、他者のプライバシー権を暴き、自分とは無関係の紛争に介入したことが、本人の書面の内容から、明らかとなった。これは極めてまずいことである。

捜査機関が、誰からの依頼もないのに、独自に動き出し、人々の身辺調査を秘密裏にやり出したら、どうなるだろうか。しかも、自分たちの機関に逆らった人々の情報を秘密裏に集めて勝手に公表するようなことをすれば・・・?そうした懸念があることを、ずっと前から筆者は訴え続けて来たのであるが、相当にそれに近いところまで現実が追いついていることが発覚したのである。もはや「代理人」や「相談役」という肩書さえかなぐり捨てて、他人の名を勝手に使って、縦横無尽に争いに介入するところまで来てしまったのであり、その次なるステップとして残るのは、あからさまな「なりすまし」のみ・・・。

よく考えてもみられたい、一体、誰が頼まれてもいない他者の代理人に勝手になって、他者の人物像を勝手に「創作」などしているのであろうか? 誰が他者の名を使って、クリスチャン同士の対立の火に油を注ぎ、教会を分裂させ続けて来たのか?

筆者が訴えて来たのは、そうした「なりすまし」の目的は、教会の簒奪にあるということ、すなわち、聖なる者でない者が、聖なる者の名を詐称して、自分には手に入れられない高みにある宝を奪い取り、これを破壊し、最終的には、教会を乗っ取ることで簒奪し、神ご自身を簒奪することにあるということである。

クリスチャンの名や存在を簒奪することは、聖なる神の教会を簒奪することを意味し、花嫁なる教会の簒奪は、花婿なるキリストの簒奪・蹂躙を意味する。本物を駆逐・破壊して、偽物だけを残すこと。これが異端の目的なのであり、実は異端狩りに熱中している人たちこそ、最も教会を簒奪・破壊している危険な存在なのである。

そのことを、当ブログでは再三再四、主張して来たのだが、それがついに誰の目にも明白になるほどまでに客観的に明らかになろうとしているのが現在である。


今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。

愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。

あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。しかし、キリスト者として苦しみを受けるなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。

今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。
「正しい人がやっと救われるのなら、
不信心な人や罪深い人はどうなるのか」
と言われている通りです。だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。」(Ⅰペテロ4:12-19)

兄弟たちは、小羊の血と

 自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12:11)

* * *

夏が終わると同時に、筆者の心の休暇も完全に終わり、筆者に与えられた厳しい任務の全容が見えて来た。

人を助けることを仕事とするために、筆者は相応しい仕事に就き、干潟を開拓している最中であると書いた。しかし、人を助けるためには、人に対して優しい態度を取るのではなく、逆に、人の欲しない事柄を告げて、厳しい態度を取らねばならないという逆説があることを思わされる。

人間の欲望を助長し、人間を甘やかし、人間の罪を大目に見ることと、人を助けることは、正反対なのである。

筆者の訴えを裏づけるために、憎まれたり、嫌われる役目を果たしてくれた大勢の人たちがいる。警察も、行政の役人も、裁判官も、他者に違反を突きつけ、犯人を悪者とし、上から指導したり、有罪を宣告するために働かなくてはならず、その意味で、彼らは決して人に優しい仕事をしていない。

だが、そのようにして他者を罪に定めねばならない悲しみを知っているがゆえに、この人たちには、筆者がなぜ他者を告発するような訴えを出さざるを得なくなったのかを理解するだけの深い同情や思いやりもあった。

すべてがすべてそういう人たちばかりだったとは言わないが、不法行為は裁かれなければならないとの信念のもと、彼らの多くが、忠実に役目を果たしてくれたのである。

だとしたら、筆者は、彼らの仕事の成果を無駄にしないように働かねばならない。他人には、厳しい罪の宣告を口にさせておきながら、自分だけは、人に受け入れられ、誰にも苦言を呈さなくて済むよう上手く立ち回り、甘言だけを弄して、彼らの積み上げた仕事の成果を自ら台無しにするような生き方をするわけには行かないのだ。

そういう意味で、次第に、筆者自身が、彼らと同じように、権威を持って他者を裁くという立場に立つ時が近づいているのを感じる。もはや裁判官や、警察官や、弁護士や、役人など、宗教指導者はもちろんのことだが、誰か自分以外の権威者に決定を委ねるのではなく、彼らの果たしてくれた功績を基礎として、その上に、自ら判断を打ち立てねばならない時が近づいているのである。

聖書の神は、決して人類に媚びて、人に甘い顔をされる神ではない。

以前、当ブログでは、旧約聖書において、神がどれほど厳しい宣告を自らもしくは預言者を通じて人類に突きつけられたかを列挙したことがある。

ゼファニヤ書などは冒頭からこのように始まっている。

「わたしは地の面から
すべてのものを一掃する、と主は言われる。
わたしは、人も獣も取り去り
空の鳥も海の魚も取り去る。
神に逆らう者をつまずかせ
人を地の面から絶つ、と主は言われる。」(ゼファニヤ1:2-3)

人を地の面から絶つ・・・何度神はそのような宣告を人類に対してなされたことであろか。すべては人類の罪のためであった。

神は決して人類に対し、決して媚びて語りかけられるようなことをせず、一貫して、人類が耳を塞ぎ、足早に逃げ去り、聞かされたくないと願うような宣告を突きつけ続けて来られた。

神が人類に突きつけられた事実とは、人類は罪を犯し、神に背いており、生まれながらに死の宣告と永遠の滅びの刑罰にしか値しないという内容である。そして、その宣告の集大成が、カルバリの十字架なのであり、そこでキリストが受けられた死の刑罰こそ、生まれながらの人類にふさわしい神からの最終的な「判決」であり、恥辱に満ちた人類の真の姿だったのである。

だが、私たちはその刑罰をキリストだけに押しつけ、自分は一切無関係で生きて行くのでは、いつまで経っても、その贖いは、私たちのものとはならない。

自分で自分を十字架につけたり、自分で自分を苦しめたり、蔑む必要はないとはいえ、それでも、私たちには、日々、主と共に十字架を負う姿勢は必要である。主の十字架が私たちに適用されるからこそ、私たちはもはや罪の宣告を受けなくて良くなるのであり、その代わりに、その十字架が、罪赦されていない罪人と、私たちの間を、決定的に分けてしまう。

だから、この十字架の切り分けにより、私たちがどんなに和解を願っても、決して和解することもできず、一つになることのできない人たちが出現して来るのである。

地上の裁判官の最も主要な仕事は、他者に対して罪の宣告を下すことである。裁判官は、紛争当事者に和解を勧めることもあるが、最も重要な仕事は、やはり判決を書くことにあると言える。しかし、判決は、実に多くの場合、訴えられた者の不法行為を認定して、賠償を命令するものとなる。

裁判官がその役目を果たしてくれるからこそ、原告はそれによって救われるのである。

しかし、もしもこの世の裁判官が、判決を書く際、権力者や、宗教指導者や、企業の代表や、有名人などといった、この世で力と名声を持つ人々に媚び、自分が彼らに恨まれたり、報復されること怖さに、彼らをできるだけ罪に問いたくないと考え、この世の権力者に有利な判決を書いたとすれば、そんな訴訟に、あなたは原告として何を期待することができようか。

ところが、そういう日和見主義的な裁判官も、この世には相当数、存在するものと思われる。だが、裁判官に求められるのは、そんな自己保身や、この世の名声に気を取られ、この世の権力を持つ者を擁護し、彼らの罪を無罪放免したり、彼らに有利な決定を下す姿勢ではない。

そんな裁判官に訴訟を委ねるくらいなら、自らが判断した方がはるかにましなのである。だが、それを考えるとき、やはり、自分が恨みを買うことも恐れず、判決が憤りや反発を呼び起こすことも十分に理解した上で、それでも事実を厳粛に見据え、たとえ権力者であっても、悪者に対しては厳しい宣告を下すことが、人にとって非常に困難を伴う作業であることも分かる。

裁判官は、この世の権力者に媚びてはならないだけでなく、人類そのものに媚びてはならない。人類というものに幻想を抱き、人間を美化してとらえ、人間がそんなに悪いことをするはずがないとの先入観から、人をできるだけ罪に問いたくないなどと考え、どんな罪でも、できるだけ赦すべきだなどと説いて、和解勧告ばかりを行ったり、不法行為を認定して厳しい判決を書くべきときに、かえって不法行為を大目に見る判決ばかりを書き続けていたのでは、この世の秩序は崩壊してしまう。

そういう意味で、裁判官の仕事は、決して生まれながらの人類を満足させることにはなく、人間の罪なる本質をできる限り明らかにすることは避けて通れない、と言えなくもない。

このように、あらゆる紛争においては、誰かが命を得るためには、誰かが罪を宣告されねばならないという側面がある。罪人に対して、いつも容赦する決定が下されているのでは、誰も報いを得る者はない。赦しがあるとしても、それは、悔い改めと、謝罪と、償いのあとにもたらされるものであり、罪の自覚がないところに、謝罪も、償いも、赦しも、あるはずがなく、人は悔い改めない限り、罪赦されることなく、神に立ち返り、義とされることもないというのは、聖書の事実である。

そこで筆者は、キリスト者に与えられた使命は、どこかしら、この世の裁判官と似ており、決して、この世に迎合し、その罪を大目に見ることではないのだと知らされる。バプテスマのヨハネが、人々に悔い改めを迫ったように、十字架が、今も人類に対する罪の宣告なのであり、それゆえに、そこにはりつけられている人類の罪なる本質を決して見誤ることなく、その事実に立って、すべての物事を見据えねばならないのだと思い知らされる。

そういう意味で、筆者の仕事は、決して人間にとって喜ばしいものではないし、そうであってはいけないのであって、この世において真に正しい裁きが実現することを願うなら、筆者自身が、人類に対して媚びて甘い判断や決定を下してはならないのであって、決して人間的な感情から、対立を恐れ、違反を容赦してはならないのだという厳しい現実があることを思わされる。

おそらくプロテスタントもそうであるが、地上のキリスト教のあらゆる組織や団体が、地の塩としての役目を失ったのは、人助けと称して、この世に迎合し、人間が「恵まれる」ことだけを目的に、自己満足的なイベントを追及し、人類に対して甘い言葉しかかけなくなったためであろう。

カルト宗教にはすべてそういう要素がある。偽りのキリスト教は、偽りの救済論に基づき、罪ある人々が、罪を悔い改めずとも、罪あるままで、自己救済によって、救いを得ることができると説く。

偽りのキリスト教には、キリストの十字架の贖いがないので、そこには、その代わりに、人類の自己流の「罪滅ぼし」がある。それは一生続き、人生のすべてを投入してもまだ足りないのであって、罪滅ぼしのために、カルトの集団生活があり、不法行為が存在すると言って良い。

つまり、カルトの集団生活とは、人類の自己救済の手段なのであり、カルト宗教が犯す不法行為のすべては、彼らが結局、返済しきれない罪の負債をごまかして終わるための自殺行為のようなものなのである。

当初は「世界救済」などという名目をつけて、善行を行っているように見えても、そこで行われているのは、結局、自己救済のための不毛な「罪滅ぼし」である。

しかし、今日の組織としてのキリスト教にも、この世における労働にも、それと非常に似た要素が見いだせる。

最近、ふとしたことから、プロテスタントにおいては、2017年に日本信徒前進大会なる奇怪なイベントが催されていたらしいことを知ったが、そこに出席した信徒も、「恵まれる」どころか、きっとその正反対の災いしか受けなかったであろうと確信する。

以前には、こうしたイベントは「リバイバル」を売り物にしたお祭り騒ぎ的な内容のものが多かったが、クリスチャン・トゥデイの記事を読む限り、今は殺伐とした世相に合わせて、終末を感じさせる内容にシフトしつつあるように感じられる。

だが、どんな内容であれ、こうしたイベントは、すべて筆者にはマサダの自決へと続く「蛇の道」であるように思われてならない。以前から、「喜びの集い」や「リバイバル待望集会」や「聖霊降臨待望会」や「再臨待望集会」などと、様々な名をつけては、全国各地の信徒たちが、集団決起大会のようなイベントに、鈍行を乗り継ぐなどしながら、多大な時間的・経済的負担を負って駆けつけていたことを筆者は知っている。

しかし、筆者は、個人的には、それらのイベントのすべてが、要するに信者が浮世のすべての悩みを忘れ、我を忘れて現実逃避するためのまやかしでしかないから、そのようなイベントが、信者に幸いをもたらすことは決してないどころか、彼らの生活を後退させるだけであるとみなしている。

ノアはこの世に身を置いて、世人から嘲られながら、箱舟を建設していたのであり、洪水が来たときに、初めてノアの信仰の正しさが明らかになった。

ところが、今日の実に多くの信者たちは、洪水が来てもいないのに、早々と箱舟を作ってその中に閉じこもり、この世に出て行って奮闘するどころか、この世と接触して悩み苦しみを受けるなどたくさんだとばかりに、自分たちの間でしか通用しない特別な掟を振りかざし、特別空間としての箱舟に逃げ込み、いつか洪水が来て、自分たちの引きこもり生活の正しさが証明されると言っては、自分たちは「選民だ」と互いに囁き合い、慰め合っている。

その間にも、時は流れ、世の中では様々な事件が起き、彼らの家庭においても、子供たちが苦しんだり、夫婦が争ったり、彼らが自ら責任を果たして積極的に解決しなければならない出来事がたくさん起きるのだが、この人々は、信仰のイベントこそ、人生の中心であるかのようにみなし、彼らにとっては無菌室に等しい、居心地の良い特別の閉鎖空間(箱舟)に閉じこもり、そこから独自の理論を振りかざして物事を口先だけで論じているだけなので、この世においていかなる問題が起きても、見向きもせず、その解決に取り組むことも、責任を果たすこともない。

彼らはただ箱舟にさえ乗っていれば、この世のすべての困難は自動的に解決されるかのようなまやかしの救済論に身を委ね、実際に汗水流して取り組まなければならない様々な現実的な困難に取り組むことを自ら放棄して避けているので、そのような状態が長く続けば続くほど、現実に起きる様々な問題に対処する能力が低下して行き、この世も、彼らが現実逃避にいそしんでいるうちに、ますます悪くなって行くだけであり、彼らにはそれを止める力もない。

結局、この人々は、この世に正しい秩序をもたらすために働いているのではなく、この世の悩み苦しみから手っ取り早く逃避し、我を忘れるために、イベントに駆けつけているだけで、その現実逃避が「救済」であるかのように錯覚させられているだけなのである。

その光景は、カルト宗教の集団生活と何ら変わることはない。まだ地下鉄にサリンを蒔くところまで至っていないだけで、その末路は非常に厳しいものになると、筆者は予測せざるを得ない。

もっと進んで言えば、こうした特別なイベントだけでなく、彼らが何より重んじている日曜礼拝、教会生活そのものが、カルト宗教の集団生活と何ら変わらない、「現実逃避」なのであって、それは信者が自分自身の真の罪ある状態から目を背けるための「引きこもり生活」と呼んだ方が良いものであると筆者は感じている。

もしも彼らが真に現代のノアでありたいならば、この世に積極的に出て行き、そこにおいて、たとえ嘲られ、自分が劣勢にあるように思われても、粘り強く戦って、不正義の中に正義をもたらすために努力を重ねるべきであろう。

いつまでも手をこまねいて待っているだけで解決する問題などあるはずもなく、「自分たちは選民だ!」と豪語しながら、身内だけで集まり、自画自賛を重ねるだけで、世が罪を認めて彼らのもとにやって来ることは決してなく、天を地に引き下ろし、正しい秩序と裁きが、この世に実現するために、時を無駄にせず、労苦を惜しまないで取り組むべき様々な問題がある。

さらに、信仰者には、世に勝利した者が着いておられる。それなのに、なぜ大胆に世に出て行くのではなく、むしろ逆に箱舟など作って、そこに引きこもる必要があるのか。

「神から生まれた人は皆、世に勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(ヨハネの手紙一5:4-5)

その信仰はどこへ消えたのか。その不安心理はどこから来るのか。筆者はとても奇妙に思う。

だが、そういうことになるのは、きっと彼らが真に十字架の贖いを受け入れて、罪赦されていないことの証なのであろう、と思わざるを得ない。

これは恐るべき逆説である。病院は、病人のために必要な場所であって、健康な人のための場所ではない。同じように、地上の組織や団体としての教会は、罪人のために存在するのであって、罪赦された人のためには必要ない。

イエスは、病を癒し、罪を赦すために来られたが、イエスの救いにあずかった人々は、自由になって召し出されて行ったが、その救いを拒んだ人たちは、どこにも召し出されることなく、かえって隔離されてしまったのである。

誰も彼らを力づくで隔離したわけではない。だが、彼らは罪赦されていないからこそ、自分たちは清められなければならないと考え、いつか罰せられる日に怯えて、身を寄せ合い、かばいあうために、バリケードを作り、そこを自分たちの安全地帯とし、神からも人からも顔を伏せて生きているのではないだろうかとみなさざるを得ない。

だが、自分たちがいつまでも罪のゆえにこの世から隔離され続けているなどとあまりに恐ろしすぎて認められないので、自分たちは贖いのために精進を重ねているのであって、聖化の途上にあるなどといったことを自分に言い聞かせ、何とかして罪赦されていない現実の恐怖から目を背け続けているのではあるまいか。

つまり、この世で一般的に教会生活とみなされているものは、いわば、己が罪を自己申告した人々による隔離生活のようなものであって、罪赦されたという確信がない限り、その人たちは、何度でも、罪悪感を薄めてもらうための投薬を求めて、隔離病棟に通い続けるしかないのである。そのような生活を重ねれば重ねるほど、罪の赦しが得られるどころか、ますます赦しは遠のき、不安と、ごまかしが増し加わって行くだけである。

そういう生活は、はたから見ると、カルト宗教の驕りに満ちた「世界救済」を目的にした集団生活と何ら変わるところはないように見える。だからこそ、その末路も、カルト宗教と同じものになるだろうと筆者は感じているのである。

5年、10年、あと何年かかるか分からないが、毎年のごとく繰り返されているこうしたイベントが、いつか最後には破滅的な内容になるだろうとの予感を持たないわけにいかない。

だが、そのようなことは脇に置いておこう。今までずっと書いて来たように、筆者の目から見れば、この世における労働も、実は、教会生活と本質的には全く変わらない、人類の自己救済のための集団生活(隔離生活)なのである。

あの悪名高いカルヴァンの予定説――人は救いの確信を内側に持つことはなく、神にしか、誰が救われるか分からないという、あの荒唐無稽な説が、救いの確信を持てない大勢の人々に不安を抱かせ、その不安心理から逃れるために、人々が労働に励む――という悪循環を作り出す。

その労働とは、とどのつまり、神に救われているかどうかが分からない人々が、自己の不安と罪意識から逃れるために、外側を飾って、自分が善行に励んでいるように見せかけるための、自己救済としての終わりなきバベルの塔建設の試みに他ならないのである。

だから、そのような文脈での労働は、従事すればするほど、ますます神への反逆としてその本人に豊かさではなく、死と呪いとをもたらすものとなってしまう。

筆者はある時にそのことに気づき、こうした悪循環としての労働からは退かねばならないことに気づいた。そして、自己救済のための労働ではなく、真に意味のある働きをせねばならないと理解した。

だが、その真に意味のある有益な仕事とは、筆者が当初考えたような、単純な人助けではなかったのである。

裁判官の主要な任務が、人の罪を告げ知らせ、場合によっては、死さえ宣告せねばならないものであるように、やはり、信仰者に与えられた最大の任務も、人に罪を告げ知らせ、裁きと、処罰の日があることを告げて、悔い改めを求めるという、この世では栄光の少ない仕事なのであろうという気がしてならない。

人類の耳に心地よい自画自賛の言葉をささやき、誰に対しても「あなたの罪は赦された」と言うのはたやすい。だが、違反と、罪の宣告を厳しく告げなければならないときに、そのような心地よい言葉ばかり並べて、罪人を大目に見ているならば、後でひどい処罰がその人自身に下るに違いない。

人々に率直に罪を宣告し、謝罪と、償いを求め、この世において、地の塩としての役目を果たすことは、非常に苦労の多い仕事であり、それは、人間にとっては、同胞を敵に回すがごとく、とても気の進まない、憎まれる、嫌な仕事であり、この世における報いも非常に少ないように見えるだろう。

だが、それを果たさなければ、私たちキリスト者に地の塩としての価値はないのである。そして、救いとは、この世から離れたところに存在する内輪の集まりでもなければ、集団生活でもない。

私たちはこの世のあらゆる不合理の只中に立って、決してそこから逃げることなく、その最中に正しい裁きと秩序がもたされるよう、奮闘しなければならない。

そして、十字架において御子の贖いが達成されていればこそ、私たちの奮闘にも、勝利が約束されているのである。この勝利の約束から、私たちはすべてのものを引き出す。地上における助力者も、必要な物資も、適宜、必要な時に届けられる情報も、慰めも、決定も、必要の何もかもである。

神の国と神の義を第一として生きている限りにおいて、私たちには、地上生活においてすべての必要を満たされることが約束されている。そして、真に命の豊かさに至り着く道を、見つけたいと願うならば、この優先順位は、決して逆転されてはならない。地上において人前に栄光を受け、人に喜ばれ、受け入れられることが、神から喜ばれ、栄光を受け、受け入れられることよりも優先されるようなことは、決してあってはならないのである。

当ブログが、神の御前に立ち続けることができているのも、それがあるためなのである。

もしも筆者が世に迎合し、さらに世に迎合している偽りのキリスト教に迎合し、人の恨みを買いたくないとか、争いを避けて通りたいというだけの理由で、地の塩としての役目を果たすことをやめて、罪人の罪を大目に見ることを始めたなら、当ブログも、役目を終えたものとみなされ、踏みつけにされて終わるだけである。
 
歴代預言者のすべてが同じ細く狭い道を通った。このように、キリストの十字架の贖いの正しさを主張するならば、どうしても人々の罪を告発するという仕事を避けて通ることはできない。神と人(富、世)との両方に兼ね仕えることは絶対にできないのである。
  
そういう意味で、この先の道は、今まで以上に狭き門、細い道となることであろうと思う。現代のキリスト者が最もなさなければならないのは、おそらく、神の家を支配する穢れを告発し、これに触れないようにしながら、本物の見えない神殿を構築することなのであろうと思う。

かつて多くの人たちが、日本のプロテスタントの嘆かわしい現状を訴え、改革に着手しようとした。その人たちが、真に御言葉に立って、神の家を告発していた間は、いかにその言葉が厳しくとも、神もその人を守って下さったことであろうと思う。

だが、その人たちは、みすぼらしい干潟のほとりで、神からのみ栄光を受けるために、人からは忌み嫌われる仕事を忠実に果たすことをやめて、かえって人からの栄光を受けようと、不公平な判断を下し、ついには、神の家を支配する穢れに自ら迎合し、干潟など見るのも嫌だと、きらびやかな公共事業を建設する方向へとなびいて行ってしまった。

その結果、彼らは堕落し、不法行為に手を染め、かえって筆者がその人たちからバトンを奪い、その人たちに罪を告げ知らせるという厳しい任務を任されている。
 
だが、筆者は、もしも地の塩としての役目を捨てるなら、誰であろうと同様のことが起きるであろうと理解している。

私たちは一体、何に依拠して、他者に対して厳しい宣告を突きつけることができるのか。カルバリで下された神の判決に立ってである。それがあればこそ、この世の何人をも恐れずに、私たちはあるがままの事実を彼らに対して宣告することができる。逆に私たちが世に媚びることは、十字架を曲げることであって、神を敵に回す行為を意味する。

筆者はこれまで地上の紛争を通して、裁判官が筆者を死地から救い出してくれるように考えたり、あるいは、警察官に助けられたり、善良な上司や、信仰の友に出会い、それによって、大いに救われたように考えて来たこともあったが、事実はまるでそうではないことがよく分かった。

そういうものはすべて神が備えて下さった束の間の条件の一つに過ぎず、それらすべての条件を超越したところに、キリスト者は立たされている。そして、最終判断はすべて、キリスト者自身が、誰にも奪われることなく、自ら下さねばならないのである。それは、神と二人三脚で進む孤独な道であって、そのようにしてすべてを自ら判断することができなければ、どんな困難をも人は切り抜けることはできない。

このようにして、他者に対して罪の宣告を行うという筆者の「任務」は、この先もずっと続くであろうし、それが筆者の仕事なのだということを、筆者は理解させられている。そのために、誤解や、迫害を受けることも、当然に予測される試練のうちであるし、もしこの「任務」が真に必要なものであれば、それを切り抜ける方法も、必ず天に備えられているはずである。

「キリスト者として苦しみを受けるなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。」と聖書に言われている通り、それは何ら恥ずべき試練ではないし、いつか重い栄光で報いられる時が来る。

だから、もしもあなたが箱舟を作りたいならば、心の中に、神と自分とのみが入れる箱舟を作り、そこに避難しなさい。鳥が高い高い崖の上に巣を作り、そこに我が子を置くように、決して他者の入り込めない高みに、小さな安全地帯を設け、そこで、神と一対一で、誰にも知られないひそかな語らいを持ちなさい。いつ、誰に対し、どんな判断や決定を下さなければならないか、あなたが人々に何を告げねばならないかも、そこで考え、主に相談して決めなさい。

そうすれば、そこでひそやかに下された決定が、やがて大きな影響力となって、地上の出来事に波及し、あなたは自分の下した宣告が、まるで動かせない判決のようになって、すべての物事に効果を及ぼすのを見るだろう。

悪者は断ち切られ、正義が実現されて、命の水と、豊かさが川のように溢れ流れる。だが、そうなるまで、あなたは祭司として身を清め、神の御前で多くの孤独な時を過ごさねばならない。決して世に媚びたり、迎合したり、報復を恐れず、人からの寵愛を失うことを恐れず、非難されることを恐れず、神との間に、誰をも置くことなく、自分のすべてを、神の国とその義を地上に実現するために捧げなさい。

カルトの集団生活からは、何一つ生まれるものはなく、そこにあるのは、嘘と、虐げと、不法行為だけであるが、あなたが人の目からは完全に隠れたところで、生きておられるただお一人の神に捧げたものは、何一つ忘れられることはなく、豊かな報いと共に返される。地上の人々は、あなたの生き方を損だと言って、あなたが自分の幸福をすべて後回しにしてむなしいもののために身を捧げていると嘲るかも知れないが、恐れることはない、主はあなたの労にちゃんと報いて下さるからである。


主は計らい、あなたの正しさを光のように、あなたのための裁きを真昼の光のように輝かせてくださる。

悪事を謀る者のことでいら立つな。
 不正を行う者をうらやむな。
 彼らは草のように瞬く間に枯れる。
 青草のようにすぐにしおれる。
 
 主に信頼し、正義を行え。
 この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
 主に自らをゆだねよ
 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

 あなたの道を主にまかせよ。
 信頼せよ、主は計らい
 あなたの正しさを光のように
 あなたのための裁きを
 真昼の光のように輝かせてくださる。

 沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。
 繁栄の道を行く者や
 悪だくみをする者のことでいら立つな。
 怒りを解き、憤りを捨てよ。
 自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。
 
 悪事を謀る者は断たれ
 主に望みをおく人は、地を継ぐ。
 しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。
 彼のいた所を調べてみよ、彼は消え去っている。

 貧しい人は地を継ぎ
 豊かな平和に自らをゆだねるであろう。
 
 主に従う人に向かって
 主に逆らう者はたくらみ、牙をむくが
 主は彼を笑われる。
 彼に定めの日が来るのを見ておられるから。

 主に逆らう者は剣を抜き、弓を引き絞り
 貧しい人、乏しい人を倒そうとし
 まっすぐに歩む人を屠ろうとするが
 その剣はかえって自分の胸を貫き
 弓は折れるであろう。

 主に従う人が持っている物は僅かでも
 主に逆らう者、権力のある者の富にまさる。

 主は御自分に逆らう者の腕を折り
 従う人を支えてくださる。
 無垢な人の生涯を
 主は知っていてくださる。
 彼らはとこしえに嗣業を持つであろう。
 
 災いがふりかかっても、うろたえることなく
 飢饉が起こっても飽き足りていられる。
 しかし、主に逆らい敵対する者は必ず滅びる。
 捧げ物の小羊が焼き尽くされて煙となるように。

 主に逆らう者は、借りたものも返さない。
 主に従う人は憐れんで施す。
 神の祝福を受けた人は地を継ぐ。
 神の呪いを受けた者は断たれる。

 主は人の一歩一歩を定め
 御旨にかなう道を備えてくださる。
 人は倒れても、打ち捨てられるのではない。
 主がその手をとらえていてくださる。

 若いときにも老いた今も、わたしは見ていない
 主に従う人が捨てられ
 子孫がパンを乞うのを。
 生涯、憐れんで貸し与えた人には
 祝福がその子孫に及ぶ。
 悪を避け、善を行えば
 とこしえに、住み続けることができる。

 主は正義を愛される。

 主の慈しみに生きる人を見捨てることなく
 とこしえに見守り
 主に逆らう者の子孫を断たれる。
 主に従う人は地を継ぎ
 いつまでも、そこに住み続ける。

 主に従う人は、口に知恵の言葉があり
 その舌は正義を語る。
 神の教えを心に抱き
 よろめくことなく歩む。

 主に逆らう者は待ち構えて
 主に従う人を殺そうとする。
 主は御自分に従う人がその手中に陥って裁かれ
 罪に定められることをお許しにならない。
 
 主に望みをおき、主の道を守れ。
 主はあなたを高く上げて
 地を継がせてくださる。
 あなたは逆らう者が断たれるのを見るであろう。

 主に逆らう者が横暴を極め
 野生の木のように勢いよくはびこるのを
 わたしは見た。
 しかし、時がたてば彼は消えうせ
 探しても、見いだすことはできないであろう。

 無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ。
 平和な人には未来がある。
 背く者はことごとく滅ぼされ
 主に逆らう者の未来は断たれる。
 
 主に従う人の救いは主のもとから来る
 災いがふりかかるとき
 砦となってくださる方のもとから。
 主は彼を助け、逃れさせてくださる。
 主に逆らう者から逃れさせてくださる。
 主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。」(詩編第37編)

* * *

さて、以前にも、なぜ使徒行伝には、使徒たちの殉教の場面が書かれていないのかということについて書いた。

本来ならば、使徒たちの殉教は、信仰の道を貫くためのクライマックスであるから、物語としては、これが描かれていた方が、ドラマチックで完成しているように見える。

それに引き換え、現存の聖書66巻に含められている使徒行伝では、使徒の殉教は随所で示唆されてはいるものの、実際にその場面の描写はなく、むしろ、使徒たちおよびクリスチャンが迫害に耐え抜いて、信仰を宣べ伝え、各地の教会が紆余曲折を経ながら成長して行く過程が重点的に描写されている。

使徒行伝の締めくくりにはこうある、「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」(使徒行伝録28:30)

ここには、パウロがいずれ殉教するのだという悲壮感は全くない。むしろ、神の国を告げる福音が拡大して行き、これからエクレシアは完成へ向かって行くのだという期待感が感じられる。

これは中途半端とも見えるような、未完成を思わせる終わり方である。花嫁エクレシアはまだ幼く、婚礼の支度にも入っていないが、もっと後になれば、物語のクライマックスがやって来る。しかし、それはこの時代にはまだ起きていない事柄であるから、描かれていないだけであって、真に重要な出来事は、これから始まる、まさにあなたたちの生きる時代に起きるのですよ・・・、とでも言いたげな期待感を込めたニュアンスが伝わって来るように思う。

つまり、使徒行伝は終わっておらず、今日の時代までずっとこの物語は続いていているのであり、パウロの生活から、一歩、前へ足を踏み出せば、そこに私たちの時代があって、私たちもその続きを生きているのだ、と言いたげな終わり方に感じられる。

とにもかくにも、エクレシアが完成に向かうというテーマに比べると、使徒たちが殉教して生涯を終えるということは、取るに足りない事であるかのように扱われているような気がしてならない。

さらに、使徒たちの殉教の描写が聖書にないのは、それがローマ帝国という多神教の異教的世界観を土台とした政治状況の中で起きた出来事だからこそであると、筆者はかつて書いた。

もしも使徒行伝の中に使徒たちの殉教の場面が描かれていたならば、おそらく、それを読んだ後世の人々は、彼らの生涯の終わりを模範のように考えるようになり、信者は誰しもそのようにして、時の政治権力と対立関係に陥り、迫害されて、非業の死を遂げるのが理想だとさえ考えるようになるだろう。

しかし、聖書はもともと人類の罪を贖うためのキリストの死と復活を中心に据えており、最初から最後まで、被造物の代表・初穂として贖われ、ただ一人神の目にかなう「完成された人」であるキリストについて語っているのであり、政治問題には全く主眼を置いていない。時の政権による信仰に対する迫害というテーマは、聖書のメインテーマから外れている。さらに、聖書はこの世において立てられた権威に逆らうようにとは信者に全く教えていない。従って、聖書は、信者を政権に対して刃向かうように、政治闘争へ赴くように焚き付けることを全く目的としていない。

しかも、使徒たちの殉教は、ローマ帝国が多神教の神話を建国の理念とし、キリスト教を公認していなかった時代という、一定の政治・時代状況を背景にしてこそ、起き得たものなのであって、今日の民主主義に基づく政治体制において、同様の現象が再び、繰り返されうるかと考えれば、それは(独裁体制やら共産主義国などの特殊な政治形態を除き)考えにくい。

そこで、そのように特殊な政治状況、時代状況のもとにしか起き得ない現象を、あたかも普遍的な事象(もしくは信者のあるべき模範)であるかのように描くという混乱が起きないために、また、キリスト教徒を政治権力との無用な対立関係に陥らせたり、使徒を迫害したこの世の政治権力に対する反感をいたずらに信者たちに抱かせるという結果が起きないよう、あえて聖書には、使徒たちの殉教の描写が省かれているのではないかと筆者は考えるのである。
 
ところで、「ルカによる福音書」と「使徒行伝」はともに同じ著者による二巻の書物であるが、どちらもが、パウロの死後十数年以上が経過してから書かれたものであるとみなされている。つまり、使徒行伝は、パウロの殉教後に書かれたものであって、まだ事件が起きていなかったために、この書物にパウロの殉教の描写がないというわけでは決してない。

さらに、パウロの殉教後に書かれている以上、これらの2つのルカによる書物が、パウロが裁判において有利な結果を得られるよう援護射撃として書かれたとみなす理由は存在しない。

ルカの2巻の書物が目的としているのは、パウロの運命を左右するために何らかの手立てを講じることではなく、あくまでキリストがどのような方であるかを宣べ伝えることにある。
 
さらに、パウロが上訴したカエサルとは、今日、キリスト教徒の迫害者として知られている悪名高い皇帝ネロである。その時代、ネロはまだキリスト教徒に対する大迫害に及んでいなかったが、パウロがカエサルに上訴したことによって、裁判において有利な立場に立ったとか、勝訴判決を得たといった記述は、聖書の中では全く見受けられない。

パウロがネロに上訴したことによって、いかなる結果が起きたのか、また、パウロが殉教に至った理由と、パウロがそれまでに受けた裁判との間にどのような関連性があるのか、具体的なことは不明である。

とはいえ、パウロは皇帝ネロの命により、斬首されて処刑されたとも言われている。パウロの殉教は、暴徒による襲撃などの結果ではなく、為政者から有罪とみなされたがゆえの処刑であったことは、ほぼ定説である。

このように、パウロがキリストの復活の命にあずかり、神からの力強い義認を受けていたにも関わらず、なぜ異教的世界観の支配するこの世の不正な裁判によって罰せられたり、不正な君主によって死をもって処罰されるようなことが起き得たのかという問題は、聖書では取り上げられていない。このことは他の聖書箇所と対比して、大いなるパラドックスに見えるかも知れない。

なぜなら、もし神が私たちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義として下さるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ローマ8:31-34)

というあの力強い神の義認に関する宣言は、他ならぬパウロ自身の記述だからである。このように書いたパウロが、ユダヤ人からの讒言に基づき、裁判で有罪を宣告されるか、もしくは皇帝から不当な判決を受けて処刑されたりするようなことがどうして起き得ようか。

聖書はこのパラドックスを説明していないが、筆者の目から見ると、それはやはり、ギリシア・ローマ神話の多神教の世界観に基づくローマ帝国という特殊な政治・時代背景と関係があるように感じられる。つまり、パウロの殉教という出来事は、異教的な世界の中で、その時代状況に限定して起きた出来事だったからこそ、聖書はあえてパウロの殉教を「キリスト者の模範」のように描くことなく、むしろ、「例外」のごとく扱い、パラドックスとして説明することもなく、通り過ごしているように思えてならないのである。

確かに、聖書には多くの殉教者が存在することが記されている。殉教そのものは、キリスト教徒の召しの中で非常に重い価値のあるものである。ステパノの殉教の時と同じように、使徒たちの殉教が土台となればこそ、その後、福音の広がりがあり、ローマ帝国へのキリスト教の浸透という出来事も起きたのであろうと見られる。今日我々が享受している信教の自由も、そうした犠牲の上に獲得された権利であると言えるかも知れない。

しかしながら、使徒たちの殉教は、教会の最初の礎が築かれたことを意味しているに過ぎず、今日のキリスト教徒が、パウロや、他の使徒たちと同じ政治状況に生きていないのに、彼らと同じように、時の政権からの迫害と受難の末、殉教すべきであるという定式のようなものは、決して存在しないと筆者は見ている。

むしろ、今日の「殉教」のスタイルは様々であり、「日々の殉教」というものもありうるし、何よりも、信者が殉教を目的化して、自ら死を目指すようなことを、聖書は全く教えていない。特殊な政治情勢下における迫害が起きた場合を除いて、今日のキリスト教徒のために、神は死ではなく命を、罪定めではなく、小羊の血潮に基づく潔白を、圧迫ではなく、むしろ、大いなる自由を与えて下さり、主により頼んで生きるすべての人々に対し、様々な苦難はあれど、神は最終的には、冒頭に挙げたダビデの詩編のごとく、

「あなたの道を主にまかせよ。
 信頼せよ、主は計らい
 あなたの正しさを光のように
 あなたのための裁きを
 真昼の光のように輝かせてくださる。」

主は御自分に従う人がその手中に陥って裁かれ
 罪に定められることをお許しにならない。
 
 主に望みをおき、主の道を守れ。
 主はあなたを高く上げて
 地を継がせてくださる。
 あなたは逆らう者が断たれるのを見るであろう。

と記された通り、主により頼む信仰者が、不当な濡れ衣を着せられて恥をこうむり、罪に定められるようなことが決してないよう、キリストの義がそれにあずかる者にもたらす絶大な効果を、クリスチャンのみならず、この世の人々の前でも、真昼の光のように輝かせ、私たち信じる者を悪人たちによる謀略や、あらゆる虚偽の訴えから、守って下さるものと筆者は確信している。

だから、筆者自身も、真に信仰により頼んで生きるキリスト者が不当な判決を得て有罪に終わることなど全くあり得ないこととみなしており、

「もし神が私たちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか。」

「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義として下さるのは神なのです。」

「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」


とのパウロの宣言を文字通り、心に確信している。パウロに起きた出来事は、あくまでローマ帝国でキリスト教が国教化される前の、帝国内にキリスト教が浸透しつつあり、教会が生まれたばかりで成長し始めていたその困難な状況の中で起きた出来事であり、今日の一人一人のクリスチャンがそれを模範や理想として生きるために起きた出来事ではないのである。

だから、我々が心がけるべきは、あらゆる理不尽な出来事が降りかかるように思われる時にも、虚偽の訴えや、謀略によって追い詰められるような時にも、心真直ぐに主を信頼し、神がふさわしい解決を与えて下さり、信じる者を義として下さることにいささかも疑いを抱かないで、憤りを捨て、心騒がせず、平安の中に座すことであろうと考えるのである。
 
「無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ。
 平和な人には未来がある。
 背く者はことごとく滅ぼされ
 主に逆らう者の未来は断たれる。
 
 主に従う人の救いは主のもとから来る
 災いがふりかかるとき
 砦となってくださる方のもとから。
 主は彼を助け、逃れさせてくださる。
 主に逆らう者から逃れさせてくださる。
 主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。」

* * *

ところで、一旦、御言葉による確信に立ったならば、恐れや、不安や、疑いを抱かないことは重要である。なぜなら、これまでにも幾度も書いた通り、キリスト者にあっては、彼の霊の内側で起きることが、周囲の環境にそのまま影響するからである(霊的命が環境を創造する)。

「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37)
 
イエスが言及された「生ける水の川」とは、御霊であり、復活の命であるキリストの霊の只中から生まれて来る命の流れであり、天的な秩序のことでもある。

 信仰によって、不正のあるところに正義をもたらし、嘘の只中に真実をもたらし、弱く貧し人たちを豊かさへと導き、悲しむ者に慰めを、とらわれ人を自由にすることのできる、天的な秩序をこの地に引き下ろすことのできる、清く純粋な命の泉は、信じる者の霊の内側にある。

その清い命の流れは、人の霊の内、心の只中から湧き出て来る。その流れを絶やさないようにし、周囲を潤すことのできる、清い心の泉を枯れさせないよう守るためには、信者が神と自分の心との間に、さえぎるものを置かないようにすることが重要である(それが無垢であることの意味である)。

我々の生活の中では、理不尽だと感じられる出来事は、絶え間なく起こる。それによって、心を曇らせ、霊を圧迫されて、命の流れをせき止めてしまうと、私たちの働きは止む。

様々な疑念、不満、悩み、理不尽であるという憤りなどが、どんどん心をにため込まれて行くと、それはやがてバリケードのようにうず高く積みあがり、命の流れを完全に塞いで、せき止めてしまう。

キリスト者の霊の内側から流れ出す命の流れは、その人の心が信仰によって抱く喜び、愛情、希望、信念等と密接な関係があり、心が重荷で塞がれて、意気阻喪していたり、憤りに満ちているときに、開放的な命の流れを生み出すことはできない。

だから、信者は絶え間なく、新しい創造を行って、大胆に主の御業の中を生きるためには、心に去来する様々な重荷や圧迫を手放し、投げ捨て、自分自身の霊(むろん心も)の状態を常に明朗に、清く、軽快に、開放的に保っておくことが必要なのである。

それは決して、ポジティブ・シンキングのような心のコントロールを意味するものではないし、あるいは、不当な状況の只中に置かれても、笑ってなすがままになれという意味ではないし、理不尽な出来事を、理不尽であると感じて憤ってもならず、そのように主張してもいけないという意味ではない。

以前にも書いた通り、理不尽な状況は理不尽であると主張して構わないのである。ただし、状況の理不尽さを打ち破るための最大の秘訣は、憤って自分で誰かに報復したりすることにはなく、ただまっすぐに主の救いを信頼し、これを砦とし、糧とし、よすがとして、喜びを持って歩み続ける信仰の姿勢を捨てないことにある。

だから、心を憤りでいっぱいにしてはならないのである。

私たちの心は、被告であるサタンに対して開かれていたのではいけない。しかし、憤りを持ち続けると、やがてそれは報復願望や、悪事の企みへとつながって行き、悪魔に対して心を開くことにつながりかねない。

だから、私たちは、理不尽な状況に遭遇したとき、敵対者に対する憤りを心に抱き続けるのではなく、むしろ、まことの裁き主である神に直接、その事件を訴え、私たちの力強い弁護者でもあ神に自分の言い分を聞いていただき、主が自らの言い分を私たちに向かって述べて下さるときを待ち望むべきなのである。

そうして、理不尽と見える様々な状況の中に置かれたときにも、その状況の理不尽さだけに目を留めることなく、むしろ、その状況の中に、神の御手が働いており、その状況さえも、私たちが自分の心を治める上で、必要不可欠な訓練として与えられているものであって、私たちがその訓練において学ぶべきことを真に習得しさえすれば、その状況は、早急に取り除かれることを思うべきなのである。

神が信者のために正しい裁きを輝かせて下さるのは、私たちがそれを理解した後の瞬間のことである。つまり、私たちは今この時代に、使徒たちのように殉教して命を捨てることを自ら願う必要はないにしても、「日々の殉教」は否が応にも与えられる。

私たちにとって、理不尽かつ苦難と感じられる出来事は日々起きて来る。その中には、私たちの感情を揺さぶり、圧迫し、怒りを抱かせるような、相当に困難と感じられる出来事も含まれているであろうが、すべての状況には意味があり、それも神の深い采配の下に与えられているのであって、信者がいかなる状況においても、主を信頼して心騒がせず、勝利の確信に立って、揺るがされない方法を学びさえすれば、信者を取り巻く状況は、劇的に改善する。

悪の軍勢はカルバリで打ち破られているため、本当は、私たちを取り巻く状況が真実なのではなく、私たちが何を信じるのかにすべてがかかっているのである。だから、私たちは自分の外で嵐のような出来事が荒れ狂う瞬間にも、心を穏やかに保ち、勝利はすでに主にあって取られているという確信に常に立てるようにならなければならない。それができるようになれば、状況はもはや信者の心に触れなくなり、悪しき様々な問題には終止符が打たれる。

すべての試練、困難な状況は、信じる者が、自分で自分の心を守り、そこから湧き出る価値ある命の流れを絶やさず、いかなる状況においても、注意を逸らされずに、自分のミッションを果たし続けることを学ぶためにこそ、与えられているものなのである。

だから、神に対して心を開き、その御言葉に従い、サタンの言い分には心を閉ざし、これを退けなさい。あなたの心を、敵の蒔く様々な悪しき思いから守り抜き、喜びを絶やさないで目的へ向かって進む方法をできるだけ早いうちに学びなさい。
 
「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」(箴言4:23)


あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。

「また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。

あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」(ルカ22:24-30)


訴訟の判決が、出口のない堂々巡りのような問題に、待ち望まれていた新たな脱出口を与え、紛争当事者だけでなく、社会のあり方までも変えることが分かって以来、筆者は、裁判所という不思議な場所に魅了されてしまった。そこから、汲めども汲めども尽きることなく流れて来る命の泉のような流れに、日々、何かの形で関わりたい、もしくは、関わることができないかと願っている。

身近で日々、法律関係、裁判関係の用語を見聞きすることができるのは、筆者にとっては、まさに、演奏家が毎日、様々な楽曲の音色に耳を傾け、楽譜をめくっているような具合で、幸いである。

筆者の夢は、この地に召されてやって来たときから、いつかここから、生ける水の川々が尽きせぬ洪水のような流れとなって溢れ、流れ出ることにある。

これがいわば、筆者に与えられた「開拓伝道」である。これを馬鹿らしいファンタジーを語っていると笑いたい人がいれば、それはそれで結構である。

筆者の住んでいる県の名前は、全国で唯一、神の名がつけられている都道府県であるが、長年、命の川どころか、荒野しか見当たらない中で、敵の襲来や、かんばつに脅かされ、一体、初めに与えられたビジョンが、いつどういう形で実現するのか、分からない月日がずっと続いた。

もはや筆者に何かの召しがあったことさえ、人々はもちろん、筆者自身さえも忘れ去ろうとしていた頃、筆者は、裁判所という不思議な「干潟」を見つけ、そこから不思議な命の流れが湧き出ていることを発見した。

霊的大干ばつの最中のことである。裁判所には、人々が目を背け、耳を塞ぎ、足早に通り過ぎて行きたくなるような、こじれた訴えばかりが送りつけられ、うず高く積まれていた。それはまるで見栄えのしないヘドロや泥水ばかりがたまった何の役にも立たない「干潟」のようである。

筆者自身が、誰も見向きもしない訴えを抱えてそこにたどり着いた。その時は、誰一人として筆者を応援する者もなかった。しかし、筆者はそこに正しい裁きが存在するという噂を聞きつけ、最後の望みを持ってそこにたどり着いたのである。

やはり、噂は嘘ではなかった。その「干潟」にたどりつくと、そこにたまった「あぶく」の一つ一つに、不思議な光が当てられ、光合成が働き、それが神秘的な作用により、新たな命を生み出すエネルギー資源へと変えられていることが分かった。

干潟は単に水が腐った無用な地帯ではなく、そこには人手によらず、太古から続けられて来た途方もなく不思議な天然のエネルギー資源の循環があった・・・。そこで、筆者も自分の訴えに順番が回って来て、光が当てられるのを待った。実際に、その結果としてどういう現象が起きるのかを知ってから、この不思議な「干潟」に魅了されて、そのそばを離れられなくなったのである。

裁判所が扱う訴えの範囲は、とどまるところを知らない。たとえば、筆者は我が国に、行政職員を罷免する制度がないのは、本当に異常であると感じている。本来ならば、国家公務員に対して、国民は罷免権を持っているはずだが、行政の職員に対してはそれはない。

筆者は我が国で国家・地方公務員と呼ばれている人々は、憲法上定められた公務員の定義から外れており、これは戦前の遺物としての「官吏」の残存物のような、不明な位置づけにある集団だという考えを、他の人々の主張を踏まえ、提示して来たが、罷免権がないという意味でも、その考えは裏づけられているように思う。

本来ならば、公務員の選定と罷免は、国民固有の権利であるはずなのに、実際には、行政職員に対しては、市民は何もできない立場に置かれており、それゆえ、あまりにも行政の腐敗が進み過ぎたのである。

国家公務員の不祥事について、人事院は個別の要件を扱わず、関係省庁は苦情があったからと言って、何の対処の権限も実際にはほとんど行使しない。行政に関する苦情について、市民にはどこにも訴える場所がほぼないのが実状である。

だからこそ、今日の行政には決して自浄作用というものが全く期待できず、裁判所のように市民からの訴えを真剣に取り上げる場もほぼほぼなくなっているため(システムが形骸化してしまっている)、一旦、役所が腐敗すれば、その腐敗はとどめようもなく、仕事をしない役人がいたからと言って、これをクビにする方法も市民にはないといった状況が生まれる。

行政は、市民と直接、接しているにも関わらず、市民からの声を汲み上げづらい状況にあり、その乖離がますます進んでいるように見えてならない。
 
もちろん、行政といっても、ありとあらゆる分野が存在するわけで、すべてがすべて腐敗の危険の只中にあると言うつもりはないが、やはり、国民からの選定と罷免の権利が及ばないことには、それだけの大いなる暗闇が存在するものと筆者は思う。
 
ところが、裁判所はそうした用件であっても扱える。もちろん、裁判所が公務員を罷免するわけではないにせよ、事件を裁判所に持ち出すことによって得られる効果は絶大である。裁判所には、行政の決定さえも覆すだけの権威がある。そして、その原動力となるのは、やはり、取るに足りない弱い無名の市民からの一つ一つの訴えである。

紛争を起こすことは、一見、物事を紛糾させ、問題を深化させるだけの行為のように見えるかも知れないが、筆者は、その一つ一つの訴えには、はかりしれない意味があると考えている。

物事を丸くおさめ、自分が譲歩して、あるいは願いをあきらめて、穏便に早期に和解によって紛争を解決するのは、「美しい」決着のように見える。それに比べ、紛争を提起する行為自体が、和を乱す「美しくない」行為と見える。まして紛争を徹底的に戦い抜いて、白黒決着をつけるなどの行為は、なおさらそう見えるだろう。

だが、実際には、その見栄えの悪い、調和を壊すような「美しくない」訴えの数々の中から、はかりしれない価値が生み出されているのが現実なのである。リスクを覚悟で最後まで訴訟を戦い抜く人々がいなくては、画期的な判決が生まれることもなく、その分だけ、社会の進歩や、成果が、勝ち得られずに終わる。

そういう意味で、筆者は、当事者が戦い抜いて得た判決には、やはり決して社会全体がおざなりにできず、またそうしてはならない絶大な価値があるものと考えている。

賠償金がいくら払われるか、どうやって支払わせるのか、といった金銭的な問題だけがすべてではないのである。もちろん、債務名義は、強制執行を行うこともできる根拠となるが、そのことをさて置いても、裁判所がもたらす新たな判決は、それ自体が、新しい生命の息吹となり、社会の目に見える物事の正邪を切り分け、目に見える物事を超越した立場からこれに裁きを宣告し、実際に物事を是正し、変えて行くだけの力を持つものである。
 
筆者は、裁判所が持っている権威の大きさや、市民が起こす一つ一つの訴えの意義、そして裁判所の使命について、飽くことなく考えさせられている。

我が国における三権分立は、決して行政を司法の下に置くものではないにせよ、もしも腐敗した行政というものがあるとすれば、それはやがて裁判所の権威の下に是正されることになるだろうと筆者は思う。
  
ところで、当ブログに関する訴訟の第一審は、そのほとんどの部分が、法廷ではないところで、弁論準備手続きとして行われ、裁判官が法衣を着て現れたのも、全体で三度でしかなかった(開廷の時、弁論終結の時、判決言い渡しの時)。

さらに、今、事件は控訴審へ向かっているため、これからは三人の裁判官が事件を担当することになる(それも何かしら三位一体を象徴するようにも感じられる)。

しかし、筆者にとって、法廷のイメージとは、常に法衣をまとった一人の権威ある裁判官が、原告・被告の双方が揃っているところで、厳かに判決を言い渡すというものである。

ただ裁きに権威があるというだけでなく、裁判官は決して当事者と同じ目線に立たず、当事者を見下ろす法壇に立ち、そこから裁きを宣告するからこそ、より一層、厳粛に感じられるのである。

この法廷のイメージは、筆者の心の中で、神とサタンと人間とが相対してそれぞれの主張をぶつける天的な法廷の地上的な絵図のようである。

ところで、筆者は三権分立を、不正確なたとえとはいえ、霊、魂、体という聖書に登場する三部位に置き換えて考えてみる。

行政とは、いわば「からだ」であって、司法は「頭脳」である。
 
立法は「命令」そのものを考えて発令する部位であり、聖書にたとえるなら、「光あれ」といった命令が発せられるところである。筆者から見ると、この発令は、あたかも霊からすべてが始まることを予表するかのようである。

司法は、発せられた命令に基づき、目に見える物事が実際にあるべき秩序にかなっているかという是非を判断し、違反を是正する部位であるから、一旦、「光あれ」という命令が下されたなら、何が光であり、何が闇であるかを精査し、光と闇とが決して混ざることのないようにこれを切り分ける機能を持つ。

つまり、絶えず善悪の判断を行う魂の働きになぞらえられる。

行政は「からだ」であって、目に見える物事の世界で、命令されたことを実行する手足のような機関に当たる。

この世における三権分立に主従関係はないが、霊、魂、体はそれぞれ主従関係にあり、その中で、最も卑しい部位は体である。なぜなら、体はこの世(目に見える世界の物事)と接触する部位であって、自ら判断を行うわけではないからである。

筆者は以前に、ハンセン病者は、体に痛みを感じなくなることによって、自分で自分の体を傷つけても、それに気づけなくなり、それが原因となり、体の一部を失って、いびつな姿になって行くのだと書いた。

もしかすると、我が国の行政には、これと似たような病が起きているのかも知れないと筆者は思う。我が国の行政は「からだ」である。ところが、この「からだ」は、良心の機能から切り離されて、次第に、自己を統制する力を失いつつある。
 
行政が、国民に奉仕しながらも、国民の選定・罷免が及ばないことによって、ほぼ完全に閉ざされた自存それ自体を目的とする自己目的化した機関のようになっていることは書いた。そのために、これはあくまで比喩であるとはいえ、三権の中でも、行政は、司法からも、立法からも、抑制が及ばなくなって、「良心の機能」という痛みの感覚から切り離されて、自分で自分を傷つけても、あるいは他人を傷つけても、それが分からない状態に陥っているのではないかと感じられる。

そのために、体のあちこちをぶつけ、随分、歪んでいびつな姿になってもそれが分からず、国民からの監視も、選定も、罷免も行き届かないことにより、すでに壊死しているような部分も、たくさんぶらさがっているのではないだろうか。

その「からだ」とは、「頭脳」のコントロールが効かなくなり、「知性」から切り離されて、感覚麻痺した不気味な体である。

そこで、このような「からだ」の感覚鈍磨、もしくは麻痺状態を是正するためには、生命の通わなくなった部位を本体から切り離し、そこに新たな生命力をもった「細胞移植」が必要となる。

良心の働きを、すなわち、痛みの感覚を取り戻すために、死んだ細胞の代わりに、新たな細胞を移植し、体の働きに「頭脳」の指令がきちんと行き届くようにせねばならない。

むろん、筆者が「移植」を行うわけではない。それは筆者とは何の関係もない事柄である。

しかし、自然淘汰に近いような形で、実際には、どんどん「移植」が行われている。行政サービスの様々な分野は、民間企業やその他の様々な団体に移行(委託)されているが、このことは、裏を返せば、純粋に「行政」と言える機関には、もはやこれらの仕事を自ら遂行する力がなくなりつつあることを意味するのではないだろうか。

新たな発想、そして、優れたノウハウが生まれて来るために、もはや自己の力だけではどうしようもなく、外へ助けを求めざるを得ない状況が生まれているのである。

だが、そのようなことは、行政が「閉ざされた機関」ではなく「開かれた機関」であったなら、おそらく起きなかった現象であろうと筆者は考えている。役所から見れば、それは単なる外部委託に過ぎない事業であろうが、真の意味で、政府が(もしくは地方行政が)、長年に渡る業務遂行を通して、絶え間なく国民・市民からの直接の声を汲み上げることができていたならば、その間に、サービスの向上、多様化が進み、民間委託するしか方法がないという状態には陥らなかったことであろう。

むろん、委託によって新たな生命の息吹が注ぎ込まれることは、歓迎すべきことなのであるが、筆者はどうしても、そういう現象が起きていること自体に、行政の行き詰まりのようなものを感じずにいられない。
  
以上で、裁判所の権威とは、目に見える物事を超越した領域から、裁きを宣告することにあると書いた。そこで、三権分立には、主従関係はなく、それは互いに抑制し合い、働きを分散させたものに過ぎないとはいえ、そうはいえども、筆者の目から見ると、実はやはり、目に見える領域で働く「体」=「行政」は、最も知性からはほど遠い場所にあると言って差し支えなく、その意味で、これは、命令を実行する手足のような機関であり、かつ、裁きに服さねばならない、徹底して「仕えるため」にある部位であると考える。

にも関わらず、「体」が知性を凌駕し、頭脳との関係までも覆し、一人の人間の中で、王様になってしまうと、人間の本来的な秩序が転倒する。ところが、我が国では、半ばそれに類することが起きているのが現状ではないだろうかと筆者は考えざるを得ない。

今は問題提起の段階なので、これ以上のことは深く語れないが、筆者はそのように、たとえるならば、麻痺しかかったような状態にある「体」に、良心と生きた感覚の機能を取り戻させるために、いかなる方法(手術・治療)が必要であるのかについて、ずっと考え続けている。

冒頭に挙げた御言葉は、従来の聖書的な解釈によれば、当然ながら、一人一人の信者に適用されるものであるのだが、それと同時に、これは「からだ」の働きを持つすべての職に当てはまる。

人に仕える立場にあるはずのものが、王様のように君臨している状態は、明らかに異常であるから、そのような状態を是正するためにも、自然と、壊死した細胞を生きた細胞に取り替える必要が生じているのではないだろうか。罷免が及ばなくとも、必然的に、何かしらの淘汰や刷新に近いことが起きているのである。

筆者がいたずらに行政の無為を批判し、役立たずの役人を罷免する制度が欲しいと言いたいがために、こうした事柄を、決めつけで書いているとは考えないでもらいたい。国家・地方公務員の選定と罷免を国民の側から可能とすることは、何らかの方法で必要であろうと考えるが、その問題とは別に、まずは行政と司法との間で(筆者は立法府のことはまだ知らず、関わっていないため言及できない)、生きた橋渡しを行い、真に抑制し合う関係を打ち立てるために、今後、必要となることは何なのか、筆者は自分自身の置かれた立場から考え続けねばならないと述べているだけである。

* * *

最後に、いくつかの個人的な事柄について書いておきたい。以下の二つは、筆者が当ブログを巡る訴訟が行われている期間中に学んだ最大の教訓である。
 
➀物事は非常に困難な方法で取り組んでみることにこそ価値がある(望みうる最高の願いを決してあきらめずに、犠牲を払ってそれに向かうことに価値があること)。
②理不尽だという思いを捨てることこそ、すべての物事の解決の最短コースだということ。

➀について言えば、通常の感覚では、訴訟の提起そのものが著しい冒険であり、未知の分野への挑戦であったため、それにも関わらず、控訴審まで及ぼうとしていること自体が、途轍もない大いなる挑戦(もしくは無謀な冒険)と映ることであろう。

しかし、周りからどのような評価を得たとしても、筆者は、やはり、どうしてもこれだけは譲れないと考える望みに対しては、人は妥協なしに取り組まねばならないことをいつも思い知らされている。

筆者の目から見て、なぜ裁判所がそれほどまでに尊い場所に映るのかという理由もそこにあるのだ。それは、そこに人々の命がけの「望み」が託されているためである。

訴訟には一つ一つ、個人的な争いにはとどまらない社会的な価値があると、筆者は考えている。当ブログに関する訴訟では、特に、クリスチャンの側から、どうしても述べておかねばならない問題があった。強制脱会活動の違法性の問題である。

遅ればせながら、ようやく控訴審になってからこの問題に言及することが可能となったとはいえ、こうなったのは運命的な巡り合わせであり、かつ、これははかりしれない価値あるテーマだと筆者は考えている。

なぜなら、今までクリスチャンの側から、強制脱会活動の違法性を認め、こうした活動を批判したり、反省する発言が、公の場所で聞かれたことはほぼないと考えられるためである。しかし、筆者は、これをプロテスタントの恥ずべき歴史としてとらえており、そのことをプロテスタントの中から(これまでプロテスタントの信者であった者の側から)公式に認め、声明することには、非常に重い意味があると考えている。

筆者は牧師でもない一信者に過ぎず、そもそも訴訟では他者の不法行為を指摘しているのであって、自分自身が脱会活動に携わって来たわけではないが、当ブログでは、そもそもの初めから、強制脱会活動はプロテスタントの汚点であるということを指摘し続けて来た。

その意味で、筆者の訴えは、キリスト教徒の側から、異教徒に対して、反省し、懺悔せねばならない問題があることを公に宣言するという意味を持っていないわけではない。筆者の訴えは、統一教会とは何の関わりもないところで提起されているとはいえ、クリスチャンの側から、こうした脱会活動を強く非難する言葉を、公の場所で述べておくことはぜひとも必要であると考えている。

そのチャンスが巡って来たのは、やはりこの戦いを控訴審へ持ち込むことに、真に意義があったたことを表しているように思われてならない。
  
さらに、②の理不尽だと感じる思いを捨てることは、決して誰から何をされても一切異議申し立てをしないという口封じの圧力に屈することは訳が異なる。理不尽なことは、理不尽であると、むしろ、公然と訴えるべきなのである。だが、そのことと、許せないという感情をいつまでも持ち続けることは異なる。

筆者は、第一審が終わってから数ヶ月ほどたった時に、心の中で理不尽だという思いを手放しつつ、それでも、訴えを続行することは可能なのだということを学んだ。それは、真実を明るみに出し、きちんと事実関係と責任の所在を明らかにし、物事をあるべき所に是正して行くために、必要な措置だから、訴えを続けるというだけのことであり、相手を徹底的に追い込むとか、自分の思い通りの決着に従わせるために、何としても争いを続行するというものではない。

そのように個人的な感情を手放すことができた時、その訴えは、神ご自身が取り上げて下さり、人間の努力によらずとも、速やかにしかるべき解決が与えられることを筆者は学んで来た。

ただし、これは繰り返すが、うわべだけ謙虚さを装い、波風立てないことだけを第一として、相手の前にわざと自分の主張を放棄して折れて出るとか、望みをあきらめるということとは全く意味が異なる。筋を通さなければならない場面では、不本意な妥協や和解を退け、最後まで物事を公然と明らかにすることは必要である。だが、それを個人的な怒りや報復感情とは関係のないところで、真に物事があるべき姿を取り戻すためにこそ、行うことは可能だと学んだのである。
 
ところで、最後に蛇足ながらつけ加えておくと、政府の行う行政サービスの中に、国側が敗訴した国賠訴訟への対応というものもある。さすがに、この仕事は外部委託はできないため、半永久的に、政府自身が行わなくてはならないであろうが、その領域まで行くと、役所はもはや自己正当化ができなくなる。たとえば、先の大戦中に政府が犯して来た数々の過ちの償いの問題があるし、ハンセン病者とその家族への償いもあろうが、こうした問題を扱っている役人は、どうしても国民の前に「悪者として立つ」ことを避けられない。

その領域まで来て、初めて行政サービスに自己反省と自浄作用の余地が生まれる。(言い換えれば、それ以下の国賠訴訟で敗訴を味わったことのない下部の行政機関には、我がふりを自分で正すという自己反省の力がないということである。)

だが、それとて、市民たちが必死の覚悟で訴訟を戦い抜いたことの成果なのであって、行政自身の自然な自浄作用によって生まれた結果ではない。集団的な国賠訴訟が起こされなければ、行政が自ら過ちを認めることはなく、苦情の電話や書面といったレベルで対応がなされることも決してなかったであろうと筆者は確信する。

そういうことを考えても、筆者は、やはり、行政が今や決して自力で到達できなくなっている自己反省の部分を補うという意味でも、司法の働きの重要性を思わずにいられない。そして、司法には、人間の魂の最も重要な機能としての「良心」の働きがあるように感じられてならない。だからこそ、そこに筆者は尽きせぬ興味関心を抱くのである。
 
弱く無力で追い詰められた立場から、国を相手取ってでも、訴訟を戦い抜いて、判決を勝ち取った人々の努力と成果があってこそ、先の敗戦によって生じた様々な混乱の責任を含め、数々の過ちの責任を政府に追及することが可能となり、我が国の今日の様々な法と社会のあり方が打ち立てられているのであって、その訴訟がなければ、政府自身が己が過ちを認めることは決してなかったであろうことを考えると、それを起こした人々の努力にはやはり敬意を持たないわけには行かないと思うのである。

それと同時に、「体」に働く痛みの感覚とは、人の良心の働きであって、人が自己反省によって軌道修正して行く力そのものであろうが、それを失ったとき、人は他者を傷つけるだけでなく、自己をも傷つけることになることを思わされる。

自浄作用をなくした行政の腐敗という問題と、プロテスタントが繰り広げた強制脱会活動の問題とは、そういう意味で、筆者から見ると、何かしらの共通点を持っているような気がしてならない。「プロテスタントの教会に自浄作用が働くなったために、被害者は裁判を起こすしかない」と警告していた牧師自身が、強制脱会活動に関わって来たことはまるで運命の皮肉のような話である。

なぜプロテスタントはそのようにまで盲目的で自己反省のない状態に陥ったのか。なぜ自ら神を信じると豪語する人々が、それほどまでに良心を失い、自分自身を正義の担い手のように考えながらも、他者から裁判を起こされるまで、人々の悲鳴に耳を貸さなくなったのか。(さらにもっと言えば、裁判を起こされても、なお不都合な判決には耳を貸さなくなった。)信者はこの問題についてよく考えなければならないものと思う。

筆者は、そこに、数々の外注の業者や、末端の下々の職員を絶え間なく(内心では見下しながら)「選定」したり「クビ」にしながらも、自分たちだけは、決して誰からも「選定」されることもなく「罷免」されることもないという自己安堵に陥った行政役人の「驕り」と、自分たちは由緒正しい正統な信仰を維持するキリスト教徒であるから、救いを知らない(で地獄に落ちる)他の人たちとは全く異なると自負する信者の「驕り」という、何かしら非常に似通った心理的問題があるような気がしてならない。
 
とにかく、そこに共通する問題として、高慢さとその結果としての自分とは異質な他者に対する君臨というものが存在することは確かであろう。それだからこそ、筆者は、逆にキリスト教徒の側から、誰か一人でも、この問題について、自分たちの側に責任があることを認めて、異教徒の前に頭を下げる人間が現れることが必要ではないかと考えている。

そのために、筆者は、誰が当事者として耳を貸すわけではないとしても、また、筆者自身が、責任を負うわけではないにしても、少なくとも、信仰者を名乗る人間が、こうした問題が起きていることに、気づきもせず、神と人の前で、声をあげることもない鈍感さと良心の欠如は、実に恐るべき感覚麻痺であって、そのような状態を避けるためにも、この問題について、真実を公然と明らかにし、責任の所在を問うことは、必要な作業であると感じている。そして、そのチャンスが与えられたことは、光栄だと感じているのである。

人は自分自身が罪を犯したわけではなくとも、人々の代表として、頭を下げなくてはならない瞬間がある。そして、聖書が根本的に述べているのも、人は誰も義人ではなく、生まれながらに罪人であるから、誰もヒーローにはなれないということである。

救われて、キリストに似た者とされるとは、より一層、へりくだって仕える人になることをしか意味せず、尊大で他者を見下しながら、自分だけは特別だと己惚れる人間になることを意味しない。だから、たとえ自分に罪がなくとも、信者にはへりくだることが必要であり、そのために、自分の憤りを手放すことも必要であり、それがなされた時に初めて、我々の訴えは、神と人との前に義と認められて、速やかに聞き入れられるものとなるのではないかと感じている。

そのことを、筆者は自分自身の訴訟を通しても、日々の生活の中でも、毎回、毎回、繰り返し、思い知らされつつ、同時に、それでも手放すこともできず、あきらめることもできない切なる願いを、神と人とに訴え続けながら生きている。それだからこそ、それだけの言葉に言い尽くせない思いを通過しながら、学び、勝ち取られた成果としての判決には、そこに書かれている文字以上の価値があると思わないわけにはいかない。また、そうした人々の悲痛な思いが集積されているのが裁判所であることを思うと、その場所には、畏敬の念や、厳粛さと同時に、深い憧れや愛情にも似た特別な思い入れを抱かないわけにいかないのである。