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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

カルトはアンチカルトと同一である

 私の大学時代の師匠は、東洋思想に深い関心を寄せておられた。また、キリスト教への嫌悪感を隠さない人であった。「キリスト教は人を罪に定めるでしょ。それがいけない。やっぱり日本はアジアの国だからね、宗教にもアジア的な懐の深さが欲しい。だからアジア人としての日本人は、ぜひ東洋思想を勉強しなくちゃいけないよ」、そんなはっぱを学生時代によくかけられた。

 その頃、私は東洋思想に少しも関心がなかったので、師匠の意見はただ馬耳東風であった。が、最近になって、当時先生が盛んに宣伝しておられた禅の思想の優れた担い手として知られる、鈴木大拙氏、原田祖岳氏などの書物を読むようになった。
 こう言ったからと言って、私がクリスチャンをやめようとしているという意味ではない。私達の父なる神が真実なお方であるなら、アブラハム、イサク、ヤコブの神は、東洋思想をはるかに超えて高く立ち、これを凌駕し、打ち破られるはずである。

 実は、禅との関わりは私が意識するよりもずっと以前からあった。私の親戚筋に禅寺がある。学生時代に泊まりに行くと、その度ごとに座禅に参加させられた。朝早くたたき起こされ、眠い目をこすりながら座禅を組まされ、般若心経を読経する。
 当時、私はつきあいで参加させられているこの「偶像崇拝」がいやでいやでしょうがなかった。眠さをこらえての座禅も嫌であったし、その後の、寺の掃除も疲れた。修行者たちが手早く済ませる、朝の粗末な食事が特に身にこたえた。落ち着いて食べるどころではない。作法がよく分からなくて、ついていけないのだ。

 修行者たちの半ば馬鹿にするような視線に耐えつつ、とにかく皆に遅れを取らないように、納豆を手早く胃に流し込んだ。何やらお経を唱えながらの食事で、少しも落ち着くことができないまま、最後のご飯粒まで残さず食べるのに必死だった(ご飯粒を残してはいけない決まりになっているらしいのだ)。たくあんのつけもので最後にお椀を拭い、食器を返却する。だが、私が食べ終わる頃には、すでに皆その場にはいなくなっていた。

 しかもその寺は非常に拝金主義的な傾向があって、住職一家が贅沢三昧の暮しをしていたのも、不愉快であった。住職が収集した金の仏像、新型のパソコン、年代もののベンツなどを見せびらかされるたびに、仏教が煩悩をあれほど離れるように説いているのに、この寺は一体何を信じているのかと内心で苦笑した。イタリアにも進出して、たくさんの寺を建てたらしい。

 その頃、禅というものは、私にとってはただただ近寄りたくない偶像崇拝の類としてしか認識されていなかった。仏教においては崇拝される神すらもいないということすらよく分かっていなかった。禅の思想の奥深さも、魅力も、何も私は分かっていなかった。
 たが、今となってみれば、確かに、大学時代の師匠がおっしゃったように、思想としての禅は、一体、足を踏み入れると限りなく面白い。なぜそれが東洋人に受けいれやすいのか、説明抜きで分かる。中央アジアを旅行したときには、イスラム教にも親近感を感じたものだが、東洋思想は、キリスト教に比べ、日本人にはるかになじみやすい、まさに血肉のようなものであることがわずかずつ理解できるようになった。

 さて、禅の基本的な考え方は、鈴木大拙氏の解説によると、「AはAである。よってAは非Aである」ということになるらしい。なんのこっちゃ、と思われるだろう。私は禅者ではないが、今回、ちょっとだけ禅風の手法を用いて、今、キリスト教界に起こっていることを説明したい。(禅者はこのからくりを決してだらだらした言葉で説明せず、もっと直観的にとらえるのだが、禅者でない私は、だらだらした説明によって語らせていただくしかない。)

 「カルトはアンチカルトと同一である。」
* * *

 突然、話が変わるようだが、厚生労働省による国民年金のずさんな管理が問題になって久しい。ずさんな管理というよりも、実は意図的な年金ふりこめ詐欺だったのではないかという疑いさえも生じている。定額給付金は泥棒の分け前だったのではなかろうか、と思うくらいだ。
 私が年金受給者になる頃に、一体、国家財政はどうなっているのであろうか。
 この事件のために、役人への風当たりはますますきつくなり、その上、元官僚の暗殺事件までが起こったので、各省庁では随分、厳しい思いをさせられる人たちも出ていることだろう(特に、下級役人にあっては)。

 しかし、そんな中で、今度は、国民による年金泥棒事件が報道された。市民が、何の障害もないのに、障害者を装って診断書を提出し、障害者年金を不正に受給したという事件だ。しかも、一人や二人でなく、驚くほどの人数にのぼっていた。このニュースを聞いた時、「役人が役人ならば、国民も国民だ。この国民にしてこの役人ありなのだ」ということを感じた。

 我が国の年金という財源には、ありとあらゆる種類の虫が入り込み、食い荒らされ、さびがつき、穴があいている。貴重な宝は、まさに泥棒の巣窟となって食い荒らされた。だが、泥棒精神を持っていたのは、何もお役人だけではなかった。国民も含めて、この国全体が詐欺とぼったくりの牙城となっているのだ。情けないという言葉ではもはや言い表せない。
 役人も国民を訴えることができないし、国民も役人を訴えられない。なぜなら両者同じ穴のむじなであり、同じ罪に堕ちていることが分かっているからだ。

 キリスト教界で起こっていることもこれと同じである。
 キリスト教界はもはや泥棒の巣窟となっている。私達クリスチャンは、ともすれば、悪徳牧師、悪徳教会ばかりを叩き続け、権威者の責任ばかりを厳しく問うているが、しかし牧師が牧師ならば、信徒も信徒であるということを忘れるわけにはいかない。いやむしろ、阿呆な信徒の阿呆な欲望がつのって、自分にふさわしい阿呆な牧師を生み出したとさえ言えるかも知れない(ここで言う阿呆な信徒の中にはかつての私も当然、含まれる)。

 被害者による大きな裁判が今、敗北を見たということは、とても考えさせられる事件だ。できれば、被害者の言い分が聞き届けられて欲しい、偽牧者は公然と裁かれるべきだと私も願った。だが、それはかなわなかった。(このことは、偽牧者にとっては、さらに罪を増すきっかけにしかならないだろう。なぜなら、偽牧者は今回の勝利をもって、「私には罪はないことが証明された」とますますおごるであろうが、そのように自ら義人を称することは、神のさらなる怒りを身に招くだけに終わるからだ。)

 私自身は、前から書いてきたように、裁判という方法で、カルト問題を少しでも解決できるとは思っていない。というよりも、この問題に取り組むに際して、裁判という方法は不適切だという気がしてならないのだ。

 京都A教会のことについて以下の記事に書いた。正義の側に立って、カルト対策に取り組んできたはずのこの教会が、何やら不明な行動に及んでおり、もはや誰の味方なのかさえよく分からない状態になっていることを示す内容の記事だ。しかし、それを書く以前から、ずっと私がこの「カルト対策」に疑問を持ち続けていたことも、すでに何度か述べた。

 だが、そうは言いつつも、私の中には一つの疑問があった。それはもしも、カルト対策の看板を公然と掲げている人間が、真の意味では、正義の味方ではなく、それどころか、むしろ悪人と気脈を通じているとすれば、なぜ同じ精神で結ばれている者同士が真っ二つに割れて互いに争うようなことがあるのだろうか、ということであった。
 悪人同士なら、協力するはずではないか?

 イエスがある人の中にいる悪霊を追い出された時、パリサイ人たちはイエスの偉大な力を妬んで言った、「あれは悪霊のかしらの権威によって悪霊を追い出しているのだ」と。
 イエスはこれに対して言われた、「おおよそ、内部で分れ争う国は自滅し、内わで分れ争う町や家は立ち行かない。もしサタンがサタンを追い出すならば、それは内わで分れ争うことになる。それでは、その国はどうして立ち行けよう。
 もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう」(マタイ12:25-27)

 長い間、この言葉の意味についてずっと考え続けてきた。これは、悪霊は内輪もめしないということだろうか。サタンの協力者が互いに争うようなことはないという意味か。だとすれば、悪徳教会と根底では一つにつながっている者が、なぜ悪徳教会を起訴したりするだろうか…。

 しかし、この謎が解けたように思う。まず、第一に、カルト化教会も、カルト対策を講じている者も、羊を迷わせ、ますます真理から遠ざけるという点においては完全に一致した協力者なのだ(「わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである」 マタイ12:30)。
 片方には「強盗的偽牧師」が立っており、もう片方には、優しい仮面をつけた親切そうな偽牧師がいるというだけの話かも知れない。いずれにせよ、悪人が自分の悪を棚に上げて、他の悪人を先に成敗するようなことがもしあれば、彼は神によってでなく、サタンによって裁かれるだろう。

 被害者には厳しい言葉だろうが、言わなければならない。私たちは誰一人、義人ではないのだ。にも関わらず、被害者にまるで義があるかのように思わせ、主の前に悔い改めることを要求しないで、自分の過失を差し置いて、他人の悪事を先に訴えるように勧める者がいるとすれば、その人は決して真理を語ってはいない。悪徳教会に騙された被害者が、身の潔白を主張したい気持ちは痛いほどよく分かる。だが、同時に、被害者こそが悔い改める必要がある者であるということを忘れてはならない。自分に正義がないのに、他人を訴える資格は誰にもないということを忘れてはならない。真理を見分けられなかったクリスチャンには、主を裏切ったことの責任が確かに残るのだ。

 考えてみよう。本当の被害者とは誰か? それは人間ではなく、主なる神ご自身である。主のための聖なる神殿であるはずの教会を廃墟のように踏み荒らし、主の名を唱えながら、憎むべき礼拝と忌まわしい歌ばかりを捧げ、搾取とむさぼりの精神で取り立てた、忌まわしい供え物ばかりを捧げた。あまつさえ、そのように忌まわしい肉なる礼拝をきわみまで押し広げようと言って、教会の無限成長とリバイバルを求めてきた。キリストの花嫁たる教会をバベルの塔の雛形に変えることによって、私達こそがまず先に主を冒涜したのである。なのに、聖なるものとして礼拝されるべきでありながら、そのように粗末に扱われ、愚弄された主なる神の嘆き、悲しみを差し置いて、人間である私たちが、自分の痛み苦しみだけを真っ先にかえりみてくれと訴えることはできない。
 教会の中で、目も当てられないほどの悪事ばかりを積み重ねることによって、主を倦み疲れさせ、自分たちから目を背けさせておきながら、自分が窮地に陥った時にだけ、助けてくれと叫ぶ権利が人にあるだろうか。主を裏切った信徒は、ソドムたる悪徳教会もろともに、ゴキブリホイホイのように焼き殺されても、文句は言えないだろう。

 だから、まず、神のみもとに身を投げ出し、我が行いを先に悔い改めよう。自分の義を投げ捨てて、自分の罪をまず認めなければならない。主を呆れさせ、疲れさせ、うんざりさせ、悲しませ、怒らせ、裏切り続けてきたことにこそ、まず目を留めなければならない。主こそが最大の被害者であることをきっちり認め、主の被害に対しての謝罪とつぐないの姿勢を示し、主の喜ばれる生き方を取り戻した後でなければ、カルト被害者の苦しみを主が取り上げて下さることは永久にないだろうと私は思う。

「あなたがたソドムのつかさたちよ、
主の言葉を聞け。
あなたがたゴモラの民よ、
われわれの神の教に耳を傾けよ。
主は言われる、
『あなたがたがささげる多くの犠牲は、
わたしになんの益があるか。<略>
あなたがたは、わたしにまみえようとして来るが、
だれが、わたしの庭を踏み荒らすことを求めたか。
あなたがたは、もはや、
むなしい供え物を携えてきてはならない。
薫香は、わたしの忌みきらうものだ。
新月、安息日、また会衆を呼び集めること――
わたしは不義と聖会とに耐えられない。
あなたがたの新月と定めの祭とは、
わが魂の憎むもの、
それはわたしの重荷となり、
わたしは、それを負うのに疲れた。
あなたがたが手を伸べるとき、
わたしは目をおおって、あなたがたを見ない。
たとい多くの祈をささげても、わたしは聞かない。
あなたがたの手は血まみれである。
あなたがたは身を洗って、清くなり、
わたしの目の前からあなたがたの悪い行いを除き、
悪を行うことをやめ、
善を行うことをならい、公平を求め、
しえたげる者を戒め、
みなしごを正しく守り、寡婦の訴えを弁護せよ」(イザヤ1:10-17)

 主の重荷と呼ばれて仕方がないような悪徳教会を生み出したのは、信徒の責任でもある。あの信徒にして、この牧師あり。キリストではなく、自分の夢や欲望ばかりを愛し、自分を楽しませることばかりを追い求め、地上の権勢の拡大を目指し、御言葉をおざなりにし、真理から離れていた信徒たちが、大勢の力で寄ってたかって、人間の欲望の城を築き上げたのだ。その罪を直視しないでおいて、どんな正義が成り立ちうるというのか。

 カルトが、肉なる教えの頂点であるとすれば、アンチカルトもまた人間から出てきた主張に過ぎない。どちらもともに政治であり、同じ穴のむじなであり、滅びへ向かっているのである。にも関わらず、もの別れして、対立して、争っている。自分に正義がないのに、争っているのだから、そのうちに、どちらも自滅するであろう。神に裁かれるのではない、自分が唱えたその裁きの言葉が自分に降りかかってきて、自滅するのである。

「あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである」(マタイ12:37)

 正義は人の主張を超えたところにある。人が義とされたいならば、裁判の席にでなく、カウンセリングの席にでもなく、キリストの十字架のもとに駆けこまなければならない。そのことを忘れさせるような主張は、全て人から出てきたものであって、神から出てきたのではない。
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貧しい人々への虐げと、争いや軽蔑から離れよう

一つ前の記事に、カルト化教会の被害者の存在について一言書いてみたが、結局、その記事を削除し訂正することにした。私情を綴る代わりに、聖書のみことばを抜き出しておこう。
今日のテーマは「ヤコブの手紙」だ。

「父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、
困っている孤児や、やもめを見舞い、
自らは世の汚れに染まずに、
身を清く保つことにほかならない。」(ヤコブの手紙1:27)

ヤコブは再三に渡って、貧しい人たちや困っている人々への具体的な支援を行なうことが、信仰に不可欠な行いであるとしている。

「わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、
もし行いがなかったら、なんの役に立つか。
その信仰は彼を救うことができるか。
ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、
あなたがたのうち、だれかが『安からに行きなさい、暖まって、食べ飽きなさい』
と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。
信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。」
 (ヤコブの手紙2:14-17)

皆さんに忘れないでほしいのは、異常なカルト化教会によって財産や労力をむさぼりつくされた被害者の多くは、異常な教会を脱した後も、未だ極貧の生活を営んでいることだ。
彼らの多くは心の回復に必要なカウンセリングも十分に受けられず、とにかく生活のために蟻のように働くことを余儀なくされ、予期せぬフラッシュバックに今も襲われ続けて、それが仕事や日常生活の妨げになっている。

カルト化教会の被害者たちの多くは、困難な状況から未だ抜け切れておらず、社会から、教会から具体的な助けの手を必要としている。
何年間にも渡って拘禁状態のような共同生活を送った人々が立ち直るためにどれほどの時間がかかるかを考えてほしい。戦争後遺症のようなトラウマが心に残っているのに、どうやって一人の力だけで立ち直ることができようか。なのに、被害者の立ち直りを彼らの自己責任としてしまうことはあまりにも残酷だ。

必要なのは、言葉だけの同情を与えることではなく、被害者と呼ばれる人々が、被害者でなくなって、一般市民として晴れて日常生活に立ち戻れるよう、具体的支援を差し伸べることだ。
どうか教会やクリスチャンがこのような人たちに、ただ「安らかに行きなさい」という空文句だけを投げかけて、何の助けも与えずに追い返すことがないようにと願う。

自分の懐からは何も出さず、むしろ被害者に献金を払わせて暮らしているような聖職者がいるならば、そんな生活が信仰の証となることは決してないだろう。
また自分自身は困っている人に何の助けも差し伸べないでおきながら、被害者が、自己憐憫の気持ちから同情を乞うていると非難するような人がいれば、その人もまた主の前に申し開きさせられることになるだろう。
私たちは、自分より弱い立場にある者に対して、常に憐れみの気持ちを持って、主にある兄弟姉妹として、決しておごることなく、彼らが必要としているものをいつでも提供できる人間でありたい。しかもそのような行いをした後でも、決してそれを人前で誇ることがないようにしたい。

また、ヤコブの手紙は、人間の「舌は火である。不義の世界である」と、自分の知識におごって無用な言葉を発することをいましめ、言葉によって人を傷つけることに警告を発している。
私自身もそうだが、人間は毎日のように言葉を選び間違えては、人を傷つけている。
それに、人はとかく自分の功績や努力を知恵として誇りがちである。
世間で有名になる仕事をすれば、それが自分の手柄であると思い、優れた学術論文を書けば、それが自分の手柄であるかのように思う。
子供を何人育てたとか、車を何台持っているとか、数限りない些細な事柄が、みんな人間の功績になってしまう。

しかし、ヤコブの手紙は、自分を知者だと思う者は、決して知識をひけらかすことなく、むしろ柔和な行いを実生活において示すべきだとしている。要するに、不言実行というわけだ。
さらに、もし「真理を知っている」と自分では思いながら、その人の真理が社会にただ争いやねたみを引き起こすだけのものなら、そのような知識は上から来たものではないとヤコブは言う。

クリスチャンが自分だけは正しい信仰を持っていると自惚れながら、少しでも自分と意見が違う人を見つけると、とかく争ってばかりなのを見て、キリスト教を嫌う人は世間に多い。
私たちは争い続けるために福音を聞いたのではない。
今日、教会のあり方をめぐって議論が続いているが、どこかの団体や、誰かに対する対抗意識や、他人に対する軽蔑の感情をバネにして自分の主義にしたり、そのような感情で連帯して新たな集団を作ったりするのでは不毛だろう。

カルト化教会のひどい現状を見て軽蔑し、間違った道を歩んだ人々を見下し、被害者を軽蔑し、全てを高みの見物のように見下ろしながら、自分だけはそんな誤謬に巻き込まれることなく正しい生き方をしているのだと自惚れるようなことが決してないようにしたい。
とにかく私たちは争いや軽蔑のために救われたわけでないのだから、傷ついたものを修復し、平和を作り出す人となることをまず意識するよう心がけたい。

「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、
誇り高ぶってはならない。
また、真理にそむいて偽ってはならない。
そのような知恵は、上から下ってきたものではなくて、
地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである。
ねたみと党派心とのあるところには、混乱とあらゆる忌むべき行為とがある。
しかし上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、
あわれみと良い実とに満ち、
かたより見ず、偽りがない。
義の実は、平和を作り出す人たちによって、
平和のうちにまかれるものである。」(ヤコブ3:14-18)

この言葉には圧倒される。私自身、再三に渡り、異常な教会や、貧しい人たちを虐げるような教会のシステムに警告を発してきた。己が栄光のために信徒をむさぼり食うような牧師たちの存在について告発してきた。
聖職者が信徒を搾取するような悪しきシステムが、あまりにも教界全体に行き渡っているため、このままだとニッポンキリスト教界につまずかされる信徒は増え続けるのみであり、教界全体がやがて社会的信用を失って、今残っている団体さえ、本当に沈没する(破滅する)ことは免れられないと、私のみならず多くの人たちが考えている。

だが、かといって、ニッポンキリスト教界を離れた人たちも、教界をただ軽蔑し、自分だけはそのような汚れとは無縁でありたいとの潔癖症から、腐敗した団体と袂を分かち、自惚れと自己正当化の高みから、新しい団体を創設するのでは意味がないだろう。
主には教会を惜しまれる気持ちが全くおありにならないだろうか。
今日のキリスト教界に語られているみことばは以下のものだと私は思う。

「主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。
むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。
あなたがたは心を翻せ、心を翻して、その悪しき道を離れよ。
イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。

(エゼキエル33:11)

これは、悪を離れないなら、死が待っているという前提で発せられたみことばである。
主は今日の多くの教会が陥った虐げとむさぼりの罪のために悲しんでおられるのではないだろうか。
主の憐れみは死んだ教会にも注がれている。だが、だからといって、私たちのなすべきことは主の憐れみを悪用することではない。一刻も早く、正義と公道に立ち帰り、貧しい者たちへの虐げから離れ、奪ったものを返し、償いをするならば、私たちは誰も滅びることなく、罪を赦されて生きるだろう。

「わたしが悪人に『あなたは必ず死ぬ』と言っても、
もし彼がその罪を離れ、公道と正義を行なうならば、
すなわちその悪人が質物を返し、奪った物をもどし、
命の定めに歩み、悪を行なわないならば、
彼は必ず生きる。
決して死なない。
彼の犯したすべての罪は彼に対して覚えられない。
彼は公道と正義を行なったのであるから、必ず生きる。」
(エゼキエル33:14-16)

果たして、ニッポンキリスト教界に救いの道があるのかないのか、異常な教えに傾倒していった教会がどこまで立ち直る可能性を持っているのか、私は知らない。(私には立ち直りの可能性は極めて低く、ゼロに等しいように見えるし、以前から言ってきたように、信徒が、あるかないかの立ち直りの可能性に期待して、異常な教会に所属し続けることは全く勧められない。)

だが、主なる神の御旨は「あわれみは、さばきにうち勝つ」(ヤコブ2:13)である。
私たちが心の中で何と思おうと、主はニッポンキリスト教界を惜しまれるだろう。それは主がこの教界にいるあらゆる人々の造り主だからである。だから主は誤った教会が破滅から救われるよう、早急に正義に立ち帰るよう求めておられると私は思う。

「愛する兄弟たちよ。よく聞きなさい。
神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富ませ、
神を愛するものたちに約束された御国の相続者とされたではないか。」(ヤコブ2:5)

腐敗した教会は貧しい人々をかえりみず、信徒の無知や弱さにつけこんで搾取を行った。私たちがその二の舞をしてはいけない。
神はこの世の貧しい人を選んで、信仰を与え、御国の相続者とされた。だから、私たちは貧しい人々や、病める人々、この世の弱者を軽んじず、大切に扱うようにしなければいけない。
心あるクリスチャンは、貧しい人々を搾取するような団体からは離れたい。そして、傷ついて、弱くなった者たちをかばい、ボロボロにされてきたキリストの肢体を修復し、自分の知識におごることなく、争わず、平和な信仰生活を送っていきたい。