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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(10)―義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

村上密が挑発的な記事を書いている。

自分は全国行脚の旅に出ており、各地から引っ張りだこで、宗教トラブル相談センターへの相談は尽きないという。

筆者の著作者人格権を侵害し、筆者を刑事告訴したとブログで発表し、控訴審で名誉毀損を主張されても、仮に自分が刑事告訴されたとしても、そんなことでは、自分の率いるセンターはびくともしないと言いたいらしい。

まるで「ヴィオロンよ、俺の首を討ち取ってみろ、そんなことができるわけがない。センターは永遠だ」と言いたげな記事に感じられる。

だが、このような状況で、このようなことしか書けないとは、本当に愚かなことであると筆者は思う。こうした話には、「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」(箴言16:18)との御言葉を繰り返すのみである。

村上はこれまで高慢さゆえに、ことごとく自らの言葉につまずいて来た。むしろ、筆者にとって、村上がこのような多忙状況に置かれていると知らされることは、まさに幸い以外の何物でもない。

ここ一年間、筆者は民事訴訟における戦い方を学んできた。次回期日までに一カ月程度の時間しかない中、複数の仕事をかけ持ちしながら、準備書面を用意することは、並大抵の苦労ではない。しかも、筆者はそれを2名の被告相手に、他の様々な煩雑な作業と並行して成し遂げて来たのである。

その作業が、これから村上に落ちかかることとなる。控訴審では、村上は本格的な防御に回らなければならないからだ。これまでのように、杉本を盾のように利用しながら、杉本と筆者との全面対決を傍観者的に見ていられる立場ではなくなったのである。

控訴審で村上とどのような議論になるか、そのロジックの基本部分は、判決では全く認められなかった杉本の書面からも十分に拝借できる。むろん、第一審でも、筆者はそれを利用したが、筆者はこれから杉本の主張を裏返しにして、村上に適用して行くことになる。まずは真実性・相当性の法理である。

村上は私人ではない。TVの記者会見に出演し、数多くのカルト被害者の訴訟にも支援者として関わり、宗教トラブル相談センターを率いて、自らカルト問題の専門家を名乗っている著名な牧師である。以上の記事でも、村上自身が、自分は全国から引っ張りだこになっているかを強調している通り、村上の活動は、社会の関心事であり、それゆえ、村上の活動を筆者が批判したとしても、その内容が公共の具体的な利害に関係しており、なおかつ、摘示した事実が真実もしくは真実であると信ずるに相当な理由があり、その批判の目的が、もっぱら公益を図ることにあれば、その批判が、村上の社会的な評価を低下させるものであったとしても、名誉毀損とはならず、違法性阻却事由に該当する。

それに引き換え、筆者は私人であり、筆者の執筆しているブログも限定されたテーマであるから、それに対する非難が公共性のあるものと言えないことは一審でも認められている。

そこで、村上はこの先、筆者の記事がなぜ違法性阻却事由に該当しないと言えるのかを自ら証明し、さらに、村上が発表した記事が、筆者に対する名誉毀損にも該当しないことを自ら証明するという二段階の論証をせねばならない。

その他にも、そもそも刑事告訴がなされたのかどうか、これを客観的に立証するのも、村上の仕事だ。

それに加えて、村上は4月1に発表した人格権の侵害が不法行為に当たらないことをも主張して、自己防御せねばならないが、こうしたことは、すべて相当な困難を極める作業となるはずである。

しかも、村上は一審判決が言い渡されるや否や、すぐに筆者の人格権を侵害しつつ、事件について触れた記事を発表し、さらに筆者が控訴したことを、筆者に先んじて発表し、それ以外にも、筆者を名指しで批判する記事を発表している。

こうした一連の記事に、筆者は当然ながら、反論する権利を有する。ただ反論内容が気に入らないということで、名誉毀損が成立するはずもない。

そこで、村上が主張している名誉毀損が、成立の条件を満たしていない場合には、当然ながら、虚偽告訴罪が視野に入って来ることになる。民事でまず村上の主張を崩し、次に刑事事件でこれを無効化し、最終的には、虚偽告訴罪を主張して行くという段取りになるだろう。

このように、村上が軽率にブログで蒔いたいくつもの種は、これからことごとく村上に極めて厄介な問題となって跳ね返るものばかりである。正直に言えば、今の筆者から見て、村上が今、専念すべきは、宗教トラブル相談センターの活動を自慢することではなく、この訴訟において、これだけ不利な要素を抱えながら、確実に勝利できる手立てを必死に考えることである。
 
筆者から見て、村上が以上に挙げた問題について、不法行為を主張されないための十分な反論を行うこと自体が極めて困難であるばかりか、村上が現在のように訴訟を見くびった態度で、他の仕事に専念している状態では、到底、勝つことはできない。

準備書面を作成するのは、ただでさえ全国を忙しく飛び回っている牧師には、相当な負担となるであろう。きちんとした論を展開するためには、まとまった時間が必要であり、何より自由に物事を熟考するための余裕が必要である。

いくつもの仕事の合間に、細切れに文書を作成することは、極めて難しく、思考がとぎれとぎれになり、主張が明確化できない。論敵に反論するのは、ただでさえ厭わしい仕事であるから、逃避の手段が他にあれば、すぐにそこから逃げてしまうのが人間である。

自分の考えもまとまらないうちに、下手に弁護士に丸投げすると、ますます支離滅裂で筋の通らない理屈を立てられ、敗北へと誘導されるだけである。

筆者は、訴訟が時間との戦いであり、主が采配して下さらなければ、このような戦いを完遂するための条件を、自力で整えることは不可能であることを知っている。

訴訟に勝つためのポイントは、まずは時間的制約という問題を取り払い、この問題において、論敵よりも圧倒的優位に立つことである。

別の言葉で言えば、その争いにどれほど強い思い入れがあり、自分の望む結果を得るために、どれほど時間と労力を惜しみなく投入できるかが、勝敗を分ける。勝つためのロジックは、まず時間的余裕があって初めて生まれる。時間と労力において、論敵よりも不利に立たされながら、訴訟で勝利をおさめることは、まず不可能なのである。

そこで、この時間的制約という厄介な問題を、可能な限り取り払うためには、何よりも、自由であることが必要だ。この問題は、訴訟だけでなく、すべての物事に共通する。自由こそ、勝利のための基礎なのである。

そこで、多くの人々から呼びつけられ、歓迎され、引っ張りだこにされていることは、「これだけ私は社会で必要とされているのだ」という満足感を本人にもたらし、自慢話の種にはなるかも知れないが、それは裏を返せば、自分の必要のためでなく、人々の必要のために、絶えず時間を費やさせられ、奔走させられていることを意味するから、自己を防御するための時間は、その合間にしか残らない。このような状態は、極めて無防備と言えるのであって、こちらから見れば、まさしく好都合でしかないのである。

村上が控訴審の議論も、A4・3枚で事足りると考えているのかどうかは知らないが、その「簡潔な」書面で、以上のような極めて複雑で厄介な問題をどのように整理できるのか、まずはお手並み拝見と言えよう。繰り返すが、弁護士に依頼したからと言って、本人がきちんと考えてもいないものを、弁護士でさえ補えない。唐沢治の弁護士が作成したような書面では、ほぼ勝ち目がないことは、はっきり断言できよう。

神の御前で本質的に重要な事柄をおざなりにしながら、自分の栄光のために東奔西走したとしても、それは滅びにしかつながらない。心を静かにして、御前に立ち止まり、人間の思惑から離れたところで、自分の問題をすべて主に委ね、心を注ぎだして解決を求める謙虚さが必要である。

* * *
 
さて、掲示板では、ビュン事件の性暴力の被害者もしくはその関係者と見られる信者(?)の女性が、当ブログをひどく中傷し、おびただしい数の権利侵害を繰り返しながら、当ブログが性被害事件に理解がないと責めている。

だが、こうした言い分に流されて、カルト被害者を巡る裁判に肩入れすることが、いかに危険であるかを考えてもらいたいと筆者は思う。

掲示板では、次のような趣旨の投稿があるのを筆者は読んだ。2009-2010年にかけて、「唐沢治から密室で呪いの予言を受けた」と杉本ブログに書き込んだKFCの元信者が、当時、杉本ブログの関係者に被害を訴えて泣きついたところ、このブログに深く関わっていた黒幕のような人物から、唐沢に対して訴訟を起こせ、さもなくば、俺たちに金を払え、と脅され、元信徒は杉本ブログを取り巻いているヤクザのような連中に恐れをなして、彼らの陣営から逃げ出したのだと。

むろん、こういった話の真偽のほどは定かではないが、これは十分にあり得ることだと筆者は考えている。ここに、なぜカルト被害者救済活動の支持者らが、訴訟にこだわるのかという理由がよく表れているものと思う。

つまり、KFCの元信徒の訴えた被害は、カルト被害者救済活動の陣営にとっては、新たな訴訟を起こして賠償金をせしめる絶好のチャンスと映ったと考えられるのだ。彼らは元信徒の訴訟を助けるように見せかけて、これにたかり、賠償金をせしめようと考え、元信徒を訴訟に焚きつけようとしたが、元信徒がこれをためらったので、目当てとしていた金が手に入らないと踏んで、手のひらを返して彼を恫喝し始めたのである。まあ、ゆすり、たかりのようなものであろう。

安易にカルト被害者救済活動に接触すると、このようなひどい目に遭わされるという教訓である。また、訴訟を支援するように見せかけている人々の本当の目的が、被害の克服にではなく、訴訟で得られる金にある様子もよく見えて来る。

掲示板でも指摘されている通り、ビュン・ジェーチャンの事件では、被害者は民事で四桁の賠償を勝ち取った。むろん、性被害事件のすべてがこのような高額の賠償で終わるわけではない。むしろ、個人が性被害を訴えた事件では、被害の認定さえも行なわれないで、敗訴に終わるケースは少なくない。

その点、ビュン事件は、被害者が団結してメディアなどでも被害を訴え、世間から注目されていたことなど、様々な条件が有利に働いて、以上の結果が出た。もちろん、このような好条件が整えられたのも、カルト被害者救済活動の側からの効果的な演出によるもので、偶然ではないと見てよかろう。

だが、それゆえに、おそらくは、この事件で被害者に支払われた賠償金の何割かは、この訴訟をバックアップした陰の支援者たちに、「謝礼金」としてキックバックされたのではないかと考えられる。

むろん、こうした話は、闇から闇へと消えて行くものであって、確かな証拠を提示することは難しいとはいえ、業界の常識を考える限り、暗黙の了解として、そういうことが行われているのではないかと考えるのは妥当である。

たとえば、音楽の業界でもこういうことがある。バイオリンを習っている生徒が、新たな楽器を購入したいと考えて、自分の師匠に相談したとして、師匠が懇意にしている楽器商を生徒に紹介し、生徒がその楽器商から新たな楽器を購入すれば、その購入代金の3割程度が、楽器商から紹介した師匠にキックバックされる。

あるいは、労働紛争を考えてみれば、もっと分かりやすい。労働紛争を専門に担当している弁護士、NPO法人、ユニオン、組合などは、すべてボランティアではなく、成功報酬型の商売である。彼らは労働者を助けてやると言いいつつ、労働者の問題にたかって利益を得ている。労働者の訴訟を支援する代わりに、勝訴した場合の賠償金の少なくとも2割程度は、成功報酬として彼らに差し出される。

従って、労働紛争も、被害者ビジネスとして大いに利用されているのであって、訴訟の支援者たちは、成功報酬の一部を受け取ることで、それを利益としている。その中で、カルト被害者の裁判だけが、例外ということはまず考えられない。四桁の賠償金の2~3割となれば、相当な金額に上る。
 
つまり、カルト被害者の裁判は、これを陰から支援している代理人や支援者にとっては、実に美味しいビジネスになりうるということなのである。
 
筆者は、杉本徳久のような人物が、カルト被害者から恒常的にキックバックを受けていたと言っているわけではない。むしろ、杉本ブログは、特に初めの頃は、カルト被害者の裁判をビジネスの手段としている人々に、都合の良い宣伝広報係として、大いに利用されていた可能性があるものと思う。

このように、KFCの元信徒を巡る話を考えてみる限り、非常に強欲な勢力が、杉本ブログの背後に着いていて、金儲けのために、杉本にどんどん被害者の訴訟に関する記事を発表させたり、杉本ブログに助けを求めてやって来る被害者を食い物にしようと待ち構えていた可能性が、考えられないことではないのだ。

そこで、いかに真偽のほどは分からないとはいえ、訴訟を巡っては、実際に高額の金銭が動くのであって、表向きの美談だけを見て、カルト被害者の支援者を名乗る者たちが、正義の味方だなどと思い込むことは、極めて浅はかかつ危険であると筆者はみなしている。

カルト被害者の訴訟を、ビジネスの手段として利用している様々な勢力が存在している可能性があること、彼らが被害者の弱みにたかり、栄光と金をむしり取っている可能性があることを疑ってみなければならないのだ。
 
そしておそらく、2009年当時から、それがすでに実状となっていたからこそ、被害者意識が(加害者意識と表裏一体の)罪深いものであることを指摘し、これを聖書にさからう悪として、神の御前に投げ捨てる必要を訴え、被害者を一方的に美化する活動の危険を訴え続けて来た当ブログは、カルト被害者救済活動の陣営から見れば、非常に目障りだったのだと言えよう。

むろん、村上密も、カルト被害者の裁判に、支援者・代理人として関わっている。上記の記事で、村上は、「北海道の山々はまだ雪に覆われている。ここでの仕事が終われば沖縄での仕事が待っている。それから富山、茨城、神奈川、東京、大阪、奈良、石川、宮城、沖縄、東京、福島。宮城、奈良、東京、大阪、沖縄と二月間の巡回の予定である。」と記しているが、こうした活動も、基本的には、被害者の相談に乗ったり、被害者の会合に参加することを指しているものと見られる。

だが、一体、それだけの旅費・交通費はどこから出るのか、という疑問が湧いて来るのは当然であろう。まさか京都七條基督教会が単独でそこまで負担するはずもない。だとすれば、その旅費の大半は、おそらくは村上を招いた人々が自主的に負担しているのだろうと見られる。

もちろん、旅費のみならず、牧師を招聘し、メッセージやカウンセリングを依頼するとなれば、招聘した側の人々は、それにも謝礼を支払うであろう。だが、そうした献金は、活動報告と共に、京都七條教会の会計に上がって来ることはないものと考えられる。

従って、カルト被害者救済活動には、訴訟における賠償金のキックバックだけでなく、こうした日常的な活動においても、誰の目にも触れないところで、被害者から牧師に渡される極めて不透明な資金の流れがあることが予想される。

これは村上に限ったことではない。村上の登場以前から行われていた、統一教会からの信者脱会運動などにも同様に当てはまることである。カルト被害者の家族が、カルト宗教の信者となっている娘息子の脱会を牧師に依頼した場合、その牧師に、娘息子が取り戻されてから直接、手渡した謝礼金というものが存在するはずである。それは教会の一般の会計報告には上がって来ない、闇から闇へと消える金である。そして、おそらくは、この不透明な資金の流れこそが、一部の人々が、いつまでもカルト被害者救済活動から離れられない理由ではないかと筆者は見ている。
 
カルト被害者たちは、裁判を起こせば、勝訴した後も、被害者の会を結成し、いついつまでも、訴訟を支援した者に、「先生、ありがとうございました」と頭を下げつつ、定期的に支援者を自分たちの会合に招いて集会を持つ。彼らは、それが立ち直りのために必要なことであると考え、自分たちはこの先生に助けられてこそ、今の人生があると考えているので、招聘の度ごとに、食費、旅費、交通費、謝礼金などを喜んで負担する。その他、相談料、献金など、様々な名目で金銭の受け渡しや便宜供与が行われる。

もちろん、そのような会合を何度重ねたところで、彼らはキリストに至り着くことなく、心の解放を得られるわけでもない。むしろ、生涯に渡り、訴訟の代理人・支援者となった者と、心の癒着が生じ、受けた被害から離れられなくなって行くだけなのである。
  
今後の記事では、このようにビジネスとして他者から食い物にされないためにも、人が被害者意識そのものを捨てることの必要性について触れたいと考えている。特に、性被害事件のトラウマを引きずり続けることは、人間の男女の健全な関わりを生涯に渡って壊してしまう恐れがあるだけでなく、神と人との関係をも、根本から破壊する恐れがあるためである。

聖書によれば、神と人との関係は、小羊とエクレシアの婚姻になぞらえられている。そこで、性被害事件の被害者が、その事件のトラウマのために、地上における男女の健全な関わりのイメージが傷つけられ、穢され、壊されたままで、小羊とエクレシアとの婚姻の問題だけを、健全に考慮するということは、非常に難しいであろうと考えられる。

つまり、地上において受けた被害が、魂の傷となるだけでなく、霊的にも非常に深い傷となって残り、神との正常な関係を妨げ、傷つける恐れがあるのだ。

筆者は、何らかの事件に遭遇すれば、合法かつ正当なやり方で、これを解決することに反対するつもりはない。物損事故は、弁償されればすぐに終わるであろうし、名誉毀損事件も、賠償で終えられるかも知れないが、性被害事件のような事件のトラウマは、決して金銭で解決できる種類のものではない。受けた心のトラウマは、どれほど高額な賠償を得たとしても、それによって払拭されない。

そこで、受けた被害を神の御許に持って行くという行程が必要となる。だが、カルト被害者救済活動の支持者たちは、いついつまでも被害の思い出から離れることなく、決してその傷を神の御許へ持って行き、解消するよう促さず、かえって被害者であることを強調しつつ、まるで被害を記念するような会合を持ち続けている。

そのようなことをしている限り、彼らのトラウマは、消え去るどころか、ますます強化される一方である。そして、健全な自己イメージを回復できず、かえって傷つけられた自己イメージを、あたかも正常な自分自身であるかのように勘違いし、その結果として、地上における男女の健全な関わりが不可能になるだけでなく、神との関係においても、傷つけられた自己イメージを持ち続けることによって、恵みから疎外されることとなり、やがてその被害者意識が、キリストの完全性に悪質に逆らう罪にさえなって行く。

筆者の書いていることが厳しすぎると考える人々がいれば、掲示板で、今、カルト被害者を擁護する人々が、当ブログに対して、どれほど悪質な誹謗中傷を加えているかを見てみれば良い。このような汚い言葉を他者に向かって平然と吐き捨てることができる人たちが、本当に被害者の味方であろうか。また、仮に自身が被害者であったとしても、自分を憐れむあまり、他者に対してこうまで残酷となり、狼藉を加えることがどうして許されるであろうか。

しかし、当ブログでは10年ほど前から、カルト被害者を名乗る人々に接触し、彼らの中には、このようにまで自分の被害から離れられなくなり、自分は受けた被害のゆえに、自分は人々から無条件に憐れまれるべきで、何をしても許されると思い込むほどまでに、人格が腐敗し、幼稚化してしまった人たちが混じっていることを見て来た。

こうした被害者意識をこそ、私たちは主と共なる十字架において死に渡し、手放して行く必要がある。裁判で社会的決着が着いた後も、いついつまでも被害を記念すべき会合など持ち続けて、支援者を名乗る人々に束縛され、利用されている場合ではない。その被害の思い出そのものを、罪深いものとして手放し、きっぱりと捨て去って、新たな出発を遂げ、被害者であるというステータスと訣別しなければ、その被害は、やがて山火事のように、あなた自身を食い尽くすことになろう。

当ブログは、聖書の御言葉に基づく信仰に立つものであるから、性被害を訴えることが目的でもなければ、カルト被害者の裁判の模様を発表することを目的ともしておらず、カルト被害者を擁護することも目的としていない。それゆえ、カルト宗教における性被害の問題は、ほとんど取り上げることもなく、詩織さん事件などについても、これまで何も言及して来なかった。

筆者は、詩織さんの事件についても、深い懐疑の念を持っている。それは、詩織さんという一人の女性が、あまりにも美化され、彼女がまるで性被害事件の象徴のようになって、一人歩きしていることに、大いなる疑問を感じるからである。自分が遭遇した一過性の事件として、彼女がこれを解決するならば、それは大いにすれば良いことである。もちろん、弱さを抱えている若者を食い物にする現在の日本社会の問題も一緒に論じられることは構わない。

だが、当ブログが懐疑するのは、彼女に群がって、彼女を美化し、神話化し、象徴化し、生涯に渡り、彼女を性被害を受けた被害者の象徴として祀り上げ、これを存分に利用しようとしている実に数多くの人々や団体があることである。

そして、それに利用されれば、彼女は生涯に渡り、自分が受けた一過性の被害から抜け出ることができなくなり、自分の人生を失って、絶えず被害者の象徴として、無数の人々の被害を代弁しながら、悲劇の人として生きて行くことになるであろう。そして、そのような役割を、もしも彼女が喜んで引き受けるとすれば、そこには、ただ彼女を担ぎ上げた団体や人々の思惑が働いているだけでなく、彼女自身がこの事件に遭遇するよりも前から、心に持ち続けていた何かの問題、弱者性から抜け出ることのできない世界観が、影響を与えているのではないかと筆者は見ている。(彼女の世界観がどのようなものであるかは、彼女が制作した作品を見れば分かるであろう。)

つまり、当ブログでもずっと主張しているように、カルト被害者が、被害に遭遇したのには、何かの理由が存在するのであって、被害者はいかなる心の弱さが自分の側にあって、それが暗闇の勢力がつけこむ隙となったのかについて、よく考えてみなければならない。この問題を考えるよう促すことは、断じてセカンドレイプではない。なぜなら、弱さがあればこそ、被害者はつけこまれたのであって、そこには、当然、心の弱さも含まれており、その弱さを克服することができなければ、何度でも、同様の問題に巻き込まれることがありうるからである。

神はキリストにあって、私たちを完全にしようと願っておられる。そこで、私たちは、その完全性を受けとるために、自分の弱さを知り、それを神の完全に逆らうものとして手放しつつ、その弱さを主にあって補われ、克服できることを知らなければならない。自分は弱いかも知れないが、神の強さによって覆われる道が開かれているのだから、いつまでも弱さの中にとどまり続ける必要がはない。

事件に立ち向かうことを通して、自分自身の心の中にも、克服すべき弱さが存在することを知って、その領域を光によって照らされ、より完全な人としての自己意識へたどり着くことが必要である。
 
筆者が述べていることの意味がまだ分からないという人のために、別なたとえを述べよう。筆者が掲示板の誹謗中傷の書き込みを、名誉毀損の被害として訴訟で訴えたとして、それは単に一過性の事件に過ぎない。筆者はそれを機に、生涯、掲示板における誹謗中傷の問題を世に訴え、これと戦うために、活動家に転身しようなどとは全く思わないし、そのようなことは実に馬鹿げたことである。投稿者が判明し、賠償をさせれば、その時点で、何が書かれたにせよ、その問題は、以後、終わったものとして考えるだろう。

それなのに、一度、掲示板の投稿者を敗北に追い込んだことで、これをいつまでも掲示板への勝利の記念として、会合を開いては、そこにいかなる誹謗中傷が書かれたのか、つぶさに文言を読み上げて、自分がどれほどそれによって深く傷つけられたかを思い出し、涙を流すようなことは決してしない。むしろ、毅然と立ち向かったがゆえに、敵の嘘をきっぱり退けて、この問題を克服し、虚偽の投稿によって自分の心を傷つけられず、それを鵜呑みにすることもなく、心の平和を無事に保ったことをこそ、喜ぶであろう。

もちろん、そうなるまでには、多くの月日が必要かも知れないが、一旦、一つの問題を解決したならば、もはやそれは心に影響を及ぼすことはない。その後、筆者はまた別のより困難な問題に取り組むかも知れないが、それは、掲示板とは全く別の新しい問題である。筆者はその新たな問題をも克服して、前進して行くであろう。このようにして、絶え間なく前に進んで行き、そこで自分の心の弱さと取っ組み合って、これを打破し、勝利をおさめ、さらに前進して行くためにこそ、人は試練に遭遇するのだと筆者は考えている。

従って、一つの課題をクリアしたのに、その問題にいついつまでもとどまり続け、いついつまでもとらわれ続けることは、有害である。一つの問題を解決したならば、それを後にして、前に進んで行くべきなのである。

このように、起きた事件を一過性のものとして決着をつけることと、生涯、自分をその問題の被害者の立場に置いて生きていくことは、全くわけが違う。だが、被害者に群がって、これをビジネス化する人々は、被害者の像を無限大に美化し、神話のように祀り上げることによって、かえって被害者が生涯に渡り、その問題に束縛され、被害者としてのステータスから抜け出るチャンスを失うように仕向ける。

その結果、彼らは、神にあって約束されている健全さ、完全性を見失い、傷つけられた自己イメージを生涯に渡って持ち続けることになり、その中を生きるようになる。一つの問題を克服して、次なる次元に進むことさえ、できなくなって、生涯、一つの問題の中だけにとどまり、それにとらわれて前進することができなくなってしまう。そのようにして、被害者自身もそうだが、それに群がる無数の人々が、被害者の像を美化することで、被害者を「被害者性」の中に閉じ込め、永遠にそこから抜け出せないように仕向けて行くことは、神が約束された人間の自由と解放に悪質に逆らう行為であり、非常に罪深い行為であると筆者はみなしている。

* * *

さて、本日の当ブログのテーマに戻ろう。まず最初に、オリーブ園に掲載されているオースチンスパークスの論説を挙げておきたい。この記事には、キリストと教会の結婚の奥義について、詳しく書いてあるからである。
 

 「キリストとの合一」第五章 夫婦の合一(4)


交わりと配偶

 これを二、三の単純な、自明と思われる点にまとめることにしましょう。最初のアダムの最初の夫婦関係という絵図・型に沿って、これに注目して調べることにします。そして、「これに関する神の御思いは何だろう」と問うことにします。そうするなら、それらの御思いを、あらゆる関係の中で最も幸いな関係の中にあるキリストと教会、キリストと私たちに適用することができます――確かに、これはキリストとのすべての関係の中で最も幸いな関係です。神の御思いは何だったのでしょう?

 まず第一に、聖書が示すところによると、神が女を創造してこの合一を生み出そうとされたのは配偶のためでした。「人が一人でいるのはよくない」(創二・一八)。これに尽きます。しかし、それには豊かな内容があります。これをキリストと教会に適用するのはおこがましく思われますが、それでも、キリストに対する教会の関係――教会はキリストの妻です――には、これを確証・証明する多くの他の要素や特徴があります。

これはこれだけではありません。旧約聖書の中には花嫁の型がとてもたくさんあり、その思想をキリストと教会に適用するに足る十分な証拠に満ちています。それらがキリストと教会を指し示している証拠や証しがふんだんにあります。今はその学びに取りかかるつもりはありませんが、確かにあります。証拠はたくさんあります。ですから、おこがましく思われるかもしれませんが、私たちはこの点を私たちの主との私たちの関係に適用することができます。すなわち、教会を神が創造されたのは、御子の益を促すためであり、御子のために配偶を願ってのことだったのです。

 地上におられた時の主イエスを見ると、彼がどれほど交わりを求めておられたのかを見落とすことはありえません。おそらく、彼が語られた最も悲しい言葉の一つは――「あなたたちは(中略)私を独り残すでしょう。しかし、私は独りではありません。父が私と共におられるからです」(ヨハ一六・三二)という言葉です。これによって彼の発言が弱まったり相対化されるわけではありませんが、「私は独りです」という彼の言葉には悲しい響きがあります。彼が常に配偶を求めておられたことは自明です。彼は人であり、他者の必要を感じておられました。それは神聖なものです。キリストは交わりを求めておられます――「交わり」というこの言葉を取り上げる新約聖書の方法は素晴らしいです。これは何と豊かな言葉でしょう!自分のコンコーダンスを調べてみてください。そうすれば、「交わり」というこの言葉の原語がわかります。そうするだけでも豊かな学びと黙想になります。確かに、とても貴重な経験になります。「あなたたちは御子の交わりの中に召されたのです」(一コリ一・九)

 これは、まず、夫婦の合一、配偶もしくは交わりの思想、観念を表しています。第一に、配偶に先立つ交わりは交わりにすぎません。この関係の最初の調べ、支配的調べはまさに交わりです。

 交わりとは何でしょう?交わりは生活と目的の一体化です。キリストは生活と目的が御自身と同じ人々、御自身の心と一つ心である人々を望まれました。あなたや私はそのような関係の中に召されました。あなたや私が主イエスに、御自身の生活や目的と一体化した人々を求める深い心の願いと願望を起こさせなければならないとは、高遠なことであり、聖なることであり、貴いことです。今述べるのはこれだけですが、これが夫婦の合一の意義の第一歩です。



ここに、キリストと信者(エクレシア)の交わりの本質は、「生活と目的の一体化」であると記されていることは、注目に値する。

なぜなら、数多くの信者が、キリストとの交わりとは、日曜礼拝に参加することや、甘美な讃美歌の調べに身を委ねること、説教を聞くこと、パン裂きの儀式に関わることや、兄弟姉妹と交流することなど、何か宗教的な名目のついた心地よい体験に浸ることだと勘違いしているからである。

もしくは、ある日突然、天から神の啓示が下り、キリストが自分に対して特別にご自身を現して下さり、何か尋常でない恍惚体験に浸ることを、神との交わりであるかのように勘違いしているる人々もいる。

確かに、神は信じる者に、ご自身を啓示して下さることがないわけではないが、オースチンスパークスは、以上のような感覚的な享楽や、恍惚体験が、神との交わりであるかのような考えをきっぱり退け、主との交わりとは、「生活と目的の一体化」であると断言する。

そこからも分かる通り、主との交わりとは、信者の生活のあらゆる場面が、ただ一つの目的――御国の前進、御心の実現――のために集約されて行くことを言う。別の言葉で言えば、それは信者が、自分の人生のすべてを神のために捧げ、神の満足のために生きることを言う。

それは決して信者が神学校に行って牧師になったり、伝道師や宣教師になったりすることを意味しない。

信者の人生の一瞬一瞬のすべてが、ただキリストのために、キリストの満足を目的として捧げられることを指している。

パウロは自分に与えられた人生の時間を、すべて主のために注ぎだしたいと考えた。彼はただ神の満足のために生きたいと願っていたので、それゆえ、自分の時間をそれ以外のことに費やすことを惜しんだのである。

もしもパウロが地上で妻を得れば、彼は伴侶を喜ばせるために、たくさんの気を遣わなければならなかったろう。子がいれば、多くの世話をしてやらねばならない。家庭を持てば、パウロ自身も、満たされることはあるかも知れないが、彼は感覚的満足と引き換えに、自分の時間と労力を、人間のために捧げねばならなくなる。だが、パウロは、自分の持てる時間を、自分の満足のためでなく、神の満足のために捧げたいと考えた。

パウロが誰よりも喜ばせたいと考えていた相手は、人ではなく神であり、そうすることが、他のどんな事柄りも尊い価値ある生き方であることを、彼は知っていたのである。

さて、オースチンスパークスの論説からも伺えるのは、神の悲しいまでの孤独、配偶を得たいと願われる切なる御思いである。

「人が一人でいるのはよくない」(創二・一八)――この言葉は、神の独り言と言って差し支えない。神は天地を創造され、人を創造された際、人(アダム)のために助け手(エバ)を造られた。しかし、ご自身はまだ助け手を得ておられなかった。

そこから、悲劇が始まる。人類は本来、神の配偶(助け手)として造られたのに、創造された次の瞬間、神を裏切り、悪魔の支配下に下った。

神は人類を滅びから救おうと、独り子を地上に遣わされたのに、弟子たちは主イエスが十字架にかかられる前、主を裏切って逃げた。

かの有名なイザヤ書53章には、イエスが地上におられた際の孤独が、どれほどのものであったかを伺わせる記述がある。

「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った。

見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。

彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。

彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。

彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。

苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を刈る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。

捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。

彼は不法を働かず
その口に偽りもなかったのに
その墓は神に逆らう者と共にされ
富める者と共に葬られた。

病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは
彼の手によって成し遂げられる。

彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。

それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、
死んで罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。」

さて、筆者が、当ブログに対して向けられる中傷のすべてが、筆者個人に向けられたものではなく、実は、筆者の背後におられるキリストに向けられたものであることに気づいたのは、ここ最近のことである。

村上や杉本のような人々は、当ブログの内容が、かねてより「創作」であり、嘘に満ちたものであるかのように非難していた。

しかし、杉本がある時、はっきりと聖書は神の霊感を受けて書かれたものでなく、人間の書いた書物に過ぎないと告白し、人類の堕落も、ノアの洪水も、サタンも悪霊も暗闇の軍勢も、みなファンタジーのような比喩に過ぎないと書いたことにより、筆者は、この人々が、当ブログをファンタジーの産物であるかのように述べているのは、実は当ブログの記述の背後にある聖書の御言葉に対する攻撃であることに気づいた。

彼らは、当ブログを「創作」であるとみなしているだけでなく、その背後にある聖書の御言葉をも「創作」だと考え、その真実性を信じていないのである。

今、掲示板等で行われている筆者に対する人身攻撃もそれと同じである。上記の御言葉を参照するならば、キリストには、「見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もな」かったのであり、「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」とある。

これは不思議なことである。一方では、キリストはそのまことの命を人々に分かち与えられたことにより、多くの人々から慕われ、大勢の群衆に囲まれていた。ところが、他方では、彼には、堂々たる風格も、人目を引く容姿もなく、むしろ、人々から軽蔑されて、拒絶され、顔を背けられ、孤独で、見捨てられ、嘲られていたとある。

人々は、自分にとって利益となるものを見いだせる間は、キリストに群がり、その後を追ったが、いざキリストが苦難を受けられると、自分は一切、関わりたくないとばかりに逃げ去って行った。

地上におられた時のキリストの圧倒的な孤独――これは、父なる神の孤独にも重なるであろう。十字架において死の瞬間に、主イエスが、「父よ、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれたのは、ただ罪のゆえに神と断絶して見捨てられた人類を代表する叫びであるだけでなく、配偶を失った父なる神の叫びにも通じるように思う。

神は人類をご自分の助け手として創造されたのに、人類は神を裏切り、見捨て、蔑んで去った。「私は、私の助け手、花嫁とすべく、人類を創造したのに、なぜ人類は、花婿なる私を見捨て、嘲り、踏みにじって去って行ったのか――」主イエスの叫びの中に、神の人類に対する言い尽くせない悲しい叫びが込められ、それが主イエスの言葉の中で、互いに響き合っているように感じられる。

だが、神は十字架の死と復活を通して、ご自分が望んでおられる新しい人を取り戻された。そして、主に連なる人々は、キリストと同じように、神の御心を満足させるために、この世から取り分けられ、召し出された人々である。
 
そのようなわけで、神は今日も人類をご自分のために招いておられる。私たちは、ある時、そのことに気づき、ふと立ち止まって、この召しに応えるかどうかを考えさせられる。

筆者は「わたしについて来なさい」という主イエスの呼び声に応え、神の満足のために身を捧げて生きたいと願う。ところが、ある人々は、これを幻聴だなどと言って嘲笑っている。神が最も願っておられることを嘲笑う――神が人類に与えられた最も貴い召しを嘲笑う――何と恐ろしい冒涜的な考えであろうか。

主の御心は、小羊の婚礼にこそあり、神はご自分の配偶を得て満足したいと願っておられる。神がまだ満足しておられないときに、どうして私たちだけが、地上で先に満ち足りて幸福になって自己満足してしまってよかろうか。

キリストが人々に拒絶され、蔑まれ、見捨てられ、踏みにじられ、栄光を傷つけられたままなのに、どうして私たちだけが、人々に受け入れられ、尊ばれ、喜ばれ、誉めそやされて、担ぎ上げられ、栄光を受けて良かろうか。

筆者が御国のために献身し、神の国の働き人となってから、筆者に対する暗闇の勢力からの攻撃は、以前にもまして激しさを増した。暗闇の勢力は、筆者の召しを嘲笑い、孤独を嘲笑い、容姿を嘲笑い、生活状況を嘲笑り、筆者に属する何もかもを、徹底的に罵倒し始めたのである。

だが、そのような罵倒は、上記の御言葉を見る限り、まさにことごとく主イエスが受けられた嘲りにそっくり重なる。

主ご自身は、地上で軽んじられ、嘲られ、拒絶された。犯してもいない罪のゆえに断罪され、奴隷としての死を担われた。そこで、筆者は、筆者に向けられたいわれのない非難や罵倒の中に、まさに主に対して向けられる非難や罵倒、冒涜の言葉を見ずにいられない。

そういうわけで、私たちは、今日も御名のゆえに、罵られたり、迫害されることにあずかっているわけだが、これはキリストの苦しみにあずかることであるから、実に幸いなことだと筆者は考えている(もちろん、これは誹謗中傷の罪が免責されるという意味ではない)。

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」(マタイ5:10-12)

私たちは、こうして実に不思議な形で、キリストが地上におられた時に味わわれた苦難の一端を、共に担うという幸いにあずかることができるのである。

地上でも、親友の絆は、共に苦労を乗り越えた時に生まれる。夫婦の愛も、喜びと悲しみを共に分かち合うことによって深まるだろう。どんな人間関係であれ、苦しみを共に乗り越えた体験がなければ、深まらない。そこで、主イエスは、地上でご自分が経験された孤独や悲しみや痛苦しみみを、ご自分に従う人々にも、少しばかり、分かち与え、共に担って欲しいと願っておられるのではないだろうか。

だから、神との関係において、私たちは御手から、ただ喜びや、祝福だけを受けとるのではなく、神が感じておられるであろう悲しみや孤独、痛みや苦しみを、その片鱗でも良いから、託されることは、実に大きな信任のゆえではないかと思わずにいられないのだ。

これは決して、筆者が自分から余計な苦しみを求めていることを意味しない。筆者は苦しみを求めているわけではなく、ただ神の御思いをより深く理解するために、そのへりくだりにあずかり、主の御心の中心にあるものを知りたいと願っているだけである。

そこで、自分のためにではなく、主の満足のためにこそ、あえて孤独や、苦難や、迫害をも耐え忍ぶ価値があると考えるのである。そのような意味でこそ、パウロは地上で得られる利益のすべてを無価値とみなして投げ捨て、自分の生涯のすべてを神のために注ぎだし、捧げることを決意したのだろうと想像する。

筆者は、少し前に、バビロン王国をエクソダスし、エクレシア王国の住人となったと書いた。こうして、エクレシアに終身雇用される神の国の働き人となってから、筆者には毎日、なすべきたくさんの仕事がある。

その仕事の中には、決してここで報告することのない数多くの隠れた働きも含まれているが、それらはすべて、御心が天に成るごとく、地にも成るように、この地上に御国の秩序を引き下ろし、父なる神に栄光を帰するためになされるものである。正義、真実、平和、公平、公正を地にもたらすための激しい霊的戦いである。

この戦いに精通すればするほど、主と共なる生活は、他のどんなものとも引き換えにできない価値があることが分かって来る。

そして、主と共に生きることは、地上におけるすべての権威と支配を足の下にする、極めてダイナミックで壮大な生活である。

これは誇張でもなければ、ファンタジーでもない。私たちは、外見は全く弱々しく取るに足りない民でしかないが、御名の権威を授けられていることによって、絶大な権威と力を帯びているのであり、その権威を実際にこの地で正しく行使して、戦いに勝利して、神が満足される平和を打ち立てることが求められている。

神はこの地上全体を管理するために、人類を創造されたのであり、サタンの支配下から奪還されて、愛する御子の統治下に入れられた一人一人の信者には、当初の神の目的の通り、地上のすべてを治める権限を与えられている。

それが、神の国の働き人となることの意味であり、私たちはエクレシアに身を置き、主と共に天の御座から、地上の物事を管理する。主の御名には、地上のすべての支配と権威を足の下にする超越性、優位性があり、私たちは、御名にこめられた霊的優位性を行使して、敵を足の下にし、御座に住む秘訣を知らなければならない。

キリストにある霊的優位性により、私たちはこの世の喧騒をはるか下に見下ろし、高く御座に引き上げられる。

そこには圧倒的な心の平安がある。

それは決して戦いが止むことを意味せず、私たちが何もかも忘れて、ただ心地よい感情に漫然と浸ることを意味するわけでもない。

依然として戦いはある。苦しみもある。試練もある。だが、もしもキリストと共に苦しむならば、それは主の満足につながるのであり、その苦しみは、しばらくすると、慰めと、勝利の喜びに変わる。

私たちの霊は、たとえ試練の最中を通過する時でさえ、御座に高く引き上げられて、地上の喧騒をはるか足の下にしつつ、御座から流れる命の川々に浸され、神から注がれる清い愛に満たされて、深い満足を覚える。

こうして、私たちの心は、何が起きようと、動かされることなく、揺るぎない平安に住む秘訣を知る。生活の一瞬一瞬のすべてを神の満足のために費やすことには、はかりしれない大きな満足がある。そのように、自分をすべて主のために注ぎだすことを決意し、これを実行すればするほど、たとえ私たちが感覚的には主の臨在を感じておらずとも、あるいは、苦しみの中にあっても、主との交わりは、いよいよ強化されるのであって、私たちは神の愛の中に住み、自分の心を平和に保ち、御座から権威を持って、地上のもろもろの支配と権威に大胆に命ずる秘訣が分かって来る。

御名の権威が、すべての権威にまさるものである以上、地上のもろもろの支配と権威は、私たちの命に従い、これに服さざるを得ない。筆者の述べていることを嘲笑っている人々は、やがてその成果を間近に見て、驚愕させられることになろう。

私たちは御名の霊的優位性・この世に対する超越性によってこそ、暗闇の勢力に対して勝利をおさめ、彼らを凱旋の行列に捕虜として従えて、足の下にすることができるのである。

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村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟の総括(1)―滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。―

4月1日 補記

●村上密が本日投稿した記事に、判決の前提を覆す可能性があることについて

(村上は一旦、当ブログ執筆者に関する権利侵害に及んだ上、後になって該当部分を伏せたらしいですが、記事は保存してあります。検索結果にも残っていますね。まさか書き換えるとは思いませんでしたが・・・。

今回、村上が杉本同様の権利侵害行為に及んだ上で、筆者が以下の記事を投稿したことを知るや、記事を書き換え、「実名を伏せた」と追記していることを、読者は決して忘れないで下さい。
  
刑事告訴の対象になるとしたら、まさにこのような人格権侵害の記事であり、筆者の記事が論評の域を超えることはありません。筆者がこの記事で述べている事実には、杉本・村上が自ら書証として訴訟に提出した数多くの証拠の裏づけもあります。それについては随時、説明して行きます。


(以下は、権利侵害が行われていた時点での村上の記事について)

 考えて見ますと、村上密が4月1日にブログに投稿した記事「判決」は、今回下された判決を根底から覆す可能性のある内容のようです。


なぜなら、今回の訴訟で、村上が2009年にブログに掲載した当ブログ執筆者に関する2つの記事が、不法行為に当たらないと認定されたのは、そもそもそれらの記事で、著作者人格権の侵害(要するに氏名の無断公表)が行われていなかったことを前提とするからです。

判決文
pp.28-29
(3)被告らの責任について
ア 被告村上のブログは、それ自体「ヴィオロン」がブログで表明した意見ないし論評を批判するものにすぎず、その言及も「ヴィオロン」を対象とするものにとどまり、原告個人に関する事実を公表するものではない。<略>以上によると、被告村上は、被告村上のブログを通じて原告のプライバシー、名誉権及び名誉感情を侵害したとは認められない。よって、被告村上の不法行為責任を認めることはできない。
pp.47-48
11 人権侵害に基づく作為等の請求について
(1)ブログの削除を求める部分について
 <略>なお、被告村上に対する請求は、被告村上による人格権侵害が認められない以上、前提を欠く。

このように、村上は「ヴィオロン」に関する評論を述べただけなので、人物の特定もできない記事に人権侵害が成立する余地はない、ということが、今回の判決の大前提だったわけですね。

むろん、「ヴィオロン」が執筆しているブログに関して、氏名を公表するかどうか(著作者人格権)は、筆者自身に属する権利であるため、それを侵害する行為は、不法行為に該当し、さらに、そうして人物特定可能な記述を行った上で、その人物をブログで誹謗中傷すると、名誉毀損や侮辱が成立してしまう可能性が生じるため、杉本のブログ記事における人権侵害が認められ、一連の記事削除と賠償が命じられる結果になったわけです。

掲載当初はペンネームだけしか記していなかったために、人物特定が出来ず、人権侵害が成立する余地がなかった記事についても、後になって、著作者人格権を侵害して、人物特定可能な情報を自ら公開すれば、人権侵害の発生の余地が生まれ、内容が、名誉毀損又は侮辱に当たると判断される可能性がある、ということは、以下の文からも分かりますね。

p.30
(1)緒論
ア 以下においては、被告杉本が掲載したブログごとに、原告が主張する不法行為の成否を検討する。なお、被告杉本のブログのうち、「ヴィオロン」が原告であることを公表する前に掲載したブログ<略>は、いずれもその掲載当初は原告に関する事実を摘示するものではなかったが、被告杉本自身による「ヴィオロン」が原告であることの公表の結果、上記の各ブログの内容は原告が「ヴィオロン」としてしたブログの掲載や電子メールの送信に言及するものとなったと認められるから、上記の各ブログについても、原告に対する名誉毀損又は侮辱に当たるかを検討する<略>。

ちなみに、筆者がこの記事で、村上密の記事に言及していることは、決して自ら著作者人格権を放棄していることを意味しません。また、筆者が自ら訴訟を起こしたことも、筆者が筆名で執筆しているブログについて、被告らが勝手にインターネット上に氏名を公表したする行為を許したことにも該当しません。

ですので、仮に村上がそうした行為(人格権の侵害)を行いますと、村上の書いた「ヴィオロン」に関する記事は、人格権の侵害に該当し、さらにプライバシー権その他の侵害にも該当する可能性が生じ、今回、村上に対して下った判決が、次回の訴訟においては、完全に覆る可能性が出て来るわけです・・・。

分かっていて故意にやったのでしょうか。それとも、自覚がなくやったのでしょうか。リスクを知らなかったのでしょうか。理由は分かりませんが、次回の訴訟の時に本人に確かめてみれば良いことですね。
 

  
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これまでは静かに判決を待つため、あえて記事では言及しなかったのだが、これからしばらく、当ブログを巡る裁判結果と、掲示板で続けられて来た権利侵害について、総括を述べていきたい。まずはかいつまんで短い報告から挙げておく。
  
昨夜、村上密についての記事を書くことをひとこと欄で予告すると、早速、それからほとんど間をおかず、村上密のブログから、当ブログ執筆者の提起した民事訴訟に関するものと見られる記事(断定を避けるためリンクを貼らない)がアップロードされていた。当ブログのコメント投稿欄の隅々に至る記述まで、おそらく目を通しているものと予想される。少しでも不利な内容の記事を書かれそうだと察知すると、先手を打って行動しようとする素早さにはいつも驚き呆れる。
 
村上密は、記事で都合の良い部分にしか触れていないが、この事件では、当ブログ執筆者が、村上密と共にブログ『現代の風景 随想 吉祥寺の森から』を執筆する杉本徳久を名誉毀損等の不法行為で訴え、杉本には、3月27日に言い渡された判決において、当ブログへの名誉毀損・侮辱、著作者人格権の侵害が認められ、賠償請求が命じられた。かなりの数のブログ記事の削除と、決して少なくない損害賠償が認められたのである。

ところが、村上は記事で杉本徳久に記事削除および賠償請求が命じられたという判決の内容には、一切、触れていない。もちろん、杉本徳久との共同不法行為(杉本に対する個人情報の提供)の疑いが、当ブログ執筆者から村上に対する訴えの重要な部分の一つであったという事実にも触れていない。

村上は自分は不法行為に問われなかった、記事の削除も命じられなかったという勝利に満ちた部分だけを報告したいと考え、この記事を投稿したのかも知れないが、村上はこの記事で、筆者の筆名と共に、杉本徳久が幾度となく権利侵害に及んで公表した筆者の個人情報まで明らかにすることにより、牧師として今まで以上に致命的な行動に及んでしまった。

(むろん、こうした情報だけでは、当ブログ執筆者の著作者人格権の消滅とならず、人物の特定にも至りつく根拠ともならないことを読者に断っておく。村上があえて法的責任追及を逃れるためか、ブログ標題や過去記事にリンクを貼っていない手法も注目に値する。)

なぜなら、この記事の発表によって、村上密は、今後、自分を批判する信徒が現れれば、誰であっても、裁判等を通じて信者の個人情報を入手し、それを全世界に向けて発表する用意があることを自ら世に示してしまったからである。

はからずも、この記事の公表が、裁判結果とは裏腹に、村上密という人物の内心を余すところなく証明するものとなったと言えよう。

筆者が知っている限り、村上密はこれまで信徒の実名を挙げて批判記事を書いたことはなかった。従って、この記事は、村上がこれまでとは異なり、一線を超えて、かつて自分のもとに相談に来た信徒に対する批判を、個人を標的に可能な限り人物を特定して開始したことを明らかに示すものである。
 
読者はこの事実をはっきりと見ておいて欲しい。筆者は2007年から2008年にかけて、メールおよび実際に村上密の教会へ幾度も足を運んで、村上に対して他教会で起きたトラブルの相談を詳しく行った。しかし、村上を通じて事件を解決することはできず、筆者は疑問を持ったまま、村上の教会を離れ、2009年に筆者が村上密の活動に対して批判的になるや否や、村上はネット上で筆者および当ブログに対するバッシングの態度に転じたのである。
  
このように、村上が信徒を実名で批判する記事の投稿を開始している様子を見ながら、村上密のもとに宗教トラブル相談に訪れたいと考える信徒は、今後、おそらくほとんどいなくなる可能性が高いと見られる。

筆者としても、それは到底、お勧めできる行為ではない。読者に言えることはただ一つ、どんなにあなたに宗教上の悩みが生じたとしても、この牧師に個人情報を告げることはやめておきなさい。後々、あなたをも標的として、以上のような記事が発表されないとも限らないからです。カルト被害者たちは、みな相談の際に自分の個人情報を詳しく握られたことがあだとなって、相談した指導者らを批判できない状況に置かれているのです。

さて、今回の裁判では、幾度も断って来た通り、裁判官の異動という出来事も手伝って、審理を早期に終結する必要が生じ、杉本に対するおよび掲示板に対する刑事事件の真相究明も間に合っていないため、当ブログで最も解明したいと考えていたインターネット犯罪ネットワークの責任追及に関する立証は十分でなかったと言える。

従って、今回、村上密に対する共同不法行為の責任追及が行えない結果になったのは、何ら予想外の出来事ではない。
 
しかし、そのことが、決して、村上密が杉本徳久による不法行為に全く関与していなかったことの証拠になるわけではなく、一体、杉本徳久による当ブログ執筆者に対する権利侵害行為に、村上密がどの程度関わっていたのか、関わっていなかったのかという点は、今も不明なままであり、掲示板のコメントを対象とする刑事事件の進展も待たれる。
 
ただし、大きな成果であったと言えるのは、この訴訟の最中、村上が杉本と共に筆者を罵るメールを書証として提出して来たことである。それによって、両者の間でメール文通が行われている事実、さらに、村上が杉本と意気投合して、事実でないことを根拠に、筆者を罵っていた事実も発覚した。
 
村上が提出した準備書面や、両者のメール文通については、次回以降の記事で具体的に触れる。

さらに、村上は裁判の最中、筆者の側からはまだ何も言わないうちから、自ら当ブログ執筆者を非難した2つの記事の削除を申し出たが、途中で、記事を削除しないと自ら提案を翻した。

そして、何より重要なこととして、村上が口頭弁論の最中、杉本と一緒になって、筆者に反訴すると言い立てたことも、むろん、村上の記事では全く触れられていない。

筆者は反訴などするのであれば、その前に、村上から提出されたすべての書面を公開すると応酬したため、二人は筆者に対する反訴を行わなかった(結審後、もし反訴状が提出されていたとしても、それは裁判官が却下している)。

そして、昨日まで、筆者は一つたりとも村上・杉本の実名入りで判決に触れる記事を書かなかった。ひとこと欄で、筆者が予告したのも、「ネトウヨが掲示板に書き連ねたコメントを引用して、村上氏に関する分析記事を書く予定」という言葉から分かる通り、掲示板における村上に関する投稿をまとめるということだけであって、判決を公表するとは述べていない。

筆者は、先の記事で、判決文は大きな代価を払って勝ち取ったものであるから、公開するつもりはないと述べている(読む価値は十分にあるので、ぜひ読むことをお勧めするが、希望者は山下公園まで料金を払って見に行かれれば良いことである。)

そこで、以上の投稿記事は、あくまで村上が先に判決の公表に及んだものであることも強調しておく。
 
いずれにしても、今回の村上密の記事の発表を通しても、読者は村上、杉本の両名が、これまで信徒の裁判に関係することにより、信徒の個人情報を入手しては、それを使って、自らに批判的な信徒を非難する(もしくはコントロールする)材料として利用して来た様子を伺えるのではないかと思う。

村上は、当ブログ執筆者が個人情報の公開を望んでいなかったにも関わらず、杉本徳久から執拗に個人情報を公開され、プライバシー権の侵害を受けたと主張したことが、判決で認められたにも関わらず、あえて以上の記事に公表に及んだ。
 
また、今回の裁判では、杉本徳久が、かつて2013年に杉本が坂井能大牧師を訴えた裁判において、唐沢治を通じて書証として提供された筆者のメールの内容から、筆者の個人情報を入手したと自ら述べた。(むろん、杉本はそれ以前から、筆者の個人情報の入手に及んでいた。)

こうした事実は、杉本が裁判を通じて、信徒の個人情報を入手した事実を物語っている。杉本がかつて自らのブログで、ネット上で個人情報を明らかにせずに情報発信していたカルト被害者に対して、個人情報を明かすよう要求していたことも興味深い事実である。
 
(なお、今回の裁判で、杉本徳久は、裁判以外の場でも、唐沢治にメールで接触し、当ブログ執筆者の個人情報を入手したことおよび唐沢が杉本の要求に応じて筆者の情報を杉本に提供したことを、唐沢とのメール文通を書証として提出することにより明らかにした。

むろん、唐沢治は、KFCの指導者として、当然ながら信徒に対して守秘義務を負っているはずであり、筆者は唐沢に裁判へのメールの提出を許可した事実もなければ、杉本への情報提供を許可した事実もない。

そして、唐沢治が、現在、自らの行為を正当化するために、筆者とは「牧師と信徒の関係になかった」と主張していることも、強調しておかねばならない。
  
なお、唐沢治は2010年に杉本徳久に自らへの権利侵害を理由として民事提訴を予告していたが、後になってから、その提訴予告が、あたかも筆者の権利を守るための提訴予告であったかのように主張をすり替え、杉本に対して、筆者の実名が公表されていないから、提訴に及べなかったのだと筋違いの弁明をして、提訴予告を実行しなかった責任があたかも筆者の事件にあるかのように弁明していたことも、強調しておかねばならない事実の一つである。
 
唐沢には、一方では、KFCで「クーデター」があったことを自ら認めながらも、他方では、それが事実でないかのように主張して、筆者が記事で主張しているKFCで起きた事件の記述が嘘であるかのように主張しているという自己矛盾も存在する。この問題についても、また追って詳しく記述することにしたい。

このように、唐沢治も、多くの点で事実に反する主張を行っており、当ブログ執筆者を杉本と一緒になって非難し、かつ、杉本と情報交換して来た経緯があるため、今後、村上密と並んで、当ブログに関して非難記事を数多く投稿する可能性が十分に考えられる人物の一人であると言えよう。)
 
このように、2012年頃まで(ちょうど筆者がKFCにいた頃まで)は、唐沢は杉本に提訴予告をしており、杉本と対立関係にあったが、2013年に杉本が坂井能大を裁判で「勝訴的和解」により打ち破ったことにより、坂井を支援していた唐沢治も、共に杉本に敗れ、杉本との対立関係を解消するに至ったものと見られる(唐沢治はこの裁判の当事者ではないが、いわば、杉本が両名を打ち負かしたような恰好となった)。それ以後は、唐沢は杉本と一緒になって当ブログ執筆者を非難・中傷する立場に転じた。
 
杉本は、このように、自らが訴えられたために訴訟に関わったけでなく、自ら裁判を起こすこれによって、自分にとって不都合な発言を行う信者や宗教指導者を沈黙に追い込むことに成功して来た経緯がある。訴訟では不敗記録を更新し続けていたとのもっぱらの噂だが、少なくとも、当ブログ執筆者が杉本に不法行為で賠償責任を負わせたことで、その記録には終止符が打たれたと言えよう。

さらに、興味深い事実として、今回の裁判では、杉本は「自分はカルト被害者救済活動などしていない」と主張していたことが挙げられる。杉本は「カルト被害者救済活動」という言葉を否定するだけでなく、カルト被害者を支援するために裁判に関わっていた(傍聴・報道していた)事実すらも否定した(はぐらかした)のである。

そこで、筆者は杉本のブログから、実際に杉本が被害者を支援するために発表した数々の記事を、杉本がカルト被害者の裁判をブログで取り上げることにより、支援していたことの証拠として提出した。

このように、杉本はかつて自分が理不尽な訴訟で訴えられた経験から、カルト被害者が起こした裁判を放ってはおけないと、被害者の裁判に応援のための傍聴を呼びかけたり、自ら傍聴に駆けつけたり、盛んにブログでアピールしていた事実があるにも関わらず、今回の裁判では、自分がそうして被害者を支援してきた事実さえも、ないがごとくにとぼけるか、もしくは否定する立場に転じたことを強調しておかなくてはならない。

あれほど「被害者のために」と公然と訴え、被害者の権利回復を自らの信念のように掲げて活動していた人間が、「カルト被害者救済活動」に関わっているとみなされると不利な立場に置かれるかも知れないとなると、途端、被害者の裁判に関わった事実がないかのように、被害者を切り捨てるような主張をしたことに、筆者は心底、驚かざるを得なかった。

そこで、今後、筆者の提起した事件に対して、杉本徳久がどのように対処していくかという事実を見ることによっても、我々は、杉本という人物の内心を明らかにする大きな手がかりを得られることであろうと思う。自分自身も裁判を利用して他者を打ち負かしておきながら、自分にとって不利な判決だけは、認めない態度を取るのかどうかだ。
  
筆者は今回の判決を非常に妥当なものであるとみなしているため、誰かがこの判決に抗ったとしても、覆せる見込みはないであろうと考えている。そして、そのようなことが起きないための手立てを早急に始めているところである。
   
さて、村上が今回の裁判において、提出してきた準備書面は、毎回、A4たった3ページといった長さのものであり、短い時間でワープロ打ちしたようなその軽い内容は、これまで「訴訟のエキスパート」として知られてきた牧師には、あまりにもふさわしくないと思われるような、拍子抜けする印象のものがほとんどであった。

さらに、村上は自分がどの準備書面を提出したのかさえ覚えていないこともあり、そのことからも、この裁判をあまりにも軽視している(もしくは筆者を侮蔑している?)様子がはっきりと伝わって来た。また、杉本徳久の行為を、村上が当時、名誉毀損と認識していなかったことも、村上と杉本と一緒になって筆者を罵ったメールの内容からも明らかであった。
 
このように、村上には(自分を批判した信徒憎しという感情のためか)、法的根拠に基づいた客観的で公平な認識が当初から欠けており、杉本のしている行為に対して、現実的な判断が下せないでいたことは、筆者にとっても実に驚きであった。

以上のような事実および、判決の全体をきちんと踏まえず、自らにとって都合の良い点だけをかいつまんで説明しているという意味で、村上の記事は、今回の事件を公平かつ客観的な観点から分析したとは、到底、言い難いものである。

こうした記事内容の偏りだけを取っても、いかに村上が、杉本が賠償責任を負わされた現在になっても、未だに杉本徳久をかばう立場に立って情報を発信し続けているか、また、都合の良い偏った観点からしか、記事を書いていないかという事実がよく伺えると言えよう。
 
読者には、村上密のブログについては、そこに発表されている内容だけを鵜呑みにするのではなく、そこに書かれていない膨大な事実が存在することをまず疑ってみることをお勧めする。そして、この牧師が、自分を批判する者に対しては、約10年近い以前から、信徒であっても、容赦のない措置に及んできたことをよくよく心に留められたい。
 
さて、筆者はこの裁判を第一段階に過ぎないと考えている。今回の訴訟ではとりこぼした内容、もしくは、今回の訴訟で初めて明らかになった事実があり、それについては、今後の責任追及をしていかねばならない。この事件に関わってくれた人たちのためにも、今後、真相がどこにあるのかという情報を発信していくことは、当ブログの重要な仕事であると考えている。

だが、とにもかくにも、まずは村上が以上の記事を投稿したことは、彼の人格を全世界が判断するに当たり、非常に良い材料になったものと筆者は考えているし、当ブログを巡る大規模な嫌がらせ(権利侵害)がどこから来ているのかを判断するための重要な手がかりの一つになって行くだろうと思う。

杉本のブログに記事の削除と賠償が命じられたことによって、ようやく批判の舞台が村上のブログに移ったのである。当ブログを巡るバッシングは、2009年の村上のブログが最初のきっかけとなって始まっていることを考えれば、何らそれは不思議なことではない。

おそらくは、村上の信者を標的にした同様の行為は、今後も、何らかの形でエスカレートして行くのではないかと予想される。というのも、村上は自らのブログに、子供の頃から、親父に喧嘩の仕方を教わり、売られた喧嘩では、負けて泣いて帰宅することを許されず、「勝つまでやり直して来い」と言われ、負けたままでは、家に入れてもらえなかったと、繰り返し、記事に書いているからだ。

村上の行動パターンには、そうして父から教え込まれた喧嘩の教えがよく表れているのではないかと感じられる。「やられる前にやれ。」「やられたら倍返しにしろ。」「黙っているのは恥だ。負けることは許されない。」
 
もしもこうした筆者の予想が的中していれば、村上は鳴尾教会に対して執拗にいくつもの批判記事を投稿して来たように、今後、筆者と当ブログをも標的にして、おびただしい数の批判記事を投稿し続ける可能性も否定できない。

だが、仮にそうなったとしても、それも、村上密の人格を極みに至るまで明らかにするための、とても良い材料になると筆者は考えている。どちらにしても、隠れていた事実が明らかにされる行程が必要なのである。
 
幾度も書いて来たように、当ブログの目的は、批判をかわすことには初めからない。そして、筆者という個人が、ごくごく限られた権利を有するだけの取るに足りない人間であることを見ても分かる以上、誰がどれほどの誹謗中傷を筆者に向けようとも、それによって生じるダメージというものはごくごくわずかなものに限られている。

筆者にとって重要なのは、永遠に揺るぎない御言葉の正しさに生きること、神の国の権益を守ること、聖書の神の正しさを証明し、この方に栄光を帰することであり、筆者自身のこの世で過ぎ行く束の間の有様を必死になって保存しようとすることではない。そして、筆者がキリストと共にすでに十字架で死んで、よみがらされている以上、地上的な利益が失われることを恐れる理由は、筆者には何もないのである。

(どうして筆者がパウロのような生き方を勧めるのかを、読者には考えてみて欲しい。筆者は御言葉を第一として生きるためには、失われるべき利益を最初から神に捧げて、持たない生き方もあるものと考えている。)
  
そこで、批判を恐れることなく、これからしばらくの間、当ブログでは、今回の裁判を通して新たに発覚した事実について公表していくことにしたい。

その第一回目として、書きたいのは、杉本徳久・村上密の両名を被告とする裁判が、昨年末の12月に結審して、いよいよ今年3月の判決を迎える段階になってから、この数ヶ月間というもの、インターネットの掲示板で、当ブログへの夜昼を問わない、またとない集中的で激しい誹謗中傷が展開されたことだ。

こうした悪意あるコメントの投稿は、これまでにもなかったわけではないが、結審から判決言い渡しまでの期間、夜となく昼となく続けられ、苛烈を極めた。その掲示板は、もともと当ブログのために作られたものでもないにも関わらず(杉本徳久のブログを論じるために立てられたスレッドである)、当ブログだけが、そこで主たる標的とされ、筆者個人や、当ブログの記事の内容を徹底的に罵る投稿が、日夜、絶え間なく連続して続けられたのである。

そうした投稿内容の大半は、杉本徳久・村上密の唱えた説に深く共感し、筆者は訴訟に負けるに違いないと断言して、筆者を嘲笑い、誹謗中傷するものであり、筆者が当ブログに新たな記事を投稿する度に、記事内容を剽窃しては、無断で転載する著作権侵害のコメントが、おびただしい数、投稿された。その執拗さと、常軌を逸した敵意の集中は、想像をはるかに超えるものであった。
 
さらに、特筆すべきは、こうしたネガティブ・キャンペーンと言うべき掲示板での激しい中傷の多くが、筆者がかつて村上密の教会に赴いた際に、村上に対して直接、個人的に相談した際に伝えたトラブル内容や、今回の訴訟において、両被告に送付した書面に記載した筆者の個人情報を利用して、それを材料に筆者を叩き、嘲笑い、中傷するものだったことである。

そこで、こうした事実を見るならば、今回の裁判結果とは裏腹に、杉本・村上を擁護する立場から行われたこの激しい中傷と権利侵害に、両名が全く関与していないと見るのは自然ではないと言えよう。

共同不法行為が行われたのかどうかを立証するためには、直接的な関与を証明する証拠を入手することが急がれるが、そうした意味も込めて、この事件は、まだまだ最初の第一歩が踏み出されたに過ぎず、今後の解明が待たれる事柄が数多く存在するのである。

おそらく掲示板での悪質な書き込みは、判決の言い渡し前に、当ブログの評判を貶めることで、何とかして、判決によって、杉本・村上に及ぶダメージを少しでも最小限度に押さえることを目的としていたのではないかと見られる。

つまり、両者を日頃から支持して来た人たちが、筆者を集団で誹謗中傷し、精神的に圧迫することで、当ブログを閉鎖に追い込むことができれば、訴訟の結果が世間に知れることもないと考えて、予防策を張ったものではないかと見られるのだ。
 
掲示板で行われている大がかりな犯罪行為(権利侵害)は、ことごく刑事告訴の対象となっており、判決の言い渡しと同時に、かなり沈静化した。やはり、杉本徳久に賠償が命じられたことが、他のコメント投稿者にも大きな影響を与えたものとみられる。

そういう意味では、この裁判には、至らない点もあったとはいえ、初めの第一歩としては、まずまずの成果であり、何よりも、犯罪の抑止力としての大きな効果を持つものであり、これまで集団的に行われて来た当ブログに対する大がかりな権利侵害にも、かなりの程度、(正当な)萎縮効果を与えるものであったと言えよう。
 
* * *

ところで、本日(この記事を書き始めた3月31日)にも、筆者がひとこと欄にわずかに2、3行、文章を付け加えただけで、早速、掲示板に以下のような文章を掲載する者が現れた。

この投稿者は、どうやら日曜日に筆者がブログを更新した行為を責めたいらしい。
 


筆者は何も騒いでおらず、ただこの投稿者が筆者が、2、3行ひとこと欄を更新しただけでも、それを許せず、針小棒大に騒ぎ立てているだけのことに過ぎない。同調者もめっきり減っている。

むろん、筆者の関係者は誰一人としてこのような掲示板を見てもおらず、このような中傷を鵜呑みにする人がいるとすれば、筆者も、そういう人と関わろうとは願わない。

だが、筆者があえて今、この稚拙なコメント内容を引き合いに出すのは、この主張内容が、杉本徳久が当ブログに向けた名誉毀損に相当する非難に酷似しているのみならず、主イエスが地上におられたときに、律法学者やパリサイ人が、主イエスのわざに難癖をつける時に使ったものと全く同じであることに、驚かざるを得ないからだ。

主イエスは、安息日に人々の病を癒され、数々の奇跡を行われ、とらわれ人を解放された。ところが、律法学者やパリサイ人たちは、それを見て、長年不自由にとらわれていた人々が自由にされたことを喜ぶどころか、「イエスが安息日に労働をして、掟を破った!」と非難したのである。
 
そこで、イエスは言われた、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」(マルコ3:4) 「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(マルコ2:27-28)

クリスチャンには、主日に他人を誹謗中傷して罪を犯して良いなどという努めはない。従って、こうした投稿者は、自らクリスチャンでないと告白している上、主日に罪のない他人を罵ることで、主日を穢して罪を増し加えているだけとなる。

今回、筆者が起こした民事訴訟では、すでに述べた通り、精神異常に陥ってもいない人間を精神異常者呼ばわりする記事内容が、名誉毀損に相当することがはっきりと認定された。

こうした判断は、筆者の知る限り、刑事事件でも、民事でもほぼ変わらない。それを考えれば、以上の投稿に示されているような汚い言葉を使って、他者を誹謗中傷した場合、もしも人物特定が可能と判断されれば、それは名誉毀損に相当するか、どんなに少なく見積もっても、侮辱に該当するという判断が下される恐れは十分にあるのだ。

一つのコメントの中で人物特定ができずとも、他のコメントと合わせて人物特定が可能と判断されれば、名誉毀損が成立する可能性があることは、かつて唐沢治がKFCの元信徒を訴えた際に証明されている。その信徒は、心神喪失により不起訴になったが、刑事事件としての処理スピードはかなり速く、病がなかった場合には、まさにどうなっていたか分からない。

そこで、民事裁判の結果が出ているにも関わらず、以上のような投稿を続けている者は、最後には非常に重い罪に問われることになるであろうと予告しておきたい。もちろん、他者の公表されていない親族関係を暴いたりすれば、それもプライバシー権の侵害として扱われる可能性があるし、刑事事件で個人が特定された後に、民事で賠償請求の対象となることも考えられる。

このように行き過ぎた誹謗中傷が大目に見られるのはネット上だけのことで、現実世界では厳しい判定が下されて来た。万一、名誉毀損で刑事告訴が成立しているのに、同一人物が再犯を重ねていれば、当然ながら、情状酌量の余地も減って行く。

さて、この投稿者は「キリストを知るという知識の香り」についても、どうやら、何も知らないようだ。おそらく、「キリストの香り」と言えば、誰にとっても、甘く、芳しく、心地よい香りに違いないと決めつけているのだろうが、あいにく、聖書にははっきりとこうある。

「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられた良い香りです。

滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。」(Ⅱコリント2:14-17)

つまり、「キリスト(を知る知識)の香り」とは、救われない者(「滅びる者」)にとっては、「死から死に至らせる香り」、まさに「腐臭」のようなものだと、はっきりと聖書に書かれてあるのだ。

従って、当ブログの記述を「腐臭」としか感じないと告白しているこの人間は、自分で「滅びる者」に属すると告白しているに等しい。

さらに、キリストに従う道は、人を寄せつけない「狭き門」である。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7:13-14)

この御言葉を考えれば、当ブログの信仰告白が、万人受けするものとはならないのは、当然であろう。それは筆者が「狭い門」を通過しているからこそのことで、まさに当然の結果なのである。それにも関わらず、万人受けする内容であることだけが、あたかも内容の正しさの証拠であるかのように主張するこの投稿者は、自分はまさに大勢の人たちが好んで入って行く「滅びに通じる門」に入る人間だと自分で述べているだけである。

哀れ、この投稿者には、何から何まで救いに至らない条件が兼ね揃っているのだから、自分で予告した通りの結果を辿ることになるだろう!

ちなみに、以上の投稿では、復活祭についても触れられているが、筆者は、今回の民事訴訟では、結審からきっかり3ヶ月間、判決を待った。この3という数字は、当然ながら、イエスの死と復活を表す数字である。

ちょうど判決が出たのが、復活祭を目前に控えた今の時期であったことも感慨深い事実である。

これは筆者にとって非常に重要かつ象徴的な「葬りの期間」であったと言えよう。原告であっても、生涯で初めて受ける判決言い渡しは、それなりに緊張を伴うものであり、いかに裁判官を信頼しているとはいえ、まさか笑顔で聞くというわけにいかない。

さらに、3ヶ月も判決を待つことには、それなりの苦労が伴った。だが、この待望の期間こそ、筆者にとっては、まさに主と共なる葬りの期間だったのである。

判決は筆者にとって、それほど予想と異なるものではなく、それは筆者にまぎれもなく命を与える内容であったが、筆者はまだその解放を、これから受けるのであって、今も葬りの期間は続いている。

このように、今年は例年よりもさらに意味深い復活祭を迎えることができた。

筆者は今年、文字通り、主と共に死んでよみがえる経験を、いつになく深いレベルで体験でき、また、今もその最中にあるのであって、このように感慨深い復活祭を迎えることを、心から主の恵みとして受け取り、喜んでいる(ただし、筆者は祝祭日を祝おうとは思わないが)。
 
従って、このことを考えても、以上の投稿がいかに的外れであるかよく分かろう。さて、裁判の総括は、次回以降の記事でするため、今回は短い報告にとどめておく。

裁判が終わると、色々とせねばならない後処理も残っているが、これからが正念場である。そうした手続きの一つ一つに習熟することは、将来起きうるもっと大きな戦いに対する重要な予行演習であると感じられてならないため、これも感慨深いことである。


良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶ。

* * *

 さて、これまで、プロテスタントはもはや霊的に終焉しており、聖書への正しい信仰を保つためには、ここからエクソダスするしかないという結論を繰り返し書いて来た。

 ここから先は、プロテスタントを脱出することが、資本主義から脱出することと本質的には同じ意味を持つこと、今や私たちはこれらの両方からエクソダスして、真に万民祭司の原則に基づき、新しい生き方をすることが求められている、というテーマについて書きたい。

 一つ前の記事で、カルト被害者救済活動は、プロテスタントの牧師制度の悪から出て来た猛毒の副産物であると書いた。

 プロテスタントは、その発生の当初は、カトリックの宗教腐敗を正し、カトリックの聖職者が独占していた聖書をラテン語から各国語に翻訳して全世界に普及させるなどして、聖書を一般に解放・普及するために、大きな役割を担った。

 さらに、プロテスタントは、聖書をただ一般の人々に解放しただけではなく、一般の信者が、聖書の御言葉を自ら知的・霊的に理解し、御言葉の証しを、自分自身の言葉で述べるという、初代教会には当たり前であった信仰を目覚ましく回復したのである。

 カトリックのミサは、儀式的な色合いが強く、司祭が聖書の内容を自分で咀嚼・吟味して、その解釈を信徒に説教として向かって語ることはない。

 しかし、プロテスタントの礼拝においては、人間に過ぎない者である牧師が、聖書の内容を自分自身で吟味・理解して、これを自分自身の言葉を通して、信徒に向かって証として語るという説教のスタイルが取られ、これは人間による聖書の知的理解という意味で、画期的な役割を担ったのである。
 
 プロテスタントにおいては、聖書の御言葉は、ただありがたいお経のように受け身に受容すべきものとしてはとらえられず、むしろ、信者らに積極的で深い知的な理解を要求するものとみなされた。牧師は信者の代表格として、「御言葉を取り継ぐ」奉仕に専念し、信者たちも、勉強会を開いたりすることによって、聖書研究を行おうと熱心に励んだ。
 
 20世紀頃になって、プロテスタントの中では、最も最新かつ先駆的な運動として、ペンテコステ・カリスマ派と呼ばれる、御霊の働きを回復しようとする各種の運動が登場して来た。

 もちろん、こうした運動は、それ以前から存在していたのだが、大規模な大衆運動として拡大し、各種の教団教派を生んだのは、20世紀になってからのことである。

 この運動は、聖書の御言葉を、ただ知的な文脈で、死んだ文字としてとらえるのではなく、聖霊の働きによって、そこに生きた霊的衝撃力を伴わせることで、信者たちの聖書研究に新たな息吹を吹き込んだ。それは現代の信者の生活においても、主イエスが地上におられた当時に行われた奇跡のように、人間の常識的な理解を超えた、ダイナミックな働きを取り戻すことを目指すものだったからである。
  
 だが、「霊」を識別することなく、霊的なムーブメントを無分別に受け入れたために、ペンテコステ・カリスマ運動は著しい誤謬の中に落ち込んで行き、多くの混乱を生むこととなる。

 そこで、今日、求められている新たな信仰回復運動も、聖霊の働きと切り離せないものであるとはいえ、偽物の聖霊運動を排除して、真の御霊の働きがどこにあるのかを見分けることは、死活的重要性を帯びた課題であると言えよう。

 さらに、プロテスタントには、もう一つの決定的と言える弱点があった。それは、この宗派においても、カトリックほどに厳格な聖職者階級というものはなかったにせよ、まだ、聖書は完全に一般に解放されたとは言えず、依然として、牧師だけが「御言葉を取り継ぐ者」であって、信徒は、牧師の説教を受け身に聞いて、牧師に教えを乞い、教会に献金を納め、牧師一家を支える奉仕者として、牧師よりも実質的に下の階級(被抑圧階級)に置かれ、聖書の御言葉の積極的な理解から排除されていたことである。

 プロテスタントにおける牧師階級は、前述した通り、その発生当初は、人間が自ら聖書の御言葉を解釈して、大胆に証を述べるという意味で、画期的な役割を担い、また、大衆伝道を通して御言葉を全世界に宣べ伝える点で、大きな貢献を果たしたと言えるかも知れないが、その後、福音が全世界に普及し、宣教師たちが命がけで未開・未踏の地に福音を届けるというミッションがほぼ終了して消え去った後では、ただ信徒を搾取し、信徒を聖書の理解から排除し、いつまでも信徒を霊的赤子状態にとどめるという点で、信仰の前進の著しい妨げとなったのである。

 牧師だけが聖書を知的・霊的に理解・咀嚼して、信徒に説教を語り、信徒は牧師から「霊的な乳」を飲ませてもらわなければ、信仰に生きることができない「赤子」にとどめられるというプロテスタントの礼拝スタイルは、今やそのものが、キリスト教の前進の著しい妨げとなって、排除を迫られているというのが現状である。

 いわば、プロテスタントからの新たな宗教改革が必要とされているのが、現代という時代なのである。その改革の核心として、牧師階級から聖書をさらに一般に向けて解放することが、早急な課題として求められていると言えよう。

 さて、こうして、牧師階級の弊害というものが、一般に認知されるようになった大きなきっかけは、昨今、一部の教会で、牧師による信徒へのあまりにもひどい搾取や差別や虐待が行われているために、それを是正するという名目で、カルト被害者救済活動が登場して来たことによる。

 だが、この運動は、決して聖書に基づくものではなく、従って、教会に真実な信仰の回復をもたらすこともなかった。

 このことは、すでに述べた通り、ブラック企業とそれに対抗する団体との抗争を思い浮かべれば、非常に分かりやすい。

 資本主義が行き詰まりを迎えるに連れて、労働者は著しく劣悪で非近代的な労働環境に置かれるようになり、我が国でも、1995年以来続く不況の中で、追い出し部屋、賃金未払い、過重労働、過労死、リストラ、非正規雇用など、様々な悪しきトピックが取りざたされるようになり、ブラック企業という言葉も、一般に認知されて定着した。

 ブラック企業の登場と共に、ブラック企業との闘いを公然と唱える団体も、行政及び民間の中から登場して来たが、よく見てみれば分かることであるが、こうした団体が究極の目的としていることは、ブラック企業との闘いのために立ち上がった人々を支援するという名目で、これらの人々を新たに自分たちの利益の源とすることにある。

 つまり、ブラック企業との闘争を売り物にする各種団体は、弁護士ほどではないが、かなりの割合で、成功報酬をかすめ取ることを定めており、行政もまた、表向きには、ブラック企業撲滅を掲げてはいても、その本質は、ブラック企業が真になくなってしまうと、存続できないというものなのである。

 このように、ブラック企業も、ブラック企業の根絶を掲げる各種団体も、共に虐げられた弱い人々に群がり、そこにたかって、利益を食い漁る利権団体であるという点で、本質的には変わらないのであって、ただブラック企業根絶を掲げる各種の団体は、ブラック企業ほど悪質かつ強引な搾取を行わないだけである。

 それ以外の点では、これらは、双方で利益を補い合って存続している車の両輪のようなものであって、もしかすると、ブラック企業根絶を掲げる団体は、正義の旗を掲げているだけ、ブラック企業以上に悪質である可能性も否めない。

 話を戻せば、カルト被害者救済活動も、プロテスタントの牧師階級による金銭的・霊的搾取に対抗することを目的に掲げて始まったものの、結局は、牧師階級によって食い物にされた信徒を、さらに食い物にして栄光と利益を吸い上げ、かすめ取る点で、カルト牧師と同質か、より以上に悪いものであり、プロテスタントを浄化する作用を全く持たなかったどころか、かえって牧師階級の持つ致命的な毒素をそっくり温存したまま、さらにこれをより強固なものとして信徒を支配する契機となったのである。

 今や日本のプロテスタントは、牧師制度の腐敗を是正するという正義の旗を掲げて登場して来たカルト被害者救済活動によって、完全に恫喝され、沈黙に追いやられるという恐るべき状態に陥っている。

 そのようなわけで、不況下のサラリーマンがいつまでもブラック企業と労基署との間を行き来していても仕方がないように、プロテスタントの信者も、カルト化した教会とカルト被害者救済活動の間での愚かしい堂々巡りに終止符を打って、今やプロテスタントという水槽そのものから、脱出せねばならない時に来ていると言えるのである。

 「エクソダス」の原則は極めて単純であって、これ以上、人間の指導者や、組織や団体に属さず、万民祭司の原則に従い、キリストご自身に直接、属して信仰生活を送ることである。

 信者が、霊的・金銭的に搾取される立場から抜け出るためには、自分を搾取する存在から離れなければならないのは当然である。牧師制度を敷く教会の中にい続ける限り、決して搾取の構図からは抜け出られないのは明々白々の事実である。牧師のみならず、すべての聖職者制度から離れるべきである。

 さて、以上の経緯を踏まえた上で、プロテスタントからの脱出と、資本主義からの脱出は、根底では一つの事項であるという話に戻りたい。

 マックス・ウェーバーは、著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、プロテスタントのキリスト教国において、資本主義が目覚ましく発達したのには、宗教が大きく関係しており、プロテスタントの信者は、「自分が本当に神に救われているかどうか分からない」という不安を払拭するために、神の召し(天職)としての自分の職業に邁進し、それによって、資本主義の発達が促されたのだとしている。

(ウェーバーの著書を知らない人のためには、あまりにも要約しすぎであるとはいえ、「5分でわかるウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(プロ倫)」要約」を紹介しておく。)

 福音書では、主イエスは、弟子たちに、御言葉を実践して生きるように教え、信者たちには、それによって、神の国の収穫を増し加えるというミッションが与えられていることを、次の御言葉を通して語られた。
 
 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。

 早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、②タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントンを預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。

 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントンを預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンをお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。」

 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』

 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』

 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所から書かき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりをするだろう。』」(マタイ26:14-30)

 以上の御言葉は、神の国の権益拡大の原則を示したものであって、キリスト教徒が、この地上における生涯を、神の国に利益をもたらすために、有効に用いなければならないことを示している。それが商売にたとえられ、有益なもうけを出した者が、神からの褒賞にあずかるというのである。

 とはいえ、神の国の権益拡大といっても、プロテスタントの一般の信者たちには、牧師と違って、それぞれに世俗の職業がある。それゆえ、彼らは、毎日、聖書の御言葉だけに没頭して暮らすわけにはいかない。

 そこで、プロテスタントの信者たちは、自分の生活において、御言葉を実践して、より多くのタラントをもうけ、まことの主人である神に誉めていただくとは、一体、どのようなことを具体的に指すのかを考えた。

 その結果、信者たちは、神の国の権益を拡大するために、日曜礼拝に出ている以外の週日は、自分の「天職」としての職業に励み、自分の資産を拡大し、その結果として、利益の十分の一を教会に献金として捧げることが、神の国の権益拡大に当たると考えて、それゆえ、自分の職業に熱心となったのである。

 ウェーバーの説を極端に要約するならば、そういうことの結果として、資本主義が発達した、という結論と至るだろう。

 さらに、これと同じ理屈を用いて、さらに前進するならば、資本主義が行き詰まりに達したのも、プロテスタントの倫理そのものが行き詰まりに達したからだ、という結論が自然と導き出される。

 なぜなら、組織としてのプロテスタントは、その霊的な息吹を失った時点で、形骸化して、自己目的化してしまい、プロテスタントにおける十分の一献金には、かつてカトリックが免罪符を売ったのと全くよく似た腐敗が隠されていたからである。

 すなわち、プロテスタントの信者たちがどんなに日々、労働に励み、自分の資産を賢く拡大し、その利益の十分の一を教会に納めても、その献金が、プロテスタントの聖職者制度という、信徒の上に君臨する独占的・特権階級をより富ませ、彼らの独占状態をより強固にするという悪しき目的のために利用されるならば、それは真に神の国の権益拡大にはつながらない。

 いわば、ブラック企業の従業員が、自分が搾取されていることも知らずに、どんなに身を粉にして会社のために働いても、その真面目な労働が、すべてブラック企業の社長の利益として吸い上げられ、その企業がますます悪くなるだけに終わるのでは意味がないのと同じである。

 このような行き詰まりを打開するためには、ブラック企業の従業員は、ただ身を粉にして働くだけではいけないのであって、自分の労働が真に正しい成果を生むように、ブラック企業を退職して、自分のためになる事業を起こすなどするしかない。

 だが、そこに一つの困難がある。その従業員は、ブラック企業を辞めても、これまで、社長の定める指揮命令系統に忠実に従って労働を受け身に提供するだけの雇われ社員であったので、自分の事業を起こすためのアイディアやノウハウの蓄積がないということである。

 この状態は、プロテスタントの信者たちの霊的「赤子状態」に非常によく似ている。十分の一を教会に納める代わりに、聖書を知的・霊的に理解する仕事を、牧師という存在に任せっきりにし、自分たちは、月曜日から金曜日まで、望むがままに世俗の生活を自由に送り、牧師から「霊的な乳」を飲ませてもらうことで、かろうじて信仰を保っていたに過ぎない弱々しい信者には、いざ牧師を離れて、自分自身の力で信仰生活を送る力が、ほとんど養われていないのである。

 とはいえ、どんなに信者たちが霊的に幼く弱くとも、プロテスタントが行き詰まりを迎え、牧師階級そのものがこの宗派の重荷となっている以上、牧師制度の下に身を置いている限り、信徒らも、ますます貧しく、弱くなって行くしかないのであって、そうこうしているうちに、ついに信者には牧師たちを経済的に支える力もなくなり、教会は完全に押しつぶされてしまう。

 その悪循環を抜け出すための選択肢はただ一つしかなく、信徒が牧師の霊的赤子状態から自立して、聖書の御言葉を自分自身で咀嚼・理解・実践することのできる霊的「おとな」になって、御言葉により、何者にも奪われることなく、永遠に残る収穫を生み出す存在となることである。

 このようにして、霊的「おとな」になることには、信者の生活をすべてにおいて富ませるのであって、経済的な富も、当然ながらそこに付随して着いて来る。

 もしも資本主義の発達が、ウェーバーの言うように、プロテスタントの倫理によって促されたものであるならば、新たなる経済発展の鍵も、聖書の御言葉の中にこそ存在することを、信者らは特に否定しないことであろう。

 歴史を振り返るならば、経済の発達は、霊的優位性と密接な関係があり、いわば、聖書の御言葉をよく理解し、これを実生活に応用する秘訣を知っている者が、この世においても、真の意味で支配者となり、不足のない豊かな生活を送ることができたという原則があることが分かるはずである。

 すなわち、世界史を大きく動かしているのは、戦争でもなければ、国際金融機関の動きでもなく、宗教であって、その中でも、キリスト教の最も先駆的で、革新的な信仰回復運動こそが、時の経済の発達と密接な関係を帯びていることが分かるであろう。

 現代キリスト教においては、プロテスタントが最も先駆的な信仰回復運動であり、資本主義はその倫理を土台として成り立ったと言って良いが、プロテスタントは、キリスト教の教会史の発展の一時的な形態に過ぎず、プロテスタントの次に来る信仰回復運動というものが、必ず存在するはずである。

 だが、なぜ宗教すなわちキリスト教が、経済の発達を促す原動力になり得たのか。

 カトリックの聖職者制度およびプロテスタントの牧師階級に注目するならば、そこには、救いの確信を心の内に得ている者が、救いの確信を持たない者よりも霊的に優位に立って、彼らの労働の成果を搾取して支配する根拠を得て来た、という構図があることが分かるであろう。

 ここには、非常におぼろげかつ不正確な形であるとはいえ、「罪人の富は正しい者のために蓄えられる」という聖書の原則が、影のように反映している。

 カトリックの聖職者や、プロテスントの牧師たちが、多くの信徒に君臨して彼らを搾取の材料とし、支配することのできた理由は、自分たちがあたかも人間の罪を指摘し、これを赦す権限を持ち、何が正しい生き方であって、何が誤った生き方であるかを人に教え、彼らを導くことのできる者であるかのように振る舞うことで――言い換えるならば、聖書の知識を独占し、自分たちこそ神かその代理人であるかのように振る舞うことで――罪赦されて義とされたいという人々の心の不安を巧みに利用して、彼らよりも優位に立ち、信者らに対して指導的権限を握ることができたからである。

 プロテスタントの信者は、「自分が本当に救われているかどうか分からない」という不安を埋め合わせ、慰めてもらう代価として、目に見える教会と、目に見える指導者の教えのもとにつなぎとめられ、週日の労働の成果を、十一献金という形で教会に納めたのである。

 今日でも、自分が確かに救われて、罪赦されているという、信仰による平安を持たない信者たちは、手っ取り早く、目に見える形で、自らの不安を解消しようと、目に見える教会に籍を置き、見えない命の書ではなく、目に見える会員名簿に自分の名前を記載してもらい、見えないキリストではなく、目に見える牧師に教えを乞い、その”ありがたい”説教を聞くことで、まるでお祓いでも受けるように、自分の罪が清められたかのように思い込み、教会に献金を納めることで、神に仕えているのだという安心感を持ち、目に見える自分の名札(教会籍)と、目に見える兄弟姉妹を見て、自分は神の国に連なって救われているのだと、心慰め、安心しようとする。

 しかし、それは手に取ればすぐに消えてしまうあぶくのような、不確かな保証に過ぎず、信者たちの心の中の永遠に取り去ることのできない確信ではないから、信者たちは、まるで鎮痛剤でも打ってもらうように、その効果が消える頃に、またも同じ痛み止めを打ってもらうことを求めて牧師たちのもとを訪れるしかない。牧師たちは、このような信徒たちの拭い去れない不安を定期的に慰めてやる代価として、彼らの献金によって支えられ、信徒らの上に君臨しているのである。

 筆者は、牧師たちが、救いの確信を本当に得ているとは言わない。ほとんどの場合、彼らは、ただ自分たちが他の信徒に優って、聖書の御言葉をよく知っており、あたかも揺るぎない救いの確信を持っているかのように振る舞う秘訣をよく心得ているだけであり、なおかつ、他の信徒たちの不安を見抜き、これを自分に都合よく利用して、利得の手段と変える心理的トリックを豊富に持っているだけである。

 多くの牧師たちは、筆者から見て、外面的行動だけを取っても、本当に救われているかどうかさえ、全く分からないような人々である。

 しかし、いずれにしても、彼らは自分たちがまるで魂の医者よろしく、揺るぎない救いの確信に立っているかのように振る舞う術を心得ている点で、一般信徒以上にしたたかなのであって、自分の心の内側に、救いの確信を持たない信者は、心の不安を巧みに利用されて、こうした自分の救いを保証してくれそうな指導者(もしくは団体)にいつまでもすがりつき、彼らに年貢を納め、心の不安を解消してもらうことで、平安を得るという生き方をやめることができない。

 こうした信者たちは、自分で自分の貧しい心の状態に気づかない限り、その霊的弱さのゆえに、自分たちの汗水流して真面目に働いた労働の成果を、いつまでも詐欺師のような人々に吸い取られ続ける運命にある。

 このような弱く貧しい信者が、経済的にも、魂的にも、自由になるためには、彼らが一刻も早く、目に見える人間の指導者から自立して、その助けなしに、キリストに直接、連なり、御霊によって直接、御言葉の意味を教わり、誰にも保証してもらう必要のない救いの確信をはっきりと心に得て、御言葉を自分の人生に実際に適用して生き、その成果を勝ち取る秘訣を自分で学ぶしかない。

 すなわち、霊的な優劣を作り出す差別的な宗教制度を離れ、霊的中間搾取者階級を自分の上に置かず、組織や目に見える人や事物に依存せず、あらゆる虐げから遠ざかり、自分の救いの確かさが自分で分からないほどまでに惨めな霊的赤子状態から抜け出すしかないのである。

 霊的な乳を、牧師から飲ませてもらうことをやめて、キリストご自身から、御霊によって、すべてを教わる方法を知り、それによって生長して、霊的に「おとな」になって、すべての物事について自立した大人の考えを持つこと、そうして生長することだけが、「赤子」と「大人」との霊的優劣を撤廃するただ一つの方法である。

 かくてプロテスタントは霊的に役目を終えて終焉しつつあり、プロテスタントに次ぐ新たな信仰回復運動の登場が待たれているのであるが、資本主義の行き詰まりを打開する鍵も、その新たな信仰回復運動にあるものと筆者はみなしている。

 その新たな信仰回復運動とは、万民祭司の原則に基づき、信者がいつまでも自分を赤子にとどめるゆりかごなる「囲いの呪縛」(目に見える組織や団体による束縛)から抜け出て、キリストご自身から来る、誰にも奪われない救いの確信を心に得て、その命の自由の中を生きることである。

 自分が救われているかどうか分からないという心の不安を埋めるために、自分で自分を贖おうと、ひたすら労働に励み、かつ、その成果を、いつまでも目に見える指導者や、組織に貢いでは、その対価として慰めを受けるのをやめることである。

 資本主義における労働は、救いの確信を持てないプロテスタントの信者が、自分で目に見える救いを確保しようと、自分で自分を贖う悲痛なまでの努力が、体系化して生まれたものであると言えるかも知れない。

 そのような意味で、今日には宗教的要素が抜け落ちて形骸化しているにせよ、資本主義における労働には、初めから、人類による人類の自己救済という、聖書の御言葉とは相反する願望が込められていたのであって、それゆえ、その労働は実を結ばずに終わることが運命づけられているのかも知れない。

 それでも、プロテスタントが全世界に福音を届ける使命をまだ積極的に担っていたうちは、資本主義も、その対の車輪として勢いよく回り続けたかも知れないが、今は両方のタイヤにヒビが入り、取り換えが必要な時期が来ている。

 私たちキリスト者は、信じる者として、一人一人が神の祭司であり、御言葉の奉仕者であるが、自分たちの働きが、誰からも不当にかすめ取られることなく、真に実を結ぶものとなるように、今一度、自分が誰に奉仕しているのか、どこに向かって種を蒔き、どうやって収穫を勝ち取るのか、私たちの本当の主人は誰なのか、といった問題について、考えるべきであろう。

 以下のよく知られている聖書箇所も、御言葉には、信じてこれを行う者に、天においても地においても、豊かな実りと栄光をもたらす力があることをはっきりと示している。なぜなら、御言葉は、復活されたキリストであって、私たち一人一人をすべての問題から救い、満たすことのできるのまことの命だからである。

 聖書の御言葉は、信じてこれを行う者に、どんなに少ない場合でも、三十倍の収穫をもたらすことができるのであり、その収穫とは、天的な利益だけでなく、この世のすべての必要性が満たされることをも含んでいる。

 だが、信者が実際にその収穫を獲得し、これを存分に享受し、キリストの満ち満ちた命の豊かさの中を生きるためには、盗人だけでなく、中間搾取を行う者どもをも、自分たちの生活から徹底的に排除しなければならない。

 御言葉を実践しているのに、収穫がもたらされない信者には、常に邪魔しているものが存在するのであって、自分のための泉の水を、道端にまき散らし、自分のための栄冠を常に他人に奪われているような生き方では、残るものがないのは当然である。

 従って、自分一人では十分に物事を考えられないとか、一人では救いの確信が持てないとか、一人では自己価値を感じられず不安だなどといった理由で、常に自分以外の目に見えるものにすがりつき、それによって自己価値を保証してもらおうと頼っている限り、その信者に蒔かれた種は、発芽しても、その実はすぐに奪い取られ、手元には何も残らないことを知るべきである。

 組織や、事物や、指導者に依存して、目に見えるものによって自己価値を保証してもらうことをやめ、霊的な中間搾取者から離れなさい。そうすれば、信者は、見えない神に直接、仕えることができるようになり、その働きが、誰にもかすめ取られず、信者自身の人生に利益として還元され、いつまでも残る実りになるでしょう。

「よく聞きなさい。種を蒔く人が種まきに出て行った。

 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。

 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ目を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。

 他の種はいばらの中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。

 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。


「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。

 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。

 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐに喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。

 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるのである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。

 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。
」(マルコ4:1-8, 14-20)


神の国とその義を第一として生きるならば、地上を生きるための必要はすべて添えて与えられる。

さて、一つ前の記事は、今から何年も前に起きた出来事を指しており、その後、筆者はこの世の不正に巻き込まれず、むしろ、それを拒み、理不尽には毅然と立ち向かうことを続けて来た。そうして立ち向かう仕事は、だんだん筆者の真の意味での「お仕事」になって来たと言える。

多くの人は知らないが、世の中では、正しいことは正しい、間違っていることは間違っていると、臆することなく、公然と根気強く主張し続けることによって、無益な騒動が起きるどころか、失われた利益が豊かに戻って来ることが多い。

むしろ、どんな理不尽に巻き込まれても、何一つ苦言も呈さず、抵抗もせず、ただ暗闇の勢力のなすがままに翻弄されているからこそ、一方的に奪われるだけに終わるのであって、嘘や不正には毅然と立ち向かうべきなのである。それをしない限り、人は自分を犠牲者とする道を自ら選んでいるも同然なのである。(ただし、このことは事実を公然と主張することを意味し、力づくで復讐を果たすこととは全く訳が違う。)
 
特に、我々の年代以下の世代は、きちんと声をあげて自分の権利を世の中に主張することをしなければ、この先、未来永劫、強欲な経営者(や年長世代ら)によって踏みしだかれ、犠牲とされていくだけである。筆者は世代間の対立を煽るためにこう言うのではない。それが高齢化社会の避けられない構図だからである。(また、それは先祖崇拝や儒教などの精神のもたらす弊害でもある。)
  
そこで、たとえ自分よりも年長であったり、力の強い人間を相手にする時であっても、自己の尊厳を守るために、自分自身の命を守るために、嘘は嘘であり、不正は不正であり、誤ったことは誤っていると、公然と主張すべきであって、それをするかしないかは、生死を分ける問題なのである。

そんなわけで、筆者はかつて信仰の友が語ってくれた通りに、反対に遭っても、あきらめないで根気強く訴え続けることの重要性について、今に至るまで大いに学ばされている。神に対しても、人に対しても、その原則は同じである。

時には、神に対しても、一歩も退かない覚悟で、自分の望みを切に申し上げ、答えを得るまで、直談判を続けねばならない。そして、神はそのように強い願いを持って、ご自分を信頼して御許にやって来る人々を、決して無碍に退けられることなく、むしろ、その願いを喜んで受け止めて下さる。

そのため、私たちはただ自分が生き延びられさえすればそれで良いなどという、あまりにも低い目標で満足して生きるのではなく、決してあきらめることのできない崇高で切なる願いを、誰しも持つべきである。そして、それをこの社会に、人々に訴え、まことの神に訴えながら、根気強く実現を目指して生き続けるべきなのである。

ところで、話題は変わるようだが、筆者の地上の家系には、求道者の血筋が流れていると言えるかも知れない。

筆者は現在、キリストにあって、地上の生まれとは全く異なる新しいアイデンティティを生きているが、それでも、時折、地上の生まれにも、深い意味があったのかも知れないと思いめぐらすことがある。

そう思うほど、筆者の家には、宗教に関わりのある人々が多く、キリスト教徒も、数は少ないが、祖先にいないわけではない。どうやら筆者の地上の家系には、飽くことなく道を探求する血筋が受け継がれているようである。

しかし、筆者は中途半端な求道者にはなりたくない。どうせならば、生涯に渡り、本気で道を究め、真剣勝負で生きたいものである。

筆者の遠い親戚のある一人は、若い頃に、尼僧になろうとして禅寺に出家した。本来ならば、この世を最も謳歌していて不思議ではない娘時代のことである。

彼女は少しも引っ込み思案でもなければ、厭世的な性格でもなく、むしろ、幼い頃から活発で、怜悧で、いつも大勢の友達に慕われ、成績も抜群で教師からの覚えもめでたかった。

それにも関わらず、俗世での成功をすべて捨てて構わないと決意したのには、おそらく、戦後、敗戦の根本的な反省もないままに、経済成長だけを至高の価値のように目指していた当時の時代の風潮や、物資と愛情に不足しながら育った家庭環境への疑問が影響していたのではないかと思われる。

彼女は、自分の生まれ育った家庭を見て、一体、これが真の幸福だろうかと疑問に思い、家庭に入って妻となり母となるという役割は、人生のゴールたりえないと思ったのであろう。また、受験競争や就職戦線を通して、何なく勝ち得られそうなこの世のもろもろの成功も、移ろいゆく表面的な有様に過ぎず、真の満足を見いだせないものと見たのであろう。

目に見えるものよりも、もっともっと本質的で、永遠に消えることのない確かな価値を求めて、か細い希望を辿りながら、暗闇の中を手探りするように、俗世における幸福をすべて捨てる覚悟で、修行に入ったと見られる。

しかし、その探求は中途で止まってしまった。修行中に、生涯独身を貫くことを覚悟していた彼女に、熱心にプロポーズする人が現れたのである。その人もまた修行僧であった。「あなたには尼さんのような孤独な生活は向かない。ぼくが住職になるから、ぼくの妻になって、ぼくをサポートしながら、幸せな生活を送りなさい」

真面目で働き者だった彼女は、人を助けることには向いていたと思われる。そのプロポーズの言葉を、真摯な愛情だと思い、尼僧になる道をあきらめ、住職の妻となり、家庭に入った。

しかし、その後、歩んだ道は、およそ道と呼べるものではなく、彼女が当初、探求していた目標とは、大きくかけ離れていた。

苦しい修行の時代が終わると、黙っていても、死者が出る度に、寺にはいくらでも収入が入ってくるようになった。夫も遊び好きで、贅沢な別荘を買い、国外へ進出し、豪奢な生活をほしいままにした。

子供たちにも何不自由ない暮らしをさせて、良い大学に進学させ、良い就職先に送り出した。あるいは、寺に嫁がせたりと、ちょうどキリスト教界における牧師の師弟らが政略結婚を重ねているのと同じように、血縁とコネがものを言う、世俗にまみれた特権的生活が築き上げられたのである。
 
それは、外見的には大きな成功であったかも知れないが、若い頃に彼女が真剣に探求していた道とは随分、異なっていただろう。本当にそんな生活を送るために、寺に入ったのだろうか。これでは俗世と何の違いがあろうか。しかし、その疑問は、心の奥底に封印されてしまった。

そのうちに人生の引退を考えるべき年齢になり、夫も病に倒れ、以前のように精力的な活動ができなくなった。幸福という幸福は手に入れたので、人生でやり残したことはもうないかのようであった。だが、幼い頃からずっと抱えて来た心の飢え渇きは、答えを見つけて解消しない限り、老人になっても、ずっと満たされないまま持ち続けられる。

夫に尽くし、子供に尽くし、寺を発展させるという選択肢がもはや人生の第一目的ではなくなった時、彼女は、生まれ育った家庭の両親を振り向いて、親の必要を満たすために尽くし始めた。

しかし、それは自分がすでに出て来た家庭であり、そこでは、すでにほかの兄弟が親に仕えていた。

にも関わらず、彼女は夫に仕えるようにかいがいしく両親に奉仕し、湯水のように使える金を惜しまず介護に投じた。
 
だが、その奉仕は、兄弟には喜ばれなかった。むしろ、やればやるほど、兄弟との間にライバル関係が出来上がって行ったのである。それはただ幼い日の生活の再現でしかなかった。

彼女の親は、彼女の熱心さ、親切さを大いに利用したが、それは娘を評価するがゆえではなく、自分が有利になれる保険を常に用意しておくことが目的だった。

悪い親は、子供たちを自分の利益の道具として競争させて、ライバル関係に置く。兄弟姉妹の信頼関係はそのせいでズタズタに壊され、もしそのことに気づかなければ、生涯に渡り、血を分けた兄弟姉妹の間で、親の評価を奪い合う骨肉の争いが続くことになる。
 
彼女はそれが分からず、親に仕えた。それはちょうど彼女が、尼僧になる道を捨て、夫の人生のサポート役として、自ら夫の出世を実現するための道具となって仕えたのと同じである。
 
彼女はそれが善意であり、親切だと考えていたのであろう。しかし、彼女が仕えた相手にとって、彼女は保険でしかないことを考えてみなかった。
 
彼女が彼らに仕えれば仕えるほど、ますます彼らはわがままになって行き、彼女の誠意を軽んじるようになった。それは彼らがいつも、彼女とは別な誰かを天秤にかけて、彼女と競争させることで、自分に有利な結果を引き出そうとしていたからである。
 
彼女の奉仕は、平和ではなく争いを生んだが、彼女はそのことに気づかなかった。
 
出家したにも関わらず、彼女がそのように自分の家を重んじ、人の関心や評価を勝ち取るために、人の利益に仕えて生きて来たのは、おそらく、まだ日本が豊かさの中に入っていなかった幼い時代に、彼女が両親から十分に振り返ってもらえず、物質的にだけでなく、精神的にも貧しい家庭生活を送ったことに原因があると見られる。

その時代、同じような幼少期を送った人々は多かったであろう。彼女は決して親を煩わせることのない、よく出来た子供であったが、そのように優秀であったがゆえに、余計に、必要な時に親に助けを求めることもできず、振り返ってもらうことのできない寂しさを心に抱えていたと考えられる。

その満たされない思いが、大人になり、老人になっても、持ち続けられ、そのせいで、人からの評価や関心が欲しいという心の飢え渇きが、出家後も、我が道を貫くことを邪魔して、彼女を常に人の思惑の方へとひきつけて行ったのである。
 
それは、彼女が出家しながらも、真の意味での「出家」ができていなかったことを意味する。生まれ育った家庭からのエクソダスが、心の中で完了していなかったからこそ、自分の心の探求よりも、地上の「家」を優先して生きる道に舞い戻ってしまったのである。
  
筆者はこの人に直接、聞いてみたことはないが、心の中で次のように問うてみる、禅寺であなたが探していた答えは見つかりましたか。そこで人生の本当の満足は得られましたか。裕福な家庭を築き上げることが、あなたの出家の真の目的だったのでしょうか。それから、あなたを幸せにすると約束した人は、本当にその約束を果たしてくれたと思いますか。むしろ、あなたを道から逸らして、あなたが目指していたのとは全く違う目的のために、あなたを都合よく利用しただけの可能性があるとは思いませんか。
  
もしもその推測が当たっていたとして、あなたを取り巻く人々が、あなたに対して心から忠実でなく、あなたの親切心や善意を利己的な動機で利用したのだとしても、それは他ならぬあなた自身が、自分の心が最も求めていた答えに忠実でなかったから、周りの人々も、あなたに対して同じように振る舞ったのだとは思いませんか?

あなたは道を究めようとしながら、同時に世俗の幸福を追い求めた。それは二心ではなかったでしょうか。豊かに生きることが悪いことなのではない。しかし、禅の道に入ったのは、決してこの世の成功を第一に目指して生きるためではなかったはずです。あなたにはそれ以上に求めていた目的があったのではないでしょうか。

人から真に評価を勝ち得たいと思うなら、そのためにも、我が道を貫かねばならず、望んでいる最高の答えを見つけ出さねばならないのです。

しかし、あなたは本当の答えを見つけるために、孤独な生活を耐え抜いて、納得がいくまで、すべての物事を見極めるという探求に、自分は値しないという人の言葉を信じてしまった。

あなたはそのような高い犠牲を払える人間ではないから、その道は早々にあきらめた方が良いという他人の言葉を信じてしまった。その人は、その言葉をあなたのために発したのではなく、自分のために発したのに、あなたにはそれが見抜けなかった。そして、求めている最高の価値に、自分は値しないと思い込み、他者のサポート役に徹し、自分の目的をあきらめたから、あなたの探求は、世人と同じように、中途で終わってしまったのです。

だからこそ、現在のあなたの生き方の中には、俗世の人々と同じ価値観の他、出家して初めて得られたという知恵と喜びが見受けられないのです。
 
* * *

上記の話は厳しい批判の言葉であるが、一種の比喩である。クリスチャン家庭にも、似たような事例は数えきれないほどある。真理を探究しながら、途中で別の道へ逸れていく人は、いつの時代にも後を絶たない。
 
人の目には、この世で成功しているように見えさえすれば、心の探求を置き去りにしたことなど、誰にもとがめられないであろうが、神の御前には、自分の心をごまかすことはできない。

私たちは、道を探し求める時、自分自身の心の飢え渇きに対してどれほど忠実に歩めるかを試される。そして、その問題にまだ答えが見つかっていないうちに、それ以下のもので満足させられて、探求をやめてしまうことには、重大な危険が伴うことを知らなければならない。

筆者は、キリスト教徒として、「自分の心に忠実に歩む」のでなく、「神の御心に忠実に歩む」と言わなければならないが、しかし、神に忠実であるとは、そもそも自分自身の心の求めに忠実でなければ、できない相談である。

自分で自分の本心を偽っておきながら、神に対してだけは忠実に歩むなど、不可能だからである。

そこで、真実に神に従うためにも、自分で自分の心をごまかさず、偽らず、自分に対しても、他者に対しても、神に対しても、正直でなければならない。

しかし、多くの人々は、人の目に評価されるために、自分で自分の心を偽り、自分の本当の願いを後回しにし、自分を押し殺して生きている。そのような不真実な歩みの中で、神に対してだけは忠実に生きるとか、あるいは、真剣に真理を尋ね求めるなど、土台、無理な話なのだが、それを知らないのである。

自分で自分の心をごまかしている人が、真理に到達するなどということは、いかなる宗教であろうと、絶対にあり得ない相談である。

しかし、自分の心を偽らないで生きることは、かなりの犠牲を要し、他者が何と言おうとも、一切、その言い分に引きずられたり、心惑わされることなく、わき目もふらずに、自分の心の願い求める利益だけを第一優先して生きる姿勢がなくてはならない。

納得のいく答えを得るまで、絶対にあきらめず、困難にぶつかっても一歩も退却せずに、目の前にある課題とずっと取っ組み合わなくてはならない。
 
それはこの世の人間関係のしがらみにとらわれず、他者の思惑を全く意に介さない生き方であるがゆえに、この世の価値観とは全く異なり、わがままだとか、非常識だとみなされることが多い。そして、そのように誤解を受けたり、反対を受けたり、その探求をやめるよう説得されたり、世の賛同や理解を失うときにも、他者からの評価をすべて置き去りにしてでも良いから、自分の心の願い求めを最優先して生きることには、相当な犠牲が伴う。それを貫徹できるかどうかで、求めている答えが人生で得られるかどうかが決まるのである。
 
しかし、それを果たしてこそ、求道生活なのであり、答えを得るためには、自分の心が真に求めているものに対して、徹底的に正直な姿勢が必要である。

伝統的なキリスト教においては、自分の利益を最優先して生きることは、罪深いことだと教えられている。しかし、そのような考え方の中には、ある種の危険が伴う。キリスト教徒の間でも、物欲が罪だとか、年長者の意見に従わないことは罪だとか、フルタイムの献身者になりたい人がペットを飼うのは罪だとか、ありとあらゆる愚かしい誤解が飛び交っている。

しかし、真の罪とは、人が神でないものを神として最優先して生きることであり、人がこの世の事物や思惑によって、自己決定権を奪われ、自分の意志により御言葉に従うことができなくなった状態を指す。

もしも物欲や、欲望それ自体が罪だというならば、人間は地上に生存する術すらもなくなるであろう。何かを欲することそれ自体が罪なのではなく、その欲望が、神に従うことと両立しないまでに、その人の心の王座を占め、人が己が欲望の奴隷になるとき、罪が発生するのである。

筆者は記事冒頭で、禅寺に出家した人が、世俗的な享楽を謳歌することを批判したが、それは決して禁欲的な生活を奨励するためではなく、裕福な生活を送ることや、家庭を持つことが罪だと言いたいがためではない。

そうではなくて、人は自分が願い求めている最高の価値を、まず第一に追い求めて生きる姿勢を貫かねばならず、その原則は、キリスト教に限らず、すべての物事に共通するということを言いたいのである。

金メダルを目指していた人が、それ以下の賞で満足できるだろうか? 「あなたには金メダルは無理だから、目指すなら、最初から銅メダルくらいにしておいたらどうですか?」という言葉が、人を真に尊重する言葉であろうか?

どうせ高い目標を打ち出すならば、高望みしただけで達成できなかったと言われないために、最後まで犠牲を払って目的を追い続けなければならない。自分が目指している目標のために犠牲を払うこと怖さに、自分で自分の心を偽り、二義的な利益で満足してしまうと、最も価値ある探求がやむことになり、結果として、地上的利益が、真理を退ける罠となってしまう。

裕福な生活を送ることそれ自体が罪であるわけではない。しかし、そうしたこの世的な価値を至高の価値であるかのように錯覚して、この世の事物を超越した、真理を求める自分の心の探求を、二義的なものとして扱うときに、目に見えるこの世の事物が、人間の心を誘惑し、堕落させる罠となるのである。

だから、もう一度、以下の御言葉を挙げておこう。

「信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それらはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:30-34)


命の御霊の法則に従って支配する―朽ちる卑しいもので蒔きながら、朽ちない高貴な収穫を刈り取る

このところ、筆者は、キリスト者の人生においては、何もかも、信者が信じた通りになるということを、あらゆる機会に確かめさせられている。そして、絶大な権威を持つ主の御名を託された神の子供たちの召しについて考えさせられている。

ほとんどの人たちは、あらゆる瞬間に、自覚せずとも、何かを信じ、何かを事実として受け入れる決定を心の中で下している。たとえば、天気が良ければ、今日は良い日になるだろうと予測するが、TVで沈鬱なニュースが流されたり、どんよりした空を見れば、それに影響されて、今日という日には何も期待できないなどと気落ちしたりする。

信者の場合は、そうした予測が単なる予測で終わらず、心に確信したことが、信仰を通じて働き、事実として成就する。そこで、信者が、どんな状況でも、御言葉に約束されている神の恵みに達するまでは、決してあきらめずに進み続けるのか、それとも、状況に翻弄されて簡単に御言葉に反する現実を抵抗せずに受け入れるのかにより、信者の人生、信者を取り巻く状況は大きく変わる。

神の約束を失わないために、信者が見張り、コントロールせねばならないのは、自分の心である。

「 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。 」(箴言4:23)

この原則は、信者が自ら主と共に絶え間のない創造行為を行い、常に恵みを天から地に引き下ろす通り良き管となるために、まずは自分自身の心の思いをしっかりと制御しなければならないことを示している。

一言で言えば、神の絶大な祝福を受けるために、信者には口を大きく開けることが求められており、目的をまっすぐに見据え、何が起ころうとも、そこから目を離さず、目的を達するまで進み続ける姿勢が必要となる。恐れに駆られて、自分の口を自分で閉じてしまうことがないよう、自分の心を見張らねばならないのである。

これまで、信者は御霊の命の法則に従って支配する存在である、ということを述べて来た。最近のオリーブ園のオースチンスパークスの連載は、奇しくも、まさに同じテーマを扱っている。

一言で言えば、信者は主の御名により、地上のすべてのものについての決定権・支配権を握っているのであり、さらに来るべき世界においても、これを行使するために、その支配権の使い方をこの地上で学ばなければならないのである。

信者にはアダムに与えられた召しである地上のすべての被造物を管理する権限が、キリストを通して託されている。そこで、信者がキリストの身丈まで成長するとは、信者の内側での信仰の増し加わりを意味し、その増し加わりは、しばしば目に見える結果を伴う。

キリストの身丈にまで成長することは、世で考えられているように、信者がキリスト教組織を拡大するために偉大な福音伝道者となることを意味せず、信者が地上の人生を通して、地上にあるものを、いかに神の御心にかなうように管理し、それによって神の栄光を表すかという度量・力量を指す。

有名なへブル書の文章は、信仰によって、私たちが目に見えない世界から、目に見える結果を引き出すことができるとはっきりと告げている。これはまさに無から有を生み出す創造行為であり、それが信仰の力である。そして、私たちはこのような形で、無から有を果てしなく生み続け、天から相続財産を地上に引き下ろし、増やし、表していかねばならないのである。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブル11:1)

信仰とは、信じる者たちがそれぞれが自らの望みに従って、目に見えない世界で創造行為を行い、自ら望んだ事柄を、事実として実体化させることを保証するものである。

私たちが望んだ事柄が、目に見えない信仰の霊的な世界で働いて、目に見える事実として結実することを、それに先立って保証するものが信仰なのである。

このような信仰のサイクル(無から有の創造)を行うためには、信者は、まず、望む(願う)という行為を行う必要がある。次に、願ったことが、まだ目には見えないうちに、すでにそれが「事実」として自分に約束されており、その成就が約束として保証されていることを、心に固く信じることが必要である。

さらに、その信念に従って、実際に、望んだものを手にするために、これを要求し、獲得するための具体的なアクションに出る必要がある。

筆者から見て、この最後のアクションである「要求する」ということは、非常に重要である。なぜなら、望んだものが実際に成就するまでには、幾多の困難があり、その困難をすべて粉砕・打破して、心に確信した目的にたどり着くために、信者には絶え間なく御言葉の約束に立って、自らに保証されたものを要求し続ける態度が必要だからである。

望んだものにたどり着くまでに、様々な困難につき当たると、たちまち諦めて退却してしまうような姿勢ではダメなのである。

無から有を生み出す行為は、天地を造られた神のなさるわざであるが、それを私たちはキリストの御名を託されていることにより、主と共に自分自身で行う権限を持つ。

御名を託されている信者は、救われた神の子供たちであるだけでなく、神の代理人としての相続人でもある。地上のものの管理を任されているだけでなく、来るべき事柄、来るべき国の管理をも任されている。

だが、信者が未熟なうちは、多くの訓練を経なければならず、その意味で、偉大な相続人であるというよりも、神の僕と呼ばれるべきかも知れない。だが、神の御心は、私たちが僕で居続けることにはない。信者が成熟した暁に、キリストと共に、神の国の跡継ぎと呼ばれるにふさわしい神の息子・娘たちになることにある。

僕、子から成人した息子・娘たちへの成熟は、私たちが神ご自身、キリストご自身とほとんど変わらないまでに絶大な権威を持つ御国の相続人となることを意味している。

しかし、そのはかりしれない意味を理解する者は、この地上には少ないかも知れない。なぜなら、神が人にご自分とほとんど変わらないほどの絶大な権限を与えられたなどということは、人にとってはまことに信じがたい事実だからである。

そして、そのことは、決して人が神と同一になることを意味しない。この世で現人神を名乗り、自らの力で神を乗り越えようとする人々は、決まって悲惨な最期を遂げる。信者にどんなに信仰が増し加わったところで、信者が神ご自身になるわけではない。

とはいえ、それにも関わらず、神は、一人一人の信者に、実際にキリストと同じほど、御子と変わらないまでの高貴な性質を約束しておられ、それに一人一人をあずからせたいと願っておられ、そのためにこそ、惜しみなく御子を私たちにお与えになられたのである。

神は唯一であり、ご自分の栄光を決して他の者にお与えにならない方である。ところが、エステル記において、王がエステルに向かって、もし彼女が願うなら、王国の半分でも与えようと述べたように(王国の半分を与えるとは、王と共に共同統治者になることである)、神はご自分の子供たちに、ご自分と同じような、共同の統治権を与えたいと願っておられる。それほどに、人に大きな期待と権限を託されているのである。

神は、天地創造以来、この目に見える地上の世界を治める役目を、人間に託されたが、それだけでなく、その目に見える世界における支配を、やがて来るべき霊的な世界(新しい天と地―御国)における支配の土台とされようとしているのである。

私たちはこのことをよく理解する必要がある。それによって、どれほど大きな権限を神が人間に付与しようとしておられるか、理解できるからである。

マタイによる福音書の第25章14節から30節までに記されているイエスの語られた有名なタラントのたとえが何を意味するのかは、それによって理解できる。

「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。

早速、五タラントンを預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントンを預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントンを預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。

さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』

主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。:主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った、『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』

主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

このたとえは、一言で言えば、信仰による創造行為を指している。たとえば、目に見える容姿、身体的特徴、知能などの卑しい体の性質が一人一人異なるように、一人一人の信者に、目に見える形で与えられている資質、才覚、賜物はそれぞれに異なっている。

しかし、それとは別に、それぞれの信者に、からし種一粒のような信仰が、御霊によって与えられている。そこで、この信仰を経由して、信者には今現在、自分が手にしている目に見える賜物を元手に、それを信仰によって何倍にも増やして、天の父なる神に栄光を帰することが求められているのである。

それが「霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」(ガラテヤ6:8)の意味である。

また、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。」(Ⅰコリント15:43)という御言葉の意味である。

後者の御言葉は、死者の復活だけに当てはまるのではなく、無から有への創造行為のすべてに当てはまる原則である(死と復活の原則)。

つまり、このことは、この目に見える世界に生きている信者らが、目に見えるごくわずかな取るに足りないものを元手として、それらを目に見えない信仰の世界を経由させることによって、自ら望んでいるものを、目に見えない世界から、目に見える形で呼び出し(生み出し)、それによって、霊的な収穫を得て、天に栄光を帰することを意味する。

タラントのたとえでは、そのような創造行為を盛んに行い、神の栄光を表すに十分な収穫を得た僕だけが、主人の心にかなう者として、よくやったと褒められるのである。

このたとえを読む限り、たとえば、「私はしょせんどこにでもいる取るに足りない人間に過ぎませんから、信仰などあっても、どうせ大それたことなどできるはずがありませんし、そんなことは初めから望んでもいません」などと言い続けている信者は、まさに、与えられた賜物を全く活用せずに地中に埋めて隠した悪い僕と同じであることが分かる。

あるいは、「私は可哀想な人間です。私はこれまで絶えず運命に翻弄されて追い詰められて来た被害者です。こんな風に絶えず傷つけられ、卑しめられている弱い人間に、一体、何ができるでしょう。私を哀れんで下さい」などと言い続けている信者も、同じである。

確かに、人間一人一人には弱さがあり、この地上の体は、有限であり、様々な制約に縛られている、朽ちる卑しい体である。また、私たちが地上で与えられているものも、ちっぽけでささいなものに過ぎないかも知れない。しかし、少年が差し出した二匹の魚と五つのパンを、イエスが祝福して、何倍にも増やされた時と同様に、私たちは、自分に任されている、朽ちる卑しい、弱くちっぽけなごくわずかなものを使って、これを何倍にも増やし、はかりしれない天の祝福を表すことを求められているのである。

たとえば、あなたが今ごくわずかなお金を手にしているとする。そのお金を、あなたは信仰を経由することなく、地上の必要に費やすこともできるが、そうすれば、そのお金はただ消費されてなくなるだけである。

しかし、あなたはそのお金を、信仰を経由して、キリストの栄光のために、地上の必要に費やすことができる。ただ飲み食いし、買い物をして、自分の必要を満たすためだけに使うのであっても、それをキリストのために、天の栄光のために行うならば、そこで費やしたものは、ただ消費されてなくなるのではなく、さらに豊かな収穫を伴って帰って来るのである。

つまり、そこで消費されたお金は決してなくならない。これは本当のことである。(しかし、そうなるためには、真に信仰によって、神の栄光になるように使わなくてはならない。)

だが、あなたがごくわずかなお金しか手に持っていないときに、この原則を試すのには、まさに勇気と信仰が要るだろう。ごくわずかなお金しか持っていない人は、通常、これを使うことをひかえる。貧しい人たちは、そのようにして、外出も、飲食さえも、最小限度にとどめ、自分が持っているごくわずかなものを消費することを何とかして避けようとする。しかし、そのような姿勢は、まさに地中に一タラントを埋めた悪い僕と同じなのである。

もしあなたに信仰があるならば、自分が持っているごくわずかなもの(それはお金だけでなく、あなたの心、体、資質、才覚、あなた自身であるかも知れない)を、恐れの心から、なくならないように自分で握りしめ、使用を制限しようとすることをやめて、大胆にそれを消費するために差し出さねばならない。

(だが、繰り返すが、それは真に信仰によってなされなければならない事柄であって、たとえば宗教指導者など他人からの命令や、他人の期待に応えるためにやってはいけない。)

この原則を試してみることをお勧めする。信仰によって、消費すれば消費するほど、それはすり減ってなくなるどころか、かえって増えるという原則をあなたは見い出すだろう。

前回、私たちが信仰によって求めるものは、主に対するつけ払いのようなものだと書いたが、私たちは、今、地上にうなるほどの財産があって、はてしない土地を所有しているから、自分は豊かだと宣言するのではない。

それらの目に見えるものが、まだ目の前にない時に、来るべき豊かな相続財産が確かに約束されていることを信じて、これを宣言し、そこへ向かって、信仰によって一歩を踏み出すのである。
 
聖書は、主の御名によって求めなさい、と教えている。私たちが何を求めて良く、何を求めてはいけないか、という具体内容は、聖書にはほとんど書かれていない。主を悲しませると明らかに事前に分かっている悪でなければ、私たちは自分に必要なものを、どんなものでも、大胆に御座に進み出て神に希う自由を与えられているのである。文字通り、どんなものでも。

しかし、目に見える保証が目の前にない時に、その望みに向かって一歩を踏み出すことは、まさに信仰のわざである。ほとんどの信者は、目に見えるちっぽけな財布、さらに、自分のちっぽけな狭い心と相談の上、受けられるはずの祝福を自分で拒否する。そして、偉大な主人の僕であって、はかりしれない御国の相続人でありながら、まるで奴隷のように行動し、あらゆる恵みを自分で拒否した挙句、「なぜ神は私には恵みを与えて下さらないのか。なぜ私の人生はこんなに惨めで不幸の連続なのか。神よ、どうして私を憐れんで下さらないのですか」などと神に問うのである。

それが、一タラントを地中に埋めた男のたとえである。しかし、彼は自分で自分の恵みを制限しているのであって、神が彼を制限したわけではない。神は私たちにそれぞれの分に応じて、十分な人間的な個性や、能力をお与え下さり、さらに財産をもお与え下さった。それが今現在、あなたの目にどんなにちっぽけで些細なものに見えたとしても、私たちは、からし種一粒ほどの信仰を経由して、それらの目に見えているものを何倍にも拡大し、神に栄光を帰するためのはかりしれない富を生み出すことが可能なのであり、その成果を現実に期待されているのである。

そこで、あなたがもし真に豊かになりたいと願うならば、自分が持っているものを、なくならないように握りしめて、誰にも触れさせないように金庫に保管するのではなく、豊かに蒔き、散らさなければならない。それは絶え間ない消費活動であって、そのサイクルの中で、初めてあなたは獲得物を増やしていくことができる。

そのようにして信者一人一人が自分に地上で任された目に見えるものを、目に見えない信仰を経由して、どのように管理するか、どのように収穫を得るのか、得られた成果に応じて、来るべき御国における信者一人一人の権限や分が決められて行くのである。
 
このような地上での訓練を通して、最終的に、御国の相続人(神の代理人)にふさわしい権威、尊厳、支配権を持つことが、父なる神が、信者一人一人に期待されている事柄なのである。