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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(30)ーこの朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。

さて、このシリーズも30本に達した。次回からは、第二審に向けて標題を改めることにしよう。

先の記事で、本紛争は、行き着くところまで行き着き、中途半端な妥協点は退けられて、どちらかの陣営が社会的に抹殺されるなど、完全な勝敗が明らかになるまで、続くだろうと筆者は書いた。

筆者はこの紛争が始まる前から、論敵の口を完全に封じること、ハガルとイシマエルの子孫を神の家から駆逐することが紛争の目的であると何度か断って来た。だが、当初は筆者の目にも、それはあくまで霊的法則性を表すものであって、地上の人間に対しては各種の情けが必要であって、文字通りにその法則性を当てはめてはならないものと見えていたのである。

そこで、筆者は誰かを社会的に抹殺することなどを目的として本紛争を提起したわけではない。それにも関わらず、事態がどうやらそのような方向にしか進まないらしいことを、筆者はここ数日間で理解した。

筆者はこれまで、一審判決で下された命令を、被告に字義通り、忠実に実行させることが、自らの責務であると考えていた。「命令」と「実行」を一つにするとは、そういうことだと解釈していたのである。

ところが、被告は賠償金を支払わない。これを支払いさえすれば、新たなる差押がなされるなどの不利益を被ることはないと、どれほど伝えても、身を守るための措置も講じず、敗北を認めず、判決に従おうともしない。

こうして、賠償命令が未だに実現していない理由が、なぜなのかを考えるとき、それはこの戦いが、決して一審判決で命じられた事柄を字義通り実現しさえすればそれで良いという性質のものではないからだと、筆者は思わざるを得ない。

被告は、自分に不利な判決を取り消してもらいたいがゆえに、控訴したそうである。また、筆者との直接交渉の中で、筆者の意思と情けを踏みにじり続けることで、判決の解釈と実行をどこまでも自分に有利に曲げようとしている。

だが、もしも敵にそのような模索が可能ならば、こちら側にも当然、同じことができる。つまり、判決は変えられないが、その執行の形態はいくらでも変えられる。そのことは、判決の解釈を変更することに等しく、「命令」に対する相手方の反応を見て、その実行形態を様々に変化させて、段階的により容赦のない措置に及んで行くことを意味する。

これが、本紛争が究極的なところまで行き着かねばならないとする筆者の予想の根拠である。被告が命令に逆らえば逆らうほど、彼にはしたたかな破滅が避けられないものとなって行くのである。だが、それは筆者が選んでいるのではない。被告自身の選択なのである。
 
筆者は、供託係と話をした時に、この印象を伝えておいた。「第三債務者はよほど不運な人間だ。ここでお金をおさめておけば、これ以上、ひどい事態は起きようがなかったのに、支払わなくて良い口実をもうけるためだけに、係の者に接触し、自分に都合の良い解釈を引き出し、供託はできないと結論づけた。もう少し丁寧に物事を説明する係であったなら、彼にデメリットを教えてくれて、思いとどまるように示唆してくれたかも知れない。なのに、それもなく、彼は自分に都合の良い説明を聞いて、それに飛びついた。だが、このことは、彼にとってさらなる不利益にしかつながらない。こうして、彼は自分のために与えられた情けを自分で踏みにじり、自ら猶予を無駄にしたのだ。このようなことは、よほど不運な人間にしか起きない・・・。」

こうして、一審判決の解釈は幾通りにも変えられて、より情け容赦のない措置が取られることになるだけではない。一審判決そのものの不完全な部分も、控訴審で克服されて上書きされることになる。

筆者は、このような事態になっているのは、現在の成果で決して満足してはいけないという天の采配であるとみなしている。

幾度も言うが、筆者は本紛争を提起するに当たって、どちらかの陣営が社会的に抹殺されるまで争いたいとか、最高裁まで争いたいなどという願いは微塵も持っていなかった。むしろ、一審を担当してくれた裁判官が、とても善良で、優秀で頭脳明晰な人物と見え、かつ、それだけでなく、何より重要なこととして、本紛争の核心部分を、実に早い段階で深く理解してくれていることを知ったとき、これならば十分に一審で終われるだろうと考え、そうなることを望んでいたのである。

それにも関わらず、現在、その裁判官の判決を「上書き」することを求めて控訴する事態となっていることは、かえってとても良いことだと筆者は考えている。

筆者がこれまで常に学んで来た教訓は、キリスト者は、決して誰をも自分の心の偶像としてはならないし、自分の代理人としてもならない、ということであった。弁護士などという職業が、我々にとって不要なだけではない。どんなに優秀で、どんなに深い理解を持つ、どれほど親切で善良な人間であれ、神以外の何者も、私たちの代理人にはなれないのだ。

だから、決して地上のどんな人間に対しても、私たちは決して自分の願いをことごとく託すようなことはしてはならない。
 
むしろ、私たち自身が、キリストの代理人であり、そして、キリストが私たちの代理人となって下さる。私たち自身が、主の思いを実行する側に立っているのである。このことの絶大な意味を決して忘れてはいけない。

一体、キリスト以外の誰が、私たちの心を隅々まで理解し、私たちの権利をことごとく守るための力強い代理人となって下さるであろうか。誰が敵を粉砕し、足の下に踏みにじり、私たちのために大胆な勝利と解放の宣言を打ち立てて下さるであろうか。

私たちは、鏡に映すように、彼(イエス)の栄光を移す民である。この関係は実に言い尽くせないほどに価値ある、栄光に満ちたものだ。ところが、その神を捨てて、人間に過ぎない代理人を立てると、必ずや、私たちは、その人の意思や都合に束縛される結果となり、やがては二人三脚で破滅に落ち込んで行くことになる。
 
筆者は、牧師という存在は、人間(信者たち)の欲望の化身でしかないと述べて来た。人は自分の願いを手っ取り早くかなえてくれそうな誰かを常に代理人にしたがるものだ。そして、その者に自分の権利を託し、願いを託し、その者を自分の「偶像」に祀り上げる。だが、そのようにして、人が神を捨てて、人間に過ぎない誰かを自分の代理人に据えることの結果は非常に苦く厳しいものである。

神はそのようなことをキリスト者にお求めになっておられない。人間を偶像とすれば、解放されるどころか、束縛と隷従が待っているだけである。たとえそこまで深刻な事態に行き着かずとも、私たちが人情を優先して、そこで霊的前進を終わりにすることは、とても危険なことなのである。

そういう意味で、この紛争は、究極的結論に至るまでは、終わらないであろうことを筆者は予感した。そして、筆者自身が覚悟を決めて、そこまで歩んで行かねばならないことを悟った。誰かが筆者を優しくかばってくれて、筆者をこの労苦から早期に解放してくれることを第一に望むわけには決していかないのだと。最後まで大胆に立って、信仰の戦いを忍び通して、勝利を掴まなければならない。

そういう意味で、筆者はこの戦いが続行していることを、まさに主の御心に適うこととして、喜んで受け入れている。
 
* * *

聖書に書いてある、私たちは御使いをも裁く者、世を裁く者だと。従って、傲慢不遜と誤解されることをあえて承知で言うが、本紛争に関しても、真に裁きを下しているのは、実は目に見える地上の人間ではないのだ。

今、遅ればせながら、筆者は急ピッチで控訴理由書を書き上げているところだ。事件ファイルが高裁に届くのに随分時間がかかっていたようなので、おそらく誰も急いではいまい。新たに証拠となる記事も多数、追加されたことであるし、筆者が理由書の提出をするのは、ちょうど良い頃合いになるだろうと思う。

これまで駆け足で当ブログに発表して来た多くの記事は、理由書の土台とするために、過去記事を整理したものである。

そして、理由書を書き始めると、この作業は、非常に楽しいものであり、深い満足をもたらしてくれるものであることが分かった。

筆者は、第一審の時点から、村上が筆者に対して害意を持っていることを確信していたが、筆者が一審を提起した段階では、まだそれは行為としては成就していなかったし、証拠が明るみに出てもいなかった。そこで、このような状況では、裁判官とて如何ともしがたく、現在のような判決が生まれて来るのも、理由のないことではないと言える。

しかしながら、改めて控訴審への準備を進めているうちに、一審判決と戦うわけではないにせよ、一審判決の不完全な部分を、どのように覆い尽くすべきかが見えて来たのである。

ポイントは、第一に、これまでの記事にも書いた通り、カルト監視機構と宗教トラブル相談センターを結びつけて、同センターがカルト監視機構の延長上にあり、その構想の実現として設置されたものであり、根本的に同一であることを、目的と機能の面から論じ、カルト監視機構が設立されていないという判決の前提そのものを覆すことである。

第二に、村上が過去に統一教会信者の拉致監禁等を伴う説得に関わって来た行為なども指摘しつつ、反カルト運動による権利侵害の一助を村上の活動が担っていると見られることを指摘することだ。

そして第三に、村上が一審判決言い渡し直後から、筆者に対する人格権の侵害行為に及んだり、筆者を刑事告訴したと告げたり、筆者が犯してもいない犯罪行為を犯しているかのように示唆したり、裁判資料として提出した筆者のメールを無断で公開したりした行為は、すべて宗教トラブル相談センターの暴走を示すものであり、それが筆者に対する権利侵害に結びついているだけである。そのことは、筆者が2009年に、カルト監視機構が魔女狩り的な粛清を生むと予告して行った警告に、現実性・信憑性・相当性があることの証拠である。

こうしたロジックの組み立てによって、2009年に村上が著した筆者に関する二つの記事が、権利侵害に当たらないとする判決をも、覆せるだろうと筆者は考えている。

それと並行して、掲示板に対する訴訟を起こすことで、投稿者を特定し、共謀関係の有無を突き詰めることも重要な課題である。それにより、サイバーカルト監視機構の問題についても、新しい見方を与えることができる。しかし、これは時間のかかる作業のため、この問題が明らかにならないうちに二審が終われば、二審でもこの紛争は決着しない可能性がある。

当初は、個々具体的な権利侵害だけを論じる予定だったのだが、考えれば考えるほど、二審は「カルト監視機構」が争点となるという予感は否定できない。

筆者が一審の裁判官の仕事を高く評価していたのも、今でも移送の申立の却下通知をホームページに掲載している通り、この裁判官が「カルト監視機構」こそが、本紛争の最大の争点であることを、訴訟の開始当初から見抜いていたためであった。裁判官の文章は、あくまで筆者の主張を簡潔にまとめただけのように見えるかも知れないが、実はそうではないと、筆者は確信している。

筆者は、この文章を読んだとき、この裁判官が、本紛争は、カルト監視機構という悪魔的構想に対して、それぞれがどのような信仰的態度を取るかという、深い思想的(霊的)対立が引き金となって生まれたものであり、カルト監視機構の構想こそが、すべての問題の出発点であり、根源であるという深い理解と洞察を、そこで示していることを感じたのである。

その指摘の中には、筆者が気づいている以上の深い洞察が込められていたことに、筆者は驚きを覚えた。
 
だが、一審の最中には、カルト監視機構と宗教トラブル相談センターが実質的に同じ機能を持つものであることを、筆者は論証せず、統一教会の信者に対する拉致監禁など、カルト被害者救済活動の違法性を具体的に証拠立てる資料も提出せず、何よりも、村上と杉本やその他の人々との共謀関係を証拠立てる資料が出て来ず、また、村上も筆者に対するあからさまな権利侵害に及んでいなかったため、村上密という人物が、この悪魔的構想の生きた体現者であるということをはっきりと立証するための決定的な証拠が欠けていた。この状況では、裁判官とて何もできなかったであろう。

そこで、村上の本質が客観的に明らかになるためには、まず第一に杉本が口を封じられるという過程が必要だったのであり、そのためにこそ、一審判決は有益な役割を果たした。だが、紛争は決してそこで終わりになってはいけなかったのである。
 
それは、村上密という人間の本質を明らかにすることこそ、もともと本紛争の最も主要な課題だからであり、杉本の権利侵害行為とて、結局は「カルト監視機構」の発想が具現化して起きて来たものに過ぎないからだ。

筆者から見て、村上密という人物は、「カルト監視機構」という反聖書的発想の生きた体現者なのであって、その村上を手つかずで残したまま、杉本の不法行為だけを認定して終わりとすることは、本紛争の提起された意義を根本的に失わせ、かえって極めて不公平な判決を打ちたてるだけである。

しかし、筆者は一審が開かれていた最中は、そこまでの深い理解には到達していなかった。それどころか、判決が言い渡されても、杉本から賠償金が支払われさえすれば、そこで杉本との間では紛争を終わらせて構わないと考えていたくらいである。

ところが、決してそうなってはいけなかったのである。杉本が今に至るまで賠償金を払っていないことには、以上で述べた通り、深い意味がある。つまり、この問題は、額面通りの金銭によって解決されてはならないほど深いレベルに達しており、杉本は、村上が倒れない限り、決して筆者に敗訴した事実を認めるつもりはなく、神ご自身が、筆者がこの判決を元手に、可能な限りの打撃を敵にもたらし、杉本と村上の両名を打ち破って初めて、この紛争の目的が達成されるのであり、神がそのことを望んでおられるからこそ、杉本自身が、一向に敗訴の事実を受け入れず、未だ筆者の情けを踏みにじり続けているのだということにようやく気づいたのである。

この紛争は通常の紛争とは性質の異なる霊的戦いである。杉本は筆者が2009年に投稿した1件のコメントを利用して、筆者の人生に、最大限の打撃を与えるべく行動して来た。その目的は、筆者を社会的・精神的に抹殺することにあったと筆者は見ている。

そのように、筆者の死を願っていることを明らかにして行動しているような相手に、通常人と同じような情けをかけるべきではないのである。むしろ、その発想をまさに逆転して、彼ら(あえて彼らと呼ぶ)に返さなければならない。命じられた賠償を額面通りに実現させるだけでは解決にならず、それが神が願っておられる最も望ましい解決でもない――筆者はそう思い当たった。

これは正直に言って、大変、恐ろしい結論である。彼らの(霊的)債務が金銭ではかたをつけられないレベルにあることを意味するからだ。

だが、もしも神が本当にそのように考えておられるのであれば、そして、霊的戦いとしてのこの紛争の目的が、そこまで物事を徹底的に明らかにすることにあるならば、誰もそうなることを止めることはできないだろう。おそらく、この先も、杉本はすべての情けを踏みにじって、逃げられるだけ賠償から逃げることによって、最も厳しい断固たる措置が取られざるを得ない状況を自ら作って行くものと思う。

何度も言うが、通常の紛争では決してこのようなことは起きない。訴訟は、法的・社会的決着をつけることが目的であって、人間を破滅させることが目的ではないからだ。通常の紛争では、損害の大きさは、決まっており、賠償もその範囲にとどまり、債務が無限大に拡大して行くとか、どちらか一方が破滅するまで戦いが続行されるなどということはまずない。どれほど巨額の賠償が命じられても、人はそれを払えば、やり直しできる。もちろん、筆者もそう思って、紛争を提起していた。
 
ところが、霊的戦いは、人間の思惑の通りには進まない。そして人間的な観点から見て、明らかに妥当かつ合理的であると見られる解決を退けて、敗訴が究極的な破滅と同義になるほどまでの深刻な事態へ向かって進まないわけにいかない。それは、人々を導いている霊の本質が極みまで明らかになるために、どうしても避けては通れない過程なのである。

つまり、神を畏れることこそ、知識の初めであって、神を知る知識(聖書の御言葉)に逆らう者は、自分のすべてを失い、人生そのものが破滅するという霊的法則性が、動かしがたいものであることが、公然と世に証明されるためには、それ以外の道がないために、敵自らがそうなる道を選ぶのである。

あるキリスト者が、次のように言ったことを思い出す。「悪魔は本当に愚かですよ。なぜって、キリストを殺せば、復活が現れ、悪魔の最大の武器である死が打ち破られて無効になることを、悪魔自身が知っていた。それなのに、彼は抑え難い殺意によって、キリストを十字架にかけて殺さないわけにいかなかったのですよ・・・」

同じように、杉本は賠償金を踏み倒し続けることが、自分に何をもたらすか、知らないわけではない。なのに自らその道を選んでいるのだ。
 
そこで、この戦いには、究極的な結末が待ち受けているだけであって、やり直しのチャンスはない、ということに、筆者はようやく気づいた。被告らには、悔い改めもないし、再生もなく、忠告を聞き入れるチャンスも、情けを受ける余地もない。彼らの行く先は定まっており、それを来るべき世が訪れてからではなく、今この地上にあっても、客観的に人々に分かるように立証する使命が、筆者に託されているのである。

繰り返すが、これは極めて厳粛で恐ろしい事実である。

あらゆる訴訟には、個人の損なわれた利害の回復を目指すだけにとどまらない、個人を超えたレベルの社会的意義が込められているが、霊的紛争となると、その意味はもっともっと深いものとなる。

この紛争は、永遠にまで達する領域に関する物事を争うものなのであり、だからこそ、普通の人間の目に、ほどほどと思われる地点で終わりになることがないのである。

だから、予告しておきたい。筆者は一審判決を飲み込んで、これを上書きし、変更を勝ち取ることとなる。控訴状では、筆者は一審判決の取消ではなく、上書き(変更・追加)を求めている。これは判決の不完全な部分について、さらに主張を補い、完成に導くための措置である。

なぜ筆者が当ブログにおいて、訴訟に関する連続シリーズを書き続けているかという目的も、そこにある。これは歴史を塗り替えるため、存在の上書きをし、朽ちるものを朽ちないもので飲み込み、覆うための措置なのである。

杉本や村上は、人間の正義感に過ぎないものを振りかざし、神の御言葉によらず、教会を悪から浄化しようとしたが、そのような運動は、聖書の神に対する反逆であるから、決して成功に終わることはない、との指摘を筆者は続けて来た。

村上密は、2009年当初からカルト監視機構の構想を批判した筆者に「悪」のレッテルを貼っていたが、事実は全く逆なのであり、それゆえ、村上はいずれ筆者の批判に飲み込まれて終わるというのが、筆者の変わらない見立てである。

このようにして事実を上書きする(もしくは事の真相を明るみに出すことにより、偽りの情報を駆逐する)ために筆者はものを書いている。虚偽のプロパガンダに過ぎないものを、真実によって飲み尽くすために再評価を下し、名誉回復の作業にいそしんでいるのである。

また、この上書き作業は、「名を知る者がその者を支配する」原則に基づくものと言って良い。

杉本や村上は、自分たちが住所氏名電話番号まで自己の情報のすべてを開示して「逃げも隠れもせず」活動していることを盛んにアピールしていた。それを誠意の証しであるかのように宣伝していた。だが、筆者に言わせれば、そのように自己の情報を第三者に無防備に託すというのは、初めからその第三者(大衆)に自己存在を奪われ、第三者によって自己イメージを規定される道を選んでいるのと同じなのだ。

「わたしたちには、神が”霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。”霊”は一切のことを、神の深みさえ究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。<略>霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。
「だれが主の思いを知り、
 主を教えるというのか。」
 しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」(1コリント2:10-16)

キリスト者は、自らすべての事柄を判断するが、自分自身は誰からも判断されることはない。

これまで杉本は盛んに筆者の個人情報を要求して来たが、それは善意によるものではなく、筆者に害を加えようとする意図に基づくものでしかなく、たとえば、氏名を知れば、誹謗中傷に利用する、住所を知れば、提訴するために利用するといった具合であるから、口座番号を伝えれば、強制執行を実行するために利用するだろう。

このように、反カルト陣営に関わる人々は、信者に関して入手したすべての情報を、信者に害をもたらすため、信者を不利な立場に立たせるため、本人の心を支配する脅しの手段として利用して来た。そのようにして、信者を不利な立場に陥れるきっかけをつかむために、彼らは裁判という場を利用して情報の開示を求めて来たのである。

だが、そのように信者に悪意を抱いている人々がいるならば、同じ原則を、そのまま逆に彼ら自身に当てはめることが可能である。自己の情報をみだりに第三者に開示し、「逃げも隠れもしない」などと豪語して、他者の名誉を貶める行為にいそしんでいる人々には、彼らが開示していた情報を利用して、責任追及を行い、開示されていない情報についても、司法を利用してさらに開示を求めるだけのことである。

もともと彼らがそのように世に対して自己の情報を開示していた行為は、それ自体が、他者(世)からの評価に自己存在を規定され、自己を左右され、評価され、簒奪され、上書きされるきっかけを自ら作っているのと同じであるから、彼らの存在は、さらに「聖域」を取り払われて、まるで裸にされるがごとく、徹底的にこの世に対する開示を求められることとなろう。

つまり、彼らが教会の「聖域」に畏れ知らずにもメスを入れ、神に代わって教会の恥を暴き、裁こうとした思い上がりに満ちた計画が、そのまま彼ら自身の上に適用され、成就するということである。それが、主が願っておられる計画であって、主の御名と教会を辱めようとした者に当然のごとく降りかかる報いであって、それ以前のところで決着をつけてはいけないということを、筆者は理解したのである。

筆者は当ブログにおいて自己存在をアピールするつもりは全くなく、キリストによって覆われた新しい人として、世に対して姿を現している。

村上密は、自分は被害者の代理人として行動して来たと言う。代理人とは、自分の名を名乗り、自分の権利のために行動するのではなく、自分が代理としている人物の名を用いて、その人物に代わって、その人物の利益のために行動する者である。
 
私たちは、地上において、誰の代理人なのか。むろん、私たちは、キリストの代理人であるから(牧師が神の代理権威なのではなく、信じる者一人一人が御名の権威を託されている)、私たちは、自己の利益を擁護するために立っているのではなく、キリストの利益を擁護するために生かされているのであり、従って、世の前に立つとき、私たちが自己の名を語るのではなく、キリストの名を用いるのは当然である。

そして、もしも私たちが代理人となって行動しているその方の御名が、私たちの名を圧倒的に超える絶大な権威を持つものであるなら、その方の代理人となることにより、私たち自身が、はかりしれない権限を持つこととなる。

従って、私たちクリスチャンが、幼い頃から「イエス・キリストの御名によってお祈りします。」と唱えることを教えられて来たのと同様、筆者は当ブログにおいても、自己の名ではなく、主の御名によって、すべての事柄を書き記している。

私たちの発する言葉は、一つ一つが不完全であり、私たちの存在も不完全で、影のようなものでしかない。だから、筆者は当ブログで用いている言葉が、隅から隅まで完全であると言っているわけではない。だが、それにも関わらず、私たちが「イエス・キリストの御名」の権威を帯びる時、私たちの不完全さは、主の完全さで覆われ、私たちの弱さは、主の強さに変わり、私たちの不真実は、神の真実によって取って代わられ、敗北は勝利に置き換えられ、悲しみは慰めに変わり、罪は赦しの恵みによって覆われ、朽ちる命が朽ちない命を上から着せられ、滅びゆく有限な者が、神の永遠の命を着せられて、キリストと共に栄光にあずかるのである。

そのようなわけで、私たち自身が、絶えずイエスの命によって、キリストの思いによって、存在を「上書き」されている。そうした現状があればこそ、筆者は、御名の権威を用いて、信仰のない人々の判断を上書きすることを辞さず、またその作業が可能であることを信じている。

筆者は、彼らの判断を飲み込んでしまい、それに上から新しい事実を「着せる」。筆者は「勝利者」として歴史を作り、書き換えているのだが、その「歴史」とは”His-story”であって、カルバリで取られたキリストの勝利に基づくものであって、筆者個人の勝利ではない。

つまり、筆者がすべての物事を「上書き」することによって、着せようとしているのは、キリストご自身なのである。そして、それに従わないものは、すべてのみ込まれて消えて行くか、罰せられるかに終わるであろう。

「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。

この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。

「死は勝利にのみ込まれた。
 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
 死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしたちの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に励みなさい。主に結ばれているならば自分の苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(1コリント15:50-58)

こうして、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬべきものが命にのみ込まれるためにこそ、私たちは証の言葉を述べ続けている。
  
これは神の完全な贖いを巡る争いなのである。だからこそ、人間的な観点から見た合理的な解決に至り着いて終わりになることなく、完全な決着が着けられるまで、戦いが続行される。
 
神の贖いに反対する者には、この地上はおろか、永遠に至る領域においても、容赦のない裁きが下されることが確定している。その霊的法則性が明らかになる地点まで、本紛争は必ず進むだろう。筆者はこれを明らかにする責務を負わされているのであって、それを果たすまでは、この戦いは終わらない。そのことを、ここ数日間で筆者は心に確信させられたのであった。
 
わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(2コリント10:4-6)

主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。

 
すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当てを胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」(エペソ6:10-18)

 
  <続く>

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時をよく用いなさい。折が良くても悪くても励みなさい。今は悪い時代なのです。

「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」 (エフェソ5:15-17)

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(Ⅱテモテ4:2)

「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」(ローマ12:18)

我が国には「帯に短し襷に長し」などという言い回しがあるが、キリスト者の人生は、これとは正反対であって、すべてに「ちょうど良し」というものであるか、もっと言えば、「必要を満たして余りがある」というものである。

時間についても、同様のことが言える。キリスト者は、神の御心をとらえようと、目を覚まして歩んでさえいるならば、不注意でタイミングを逸したと思うような時でさえ、まるで時間軸を逆走するようにして、失った時間を追うことができる。

このようなことを言えば、「あなたは気でも違ったのですか、何をおっしゃられているのか全く分かりません」という答えが返って来そうだが、これは本当のことなのである。

これをたとえるならば、あなたが予め時刻表を調べて、ある電車に乗車するはずだったところ、駅に到着が遅れて電車に乗り遅れたとしよう。その電車を乗り過ごすと、時間通りに目的地に着けなくなり、あなたの予定は台無しになる。そう思ってあなたが悔やんでいると、どういうわけか、乗り過ごした電車よりも、もっと早く目的地に着く電車が、少しばかり予定時刻に遅れて駅に到着した。あなたは運よくそれに乗車でき、結果的に、遅れを完全に取り戻したどころか、予定時刻よりもはるか前に目的地に着いてしまった、といった具合である。

主にあって、贖われている者は、何事についても、足りないとか、間に合わないということがなく、決して手遅れだと悔やむ必要がない。むしろ、決して手遅れだと自分で認めてはいけないのであって、遅れているように見える時でも、御心を掴むために走り続けていると、多くの場合、遅れたと思ったその時間さえ、取り返すことができる。

そもそもアダムとエバがエデンの園で神に従うことに失敗してから、人類史においては、気の遠くなるような途方もない回り道と遅れだけが続いている。初代教会においては目覚ましい信仰が見られたかも知れないが、今はどうだろう。現代教会史もまた遅れそのものに見える。

この無意味な回り道、終わりのない堂々巡り、延々と続く遅刻状態から、どうやって輝かしい目的の達成などが生まれて来ようか、と人は思うだろう。ところが、神は人類の堕落や、信仰の先人たちや、教会史に溢れるおびただしい失敗といった回り道のことなど、全く意に介しておられない。

今日という極めて悪い時代にも、堂々巡りと回り道と失敗の連続にしか見えない歴史の只中から、神はいつでも熱心に御心を求める者たちのために、完全な御業をなして下さることがおできになるのであって、それは今日の私たちにもまさに当てはまることを、私たちは心に留め、かつ信じる必要がある。

私たちは、どんなに機会を逸したと感じるような時でも、決して後悔することなく、御心を熱心に追い求めることをやめるべきではない。どんな時にも、何が正しいことであって、神が喜ばれることであり、何が機会を有効活用することに当たるのか、考え続け、実行し続ける必要がある。そうする時に、まるで時を遡るようにして、見失ったと思ったものにも、追いつくことができるのだ。

あるいは、これは自分の力量が、果たさねばならない仕事に追いつかないと思われるときにも、同じように当てはまる。

たとえば、比較的最近、筆者は何週間にも渡り、山のような文書作成という仕事と取っ組み合った挙句、あまりにも疲れ切って、ついに自分が何を書いているのかさえ分からないほどの状態になった。自分の書いた文書を読み返すことはおろか、文字さえも見たくないという状態に陥ったのである。

筆者にとって、文章を書くことは、呼吸をするのと同じほど自然な作業で、何ら苦痛ではない。ところが、そんな筆者も、さすがに連日連夜、ぶっ通しで大量の文書作成を行った後では、消化不良状態に陥ったのであった。

それが一つだけのテーマに関わる論文などであったなら、まだ興味も力も尽きなかったかも知れないが、いくつもの仕事を同時に抱え、次々と取り組んでいるうちに、ついに文章を見るのも考えるのも嫌になったのである。もはや自分が何を書いているのか、自信もないが、推敲など考えたくもない、どんなにひどい誤字脱字が発見されようとも、知ったことではない、意味内容に錯綜が見られ、議論が紛糾したとしても、どうでもいい、というほどの心境に至ったのである。
 
しかし、何とかして最低限度のハードルだけはクリアするよう仕上げて手離したと思った直後、またもや頭痛をきたらせるような複雑な案件を、メールだけで解決しなければならなくなった。

その案件もまた、意味が伝わりさえすれば良いと気楽に構えていられるような内容ではなく、交渉事を有利に進めなければならない真剣勝負であった。格闘技にたとえれば、にらみ合っている対戦相手に、最初のわざをしかける瞬間だろうか。威勢のいい啖呵を切って、率先してイニシアティブを取り、相手を威嚇し、後退させねばならないような場面なのに、にらみを利かせるどころか、意味さえ通じるかどうか不明な文章を書き送るのが精一杯だったのである。

筆者としてはそのメールの内容は無念の出来栄えであり、まるで千鳥足で歩くような隙だらけと言ってよい主張だったにも関わらず、その案件は、こじれることもなく、誤解を生むこともなく、まさに筆者が願った通りの効果を生んで、決着が着いたのであった。これはとても不思議なことであった。

おそらく、消化不良状態で作成した文書にも、これと同じことが当てはまるはずだと考えられる。売り物の文学作品でない以上、もともと完璧が要求されているわけではないのだが、そのことをさて置いても、文書の価値は、文字だけにあるのではなく、内面に込められた力にあり、その力のもたらす効果は、文字を超えるのだと言えよう。

だから、その文書には、内面的な力の裏づけがある以上、たとえ未完成であったとしても、この先、十分な効果をもたらすはずだと筆者は確信している。(むろん、ここで言う内面的な力とは、人間の生まれながらの文才や、文章が呼び起こす情感や、あるいは法的根拠のことではなく、地上のすべての法体系を超えた、信仰による御言葉の正しい霊的秩序の裏づけのことである。)
  
私たちが、聖書の御言葉をすべての物事に対して徹底して貫き通す時、対立や紛争が広がる前に打ち砕かれて、早期に平和が到来するということもしばしば起きる。なぜなら、私たちは、信仰によって、暗闇の勢力がしかける罠を、彼らが実際に行動に移すよりも前に見抜くことができ、事前にこれを無効化できるからである。この問題についてはいつか別に書き記すことにしたい。
    
さらに、別な事例もある。以前の記事にも書いた通り、本年が始まってすぐ、筆者は危うく寝たきりになるかという危険にも遭遇したが、筆者が寝込みそうになっていた時、かねてより取引のあった人から、ある買い物をした。すると、今までにはなかなか望んでも手に入らなかった商品が、破格の値段で、山積みとなって提案されただけでなく、通常であれば、東京方面まで出向いて受け渡しをせねばならないところ、売主がとても熱心に購買を勧め、筆者の住んでいる近くまで受け渡しに来てくれたのである。時間も体力もない時であったから筆者は大助かりであったが、そんなことはこれまで一度も起きたことがなかった。

これらはみなすべて、キリスト者には「万策尽きた」という状態が来ない、ということを証明する事例である。キリスト者には、常に必要のすべてが信仰によって、恵みによって与えられ、「足りない」とか「及ばない」ということが決してない。だから、自分の今持っているものを見て、それがとても少ないからと言って、願いをあきらめてはならない。もしその願いが、御心に反しない、正しいものであるならば、それを達成する手段を、神は必ず与えて下さる。筆者の力が尽きても、それで事が終わりとならず、筆者が身動きの取れない時には、筆者の代わりに、他の人が動いてまで事が達成されるのである。

だが、このことは、決して、私たちが他人の目から見て、偉大な人間になることを意味しない。私たちの持っている「かめの粉」も「びんの油」も、決して溢れるほどにはならず、人の目から見て、我々の持っている知性や富や力は、ごくごく限られた貧弱なものに過ぎないかも知れない。

それにも関わらず、この貧弱な土の器を元手として、それを信仰によって何倍にも増強して、勝利をおさめることが実際に可能なのであり、私たちはそのように収穫を来たらせるような達成を続けて歩むべきなのである。

冒頭に挙げた、時をよく用いなさい、という御言葉は、以上に説明した通り、私たちが自分たちの生まれながらの微小な力を、御心を実現するために、信仰によって行使するとき、それが何倍にも増し加えられ、思いもかけない収穫を生むこと、そこで私たちは、たゆみなくそのような収穫を目指して進み続けなければいけないという意味を持つ。

多くの信者は、ただ何もしないで祈り、ぼんやりと空を見上げて待っていれば、千倍、百倍の祝福が空から降って来るなどと考えているようであるが、そのようなことは決して起きないと言えよう。

もしも心から祝福を得たいと願うならば、祝福を願うだけでなく、それを勝ち取らなければならない。それは目的地にたどり着きたいなら、たどり着きたいと願うだけでなく、実際に目的地に向かわなければならないのと同じである。

私たちは、永遠に至る収穫を得たいと願うならば、まず自分が持っているなけなしのものを、神のために捧げ、次に、御心を実現するために、具体的な行動に出なければならない。収穫はそれに続いてやって来る。肝心なことは、主にあって、真に正しい目的のために、御心を満足させると確信する目的のために、自分のなけなしのものを捧げることである。

そうすれば、自分の力がいかに限られたものであろうと、その限界に制約されることなく、いかなる行き詰まりにも達することなく、「勝ち得て余りがある」と言える人生を送ることができる。

だから、人の目に「足りない」とか「及ばない」ように見える有様に、決して心を留めてはいけない。決して、自分自身の限界に目を留めて、正しい願いを実行に移す前に諦めるべきではない。私たちが自分から諦めて退却することさえなければ、神は私たちが持っている取るに足りない力を使って、十分にご自分の栄光を表す大胆な御業をなして下さる。その結果、私たちは神を信じることが、決して失望に終わらないという御言葉の正しさを知り、主と共に喜びに溢れるだろう。そうして、この地上においても、永遠の領域においても、巨大な収穫を得るチャンスを逸さないで生きることは実際に可能なのである。


御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(2)

「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかりと保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
(ヘブライ4:14-16)

前回、オースチンスパークスの論説が、御霊によって、御国の法則を示したものだと書いたが、そのことをもう一度、強調しておきたい。オリーブ園の記事「私たちのすべてなるキリスト 第四章 開かれた天(1)」を参考に挙げておく。
 
今回は、これを踏まえつつ、時宜にかなった助けを受けることの必要性について語りたい。

私たちと神との関係は、御子が地上におられたときの、御霊にあっての御父との関係と同じだという言葉はまさにその通りである。

御霊を通して、私たちは神に向かって「父よ」と呼びかけ、その御前に子として進み出ることが許されているのであり、あらゆる必要を希う権利が与えられているのである。そして、主イエスは地上におられた間、絶えず隠れたところで御父に祈りを捧げられ、御父からまことのいのちの供給を受けられた。

私たちはこの権利を地上において行使する必要がある。この天につづくはしごを活用して、絶えず天を地に引き下ろさなければならないのである。

ただ、その作業のためには、積極的に願うこと、平安の中で願ったことが必ず実現に至ることを信じること、大胆に目的へ向かって進んで行くことが必要となる。

特に重要なのは、平安を失わないことである。平安が基礎とならないと、神に願いを申しあげても、それが実現すると信じることさえできない。そして、信仰に基づいて確かな足取りで歩んで行くことができないのである。
 
筆者は、かつてすべての教団教派を離れ、約1年ほどかけて、幼い頃から受けたキリスト教の教育で学んだ経験や知識もすべて脇において、まことの神ご自身は一体、どういう方なのか、聖書の御言葉が意味するものは何なのか、個人的に熱心に尋ね求め、そして神ご自身がそれに応えて下さり、直接、神を知った時から、筆者が神の子供として受け入れられている事実、神が今日も生きて働いて下さる事実を疑ったことはないし、信仰をなくしたことは一度もない。
 
その時から、人間の生きる目的のすべては、神を知ることにあり、自分自身の利益のためでなく、神のために生きるという一事のためにあることを確信して来た。

それは明らかに筆者自身の力によって得られた信仰ではなく、御霊を通して与えられた信仰であったと言える。なぜなら、筆者は教会生活を送っていた頃に、そのような確信を得たことが一度たりともなかったからである。

しかし、それでもその後の信仰生活には波乱がなかったわけではない。そして、最も大変な時に、一度だけ、果たして自分が本当に子として神の御前に恵みを求めて進み出ることが許されているのか、何かひどい疑いのようなものがついて回ったことがあった。

筆者は、これは暗闇の勢力からの攻撃ではないだろうかと感じ、それにどう抵抗すれば良いのか考えあぐねた。その頃、想像を絶することが次々周囲で起き、それはどれを見ても、まさにすべて暗闇の勢力からの攻撃としか言えない現象ばかりであった。

しかし、そうした疑惑は、それでも自分の心を頼りとせず、御言葉への信仰により頼みつつ、一定期間を過ごした後に、まるで暗いトンネルから抜け出て光のもとに出るように、あるいは霧が晴れるように取り去られ、気づくと以前と同じような大胆な確信の中に入れられていた。不明な圧迫に対しては、御言葉に基づき、とことんまで抵抗することで、暗闇の勢力との戦いが打ち破られて、重荷が取り去られたのであろう。
   
クリスチャン生活の中には、あまりにも戦いが激しく、防衛戦で手一杯となり、積極的に新たな霊的領土を征服するための攻撃戦に出て行くことができなくなり、何かを願うことさえ不可能に近い心理状況に追い込まれることがありうることは、幾度か書いて来た。

それはちょうどイエスがゲッセマネの園で、血の汗を流して祈られたという場面にも重なるかも知れない。むろん、私たちの誰一人、そのようなまでの苦境を通らされたことはないが、その時、主イエスの願いは、ただ十字架という杯を避けられるかどうか、という一事に絞られ、それまでのように、御父との優しい絶え間のない交流を得て、慰め、励まし、助けを得、すべての必要を父に満たしていただくために祈られたわけではなかったのである。

そういう、心の最後の平安までも失われたかに見える激しい心の戦いが、クリスチャン生活にないとは言わない。時には、神の御旨と自分の意志との間にずれが生じ、言い争いのようなことが起きることがないわけではない。
 
しかし、ほとんどの場合、私たちの祈りは、御父に向かって、自分の心の中にあることを穏やかに告げて、神の御心を示して下さいと率直に求め、神の御旨を信頼して自分を委ね、必要な助けを求めることである。

大きな試練の中にあって、何かしら神の取扱に納得できない事柄があったとしても、私たちの祈りは、最終的には、自分のすべてを神の御手に委ねて、御心の通りになさって下さいと申し上げる形で終わる。

そして、私たちが御旨に従うからこそ、必要な助けが与えられるのである。

平安は、その明け渡しの作業が完了した時にやって来る。大胆に恵みの座に進み出て、時宜にかなった助けを受けるとは、あれやこれやの自分の必要性を神に訴え、助けて下さいと願うことも含んでいないわけではないが、何よりも、この心の平安――私たちが確かに父なる神によって子として受け入れられ、贖われ、愛され、キリストの中にあって、聖霊によって、助けを得ているという確信――もっと言えば――すべての戦いは十字架においてキリストの勝利により決着がついており、その勝利は私たちのものであるという確信――を得ることである。言い換えれば、その十字架を通して、御父、子、聖霊の交わりの中に、私たちが確かに入れられているという確信を得ることである。

その確信が基礎となって、初めてすべての必要を神に願うことが可能になる。まず、子としての立場がなければ、何一つ御父に願う資格すらもないためである。

そして、子としての平安に満ちた確信は、私たちが神にあって、自分の全てをこの方に委ね、神の御心に従って生きることに同意することによって得られるのである。

地上のサラリーマンの給与は、企業などの団体に所属して、その団体の利益に奉仕することによってしか得られないであろう。しかし、天の御国の収穫のために、天に奉仕する働き人は、神の御旨に奉仕することによって、必要のすべてを満たすことのできる目に見えないサラリーをもらっている。もちろん、働きとは関係なく、子として養われている分もあるが、その上に、働きに応じた報酬も存在するのである。

私たちの本当の雇用主は、こういうわけで、天の父なる神なのである。
 
このことは幾度も書いて来たが、私たち信者が、真に天の御国の権益に関わる事柄に奉仕する時、それに必要なものは何もかも上から添えて与えられる。そこで、どうやって生きるかということだけを最優先課題として、地上の生活を第一に心配し、そのせいで御国への奉仕を後回しにする必要がなくなるのである。神が承認されたプロジェクトには、神がそれを完遂するために必要なすべての手段を与えて下さる。
 
そこで、神は何をするにしても、まずは私たちの動機を問われる。

「あなたのしようとしていることは、あなた自身のためなのでしょうか。それともわたし(神)の栄光のためなのですか。」との動機が問われるのである。

神は、聖霊の見えない証印が押され、確かに神の栄光のためになされたことでなければ、後押しされないし、責任も負われない。人間が自己の判断で自分の利益のために行ったことについては、神は決してこれを守ったり、ご自分から出たことであるかのように擁護し、責任を負って下さることはないのである。

だが、私たちは多くのことを自分の必要を満たすために行っている。いちいち御心を問うこともしていない。そして、そのすべてが、御国の収穫のために行ったとどうして言えるだろう?

ところが、そう言える根拠が存在するのである。パウロは、食べることや飲むことまでもすべてキリストのために行うと述べている。同様に、私たちは日常で行っているすべてのこと――それがたとえ直接的には神の栄光に関わりがないように見えても――をすべて神の栄光のために行うことができるのである。それは私たちの全き献身、自分のすべてを神に委ね切ることから始まる。

神への明け渡しは、繰り返すが、「私はあなた(神)の栄光のために生きます」と宣言し、自分のすべてを神に委ねることである。

たとえばある企業が、より大きな企業に吸収合併されれば、その名も、資産も、すべてが合併された会社に属するよう変更される。資産だけでなく、赤字も、合併した企業のものになる。

私たちが絶えず神への献身を行って行くとき、同じようなことが起きる。私たちの諸々の行動の中には、果たしてその出所が定かでないことも含まれているかも知れない。知識が足りないがゆえに及ばなかった行動があったり、私たちが何が神の御心であるかを自覚できていないまま、それが神の御心にかなうと一方的に考え、あるいは誤解していたような事柄さえも、含まれているかもしれない。後になってみれば、何と考えが足りなかったのだろうと思われることが多くあるかも知れない。
 
それはいわば赤字である。

だが、それも含めて、私たちが自分のすべてを正直に心から神に委ねる時、神が私たちの人生に対して最終責任を負って下さるのである。赤字をたくさん作って、にっちもさっちもいかなくなってから、自分よりも大きい企業に身売りをするのは、あまり良いやり方ではない。しかし、立ちゆかない経営を続けて倒産し、すべての従業員と家族を路頭に迷わせるよりはましであろう。

私たちのために重荷を担われる主、と聖書にある通り、十字架において人類のすべての負債を身代わりに背負うことのできた方には、今日も、私たちの抱えているすべての重荷を負って下さることができないはずがない。

だが、もちろん、神に都合よく重荷だけを押しつけ、自分は恵みにだけあずかりたいというような生き方は、初めて悔い改めて神に立ち帰る信者なら許されても、いつまでもそのようなことを続けていれば、誠実な献身とは言えないだろう。
 
私たちの主人に重荷ではなく、収穫をもたらすために、良い僕として働き、共に同労するという道があるはずである。

私たちは地上にある間は、神から離れて生きている。心には聖霊を通じてキリストが住んで下さっても、体は神から離れている。そして、この神から離れている部分は、私たちを絶えず、さらに神から引き離そうと圧力を加える。

しかし、私たちは自分たちの霊の内側で、それとは逆のベクトルの力を行使して、自分の体を霊に従わせる。飲み食いは体の仕事であるが、それも神のために明け渡すことで、体の働きをも聖別することができる。

こうして、自分自身を絶え間なく神の御旨の中に委ね、すべてのことを自分個人のために行うのではなく、神の栄光のために行うことを告白し続け、自らのあらゆる行動の動機を神に委ね続けるのである。

何かひっきりなしの異言の集会や、訳の分からない恍惚体験に身を委ねるのではなく、人の見ていない隠れた場所で、はっきりとした自覚を持って、自分自身の人生が、もはや自分のためにあるのではなく、神のために存在することを告白し、自分について、自分で把握できていることについても、把握していないことについても、すべてを神に委ねるのである。

その時、神があなたの人生に最終責任を負って下さり、どれほどあなたの人生に複雑に錯綜した幾多の問題があろうとも、神が必ずそれを最後まで解決へと導いて下さるという明確な平安が心に訪れる。その時から、あなたの心に秘密はなくなり、神との間に言い争いもなくなり、あなたはすべての問題について、神と同労しながら進んで行くことができるようになる。

そして、重荷が去った暁には、願うことを自由に口にできるようになる。

保護者の許可がないと多くのことができない子供には、願っても実現できない数多くのことがあるが、大人になれば、自分で行きたいところへ行って、したいことができる。大きな事業も始められる。
   
神はあなたがキリストにあって成人となり、自らの意志で神に従うことを選びつつ、神に栄光をもたらす多くのことができるようになるまで、ずっと後見人として付き添って下さる。御父が望んでおられるのは、信者が暗闇の勢力との戦いでへとへとになるまで、ただ防衛戦だけをいつまでも繰り広げることではなく、あらゆる圧迫を大胆に打ち破って、その先に、自由の中で、勝利の生活を打ち立てることにある。そして、その法則を、自分だけで楽しむのではなく、多くの人々に伝え、他の人々を自由へと導くことにある。
  
その時、あなたの祈りが、あなた個人だけでなく、あなたを取り巻く社会に対しても、影響を及ぼし、兄弟姉妹にも影響を及ぼし、祭司としての働きが始まるのである。それは決して、あなたが福音伝道をして何人がキリスト教に改宗したかといった問題とは関係ないことである。あなたが周囲に影響を及ぼしていることは、あなたには分かっても、他の人々にはほとんど分からず、そのことがあなたに栄光をもたらすこともない。

しかし、それでも、不思議なことに、あなたは周囲の人々に仕えながらも、彼らがあなたのために仕えているという逆説的な現象があることに気づくだろう。あなたの中におられるキリストが、あなたを通して、あなたを取り巻く社会に対しても、中心的影響力となっておられることに気づくだろう。そして、キリストこそ、全ての中心であり、万物を足の下に支配される方であることを知るようになるだろう。

私たちに与えられている時宜にかなった助けは、ただ自己保存という目的のためだけにあるものではなく、御国の法則を地に引き下ろすため、御国の拡大という霊的前進のために与えられているものである。

その前進に伴い、山上の垂訓が、信者の生活の中に確立し、生ける水の川が、信者の人生の中で、渇いた土地を肥沃にしていくということが起きなければならない。私たちは、御父に受け入れられたまことの大祭司なるキリストを通して、私たち自身も祭司となって、御前に進み出て、神の憐れみ深さ、愛の深さ、恵みの豊かさが、私たちの自己満足のためでなく、神の栄光のために、目に見える実際となって現れ、自由がもたらされるよう、絶え間なく、恵みの座に進み出て、飽くことなく懇願し、これを追求し続けなければならないのである。

御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(1)

「御国が来ますように。
 御心が天に成るごとく、地にもなさせたまえ。」

またもや大きな勝利があった。死の恐怖からの自由、不当な圧迫に対する勝利、むなしく不毛な苦役からの解放、自由の中での勝利が与えられた。神が信じる者をどれほど入念かつ注意深く助け、守って下さるかが証明された。そして、信じる者は、この地にあって、すべてを足の下にされているキリストの目に見えない復活の命の統治を持ち運んでいるがゆえに、地を従える者であることが証明されたのである。

オリーブ園に再び、オースチンスパークスの「開かれた天」が連載されている。ここには、地上におけるキリスト者がキリストと合一することにより、その者が天(御心)を地に引き下ろすための架け橋となることが記されている。

当ブログで、これまで繰り返し、オースチンスパークスを取り上げて来たのは、彼の論説が、明らかに御霊によって書かれたものだと分かるためである。私たちはそのような論説を読むとき、御言葉に基づく神の光によって、霊的に照らされることができる。

霊的に照らされるとは、私たちが地上の人間的な卑俗な観点や思いを離れ、何が神にとって最も重要な事柄であるのか、御国の権益に関わることとは一体、何なのか、改めて思い起こさせられ、目が開かれるということである。その効果は非常に絶大である。

残念ながら、霊的先人と呼ばれている人々の文章のすべてが、御霊によって導かれて書かれたものではない。正直に言えば、ペンテスコステ系の先人たちの論説のように、キリストを証しているように見せかけながら、実際には、人間の言葉に過ぎないものが数多くある。

しかし、真実、御霊に導かれて書かれた数少ない例外があり、筆者が見たところ、オースチンスパークスの論説もその一つである。それは、そこにキリストを証する文章、また、天的な法則性が記されていることからも分かる。「開かれた天」にも、キリストとの合一、死と復活の命の法則により、いかにキリスト者が、この地上にあって、御国をこの地上に引き下ろす存在となるかという法則性が記されているのである。

さて、そのようにして照らされることの重要性を述べた上で、当ブログでも、もう一度、御国の統治を地に引き下ろすことについて書きたい。

キリスト者は、死を打ち破って復活されたキリストのまことの命の霊的統治を持ち運ぶ者であることについては、これまでにも再三に渡り、書いて来た。

しかし、そのまことの命の統治が、はかりしれないほどに絶大なものであればこそ、キリスト者は、暗闇の勢力から絶え間なく攻撃を受け、何とかして神のまことの命の支配がこの地に実現しないように、妨害を受けるのである。

だが、そもそも、一体、神のまことの命の支配とは、具体的に何を意味するのか、と問われるであろう。それは福音伝道をしてクリスチャンを地上に増やすことなのか、教会の領域を押し広げることなのかと言えば、決してそうではない。

それは、地上では、か弱い人間に過ぎない一人の信仰者を通して、その者を死から贖われ、キリストの復活に同形化された神のご計画の正しさ、その者を死から贖った絶大な神の命の力が、この地上の人々にも、それと分かる形で、はっきりと現れ出ることを意味する。

究極的に言えば、一人の人間がすべての死の圧迫から解放されて、真に自由とされ、自由の中を、神と共に生きることを意味する。それは真実に基づく、偽りのない、御心にかなう生活である。
  
つまり、キリスト者は、地上では弱く脆い土の器であるが、その者が、自分を何とかして再び罪に定め、死に追いやろうと、飽くことなく敵意と憎悪を燃やしている地獄の全勢力からの果てしのない妨害を打ち破って、キリストの復活の命によって、神に対して真に生きる者とされ、永遠に贖われた神のご計画の正しさを明らかに証明することなのである。

この命の力、死を打ち破ったキリストの命の統治の力が発揮される時、暗闇の勢力と、天的な勢力との間の激しい支配権の争奪戦に終止符が打たれ、支配権が逆転するのを私たちは見る。

この世においては、キリスト者はあまりにも無力で、弱く、地獄の軍勢の虜とされて、苦しめられている罪人の一人のようにしか見えないかも知れない。いや、キリスト者となって贖われたがゆえに、世人をはるかに超える憎しみに遭遇し、世人以上に、なお一層、虜とされて苦しめられているようにさえ見えるかも知れない。

しかし、信仰によってそれらの妨害が打ち破られる時、地獄の支配権と、天的な支配権とが逆転し、悪魔の死の力を十字架において打ち破ったキリストの復活の力が、この世のすべての物事を超越してこれらを自らの意志に従えるという統治の順序の逆転が現れ出て来るのである。

つまり、キリストの復活の命は、支配権の問題であり、支配権の争奪戦だということが分かるだろう。神はアダムに地の支配権をお与えになったが、アダムの堕落のゆえに、地は悪魔によって不法に占領され、不法に統治されているが、これを悪魔の支配権から奪還して、キリストの復活の命の統治下に置くことが、神の命題であり、キリスト者の使命なのである。

そのために遣わされているのが、キリスト者なのであり、キリスト者は、神の命の支配、御子の復活の命の支配権を持ち運んでいる存在なのである。

そして、そのキリスト者が、内に御霊をいただくことによって、目に見えない形で絶えず持ち運んでいる、キリストと共に復活にあずかった新しい人としての新たなる支配権は、その者の中から、その者自身の意志、望み、活動と連動して、生ける水の川のように流れだす。ちょうど山頂に登頂した人間が、そこに旗を立てるように、その者が、何を征服しようと望み、どこに行き、何をするのかといった望みと活動に連動して、目に見えない支配圏が押し広げられて行くのである。

筆者が、キリストの復活の命の支配権の拡大を、登頂になぞらえたのは偶然ではなく、実際に、支配権(圏)の拡大は、新たなる領域を征服することにによってのみもたらされる。そして、キリスト者の場合、復活の命の支配権の拡大は、その者の内なる望みに基づく行動によるのである。

先に、キリストの命の支配の拡大とは、地上でクリスチャンが増えることや、教会の領土が拡大することとは何の関係もないということを書いた。それでは、一体、この支配とは何なのか?という疑問が生じよう。

それは何よりも、すでに書いた通り、人を真に自由とする支配であり、自由の中で、望みによって打ち立てられる支配である。

この世において、人は死の恐怖の奴隷とされている。己を養うため、命を支えるため、死から逃れるために、人は実り少ない苦役のような労働につながれ、絶えず、自分の命が失われるという恐怖の中に虜とされてしか生きることができない。何をするにも、どうやって自分の命を保たせるか、ということだけが中心課題となる。

しかし、神の復活の命の統治が現れ出る時、人はもはやそのような死の恐怖の虜ではなくなり、その恐怖から解放され、自由の中で、安息を得て、その安息の中で、自分の意思決定を下せるようになる。

これを表すに当たり、「必然の王国から自由の王国へ」という、かつて共産主義者が使用したスローガンを利用することもできるかも知れない。(ただし、共産主義者は、アダム来の人間の欲望に従って人間の自由を願ったが、キリスト者は、人に自由を得させることが、神の御心であるという事実に基づき、キリストと共に死と復活を経由した者として、自由を求めている。私たちは、己の欲望だけに従って欲望の実現を追い求めて生きているのではなく、神の御心にかなう真実で偽りがなく公正かつ自由な統治を求めているのである。)

つまり、贖われた人は、死の恐怖のゆえに、限られて乏しい選択肢の中から、仕方がなく意に沿わないものを選んで生きるしかないという限定された生活ではなく、真に自分の望みに従って、自由の中から自分の選択を決めることができるようになる。(共産主義者が使用したスローガンは、聖書における御国の模倣である。)
 
キリストの命の支配の拡大は、その者が何を望み、何を実現しようとするかにかかっている。信仰者には、どんなにそれが個人的な望みであっても、自分の個性、望みに従って、自由に行動することができる新たな生活が保障されているのである。

アダムは地の奴隷であったが、キリスト者においては、その関係が逆転しており、地の方が、キリスト者に従うようになる。これが真に正しい順序であり、その秩序が本当に現れ出る時、この世の人々、事物、状況のすべてが、キリスト者に従うようになるのを見て、私たち自身が、それが自分の力ではなく、自分の内にある神の命の支配の力によるものであることを知って瞠目するであろう。

キリスト者は、自分の望みを神に申し上げ、それが御心に反するものではないと認められたなら、その望みが実現するまで、激しい争奪戦を戦い抜いて、御国の統治を実現しなければならない。
 
だが、一体、キリスト者の自由な選択はどうやって保証されるのか?という疑問も生じよう。何を望むのも自由だが、望んだからと言って、どうしてすべてがかなうと言えるのか?
 
それを保証するものが、信仰であり、復活の命である。キリストの復活の命が、その者に必要なすべてを供給するのである。個人的なごくごく些細な望みに至るまで、その命が、その者の生活のすべてを支え、保証するのである。

人にはそれぞれ個人的に異なる望み、異なる生活がある。地上組織としての教会の拡大のために働くことと、キリストのまことの命によって生きることは何の関係もない。そこで、キリスト者が復活の命によって支えられながら、何を実現して生きようと願うのかは、個人によって異なる。クリスチャンだからと言って、その生活も、望みも、人によって全く異なる。一人一人に与えられている召しも、望みも、生きざまも、すべて異なるのである。

そこで、神の復活の命にどれほどのはかりしれない力が含まれているかについては、ちょうどこの地上の人々が、海底や、地底に人知れず眠っているエネルギー資源を見つけた時のように、一人一人が自らの生活の中で、その命の力を開発し、利用し、使う方法を具体的に学ばねばならないのである。

クリスチャンが、自分の願い、望みを率直に神に申し上げ、それを神の復活の命を経由させて、地に実現して行く方法を具体的に学ばなければならないのである。

キリスト者が地上で生きることが、ただ個人的なレベルの生活にとどまらず、御国の統治そのものと密接につながっており、御国の権益と関わっていることに気づき、天的な展望のレベルで物事を見る必要がある。
 
そして、キリストの復活の命にこめられた力を実際に知らなければならない。復活の命が、キリスト者に、ただ命の保障を与えるだけでなく、どうやって信仰によって、望みのものを約束し、保証してくれるか、これを開発し、法則性を探り出し、利用しなければならないのである。

その過程で、キリスト者は、まず何よりも霊的に積極性を失わない「攻めの姿勢」を持たなければならない。絶えず目を覚まして警戒を怠らず、新たに目指すべき目標が何であるかを知り、これに大胆に向かって行かなければならない。消極的で受動的な態度でいながら、霊的支配を拡大して行くことは無理である。
 
ここで言う「攻めの姿勢」とは、霊的な積極的な生産のサイクルと密接に関連している。

まず、それは妨害があっても、決してあきらめないだけの強い願いを持つことから始まる。キリスト者が(どんなに些細かつ個人的な事柄のように思われても良いから)、新たな望みを大胆に持ち、次に、どんなに周囲の状況が否定的で圧迫的に見えたとしても、その望みが神にあって実現可能であることを信じて、望みに向かって大胆に邁進して行き、望みが実現するまで、どれほど激しい戦いがあっても、臆して退却することなく、妨害を打ち破って、前進し続けることが必要となる。

こうして、キリスト者が積極的な望みに基づき、さらなる自由に到達し、神の栄光を増し加える新たな霊的山頂を目指して、絶え間なく前進して行き、勝利をおさめ、新たな自由を勝ち取ることが、目に見えない神の命の支配を拡大するための霊的生産サイクルなのである。

それは大いなる戦いであって、信仰者が御名によって、新たな見えない領土を獲得するための戦いである。その戦いがあまりにも激しくなると、キリスト者が意気阻喪して、望むことをやめてしまったり、前進をあきらめて立ち止まることがある。そうすると、霊的支配の前進もやんでしまう。それだけでなく、再び、彼自身が、死の圧迫の虜とされてしまうことがあるかも知れない。そうなれば、暗闇の勢力は、彼がすでに獲得したはずのものにも、大いなる打撃を与え、これを奪い取り、彼をどんどん退却させて行こうとするであろう。

しかし、たとえそのような停滞や退却があったとしても、キリスト者は再び、上からの力を受けて、絶え間なく、死の圧迫を打ち破って、自由に向かって前進し続けることが必要である。それを成し遂げて行くときに初めて、信じる者たちには、弱った足腰が強くされ、よろめく膝がまっすぐになり、たゆむことなく、遠くまで歩いて行くことのできる力が上から与えられる。こうして前進し続けて、さらなる自由を獲得し、御心を地に引き下ろし、御名に栄光を帰することが、キリストの復活の命の支配の拡大の法則性なのである。


地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表し、絶えずさらに優った天の故郷を熱望する

彼は天然の立場を捨てるというこの偉大な真理をすべて数語の短い言葉の中に詰め込まれました。「誰でも私について来たいのなら、自分自身を否み、日毎に自分の十字架を取り上げて私に従いなさい」「自分自身の十字架を負って私について来ない者は、私の弟子(教わる者)になることはできません」

「自分自身を否む」! この句を握りしめて自己否定について語り、それをあらゆる種類の事柄に適用することもできますが、主イエスがこの御言葉で言わんとされたのは、天然の命の立場全体を拒絶して、それによって全く支配されないことです。キリストはそれを十字架によって断ち切り、それに反対して十字架を据えられました。そして十字架の意味によって、生来の私たち自身であるすべてのものに対して、「ここにあなたの立場はありません。あなたはここでは支配できません」と仰せられました。

これを行う時、あなたは彼の弟子になることができます。つまり、彼から教わる者になることができます。彼の学校に入学して、この立場ではなく彼の立場に基づいて生きることの何たるかを学ぶことができます。新生以前の立場を放棄してキリストの立場にとどまることが、私たちの包括的義務です。

 ここでもまた主イエスは、彼の立場に基づいて生きるというこの偉大な真理を、絵図的形式で述べておられます。「私の中に住んでいなさい」「ぶどうの木の中に住んでいなければ枝は自分では実を結ぶことができないように、あなたたちも私の中に住んでいなければ実を結ぶことはできません」

この絵図は完全に明らかであり単純です。しかし、彼が何について述べておられたのかを示す後の御言葉による、聖霊の全き照らしが必要です。キリストの中に住むとはどういうことでしょう?それはあなた自身の中に住むことではありません。それはあなた自身の外側に出て彼の立場に着くことであり、それは彼がすべてを支配するためです。これはとても単純ですが、必要不可欠です。

オースチンスパークス 「御霊による生活」 第四章 御霊に満たされる (5)から


多くの信者たちが、自己を否むことについても、キリストの中に住むことについても、あまりに多くの誤解を抱いている。彼らは、自己を否むとは、自分の生来の利己的でわがままで罪深い性質を拒んで、もっと道徳的で社会に役立つ人間になうと努力することであるなどと勘違いしたり、キリストの中に住むことも、同じように、もっと宗教指導者の教えに従って、敬虔そうで信心深く見える宗教的な生活を送ることだ、などと誤解している。

しかし、自己を否み、キリストの中に住むとは、うわべだけ敬虔そうな生活を送ることや、道徳的な生き方をするといった事柄とは関係がない。これは信者がいかなる命に従って生きるのか、という選択の問題である。

つまり、信者が、再生された後も、生まれながらの堕落したアダムの命に従って生きるのか、それとも、神の贖いによって与えられた内なる永遠の命に従って生きるのか、どちらの命の法則に従って生きるのか、という選択を指すのである。

キリストの復活の命は、神の非受造の命であり、堕落した魂の命とは全く別物であり、この二つの命の性質も、それに働く法則も、全く異なるものである。しかし、人は信仰によって、キリストの復活の命を知るまでの間は、アダムの命しか知らずに生まれ育って生きているため、主を知った後でも、依然として、慣性の法則に従い、それまでのアダムの命に働く法則に従って生きようとする。それは、信者の中で、それが常識となっており、またそうすることが天然の衝動だからである。

しかし、キリストの中に住むことの必要性を知らされた信者は、命の御霊の法則を学び、これに従って生きることを学ばなければならず、その過程で、それまで自分が常識だと考えていたアダムの命の法則に従うことをやめなければならない。

アダムの命に働く法則は、一言で言えば、「限界」である。その限界は、死へとつながる有限性であり、罪の重荷に縛られているがゆえの死の束縛である。

ところで、以前にも説明した通り、多くの人々は、同情という感情をあたかも良いものであるかのようにみなしているが、実は、同情は、人間の腐敗した魂の命の限界と密接な関わりがある。

同情は、人間の限界を抵抗せずに受け入れることと深く関係しており、その感情を受け入れる人間をどんどん弱くさせてしまう効果がある。

筆者はそのことを以前、ハンセン病者に対する絶対隔離政策の忌まわしさになぞらえて論じたことがある。

我が国でハンセン病者に対する絶対隔離政策という非人道的な政策が続いていた間、皇族などの人々がしきりにハンセン病者を哀れみ、慈愛の歌を詠んだり、あるいは、キリスト教の伝道者などが療養所を慰問し、病者を励ましたりもして来た。

しかし、これらの人々の慰問は、本当に元患者らの自由や解放に役に立ったと言えるのかと問えば、本質的にはNOであった。むしろ、彼らを自由にするのとは正反対の側面を強く持っていたと言えよう。

なぜなら、すでに病気も治療されて、患者でもなくなっていた元ハンセン病者らには、療養所に束縛される理由など何一つなく、彼らに必要だったのは、一刻も早く、隔離政策が廃止されて、自由の身とされ、療養所の外に出て行き、働いたり、結婚したり、事業を営んだりしながら、ごく普通の社会生活に復帰することだったからである。

絶対隔離政策さえ廃止されていれば、彼らには、初めから人の慰めや同情を受ける必要もなく、慰問なども全く必要なく、自分らしい生活を送ることができたのである。

ところが、絶対隔離政策は、かつて一度、ハンセン病に罹患したことがあるというだけの理由で、もはや療養所に隔離されなければならない理由が何一つなくなった人たちを、療養所にずっと束縛し続けていた。

そのような差別を前提に、差別された集団に対する同情や慈悲といったものが説かれ、それを利用する人々が現れたのである。

そうした人々の同情や慈悲は、本来は療養所に閉じ込められなければならない必要など全くないはずの人々に向かって、あたかも彼らが一生、閉じ込められて暮らすことが「運命」であるかのように説き、彼らが自由になることを早くあきらめて、隔離政策に抵抗せず、すすんで甘んじながら、療養所の中で幸せを見つけて暮らすよう、抵抗をあきらめさせる効果を持っていた。

つまり、人々が本来、全く受け入れる必要のない「限界」や「制限」に甘んじて、自由を自ら捨てるように促す効果を持っていたのである。
 
このようなものが、真の意味での同情や慈悲の名に値する活動ではないことは明白であろう。

むしろ、同情や、慈悲といった、一見、美しく優しく見える感情は、そこで人々に本当の自由、本当の人権を忘れさせて、彼らをディスカウントされた立場に甘んじさせ、なおかつ、隔離政策を支持する人々が、心ひそかに、彼らをいわれなく見下して犠牲者としながら、うわべだけ慰めや励ましを装って、彼らの存在を利用して、自分が社会的に有益で正当な活動をしているかのようにアピールするために利用されたのである。
 
しかしながら、以上のような例は、何もハンセン病者への絶対隔離政策だけに当てはまるものではない。

罪の束縛に応じるすべての人々は、今日も続いている目に見えない「絶対隔離政策」にすすんで同意し、自らそこに閉じ込められて生活しているのである。

クリスチャンはキリストの贖いによって罪を赦され、自由とされた民であるから、本来は、誰からも同情される理由がないにも関わらず、その事実を知らないまま、自分を哀れに思い、人の支援や同情にすがり続けながら暮らしている人々は多い。

今日、自分をクリスチャンだと考えている多くの人々が、罪のゆえに、日曜ごとに教会という名の囲いの中に参拝し、牧師たちからお祓いを受け、慈悲の歌を詠まれ、慰問を受けている。

牧師たちは、こうした信者たちが、日常的に様々な問題に苦しんでいることを知っており、彼らが助けを求めていることも十分に知りつつも、人間に過ぎない自分には、彼らが求めている100%の助けを決して与えられないので、常にそれ未満の、決して彼らが自由になれない程度のほんのごくわずかな慰めや励ましだけを与えておいて、彼らがいつまでも助けを求めて教会にやって来ざるを得ない状況を作り出している。

牧師だけではなく、信者同士も、教会を保険組合か、互助組織のように考えて、集まるごとに、自分たちの家庭生活の問題、健康の問題、将来の不安、経済問題などのありとあらゆる不安を持ち寄っては、それをテーブルに出して祈り合う。

だが、その祈りは、神が大胆に御業をなして下さることへの確信や感謝の祈りではなく、いつまでもなくならない彼ら自身の不安を言い表したものでしかない。

こうして今日の教会は、あらゆる弱さを抱えた人々が集まる病院のようになり、人々は自分の弱さを教会に持ち寄っては、それを互いにカミングアウトして、自分と同じように弱さから抜け出せない人々と共に肩を寄せ合い、同情し、慰め合う場所となってしまっている。

しかし、そのような慰めに満足を覚えれば覚えるほど、人はますます自己の弱さから自由になる気力を削がれて行くだけなのである。

人間の持つ同情や慈悲といった感情は、それを受ける側の人間を悪質にディスカウントし、彼らから、自由、完全性、独立心や、気概といったものを奪い取り、その人々があたかも不治の病に罹患し、差別され、隔離されている可哀想な民であるかのような立場にまで転落させてしまう。

本当は、キリストにおいてすでに罪赦されて、あらゆる問題に対する解決を与えられているはずの人々を、同情は、弱さや恥の意識でいっぱいにして、彼らが常に助けを求めて方々を走り回らなければならないかのように思わせるのである。

カルト被害者救済活動などは、そうした互助組合のようになってしまった今日の地上組織としての教会の悪しき側面が、最大限に発揮されて生まれて来た運動であると言える。

この運動は、かりそめの互助組合のようになった教会からも見離され、こぼれ落ちた人々を親切にすくいあげるように見せかけながら、彼らに向かって「あなた方は教会から不当に見放された可哀想な被害者なのだ」という思いを吹き込む。

そうして、被害者意識をふき込まれた人々が、自分たちを見捨てた教会への憤りに燃えて、この互助組合に再び自分を受け入れさせようと、いつまでもその組合にすがり続けるよう仕向けるのである。

だが、本当のことを言えば、彼らに必要なのは、自由であって、罪のゆえの互助組合ではない。牧師制度のもとに自由はなく、既存の教団教派の中にエクレシアはないため、教会から打ち捨てられた人々は、むしろ、それを幸運と考えて、いち早く、真理を探究して、聖書に立脚した真実な信仰の道を行けば良いだけであって、互助組合にいる人々から哀れまれたり、同情されたり、誰かからそこから排除されたことで、可哀想に思われたりする必要もなく、その互助組織に属さないことを不遇だと嘆く理由自体が全くないのである。

絶対隔離政策が推進されていた時代、ハンセン病の元患者らの中のある人々は、勇敢に療養所で自由を勝ち取るための戦いを続け、脱走を試みたり、不当な裁判に抵抗したり、様々な活動を行った。

しかし、今日、キリスト教界という療養所では、悪魔が制定した罪による絶対隔離政策がすでに廃止され、人々は罪という不治の病からすでに解放されて、自由になったという事実さえ、いつまでも認めようとせず、自らすすんで隔離政策に同意するばかりか、果ては療養所から追い出されたことが気に入らないと、療養所に再び自分を受け入れさせようとすがり続け、自分に自由を宣告した療養所を非難し続ける人々がいる。

そうした人々は、あちらの療養所はもう少し待遇が良かったとか、こちらの療養所は質が悪いとか、ここでは慰問団のパフォーマンスが良かったとか、こちらでは不十分だとか、それぞれの療養所を比べ合っては、終わりなき批評を行い、中には自分たちを見捨てた療養所へのバッシングで溜飲を下げる者たちもいる。

こうした有様は、まるで釈放された元囚人が、自分には未だ刑務所に収容される権利があるとみなし、刑務所が自分を見捨てたのは不当だと叫び、再び受刑者に戻るために、どの刑務所が一番待遇が良いかなどと、まるでカタログでも見るように刑務所の待遇を比べて論じ合っているようなもので、そんなにまでも自由であることの意味を見失ってしまうと、たとえ釈放されても、一生、心は囚人のまま暮らすことになるのだろうとしか言えない。

この人々の盲点は、自由は、組織としての教会の中にあるのではなく、自分自身の信仰の只中にあるという事実を見失っている点である。隔離病棟や、療養所の中に自由を求め、そこで受け身に暮らしながら、満足できる待遇を要求すること自体がナンセンスだということに全く気づいていないのである。

真に満足できる暮らしを手に入れるためには、まずは療養所を出て行かなければならない。そこにいる人々と弱さを分かち合って連帯して同情し合い、慰め合うことで、いつまでも自分の弱さを握りしめることをやめ、やんごとなき人々のほんのわずかな注目や、慰問団のパフォーマンスに慰めを見いだそうとすることをもやめて、自分はもはや病人ではないから、誰の世話は要らないということを自覚し、キリストの命が、自分のすべての弱さに対する十分な強さとなってくれることを信じて、たとえ慣れていなくとも、一歩一歩、新しい生活へ向かって、自分の足で歩き、自分自身ですべての物事を判断しながら、ごく普通の自立した生活を打ち立てて行くしかない。

ところが、今日、クリスチャンと言われている人々には、驚くほど、この判断力、自立の力が弱い。多くの信者たちが、集会から集会へと渡り歩き、自分の弱さに溺れるばかりの、あるいはそれに対する何の解決にもならない無意味な祈りに没頭し、各教会を批評家然と品定めして、指導者の力量を品定めすることはできても、自分自身で物事を判断し、道を定め、自由へ向かって歩いて行く力がほとんどないのである。

この人々はまるで車いすに座ったまま、自由に歩ける人々のパフォーマンスが不十分だと非難している観客のようなもので、地上組織としての教会の足りないところを数えて後ろ指を指し、もっと自分に祝福を与えよと人に向かって要求することは巧みでも、自由になるためには、そもそも自分自身が自力で立ち上がって、組織によらず、他人の助けにすがらず、自分自身の信仰によって歩みを進めねばならないことが分からないのである。

こうした人々は、たとえるならば、「金銀はないが、私にあるものをあげよう。イエスの御名によって立って歩きなさい」と命じられ、健康な二本の足で立って歩く自由が与えられているのに、いつまでも車椅子にしがみつく人々のようであり、あるいは、一つのおしゃぶりを与えられても、それが気に入らないからと言って泣きわめき、うるさく泣いていれば、いつか母親が近寄って来て、別のおしゃぶりを与えてくれると期待している赤ん坊のようなものである。
 
自由になるためには、まずその哺乳器を離れなければならないのである。車いすを捨てて立ち上がり、療養所から出て行かなければならないのである。

そういうわけで、アダムの命の有限性と訣別して、キリストのよみがえりの命によって生きるための秘訣の第一歩は、「自分にはあらゆるものが足りない」という意識と訣別することである。

確かに、周囲を見渡せば、不満のきっかけとなりそうな材料は、無限に見つかることであろう。社会で毎日のように起きる陰惨な事件、無責任な為政者、腐敗した宗教指導者、冷たい友人、味気ない家庭生活、自分自身の限界・・・失意を呼び起こす原因となるものは無限に列挙できよう。

しかし、そうした地上のものは、もともとあなたを満たす本質的な力を持たないアイテムでしかなかったことに、まずは気づかなければならない。

そこにはもともとあなたを生かすまことの命はなかったのであり、あなたの真実な故郷も存在しないのだから、そういうものに期待を託し、すがり続けている限り、失望しか得るものがないのは当然なのである。

自由になるためには、あなたを生かす力のないこれらの人工的な栄養補給のチューブを引き抜いて、自らの内に神が与えて下さった新たな命だけを動力源として生きる決意を固めねばならないのである。

その時、あなたがその命に従って生きることにどんなに不慣れであっても、その命は、あなたにすべてのことを教え、導き、すべての不足を補って余りある超越的で圧倒的な支配力を持っていることを信じねばならないのである。

それでも、その新たな歩みは、あなたにとって不慣れであるがゆえに、欠乏の感覚は度々襲って来るであろう。肉体の限界、心を圧迫する様々な出来事、行く先をよく知らない不安、波乱に満ちた絶望的な事件などが、あなたを絶えず圧迫し、常にあなたの人間的な限界を突きつけ、こんな無謀な冒険はやめて、元来た道を戻った方が安全だとささやくであろうが、あなたはそこで、自分にはその行程に耐えるだけの力がないとささやく同情の声に負けて、信仰による歩みをやめて、元来た道を戻ってはならない。あなたは毅然とアダムの命の有限性を受け入れることを拒み、十字架の死を打ち破ってよみがえられたキリストが、あなたの人間的なあらゆる弱さに対して、常に十分に解決となって下さるがゆえに、目的地までたどり着く力があることを信じて歩み続けねばならないのである。

復活の命が、周囲の限界にも、あなた自身の限界にも、それを補って余りある力となり、解決となることを、まずは信じて、一歩、一歩、歩みを進めねばならない。

その信仰がなければ、人には慣れ親しんだ療養所の環境を出て行く決意などつかないであろう。なぜなら、人々はあまりにもそこの暮らしに慣れ過ぎているためだ。人々はその生活に満足しておらず、そこに自由も完全性もないことも知っているが、それにも関わらず、あなたは自由になったので、そこを出て行って良いと告げられても、隔離された生活以外のものを全く知らず、未知の世界に自己の責任と判断で新たな一歩を踏み出すこと怖さに、その不自由の囲いの外に出て行こうと願わないのである。

ごく少数の人々だけが、何が何でも束縛された不自由な生活には耐えられないと思い、経験のあるなしに関わらず、人としての自由や完全を求めて、どんな小さなチャンスでも逃さず、療養所を出て行こうと決意している。彼らは人としての完全な自由と尊厳を取り戻すまで、どんな困難にでも耐え抜くことで、誰かが押しつけて来た不当でいわれのない被差別民のレッテルなどは完全に返上しようと固く決意している。
 
あなたがどれほど自由を求めているか、どれほど人としての完全を求めて、それを約束してくれている神の御言葉を信じて、自分の限界を信じずに、これまで見て来たすべてのものの限界を信じずに、見えるものによらず、神の栄光を完全に表す一人の新しいキリストに属する人として、新たな道を信仰によって勇敢に大胆に進んで行くことができるか、その決断と選択にすべてがかかっているのである。

ダビデが、神が敵前で自分の頭に油を注ぎ、食卓を整えて下さると信じることができたのは、彼が目に見える事実をよりどころにしておらず、目に見えるすべてのものの限界をはるかに超えて、それを打ち破る神の御言葉によるはかりしれない恵みの約束を固く心に信じていたからである。

信仰の先人たちが、行く先を知らないで出て行くことができたのも、彼らが自らの知識や経験によらず、彼らの内に働くまことの命の法則に従って、天の完全な故郷に向かって歩んだからである。彼らは目に見えるものの有様を見て、それが自分にふさわしい世界だと考えず、その限界を信じず、自分にはそれよりもはるかにまさった天の自由な故郷が約束されていることを信じ続けて、これを目指して前進したがゆえに、神は彼らの信仰を喜ばれたのである。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブル11:1-3)

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。

もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが、実際には、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブル11:13-16)