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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にして下さる。

先の記事で、筆者は、キリストのみに捧げられた聖なる花嫁としてのエクレシアの一員として、人間を頼りとしないで、改めて主にのみ頼って生きる覚悟を固めたと書いた。

これは神が筆者の心を、予め様々な別離に準備させたものであったようにも感じられる。

昨年には、困難な戦いを戦い抜くに当たり、筆者は多くの力添えを得た。しかし、筆者の事件のために、助力してくれた人々は、そのほとんどが、今年の春までには、様々な理由により、筆者のそばを離れて行こうとしている。職務上の異動が複数、他に、信念の違いが浮き彫りとなったケースもある。信仰の違いによる別離が起きる場合には、もしかすると、この地上だけでなく、天においても、別離となる可能性が考えられないことではない。

こうして、人々が散らされて行くのを見ることには、寂しさがないとは言えないが、それでも、このような現象に対して、筆者は予め心の準備がかなり出来ていたものと思う。

昨年の一年間は、それほど大きな心の生長を筆者にもたらしてくれた。この一年間の戦いは、筆者が、一人で立つために十分かつ激しい訓練の期間となったのである。

前々から述べて来たことであるが、筆者は、支持者や、理解者の人数を誇り、肉なる腕を頼りに生きたくないと願っている。預言者エリヤがしたように、ただ神だけを頼りとして、神のみに栄光を帰するために、450人のバアルの預言者を前にしても、一人で向き合うことのできる信仰が常に必要であるものと思う。

そのようにして、神以外の何者にも頼らない自由を保つために、筆者は自分の心が、周囲にいる人々に結び付けられて離れられなくなったり、あるいは、周囲にいる人々の心が、筆者に結び付けられて離れられなくなるよりも前に、彼らが様々な理由により、筆者自身の意思とは関係なく、神の采配により、去って行かざるを得なくなることを、肯定的に受け止めている。

我々の弁護者はキリスト、御霊が私たちのための約束の保証、裁き主は、天におられる父なる神であって、私たちには世の終わりまで共におられる方が一緒であるから、肉なる腕に頼る理由がない。

そういうわけで、「あえて事を難しくする」ために、筆者はますます念入りに、祭壇に水をかけているところである。

さて、代価を払って戦いを最後まで耐え忍んだ人と、それをしなかった人との間では、この先、大きな差が生まれるのではないかと筆者は思う。その差は、最初は小さなもののように見えても、十年も経つ頃には、巨大な差になっているものと見られる。

たとえば、あなたが仮に学校を卒業したばかりの若い世代であり、友人と共に、同じ企業に就職して、入社数ヶ月で、そこがブラック企業であることが判明したとしよう。賃金の支払いは滞りがちで、残業代は支給されず、果ては雇用契約書さえ交付されず、強欲な社長は、すでに多くの社員を不当に解雇している。

あなたと同僚にも、ついに順番が回って来て、共に落ち度もないのに解雇が言い渡された。あなたたちはこの措置を、何も言わずに受け入れるであろうか。働きづめに働いた期間の給与もあきらめて、路頭に迷わされる選択肢を受け入れるだろうか。それとも、何らかの方法でこの悪しき企業に打撃をもたらし、彼らが不当にため込んだ富を吐き出させて、取り返すべきものを取り返すであろうか。

それをするかしないかによって、その後の道は分かれることであろう。だが、受けた打撃を取り返すためには、声を上げて、自分の権利を主張して、戦わなくてはならない。だが、あなたの元同僚は、狭い業界で、そのようなことをすれば、次の就職先は見つからなくなると危ぶんでいる。多分、どの企業も似たり寄ったりの状態だから、このような理不尽をも、甘んじて受け入れる心がなくては、この先、どの企業でも、やっていけないだろう、などと言っている。さて、あなたはどのような選択肢を選ぶだろうか。

筆者の考えはこうである。もし抵抗しなければ、その人は、黙って就職した次なる会社でも、前よりもさらに悪い搾取の犠牲となるだけであり、おそらく、その連鎖は、本人が抵抗して断ち切ろうとしない限り、ずっと続くことであろう。これを断ち切るためには、業界からの根本的なエクソダスが必要になるかも知れない。

奪われたものを取り返す手段は存在する。また、不当な濡れ衣も返上する方法も存在する。多くの人々を傷つけ、獲物ののようにかみ砕き、食い物にして来た要塞のような企業に、恥辱と打撃をもたらし、しかるべき償いをさせてから、これと手を切る方法は、確かに存在する。
 
だが、声を上げる際にも、注意しなければならないことがある。一方には、弱い人々を食い物にする強欲な企業があるかと思えば、その反対には、食い物にされた人々の苦しみをさらに食い物として、強欲な救済ビジネスを展開している人々がいる。ブラック企業との戦いを売り物とし、成功報酬を分捕ろうと待ち構えている長蛇の列がある。このような人々に助けを求めている限り、あなたには、戦ったとしても残るものがない。だから、自分の権利や栄光を安易に他者にかすめ取られないよう、きちんと考えてから行動することが肝心である。

さて、以上の話は、ブラック企業の話をしたいがために持ち出したのではなく、信仰の世界で起きている事柄の比喩として持ち出したものである。筆者がここで言いたいのは、神の国の権益を守るために、代価を払って勇敢に戦った人と、それをしなかった人が、同じ報いを受けることは決してないということである。

キリスト者は、ただ自分のためだけに生きているわけではない。私たちは、自分が不当な濡れ衣を着せられたから、それを晴らそうとしているのではなく、神の御言葉が曲げられ、神ご自身の栄光が傷つけられているから、これに立ち上がって応戦するのであり、私たちの信仰の証しが妨げられることにより、神の国の権益が傷つけられているから、これに断固、立ち向かい、御国の前進に貢献しようとしているのである。従って、ここには、個人の失われた利益をや名誉を取り戻すというだけには決して終わらない、もっと大きな利益というものが存在する。
 
だが、いずれにしても、御言葉に従って、神がキリストを通して私たちにお与え下さった自由の絶大な価値を知って、これを守り通し、行使することができた者と、それをしないで、自由が取り上げられることに甘んじた者との間では、地上の生涯においても、やがて大きな差が現れるだろう。
 
筆者はかつて、神の御言葉の正しさを証明し、不当な言いがかりを跳ね返すために、ある人々に訴訟を勧めたことがあった。弁護士など雇わずとも、勇気と根気があれば、訴訟はできるのだから、諦めてはならないと筆者が言ったところ、彼らは言った。

「ヴィオロンさん、それはきっとあなただからこそ、出来たことだと思いますよ。」
筆者は、眉をひそめて聞き返した。
「どういう意味ですか、それは。私が文章を書くことを得意としていたから、出来たという意味ですか。」
「いや、あなたがとても強い人だからです。」
筆者はますます眉をひそめて問い返した。
「何を言っているんですか。私は一人の弱い人間に過ぎません。それでもこうしていられるのは、私の力ではなく、神様が助けてくれているからです。でも、この私にできるならば、あなたには、私よりも、助けてくれる人たちが、もっとたくさんいて、はるかに有利な立場にあるじゃありませんか。それなのに、私にできて、あなたができないはずがありません。
でも、状況はどうあれ、もしも私たちが真に正しく、御名の栄光のためになる仕事を果たそうとするならば、神様はそのために、必要なすべての手段を与えて下さることは確かです。あなたがたが、勇気を持って、御名のために立ち上がるなら、そのために必要な時間も、費用も、何もかも天が用意して下さいます。それは主のための戦いですから、必要なものは、すべて神ご自身が用意して下さらなければなりません。」
「いやはや・・・、私たちは、あなたを雇いたいくらいですね」
「何ですって?」
筆者は耳を疑い、聞き返した。
「私に何をしたいですって?」
「いや、私たちはあなたを雇いたいくらいだと言ったんですよ」

筆者はその言葉を聞いて心の中で絶句してしまった。だが、うわべはまるで聞かなかったようにして、御国のための権益を守る戦いに参加することを、真剣に検討しておいてもらいたいとのみ提案し、話を終えた。

筆者は、神の国の権益を守るための戦いのためならば、無報酬で働くつもりであったし、せいぜい要求できるとしても、紙代とインク代程度であろうと思っていた。そもそも裕福でない信者らが、弁護士に払うような報酬を筆者に払えるはずがないし、筆者も、金さえ払われれば、誰の味方にでもなる弁護士ではない。筆者はこの世の富に仕えるために、御言葉の証しを書き続けているわけではないし、この世の富の支配下に置かれるつもりもない。

それにも関わらず、もしも誰かが、このように貴重な仕事のために、筆者に金を払うというならば、それは、筆者をはした金で雇うという意味でしかない。つまり、彼らは、はした金でもいいから、筆者に金を払って、自分たちは雇い主であるという顔をすることなしに、弱く無名な存在である筆者に、無報酬で助けられるなど、プライドが許さないと、内心では思っていたものと見られた。

まるでそれは、一人で歩行がおぼつかない病人が、自分よりももっとはるかに重症に見える患者から差し伸べられた助けの手を、こんなにも哀れな人間から同情を受けたくないと、心の中で蔑み、冷たく振り払ったような具合であった。
  
以上のような返事を聞いた時点で、筆者は、彼らには決してこの戦いに参加することは無理であろうことを悟った。多分、彼らには筆者を助けてあげているという思いはあっても、自分たちも、命がけで立ち上がらなければ、救いを保てない恐れがあるとは、考えてもいなかったのに違いない。

だが、すべては神のなさることであるから、神がこの人々を導かれるのに任せようと、筆者は彼らを説得することも、異議を唱えることもなく、少し時間を置いて待った。

数ヶ月後、もう一度、彼らに心中を問い尋ねてみると、彼らは、面倒な争い事を自分から起こすのは嫌だとはっきり返答したので、筆者はそれを聞いて、この人たちのために助力することは必要ないと、主が答えを出されたのだと、ほっと胸をなでおろした。

それはちょうどギデオンが、ミデヤン人の13万5000人の軍隊に立ち向かうために、300人の勇士たちを集めた時のことを思い出させる。

主のための戦いに勝利するためには、数さえ集まれば良いということはない。むしろ、数などなくとも、心から、その戦いのために自分を捧げることに、準備が出来ているほんのわずかな人々がいれば、いなごのような大群にも、十分に立ち向かうことができる。

暗闇の勢力との戦いを貫徹するためには、代価が必要であり、世との間で軋轢が生まれることを望まない人は、これに参加することはできない。ただ人間の利益が侵害されたというだけの理由では、主の権益を守る戦いを共に戦うことはできず、兄弟姉妹との連帯さえも成り立たないのである。

かくて、エクソダスできる人々と、そうでない人々が分かれる。紅海を渡るところまでは、共に進んで行けた多くの信者たちが、その後、荒野に入ると、そこで倒れてしまう。いや、今は、荒野で倒れるというよりも、むしろ、神が奇跡によって開いて下さった紅海を、船頭を雇ってまで逆に渡り、再びファラオの奴隷となって生きるために、エジプトへ舞い戻ってしまうと言った方が良いかもしれない。
 
そのような光景を見る度に、筆者は、愚かな花嫁のたとえを思い出さずにいられない。筆者がどんなに誰かに自由になって欲しいと願ってみたところで、自分自身で代価を払おうとしない人々に、筆者は自分の油を分けてやることはできないし、それは許されない相談なのだと痛感する。

だから、そうした人々は、自分の足りなくなった油を増し加えるために、筆者の助けなど全く借りない代わりに、安価かつ偽物の油を買うために市場に走って行き、その遅れのために、結局、花婿を出迎えることができなくなり、宴会の扉が閉められて終わってしまうのである。

このようにして、今やプロテスタント全体が、御霊の油の欠如により、御言葉の証しを公然と保つことができなくなって、敵の圧迫に屈し、沈黙に入ったのではないかと思われる。この宗派に属するほとんどすべての教会と信者が、教会が迫害されても抵抗せず、御言葉が曲げられても、抗議せず、主の御名が傷つけられているのに、ほえたける獅子の咆哮に怯え、全く立ち上がることなく、腰砕けになって、一切、戦わずして、敗北する道を選んだことは、筆者には唖然とするような出来事である。

このように、神の教会が冒涜されても、立ち上がることができないという極度に情けなく臆病な有様を見ても、筆者は、プロテスタントはもはや霊的に終焉を迎えており、今、新たな信仰回復運動が起こることが必要なのだという確信を強めないわけにいかない。
 
だが、このような状況でも、絶望など一切する必要がないと言えるのは、神はどんな状況からでも、最も先駆的で前衛的な、新鮮な御霊の息吹を持つ新たな霊的運動を起こすことがおできになるからである。今日、信者に求められているのは、プロテスタントの中でも、どの教団教派ならば、多少、マシであるかなどと考えて、教団教派の間を走り回ることではなく、あるいは、プロテスタントが駄目ならば、カトリックに戻れば良いなどと議論することでもない。

新たな革新的で先駆的な信仰回復運動の登場が待たれるのだが、これから起きる信仰回復運動は、かつてのような大規模な大衆運動とはならないであろうと筆者は予想する。それはただ万民祭司という新約の原則を忠実に実行に移すだけで良く、筆者のような、無名の信者が、一人一人、知られざる場所で、ただ御言葉なるキリストご自身だけに忠実に従い、静かに自分の十字架を負って歩みを進めさえすれば良いのだと思わずにいられない。

それは牧師のいない、宗教指導者のいない、宗教団体や組織の枠組みにとらわれることのない、神と信者との直接的で個人的な知られざる信仰の歩みである。

そこで、筆者の周りに団体が築き上げられることは、今もこの先も決してないであろうと言える。筆者が何かを成し遂げる際に、周りに集まって来た人々がいるとしても、彼らも、必ず、やがて散らされることになる。なぜなら、そこにバベルの塔のような、人間の肉なる力が結集することは、神の御心に全く反するからである。
  
改めて、金持ちが天国に入るのは、らくだが針の穴を通過するよりも難しい、という御言葉を思う。「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」(マタイ22:14)

筆者は、招かれただけで終わりたくはない。神の褒賞を受けるために、試練に勝利する者でありたい。そのために、自分の心が、地上の何者にもとらわれることなく、自由であって、ただ主だけに捧げられ、御心の実現だけにいつでも傾けられる状態であって欲しいと強く願う。そこで、筆者と神との間に立ちはだかって、主の栄光の妨げとなりうるようなものは、この先も、何であれ、取り去られる必要があることを認める。

人や物や目に見えるものに心を傾注しすぎることは極めて大きな危険である。そこで、 御国の権益にとって、損失とならないのであれば、筆者は、地上的なすべての別離に対し、「主が与え、主が取りたもう。主の御名は誉むべきかな。」(ヨブ1:21)と同意したいと考えている。

* * *

さて、話が少し変わるが、裁判手続きを通して、司法の世界を垣間見るようになって、筆者はそこではかりしれないほど大きな学びを得た。

誰もが知っている通り、訴状には、まず最初に、以下のような命令文で、被告に対する請求が記される。
「被告は、××××万円を支払え。」
「被告は、××××をしてはならない。」

このように書き記すことによって、原告はその通りの判決が下されることを裁判官に求める。

しかし、この世においては、ただ訴えが出されただけで、それが認められることはまずなく、通常は、幾度もの弁論手続きが重ねられ、証拠が積み上げられ、議論が尽くされてから、判決が出される。

しかし、筆者はただ原告として以上のような文面を書いてるわけではなく、キリスト者として、キリストの御名の権威を帯びた者として、このような命令文を書いている点で、そこには世人の訴えに込められた以上の重みがあると言えよう。
 
もちろん、筆者は地上においては何者でもないただの無名の市民であって、筆者の訴えが、他の人々の訴えと異なる理由などないかに見えるだろう。しかし、筆者は、信仰によって、キリストの代理として、御名の権威を持って、自らの言葉を発している。そこで、筆者の書いている命令文は、単なる文字である以上に、霊的に、はかりしれないほどに重い意味を持つものであると言えよう。

昨年が来るまで、筆者は主としてブログにおいて、信仰の証を続けて来たが、裁判手続きの場に信仰の証が持ち出されてからは、御名の権威を行使して証する作業が、より厳粛で重い意義を持つようになったと感じている。
 
こうした手続きの中で、極めて重要なことがいくつも分かった。そのうちの一つが、主に依り頼んで生きるキリスト者が、被告として訴えられるようなことは、絶対にあってはならず、また、あり得ない事態だということである。

この世には冤罪事件もあれば、スラップ訴訟もあり、誰かが被告として訴えられたからと言って、決してそのことは、その人々が何かの罪を犯した証拠を意味しない。事実無根の訴えや、不当訴訟といったものも、存在しないわけではないからだ。推定無罪の原則があり、何が事実であるのかは、審理を進めてみなければ分からない。

ところが、信仰の観点から見るならば、キリスト者が被告として訴えられることは、それだけで、深い霊的な敗北の意味を持つのである。そこには、何かしら非常に暗い運命的な意義があることを、筆者は思わないわけにはいかない。

筆者はこれまで、このささやかな信仰の証のブログのために、提訴、反訴、控訴、刑事告訴の脅しを幾度にも渡り受けたが、そうした脅し文句を聞く度に、ただちに以下の御言葉を使って、その脅しの効力を無効化し、敵の放った火矢が、筆者に届く前に、それを空中でへし折って来た。

「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

「わたしたちは、あなたのために
 一日中、死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている」

と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。


わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:31-39)

そういう経緯があったおかげで、聖書の御言葉には、現実に、私たち信じる者を、完全に潔白な者として神の御前に立たせ、敵のすべての言いがかりに満ちた訴えを無効化することのできる絶大な意義があることを、筆者は幾度も実地で学ばされて来たと言える。

キリストの命は、私たち信じる者を、本当に一点の罪の曇りもない、しみもしわもない、完全かつ潔白な存在として立たせることができるのである。

そこで、私たちも、自分を見るとき、主がご覧になるように自分を見なければならない。神が選ばれた民であるにも関わらず、私たちに、被告として訴えられる根拠などがどうしてあって良かろうか。

キリスト者を訴えるという行為は、その者を贖われたキリストの贖いを無効にすることを目的とする行為であって、悪魔と暗闇の勢力のみが抱く願望であると言えるが、そのようなことをする力を、暗闇の勢力はそもそも持っていない。

暗闇の勢力にできることは、せいぜい嘘を振りまいて信者を脅すことだけであり、神の下された永遠の判決を覆すような力は、彼らには付与されていない。そういうわけで、それにも関わらず、キリスト者を名乗る人間が、訴えられて法廷で被告とされることには、何かしら非常に深い、暗い霊的な意味が込められており、筆者の目から見れば、それ自体が、すでに信仰的に敗北を意味することが分かったのである。

一体、自分が有罪者として訴えられている者が、どうして100%の潔白に立って、悪魔と暗闇の勢力を全身全霊で糾弾することができようか? 

そのようなわけで、私たちは、暗闇の勢力の不当な言いがかりには、決して屈してはならないのであり、敵のあらゆる訴えを断固、はねのけて、冒頭に挙げた通り、声を限りに、容赦のない宣告を突きつけ、
  
おまえたちは、××してはならない!!
××することを禁じる!!
××せよ!!

という強い命令を、実行力のある方法で発して、彼らの口を封じなければならいのであって、それ以外の「コミュニケーション」はあり得ないのである。

ところが、ある人々は、それは暗闇の勢力に対して失礼かつ残酷すぎる措置であると考える。彼らは、暗闇の勢力と毅然と向き合って、断固、命令するどころか、かえって、おずおずと

私たちは、あなたたちに××して欲しいと願っています。
××して下さいませんか?

と、もみ手ですり寄るような、弱腰な訴えを口にして、直接交渉に及ぼうとする。

彼らはそのような”礼儀”が、暗闇の勢力に対しても必要だと信じているのである。だが、それは訴えではなく、懇願であるから、そんな言葉は、悪魔と暗闇の勢力にとって、自信を増し加える根拠にはなっても、何の脅威にもならず、痛くもかゆくもない。

彼らはそういう風に、自分たちの意思を問う人間が現れれば、喜んでいついつまでも彼らが頭を下げて自分のもとに懇願しにやって来ざるを得ない状況を作り上げるだけである。

アダムとエバの敗北は、そもそも神ご自身を抜きにして、蛇と直接、口をきいた時点から始まっていた。

そこで、今日、我々キリスト者に必要なのは、聖書の御言葉の権威に固く立って、それに基づいて、闇の勢力に対して、有無を言わさぬ命令を発することだけであって、彼らの意思など問うてはいけないし、中途半端な和解も、懇願も、してはならないのである。

ところで、裁判においては、弁論が重ねられるうちに、必ずある種のクライマックスがやって来る。つまり、どこかの時点で、論敵の嘘と詭弁に満ちた脅しが最大に達する瞬間が来る。そのときが、弁論の激しさが最高潮に達する時であり、裁判のクライマックスだと言えるが、信者は、その時、敵のもたらす恐怖に打ち勝って、敵の最大の武器をへし折ることによって、彼らの武装を解除して、彼らを無力化せねばならない。

それができるかどうかが、勝敗を分ける。つまり、裁判の決着は、判決が述べられる瞬間に初めて訪れるものではなく、むしろ、判決読み上げの瞬間が訪れるよりも前に、私たちキリスト者の中で、霊的な勝利がおさめられていなければならないのである。

そういう意味で、訴訟は一か八かの賭けであってはならず、裁判官の善良な人柄や、証拠の分量や、支援者の人数や、精緻なロジックの組み立てや、運の良さにすべてを委ねるような受け身の態度では、勝利をおさめることはできない。
 
これは裁判のみならず、日常のすべての場面に当てはまることである。キリスト者は、日常生活においても、暗闇の勢力と対峙することが必要となるが、その際、敵が持っている最も強力な武器が何であるかをよく理解し、時が来たときに、これを粉砕して無効化することで、敵の武装を解除することなくして、戦いに勝利して、次のステージへ進むことができない。
 
一つの戦いをクリアできないと、いつまでもずっと同じ問題に悩まされ、脅しつけられ、圧迫されたまま、不自由の中を生きて行くこととなる。
 
私たちキリスト者には、聖書の御言葉を武器として用いて、敵の嘘と詭弁の要塞を破壊して、彼らの武装を解除し、すべてのものをキリストの御名に従わせ、不従順を罰することが可能とされていることを忘れてはならない。

「わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なもののになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(Ⅰコリント10:3-6)

さて、「最後の敵として、死が滅ぼされます。「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。」(Ⅰコリント15:26-27)とある通り、敵(悪魔)の最大の武器とは、死である。従って、悪魔と暗闇の勢力の最大の武器とは、死の恐怖によって、人々を脅かすことであると言えよう。

そこで、当然ながら、キリスト者が暗闇の勢力の武器を粉砕して、彼らの圧迫を打ち破り、勝利を収めるために必要なことも、死の恐怖に打ち勝つことである、と分かる。

このことは、王妃エステルが、ハマンの策略により、ユダヤ人の民が皆殺しにされるかも知れない危機にあった際、この脅しによる圧迫に立ち向かうために、自分自身も死を覚悟した上で、王の前に進み出たエピソードの中にも見て取れる。

私たちも、暗闇の勢力との戦いに勝利するためには、死をも厭わない覚悟で、自分をとことん主の御前に投げ出して、敵の脅しに徹底的に立ち向かうことが必要となるのである。

「今や、我々の神の救い力と支配が現れた。
 神のメシアの権威が現れた。
 我々の兄弟たちを告発する者、
 昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、
 投げ落とされたからである。
 兄弟たちは、小羊の血と
 自分たちの証しの言葉で、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12]10-11)
 
神に従い、御言葉を地に実際として引き下ろし、御心を成就するためには、死をも厭わない決意で、主と共なる十字架において、絶えず霊的な死を帯びて、敵の脅しを打ち破ることがどうしても必要なのであり、そうした決意を抜きにして、主に従い抜いて、敵の武装を解除して勝利をおさめることはできないのである。

そこで、私たちは、敵が最大限の脅しを用いて向かって来るときには、自分自身を完全に主と共なる十字架に同形化して、これに応戦することが必要となる。この世の訴訟においても、そのような瞬間があり、言葉や証拠の争いよりも、もっと深いところで、霊的な激しい戦いが繰り広げられる。この世に現れて来る勝敗は、この領域における霊的な勝敗に沿ったものにしかならないのである。

そこで、キリスト者は、いかなる瞬間においても、まずは御言葉によって、霊的に敵の武器を無効化し、彼らの武装を解除することなくして、自由と栄光を掴むことはできないことを知るべきである。
 
とはいえ、私たちの勝利の根拠は、私たち自身にあるのではなく、カルバリの十字架で、キリストの死と復活を通して、悪魔と暗闇の勢力に下された裁きと滅びの宣告にこそある。それが、私たちが悪魔と暗闇の勢力がもたらそうとする死の恐怖に対して、すでに完全な勝利をおさめていることのすべての根拠である。

「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」(ヘブライ2:14-15)

だから、私たちがなすべきことは、いかなる嘘、詭弁、脅しを受ける瞬間にも、徹底的に十字架の原則に踏みとどまって、キリストの死を、自分自身の死として受け止め、適用し続けることによって、そこにキリストの復活の命が働いて、勝利を得るまで、御言葉を武器に戦い抜くことであると言えよう。
 
私たちを死から命へと移し出す根拠は、ただカルバリにのみ存在するのであって、十字架にかかられたキリストこそ、私たちの命の源であり、私たちの勝利、栄光、自由の源なのである。

従って、私たちの平和と自由の根拠は、決してこの世との和合にあるのではない。この世との間に軋轢を生まず、強い者たちの意向に逆らわず、世に波風立てず、ご機嫌伺いをすることによって、命を保てる者は、誰一人としていない。それどころか、そのような方法では、かえって命を失うということを、聖書は一貫して教えているのだと言えよう。

従って、私たちが世に接触する時には、深入りしないための警戒が必要である。私たちを生かしているまことの命の源がどこにあるのか、片時も忘れない用心が必要となる。

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にして下さる。」(ヨハネ12:24-26)

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善良な人はその嗣業を子孫に残すが、罪びとの富は正しい人のためにたくわえられる。

「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。」(Ⅱコリント11:2-3)

外出先で車を走らせていると、ふとある教会を通り過ぎたが、その掲示板に「キリストと婚約」という説教題が書いてあった。 筆者はむろん、その教会に立ち寄るつもりも、礼拝説教を聞くつもりもないが、象徴的なタイトルだと心に留めた。

折しも、最近のオリーブ園には、オースチンスパークスの「キリストとの合一」の連載が始まったところである。

筆者は、ここ最近、ますますキリスト以外の何者にも頼ることなく、地上の人間との関わりに一切、心奪われることなく、ただ信仰だけによって生きるべきだとの確信を心に強めている。

上記の御言葉は、口語訳では、こうなっている、「 わたしは神の熱情をもって、あなたがたを熱愛している。あなたがたを、きよいおとめとして、ただひとり男子キリストにささげるために、婚約させたのである。 ただ恐れるのは、エバがへびの悪巧みで誘惑されたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する純情と貞操とを失いはしないかということである。 」

「ただ一人男子キリスト・・・」、この聖書の表現は、何ら嘘でもなければ、誇張でもない。なぜなら、花嫁なる民(エクレシア)にとって、花婿なる男性は、キリストただお一人だけなのであるから。
 
パウロは、キリストがご自分の花嫁を愛されるのと同じように激しい愛情を持って、自分が養い育てて来た信徒らを見つめ、もしや万が一にも、彼らの心が、キリスト以外のものに奪われ、神を悲しませやしまいかと、気をもんでいたのである。

パウロがいた当時のコリントの教会には様々な問題が起き、信徒たちの信仰も、頼りないものであったかも知れないが、パウロは、そうした現状を見るのではなく、神がご覧になっている花嫁としての教会の姿を見つめ、キリストご自身を反映したその美しさ、その完全さに、心奪われるほどまでに熱心な愛情を注いでいたのである。

エクレシアの一員たる私たち信徒は、自分がそのような眼差しで神に見つめられていることに気づいているだろうか。

さて、この人間社会に生きていると、不思議な出会いが多々あり、他者から熱心な好感を表明されたりすることも、時にはある。人は誰でも他人から好意を示されることに、悪い気はしないものだが、パウロが信徒たちを見つめていたような、熱心な愛情をこめて見つめられれば、なおさらのこと、情にほだされそうにもなるだろう。

ところが、筆者はここ最近、どんなに人から好意を受けようとも、どれほど賞賛と支持を受けようとも、人間の互助組合としての、人間の連帯からは、一切、離脱して、人間的な慰めにすがらず、ただキリストのみを頼りとして、キリストのためにのみ、生きるべきだという確信が、心に増し加わっている。

これは、筆者が人間嫌いの偏屈で頑固な変わり者であるがゆえに言うのではない。パウロも、別な箇所では次のように述べている。

「今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです。妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない。<略>ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。

兄弟たち。わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。」(Ⅰコリント7:16-31)

これは驚くべき言葉であり、パウロが実際に、キリストに結ばれた信者たちは、まことの伴侶なるキリストだけのために生きるのが理想であると考えていたこと(そしてパウロはそれを実践して生きたこと)をよく物語っている。

従って、冒頭に挙げた「キリストと婚約させた」という言葉は、パウロにとっては文字通りの意味を持っていたのであって、パウロ自身、キリストにのみ捧げられたエクレシアの一員として、生涯、キリストを満足させるためだけに生きたのである。
 
それだけでなく、パウロがここで、妻を持つことを、物を売ったり買ったり、喜んだり泣いたりするといった浮き世の些事と同列に論じていることに、注意したい。今日の世の中の多くの人々にとって、自分の望み通りの伴侶を得て、安定した家庭を築くことは、死活的な重要性を帯びた一大事であろうが、パウロは、そのようなことは、すべて永遠とは何の関係もない、移ろいゆくこの世の有様に過ぎず、取るに足らない地上的な事柄でしかないと、切り捨てているのである。

そして、人の目に自分がどう映るか、どうやって人を喜ばせるかといったことばかりに気を遣うのではなく、どうやって神を喜ばせるかに第一に心を砕いて生きるべきだと、信徒に語り続けるのである。

そこで今、筆者も、もしもこの世の人々が、私たち信じる者に、人間的な長所や魅力を見いだすとすれば、それはすべて、我々の生来の資質から来るものではなく、ただキリストご自身に贖われたエクレシアとしての栄光に満ちた輝きに由来するものだと考える。

神が筆者のために、キリストを贖いの犠牲としてお与え下さり、筆者が御子の命と性質にあずかっているからこそ、筆者にかけがえのない価値が生まれるのであって、もしも筆者が、ただ一人の男子キリストだけのために捧げられた聖なる花嫁(エクレシア)であるというステータスを自ら捨てるようなことがあれば、筆者の魅力、輝き、新鮮さといったすべての美点は、たちまちのうちに無いもののように消え去ってしまうことであろう。

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)

人間はみな神の宮として造られたのであって、宮は、神がその中に入ってこそ、初めて意味を持つ。ただ空っぽの、神不在の宮は、どんなに美しく造られていようとも、無価値である。

このようなわけで、筆者は、人々の優しさや好意、賞賛や賛同に触れるときには、注意しなければならないと思っている。神の目にではなく、人間の目に自分がどう見られるかを気にして生きるようになることは、キリスト者にとって重大な罠だからである。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7:13-14)
 
筆者は大勢の人々が手に手を取って入って行く滅びに至る広い門を非常に忌むべきものとみなしており、これを拒み、ただキリストのつつましい花嫁として、人の目には評価されない十字架の道を歩んで行きたいのである。

つい今しがたも、これまで神の御前で単独者として、共に孤独な戦いを戦い抜きたいと願った人々の一部が、広い門へと逸れて行ってしまったのを見た。

彼らは、組織から離脱した人々であったが、再び、組織に所属することを選んだと筆者に告げて来たのである。

こういう事例を、筆者は今まで、数えきれないほど見て来た。腐敗した宗教団体からエクソダスし、人間の指導者につき従うことを拒み、神の御前の単独者として、聖なる花婿であるキリストだけを忠実に待ち望む花嫁として、孤独をも、恥をも耐えて、戦いを忍んで勇敢に生きようと決意した信者たちの、実に多くが、実際に孤独と迫害の中で、一人では立ちおおせなくなって、人間的な助けを求めて組織へと戻って行った。

筆者から見れば、そのようなことは、エジプトを脱出した人々が、再びエジプトに戻るのと同じ、信仰の後退であり、しかも、そういうことが起きる際、彼らが戻って行く先の組織は、決まって、彼らが先に所属していた組織よりも、もっと後進的で、命の息吹の感じられない、死んだ古い組織なのである。だから、そのような場所へ戻れば、彼らは前よりも悪い状態に陥りかねないと筆者はいつも危惧している。

そういう現象が起きるほど、信仰の試練を一人で立派に耐え抜くことは、大勢の人々にとって難しい。彼らにとって、リアリティと見えているのは、目に見えるこの世であって、見えない天ではない。

多くの人々は、神から疎外されることよりも、社会から疎外され、世から偏屈で頑固な変わり者だと非難されることを恐れる。彼らは、神との間で齟齬が生じることよりも、社会との間に軋轢が生まれることを恐れる。さらに、世に迎合しないことによって、生活の糧が失われることを何より恐れる。

昔の信仰の先人たちは、地上的な保障が何もないところで、ただ信仰だけによって、天からの富によって支えられて生きる方法を知っていたが、今日は、聖職者と呼ばれる人々の中にも、荒野にあっても、信仰によって生きる秘訣を心得ている人は、ほとんど見当たらない。

孤独や、窮乏や、迫害や、行きづまりが見えて来たとき、ほとんどの人たちは、それを信仰によって乗り越えられると思わず、回れ右して退却して行くしかないと考える。

今、真の意味で、神の国の働き人であり続けられる人々が、西を向いても、東を向いても、ほとんど見当たらないのである。

だが、荒野が嫌だからと、エジプトに戻れば、奴隷としての日々が待っているだけだ。それでも、彼らの目には、荒野で死に耐えるよりは、エジプトで再び奴隷となって生き延びる方が安全だと映る。人間の互助組合の助けを借りれば、せめて暮らしは保障されて、厳しい寒さや熱さを和らげることができると思うのであろう。だが、それは誤りである。

あるジャーナリストが、安倍政権が続いた先に待ち受けているものは、ベネズエラのような運命だと訴えているが、実際に、日本全土が、ここ数年で、恐ろしいほどの貧しさの中に落ち込んでおり、この先、それが和らぐ見込みは今のところ見いだせない。

宗教団体などの人間の作った互助組合も、貧しさの煽りを受けており、従って、一人では信仰の試練を忍び通せないと考える人たちが、身を寄せ合って寒さをしのごうとしても、そこで延命できるのは、せいぜい、一日か、二日程度である。無いものは無いのであって、分かち合えばさらに減るだけである。

何度も書いて来た通り、我々が無事にそして有り余る命の豊かさの中で生き残るためのただ一つの有効な手段は、どんな団体に所属するかという点にはなく、神の国とその義を第一として生きることにこそある。

「信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなた方に必要なことをご存じである。
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:30-34)


この法則のおかげで、筆者は今もこうして神の義に立って証を続けることが可能となっている。だが、筆者は、これから先、ただ神の御前に義とされるだけでなく、栄光にたどり着かねばならないと考えている。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」(ローマ8:28-30)

栄光を受けるとは、信仰の試練を立派に耐え忍び、勝利をおさめ、ただ「合格」基準に達するだけでなく、「よくやった」として褒賞にあずかることを意味する。
 
今、筆者は、エジプトで宰相となったヨセフが、来るべき大きな飢饉を予見して、それに備えて何年も前から、穀物の備蓄を命じたように、来るべき霊的飢饉に備えて、天に宝を貯蓄しておくことが必要だと考えている。それは目に見える飢饉が現実に迫っているだけでなく、霊的なひどい飢饉がすでに到来しつつあるためである。
 
イエスは言われた、「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、貴方の心もあるのだ。」(マタイ6:19-21)

しかし、一体、天に富を蓄えるとは、何を具体的に意味するのだろうか。
 
ここで、主イエスが、弟子たちに向かって、「わたしにはあなた方の知らない食べ物がある。」と言われたことを思い出したい。

「イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」(ヨハネ4:34)

主イエスは、神の御心を行い、そのわざを成し遂げることが、ご自分の食物だと言われた。これは、神の国と神の義を追い求めれば、すべてのものが添えて与えられるという御言葉とほとんど変わらない意味を持つ。

神の御心を行うとは、神を愛し、その御言葉に従って、神が贖われた兄弟姉妹を愛し、貧しい者を虐げず、他人の物を奪わず、人を欺かず、とらわれ人を自由にし、悲しむ人を慰め、正義を行い、真実を尊び、神が真実で憐れみ深い方であるように、慈しみ深く生き、悪や虐げや暴虐から遠ざかること等を意味する。

「人よ、彼はさきによい事のなんであるかをあなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。 」(ミカ6:8)

神の御心を行い、神の慈しみに生きるならば、必ず、その人の生涯は、主ご自身が守って下さり、神がその人のすべての必要を満たして下さる。そのことは、ダビデも以下のように書いている通りである。

「主は人の一歩一歩を定め
 御旨にかなう道を備えてくださる。
 人は倒れても、打ち捨てられるのではない。
 主がその手をとらえていてくださる。
 若いときにも老いた今も、わたしは見ていない 
 主に従う人が捨てられ
 子孫がパンを乞うのを。
 生涯、憐れんで貸し与えた人には
 祝福がその子孫に及ぶ。
 悪を避け、善を行えば
 とこしえに、住み続けることができる。
 主は正義を愛される。
 主の慈しみに生きる人を見捨てることなく
 とこしえに守り
 主に逆らう者の子孫を断たれる。
 主に従う人は地を継ぎ
 いつまでも、そこに住み続ける。」(詩編37:23-29)

では、荒野で倒れた人々には、何が足りなかったのだろうか。彼らには、食物の少ない荒野にあっても、そこには、神の御言葉という、自分を生かす、目に見えない朽ちない食物があることが、発見できなかったのである。

彼らには、目に見える食物が目の前にないとき、目に見えない食物から、どうやって目に見える食物を取り出すのか、その秘訣が分からなかったのである。

そうなったのは、彼らには、信仰がなかったために、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブライ11:3)という事実が見えていなかったためである。

すなわち、我々信仰者は、見えない神の御言葉を通して、目に見えるものを実体として呼び起こし、引き出すことができるのであり、すべてのものはそのようにして神の御言葉によって出来たのであるが、その法則が、彼らには分からなかったのである。
 
宗教組織によりすがれば、安全な信仰生活を送れると考えることが、どうして間違っているのかという根拠もここにある。組織や団体は「目に見えるもの」である。しかし、信仰により、私たちが神の国を受け継ぐ者であることを保証し、まことの命の糧を与えてくれるのは、これらの「目に見えるもの」ではなく、目には見えない、内に住んで下さる聖霊である。

私たちがこの内なる御霊を通して、キリストご自身から全てを引き出す秘訣を学ぶことを捨てて、ただ厳しい試練を一人で耐え抜く自信がないために、あるいは、手っ取り早く安全な生活の保障を得たいがために、自分が生きている根拠を、「目に見えないもの(神の御言葉)」ではなく、「目に見えるもの(団体)」に取り替えると、私たちにすべてを供給してくれるまことの命の働きがやみ、やがて命の源が失われてしまうのである。

では、我々は一体、どうやって、逆境を切り抜け、信仰によって、御言葉による創造を行い、無いところから、有るものを呼び出し、朽ちない宝を生み出していくのか?
 
今、我々を取り巻く目に見える世界は、徐々に貧困化している。憎むべき悪魔は、今日もほえたける獅子のように、弱く貧しい無知な人々を、獲物のように食い尽くそうと、あたりを徘徊し、見つければ、虐げ、騙し、脅し、ゆすり、たかり、財産を巻き上げ、路頭に迷わせ、骨までしゃぶりつくそうと狙っている。

悪魔と暗闇の勢力は、人々を飢餓状態に陥れ、互いに憎み合わせ、殺し合わせ、あわよくば共食いにさえ陥らせたいと、グロテスクな計画に心躍らせているのかも知れない。

しかし、我々信じる者たちは、信仰によって、まるで熟練した腕前を持つ狩人のように、吠えたける獅子に御言葉を矢のように打ち込み、これを捕獲して、分捕りものとして縛り上げ、檻に入れて持ち帰り、凱旋の行進の中で、さらしものにした後で、蔵に食料として備蓄しておくことができる。

武装を解除してしまえば、それはもはや獣ではなく、おとなしい動物であり、食べ物にもなろうし、家畜にもなろうし、獣が従えていた捕虜たちも、当然ながら、分捕り物となるであろう。

このような話を聞いて、きっとこれは非常に悪い冗談か、皮肉を言っているに違いない、と思う人もあるかも知れないが、そういう人には、エステル記の終わりを読んで欲しい。

ハマンは王の家臣に過ぎなかったが、自分が王の代理人であるかのように慢心し、モルデカイが自分を拝まないことに腹を立て、ユダヤ人を皆殺しにしようとはかった。その謀略が王妃エステルによって暴かれ、ハマンがモルデカイを吊るそうとして庭に作った処刑台は、かえってハマンを吊るす処刑台となり、ハマンが所有していた豪邸は、王妃エステルに与えられた。ハマンがはめていた王の指輪は、モルデカイに与えられ、モルデカイはハマンのものであった家の管理を任されただけでなく、かつてハマンが占めていた地位を受け継ぎ、さらにそれを超えて、家臣というよりも、一人の王のようにさえなったのである。

さらに、ユダヤ人には、ユダヤ人を殺す目的で武装した人々を、逆に殺して財産を奪い取ることが許可された。エステル記8~9章にはこうある、

「その中で、王はすべての町にいるユダヤ人に、彼らが相集まって自分たちの生命を保護し、自分たちを襲おうとする諸国、諸州のすべての武装した民を、その妻子もろともに滅ぼし、殺し、絶やし、かつその貨財を奪い取ることを許した。 」

「モルデカイは青と白の朝服を着、大きな金の冠をいただき、紫色の細布の上着をまとって王の前から出て行った。スサの町中、声をあげて喜んだ。ユダヤ人には光と喜びと楽しみと誉があった。」

「モルデカイは王の家で大いなる者となり、その名声は各州に聞えわたった。この人モルデカイがますます勢力ある者となったからである。」


むろん、これは旧約聖書中の出来事であって、これを現代のキリスト教徒に文字通りに当てはめるわけにはいかない。

しかしながら、これは霊的絵図であって、今日、キリスト者に任されている使命が、御言葉を武器として用いて、暗闇の勢力が占領していた領域を、キリスト者に明け渡させることにあることを、はっきり示している。それが成就すると、暗闇の勢力の首領が恥をこうむって退却するだけでなく、明け渡しに伴い、財産の移譲が行われる。「もろもろの支配と権威」が武装解除されて、主の民の凱旋の行進の中に捕虜として連行され、さらしものとされる際に、それらの支配と権威が不当に占領して来たすべての富も、光の子らに明け渡されるのである。

そのことが、「善良な人はその嗣業を子孫にのこす、しかし罪びとの富は正しい人のためにたくわえられる。」という箴言13:22の御言葉にも表れている。

次のコロサイの書に記されている御言葉の中には、何を根拠に彼らが武装を解除されるかが示されている。むろん、根拠となるのは、信じる者の罪を一切、無効にするキリストの十字架である。私たち信じる者が一切の罪を赦され、義とされる代わりに、私たちを捕虜とし奴隷として拘束していた暗闇の勢力が罪に定められ、恥をこうむるのである。
 
「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:14-16)

このように、神の御心を行って生きるとは、御言葉を現実の目に見える世界に適用し、そこに貫き通して、神に敵対する勢力との間で起きる、激しい争奪戦に打ち勝って、暗闇の勢力が不当に占領していた目に見えない領土を奪還することを意味する。

それはただ単に困っている人々を助け、貧しい人々に施し、とらわれ人を自由にするといった、人間に対する善良な行いや、慈善事業を意味するのではない。

神の御心を行って生きることは、御言葉を用いて、神に逆らい、人間を虐げ、苦しみの中に閉じ込めている暗闇の勢力の支配を打ち破り、彼らが不当に占領していた領域と、所有物を吐き出させて、これを愛する御子キリストの、光の子らの支配下に移譲する戦いを意味する。

これが、永遠に至る収穫を得て天に富を蓄えること、また、目に見えない神の御言葉を行使して、そこから地上的な利益を引き出すことの具体的な意味である。しかし、この戦いが持つはかりしれない重要な意義、および、その戦いの方法を実際に知っている人は、信者の中にも、ほとんどいないであろうと思う。<続く>


主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。
 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。

どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。また、わたしが適切な言葉を用いて話、福音の神秘を大胆に示すことができるようん、わたしのためにも祈ってください。

わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」(エフェソ6:10-20)
 
オリーブ園の直近のオースチンスパークスの記事「「霊の力の回復」第四章 霊の事柄のための霊的能力 (11)」も依然としてタイムリーな内容である。

この論説は、今日の弱体化した教会(エクレシア)が主の霊によって力づけられ、上から生まれた人々によって構成され、霊的な戦いに対して十分に備えられ、訓練された戦闘員となる必要性を訴えている。

前回の記事にも書いた通り、今日、クリスチャンと呼ばれている民の多くは、戦争が勃発しているのに、そのことを知らされずに非武装のまま土地に残された民間人のようである(まして非クリスチャンは戦いがあることなど全く知らされていない最も無防備な人々である)。

しかし、彼らが知らなくとも、戦いの火蓋はすでに切って落とされており、暗闇の勢力の欺きの活動が存在し、敵の襲来が迫っているのは事実であるから、彼らがずっと無防備のままであれば、やがて捕えられ、捕虜として引いていかれ、緩慢な死に追いやられるか、たちまち暴虐に見舞われるか、いずれにしても、悲劇が待ち構えているだけである。

そのような結果に至らないために、我々は戦って勝利をおさめなければならない。だが、今日、戦いがあることを知って、神の武具で武装して、きちんと戦闘に備えているクリスチャンはほとんど見当たらない嘆かわしい現状がある。

そこで、一部、ごくわずかに訓練を受け、戦いに備えて武装することを知っている信者が、無防備な民のために見張り人となり、防御兵の役目を果たさなければならない。

バビロンの倒壊はすでに始まっているのであり、私たちはその滅びに巻き込まれないよう、自分だけでなく、多くの人々をも避難させる役目を担っている。サムソンは最期の力を振り絞ってペリシテ人の神殿を倒壊させ、自分もその下敷きとなって死んだが、今日、私たちはキリストの十字架の死と復活を帯びているから、自分自身と人々を倒壊する火宅から生きて助け出す力を持っている(ただし霊的には絶えず死をくぐらなければならない)。

私たちが激しい戦いの中で、自己の安寧を最優先して、さっさとあきらめて退却するのか、それとも最後までその戦いの中に踏みとどまって、勝利を確信し、人々を説得して避難させ、彼らが川を渡り終わるまで、そこで最後まで契約の箱を抱えあげて立ち尽くせるかどうかで、多くの人々の命運までが決まってしまう。

エクソダスは一人だけで成し遂げられるものではなく、多くの人々がそれに続くのである。彼らが紅海を渡り終えるまで、海を切り開き、道を支えている誰かが必要である。

筆者は長い間、そのことを知らず、筆者自身も、自分が戦闘員として立たされていることに気づいていない一人であったが、それでも神の子供の一人として、さまざまな訓練を受けることになり、それが戦闘員とされるための訓練であることが、徐々に分かって来た。そうこうしているうちに、ついには、自分の生まれながらの弱さや限界、あるいは知恵の不足をすべて補って、自分のものではない、神の上からの力が私たちの内に働き、どんな激しい戦いをも最後までくぐり抜けることを十分に可能にしてくれるため、私たちはそれを最後まで信じて立ちおおせなければならないことが分かったのである。
  
オースチンスパークスが以下で「非戦闘員」と呼んでいる人々は、ほとんどが、いわゆる既存のキリスト教の組織や団体の枠組みの中にいる人々である。それらの団体の構成員は、血縁や、友人関係や、その他の地上の生まれながらの魂の情愛による絆や、縁故によってほとんど占められており、神の命によって生まれたのでない大勢の人々、また、地上的な人間関係の絆でがんじがらめとされている。その団体は全く霊的な戦いがあることも知らず、その戦いに巻き込まれないために、垣を巡らし、城壁を作り、その中に閉じこもってしまった人々である。

しかし、聖書におけるエクレシアはそのようなものではなく、神の新しい命によって上から生まれ、キリストの頭首権に服する人々によって構成される目に見えない共同体である。そして、私たちは自己の安全のために、自分の団体の中に閉じこもるのでなく、絶えず全世界に出て行って、福音を宣べ伝える使命を帯びている。

自覚があろうとなかろうと、一人一人のクリスチャンは、常に新しい霊的領土を獲得するための戦いの中に置かれているのであり、私たちの信仰的態度は、私たちが身を置いている見えない領域に、誰の支配が及ぶのか、すなわち、キリストの主権が打ち立てられるのか、それとも、それに反する者の主権が打ち立てられるのか、激しい支配権の争奪戦の行方を決定する。

私たちはそこで暗闇の勢力の支配を駆逐し、彼らが恐怖によって人々を従わせようとするわざを打ち壊して、そこに自分たちが掲げているキリストの御名の旗を打ち立てて、キリストの主権を確立せねばならず、その作業によって、私たち自身のみならず、大勢の人々が、暗闇の支配下から解放され、まことの命なる方の支配へと移し出されるのである。

しかし、それは決して、私たちがこの世の力によって支配権を奪還するというクーデターによって成し遂げられるものではない。むしろ、私たちが最も弱くされて主と共に十字架の死を通ることによって、そこに逆説的に復活の命が働くという方法でなくてはならない。

その時、私たちの弱さの中に、私たちのものではないはかりしれない神の力が働き、私たちが霊的に経由した死と復活が、すさまじいまでの衝撃力となって、これまで暗闇の勢力の欺きにとらえられて盲目とされていた多くの人々にも波及し、人々は自ら事の本質を悟り、神に直接、連なって、愛する御子の支配下にかくまわれ、そこで御名のために命をかけて戦うことのできる戦闘員へと変えられて行くのである。

次の御言葉は、今日の荒廃した状態の教会にも、当てはまるものであり、終末の時代のことだけを指して言われたわけではないと筆者は信じている。

シオンの子らよ、あなたがたの神、主によって喜び楽しめ。主はあなたがたを義とするために秋の雨を賜い、またあなたがたのために豊かに雨を降らせ、前のように、秋の雨と春の雨とを降らせられる。
 

打ち場は穀物で満ち、石がめは新しい酒と油とであふれる。 わたしがあなたがたに送った大軍、すなわち群がるいなご、とびいなご、滅ぼすいなご、かみ食らういなごの食った年をわたしはあなたがたに償う。

あなたがたは、じゅうぶん食べて飽き、あなたがたに不思議なわざをなされたあなたがたの神、主のみ名をほめたたえる。

わが民は永遠にはずかしめられることがない。 あなたがたはイスラエルのうちにわたしのいることを知り、主なるわたしがあなたがたの神であって、ほかにないことを知る。わが民は永遠にはずかしめられることがない。


その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。

その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。 その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。 その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。
 
だが、上記の御言葉を、聖霊を受ける必要性だけをことさらに強調する運動と混同することはできない。私たちの信仰生活の中心に位置するものは、いつでもキリストの十字架の死と復活でなくてはならない。十字架を中心に据えず、自分への祝福や、霊的現象ばかりを追い求めれば、必ずや別な目的へと逸れて行くことであろう。

必要なのは、万民祭司の時代にふさわしく、私たち一人一人の信者がキリストに直接、連なり、神の霊によって上から生まれ、直接、御霊から教わる民となることである。そして、日々、自分の十字架を取って主に従い、子としての訓練を受け入れることである。
  
私たちは地上的な団体に所属して形骸化した信仰生活を送ることを神に従うことと同一視するのではなく、上から生まれ、神の教会の中に、直接、上から置かれ、そこで使命を与えられ、果たすことの意味を考えなければならない。

戸口で自己を焼き尽くされた上で、目に見えない共同体であるエクレシアの中に入れられ、そこで神が望んでおられる役割を果たすことの意義を考えなければならない。エクレシアはただ単にキリストが再び来られるのを待ち望んでいる聖なる花嫁であるだけでなく、頭首なるキリストの意を受けて、それを地に実現するための神の最強の軍隊でもある。神の多種多様な知恵が、教会を通して、天上の諸々の主権や権威に対して知らしめられ、教会を通じて、サタンのわざが打ち壊され、サタンが天から投げ落とされ、神に栄光が帰されるのである。

エクレシアには主の安息が満ちていると同時に、これは花婿の栄光のために戦う花嫁でもある。そして、そのような役割を確実に教会が果たせるようになるためには、幾度も述べた通り、一人一人の構成員が真に主と共なる十字架の死と復活を経て、神の命によって上から生まれ、エクレシアの中に上から入れられ、それぞれの場所に置かれる必要がある。そうなって初めて、それぞれに置かれた場所で、自分にどのような召しが与えられているのか、各自が理解して、これを果たせるようになるのである。

私たちは、主の御名によって呼ばれる軍隊の一人として、目に見えない霊的なミッションを担う戦闘員として、自分に与えられている召しが、確かに自分自身の思いから来たものではなく、神から来たものであることを確信し、どんな犠牲が伴っても、それを最後まで貫徹して勝利をおさめ、成果を勝ち取るまであきらめないという強い願いを持つ必要がある。

そのような召しを与えて下さることは、ただ神だけに可能であるが、私たちクリスチャンは一人一人が本来、みなそのように神の武具で武装し、戦いに熟練し、霊的に訓練された戦闘員となる必要があり、エクレシアはそのように整えられた戦闘員によって神の栄光のために大胆なわざがなされるべき場所なのである。
 
以下、オースチンスパークスの論説から。

  最も霊的な事柄に関しても、多くの非戦闘員がいるおそれがあります。彼らがその中にいるのは、そこから出るのを恐れているからです。彼らは撤退しようとしません。それは自分に何が起きるのかを恐れているため、あるいはその中に友人がいるため、あるいはそれに個人的関心を持っているため、あるいはそれに全く同意しているためです。

主に私たちの心を探ってもらって次のように自問しましょう。「なぜ私はこの中にいるのでしょう?私がその中にいるのは、上からその中に入ったからでしょうか?神が御自身に関する強力な経験に基づいて私をその中に置かれたので、それ以外どうしようもないためでしょうか?それは辞めたり、引き下がったり、他の何かに行ったりできるものではなく、私の命なのです」。

神がそこに一つの民を獲得される時、彼の主権が宣言される扉が開かれます。とても多くの人々は隅にいて傍観しています。それが正しいのかどうかまったく確信がなく、それは完全に安全なのかどうか疑問に思っています。そして、状況を分析しています。これは彼らがその中にない証拠です。主の主権は、その中におらず、そしてその中に上から入ったことのない人々のせいで、停滞させられるおそれがあります。

 私たちは神に属する事柄の中に上から入らなければなりません。協会や運動に加わるようにキリスト教に加わることはできません。そのように神の事柄の中に入ることはできません。「上から入る」という言葉で私が何を言わんとしているのか、あなたは疑問に思っておられるでしょう。私が言わんとしているのは、あなたは死んで葬られ、今や天の側から中に入ったということです。それは開かれた天を通ってであり、あなた自身の心の中にイエス・キリストが啓示されるという方法によってです。これはあなたにとって地的事柄では全くありません。その起源は天にあります。


御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(9)

「わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(Ⅱコリント10:3-6)

オースチンスパークスのこの度の連載は、士師記をテーマとしており、士師記に重ねて、今日の聖徒らの恐るべき弱さの原因について語るところから始まっている。これからどう展開して行くのか、非常に興味深い内容である。

「霊の力の回復」第一章 十字架についての新たな理解 (3)
 
これを読むとき、私たちの霊的な強さは、神への徹底した従順の欠如から来ることが分かる。従順とは、御言葉に従うことであり、従うためには、御言葉と反するものに決して安易な妥協をしないことが必要となる。

ある人々が教会への迫害者に対する裁判に及び、裁判外で和解したところ、賠償金の支払いを約束したはずの相手が国外へ逃げてしまったという。これなども中途半端な妥協の結果としての苦い教訓であると言えよう。

真に和解できる相手ならば良いが、約束を履行するつもりがないか、履行しない可能性のある相手との和解は禁物である。

キリスト教徒は何事においても争うべきでなく、和解を目指すべきだと言う人々がいる。しかし、この世には決して和解してはならない相手、和解が不可能な相手というものが存在する。妥協することが、福音の根幹すなわち永遠の命に関わる問題へと発展する場合があるのだ。

そのように安易な妥協を繰り返し、手を結んではならない者と妥協することが、どれほど主の民から力を失わせるか、主のための証を失わせるか、士師記における主の民の敗北の積み重ねの中に見て取れると、上記の論説でも示唆されているのではないかと思う。

しかし、妥協してはならない相手とは、この世のあれやこれやの人間というよりも、とどのつまりは、サタンである。

ところが、筆者は、最近、ある信者と話をした際に、「何でもサタンのせいにするのはサタンへの責任転嫁だ」などという発言を聞いて、心から驚愕してしまった。筆者はそれとは全く逆の考え方をしているからである。

筆者の考えを述べておこう、「どんなことでもサタンのせいにしてしすぎることはない」と。

本来、サタンが負うべきはずの重荷を、人類がどれほど不当に転嫁されて苦しんでいることか。御言葉の約束を固く信じてて、これを自分に適用しさえすれば、それが自分の重荷ではなく、サタンの重荷であることにすぐに気づいて、解放される権利があるのに、それを知らずに、悪魔から不当に押しつけられた重荷を自分の力で背負おうとして苦しんでいる信者たちがどれほどいるか。

その重荷は、御言葉に基づいて、悪魔にお返しすれば良いのである。それなのに、御言葉を適用して自由になることができるのに、それに気づかず、わざわざ自分で問題解決をせねばならないと考えて苦しんでいる人は多い。不当な重荷を押しつけられているにも関わらず、まだ自分は負うべき重荷を十分に背負っていないなどと自分を責めているのである。そして、あまつさえ、サタンに責任転嫁してはならないなどと荒唐無稽な発言を大真面目にしているのである。
 
だが、そのように無知でいる兄弟姉妹を嘲笑うこともまた禁物である。以上のようなクリスチャンの弱さを見て、「これだからニッポンキリスト教界は・・・」などと言い始めれば、まさに悪魔の思う壺である。兄弟姉妹を責めるのではなく、彼らの目をくらましているサタンをこそ責めなければならない。

(KFCのように、クリスチャンの無知を高みから見下ろしては嘲笑しているグループなどは、クリスチャンを責めながら、決して悪魔を責めようとしないところに大きな罠がある。カルト被害者救済活動が、被害者の無知を責めて、加害者を無罪放免したのと同じ理屈である。確かに、クリスチャンの弱体化は嘆かわしい問題であるとはいえ、キリスト教徒の無知を責めたり、嘲笑するような人々は、それによって、聖徒らを辱めてサタンを無罪放免する側に回っていることを思い知るべきである。)
 
かつて筆者はある交わりにおいて「サタンを責める」ことの有用性を聞かされ、そこから非常に重要な教訓を学んだと考えている。サタンを責めるなどのことは、初めは筆者にも、まるで意味のないことのように思われた。しかし、その後、不当な重荷を負わされないためには、徹底的にサタンと言い争って、御言葉に固く立って、サタンから来た重荷をサタンに跳ね返すことが必要なのだと学んだ。そして、それが可能なのだと。

もう一度、我々はどんなことでもサタンのせいにしてしすぎということはない、ということを言っておかねばならない。私たちがどれくらい解放されるかは、私たちが不当に負わされている重荷にどれほど気づいて、これをサタンに跳ね返すかにもかかっていると言えよう。筆者が多くの信者に気づいてもらいたいと願わずにいられないことは、サタンだけは、どれほど責めても、責めすぎということはなく、サタンを責めても、いかなる権利侵害も発生せず、八つ当たりにも該当せず、名誉毀損も発生しないことだ。そもそも地獄で永遠の刑罰に定められている存在に対して、私たちがどれほどひどい責め言葉を発したとしても、行き過ぎということはない。サタンには永遠の恥辱がすでに与えられているのだから、今更、回復すべき名誉などあるはずもないことは明白である。

ところが、不思議なことに、キリスト教徒を名乗っている人たちのうちかなりの数が、サタンを憎むこともなく、むしろ、サタンに同情すらしている現状があることを知って、筆者はこれに非常に驚き、嘆かわしい事態だと思っている。

聖書に記されている通り、サタンは「我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示12:10)であり、私たちクリスチャンを日夜告発する者である。サタンがどれほど執拗に、私たちにいわれのないことで責任転嫁しては、私たちに有罪を宣告しようと機会を狙っているかは、ゼカリヤ書を見ても分かる。

「 時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。 主はサタンに言われた、「サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか」。 」(ゼカリヤ3:1-2)

悪魔は大祭司ヨシュアを訴えたように、今日も、聖徒らを訴えている。サタンがどれほど聖徒らに濡れ衣を着せようと、日夜、神の御前で執拗に聖徒らを訴えているかを考えれば、私たちは、そのいわれのない告発から身を守るために、御言葉で武装する必要を否定することはできない。

私たちには、サタンの執拗さを上回るほどの執拗さで、サタンを神に告発することが必要なのであり、そのために、私たちは自分を贖って下さった神の約束に固く立って、御言葉を防衛の盾として自分自身に適用し、証の言葉を述べなければならないのである。

兄弟たちは、小羊の血と
 自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12:11)

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ6:10-18)

このように、霊の戦いは何ら荒唐無稽な作り話でもファンタジーでもない。「悪魔の策略」というものがれっきとして存在しており、これに対抗して立つために、主の力によって強められ、神の武具によって武装することが必要なのだと御言葉ははっきり述べている。

これまで当ブログでは、霊の戦いとは、暗闇の軍勢が振りまく嘘に対して、御言葉に立って反論し、激しい論戦を繰り広げ、嘘に打ち勝つことを指すと述べて来た。霊の戦いとは神社に油をまくことでもなければ、悪霊退散の祈祷を行うことでも、訳の分からなお札を家中に張り巡らすことでもない。

私たちの戦いは、悪魔の虚偽に対して、神の御言葉に固く立って反駁し、嘘を打ち破って、人々の思いの中に働く惑わしを打ち破り、この地上において、真理を浸透させて行くことである。
 
むろん、物理的な領域における戦いというものもあるとは思うが、まずもって霊の戦いとは、真理と嘘の間で戦われる激しい攻防戦なのである。そこで、私たちも日常生活において、あらゆる不当な言いがかりや圧迫を受けるであろうが、そもそも自分に非のないことで、悪魔から不当に責任転嫁される筋合いにはないということを、はっきりと言い返さなければならない。どんな些細なことであれ、心に罪悪感をもたらす重荷をきっぱりと拒否して、罪はその真の出所(悪魔)にお返しする必要がある。

その根拠となるものが、小羊の血潮による義認である。これを持って、私たちは自分がどんな事柄においても、誰にも決して責められるべきところのない完全な人だと言えるのである。

しかし、それでもサタンはあることないこと取り上げては、私たちを非難して来るであろうから、私たちはその虚偽に対しては、神に義とされた者として断固立ち向かい、神の開いた法廷の前で、日夜、サタンと対峙して、彼の罪を訴えなければならない。

クリスチャンは望むと望まざるとに関わらず、日夜、サタンから激しい論戦を挑まれ、それに対して御言葉によって勝利することが求められているのである。

ここで注目せねばならないのは、神とサタンが言い争っているのではないということだ。法廷において、対立する陣営として向き合い、論戦を繰り広げているのは、人類(聖徒ら)と悪魔であり、神は両者の言い分に耳を傾け、判決を下す裁判官の立場にある。

神がサタンの言い分に耳を傾けるのかと驚く人があるかも知れないが、ヨブに試練が与えられた時、神は、サタンがまずヨブのような義人でも試練が与えられれば信仰を捨てるだろうと述べた言葉に耳を貸されたことを思い出したい。そして、サタンの提案した挑戦の方法では、決してヨブの信仰を取り去ることができないことを示すために、神はあえてサタンの提案を実行に移すことを許されたのである。

このように、神は今日も、悪魔と信じる者たちの言い分を比較衡量される。しかし、それはサタンに勝利を与えるためではなく、サタンのすべての策略を打ち破って、神の教会が、神の豊かではかりしれない知恵を表し、それによって神に栄光を帰するためである。サタンはあらゆる脅かしを使いさえすれば、信者はみな神への信仰を捨てるものと確信している。しかし、神はそうではないことを知っておられる。知っておられるが、サタンの挑発を跳ね返して、信仰に立ちおおせて神に栄光を帰する仕事を、あえて信者に委ねておられるのである。

神と悪魔との間では、キリストの十字架においてすでに決着が着いているが、被造物の世界において、決着をつけるのは、いわば、私たちの仕事である。

神はキリストの十字架において、私たちを奴隷にしていた罪の債務証書を無効にし、破り捨てられたが、その後、今度は、私たちがサタンへの告発状を書いて、それを携えて、神の御前に立っている。

サタンも被造物であるが、私たちも被造物として、神の創造された世界の主権が誰にあるのかを争っている。悪魔は、それが自分のものだと言う。しかし、私たちはそうでなく、神のものだと言う。私たちは、サタンは不法侵入者であって、サタンが主張している主権は、神から強奪したものでしかないから無効であると訴えている。

「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。」(ヤコブ4:7)

私たちに任されている使命は、キリストの勝利を被造物の世界においても打ち立て、御名の権威を行使して、すべてのものが膝をかがめてイエスは主と告白するよう、神の主権、力、支配をこの地に来たらせることである。そのために、私たちは、サタンによる占拠が不法であり、無効であることを訴えて、立ち退きを迫っているのである。
 
私たちが被造物の世界において、御名の主権を取り戻し、かつ行使して、サタンに立ち退きを迫る根拠となるのは、キリストが十字架において悪魔の支配を打ち破られ、私たちを奴隷として拘束していた罪の債務証書を無効とし、死の力を滅ぼされたことである。

この勝利の証文を振りかざして、私たちは日夜、神の法廷において、サタンの言いがかりに立ち向かい、事実を争っているのである。敗北すれば、サタンの領土が広がる。勝利すれば、キリストの主権による支配が広がる。創世記の冒頭で、人類が蛇に遭遇し、神に従うのか、悪魔に従うのか、決断を迫られた時のように、今日も、私たちは神の御言葉と悪魔の言い分のどちらを信じて従うのか、常に決断を迫られている。

だが、創世記と異なるのは、私たちにはすでに律法を成就されたキリストが共におられ、私たちのために知恵と力となって下さっていることである。
 
繰り返すが、神は確かにキリストの十字架において悪魔に勝利を下されたが、その勝利を行使することは、私たちの日々の生活にかかっている。その勝利をこの地に実際として引き下ろし、適用し、キリストの御名によって支配される領域を拡大することは、私たち自身に任された仕事なのである。

その中で、私たちは、私たちを不当に責めるサタンを責め返し、彼に重荷を跳ね返すことがどれほど必要であるかを知らなければいけない。

繰り返すが、サタンの罪というのは、もはや天に到達するほどにうず高く積みあがっており、その上に何を増し加えたとしても、加えたことにならないほどである。サタンはいわば無限大に罪を犯している存在であって、「サタンを責めるのはお門違い」などということは決してあり得ない。
 
人類が罪を犯して堕落したことも、根本的にはサタンのそそのかしによる。確かにキリスト教徒となり神の子供として受け入れられるには、私たち自身が、罪を悔い改め、神に立ち帰ることが必要であるが、それは一度限り永遠に効力を持つものであり、悔い改めとは、悪魔に向かって永遠に懺悔し続けることではない。

すべての罪の起源は、サタンにあり、サタンこそ責められるべき張本人であることを私たちは忘れるべきではない。それを忘れて、霊的に弱体化したクリスチャンばかりを責め続けていれば、いずれ悪魔に加担する羽目になって行くのは避けられないであろう。
 
聖徒らが弱体化したことの責任も、もとを辿ればすべてサタンにあると言えるのであって、サタンにはいかなる同情も憐憫も無用であり、サタンに責任転嫁してはならないなどと言った主張は、すべて荒唐無稽である。それは私たちに真の敵が誰であるかを忘れさせ、私たちのものではない重荷を私たちに背負い込ませようとするための虚偽の策略であると言えよう。

ところが、このような話を始めると、早速、耳を閉ざしてしまう信徒たちが現れる。彼らは悪魔とは何かしら形而上の存在であって、比喩のようなものだと考えて、それが現実の存在だとは信じておらず、悪魔に立ち向かうという話を聞くと、極端なたとえ話や、冗談のような話を聞かされていると考えて、耳を背けるのである。しかし、悪魔の存在を否定すれば、その分だけ、彼らは自分たちをそそのかし、惑わす存在があることに対して無知となり、抵抗する力がなくなって、無力となるのだと言える。

敵が存在しているにも関わらず、敵などいないと考えて防衛を怠るほどに危険なことはない。攻撃を跳ね返すためには、攻撃の源を知らなければならない。しかし、多くの場合、敵からくる攻撃は、物理的なものというよりも、思想的な攻撃である。敵の要塞というものが存在する。嘘、詭弁、屁理屈、神の知恵に逆らう高慢、思いをくらます惑わしなどの策略が存在し、それらを発する要塞となる拠点も存在する。

しかし、私たちは、その要塞をも御言葉に立脚して、神の知恵により、ことごとく論破して、破壊して行くのである。以下の言葉は、預言者エレミヤだけに述べられた言葉ではない。万民祭司の今日の時代には、クリスチャン一人一人がその役目を担わなければならない召しを告げたものに過ぎない。

いつまでも弱さの中にとどまっていてはならない。神の勇士たちよ。小羊の血潮により、贖われた者として、神の義に固く立って、悪魔の嘘に対抗し、主の偉大な力によって強くなり、敵の要塞を破壊して、すべての思いをとりこにしてキリストに従わせる神の戦士として大胆に前進し、新たな領土を勝ち取りなさい。
 
「主の言葉がわたしに臨んで言う、 「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」。  その時わたしは言った、「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」。

しかし主はわたしに言われた、「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。だれにでも、すべてわたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない。 彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と主は仰せられる。 そして主はみ手を伸べて、わたしの口につけ、主はわたしに言われた、「見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた。 見よ、わたしはきょう、あなたを万民の上と、万国の上に立て、あなたに、あるいは抜き、あるいはこわし、あるいは滅ぼし、あるいは倒し、あるいは建て、あるいは植えさせる」。 」(エレミヤ1:4-10)

私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」


からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。

「しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」(Ⅰ列王記19:18)
 
「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。

五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。

そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。」(ルカ12:4-9)
 
主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。

 
すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当てを胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」(エペソ6:10-18)

 
朝方、小鳥たちのさわやかな美しい鳴き声で目が覚めるのはまことに気持ちが良い。外出時には引き留められ、帰宅時にも愛らしい出迎えがある。

猫派、犬派だけでなく、鳥派、というものもおそらくあるのではないかと思う。地に足をつけない生き物だからこそ、好感が持てる。特に、文鳥のように小鳥の中でもとりわけ小さな鳥が、どれほど人間によくなつくものか、知っている人はそう多くはないのかも知れない。

鳥がどこまで人間になつくものか、どこまで鳥とのコミュニケーションが可能か、愛好家を除き、どれほどの人々が知っているだろうか。犬猫には多くのことが期待されるが、鳥には一般にあまり期待がかけられていないように思う。

聖書では、鳩を除いて、鳥一般がそれほど良い生き物とはあまりみなされておらず、しばしば悪霊の象徴として描かれるが、都会暮らしの筆者にとって、残念ながら、鳩はそんなに好感が持てない。むしろ、1アサリオンで2羽買えるという雀の方がよほど愛らしく思える。

色々と珍しく美しい鳥を飼ってみて、それぞれに独特の愛らしさがあり、極彩色の珍しい鳥には目を奪われるが、やはり、素朴で愛らしい庶民的な鳥として、文鳥は異彩を放っていると思う。文鳥は鳥綱スズメ目カエデチョウ科に属するそうだから、ほとんど雀のようなものだろう。

値段的にも手頃なので、文鳥は誰にでも入手できる(ただしよく馴れたものを飼わなければならない)。そこで、独り暮らしの老人や、様々な苦難に追われている人々の家にも、一羽の文鳥がいれば、人々は生きる意欲をこの小さな鳥からも、存分に学べるのではないかと思う。

何しろ、大きな鳥がエネルギッシュなのは当然であるとして、これほど小さな体の鳥がこれほど愛らしく造られ、賢く活発に飛び回って生きているその様子を見ていると、まして人間にはさらにもっと多くのエネルギーと知的可能性が備わっていることは疑いの余地がないと分かって来る。

こうした生き物を見るときに、彼らに注がれる神の愛を思わずにいられない。神の許しなしには、一羽の雀も地に落ちることはない(マタイ10:29)というフレーズを思い出す。それは転じて人間に対する神の愛として受け止められる。勇気を出しなさい、一羽の雀さえ、こうして神が素晴らしく造られ、養っていて下さるのだから、まして人間はもっと神の御前に高価で貴い存在ではないのか。

だが、それは単に人間の貴さを力説して人を自己満足させるための御言葉ではない。冒頭に引用したように、人間に注がれている神の愛は、信者が主の御名の証人として立つことと大いに関係がある。

こうして主が新しい鳥たちに出会せて下さるのも、小さな十字架の死と復活の働きである。
 
さて、参院選が近づいているが、今一つ選挙は盛り上がっていないような印象を受ける。大本営発表は早くも与党に有利な情報ばかりを流しているらしいが、筆者は大本営広報部というものは嘘しか発表しないと理解しているので、全く目にしていない。さて、ネットには次のような面白い記事があったので引用しておきたい。

マスコミに載らない海外記事」からの引用である。翻訳もさることながら、訳者のコメントがいつも気が利いていて面白い。巨城も蟻の一穴から崩れる、と言われる通り、IWJに6000人近くも読者いるのであれば、憂鬱になる必要はないだろう。なぜなら、その6000人がみなインテリであって、自分の耳に入れた情報を隣人に伝えて行く力があれば、それだけでかなりのインパクトがあるからだ。10万人の愚者が定期購読している御用新聞よりも、6千人の知者が購読している民間のメディアの方が力がある。

ここで筆者にはバアルに膝をかがめなかった7千人、という聖書のフレーズが頭をよぎる。

それはバアルの預言者たちの前で、大胆に神の奇跡を行ない、バアルの偽預言者たちを皆殺しにした神の預言者エリヤが、アハブ王を背教によって堕落させた王妃イゼベルに命を狙われ、彼女の追跡を恐れて逃亡していた時に神がエリヤに言われた言葉である。

エリヤはバアルの預言者たちの前であれほど大胆に主の御名を証したのに、なぜイゼベル一人に恐れを感じて荒野へ逃げたのか、という質問を投げかける人がよくいる。どのような方法でイゼベルがエリヤを追い詰めたのかは分からないが、少なくとも、エリヤは追われるのは沢山だ、自分の命を取ってくれと神に願うのである。

しかし、神はそんなエリヤをあざ笑ったり、見捨てたりすることなく、むしろ、食うや食わずで疲労困憊していた彼のために食事を備え(復活のイエスが漁をしていた弟子たちのために食事を整えた光景を思い出す)、そして、国中の全ての人間が背教に落ちたアハブ王とイゼベルの手先になっているわけではないことを告げ知らされる。しっかりしなさい、エリヤよ、あなたは一人で戦っているわけではないのだ、アハブとイゼベルに魂を売らなかった人間が確かに残っているのであり、その数は7千人であると。

筆者は考えている。志の純粋性さえ保てていれば、人数はそう多くなくて良いのだと。当ブログなど、再開当初は訪れる大半はさわやか読者であったが、そんな中でも、記事を書き続けていると、さわやか読者の数はもうほとんど1人、2人程度しか残っておらず、その代わりに、あっと思うような輝きを放つ検索用語で当ブログにたどり着いて来る人々が増えた。

以前のような聖書の脅し文句ではなく、真実、キリストを訪ね求めた人々でなければ、決して使わない御言葉である。

そんな光景を見ていると、御言葉を慕い求める人々が尽きたわけではないことがよく分かって来るのだ。常に筆者を意気阻喪させようと工作に余念がない人々の活動は脇に置いて、主が取り置いて下さった人々のことを考えたい。

ブログを書き続けていると、自ら発表したもののの影響の大きさを常に感じさせられるが、相手は常に人間ではないのである。目に見える読者でもなければ、読者数でもない。はっきり言えば、ものを書いて行く上での影響力の大きさは、情報の質である。

真に美味しいコーヒーや、入手しにくい珍しい鳥を訪ね求めてはるばる行脚する人々がいるように、安っぽい嘘にはうんざりして真実かつ高い質の情報を求めている人々は常に存在しており、そういう人々の要求に応えうるものを作って行けば、必ず、その衝撃力の大きさは現れるのである。

さらに、キリスト者である以上、筆者はただ人間の満足のためだけにものを書き続けているわけではない。これは主の御名による戦いであり、暗闇の勢力に対する衝撃力を伴う攻撃でもあるのだ。敵が我々を意気阻喪させることに余念がないならば、こちらも彼らを意気阻喪させねばならない。それはただ御言葉に基づき、何が真実であって、何が虚偽であるかを明るみに出すことによる。それが我々の霊的戦いなのである。

さて、以下の引用であるが、「スネオファシズム」とは実に言い得て妙である。誰に対するファシズムかと言えば、当然、のび太に対するファシズムである。つまり、我が国の行き先が参院選で問われているわけだが、選択肢は二つに一つだということである。

ジャイアンーースネオーーのび太という三者の関係から思い出すのは、常にキリスト教界や、他の教会や、他の信者を見下すことで、自分たちだけは天の特権階級であると誇って来たある宗教団体である。ペンテコステ・カリスマ運動を通じて、その宗教団体は、カルト被害者救済活動と一体であるが、その宗教団体は、自らの背教を隠すために、筆者にイゼベルの汚名を着せたのであった。しかし、すでに幾度も記事で書いて来た通り、イゼベルと呼ばれるにふさわしいのは、筆者ではなく、異端の教えを臆面もなく言い広めた上で、筆者に濡れ衣を着せようとした人々である。

その団体は、昔から高慢さと自己満悦で有名で、これに関わった人々は、筆者の周りでも、ことごとく手に負えない高慢さに落ちて行き、自分以外の他の信者を見下し、人の弱みをあげつらってはあざ笑うようになった。それを自分たちが「神に祝福されている証拠」だととらえ、どんな風に自分が欲望をかなえたか、どれほど他者には手の届かない非凡な体験をしたか、という話をまるで信仰の手柄であるかのように吹聴して回るようになった。日常の体験だけでなく、その人々は「神の御声を聞いた」とか「御姿を見た」とか、誰が聞いても怪しいとしか感じないような呆れる体験談を盛んに手柄として自慢するのである。
 
しかし、他者に対する優越感しかよすがのない人間というのは、本当に内面が空虚である。常日頃から、自尊心を捨てて、自分よりも強い者に媚びへつらい、魂を売って生きているからこそ、自分よりも弱い者の弱点を暴き立て、これを踏みしだき、優越を誇ることによってしか、自分の惨めさを隠し、憂さ晴らしする方法がないのである。そういう風に、人々の間に見えない階級制度を作り出し、互いの間に差別を敷くことによって、国民を分断し、互いに争わせ、もはやあるまじき出来事がどれほど身の回りで起きても全く心が痛まないほどに他者の痛みに鈍感になり、己の満足しか眼中になくなった人間を大量生産し、そういう愚者を操ることによって、己の統治を強化しようとしている何者かが存在するということを考えてみるべきであろう。他者への優越感を生き甲斐として他者を見下して勝ち誇っているような連中は、みなその格好の操り人形となっているだけである。だが、ある時期が来たら、そういう人々はみな御用となって消え去る。なぜなら、栄枯盛衰、権力というものはどれも永遠ではないからである。

さて、我が国がこれからもずっとジャイアンに踏みしだかれて、自尊心を絶えず傷つけられ、一個の人格として否定されながら、それでも自分よりも成績の劣ったのび太に対する優越感だけを生き甲斐として生きる惨めで意気地なしの「スネオ」であり続けるのか、それとも、のび太を踏みつけにすることで憂さ晴らしをするという虚栄の生き方を捨てて、のび太と共にジャイアンに立ち向かい、誰もが生きられる世界を目指すのか、問われている。

参院選の争点は、アベノミクスでなく、改憲なのだが、何よりも、対米隷属という「長い物には巻かれろ」式の生き方から、いつになればこの国は脱却するのかということが、毎回、問われている。「ジャイアン(米国)」の威を借る「スネオ」(奴隷)として生きることのみっともなさをそろそろ自覚すべき頃合いである。

というのも、ジャイアンの攻撃性は日々強まっており、今までのように、スネオがのび太を馬鹿にし、踏みつけにし、貢がせる程度のことでは、欲望がおさまらなくなって来ているからだ。今、ジャイアンが夢見ているのは、スネオに武器を持たせて、自分の代わりにスネオがのび太を殺す光景を見たいということだ。そのような見世物を俺様に早く寄越せと、ジャイアンは随分前から、スネオにせっつき、スネオを脅すようになっているのだ。さすがのスネオも一応、インテリのはしくれではあるので、こういう要求には我が身の危うさを感じ、蒼白になっている。

だが、ジャイアンは、別の町にもスネオのような、いや、スネオよりももっと凶暴な第二のスネオを抱えているので、スネオが要求をおとなしく飲まないと、殺されるのはのび太ではなくスネオだぞと脅している。いつになったら、そんな呪われた関係から、スネオは抜け出るのか、どこまでジャイアンと共に罪の連帯責任を負い続けるのか。ジャイアンのためなら、殺人者になることも厭わないのか? スネオは、その一線を超えるつもりなのか? そうして、いずれ町ごとジャイアンのための献上物、見世物として、焼け跡のように変えてしまうつもりなのか?

というのも、ジャイアンが、たかがのび太がやられたくらいのことで、満足するはずがない。スネオがのび太をやったら、ジャイアンの要求はさらにエスカレートするだろう。のび太が100人死んでも、ジャイアンの欲望はおさまらない。おそらく、スネオも死んで、町の住人が皆殺しになって、ジャイアン一人残るまで、ジャイアンは満足しないだろう。ジャイアンの猜疑心はそれくらい深いので、自分以外の誰かが生き残っているだけでも、王座を奪われるのではないかと、気が休まる時がないのだ。だから、ジャイアンにとっては、自分以外の誰もいない世界が望ましく、スネオであろうとのび太であろうと、皆が敵なのである。だが、そんなジャイアンの欲望の言いなりになっては、この国土はもはや灰塵と帰して何も残りはすまい。そして、その日にジャイアンは言うだろう、「おまえたちには大変、不幸なことだったな。何しろ、空から原爆が降ってきたんだ。どういういきさつでそんな惨事が起きたのか、俺は全く知らない」と。

むろん、これはジョークであるが、実際に、このような経過を我が国が辿ることはないであろう。なぜなら、歴史は繰り返せないからである。グノーシス主義の原初回帰が不可能であるのと同様、軍国主義の再来も不可能である。以前に起こったことをどんなにもう一度起こそうとしても、それは無理である。

そして、神は義人と悪人とを共に滅ぼすようなことはなさらない。地球が何万回滅びるほどの出来事が起きたとしても、神はご自分を頼る民を必ず守り、救い出して下さる方なのである。十字架の死は、決して霊的死のみでは終わらず、復活の前提なのである。主の御名は誉むべきかな。
 
  
以下は「マスコミに載らない海外記事」から抜粋(太字、赤字は筆者による強調)

大本営広報部とは、全く違う見方をする記事、今朝の日刊IWJガイド・ウィークエンド版をそのまま引用させていただこう。こういう記事・報道を読む人々の人数が、60,000人ではなく、6,000人に満たないという事実を読むたび、毎回、憂鬱になる。
 

■■■ 日刊IWJガイド・ウィークエンド版【参院選まであと15日!】「本日11時より、岩上さんが東電による『メルトダウン』隠蔽に関して郷原信郎弁護士に緊急インタビュー!/イギリスのEUからの離脱が確定、キャメロン首相が辞意表明/IWJでは各党各候補者の街頭演説に関する記事を続々とアップしています!」2016.6.25日号~No.1380号~ ■■■

(2016.6.25 8時00分)

 
おはようございます。IWJで主にテキスト関連の業務を担当している平山と申します。

 
世界は今、大きな曲がり角を迎えているようです。

 
昨日6月24日、イギリスでEU(欧州連合)からの離脱の是非を問う国民投票が行われ、離脱派が52%の票を獲得して48%の残留派をわずかに上回り、過半数に達しました。この結果、これから2年をかけ、イギリスはEUとの離脱協議に入ります。1973年に前身のEC(欧州共同体)に加盟して以降、43年にわたるイギリスのEU加盟に終止符が打たれることになりました。ヨーロッパは、分裂の危機を迎えることになったと言えます。

 
今回の国民投票の結果を受け、イギリスのキャメロン首相は辞意を表明。10月の党大会後に辞職し、イギリスでは新たな首相を選ぶ選挙が行われることになります。

 
イギリスによるEU離脱決定を受け、6月24日の東京市場は大混乱に陥りました。円高が急激に進み、一時1ドル=99円に。これは2年7ヶ月ぶりの値です。日経平均株価も、一時下げ幅が1300円を超えるなど大暴落しました。

 
この事態を受けて麻生太郎財務相は緊急の会見を開き、「足もとの為替に極めて神経質な動きがみられる。世界経済や市場に与えるリスクを極めて憂慮している」と述べました。しかし、円安・株高で輸出企業と富裕層のみが儲けるアベノミクスにおいて、どんな操作を行おうと、外的要因で思惑はこなごなです。

 
アベノミクス・ブームに乗せられて、株に手を出した個人投資家は、これまでも乱高下相場で痛い目にあってきましたが、今回は絶叫に近い悲鳴が聞こえてきそうです。また、こうした中でいつも気になるのは、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が運用する国民年金資金です。今回の株価暴落により、いったいいくらの国民の年金が消えたのか、その額ははかりしれません。

 
今回、イギリスでEUからの離脱派が残留派を上回った背景には、EU各国からイギリス国内に流入し続けている移民や難民が、英国人の雇用を脅かしている、というイギリス国内での認識があります。今回の結果を受け、フランスの極右政党「国民戦線」のマリーヌ・ルペン党首はただちに歓迎の意を表明。「フランスや他のEU加盟国でも国民投票の実施が必要だ」と語りました。また、米大統領選挙で共和党の指名権獲得を確実にしているドナルド・トランプ氏にとっても、追い風となることは間違いありません。

 
移民・難民を排斥する極右の台頭により、イギリス発、フランス経由、そしてアメリカ着で、戦後の国際秩序がみしみしと音を立てながら崩れ始めているように感じます。同時にこれは、冷戦後に国民国家の役割を相対化してきたグローバリズムにも、ブレーキをかけるものとなる可能性があります。

 
さて、今回のイギリスによるEUからの離脱確定は、日本の参議院議員選挙にどのような影響をもたらすでしょうか。日本人にとっては何よりも最大の気がかりです。

 
自民党改憲草案を見れば一目瞭然ですが、安倍総理が目指す改憲とは、「緊急事態条項」を創設することで基本的人権を停止させるとともに、集団的自衛権を行使して米軍とともに世界中で戦争をする「国防軍」を創設しつつ、天皇を「象徴」ではなく「元首」と戴く「祭政一致の国家神道」の復活を含意するものです。

 
これは、日本が戦前に復古し、国権を強化するベクトルと、米国にどこまでも忠実につき従ってゆく属国化、果ては植民地化へのベクトルという矛盾した真逆の方向を向く2つのベクトルを同時に抱えこむもので、いずれその矛盾によって破綻しかねないように思われます。

 
ただそのウルトラナショナリズム米国隷従のどちらにも共通するのは、日本国民の主権、人権、利益、権利が最小化されてゆくという点です。国民主権、基本的人権の尊重や平和主義といった、戦後の日本社会が日本国憲法を通じて守ってきた人類普遍の原理を覆し、戦後の国際秩序に対して挑戦し、孤立化を招くものです。米国の陰に隠れてさえいれば、あとは国内の国民の声も国際社会の米国以外の国々も無視するという、岩上さんいわく「ジャイアンに依存スネオファシズム」が極大化されます。

 
この時、「スネオ化」した日本の支配層は、「国民は総活躍しろ、血を流せ、死ぬまで働け、ためこんでいる金は吐き出せ、働けなくなったら死ね」と先日の麻生氏の発言を現実化してゆくのでしょう。その意味で、今回のイギリスにおける危機は、日本にとっても対岸の火事ではありません。英国の危機よりも、日本の危機の方がはるかに深刻であるというべきでしょう。

 
悲惨な戦争の記憶とともに築きあげられた平和と人権を守る戦後秩序を守るか、あるいは戦前の軍国主義とも少し違う「スネオファシズム」体制に突入してゆくのか。今回の参院選では、有権者一人ひとりに対し、このような問いが突きつけられていると言えます。

 
今週、IWJでは6月22日に公示を迎えた参院選の取材に、最も時間を割きました。本日の「日刊IWJガイド」は、ウィークエンド版として、今週の岩上さんによるインタビューとIWJによる取材成果をふり返ってゆきたいと思います。