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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

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今日が恵みの時、今日が救いの日ーー栄光から栄光へ、主の似姿に変えられて行く

最後の記事から随分日が空いたが、この間にヴィオロンの人生には実に大きな進展があった。

まず、耐え難く狭苦しく感じられるようになった住居を脱出して、広いところへ移った。さらに仕事も新しくなり、かつての専門の道に戻りつつある。

こうしたことが成就したプロセスがまた素晴らしかった。それは全てが私の力というより、神のみわざとしか言えない方法だったからである。

まるでイザヤ書第59章のみことばがまさに私の身の上に成就したかのようであった。

横浜に来ることが決まった直前、以下の みことばを噛み締めていたことを思い出す。

「海沿いの国々よ、わたしに聞け。
遠いところのもろもろの民よ、耳を傾けよ。
主はわたしを生れ出た時から召し、
母の胎を出た時からわが名を語り告げられた。
主はわが口を鋭利なつるぎとなし、
わたしをみ手の陰にかくし、
とぎすました矢となして、
箙にわたしを隠された。
また、わたしに言われた、

「あなたはわがしもべ、
わが栄光をあらわすべきイスラエルである」と。

しかし、わたしは言った、
「わたしはいたずらに働き、
益なく、むなしく力を費した。
しかもなお、まことにわが正しきは主と共にあり、
わが報いはわが神と共にある」と。

ヤコブをおのれに帰らせ、
イスラエルをおのれのもとに集めるために、
わたしを腹の中からつくって
そのしもべとされた主は言われる。
(わたしは主の前に尊ばれ、
わが神はわが力となられた)
主は言われる、
「あなたがわがしもべとなって、
ヤコブのもろもろの部族をおこし、
イスラエルのうちの残った者を帰らせることは、
いとも軽い事である。
わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、
わが救を地の果にまでいたらせよう」と。

イスラエルのあがない主、
イスラエルの聖者なる主は、
人に侮られる者、民に忌みきらわれる者、
つかさたちのしもべにむかってこう言われる、
「もろもろの王は見て、立ちあがり、
もろもろの君は立って、拝する。
これは真実なる主、イスラエルの聖者が、
あなたを選ばれたゆえである」。

主はこう言われる、
「わたしは恵みの時に、あなたに答え、
救の日にあなたを助けた。
わたしはあなたを守り、
あなたを与えて民の契約とし、
国を興し、荒れすたれた地を嗣業として継がせる。
わたしは捕えられた人に『出よ』と言い、
暗きにおる者に『あらわれよ』と言う。
彼らは道すがら食べることができ、
すべての裸の山にも牧草を得る。
彼らは飢えることがなく、かわくこともない。
また熱い風も、太陽も彼らを撃つことはない。
彼らをあわれむ者が彼らを導き、
泉のほとりに彼らを導かれるからだ。
わたしは、わがもろもろの山を道とし、
わが大路を高くする。

見よ、人々は遠くから来る。
見よ、人々は北から西から、
またスエネの地から来る」。

天よ、歌え、地よ、喜べ。
もろもろの山よ、声を放って歌え。
主はその民を慰め、
その苦しむ者をあわれまれるからだ。

しかしシオンは言った、
「主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた」と。

「女がその乳のみ子を忘れて、
その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。
たとい彼らが忘れるようなことがあっても、
わたしは、あなたを忘れることはない。
見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。
あなたの石がきは常にわが前にある。
あなたを建てる者は、あなたをこわす者を追い越し、
あなたを荒した者は、あなたから出て行く。

あなたの目をあげて見まわせ。
彼らは皆集まって、あなたのもとに来る。
主は言われる、わたしは生きている、
あなたは彼らを皆、飾りとして身につけ、
花嫁の帯のようにこれを結ぶ。
あなたの荒れ、かつすたれた所、こわされた地は、
住む人の多いために狭くなり、
あなたを、のみつくした者は、はるかに離れ去る。
あなたが子を失った後に生れた子らは、 なおあなたの耳に言う、
『この所はわたしには狭すぎる、
わたしのために住むべき所を得させよ』と。

その時あなたは心のうちに言う、
『だれがわたしのためにこれらの者を産んだのか。
わたしは子を失って、子をもたない。
わたしは捕われ、かつ追いやられた。
だれがこれらの者を育てたのか。
見よ、わたしはひとり残された。
これらの者はどこから来たのか』と」。

主なる神はこう言われる、
「見よ、わたしは手をもろもろの国にむかってあげ、
旗をもろもろの民にむかって立てる。
彼らはそのふところにあなたの子らを携え、
その肩にあなたの娘たちを載せて来る。
もろもろの王は、あなたの養父となり、
その王妃たちは、あなたの乳母となり、
彼らはその顔を地につけて、あなたにひれ伏し、
あなたの足のちりをなめる。
こうして、あなたはわたしが主であることを知る。
わたしを待ち望む者は恥をこうむることがない」。

勇士が奪った獲物を
どうして取り返すことができようか。
暴君がかすめた捕虜を
どうして救い出すことができようか。

しかし主はこう言われる、
「勇士がかすめた捕虜も取り返され、
暴君が奪った獲物も救い出される。
わたしはあなたと争う者と争い、
あなたの子らを救うからである。
わたしはあなたをしえたげる者にその肉を食わせ、
その血を新しい酒のように飲ませて酔わせる。
こうして、すべての人はわたしが主であって、
あなたの救主、またあなたのあがない主、
ヤコブの全能者であることを知るようになる」。


長い引用であったが、ここにはヤコブ(イスラエル)がこうむった苦難と損失の深さと、神にあって与えられた回復の大きさの見事なコントラストがよく見て取れる。そして、その回復は、ヤコブが世間で強く、尊敬される者であったから成し遂げられたのではなく、むしろ、ヤコブが弱く、侮られ、蔑まれていた時に、神がその恵みに満ちた選びによってこれを救われたのである。

さて、筆者の今回の「エクソダス」は、横浜へ初めてやって来た時とは少し違った。かの時は、筆者が人と交渉して何も要求せずとも、神が全てを整えて下さったが、今回ははっきりと交渉し、要求することが必要だったからである。しかも、自分が不当にこうむった損失の数々を取り返すために、立ち上がり、主張することが必要だった。それはある意味では、「悪魔に奪われたもの」の数々を列挙して、このひどく不当な損失、不当に苦しんだ月日の補填のために、悪魔を責め、悪魔に請求書を出し、これを最後まで支払わせる、という霊的なプロセスを踏むことを要した。むろん、これは比喩であるが、現実を動かすには、霊的秩序を踏むことが必要であり、結果を出すためにたゆみない交渉をし続け、実際に「悪魔を非難し、悪魔の加えた理不尽な打撃の補填のために悪魔に請求する」ことが可能であることを知ったのである。

これは信仰における大きな前進であった、と言える。今までは、ただ神に望みを申し上げるだけで、執拗に戦ってまで結果を出すということに、どちらかと言えば消極的だったが、ここに来て、筆者は自分が今までどれほど悪魔の嘘を吹き込まれ、本当はとうにみことばにより解放されてしかるべきものを理不尽を不当に耐え忍ぶよう、欺かれてきたかに目が開かれたのである。そして、このことを不信仰として嘆き、反省するのもさることながら、何よりも人を欺いた張本人である悪魔を糾弾し、失われた月日を補填させることをしなければならないと気づいたのである。

たとえば、あまりにも多くの人たちが、私の周りで、あまりにも苦痛に満ちた、自由も望みもない仕事に従事している。彼らの仕事内容とは、交通費も支給されず、毎日の労働時間も自分の希望通りにならず、土日も祝日も休むことができず、雇用主のご機嫌次第でいつ解雇されても文句も言えず、しかも労働契約は一ヶ月未満で、その先は保証の限りではない、というような仕事である。その他の劣悪な条件は推して知るべしで、仕事内容のほとんどは不誠実な企業や団体や上司の引き起こしたトラブルの後始末であり、その仕事のみじめさ、やりがいのなさには言及する価値もない。

ところが、それでも彼らはその仕事を辞めれば、自分は路頭に迷うしかなく、代わりはないと思い込み、何があっても黙って耐え忍びつつ、その仕事にしがみつくのである。たたしがみつくだけでなく、辞めて行く者を引き止め、裏切り者扱いしさえする。しかし、このことはすでに何度も書いたが、筆者は自分の経験から、そのような仕事には代わりはいくらでもあって、もっと幅広い選択の自由が存在することを知っていた。特に、キリスト者には、選択の自由がないはずがない。

そこで私は実際に、まるでわらしべ長者の物語のように、これまでに仕事を変わる度に、一歩、一歩、極度の制限の中から、信仰によって自由を獲得して来たのであった。たとえば、たった数ヶ月の契約は年単位の契約に置き変え(ついには終身雇用になるであろうが)、日曜日は当然、休みとし、勤務時間は固定し、残業代が支払われないよう違法労働は当然ながら拒否、さらに交通費は全額支給が当然(できれば数ヶ月分の前払い。通えば通うだけ損になるような仕事に何の価値があろうか)などなど。むろん、ただ生きるためだけに専門外の仕事をすることも、ある時期を境に完全にやめたのであった。

以上のような世界を筆者が去って来たのはとうの昔のことであるが、しかし、これら全ては、こんなに当たり前のように些細なことでさえ、信仰のない人から見れば、無謀な冒険にしか見えなかったろうし、わがままとさえ断じられたであろう。その言い分に耳を貸していたならば、筆者自身の境遇も以前と何一つ変わらず、当然ながら、生活を拡張するの無理な相談に終わったはずだ。

だが、こうして、信仰によって天に直談判し、悪魔に請求書を出し続ける過程で、ヴィオロンはふと高校時代の学友を思い出した。彼女は私に触発されてのことか、高校生になってからピアノを始めたが、そのうち、何が何でもピアニストになるのだと言い出し、音大受験に挑むと決めた。私は彼女の熱中ぶりがあまりにも凄じかったので、幾分か距離を置いて、冷ややかな眼差しで他人事のようにその挑戦を見守っていた。

その頃、筆者も本当は音楽にはかなりの熱意があったので、音楽の道に進むことを考えてはみたものの、隣で彼女があまりにも熱意を込めてピアニストになるのだと言い張っているさまを見て、何だか先を越されたというか、気がそがれた感じで、同じように挑戦して音楽家になろうとは決して思わなかった。彼女は音大の短大に合格し、それから四大に編入するのだと言って頑張っていたところまでを知っている。

だが、音大生になってからの彼女は、再会すると以前よりもさらに変わっており、今度は好きな人が出来たと言っていた。が、その人にはすでに彼女がおり、片思いなのだが、その彼女は彼に相応しい人間ではないと言って、何が何でも彼を彼女から奪い取りたいのだと言うのである。

私はそれを聞いて、彼女の凄まじいまでの熱意にまたもや興ざめになり、その恋愛を応援する気にもならず、人から横取りしてでも自分の望むものを手に入れようとしている彼女の態度にうんざりしてしまった。そして、その時を限りに、彼女に会ったことはない。彼女はピアニストになるのだと言い張っていた時と同じように、今度は好きな人を手に入れたいと望み、望みに従って行動することの何が悪いのだと言って私を非難したのであった。

時を経て、彼女はおそらく意中の人の心を得ることに成功したのであろう。結婚して、子供も生まれたことを風の便りに知った。一見、めでたしめでたしである。結婚してしまえば、それが最初は横恋慕であろうと、何であろうと、非難されることはないであろう。

だが、音楽はどうだろう? 音楽もそのような熱意で手に入れられるものであろうか?

音大というところは、過酷な競争の世界で、高校生からピアノを始めた人を好意的に受け入れるような環境では決してない。神学校では信仰を学べないのとよく似て、おそらく音大では音楽の真髄は学べず、学歴としての価値はあっても、打ちのめされ、大きな壁にぶつかることになったのではないかと思う。

そういうことの影響があったのかどうかは知らないが、彼女はその後、純粋なクラシックの世界からは幾分か遠ざかり、あえてそれに背を向けて、純粋に楽しめるもっと庶民的な音楽の方向へ舵を切ったように見える。というより、クラシックの世界は、裕福でなければ、あるいはコネがなければ、コンサート一つも簡単に開けず、熱意と努力だけではどうすることもできない世界だ。彼女はその世界に居場所を見出せなかったのではないか。そういうこともあってか、子供のための音楽や、民族音楽などの方向へ、関心が変わって行ったようである。

だが、ヴィオロンは、そこでも、めでたしめでたし、とも思わないのである。自分が若くて小さな子供がいるうちは、子供向けのコンサートを開くのも良いだろう。しかし、年を取り、自分の人生にそれなりの深みが出て来なければならない年代にさしかかったとき、誰を対象として、何を訴えるために演奏するのかという課題に、誰しもぶち当たるであろう。憧れや、楽しい気分だけでは、もはや進んで行けない時が来る。特に、年老いて来た時、彼女が何を原動力として進み続けるのか、それは筆者の目から見れば(余計なお世話ではあろうが、かなり)疑問である。

私から見ると、この彼女は、いつも何か欲しいものがあって、(しかも大抵、それはもとは他人が持っていたものなのだが)、他人に触発されて、自分も同じように欲しいものを得て、望みの自分像になるために、頑張ってアプローチして生きてきた人だった。たしかに、望みへ到達するための努力は大変なものであったろう。しかし、芸術というものは、もともと自分自身の中にあるものが外側に湧き出て来て表現されるものであって、努力して到達するものではない。努力するのはただ表現力を磨くためでしかない。

カラオケでも上手な人は本物の歌手そっくりに歌うことができるが、クラシック音楽も、努力すれば、素人でもそれなりの域に達することはできる。音大に入ることさえそう難しくはない。だが、それで音楽家になったと言うのは早すぎる。そもそも、自分自身の中に湧き出てくる泉のように、表現の源、核となるものがなければ、どんなに練習を積んでみたところで、それは他人の真似事にすぎないのだ。偉大な作曲家の優れた楽曲をうまく演奏すれば、誰でも「ひとかどの人間」に自分を見せることはできるが、それでも、真似事だけでは決して進んで行けない、より深い動機が必要とされる時が必ず来るのだ…。

ただ単にピアニストという職業が醸し出す、煌びやかで崇高そうな雰囲気、俳優のように自分の演技を人に見せて観客と一緒に酔いしれることのできる陶酔感、自己満足だけが目的だったのであれば、それだけでは、進んでは行けない時が来よう。特に、金やコネで占められている、あらゆる汚辱の存在を知っていながら、それでもそれなりの苦い代償を支払って、それでもあえてクラシック音楽にとどまるのは無理であろう。

これらの苦い代価の全てを支払ってでも、自分のうちに音楽を通してどうしても表現せずにいられない何かがあって、そのために演奏家にとどまっているのか、それとも、ただ自分が舞台の主役となって、美しい音楽を奏で、心地良い注目を浴びて、聴衆と共に満足したいがためだけに演奏家を続けているのか、試される時が必ず来るであろう。

さて、しかし、今ここでその彼女のことを引用したのは、彼女を批判するためだけではなかった。むしろ、長年、私は彼女の猪突猛進型の熱意に、ある種の恐れを抱き、それを自己中心だと思って、敬遠してきたが、今考えてみると、その態度にさえも、何かしら学ぶところもあったものと思う。

ヴィオロンは、他人から何かを奪い取ってまで手に入れようとは決して思わないし、なりふり構わず、己の欲望に突き進むことを賞賛するつもりも全くないが、しかし、本当に心から望む(理にかなった正しい)目的のためならば、人はどんな困難があろうと決して諦めずに前進し続けるだけの揺るがない決意と情熱が必要であると思う。その意味においてのみ、彼女の態度にも学ぶべきものはあると感じる。今までを振り返り、私にはいささかそのなりふり構わぬしぶとさ、図太さ、粘り強さ、自己中心なほどに諦めないしつこさ、といったものがかけていたのかも知れないと思わないこともない。もっと言えば、かけていたのは、どれほどの障害にぶち当ろうとも、何が何でも信念を貫き通すために必要な、不動の自信と勇気、決意だったかも知れない。

だが、これは信仰の文脈で言うことであって、神の栄光、みことばの正しさを証明するためにこそ、人は自分の全てをかけて戦う価値があるのであって、自分勝手に望みのままになりふり構わず突進して生きよと言っているのではないのだ。そのようなあきらめることのない熱意は、人やモノに向けられる前に、まず神にこそ向けられるべきである、とヴィオロンは思う。どんな些細な願いも、まずは神のみ元にこそ持って行き、しつこく交渉してみるべきなのである。

だから、私はこの度、ちょっと実験してみることにしたのだ。前述の彼女のしつこさには及ばないにせよ、自分の望みを、困難がやってきたからと決して簡単にあきらめることなく、天の扉を叩くことに使ってみようと思ったのである。

その結果、実際に生活を向上させ、仕事を変えることができた。こうしたことは、前述のピアニスト志望の学友の望みのように、世間からは、わがままだと非難されることもあるかも知れないし、博打のような冒険とみなされることもあろうが、誰に何と言われようとも、私はこれ以上、もう一歩も退却したくないし、この望みをあきらめるわけにも行かない、というほど、にっちもさっちも行かないところまで追いこまれたのである。現状のままでは、何が何でも我慢できないうという思いが到来したのである。そして、しつこく天に直談判してみた結果、扉が開いたのであった…

家庭集会などは開くつもりはないが、家庭集会が夢のまた夢だと言わねばならないような環境からは抜け出ることができ、ほっと一息ついて、神の恵みに感謝することができるようになった。

さて、こうした飛躍や進展と思われる事柄も、代償なしに与えられたものではなく、以前、書いたように、もしヴィオロンが、地上の生まれ故郷にとどまって、地上の親族への義務感や情愛から、「死人を葬ること」に熱中していたならば、決して達成できなかったろうと言える。

最後の記事で触れた件の親族は、病床についてから一ヶ月半という比較的短い期間で亡くなったので、その苦しみはそんなにも深刻重大ではなかったかも知れない。というより、筆者はその最期の様子を知らない。だが、それでも、この故人は、人生の最期になって、「私は何も悪いことはしていないのに、なぜこんなに苦しまねばならないのだろう」とこぼしていたというから、悔い改めは、まさに神が信仰によって人にお与えにならなければ、誰も決してすることのできない奇跡なのだと言うしかない。

ヴィオロンは、この親族の最期の時に、枕元で、人間の原罪と、人が救われるためには悔い改めて神に立ち返る必要性があることについて語った。しかし、おそらく、上記の言葉が、この促しに対する故人の偽らざる返答だったのであろう。つまり、故人は、己に罪を認めず、悔い改めの必要性をも認めなかったのだ。何しろ、生長の家は、人間はみな生まれながらにして神の子であり、人に罪はないと教える。そして、神の子である人間を脅かしうるものは地上に何もなく、病も幻想に過ぎないのだと言うのだ。

しかし、彼らの信念によれば、神であるはずの人間が、病に打ち勝つこともできずに亡くなった。だとすれば、悪いのは誰なのか。生長の家の教えが間違っているのか? それとも、罪なき人間をいわれなく罰したもう神が悪いのか? 生長の家の教えだと、きっと暗黙のうちに後者ににならざるを得ないだろう。何しろ、彼らによれば、人間は正しいのだ。正しいから、苦しめられるはずはないのだ。それならば、正しいはずの人間を苦しめる何者かが存在するのであり、その人間以上の存在ーー本当の神は、悪神ということになろう。この問題は彼らの狭い教義からはもはや外にはみ出ているが、彼らは悪魔の存在をもきっと認めないであろうから、きっと人間を理不尽に苦しめている悪神が存在するということにならざるを得ないだろう…。決してそのようなことを教義としては主張すまいが、結局、その教えの根底にあるのは、人間の自己義認と、人を罪に定める聖書の神に対する敵意なのである。

こうして、苦しみを通して、神の力強い御手の下にへりくだるどころか、苦しみにあって、ますます自分は悪くないという思いに凝り固まり、自分以外のところに悪の源を探そうとする人たちが現れる。福音を聞いた時に、人の態度が試されるのである。そして、自分は悪くないのに不当に苦しめられているという思いが最後に行き着くものは、ずっと今まで書いて来たように、神に対する恨みと敵意なのである。

私は、こういう話を聞いて改めて、私がこのような考え方に至らず、自分がキリストの十字架の贖いによらなければ、救われ得ない罪人であることを知って、自分が救いを必要とする罪人であることを素直に認めて、この贖いを受け入れて救いにあずかったことを感謝し、これが私の努力によるものでなく、神の側からの恵みであり、奇跡なのだと痛感するのである。

故人は若い時分に戦争があった他は、平穏な人生を送り、不自由はほとんどなかった。人の目から見れば、幸福であろうし、孤独でもない人生であった。就職氷河期に見舞われたり、女手一つで必死に働いてなお半人前のように言われたり、寡婦となったり、子供に死なれたりすることもなく、平凡な家庭の主婦となり、家長としてごくごく世間並みの人生を生きた。まさに世間から見れば、何も後ろ指さされることのない平穏無事な人生であり、お勤めを果たしたことになろう。病に伏した期間も九十二年という健康な人生の最後の一ヶ月程度でしかないのだから、限りなく恵まれていたと言える。

しかし、その見栄えの良さはあくまで表向きの話でしかない。私は、この人の死を前にして、私の人生はこの人と比べればたとえようもない苦難や紆余曲折に満ちていたかも知れないが、神に対して自分は正しいと言い張って心頑なにしたまま死んで行くことなく、神の御子による永遠の十字架の贖いの事実を認め、受け入れることができている自分の人生に、今更ながら、途方もなく安堵するのである。

このように述べると、肉親の情からは、故人にはいささかすまない気持ちにもなるが、正直に言って、この親族が亡くなったことを機に、筆者の名前も含め、一族全員の名前をあげて、夜な夜な仏壇に向かってお祈りする人間がいなくなったことに、筆者はどこかしらホッとする思いを隠せないのである。人間としての筆者は、誰の死をも喜ばないし、寂しい気持ちを禁じ得ない。だが、それとは別に、この故人が生前、筆者には自分の神様がいるから筆者のために仏壇に向かって祈ってくれるなとどんなに言っても、自らの祈りを善意と確信して、決して筆者の願いを聞き入れることなく得体の知れない対象に祈り続けていたその祈りがもはや聞かれなくなったことに、筆者はどこかしらホッとするのである。家長であった人の死と共に、親族全体に及んでいた一つの強固なイデオロギー的支配力が消失したことをも感じるのである。

この親族が亡くなる前に、筆者は故人の考えを変えることはできないことを感じつつ、自分自身の決意表明として、自分がこのような価値観の支配する地上の家の一員ではないことを証するために去った。むろん、異教の儀式としての葬儀にも参列していない。

それはある人々の目には奇異に映るかも知れないが、筆者の曲げられない信念であり、信仰告白なのである。だが、それは代償なしに行われた行動ではなく、その行動が筆者にとっては決意を要したのは言うまでもない。だが、今回、その信仰による行動がなければ、おそらくそれに続く筆者の人生の進展もなかったのではないかと想像する。もっと言うならば、地上の故郷を振り返ることすら、本当はすべきではなかった。怪我をした小鳥は順調に回復して今はすっかり日常生活に戻っているものの、故郷への大移動がなければ、そうしたことも避けられていたであろう。

こうして、地上の生まれや故郷がどうあれ、我々が見るべきお方、その歓心を得るために心を砕くべきお方は、天にも地にも、たった一人であることを思う。私はたとえ全世界から否定されようとも、その方から是認されることをのみ望んでいる。そして、その是認(義認)あればこそ、どんな困難があっても望みを失うことなく進んで行けるのである。このお方は、信仰によって、私の内側に住んで下さり、今すでに我々は一つであると言って下さる。御名によって願いなさいと言って下さる。願いが成就するまでにそんなに長い月日を耐える必要はない。信じる者にとっては、今日が恵みの時、救いの日なのである。
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狭い門からはいりなさい。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)
 
ペンテコステ運動とグノーシス主義の関係について書くと、早速、さわやか読者らが蠢動を始める。グノーシス主義の話題になると、これまでにも必ず、常にスピン的な動きが出て来たが、このことは、ペンテコステ・カリスマ運動の基礎がグノーシス主義にあることが明るみに出されてはよほど困る勢力が存在することを示している。

長年、当ブログに対するさわやか読者の動きを観察して分かることは、当ブログに対して、おそらくはアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の関係者(特に村上密氏やカルト被害者救済活動との関連)から、長年に渡り、彼らの活動への批判を潰すための工作がなされて来たという事実である。

杉本事件もその一環である。当ブログに対する1千件のコメントを伴う杉本徳久氏のブログにおけるバッシングが、杉本氏の一存によって行われたものであろうはずもなく、これも委託された全体の工作の一部であったと考えるのがふさわしい。

そもそも、杉本氏が自身のブログにおいて行って来たプロテスタントの諸教会に対するバッシングは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のカルト被害者救済活動の需要を意図的に作り出したい人々にとって、非常に好都合なものであった。

杉本氏がプロテスタントの諸教会の醜聞を次々発表することによって利益を得るのは誰かを考えれば、それは間違いなく、カルト被害者救済活動を率いるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団であり、「カルト対策の専門家」を名乗る村上密氏のような牧師である。

カルト被害者救済活動というのは、とにかく「教会で被害を受けた」と主張する信徒が登場しないことには始まらない。

そして、教会での不祥事は頻繁に起きる事件でないため、杉本氏のブログでの発表の中には、当初は本当のスキャンダルも幾分か含まれていたかも知れないが、結局、同氏らは事件をでっちあげてでも、注目を集める機会を作り出すという「やらせ」に陥らざるを得なかったのである。だが、そのように暴走するよりも前から、もとより、教会のスキャンダルを食い物として、弁護士やカウンセラーや教職者に仕事の機会と出番を作り出し、被害者救済ビジネスを成立させるという村上密氏の活動の手法そのものが、2ch等の「炎上商法」と極めて近い関係にあったと言える。

こういう他者の不祥事を糧とする種類の活動は、もともとその性質上、「やらせ」としての要素を色濃く持つものであり、いずれはスキャンダルをでっちあげてでも需要を作り出していくという暴走したものにならざるを得ない。毎年、年末になると同じ道路を掘り返して需要を作る公共工事くらいであれば、まだしもましであるが、諸教会と生きた信者に対する告発を捏造するところまで行くと、極めて罪が重いと言わざるを得ない。何より恐ろしいのは、これが人間相手ではなく、神に敵対する活動だという点である。

そういう意味において、カルト被害者救済活動は、2chとも極めて性質と仕組みがよく似ている。誰かの醜聞を故意に作り上げることによって人々の注目を集め、それを奇禍としてビジネスチャンスに変えて行くという性質である。

2chには、炎上のためのシナリオがある。まずは事件を大々的に煽る「敵」役が現れ、彼らが自らを当て馬として誰かを追い詰め、そこへ事件を解決するように見せかけた「正義の味方」や、心優しい「助言者」に見せかけた裏切り者などが登場し、その他大勢のエキストラ、情報提供者、ウォッチャーなど、さまざまな役割分担が振り分けられる。

災いをしかけられた側に知識がなければ、その時、その事件は自分の過失が引き起こした結果だと思って自己反省に陥ったり、争いをしかけて来る人物が主犯ではなく演技者の一人に過ぎず、助け手を装って現れる人間もまた工作員であり、すべてが背後にある巨大なネットワークによって一つに結びついて一個のシステムとして動いているのだとは疑うことなく、彼らの思い描いたシナリオ通りの行動パターンを辿らされることになるであろう。

だが、以下に示すような2chの実態等の情報を少しでも知っていれば、それらの事件は、最初からすべて計画的・人工的に仕組まれた舞台演出に過ぎず、霧のように、あってないも同然の事件に過ぎないことが理解できる。悪役でさえも、演技者でしかなく、ヒーローを演じる人物に花を持たせ、観客を動員してビジネスチャンスとなる物語を作り上げるためにすべてのシナリオが仕組まれているのだと分かろう。

そして、その脚本は最初から意図的に書かれたものである以上、誰かの言動がその事件勃発の引き金となったわけではなく、そのようにして延々と被害者を作り出してはビジネス化するネットワークはずっと以前からロシアン・ルーレットのように回り続けて来たのであって、あなたはただ順番が来たから機械的に巻き込まれただけなのである。

さて、一体、その大がかりなネットワークは誰が作り、動かしているのであろうか?

以下の記事を書きながらも、筆者が改めて感じたのは、約十四年間も、自らの名誉と地位を守るために、鳴尾教会に起きた事件の真相を隠し続け、自らの誤りを罪なき他者に冷酷に責任転嫁すべく、ひたすら他者を貶めるための「創作物語」を終わりなく延々と作り上げて来た村上密氏という人物の危険性である。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動
~村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会人事の私物化問題について~


「演技性人格障害」という言葉も存在するが、村上密という人物の病理については深く考え込まざるを得ない。一つ嘘をつくと、それを隠すために、人は次から次へと嘘をつかざるを得なくなり、人前に自己を偽ると、鱗のように嘘に塗り固められた人物像が出来上がって行く。村上密氏が演じているような、被害者を救う「ヒーロー」としての人物像は、同氏自身の真実な姿から著しく乖離しており、もうずっと前から、約十四年以上も前から、破綻していたのだ。本人だけがそれを未だに認めまいとして今に至っている。

恐ろしいことである。だが、村上氏に限らず、「優秀なクリスチャン」を演じようとしたがために、虚像の自分自身を作り上げることになり、その演技がやめられなくなり、もはや現実を直視できなくなる実例は、筆者の周りで珍しいものではなかった。たとえば、筆者はルーク氏や杉本氏や下記に登場するcandy氏に対しても、全く同様の危惧を感じ、しばしば本人に対してかなりあからさまにそれを警告したのである。(だからこそ、KFCは筆者を疎んじたのである。)
 
村上密氏について言えることは、そもそも、メディアと密接な関係があって、メディアでもてはやされる人物というのは、およそ信用がならないということだ。そう言えるのは、メディアへの出演者はみな俳優のようなものであり、彼らが視聴者の注目を得るための番組作りは、その根本に「やらせ」があるためだ。

特に、牧師が自分をヒーローに見せかけるために、常に「仮想敵」を必要とし、「やらせ」に走ってでも、諸教会のスキャンダルをでっちあげては、自らの活動の需要を作り出し、キリスト教界を舞台にして、水戸黄門や暴れん坊将軍といった古典的な時代劇ドラマを思わせるような「勧善懲悪」のストーリーを効果的に演出せねば、世間の支持を得られず、存続もできないというアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のカルト被害者救済活動は、もともとメディアの「やらせ」と、2chなどの匿名掲示板の「炎上商法」と密接に親和性を持つものであったと言える。それゆえに、結局、悪者を終わりなく作り上げ、政敵を追い落とすための工作において、教団と2chの両者は「蜜月」の関係を築くに至ったのだと推測される。

その観点に立てば、杉本徳久氏が当ブログに対して引き起こした事件も工作であったとみなすのがふさわしく、仕掛け人は杉本ではないのである。杉本ブログはそれ自体が隆盛期には巨大な掲示板と化していたのであり、同氏はカルト被害者救済活動を存続させて、自分たちが救済者としての名誉ある地位を失わないでいるために、我が身を当て馬としてでも、事件を作り出す役目を担って来たのだと考えられる。

カルト被害者救済活動と2chとの親和性は次のようなところにある。2chには一般市民を装って常時掲示板の話題を盛り上げるための「プロ固定」と呼ばれる工作員書き込み者が多数存在する。彼らは、通りすがりの市民を装いながら、その実、2chの犯罪ビジネスを成功させるために、金をもらって特定の企業や個人を貶めてはネットから駆逐して言論統制を行う。2ch対策と称して風評被害の解決を謳っている弁護士も、この掲示板と一体であり、これらは表裏合わせて一つのビジネスなのである。

この掲示板には、言論統制や炎上など様々な委託されたミッションの実行に向けて人工的な「世論」の流れを作り出すために、常時、話題を意図的に操作する工作員コメント者が多数配備されている。こうしたことは、以下に挙げたような2chの実態を告発する数々のサイトで、内部告発者らの証言によってすでに裏付けられている事実であるため、ここで改めて詳しく説明する必要もないであろう。

2chのような掲示板での議論が、意図的に犯罪を作り出し、人工的に炎上を引き起こしては儲けるためのビジネスであることは、すでによく知られている。その手法を知るには以下のサイトを多少読むだけで十分であり、これを読めば、杉本事件が偶然に起きたとみなす者は一人もいまい。

匿名掲示板2ちゃんねるの実態
 2ちゃんねる掲示板の運営側による情報操作


2ch裏の歴史と噂話と真相

2ちゃんねる から子供たちを守ろう!

カルト被害者救済活動と2chとに実際に密接な結びつきがあると言えるのは、当ブログに日夜押し寄せて来ていたさわやか読者のIPアドレスを検索すると、その多くが2chを含む掲示板の常連であり、クリスチャンとは全く無縁の不信者ばかりである実態が浮かび上がったことによっても裏づけられる。

それだけでなく、さわやか読者の活動には周期があり、ネット監視の開始時間と終了時間、一人の工作員から別の工作員へのバトンタッチの様子など、アクセスログから活動がスケジュール化されている様子が分かる。そして、IPアドレスなどをもとに集団ネット監視に及んでいる実態が明確に浮かび上がるのである。

2chは、キリスト教に限らず、多数のネットユーザーに対してこうした集団的な監視活動を行うことで有名である。そこで、こうした工作を彼らに委託したのは何者であるのかを考える時に、筆者には、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に深い関わりのある人間たち以外からの働きかけを考えることもできないのである。

さわやか読者らの動きも、観察してみると、明らかに、雇い主の指示に従って当ブログを監視しているだけの雇われ工作員と分かるのである。信仰者でない以上、彼らが筆者の主張にもともと特段の関心があろうはずもなく、彼らには筆者に対する私怨はない。ただ議論を封じ込め、筆者の執筆意欲を低下させ、最も重要な争点から人々の注目をそらし、情報の信憑性を低下させるような発言を繰り返して、不穏な印象を与え、議論をかく乱するためのスピンを行うことを主たる「業務」としているだけである。

むしろ、読者の関心が筆者自身に集まると逆に彼らは困るのであろう。なぜなら、筆者が信仰者として神だけを見上げて一人で立っているのに、信仰はおろか、聖書の知識の片鱗すらもない、キリスト教のことを何も知らない部外者が、信者であるかのように立場を偽って、集団で騒ぎ立てて、筆者や、敬虔なキリスト教徒をさらし者としているだけだという悪事がより一層際立つからである。もともと無関係な人々が関わって来ようとする背景には、金をもらっているからだろう、スポンサーは誰なのか、という議論しか起きて来るものはない。

しかも、彼らは集団でかかっても筆者を論破することができない。当然である。さわやか読者には、まるで知性がなく、基礎知識がなく、もともとキリスト教に興味がなく、お仕事でやっているだけである。しかも自作自演なので、ずっと延々と引用とレッテル貼りとごまかししか続けられないのである。そんな無益なことに人生を費やさざるを得ないとは、ご愁傷様であるが、多分、報酬もないに等しいのであろう。

こうしたさわやか読者の雇い主が明らかにアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団やペンテコステ運動の支持者と深い関わりがあると見られるのは、筆者がグノーシス主義についての一連の連載を本格的に始めた頃、次のような馬鹿の見本のような掲示板がスピンのために立てられたことからも推測できる。上記、リンクは貼っておいたが、IPアドレス情報を盗み取られるため、正常な読者は誰も閲覧しないように注意しておく。

こうした掲示板でのスピンのための「やらせ」工作の材料を集めに、当ブログへ毎日せっせとアクセスしてネタを取りに来ている工作員は以下の二人である。

kd114019080055.ppp-bb.dion.ne.jp
kd210249054007.ec-userreverse.dion.ne.jp  (出身は 掲示板1

主犯は上である。これは何か月間も当ブログを監視しているさわやか工作員であり、日々、「村上密」の名前で当ブログにたどり着いて来ることを見ても、自らどの筋の者かを告白していると言える。いずれアクセス履歴を公表する。下はもともとキリスト教とは何の関係もない掲示板のプロである。この二人か、もしくは上の一人が自作自演によって何人かを演じ分けながら、延々とつまらない話題作りに励んでいるのである。

それにしても、閑古鳥が鳴いている掲示板を、自作自演によって成り立たせるしかないとは、2chも杉本ブログと同じほどの情けない落ちぶれようである。

だが、それもそのはずであろう。昨今は、どんな業界も店舗が一人体制で人手が足りなくて困っているという。足りないのは人手だけではなく、深刻な経営難で人件費が削られ、店員が基礎的な研修も受けられず、業務知識そのものが足りなくなっている。

そういった事情は、掲示板までも変わらないと見られ、寒い懐事情が議論の質の薄さにもろに影響している。まず基礎的文献に全く目を通していないので、議論に必要な知見が圧倒的に不足しており、下調べを何もしないまま、レッテル貼りと争点逸らししかできない。グノーシス主義についても、基礎的な文献を読んでいないのでは、発言に信憑性がない。さらに信者ではなく、信仰の事柄に疎いので、文脈を踏まえた聖書の引用ができず、信仰の常識を踏み間違えて恥を晒しており、結局、自説を証拠立てるための何らの有力な理論も提示できない。

ペンテコステ・カリスマ運動の教義など理解もしていないのであろう。さらに鈴木大拙や禅と仏教と東洋思想の知識になると彼らにはもう完全にお手上げである。日本には僧侶はたくさんいるので、下手に言及すると無知がバレる。これはキリスト教も同じである。無知がバレるというより、教義面から出身がバレるのである。

こんな知見不足の状態では、聖霊派の教義とグノーシス主義を結びつけた詳細な議論に反論できるだけの証拠もあろうはずもない。杉本ブログよりももっと質が低い。その上、自作自演ではもともと議論が盛り上がるはずもない。だからこそ、結局、三歳児でも理解できるようなレベルに落ちて行くだけなのである。

こういったことはすべて、もともと聖書の知識なく信仰もない人間にはこの手の議論は無理な挑戦だということをよく物語っている。そもそも、自分に興味がないことについて、人は何を書こうと思っても書けないものだ。信仰の事柄はまして不信者の議論には向かない。だから、無謀な挑戦をして、阿呆の見本のようになるしかないのだ。

それにも関わらず、なぜそのような無謀な挑戦をこれらの人々は行うのか、それは彼らが業務を委託されているからである。彼ら工作員の間では、常にアッセンブリー教団の批判がタブー化されている様子を見ても、彼らがどこから依頼された仕事として作業に励んでいるのかは明白になる。

彼らの課題は、異端グノーシス主義とペンテコステ・カリスマ運動が本質的に同一であるという事実を隠すことにある。つまり、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の教義そのものが異端であるという事実を明るみに出さないために、行われていることである。
 
すなわち、これらの工作員らが常に議論を紛糾させようとする目的は、カルト被害者救済活動も含め、そうした運動を生み出した弱者救済のペンテコステ・カリスマ運動が根本的に異端であり、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団が根本から聖書に反した理念に基づく運動から生まれたものであり、その基本理念の基本構造はグノーシス主義と同じであるという事実を論証する主張を人の目から覆い隠し、議論をかく乱することにある。そのための目くらましなのである。
 
だが、2chの影響力は実際には世間で恐れられているほど大きくない。それは実際、日々当ブログへリンクして来る人間がまるでいないことを見ても明白である。

さらに、こうした匿名掲示板で、悪質な誹謗中傷の書き込みを繰り返したために、逮捕され、顔写真までさらされている人物もいるようであるからご用心だ。左記のようなケースでは、さしずめ勤務にも影響が出るであろう。人の行動には相当の報いが降りかかるという格好の実例である。

さらに、当ブログの内容を勝手に切り取って転載していると、筆者とは無関係に、その人間が告訴される可能性がある。特に、筆者のブログには、牧師を名乗っている人物も含め、信者を容赦なく次々と法廷に訴え出ては留意を下げているような御仁が度々登場しているので、それらの人々との絡みで、筆者のブログ記事を利用するのは避けた方が良かろう。

当ブログの内容はそれぞれの記事に関連性があり、長大な論文のような構成を成しているため、部分的に切り取ることができない。さらに、筆者の提示している主張が捏造でないことを証明する一連の細かい論証過程がある。

そういう文脈をすべて無視して、当ブログの内容を無理に切り取って一部だけ話題作りに利用しようと転載すれば、筆者は一切その行為に対して責任を負わないが、その人間が自らの言質を取られ、誰かから誹謗中傷と判断されて訴えられる危険を自ら背負うことになる。(ちなみに、コメント書き込み犯が告訴されるために必要な条件はそう多くはない。)

さて結局、こうしたことも、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の率いるカルト被害者救済活動そのものが「やらせ」であり、ペンテコステ運動の基礎が異端グノーシス主義にあるという事実を明白に証明されたくない人々が、真剣な議論を早期に潰し、隠すためにスピン工作を委託しているだけである。
 
さて、一体、そんな工作を委託するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団とはどれほど危険な団体なのか。

筆者は、これまで同教団の信者らに関わって来た経験に立って、2chに「プロ固定」と呼ばれる工作員が存在するのと同じように、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団にも、「プロ固定信者」と呼ぶべき工作員信者が相当数、存在するものと考えている。

これらの「信者」は外見的には一般の信者を装っているが、実際にその動向を長く追跡して行くと、彼らのやっていることはセミプロ工作員と言うべき域に達しており、到底、一般信者の取るべきではない数々の怪しい行為に及んでいる実態が見えて来る。

たとえば、記事「カルト被害者救済活動の暴走~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による魔女狩りとしての鳴尾教会への恫喝訴訟とAG信徒による他教会の乗っ取り~」で言及したアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団神召教会所属のBr.Takaこと鵜川貴範・直子夫妻にしてもそうである。

もともと鵜川氏は牧師資格を持たないのに、教会指導者の意向を無視して、街頭で路傍伝道に立つことによって、ニュース記事に取り上げられたりしていただけでなく、次々とペンネームを変えながらネット上で活動を立ち上げては、放棄して来たこともすでに記事に書いた。その上、身元を隠して他教会でメッセージをしたり、といった活動は、単なる伝道の領域を超えた、詐欺師的な仮面の付け替えと言って良い。

真に伝道者を目指し、福音のメッセージを語りたいならば、まずは自分の属している教団の神学校へ入学して堂々と牧師資格を取れば良いことであり、母教会と他教会の信徒らの目を欺いてまで、所属もしていない他教会へ潜入してわざわざ身元を隠してメッセージを語る必要などない。だが、こうした人々はなぜか正規の手段を取らず、わざわざ人を欺いて隠密に行動するのが大好きなのである。それは彼らがもともと身元を公にして活動できないような何らかの秘密を抱えており、一般信者の隠れ蓑を利用して活動していた方が、いずれ嘘がばれた時にも有利だからという計算が働いているためだと思われてならない。

それは名古屋のアッセンブリー信者である「十字架の恵みが溢れて」の著者(candy氏)も同じである。ちょうど杉本氏とのネット上の対立が頂点にあった頃、この信者はあたかも筆者を助けるかのような文脈で幾度か当ブログに書き込んだこともあった。

だが、すでに記事「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」でも述べた通り、どうにも同氏の主張には、常に筆者には同意できない異端的教えの影響が見られ、根本的に何かがおかしいと常に感じられてならなかったのである。

candy氏はある時期「神は愛だから誰をも裁かない」などと聖書に反する異端の教えを宣べ伝えるサンダー・シングの偽りの教えに深く影響を受け、これを広める要塞と化した。

Dr.Lukeもこの信者の影響を受けて2008年に「サンダー・シングの霊性」なる記事を書いている。筆者はDr.Lukeに直接、サンダー・シングの異端性を告げて警告し、さらに、これが筆者の決めつけでないことを証明するために、サンダー・シングの教えの何がどう聖書に反し間違っているのかを一連の記事(「命の道と死の道――狭き門と広き門――偽りの教えの構造(序)」等)で明らかにした。

さらに、Dr.Lukeに対しては「キリスト教界からエクソダスせよ、と自ら唱えながら、なぜ現役のキリスト教界の信者、中でも危険視されているアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の現役信者と関わるのか」を問うた。そのような二重性は、自ら述べている信念に反するものであり、キリストのみへの貞潔を保つにあたって、ふさわしい行動ではないのではないかと。

だが、Dr.Lukeは筆者の警告に耳を貸すことなく、かえってcandy氏とサンダー・シングの教えを擁護し、後にLuke氏とcandy氏とBr.Taka夫妻、および天声教会のリーダーが連帯して、彼らに耳障りな警告を発した筆者に対する「報復」を果たすために、筆者に異端者の濡れ衣を着せて、KFCから追放するという行為に及んだのである。

この事件は偶然に起きたものだとは筆者は全く考えていない。何しろ、ここに三人ものアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の現役信者が関わっているのである。カルト被害者救済活動のやり方は、彼らがターゲットと定めた人物の人間関係に巧みに隠密に工作員を送り込んでは、ターゲットとなる人物に関する情報を収集し、なおかつ、その人物に対する周囲の人々の不満や愚痴を探り出すことによって、「被害」を捏造して、分裂や争いを引き起こし、ターゲットとする人物を中傷し、孤立させることにあるのだということは、長年の観察を通して分かっている。つまり、工作員を送り込んでは人間関係を壊し、「友人」であった人々を裏切らせて「告発者」に変えて行くことが、彼らの常套手段なのである。
 
KFCに関わっていた頃、筆者はアッセンブリー信者を信用していなかったので、彼らを信じても、裏切られるだけであり、Br.Taka夫妻はKFCを乗っ取るために来たのだから、彼らとの連帯は成り立たず、もし筆者の忠告を退けて彼らを信用し仲間だと考えれば、すぐにあなたも追放されることになるはずだと、Dr.Lukeに警告した。実際、その通りになった。Dr.Lukeは一時不名誉な理由でメッセンジャーを降ろされ、KFCの会堂は失われ、Br.Taka夫妻は逃亡し、筆者を陥れるために彼らが作った「同盟」は、わずか数ヶ月も持たなかった。そこにBr.Taka夫妻だけでなく、candy氏も一役買っていることが、Br.Taka夫妻の発言から明白となった。結局、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の人間が連帯して、他団体を潰し、そこにいる信者を中傷し分裂させたのである。
 
以上に挙げたDr.Luke氏の記事「サンダー・シングの霊性」では、サンダー・シングの影響を受けた中には、山谷少佐も含まれていたことが分かる。これはまだ山谷氏の裁判の判決が確定する前のことである。重要な裁判の決着がつく前に、山谷少佐がこの異端の教えを擁護したことには、決定的な意味があったものと筆者は考えている。なぜなら、我々は、自分の戦いに神が味方して下さるためには、どうしても、あらゆる汚れたものと分離して、身を清めなければならないからであり、「アカンの外套」を所持したままだと、戦いに勝てないからである。

こうして、candy氏は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者でありながら、Br.Taka夫妻と同じように、無害な一般信者という立場を装い、ネットを利用して、自分の所属教団の枠組みを超えて、他の教会の信者らに接近し、聖書に立脚して信仰の道を生きる信徒を悪者にして汚名を着せてまで、数多くの人々、特にリーダー格の人々を異端の教えによって惑わすことに成功したのである。

それでも、一般信徒であるがゆえに、Br.Taka夫妻もcandy氏も、批判の矢面に立たされたり、責任を追及されることはない。何事もなかったかのように、すべてに知らぬふりをして活動を続けているだけである。だが、たとえそのようにしてみたところで、聖書によれば、彼らには厳しい報いが約束されており、これを免れることはできない。惑わされた方も責任重大だが、惑わした者はもっと責任が重いのである。

「また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」(マルコ9:42)

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを 買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」(Ⅱペテロ2:1-3)

candy氏は筆者の忠告を受けて、サンダー・シング関連の記事を削除したが、その教えが異端であるとは未だに認めていない。だが、同氏が認めようと認めまいと、結果的に、彼女の意向を受けてサンダー・シングを支持した人々が、今は見る影もなくなっている様子が、すべてをよく物語っているように思う。Dr.Lukeは自分を神だと宣言するに至っているし、山谷少佐は裁判に勝利できずネットから遠ざかることになった。Br.Taka夫妻については言及する価値がない。

これらの人々はみな聖書の真理よりも、人間の名誉と絆を重んじたのである。情に流され、人との交わりや、そこから得られる感覚的満足を、御言葉よりも優先し、御言葉に従うことよりも、人間の名誉を傷つけないことを優先したがゆえに、忠告の価値を軽んじ、誤った教えに逸れて行ったのである。

さらに、聖書は彼らの教えが「好色」であり、「貪欲」であると述べている。そのことは、Dr.Lukeとcandy氏が自分のブログで飽くことなく続けている「飲んだり、食べたり」(マタイ24:38)の自慢話を見てもすぐに分かることである。まさかそんな自慢話の羅列が信仰の証であろうはずがない。

聖書にはこうある、なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」(ローマ14:17)

candy氏のブログは、当初の「イエスの喜びと満足のために」書かれる証から、「セルフの恵みと満足のために」執筆されるものへとすっかり変わってしまった。

さらに、上記で挙げた工作員の立てた掲示板の趣旨も「愛と赦し」(の母性的福音)であり、御言葉の切り分けがないところを見ても、まさにサンダー・シングやグノーシス主義やペンテコステ・カリスマ運動を擁護するために立てられたものと言って良い。だからこそ、こうした議論は決まって最後は肉欲の賛美に溺れて行くのである。その様子が彼らの信奉している教えの内容をどんな事実よりも明白に物語っている。

掲示板工作員は、決してBr.Taka氏やcandy氏などのアッセンブリー信者を批判しない。そのことだけを見ても、彼らがどの筋から来た者であるかは明白である。不思議なことに、candy氏のことを当ブログで書いても、さわやか読者はこの話題をタブーのように扱う。彼らはDr.Lukeについては常に騒ぎを煽ろうと狙っているのに、決してこの人物については触れないのである。
 
このようなアッセンブリー信者らの極めて不審な主張と活動を振り返り、彼らが言い広めて来た異端の教えのことを考えるにつけても、こうした「信者」らは、真実な信仰者を迫害し、退けるための「プロ固定信者」であると筆者はみなさざるを得ない。一人の信徒が霊的要塞と化して与えた影響の大きさを思うのである。

「十字架の恵みが溢れて」の著者は、今年5月に「十字架の恵みが溢れて2」という名で、ライブドアにブログを開き直している。言わずと知れた、杉本徳久氏の「随想 吉祥寺の森から」と同じプロバイダである。杉本氏から当ブログに対して実行不可能な提訴を予告する恫喝のメールフォームが送られて来たのと時期的に重なっており、また、当ブログに対するスピンの為に上記匿名掲示板が立てられたタイミングとも時期的にほぼ重なっている。2chとライブドア社も以前から密接な関係にあることが指摘されている。

以前の彼女のブログには、KFC関係者のブログへのリンクが数多く貼られていたが、当ブログでKFCの理念の異端性を明白に書き始めてから、新アドレスに移行している点にも注意が必要である。

こうしたことは、一般信者の立場だからこそできることであり、アッセンブリー教団に所属していながら、次々に他の団体の信者に関わり、しかもKFCのように、キリスト教界そのものに敵対しているような相反する理念を持つ団体に関わり、その団体が批判を浴びて都合が悪くなると、そういう一連の事件は全てなかったことのように、彼らと無関係を装って新たに活動を続ける。そういう変わり身の早さも感じられるように思う。

実際、筆者がKFCに関わって最も驚かされたのがまずこの点なのである。candy氏に限らず、Dr.Lukeのメッセージを熱心に聞いている者たち(特に女性)には、キリスト教界に身を置きながら、牧師に隠れてKFCやDr.Lukeとコンタクトを取り、メッセージを聞くという、二足の草鞋を履いている者があまりに多い。自分の所属している教会と指導者がありながら、キリスト教界の非をこれほど激しくあげつらっては告発しているDr.Lukeのメッセージを聞くこと自体が、自らの群れに対する裏切り行為であることが分からないのであろうか。

本来ならば、エクソダスするのか、現在の指導者に従うのか、どちらかを選ばなければ、信用も成り立たないであろう。(むろん、エクソダスしたからと言って、Dr.Lukeに従うという結果にはならない。)どっちつかずの立場では、自分の指導者に対しても申し開きが出来ない。ところが、まるでどちらかが倒れたらいつでも古巣に戻る準備が出来ているとでも言わんばかりに、いつまでも二重の立場をずるずると続け、両方の「いいとこどり」に終始するのである。それでいながら、自分たちには一般信徒の分かっていない、より深い霊的真理が(Dr.Lukeのおかげで)理解できていると考えているのである。

このように、対立する陣営のどちらにも良い顔をすることが不可能であることが、クリスチャンでありながら、なぜ分からないのか、筆者には全く理解できない。そのような曖昧などっちつかずの態度をずっと続けて、どちらの陣営においても、信用を勝ち得ようとすることは、全く信頼できる行動ではないと筆者は考えている。そのような誠実さの欠ける貞潔さのない人々を信用して、どっちつかずの立場の人々ばかりを積極的に集めては交わりの拡大を重んじたことが、KFCの致命的な誤りであり、それがゆえにこの団体のこれまでの絶えざる二重の歩みがあったのだと筆者は考えている。結局、信仰の純粋性よりも人数(地上の権勢)の方が彼らには大切だったのであり、そうであるがゆえに、他の群れの信徒らを盗み取り、奪い取ってでも、その心を私物化して行こうとしたのである。
 
話を戻せば、こうした一連のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者の動向を考え合わせると、杉本氏からの提訴予告も、単なるシナリオ工作の一環でしかなかったことが見えて来る。その背後に控えているのは、どこからどう見ても怪しい活動を続ける工作員信者らを手先のように他団体へ送り込んで、巧みに駆使しながら、敵対する者たちに関する情報を収集し、次々と争いや分裂をしかけ、中傷を広めては追い落とし、キリスト教界の統一と一元化を目論んで来たアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団である。

もともとアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の理念自体が、プロテスタントに潜り込んだ異端であることを考えれば、この教団の信者が、他教団や他宗派の信者の動向を監視したり、裏切りに備えて予め個人情報を収集したり、異端の教えを言い広めては信者を堕落させる悪霊の要塞となったりするのは全く不思議なことではない。

彼らの目的は、親切で忠実な信徒を装って活動しながら、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、できるだけ数多くの信者を惑わし、聖書に基づく唯一の真理から逸らすことにあるのだと言っても過言ではないのではなかろうか。

特に、キリスト教界と一線を画して、真理だけを求めているような群れを、何としても彼らの二重性を帯びた支配・統制の下に置くために、密かに行状偵察し、信仰者の群れを一元管理し、村上密氏のような人物にライバルのいない状態を作り出すために、信者を手先として利用しているのではないのかという疑問が生まれる。
 
こうしたことから、果たして、バビロンや、イゼベルとして非難されるべきは誰なのかという疑問が起こらない方が不思議である。
 
candyというペンネームも相当に象徴的であると言える。何しろ、それはDr.Lukeが最も嫌っていたはずのいわゆる「砂糖まぶしの甘えの福音」を象徴するような名だからだ。十字架は、セルフにとって決して甘い恵みではない。花輪で飾り立て甘い砂糖菓子のようにされた人間に都合の良い「十字架」は本物ではないと気づくべきである。

こうしたアッセンブリー信者の惑わしの働きの源は、その親分にこそあると見るべきである。

村上密氏はキリスト教界の不祥事をきっかけに、クリスチャンに対する裁判を推進することにより、アッセンブリー教団の枠組みを超えて、他教会を破壊することに成功して来た。さらに、同氏のブログも、福音伝道を目的とする牧師のブログというよりは、ネット上の政治プロパガンダ工作を思わせるものである。たとえば、同氏のブログは、書き方一つを取っても、コメントを一切受けつけない点で、対話と異論を初めから排除する「言いっぱなし」の形式を取っている。こうしたことだけを取っても、同氏は初めから一方的なプロパガンダを目的としてブログを開いているのであって、対話と議論を一切目的としていないことがよく分かる。
 
さらに、同氏は筆者の書いた「カルト監視機構という名の秘密警察」という記事に対する反論として、わざわざ「『カルト監視機構』という名の秘密警察」の誤報」と銘打って、筆者の記事のタイトル全文を引用する形で記事を書いている。

こうしたやり方も、本記事に対する緻密な反論が目的というよりも、まるで広告のキャッチコピーのようなレッテル貼りによる印象操作と、明らかに検索結果を意図的に操作して、そこで論敵の記事を貶めることを目的に同氏が記事を書いている様子をよく物語っている。これは杉本徳久氏が用いて来た手法と同じである。つまり、内容を通してきちんと反論することで、自説の正当性を主張するのではなく、他者の記事内容やタイトルや文章をまるごと模倣・剽窃したり、類似するタイトルをわざとつけることによって、論敵の主張をまる飲みする形でダミーを作り、それによって標的とする人物の主張を乗っ取り、追い落として行くのである。

さらに、村上密氏は鳴尾教会関係者のみならず、筆者についても、長年に渡り、人物破壊を行なうためのプロパガンダ記事を掲載し続けている。このような、正攻法とはとても言えない、ネット上の不正な権利侵害によって政敵を蹴落とす手法は、2chなどのネット操作の常連の常套手段であっても、牧師にはふさわしくない。裁判もそうであるが、こうした争い事のやり方にばかり精通しており、反則行為と抜け穴探しのような手法にひどく長けているような人間は、まともな人物ではないと言える。

2chは日本をエバ国家と蔑視する統一教会などとも関連が指摘されており、ことさらに日本人を中傷する掲示板と化している理由が色々と推測されているが、村上氏は統一教会の出身であり、掲示板に書かれている情報の中には、同氏に由来するとしか考えられない情報も含まれている。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、牧師からしてこのようであるから、信者にも、この種の極めて怪しい確信犯的な詐欺師が多いのは無理もない。ヤクザの回心をお涙頂戴の物語として得意げに伝道材料にするくらいであるから、今や教団そのものが、社会的弱者とヤクザと障害者と病者と統一教会出身者で溢れている。

その上、キリスト教界の不祥事を告発することを生業としてクリスチャンに裁判を挑む指導者が牧師として常駐しているわけだから、教団そのものが、まるでキリスト教徒に因縁をつけては罠をしかけるためのヤクザ工作団体と化していると言って過言ではない。
 
こんな団体に所属している信者が、ゆめ油断できない人物ばかりなのは何の不思議もない。杉本徳久氏も、キリスト教界により数多くのスキャンダルをでっちあげて、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のカルト被害者運動の需要を作り上げたい勢力から、思う存分、利用されているだけに過ぎないと見るのがふさわしい。そして、アッセンブリー教団の背教は米国に由来するものなのである。

いみじくも、筆者が色々と訴訟関係の手続きを調べている時に、ある専門家が尋ねた。「その教団の理念は、外国から来たものなのではないですか」と。
 
Dr.Lukeは以上に挙げた記事の中で、サンダー・シングをウォッチマン・ニーと同じく「東洋的な霊性」と記している。candy氏はウォッチマン・ニーにも深入りしている様子がブログから分かるが、それを見るにつけても、「東洋的霊性」なるものは混合の教えだと筆者は思わずにいられない。

ちなみに、筆者にウォッチマン・ニーを紹介し、その体系を教えたのは、Mr.Sugarである。Dr.Lukeはこの点もずっと意図的に隠し、あたかも筆者が自ら勝手にウォッチマン・ニーに「傾倒した」かのように、まるで現場を見て来たかのように主張して、事件を無駄に煽って来た。だが、Mr.Sugarはその当時、KFCに全く理解を示していなかったので、この時期、筆者もまたDr.Lukeには一切関わっていなかった。

Mr.SugarはDr.Lukeのローカルチャーチ時代からの長年に渡る年長の兄弟であり、当時、他の信者の誰も及ばないほどにウォッチマン・ニーに「傾倒していた」。筆者とMr.Sugarのそうしたやり取りは、筆者自身が伝えたので、Dr.Lukeは知っているが、それを知った上で、あえてSugar氏の名前は出さず、筆者だけに注目が集まるような、誤解を呼ぶ一連の事実に反する記事をDr.Lukeは自身のブログで断りなく発表していったのである。

たとえば、Mr.Sugarのニーに対する熱心さはこんな風であった。筆者がブログにニーの引用文を載せて、そこに誤変換や誤字脱字があると、早速、Mr.Sugarから電話がかかって来る。そして「あそこの何行目のどこそこの文字が間違っていますよ」と指摘がある。筆者の書いた文章よりも、ニーの文章の方がSugar氏にとってははるかに重要であり、まるで聖書以上にニーが重要であるかのように感じられるほどの関心の払いようであった。それほどまでに、当時、Mr.Sugarはウォッチマン・ニーに心酔しており、しばしば、ニーの最期を思って涙を流し、自身のブログにも、ニーの引用に「加筆した」ものをずっと発表していたのである。

Mr.Sugarは筆者にウォッチマン・ニーを読まないか、恐る恐る勧めたと語っていた。そして筆者が『霊の人』に関心があったと言うと、欣喜雀躍として喜んだという。

筆者は、特に霊的な事柄についてのウォッチマン・ニーの内容の深さには関心を持ったが、どうにもこの心酔ぶりにはついて行けないものを感じていた。そこへ杉本事件が起きた。しかも、それはちょうど、「こんなブログがありますが」と、筆者がMr.Sugarに「随想 吉祥寺の森から」のアドレスを伝えてからほどなくしてからのことであった。杉本氏からの非難は筆者のみならず、ウォッチマン・ニーも対象としていたので、Mr.Sugarはおそらくこんな時だからこそ、ウォッチマン・ニーの信憑性を擁護するために立ち上がるだろうと筆者は思ったが、あにはからんや、同氏はそそくさと理由をつけてネットから撤退してしまった。

その姿を見たとき、あれほどまでに涙を流しては「ニーの同労者になりたい」と告白していた台詞は何だったのだろうかと驚き呆れた。しかも、ちょうど「デッドライン君」の事件が起きた時分であったので、デッドライン君の家族を救うという使命のために、Mr.Sugarはこの事件をひどく胡散臭く思っていた筆者との交わりを絶ってしまった。

Mr.Sugarにはその後も再会し、KFCの偽りを理解する上では数多くのヒントをもらったことは確かであり、おそらく筆者が今まで知り合った目に見える信者の中では、最も鋭い霊的な指摘を受けた一人であろうと言える(その根源は、結局、ウォッチマン・ニーの著書から得られた知識にあると考えられる)。だが、candy氏と同じで、何故、この人も”sugar”なのであろうか、と疑問に思う。そして、この人のブログの題名が「山暮らしのキリスト」であることも、実に意味深に感じられる。
 
筆者はニーの書いたものの中で、ペン-ルイス、オースチン-スパークス、アンドリュー・マーレーのような霊的先人と重なる部分は認めており、それから『霊の人』にも一定の評価を下して来た。魂と霊の切り分け、霊の機能についても、これ以上に意義深い説明を他にはまだ知らない。しかし、『権威と服従』のように、明らかに年功序列を絶対化するような、聖書とは異なる教えがニーの著書とされて混合していることも確かであり、このような教えを土台としたがゆえに、いくつかの集会では、子供への搾取等が発生しているのであると考えられる。ローカルチャーチから出た出版物は特に吟味なく受け入れるべきではないことが指摘されて久しい。

それにとどまらず、ニーの生涯、彼の著作物、ニーの最期についても、すべて再考が必要であるように筆者は思う。それはこれもまた「東洋思想との混合」である可能性があるためだ。

ペンテコステ運動の基盤が東洋思想・グノーシス主義にあることはすでに明確にしたが、聖書に登場する大淫婦バビロンの教えとは、筆者の観点では、まさに東洋思想とキリスト教の混合物なのである。

キリスト教をベースにして、そこに「東洋的霊性」が混合してできる化合物が、悪魔の悲願としてのバビロンの教えの完成であり、そのためにこそ、「キリスト教に父性原理が強すぎるので、母性原理を補うべきである」という主張が繰り返し、キリスト教批判として現れて来るのである。

ただし、ウォッチマン・ニーの著書については、その教えの多くの部分は、先人たちの主張を取り入れたものであり、どこからがニーの独自の言説で、後世の人々による改ざんなのか、めて識別が難しい。今、著書も手元にないので、分析を行えるとしても、まだ先のことになるだろう。

ただし、筆者の周りでウォッチマン・ニーにかなり傾倒した人々に一様に観察された特徴は、先人の良さそうな言葉の引用で身を飾り立てることはしても、その言葉が試された時、代価を払ってその真実性を証明するということがなかった点である。はっきり言ってしばえば、その言葉は借り物の域を超えないのである。
 
以前、candy氏は筆者の前でKFCをかなり批判的に評しており、Dr.Lukeにブログを閲覧されると客観的に内容が書けなくなる、とか、Dr.Lukeはもっと早くにKFCから引退すべきであった、そうであればこうまで異常にはならなかっただろう、などと述べたことがあった。筆者より前からこの団体を知っていた者としての率直な感想であり、こうした意見には全く異存はない。(つまり、筆者がKFCに関わり出した頃は、すでにKFCの異常期に入っていたのである。)さらに、ウォッチマン・ニーであれ、サンダー・シングであれ、すべての聖書以外の信仰の教えは必要ないためみな捨てるべきであると、彼女は筆者の前で自ら述べたこともあった。

彼女が筆者に向かって語った最も良い言葉は、「その父母を離れ」(創世記2:24)である。つまり、聖書の原則は、子がいつまでも親にとらわれ、家を基準として、父母のような指導者を崇め、絶対化することにはないという確信を述べたのである。精神的にも霊的にも完全に自立してあらゆる外からの助けなしに、キリストのみを頼りとして、一人の人間として、大人として、自立して立つことこそ、キリストが信者の一人一人に望んでおられる成長なのだということである。

なぜそれらのことを語った本人がそれを実行しておらず、未だにずっと聖書以外の教えの引用ばかりを繰り返しているのか。

どんなに良いことを語っても、言った本人がこれを実行しないのでは意味がない。だから、誰が述べたにせよ(たとえそれが工作員信者の発言であれ)、良いことはやはり実行に移すべきなのだと筆者は考えている。 そのようにして「知」と「行」とが一致する世界に向かって行くことが、キリスト者には可能であるはずだ。

我々は「知性による分割以前」とか「神が光あれ」と言われなかった前に向かっているのではなく、創世記で「光あれ」と神が言われた言葉がそのまま真実となったように、あるいは御言葉なる方がキリストであり、御言葉とキリストのパースンが一つであるように、言行の不一致がなく、我々の確信するところが、大胆に我々の存在と行動と一つとなって、リアリティとして世に放たれるような生き様を目指している。

だが、それを実行するただ一つの方法は、十字架を通ることにしかない。聖書から逸脱したやり方で、その素晴らしいリアリティが我々と一つになることは絶対にない。
 
Mr.Sugarがかつてとても良いことを書いていた。エクレシアの戸口に達するまでにキリスト者は死んでいなければならないと。要するに、セルフを抱えたまま、復活の領域にたどり着ける者は誰もいないのである。

私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。

「光が、やみの中から輝きでよ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。

私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」(Ⅱコリント4:5-11)