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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

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宮中クーデターを狙う安倍政権の危険な思惑が垣間見えるような天皇の生前譲位説というデマ(2)

一つ前の記事で、参院選後に突然、降って湧いたような天皇陛下の生前退位説は、出所が全く不明であり、宮内庁がこの情報を全面的に否定しており、かつ、天皇自身の声明も出されていない以上、まるで信憑性に欠けており、デマと言わざるを得ず、これは天皇のことばを捏造して行われた、官邸主導の改憲に向けた地ならしの一環としての「平成天皇降ろし」である可能性が極めて高い旨を書いた。

報道から一日以上経っても、この件に関して天皇陛下の声明が全く出ていないことが、生前退位の「意向」自体が、捏造された情報操作であるという見方をさらに強める。

おそらく、これは平和主義の象徴である今上天皇を早いうちに退位に追い込み、取り除いてしまえば、国民の現行憲法へのこだわりの求心力が消失し、憲法改正への抵抗感がなくなるだろうとの考えのもとに仕組まれた計画である可能性が高いと筆者は見ている。

ところが、ネットでは、これに対して早くも「生前退位は安倍氏の改憲を阻止するための天皇陛下の最後の抵抗」などという説が盛んに流布されており、これに飛びついている浅はかな人々も見られるが、これもまた今上天皇自身の告白に基づいていない以上、全く情報の出所が定かではない。本当は、こうした情報こそ、反安倍陣営に偽装しつつ、今上天皇の生前退位を既成事実化しようとしている人々が流布した巧妙かつ悪質な印象操作だと言えよう。

当然のことであるが、もし本当に今上天皇に生前退位の意向があれば、それを天皇自身がはっきりと会見によって全国民に知らしめる義務がある。それは国民の象徴たる天皇の義務であり、もし何らかの事情によって、天皇が公務が遂行できない状態に陥るか、象徴としての役目を果たせない危惧が生じた場合には、必ず、天皇自身が国民に対してこれを説明しなければならないし、今上天皇の人柄を考えれば、必ず、そうするはずである。

特に、今上天皇の二面性のない人柄、これまでの偽善性のない誠実な働き方を考えると、この人物が、健康で、いつでもメッセージを発することができ、危篤状態に陥ったわけでもないのに、あえて自らの意向を明言しないことによって、思わせぶりな態度により、周囲に自らの意向を「忖度」させることによって、暗やみのうちに、阿吽の呼吸で自分の願っている方向へ物事を誘導して行こうという態度を取るはずがないことは明白である。

もし生前退位の意向が天皇自身から出たことであるならば、本人が必ず、会見によって自らそれを国民に伝えるであろう。いや、真っ先に国民に伝えねばならない義務がある。

憲法を順守している国民の象徴たる天皇が、これほど重大な問題を、国民をも、宮内庁をも無視し、マスコミに真っ先にリークさせるということはまず考えられず、そのようなことは、象徴天皇のあり方自体をゆるがせにする行為であるから、憲法上も、本人の人柄に照らし合わせても、今上天皇はそのような行為に及ぶことはまず考えられない。

しかも、NHK及び他のマスコミが一体どこから突然、「天皇の意向」を知ったというのか、その情報源は、ただ官邸に、政府筋にあること以外には、全く明らかにされていない。肝心の天皇の意向が全く不明なままなのである。

そこで、これらの全てのことを考え合わせると、やはり天皇の生前譲位説という報道は、政府筋が、しかも官邸に最も近い一部の「側近」が、壊憲に前のめりになった挙句、天皇陛下をないがしろにして、天皇陛下のことばを捏造した結果としての虚偽の誘導報道であり、それは今上天皇をできるだけ早く譲位に追い込むことによって、現行憲法への国民のこだわりの求心力を低下させる目的のために予め仕組まれた出来事であったとしか考えられないのである。

さて、以上は筆者の見解であるが、世間の識者らはこの件について、どのような反応を示しているのであろうか。見回してみると、やはり、筆者と同じように、天皇の生前譲位という報道自体を、非常に懐疑的に受け止めている人が多い。

まず、天木直人氏は「天木直人のブログ」で、この報道のあり方の異様さを強く強調している。天木氏の見解は筆者とほとんど同じである。天皇自身の声明が出されておらず、宮内庁が全く逆の発表を出しているのに、マスコミだけが依然として生前退位説を既成事実のように書き立てる。このちぐはぐさが、まさに異様だというのだ。宮内庁の発表にまで逆らえるほど、よほどの強い圧力がなければ、マスコミにはそのようなことはできない。「この国は危ういかも知れない」という天木氏の見解は、筆者の見解にほぼ重なる。
  

 「生前退位」の報道を全面否定した風岡宮内庁長官記者会見の衝撃
15Jul 2016 から

  天皇陛下が「生前退位」の意向を示されていることがわかったと、きのう7月14日の各紙が一面トップで一斉に大報道したことについて、その日の定例記者会見で風岡典之宮内庁長官がこの報道を全面的にした。

 すなわち「具体的な制度についてお話になられた事実はない」とし、「従来陛下は憲法上のお立場から、制度について具体的な言及は控えてる」と繰り返し、生前退位のお気持ちの有無については「活動の中でいろいろなお考えをお持ちになることは自然なこと」としながらも、「第三者が推測したり解説したりするのは適切ではない」と話したというのだ(7月15日毎日)

 風岡長官はまた、生前退位を前提に宮内庁が官邸と相談や検討を行っている事実もないと説明したという。

 これを要するに7月14日の報道を全面的に否定したのだ。

 これは衝撃的で異例な記者会見における発言だ。

 しかし、宮内庁長官がここまで否定したにもかかわらず、メディアはこの発言を無視するかのように、きょうも天皇陛下が「生前退位」の意向を示された事を前提に、あらゆる論評や特集記事を書いている。

 これもまた異様だ。

 ふつうなら、誤報だったのではないかという声が聞こえて来てもおかしくない。

 ふつうなら、このような情報をメディアに漏らした者は誰だと騒ぎ、その犯人を突き止めて責任を問うことになるのに、一切その動きが無い。

 これも異例で異常だ。

 もし風岡宮内庁長官の否定発言が安倍政権と通じてなされたものなら、マッチポンプだ。

 しかし、私にはそうは思えない。

 風間宮内庁長官は、官邸筋から突如として意図的に流された「生前退位」御意向について、天皇陛下の御心を代弁して不快感を持って抗議したのではないか。

 もしそうだとすれば大事件だ。

 ここまで異例で異様な、突然の天皇陛下「生前退位」意向表明の報道であるのに、おそらく、真相があきらかにされないまま、この問題は沈静化していくに違いない。

 なぜならば皇室典範の改正を含めた皇室制度の作業は慎重を要し、いますごどうこうしなければいけないと言う問題ではないからだ。

 この問題が、このタイミングで、大々的に報道されただけで、その効果は十分に達成されたのだ。

 この国は危ういかもしれない(了)


さらに、植草一秀氏は、自身のブログ「植草一秀の『知られざる真実』」において、この生前譲位説という報道の流布自体が、都知事選における野党の候補が一本化され、野党の共闘が実現したという事実を覆い隠すためのものであったと述べる。宇都宮健児氏が下りて、鳥越俊太郎氏が候補となったことには色々な受け止め方があるが、今はそれは本題でないので脇に置いておく。
 

狼狽する安倍一族の野党統一候補攻撃に御用心
2016年7月15日 (金) から一部抜粋

この都知事選で安倍自公勢力は致命的な失敗を犯した。

自公勢力から2名の候補者が出馬してしまった。

対する反・安倍自公勢力は、ぎりぎりまで候補者の一本化が実現するか、不透明だったが、ぎりぎりのところで、宇都宮健児氏が大英断を下し、見事に候補者一本化に成功した。

NHKが天皇の生前退位報道を行ったのは、反・安倍自公陣営が候補者一本化を決定した直後である。

このニュースのインパクトを弱めるために、このタイミングで表に出したのだと推察される。

NHKの堕落、権力迎合は目に余る。

放送受信契約の任意制への移行が急務である。

それほどまでに、野党の候補者一本化の衝撃は大きいはずである。

インターネットの有力ポータルサイトでは都知事選報道の伝え方が偏っている。

ポータルサイトを運営する大手情報通信業者が政治権力側に位置しているから、ニュースを伝える際に徹底した作為的調整を施している。

偏向しているのはマスメディアだけでなく、インターネット上の情報も強く操作されている。

マスメディアが偏向しているから、ネットから情報を入手すれば良いのではない。

ネットのなかから、良質な情報を選別し、そのパイプから情報を得ることを意識して実行することが重要である。


さらに先日、引用したあいば達也氏もやはり生前退位説の情報の出所を疑っており、これは官邸を中心に周到に練られた陰謀のような計画であったとの見方が強いことを指摘している。以下は「 世相を斬る あいば達也」から抜粋。

●天皇”生前退位”発信源は? 天皇側、官邸側、侃々諤々

 
天皇陛下が日本国憲法で「象徴天皇」である立場を強く意識なさっていることは、我々国民も、十二分に理解し、そして、多く人は、今上天皇を尊敬又は愛している点に異議を申し立てる人は少ないだろう。たしかに、象徴天皇になられてから、長い年月が過ぎたので、天皇に対して、何らの感慨も抱かない国民が散見しているのも、事実の一部だろう。ただ、政府や政権、首相を憎むものが数多いるとしても、「今上天皇」を積極的に憎悪する国民は、まず居ないと理解している。1億分の50人くらいは存在するだろうが、ゼロの範囲だ。

今回の、天皇の“生前退位”に関する情報も、関係者は状況証拠の積み重ねで、そのような空気が皇室にあることは薄々知っていた。しかし、それを公にすると云った行動に出るものはいなかった。週刊誌や月刊誌が、皇室のゴシップ的記事や、今上天皇や皇太子ご夫妻へのバッシング的記事は、あちらこちらで散見していた。概ね、潜在的に、現在の皇太子への誹謗中傷を謹言などと称して、悪口を言いはなっている記事などもあった。今上天皇と現皇太子は、憲法に定められた国事行為のみを行い、政治的発言は禁止されている。天皇陛下は、即位後朝見の儀で「日本国憲法を守り、これに従って責務を果たす」と言及した。当然、その後も一貫して憲法上の立場を貫いているいるわけだ。

当然、天皇の地位を受け継ぐ、皇太子も、日本国憲法を守り、これに従うことも継承するわけだから、軽々な態度はとれない。秋篠宮殿下のように、気軽な皇室の立ち位置ではない。つまり、どれ程、誹謗中傷や根も葉もない情報を流されても、「反駁」出来ない立場にいる。考えてみると、日本国民が辛うじて持っている「個人の権利、人権」それすらも、完璧に持っているとは言い難(い)。つまり、反駁権のない人に対して、批判、誹謗や噂話(ゴシップ)を垂れ流すと云うのは、卑怯奇天烈な行為なのである。後半に、参考引用の形で、NEWSポストセブンの記事を二つばかり掲載するが、天皇や皇太子は、叩かれるのみで、避けることさえ出来ない。

安倍政権においては、定められた国事行為でもないのに、2013年4月には、「主権回復の日」なんちゃって式典を、お得意の“閣議決定で”催し、天皇皇后両陛下の出席を無理強いした。あきらかに、安倍政権の天皇の政治利用をまざまざと見せつけられた記憶がある。この式典においては、自然発生なので止めようがなかった等と白々しい言い訳をしながら「天皇陛下万歳」を三唱したのだ。天皇皇后両陛下は、その万歳の声から逃れるように会場後にした。NHKや政府発信の動画では、この陰謀の象徴である「万歳三唱」は消されていた。

筆者は、安倍日本会議及び経済界が「憲法改正」に、殊のほか“前のめりになっている”と理解している。安倍日本会議は情緒的明治回帰であるし、経済界は、経団連、同友会等々、「国民の権利の制限」は大歓迎だ。今回の、籾井NHKがリーク報道したわけだが、「政府関係者、或いは宮内庁関係者」と曖昧な表現になっている。そして、13日、夜19時にNHKがスクープしたことになっているが、14日の朝刊各紙は、予定稿が完璧に準備されており、「予定調和リーク報道」と断定して良いだろう。でなければ、あそこまでの紙面は作れない。新聞記者が、そこまで有能なら、日本の新聞はもっと上等のものになっている(笑)。

NHKのリーク報道が、我々が知る「天皇生前退位」に関する第一報だが、官邸を中心に、念入りに練られ、仕込まれた経緯が窺える。天皇のご意思優先と云うよりも、政権や既得権益勢力の「憲法改正の垣根を低くする」作業の一環と考える方が理に適っている。NHKを皮切りにして、特に、この「天皇生前退位」報道に血道を上げているのが、産経、読売ではなく、日経新聞と云う点だ。葉山の御用邸で静養されている最中に、“天皇陛下生前退位の意向”の大見出しで、1面2面3面ぶち抜きなのだから凄い。これらの報道経緯を見る限り、政府中枢の意向がなければ、安倍強権官邸相手に挑戦的な報道が出来る筈もない。

以上のように論考してゆくと、やはり、政府、経済界、言論界などの既得権益勢力による、「閣議決定集団的自衛権容認」同様に、またまた、血を見ぬクーデターだと、100年後の歴史の教科書に載っているかもしれない。皇位継承と云うもの、極めて属人的なものだけに、常に、その継承には不確定要素が含まれている。事例は宜しくないが、現在の皇太子が雅子妃と死別乃至は離婚なさったとして、次の婚姻で、男子が誕生すれば、秋篠宮、その子が、皇位を継承する企ては胡散霧消する。このような事態を忌避する、何らかの手立てを、安倍日本会議が考えている可能性がある。現時点の解釈では60%の確度だとしか言えない。 (以下略)



さらに、「くろねこの短語」でもこのニュースに対する世間の疑いの声があけっぴろげに綴られている。さらに、この記事では、はっきりと情報の出どころが官邸であったことが公表されていることが指摘されている。
  

「都民の生活を守るために原発必要」(元東電社外取締役・増田寛也)。さすが原子力村推薦候補だけのことはある&ひょっとして、天皇の生前退位と改憲はリンクしている!?

2016年7月15日 (金) から一部抜粋 

 ところで、天皇の生前退位なんだが、どうやら官邸筋がリークしたんじゃないかと噂がある。でもって、6月には極秘のチーム設置して、政府は検討を始めてたそうだ。しかし、なんで極秘だったんだろう。小泉政権時代に女帝を認めるかどうかで、やっぱり皇室典範改正の動きがあった時には、ハナから公に有識者会議なんか開いて、けっこうオーブンに議論してたのに、今回は極秘のチームって、何それってことだ。

 
しかも、官邸筋からのリークってのが胡散臭い。生前退位は天皇自らのご意向と報道されているけど、妄想しまくれば、ひょっとしてその裏には何らかの圧力がありやなしやってなもんです。そもそも、皇室察典範で生前退位が定められていないのは、時の権力による恣意的な退位を回避するためという理由もあると聞く。であるならぱ、今回の騒動が官邸筋からのリークというのも、なんとなくうなずける。つまり、参議選挙で改憲のための3分の2も握ったことだし、平和主義の天皇ご退位の世論を喚起しようって悪知恵働かせた奴がいるんじゃないのかねえ。

 
ようするに、生前退位と改憲がリンクしているような・・・でなけりゃ、政府高官筋ってのが「そんな簡単な話ではない。戦後の議論がすべてひっくり返ることになる」なんて物騒なことをほのめかすわけないと思うのだが・・・真相やいかに

安倍政権が極秘に皇室典範の改正を準備!首相官邸の皇室典範改正準備室が動き出す!「戦後の議論がすべてひっくり返る」


さて、以上で示されているリンクを辿って、日テレNewsの報道を開いてみると、確かに今回の生前退位説の報道は、政府筋(官邸)が準備した上で、政府筋からリークされたものであろうとの見方がほぼ確定的になる。官邸は、安倍首相を中心として、政府内でさえ秘密裏に、皇室典範改正準備室なるものをすでに作っていたのである。しかも、このタイミングになるまで、準備は極秘に進められていたのだということが、堂々と公言されている。
  

政府 極秘に皇室典範の改正を準備
日テレNews24 2016年7月14日 10:49



天皇陛下が「生前退位」の意向を持たれていることが明らかになった一方で、宮内庁や内閣法制局の皇室典範改正準備室の態勢が強化され、法改正などの準備に入っていたことも明らかになった。政府内でも極秘とされ、限られた人しか知らされていなかったという。


(以下はニュース音声から文字起こし全文)


総理官邸の皇室典範改正準備室が 密に必要な法改正などの準備に入っていることが明らかになりました。

政府関係者によりますと、宮内庁や内閣法制局に勤務経験がある10名ほどの官僚から成る皇室典範改正準備室の態勢が強化され、すでに法改正などの準備に入っていたということです。

一方で、この動きは極秘とされ、政府内でも限られた人しか知らされていなかったということです。

政府高官は、皇室典範の改正について、「そんなに簡単な話ではない。戦後の議論がすべてひっくり返ることになる」と述べて、難しい調整になるとの認識を示しています。


このニュースは、伊勢志摩サミットの際に安倍首相が一方的に公言した「世界経済はリーマンショック前に酷似している」との資料の出所が、官僚にさえも明白でなかったように、安倍氏が自らの権力にものを言わせて、事実上の政府内政府を作っていること、つまり、すでに国会も、官僚の大半でさえも、安倍政権の主要な政策決定の蚊帳の外に置かれており、現政権の政治的に極めて重要なイベントのほとんどが、国会での議論を経ず、官僚にも知らされないまま、安倍氏を取り巻くごく一部のブレーン、安倍氏が秘密裏に組織する少数の指導的集団だけに予め知らされ、彼らによってのみ、密室で決定され、残りの官僚や国民には、すべてが決定後に知らされて、それが既成事実化されていくという秘密体制が作られていることを示している。

これは安倍首相による政府内政府の組織、もっと言えば、政府の乗っ取りを示すものであり、皇室典範改正準備室だけでなく、他の事柄についても同様に、安倍氏が事実上の「影の政府」を作って、すべての物事を不透明に国民の目から隠しながら準備を進めていることを意味する。

今回は、一体、天皇の生前退位説の情報源はどこなのか、疑惑が隠しおおせないところまで来てしまったので、ようやく遅ればせながら、情報のリーク元は政府ですよと、政府が自ら名乗り出たわけであるが、それにしても、「極秘に進められて来た」とニュースが公言していることからも分かるように、もはやこのような秘密結社のような非公認の組織が、国の根幹に関わる重大問題を密室で決めようとしていること、官僚までもほとんどが蚊帳の外に置かれ、政府も国会も、政策決定から置き去りにされていることを、安倍氏が隠すつもりさえないことを意味する。

今や安倍氏を取り巻くほんの一部の人間だけが、最も重大な政策を決めており、国会も政府も国民も完全に置き去りで、安倍氏の作った秘密結社のような組織の密室での決定だけが、この国の命運を左右する決定権を持つものであると、官邸は国民の前に公言するまでに至ったのである。

このように公に認可されていない秘密結社のような組織を作り、国民の99%以上を蚊帳の外に置いて、ほんの一部の少数者のみで、密室で物事を決めて行こうというやり方は、現政権の危険な独裁とクーデターの精神を何よりもよく物語る、あまりにも信用ならない卑劣な手段であって、今や安倍氏と同氏の選ぶほんの少数の不明な人間だけが事実上の政府となって暗闇のうちに動いているというのは、大変に、いや、あまりにも恐ろしいことである。
 
今回の天皇の生前退位説によって、安倍政権の秘密決定の手法が、すでに皇室というレベルにまで及んでいることが明らかになった。他は推して知るべしである。このような恐るべき不遜かつ危険かつ不透明な権力の濫用、大胆不敵かつ姑息で傍若無人な振る舞いが許容されてしかるべきなのか、多くの国民は考えなければならない。政府や官僚も、このことに重大な危機感を覚えなければならない。
  
少数のエリートから成る秘密結社のような集団を用いて国全体を牛耳ろうとする手法は、これまでクーデターを企てた革命家とテロリストとカルト宗教に共通して見られたものであり、レーニンは少数精鋭のエリートによって革命が指導されるべきであると唱え、一般労働者大衆を存分に利用して革命を成し遂げながらも、革命成就後も、ボリシェヴィキという名とは裏腹に、常に少数精鋭の指導集団だけが権力を握って、大衆を組織しなければならないと説いた。

さらに、当ブログでその危険性を幾度も訴えて来た統一教会出身の村上密という牧師も、自らの教団の枠組みを超えて、キリスト教界全体の権力を掌握するために、以上の人々と同じ手法を使ったのである。村上牧師は、密という名前が示している通り、教会内人事を密室で動かし、自らに盾突く人間を秘密裏に追放するなど、重要な物事を公の議論を経ずに密室で決定して来た。さらに、カルト監視機構の設立を訴えて、この監視機構に属する少数の専門家集団が、キリスト教界のみならず全宗教界を監視し、上から取り締まることを提唱し、この構想が実現せずに失敗に終わった後も、支持者を組織して秘密裏に同様の組織を作り、インターネット監視などに乗り出して、クリスチャンを自らの統制下に置こうと試みて今日に及んでいるのである。

このように、常に密室で自分の取り巻きや支持者だけを使って秘密裏に物事を決めることによって、人の目に知られない形で権力を自分に集中させて行き、開かれた議論を避けて反対を予め封じ込め、反対者を暗闇で追放し排除しながら、自らの思い通りに物事を暗闇で進めて行こうとするやり方は、多分、統一教会の常套手段なのであろう。村上密氏はそれをキリスト教界に持ち込んだのであるが、現在も統一教会と関わりのある安倍首相は、ちょうど村上密牧師を規模を大きくして宗教から政治の世界に転身させたような人物であり、どちらも統一教会流の危険な思考パターン、独裁と密室での政策決定という手法を共通して保持している様子が伺える。

むろん、こうした秘密決定の手法は、統一教会の専売特許ではなく、すでに書いた通り、それ以前の昔から、テロリストと革命家が既存の政治秩序を転覆させて、権力を掌握するために使って来た常套手段なのである。安倍氏がこれまでに常に用いて来たのは、このクーデターの精神と手法なのであり、今回、政府高官でさえも、「戦後の議論がすべてひっくり返ることになる」と、腰を抜かしているような、天皇の生前譲位説という極めて重要な政策決定についても、安倍氏はこれを自分だけの一存で国民(と政府)をよそに密室で決めようとして来たわけであるから、これは事実上の国の乗っ取りであると言って過言ではない。

こうした情報を受けると、ますますもって今回の生前退位の報道が、天皇自身の本意であるとは信じられない。もし生前退位が今上天皇の意向なのだとすれば、必ず、天皇自身が自ら会見を行うであろう。だが、現時点で、すべてはその逆の方向を向いており、この報道は、天皇陛下が直接、国民に意向を説明するという開かれた形を取るどころか、これまでずっとそれが国民を欺く形で、官邸によって秘密裏に準備され、決定されていたことを明らかにするものなのである。

にも関わらず、これほど信用ならない報道を未だに「安倍政権による改憲を阻止するための天皇陛下の英断」などと言って喜んで受け止めている人々は、まやかしを信じ、叫んでいるのである。国民は、皇室典範の改正という問題を議論するに当たり、安倍氏によってここまで自分たちが裏切られ、蚊帳の外に置かれていたことに憤慨すべきであり、国民だけでなく、政府も、国会も、この密室での決定に大いなる疑惑と不満と抵抗を示すべきである。

安倍首相は、このように全く信用ならない、自身の権力掌握にしか関心がなく、そのためならば、手段を選ばず、嘘にも無法にも何の良心の呵責も覚えない、野望に満ちた人物であるから、天皇陛下に憲法上の立場からこの問題についての発言権がないのを良いことに、天皇自身をも欺いて蚊帳の外に置く形で、今回の報道を準備して来たのであろうとしか考えられない。

こうして、どこまでも自分以外の全ての人間をよそにして、腰巾着のような御用メディアと一部の取り巻き連中だけを走狗として、すべてを秘密裏に、密室で自らの思い通りに進めて行こうというのが安倍氏のやり方なのであり、その手法はこれまで同氏が行って来た解釈改憲も含めた全ての抜け駆け的・違法な政策決定により、すでに十分に明らかになって来た。

今回のことは、そんな安倍氏の独裁が我が国ですでにかなりの程度、進んでおり、もはや皇室までも、安倍氏に乗っ取られようとしていることをはっきりと物語る事実である。御用メディアにはもう抵抗する力はない。それが天木氏が「この国は危うい」と述べている根拠である。

安倍氏とは、一体どこから来た人間なのか、突き止められる必要がある。ただ岸信介の孫としてA級戦犯とされた祖父と自らの血筋の名誉回復のために、敗戦によって敗れた勢力を復権させることを悲願としているというだけでなく、また、統一教会や日本会議を含めたカルト宗教とのつながりだけでなく、安倍氏を動かすイデオロギーそのものが何であるのか、その正体と今後の計画がさらに徹底的に明るみに出されなければならない。 この人物が暗闇で行っていることは、すべて明るみに出されなければならない。破綻しているアベノミクスを推し進めれば我が国は滅亡するというだけではなく、戦争に突き進めば多くの犠牲が出て国土が荒廃するという危険のためだけでもなく、この人物はもっとさらに深く危険な人間であり、その危険性が徹底的に明るみに出されねばならず、このような人物に国民は決して権力を与えてはならないのである。

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宮中クーデターを狙う安倍政権の危険な思惑が垣間見えるような天皇の生前譲位説というデマ

・現政権は、壊憲クーデターだけでなく、宮中クーデターも狙っている? 天皇の生前譲位説という虚偽報道に見る「男系男性天皇」(のみ)を誕生させたい人々の危険な思惑

天皇の生前譲位という、降って湧いたようなニュースが突然、参院選が終了した直後から各メディアを騒がせているが、以下に示すように、それには本当に根拠があるのかどうか、極めて怪しい。むしろ、安倍政権側の人々が、自らの政治イデオロギーにとって好ましくない今上天皇が、自らの悲願である改憲の妨げになっては不都合だとばかりに、御用メディアに命じて譲位を既成事実であるかのように流布したデマの可能性が否定できないように思う。

それに加えて、あいば達也氏が、以下で引用する通り、このニュースには秋篠宮家と深い関わりがありそうだと推察している。筆者もこの点については同じ違和感を覚えている。

安倍政権を動かしているのはクーデターの精神である。彼らは必ず全ての行動において下剋上・秩序転覆を行うし、実際にそうして来た。まず、彼らは最高法規である憲法を尊重しないことによって、憲法遵守義務違反を犯し、自分たちがどんな規定にも縛られることなく、最上位の存在であるかのように振る舞って来た。そして解釈改憲を行って憲法の意味を骨抜きにし、今や、後付けで憲法の都合の悪い部分は全て排除して、これを自分好みに変えてしまおうと画策している。

解釈改憲は、その時点で、すでにクーデターだと言われて来た。こうして彼らは最高法規の意味を徐々に骨抜きにすることによって、憲法に対する自らの度重なる違反を正当化し、国家神道や軍国主義の復活を目指して来たのである。すでに文民統制を覆し、制服組の優位を確立しようとしている。他にも、彼らの秩序の転覆、法律の文言の毀損、意味や説明の捏造、歪曲、「裏口入学」の手口は枚挙に暇がないが、これらすべては戦前回帰のためになされていることであり、歴史を逆行させて、敗戦によってすでに決定的に敗れたはずの勢力を再び復権させて「名誉回復」させようと狙う動きなのである。

こうして、現政権が常に公の秩序・規定を骨抜きにし、ないがしろにして、黒を白とし、白を黒としながら行動して来たのは、ただ単に戦前の財閥の復興などといった目先の目標を超えて、その背後に、グノーシス主義的な反逆の霊に由来する危険な宗教思想があるためである。

グノーシス主義とは秩序転覆の霊であり、その起源は、聖書の御言葉に反して悪魔が人類に吹き込んだ偽りの思想にあるが、この思想の最終目的は、まことの神を追放して、人間を神の座に据えることにあり、それこそが、神に対する人類の究極のクーデターであり、すべての異端思想が共通して目指す最終目的なのである。

すなわち、人類を一致させて神への反逆に駆り立てることにより、天まで届く塔を建設し、自ら神に至ろうというのが、人類の神に対する反逆の思想の本髄なのであり、KFCの分析でも示したように、今やキリスト教でさえすでにこうした反逆の思想の牙城となってしまっている実態がある。ましてや統一教会のようなキリスト教の異端は何をかいわんやである。

いずれにしても、このグノーシス主義という思想は、有史始まって以来、絶え間ないクーデターを引き起こして来た。もともと独自の神話を持つ宗教ではない哲学的思想なので、どんな宗教にでも形を変えて入りこみ、キリスト教にも公然と入りこんで聖書の御言葉を毀損・歪曲し、骨抜きにしながら、聖書の秩序を転倒させてこれを真逆にする悪魔的な秩序をもたらそうと画策して来た。

安倍政権は、創価学会のみならず、統一教会とも深い関わりがあると言われているが、日本会議の支持団体には、キリストの幕屋などを含む、キリスト教の異端団体も数多く名を連ねている。そうである以上、こうした人々がグノーシス主義のクーデターの霊に憑りつかれているというのは、単なる憶測や、杞憂のレベルだとばかりは言えないだろう。

たとえば、『日本会議の研究』で知られる菅野完氏の記述がある。
  

日本会議に集まる宗教団体の面々――シリーズ【草の根保守の蠢動 第3回】
HARBOR BUSINESS Online
2015年03月11日 から抜粋

日本会議本部の役員に名を連ねる宗教団体関係者たち


 日本会議側も宗教団体との関係を特段否定するわけでもない(※1)。WEBに公開されている日本会議の役員名簿(http://www.nipponkaigi.org/about/yakuin)をみてみよう。表1は、この役員名簿を元に、筆者が作成したものだ。

⇒【画像】はこちら http://hbol.jp/?attachment_id=28321


表1:日本会議役員名簿(宗教関係者を筆者が編みかけした)

 この名簿をみると、顧問から事務局長まで、役員総数62名のうち24名が宗教関係者によって占められていることがわかる。役員の三分の一以上が宗教関係者という計算だ。日本会議は極めて宗教色の強い団体であると言えるだろう。

<中略>

日本会議に集まる宗教団体の多様性


 ここで改めて、どのような宗教団体が日本会議に参加しているかを、団体名ベースで見てみよう。表2は日本会議本部の役員名簿や日本会議の地域組織の役員名簿からよみとれる宗教団体を一覧にしたものだ。

⇒【画像】はこちら http://hbol.jp/?attachment_id=28322


表2:日本会議への参加および日本会議内での活動が確認されている宗教団体一覧


 この表でとりわけ目に付くのは、仏所護念会や霊友会など、明治以降に生まれた、いわゆる「新宗教」とよばれる宗教団体の比率の高さだ(※3)。また、神社神道系 教派神道系 新教神道系 仏教系 諸教系と、実にさまざまな宗派にまたがるという点も特徴的といえるだろう。

(以下略)


菅野完氏は、一見バラバラのように見えるこれらの宗教団体の結びつきの原点が、生長の家原理主義にあることを調べ上げている。生長の家原理主義とは、もともとは「生長の家」の谷口雅春の教えを出発点としながら、70年安保で左翼に対抗した右翼民族派・生長の家学生運動の出身者を指す。
 
上記のリストには統一教会は含まれていないようであるが、安倍首相と深い関わりのある統一教会が日本会議と無縁であるはずがなく、さらに生長の家原理主義の学生運動は、思想的には、統一教会の組織する国際勝共連合とも重なるものがあり、ここにリストアップされていないのは、無関係だからではなく、かえって統一教会がこれらの宗教団体の上に立つ指導的存在だからではないかと思われてならない。

こうした宗教団体は、ただ「共産主義の脅威に対抗する右派」という軸によって結び合わされているだけでなく、キリスト教に対抗するグノーシス主義に由来する(多くが新興の)宗教である。グノーシス主義的特徴とは何かと言えば、生長の家がそうであるように、生まれながらの人間を「神」(神の子)に祀り上げ、人間を神聖な存在、すなわち、現人神であるとみなす思想である。つまり、これらの宗教団体はみな「現人神」を信じる信仰という接点を持っていることが挙げられる。

筆者は菅野氏の著書に目を通していないが、苫小牧福音教会 水草牧師のメモ帳の記事に、日本会議に関わる宗教団体の概略が記されているので、そこから引用する。
 

記事「菅野完『日本会議の研究』・・・生長の家原理主義者たちがその中核
2016-05-17 より抜粋

 日本会議なるものの中核が、生長の家原理主義者たちだという事実を克明に世に示したこの本は出版取りやめになるのでしょうか?微妙なところだと思います。とにかく、この実態が知られることは、日本会議にとってはとても不都合なことのようです。
 本書で紹介される中心人物たちが、こちらに紹介されています。

http://joe3taro.com/?p=1327

2.日本会議の組織力・動員力・・・諸宗教団体

 組織ということでいうと、日本会議の組織力・動員力の源泉として、筆者は、通常教えの違いからまとめにくいはずの、もろもろの宗教団体をまとめていることを指摘していました。日本会議が彼らをまとめるキーワードは、<皇室中心、改憲、靖国参拝、愛国教育、自衛隊海外派遣>といったものです。

 日本会議にかかわっている宗教団体のリストには以下の名があります。

神社本庁、伊勢神宮、熱田神宮、靖国神社、明治神宮、岩津天満宮、黒住教、オイスカインターナショナル、大和教団、天台宗、延暦寺、念法真教、仏所護念会教団、霊友会、国柱会、新生儒教教団、キリストの幕屋、崇教真光、解脱会、モラロジー、倫理研究所。・・・おそらく、これらの諸団体の信者たちは、自分たちがこんなにいろんな宗教といっしょに巻き込まれて運動しているのだということを知らないのではないかと思われます。


さて、本題に戻れば、以上のような宗教思想の信者らで8割以上が占められているという現政権とそれを支える宗教勢力が、皇室についても、必ず、自らの統制下に置くことを目指していないはずがない。何しろ、彼らにとっての皇室とは、彼らの政治・宗教的イデオロギーをまさに体現する最も重要な象徴なのである。

だが、その思想的特徴から察するに、彼らは決して現在の皇太子を尊重しないはずである。

おそらく、現政権、特に安倍首相には、皇太子(徳仁親王)を飛び越して、この先、第二皇子である秋篠宮文仁親王にスポットライトを当てようとするプランがあって、今上天皇から直接、第二皇子に皇位継承権を渡すか、もしくは、ゆくゆくは秋篠宮家の男児悠仁親王を天皇の座に据えるという計画を準備しているのではないかという推測さえも生まれる。

仮にその推測を脇に置いたとしても、少なくとも、今上天皇の憲法擁護の姿勢と、平和主義が国民の心に深く訴えかけるので、このような人物が天皇であり続けることは、現政権にとって好ましくなく、改憲(壊憲)の妨げになる可能性があるため、国民投票までには退いてもらいたいという思惑があるのではないかということが容易に推測できる。

そのような思惑があってこそ、天皇の生前譲位説というものがまるで既成事実のように報道されているのではないか。従って、早合点は禁物である。宮内庁がこの報道を全面否定している様子からは、肝心の今上天皇のことばが、何者かによって捏造されて伝えられている可能性をが高い様子が伺える。

しかも、天皇の生前譲位説を報じた第一報がNHKであったというから、ますますその信憑性は怪しまれる。公共放送でありながら、NHKが今回の参院選でも、ほとんど選挙に関する報道を控えていたことはすでに多くの場所で公に指摘され、非難されている(たとえば、ハフィントンポストの記事「参議院選挙への無関心はテレビのせい!?と言えるワケ」投稿日: 2016年07月11日 16時14分 JST   更新: 2016年07月11日 16時45分 JST を参照。)

こうした報道の自粛が誰を利するのかを考えれば、事の次第は一目瞭然であり、投票率が低くなれば助かるのは政権与党であるから、NHKが政権与党の側に利益となるよう便宜を図らって報道を自粛したという推測は免れることができない。そのようなNHKが第一報であるから、天皇の生前譲位というのは、余計に信用できないニュース、いや、ニュースというよりも、誘導記事ではないのかと受け止められる。

以下、宮内庁は新聞雑誌の報道を全面否定しているという朝日新聞のニュース。
 

宮内庁次長は全面否定「報道の事実一切ない」 生前退位

2016年7月13日21時50分

宮内庁の山本信一郎次長は13日夜、NHKが最初に生前退位について報じた後に宮内庁内で報道陣の取材に応じ、「報道されたような事実は一切ない」と述べた。宮内庁として生前退位の検討をしているかについては「その大前提となる(天皇陛下の)お気持ちがないわけだから、検討していません」と語った。さらに「(天皇陛下は)制度的なことについては憲法上のお立場からお話をこれまで差し控えてこられた」とも話した。


さらに時事ドットコムの以下のニュースは、さらに踏み込んで、天皇自身は憲法上の立場から、自分がいつ公務を退くかと言ったことを自分で決断できる権利を有していないのだから、従って、そのような発言を行う理由が存在しないと述べている。今上天皇はいかなる場合も、憲法を尊重し、その規定を超えるような私的解釈に基づく行動を取ってこなかったわけであるから、これは非常に説得力のある説明である。

「そうした事実一切ない」=宮内庁幹部は報道否定-生前退位
時事ドットコムニュース (2016/07/14-02:26)

天皇陛下が天皇の地位を生前に皇太子さまに譲る意向を宮内庁関係者に伝えられたとの報道を受け、同庁の山本信一郎次長は13日夜、報道各社の取材に応じ、「そうした事実は一切ない。陛下は憲法上のお立場から、皇室典範や皇室の制度に関する発言は差し控えてこられた」と否定した。

天皇陛下が生前退位の意向=数年内、周囲に伝える

 午後8時半ごろ庁内で各社の取材に応じた山本次長は、「陛下が生前退位の意向を宮内庁関係者に示されたという報道があったが、そうした事実は一切ない」と繰り返し強調。「長官や侍従長を含め、宮内庁全体でそのようなお話はこれまでなかった」と話した。
 記者からは皇室典範改正の可能性についても質問が飛んだが、「皇室典範や制度にわたる問題については内閣や国会で対応するものだ」とコメントを避けた。静養のため葉山御用邸(神奈川県葉山町)に滞在中の陛下の体調については「お変わりなくお過ごしだ」と説明した。
 深夜に取材に応じた同庁の風岡典之長官も、同様に報道内容を否定。「(皇室の)制度については国会の判断にゆだねられている。陛下がどうすべきだとおっしゃったことは一度もなく、あり得ない話だ」と述べた。


そこで、今上天皇が語らなかった「ことば」が、あたかも天皇のことばのように公に流布されている背景には、今上天皇をできるだけ早く譲位させたいとする人々の思惑が強く働いていることを感じさせられるため、非常に空恐ろしい物騒なものが感じられてならないのである。

さらに、その人々は、今後、一体、誰に皇位継承権を与えようと願っているのか? 

筆者には、それは皇太子ではないように思われてならない。あいば氏が、報道内容が秋篠宮をクローズアップするものであることに注意を払っているのと、全く同じ危惧を筆者も感じている。

すでに述べた通り、安倍政権を動かしているのはクーデターの霊である。従って、彼らは皇位継承手続きをも都合の良いように乗っ取ってしまい、決してしかるべき秩序に基づいて行う気はないのではないかという予感が筆者にある。

特に、これまで敬宮愛子内親王を無視する形で繰り広げられて来た”佳子さまブーム”なるものの奇怪なども合わせると、その予感は強まる。今回の「誤報」もまた、秋篠宮家にスポットライトを当てるための一環ではないかという予測が生まれるのである。
 
つまり、ある人々が、皇太子一家を無視するか、これを飛び越えて、秋篠宮家に国民の注意を向けようとしているのである。何よりも、そこにある意図は、男系男子の皇位継承しか認めたくない人々が、何が何でも女性天皇の誕生を阻止するために、そのような目的での皇室典範の見直しを退けて、敬宮愛子内親王を退けて、悠仁親王を将来的な天皇に担ぎ出したいという決意を以前から固めており、そのために、皇太子を退けて秋篠宮家に国民の関心を移していこうと徐々に画策しているのではないかと見られてならない。悠仁親王はまだ幼く、思想的な立場が固まっておらず、特定の政治勢力が自分に都合よく傀儡に育てようと考えるなら、格好のタイミングであると言えよう。

筆者の考えでは、現政権に関わる人々は、皇室尊重と言いながら、実際には、全く皇室を尊重などしておらず、天皇をただ自らの政治的野望をかなえる手段としか見ていない。

歴史を振り返っても、都合よく操り人形にできそうな人物や、あるいは子供(少年・青年)を形式上だけ国家元首としての天皇の座につけておいて、あとは政治勢力が好き放題、やりたい放題に国を牛耳ろうという考えは、今に始まったものではない。
 
皇太子と秋篠宮との間には、以前から、それなりの確執があったとの報道もあり、また、雅子妃に対する執拗なバッシング報道がずっと続いて来たことを考えても、そこには、将来的な皇位継承権を、敬宮愛子内親王には渡したくないという思惑が、強く働いているのではないか、できる限り、皇位継承権を皇太子一家から遠ざけたいという思惑が実際に存在するのではないかという推測が成立するのである。

それにしても、もし天皇陛下のことばさえも捏造されて報道されているのだとすれば、もはや我が国は乱世のようなものである。一体、現政権は何なのであろうか。安倍氏の「立法府の長」発言もそうであるが、彼は全能の神になり代わったつもりなのであろうか。選挙前には「参院選の争点はアベノミクス」と言って、すでに世界的に破綻が明白となっているアベノミクスを「道半ば」とうそぶいて掲げ、選挙が終わると、「改憲勢力3分の2を得た」と突然、口調を変えて、改憲に突き進む意欲を見せるというのも、現政権ならではの極めて姑息なやり方である。さらに、ここに来て、突然のように、今上天皇の生前譲位説が飛び出して来たのも、彼らがやがて天皇を「神」として国家神道を復活させることへの並々ならぬ決意を、もはや隠し立てなく表明し、皇室さえも牛耳り、自分たち好みの天皇を立てるつもりだという決意を表明したものでなくて何であろうか。ちなみに、今回の選挙も、おそらくは、ムサシという特定の会社が牛耳る開票マシーンによる不正操作の結果であり、まるで民意を反映していないという推測は、随分前から、ネットではほぼ定説となっている。

選挙結果の操作は時代を超えて権力者の常套手段であり、現代にだけは、それが行われないなどと考えるのは、あまりにも子供じみた楽観的な発想である。
 
こうして、参院選でも勝利を得たことにしてしまい、それに勢いを得て、現政権は、自分好みの「国家元首」立ててそれを「神」に祀り上げ、全国民に跪拝を要求するという「悲願」に向けて、道を整え始め、いや、暴走を始めたように見える。それが安倍首相の言う「この道」の意味するところである。

彼の言う「この道」とは、結局、人間に過ぎない者を現人神に祀り上げて、全人類に跪拝を要求しようとする偽りの宗教に他ならない。経済政策などは、ペンテコステ運動の「繁栄の神学」と同じく、人々の関心を掴むためのきっかけに過ぎず、その思想の本質ではない。現政権のイデオロギーの本質は、「救国」すなわち、人間のあらゆる弱点につけこみ、「救済者」に名を借りた人心の完全な掌握と支配を行うこと、すなわち、独裁を打ち立てることにある。
 

 世相を斬る あいば達也 記事天皇の譲位意向報道 籾井NHKの特ダネ“陰謀”の臭いも?から抜粋

●天皇の譲位意向報道 籾井NHKの特ダネ“陰謀”の臭いも?

今夜も、時間がないと云うのに、NHKのすっぱ抜き“特ダネ”のような形で、天皇が生前退位に関して、ご希望を述べられた云々と云う、情報源を「関係者によると」と曖昧にした状態で、日本中、否、世界中を驚かせた。この天皇の地位継承問題は、様々な問題を含んでいるので、ひと口に理解しきれない。今夜は、時間の都合上、嫌に、天皇の生前退位問題に前向きな報道をしているのが、籾井のNHKと産経新聞、日経新聞だと云う事実と、その報道している内容を羅列するにとどめる。


上述の報道機関が、前のめりで報道していると云う点を、先ずは「重視」すべきだ。このNHK、産経新聞、日本経済新聞の三社が酷く積極だ。このことは、酷く重要であり、警戒すべき点だ。安倍政権及び日本会議勢力に取って極めて親和的報道各社であることを、我々は、大前提として、考えるとか、感じる前に、念頭に置くべきである。改憲勢力が、衆参両院の2/3議席を制し、今後は「憲法審査会での議論だ。叩き台は、自民党の壊憲草案だ」と平然と抜かした安倍首相の「改憲願望」と非常に深くリンクしている。そのメカニズムと云うか、陰謀的手順表は,官邸の誰かの胸の内にあるに違いない。

秋篠宮がクローズアツプされている点も注意が必要だ。“佳子さま報道”含め、どこか臭う。現皇太子が存在しないような書きっぷり、秋篠宮へのズームイン、現皇太子の影薄くと云う印象を与える記事になっている。秋篠宮のイデオロギーがどのようなものか、寡聞にして知らないが、今上天皇と現皇太子が、護憲的発言が多く、安倍日本会議勢力にとって、有り難いとか、親和的だとか、到底言えない。以上の素地が、今回のNHKのフライング報道に臭うわけである。朝日新聞だけが、宮内庁がNHK報道を事実無根と否定している件を明確に報じている。

(以下省略)


これから注意が必要なのは、今上天皇を何としても生前に譲位させようというより一層強制的な動きが出て来ないかという点と、皇位継承権を巡るクーデターが起きないかどうか、という点である。
  
現行憲法では、天皇は国民の象徴であって、政治家が自分の傀儡として動かせる駒ではない。しかし、自民党は憲法改正の草案において、天皇を「国家元首」にしようとたくらんでいるわけであり、それが意味するところは、彼らが天皇を自分たちの手先とし、傀儡として操り人形にすることによって、自分たち政治勢力の意のままに、天皇の命令によって戦争を起こし、戒厳令を敷き、多くの国民の生殺与奪の権を握れるような世界を目指しているということである。

そのようなことを目論む人々が、自分たちのプライドを満たし、なおかつ、思い通りにできる傀儡としての天皇を立てようと考えないはずがない。彼らが願っているのは、天皇崇拝という形式を通して、国民から権利を奪い、自分たちが「神」になって指揮権を握ることであり、欲しいものは絶対的な権力、それだけなのである。

さらに彼らにはその宗教思想に基づいてどうしても、自分たちが「神」になるために、血統を転換させてくれる人物が、すなわち、生まれ持った「万世一系」なる幻想の血統が必要なのである。そのために、できるだけ都合の良い人物を天皇に据えたいと願っているだけなのである。

このような「聖なる血統」という幻想は、すでに述べた通り、統一教会(を含む異端思想)に共通するものである。これまで述べて来たように、異端思想には、堕落した人類の「血統」を「神の血統」に転換し、それによって地上天国を成就するための共通する家族モデルがあり、それが、宗教・政治指導者夫妻を「聖なる真の霊的父母」として崇め奉り、これに人々が「子」として連なることによって、全人類を「一つの神聖な霊の家」に帰属させ、一つの家にまとめようというプランなのである。

そのような、生まれながらの人間を現人神とみなして、全人類を一家族とみなしてこれに統合することを最終目的とする忌むべき異端思想の家族モデルは、国家神道に限らず、キリスト教の異端のほぼすべてに共通する特徴である。

それが統一教会では「全人類一家族理想」と呼ばれ、国家神道では「八紘一宇」または「一大家族国家」の理想などと呼ばれ、ペンテコステ・カリスマ運動では「リバイバル」として提唱されているのである。生長の家も、おそらくはこうした概念と無縁ではあるまい。

従って、こうした宗教思想の持ち主は、天皇をただ単に「国家元首」として担ぎ上げ、最高軍事司令官としたいと願っているだけではなく、何よりも、「神の血統」を有する「現人神」として天皇を担ぎ出し、そこにすべての日本国民及び全人類を「子」として帰依させることによって「八紘一宇」を実現することを願っているのである。自分たちが「神々」になるために、「万世一系」などという虚偽を持ち出して、「神の血統」を利用しようとしているのである。

 このような偽りの地上天国の理想は、時代が悪くなればなるほど、より一層、強力に打ち出される。アベノミクスによって日本の国力が落ち、経済がより一層、疲弊・衰退し、国の未来に何一つ明るい材料が見えなくなればなるほど、そのようなまがまがしい幻想の「ユートピア」の理想によって人々を眩惑して、手っ取り早く権力を拡大しようと目論む独裁的政治指導者が現れるのである。

現実が悲惨になればなるほど、大衆は、悪夢のように閉塞した現実から目をそらさせてくれる偽りの「理想」を求め、そこへ麻薬のように逃避しようとする強力な惑わしの力が働く。すでに我が国は滅亡の淵にまで来ているのであるが、それではまだ飽き足りず、その混乱・衰退・弱体化を利用して、独裁を確立し、国民全体を一掃するところまで導かないと気が済まない勢力が存在するのである。その奈落が、「一大家族国家理想」や「八紘一宇」という偽りの幻想の名前で呼ばれているのであって、この地獄をユートピアのごとく夢見る人々は、この先も、自らの幻想(誇大妄想)を達成するための手段として、天皇という存在を、最大限、利用しようとするであろう。

そのようなことを企んでいる勢力に手段を与えてはならない。聖書によれば、人が神に至るための道はただ一つしかなく、それがキリストの十字架なのであり、この方を介さずに、罪深い人間が自力で神の血統に至れるような道は存在しない。人が救われるための唯一の道を否定すると、残るは行き止まりだけなのであり、生まれながらの人間が自己を神とすると、その先に待っているものは破滅以外にはないのである。

「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)


国家神道における異端的家族モデルーキリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動⑩

④ 続き

・神と人との断絶を認めない「和の大精神」とグノーシス主義的原初回帰の類似性

国家神道は、なぜ個人を家や社会や国家や自然環境と切り離せないものとみなし、それを離れての個人というものは「所詮本源を失った抽象論」に過ぎないとして、個人の概念そのものを退けて、個人をより強い存在の一部であるかのようにみなしたのか。

その理由としては、東洋思想においては、神と人との断絶が否定され、「神と人との和」という独特の思想が存在していたことが挙げられる。

キリスト教では、生まれながらの人間は、罪によって堕落しているがゆえに、神から切り離され、キリストの十字架における贖いを信じて受け入れることなくして、神と人との和解は不可能である。従って、信仰のないところでは、神と人とは敵対関係にあり、神と人とのいかなる「和」も存在しない。

しかし、国家神道は、東洋思想を基礎として神というものをとらえるため、キリスト教における「神と人との断絶」という概念そのものを否定する。

「国体の本義」は、東洋思想の「神」とは、キリスト教の神のように、人類を罪に定めたり、(残酷な)処罰によって脅かすような「恐ろしきものではなく」、「西洋の神話」に現れたような、「神による追放」、「処罰」、「厳酷なる制裁」のような、神の側から人類に対する一切の脅かしは存在しないのだと言って胸を張る。

そして、東洋思想においては、西洋思想と異なり、「神と人との間は極めて親密である」から、神と人との間には「一致」や「和合」があり、いかなる断絶も敵意も存在しないと誇らしげに言うのである。

このように、人間を罪に定めたり、脅かすことのない、愛と慈悲に満ちた「神」の概念は、人の耳にはまことに心地よく、都合よく響くであろうが、実際には、以下に示す通り、キリストの贖いの十字架を抜きにして主張される「神と人との和」ほど恐ろしいものはなく、それこそが、最も人間性にも反する様々な歪んだ概念を生み出す源となるのである。
 
 国家神道は、キリスト教における「神と人との断絶」という概念を否定したがゆえに、これを基礎として、天皇と臣民、人と自然、人と家、人と国家、などがすべて「一つの源」から生まれて互いに和合するものであると考え、それを根拠として、人が生まれ落ちた家や国から離脱することを許さず、「子」が「親」に仕え、弱い者が強い者に仕えて、その利益のために自分を犠牲として捧げて生きることを一生の義務とみなし、個人を家や社会や国家といった全体の一部分か、あるいは所有物のようにみなし、それを離れた個人という概念すらも否定するに至ったのである。

そして、このような「和合」を無理やり実現するために、国家神道は、残酷な異論の排除のための装置を生み出さないわけにいかなかったのである。

以下に、以前にも引用した「国体の本義」の「神と人との和」の抜粋をもう一度、挙げておく。そこでは、諸外国と比べて、いかに日本の思想の優れているかということが、嫌になるほど強調されており、その点で、これは自惚れと優越感と競争意識に満ちた醜悪な文章なのであるが、少なくとも、この引用を通して、明らかになるのは、東洋思想が「神と人との断絶はなく、神と人とは和合している」とみなしたことから、その「和」なるものが、人と全ての対象物との関係に無限に適用・拡大されて、「全世界は一つである」という思想を生んだ様子である。

国家神道は、東洋思想を基礎として、「神と人とは和合している」という主張から始まって、これを人と自然、人と人、人とすべての対象物との関係に当てはめ、万物は一つに調和しているという「和の大精神」を説くのである。
  
これはキリスト教の裏返しである。つまり、そこでは、鈴木大拙や、リューサーのような解放神学者が徹底して非難した聖書の「二分性」が完全に否定されて、すべてのものが「一体」であるとみなされ、世界を一元化しようとする試みがなされているのである。
  
東洋思想においては、神は「恐ろしい存在ではない」とされるのと同様、自然も人間にとっては脅威にならない、人間と調和した愛すべきものであるとされる。同様に、親子の関係、個人と家の関係、企業と社員の関係、国民と国家、臣民と天皇との関係といった、すべての関係性にはいかなる断絶もなく、すべてが一つに調和し、溶け合い、和合しているのが我が国の風景である、ということにされてしまうのである。
 
このように、神と人との関係をどうとらえるかによって、人と自然、人と人、人と世界の関係などのがすべてが規定されるのである。国家神道の言う「和の大精神」なるものは、「神と人との断絶」という聖書の二分性を否定したところから生まれて来る、全人類の一致、全世界の一致の思想であると言えよう。
 

国体の本義 
四、和と「まこと」
神と人との和 より抜粋

「更に我が国に於ては、神と人との和が見られる。これを西洋諸国の神人関係と比較する時は、そこに大なる差異を見出す。西洋の神話に現れた、神による追放、神による処罰、厳酷なる制裁の如きは、我が国の語事とは大いに相違するのてあつて、こゝに我が国の神と人との関係と、西洋諸国のそれとの間に大なる差異のあることを知る。このことは我が国の祭祀・祝詞等の中にも明らかに見えてゐるところであつて、我が国に於ては、神は恐しきものではなく、常に冥助を垂れ給ひ、敬愛感謝せられる神であつて、神と人との間は極めて親密である

  又この和は、人と自然との間の最も親しい関係にも見られる。我が国は海に囲まれ、山秀で水清く、春夏秋冬の季節の変化もあつて、他国には見られない美しい自然をなしてゐる。この美しい自然は、神々と共に天ッ神の生み給うたところのものであつて、親しむべきものでこそあれ、恐るべきものではない。そこに自然を愛する国民性が生まれ、人と自然との和が成り立つ。印度の如きは自然に威圧せられてをり、西洋に於ては人が自然を征服してゐる観があつて、我が国の如き人と自然との深い和は見られない。これに対して、我が国民は常に自然と相和してゐる。文芸にもこの自然との和の心を謳つた歌が多く、自然への深い愛は我が詩歌の最も主なる題材である。それは独り文芸の世界に限らず、日常生活に於ても、よく自然と人生とが調和してゐる。公事根源等に見える季節々々による年中行事を見ても、古くから人生と自然との微妙な調和が現れてゐる。年の始の行事はいふに及ばず、三月の雛の節供は自然の春にふさはしい行事であり、重陽の菊の節供も秋を迎へるにふさはしいものである。季節の推移の著しい我が国に於ては、この自然と人生との和は殊に美しく生きてゐる。その外、家紋には多く自然の動植物が用ゐられてをり、服装その他建築・庭園等もよく自然の芙を生かしてゐる。かゝる自然と人との親しい一体の関係も、亦人と自然とが同胞として相親しむ我が国本来の思想から生まれたのである。

  この和の精神は、広く国民生活の上にも実現せられる。我が国に於ては、特有の家族制度の下に親子・夫婦が相倚り相扶けて生活を共にしてゐる。「教育ニ関スル勅語」には「夫婦相和シ」と仰せられてある。而してこの夫婦の和は、やがて「父母ニ孝ニ」と一体に融け合はねばならぬ。即ち家は、親子関係による縦の和と、夫婦兄弟による横の和と相合したる、渾然たる一如一体の和の栄えるところである。

  更に進んで、この和は、如何なる集団生活の間にも実現せられねばならない。役所に勤めるもの、会社に働くもの、皆共々に和の道に従はねばならぬ。夫々の集団には、上に立つものがをり、下に働くものがある。それら各々が分を守ることによつて集団の和は得られる。分を守ることは、夫々の有する位置に於て、定まつた職分を最も忠実につとめることであつて、それによつて上は下に扶けられ、下は上に愛せられ、又同業互に相和して、そこに美しき和が現れ、創造が行はれる。

  このことは、又郷党に於ても国家に於ても同様である。国の和が実現せられるためには、国民各々がその分を竭くし、分を発揚するより外はない。身分の高いもの、低いもの、富んだもの、貧しいもの、朝野・公私その他農工商等、相互に自己に執著して対立をこととせず、一に和を以て本とすべきである。

  要するに我が国に於ては、夫々の立場による意見の対立、利害の相違も、大本を同じうするところより出づる特有の大和によつてよく一となる。すべて葛藤が終局ではなく、和が終局であり、破壊を以て終らず、成就によつて結ばれる。ここに我が国の大精神がある。而して我が国に現れるすべての進歩発展は、皆かくして成される。聖徳太子が憲法十七条に、
  和を以て貴しとなし、忤ふることなきを宗と為す。人皆党有り、亦達れる者少し。是を以て或は君父に順はずして、乍隣里に違ふ。然れども上和ぎ下睦びて、事を論はむに諧ひぬるときには、則ち事理自らに通ず。何等か成らざらむ。
と示し給うたのも、我が国のこの和の大精神を説かせられたものである。」


 当然のことであるが、こうして国家神道が美化し、謳い上げる「和の大精神」は、聖書に照らし合わせれば、事実に反する考えであり、これは何よりも、分離によって人類に死が入りこんだためにすべての二分性を克服して原初的統合を回復せねばならないとするグノーシス主義を思い起こさせる。

実際に、「和の大精神」なる考えの根底にあるのは、神と人との断絶を否定して、すべての関係における分裂を超えて、全世界を一元化したいという欲求である。

そこで、実際、そこで言う「和」なるものは、結局、グノーシス主義の目指す「原初的統合」の呼びかえに過ぎないと言うこともできよう。

しかしながら、このように聖書の「二分性」を一切否定したところに成り立つ「和の大精神」なる一元的世界は、実際には、自然の摂理にも反し、人間性にも反する完全な幻想に過ぎないのである。

こうした美辞麗句が虚偽に過ぎない幻想であったことは、この「和の大精神」のもとでの麗しい一致や和合が、実際には、暴力による弾圧や、強制的な異論の排除によらなければ、到底、実現不可能であったことからも分かるのである。
 



・聖書の二分性に逆らって世界を一元化しようとする試みは必ず異論を排除する暴力装置を生む
 
「国体の本義」がそのように自然で美しいものとして謳い上げる「和を持って貴しとなす」という精神が、具体的に、どのような方法で実現が試みられたのか、今日、我々は誰でも歴史を通して知っている。

国家神道の完成期に定められた悪名高い治安維持法は、この「和」を強制的に成し遂げるために欠かせない暴力装置の一環であった。治安維持法は、「国体の変革」を試みた人間に対する容赦のない弾圧を定めていたが、大正から昭和に変わるとさらに厳罰化が進み、「国体の変革」を試みた者に対しては死刑さえも導入されることになった。
 

治安維持法(旧法)(大正14年法律第46号)
 第一条 国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁固ニ処ス
 2 前項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス

治安維持法(昭和16年法律第54号)
 第一条 国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ七年以上ノ懲役若ハ禁錮ニ処シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ三年以上ノ有期懲役ニ処ス
 第七条 国体ヲ否定シ又ハ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スべキ事項ヲ流布スル事ヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ無期又ハ四年以上ノ懲役ニ処シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ一年以上ノ有期懲役ニ処ス


国家神道が、このような弾圧を通してしか、「和の大精神」を実現できなかった様子を見ても、 そこで唱えられている「神と人との和」から始まって「人とすべてのものとの和」が、しょせん、神話であり、虚偽に過ぎなかったことがよく分かるのである。

国家神道は、神を人間を脅かす恐ろしい存在ではないととらえることによって、我が国は、西洋諸国の陥った二分性の行き詰まりを避けて通れるかのように主張していたわけであるが、実際には、西洋諸国の人間と違って、我が国の人間だけがそうしたことを自然になしうる特別な人間性を備えていたなどということはまずありえない話であった。
 
「国体の本義」が高らかに謳い上げる「神と人との和」、あらゆるものの調和は、実際には、暴力によってしか成立し得ず、維持することもできない、人間性に反する幻の概念に過ぎなかったのである。
 
だが、この「神話」をリアリティと見せかけ、国民を天皇の傘下に一致団結させて、「一家族国家」の理想を成し遂げ、なおかつ、これを全世界にまで押し広げるために、当時の日本政府は、国家神道の理念を否定する者たちをことごとく暴力的に弾圧、排除し、殺したり、処罰したりすることによって、強制的に自ら理想とする「和」を作り出そうとしたのである。

こうして、神というものを、人間を罪に定めたり、処罰したり、追放したり、脅かしたりすることのない「愛と慈悲の神」と定義すると、逆にその「神」の概念を保つために、人間を容赦なく弾圧し、罪に定め、処罰し、追放せざるを得ないというパラドックスが発生するのである。
 
こうした矛盾はすべての異端思想につきものなのであり、だからこそ、「神と人との断絶」を否定する思想は恐ろしいのだと言える。国家神道と全く同じことが、ペンテコステ・カリスマ運動や、共産主義の唱える地上天国の理想にもあてはまった。共産主義思想においては、共産主義ユートピアを実現するためには、階級的を抑圧して滅ぼし、人類を一元化するための抑圧機関としての秘密警察がなくてはならないものとして、理論上、認められていたが、ソ連時代の秘密警察はまさにその理論に忠実に従って作り上げられたものであった。

また、ペンテコステ・カリスマ運動を推進するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、「リバイバル」という地上天国による一致を唱える一方で、カルト監視機構や、カルト被害者救済活動といった、キリスト教界を力によって制圧し、強制力によって一致を作り出すための抑圧機関を提唱せざるを得なかった。
 
つまり、異端思想が目指す全人類の一致という全世界が一元化された地上天国の理想と、これを実現するための暴力・強制力による排除の装置は、コインの両面のように表裏一体なのであり、目に見える地上天国を唱えるすべての運動には、必ず、その半面として、世界を一元管理するための暴力装置、抑圧機関が欠かせないものとして伴うのである。

なぜそうならざるを得ないかと言えば、そのような全人類の調和や一致は、もともと人間性に反する達成不可能な幻想であり、強制力によって異論を排除し、恫喝して反対者を黙らせる以外には、決してあるように見せかけることもできない虚偽だからである。
 
このような偽りの思想、しかも、聖書の神に悪質に敵対するバベルの塔としての全人類の一致を唱える思想という点において、実際には、国家神道も、共産主義思想も、統一教会も、ペンテコステ・カリスマ運動も、基本構造は全て同じだと言えるのである。

これらの思想は、どんなに「神と人との和」や「和の大精神」などの言葉で、「全人類は一つの家族」などといった人類一致の理想を唱えていたとしても、本質的にそれはキリスト教への敵対意識、聖書の神への敵対意識から生まれて来た悪魔的思想なのであり、その幻想に過ぎない全人類の一致という偽りの理想を実現するために、最も反人間的で容赦のない暴力的な弾圧を人間に強いることになるという点でも、実に悪魔的な特徴を持つ思想であり、基本構造が全く同じなのだと言えるのである。



・西洋思想と東洋思想との混合物を作り出すことによってキリスト教を凌駕することを使命とする国家神道

「国体の本義」の提唱する、世界の一元化を目指す「和の大精神」の理想は、キリスト教の二分性にそぐわず、聖書に敵対する思想であることは明白であるが、そうであるがゆえに、「国体の本義」は、自ら唱えている理想は、西洋思想とは根本的に全く異なるものであることを幾度も強調せざるを得なかった。

結局、国家神道とは、まさに鈴木大拙氏が非難したようなキリスト教の「二分性」そのものに対抗するために生まれて来た、聖書に敵対する思想なのである。

以下の抜粋を読めば、国家神道の主張が、鈴木大拙氏の主張とほぼ変わらないものであり、その根底には、西洋思想に対する敵意が流れていることがよく分かるであろう。

「国体の本義」もまた、鈴木大拙氏と同じように、キリスト教の二分性こそが、西洋諸国に個人主義の弊害を生み、世界を行き詰まりに追い込んでいる元凶であるとみなしていた様子が分かる。そして、結局、このようなキリスト教の二分性に基づく西洋的な行き詰まりを打開するためには、西洋思想の欠点を補うことのできる東洋的発想を持ち込んで、西洋思想と東洋思想の混合物である「新日本文化を創造する」ことがぜひとも必要であり、それによって世界文化に貢献することこそ、我が国の使命であると考えていたことが分かるのである。

国家神道は、あからさまに西洋思想を全否定した上で、東洋思想を高く掲げることによって、西洋思想の「行き詰まり」を打開できるとするのではない。むしろ、西洋文化の長所はあくまで長所として学び、取り入れながら、そこに東洋的(日本的)エッセンスを加えることにより、両者を合体した新たな文化を打ち立てようとするのである。

ここに西洋と東洋との思想的混合物を作ることを悲願とする終末のバビロン宗教の一つとしての国家神道のミッションが見えて来る。
 

「国体の本義」、結語、新日本文化の創造、より抜粋

 これを要するに、西洋の学問や思想の長所が分析的・知的であるに対して、東洋の学問・思想は、直観的・行的なることを特色とする。それは民族と歴史との相違から起る必然的傾向であるが、これを我が国の精神・思想並びに生活と比較する時は、尚そこに大なる根本的の差異を認めざるを得ない。

結語、諸般の刷新、より抜粋

 明治以来の我が国の傾向を見るに、或は伝統精神を棄てて全く西洋思想に没入したものがあり、或は歴史的な信念を維持しながら、而も西洋の学術理論に関して十分な批判を加へず、そのまゝこれを踏襲して二元的な思想に陥り、而もこれを意識せざるものがある。

<中略>

 かくの如く、教育・学問・政治・経済等の諸分野に亙つて浸潤してゐる西洋近代思想の帰するところは、結局個人主義である。而して個人主義文化が個人の価値を自覚せしめ、個人能力の発揚を促したことは、その功績といはねばならぬ。併しながら西洋の現実が示す如く、個人主義は、畢竟個人と個人、乃至は階級間の対立を惹起せしめ、国家生活・社会生活の中に幾多の問題と動揺とを醸成せしめる。

 今や西洋に於ても、個人主義を是正するため幾多の運動が現れてゐる。所謂市民的個人主義に対する階級的個人主義たる社会主義・共産主義もこれであり、又国家主養・民族主義たる最近の所謂ファッショ・ナチス等の思想・運動もこれである。

  併し我が国に於て真に個人主義の齎した欠陥を是正し、その行詰りを打開するには、西洋の社会主義乃至抽象的全体主義等をそのまゝ輸入して、その思想・企画等を模倣せんとしたり、或は機械的に西洋文化を排除することを以てしては全く不可能である。


結語、我らの使命、より抜粋

 今や我が国民の使命は、国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献するにある。我が国は夙に支那・印度の文化を輸入し、而もよく独自な創造と発展とをなし遂げた。これ正に我が国体の深遠宏大の致すところであつて、これを承け継ぐ国民の歴史的使命はまことに重大である。

現下国体明徴の声は極めて高いのであるが、それは必ず西洋の思想・文化の醇化を契機としてなさるべきであつて、これなくしては国体の明徴は現実と遊離する抽象的のものとなり易い。即ち西洋思想の摂取醇化と国体の明徴とは相離るべからざる関係にある。

世界文化に対する過去の日本人の態度は、自主的にして而も包容的であつた。我等が世界に貢献することは、たゞ日本人たるの道を弥々発揮することによつてのみなされる。


こうして、「国体の本義」によると、西洋文明の舞台に遅れてやって来た日本が、西洋キリスト教国の行き詰まりを見抜いた上で、これを打開する有効な策を提示することによって世界をリードし、西洋思想と文化の欠点を巧みに補いながら、世界文化に貢献することができるということになり、なおかつ、それが我が国の使命であるとされるのである。

このように、比較的「後進国」である国が、「先進国」の誤りや行き詰まりを飛び越えて、一足飛びに世界の救済者になれるという発想は、ロシアの革命以前の初期の社会主義思想を彷彿とさせるものである。当時、ゲルツェン等の初期の社会主義者らは、帝政ロシアが資本主義においては比較的後進国であるがゆえに、先進諸国の腐敗や堕落を踏襲することなく、これを避けて通りながら、ロシアの農村共同体を神聖な核として一足飛びにユートピアに至りつけるとみなしていたのであった。

国家神道もそれと同じように、日本は西洋文明の優れたところを取り入れ、これに学ばなければならないとしながらも、同時に、キリスト教の二分性を根源とする西洋思想の弊害としての個人主義の行き詰まりを糾弾し、言外に、我が国は東洋思想を基礎としているがゆえに、そのような西洋的行き詰まりを避けて通りながら、一足飛びに、独自の発展形態を辿り、世界をリードすることができると主張して、西洋思想に対する東洋思想の優位を誇るのである。優位性を誇るのみならず、その思想を核として世界を西洋的な行き詰まりから救うという世界救済が可能であるという結論にまで行き着くのである。

しかしながら、このようなメシアニズムの思想は、西洋文明に対する劣等感の裏返しとしての歪んだ選民意識に基づく実現不可能かつお節介で厚かましい一種の誇大妄想のようなものでしかないことに加え、そのように西洋思想と東洋思想との折衷案を作り出すことは、キリスト教の側から見れば、到底、容認できない異端のレシピに他ならない。

なぜなら、それは単に文化や技術だけでなく、「西洋的な神」と「東洋的な神」を混ぜ合わせることによって、思想的・宗教的混合物を作ろうとするのは、明らかにまた新たな異端の発生を意味するからである。

どう考えても、キリスト教の父なる神と、天照大神を互いになじませようというのは、無理な相談である。だから、そのようなことを企てれば、どちらかが排斥されることになるのは間違いない。東洋思想を高く掲げている国家神道が、キリスト教の神に十分な注意を払うことはあり得ない。従って、国家神道が述べている西洋思想の長所を取り入れた上での「新たな日本文化の創造」なるものは、結局、キリスト教の否定に他ならないのであって、それはキリスト教の側から見れば、実現不可能な幻想であるばかりか、キリスト教にまた新たな異端を作り出そうとする冒涜的思想に過ぎないのである。

そして、国家神道の提示する異端作りためのレシピも、何ら新しいものでなく、古くからグノーシス主義によって温められて来た思想の焼き増しに過ぎない。

そこにあるのは、西洋思想と東洋思想を混ぜ合わせることによって、キリスト教の父性原理の二分性に母性原理の受容性を補い、それによって、世界をキリスト教の二分性の抑圧から解放しようという、あの伝統的なレシピである。

国家神道において最高位の「神」とされる天照大神の性別については、議論も存在するようであるが、天照大神は、通説では大抵、女神とみなされている。

東洋思想における「神」の概念が、大抵、母性原理の象徴を指すことを考えても、天照大神は女神とする方が自然である。すでに見て来たように、東洋思想は、万物の根源を父性原理にではなく、母性原理に求める。そして、万物を生み出す根源としての母性原理の象徴を「神秘なる母性」、「母なる混沌」として賛美するのである。

グノーシス主義神話においては、男女の対が完全とみなされることから、「父・母・子」という異端的三位一体が提唱され、真の神は「原父」という男性的属性とみなされてはいるものの、実際には、グノーシス主義神話においては、男性的属性としての神に対して、女性的属性が反逆を企てることが正当化されるストーリーがあるため、実際には、これは母性原理を父性原理よりも高く掲げる思想だ、とみなすことができる。筆者の考えでは、東洋思想における母性崇拝は、まさにこのグノーシス主義神話を基盤として生まれて来たものなのである。

そこで、もし天照大神を通説に従って女神とみなすならば、以上に述べたようなグノーシス主義的特徴が、国家神道にもぴったり当てはまることになる。

つまり、国家神道のミッションとは、キリスト教の父性原理の二分性のために行き詰まりに陥っている西洋思想に、天照大神を最高位とする東洋的な母性原理を補うことによって、世界を西洋文明の行き詰まりから解放してやろうという思想だ、ということになるのである。

たとえ表向きには、「母性原理を補う」などと慎ましげな表現を用いていても、実際にそこにあるのは、聖書の「唯一の神」の否定であり、「父なる神」を押しのけて、「母性原理」をそれ以上に高く掲げようとする思想であり、聖書の神に対する敵対・反逆の思想である。

国家神道の理念も、結局、煎じ詰めれば、「キリスト教の父性原理の二分性の抑圧から世界を解放せねばならない」というおなじみの主張へと行き着く。アジアの諸国を欧米列強の植民地から解放することを名目とした大東亜共栄圏なる概念の根底にも、この歪んだメシアニズムの思想が流れている。つまり、列強植民地支配からの解放という題目をどんなに表向きに唱えていても、その根底にあるのは、キリスト教そのものへの拭いがたい敵意と対抗意識であり、結局、そこにあるのは、解放神学者らと同じ、「キリスト教の二分性の抑圧と支配から全世界を解放することが我らの使命である」という思想なのである。

そのような観点から見ると、「国体の本義」が随所で盛んに西洋思想の弊害であるとあげつらって非難している「個人主義」にも、結局のところ、キリスト教の二分性への敵意が秘められているのだと言える。

それはちょうど解放神学者リューサーが、キリスト教の男女の二元論が、あらゆるものに断絶と疎外をもたらしたと非難したのと同じであり、国家神道が主張しているのも、キリスト教における「神と人との二分性」こそが根源となってバラバラの個人主義が生まれたのであり、西洋思想はこのキリスト教の「欠点」を克服せねばならない、ということに他ならないのである。

西洋諸国における「個人」の概念は、まず、神から切り離された人間の孤独を前提としなければ、決して生まれて来ることのない概念である。まず「神と人との断絶」という聖書の事実があって、そこから、西洋思想における個人という概念が発生するのである。

しかしながら、東洋思想は、神と人との断絶を全く認めないことから、個人を全体の一部とみなし、全体を離れた個人という概念すらも否定することしかできない。そのように聖書の二分性を否定して、世界を一元化してとらえようとする試みは、結局は、「和の大精神」という美辞麗句の下での残酷な異論の排除と、個人の諸権利の否定と抑圧、反人間的な弾圧を生むだけであることはすでに書いた。

だが、国家神道は、何とかして「神と人との断絶」をないものとし、人間が神から排除されているという事実を否定したいのである。そのためにこそ、聖書の神を否定して、そこに東洋的な「愛と慈悲の神」を持ち出すことにより、キリスト教の父性原理の二分性を溶解し、無効化しようと試みるのである。さらには、個人という概念そのものを否定してまで、神と人とは一つであり、人は世界と一つであると主張するのである。

結局、国家神道の目指している目標とは、解放神学や、ペンテコステ・カリスマ運動と同じように、「キリスト教の二元論の抑圧からの全人類の解放」、もっと言えば、「全世界のキリスト教からの解放」だと言って差し支えない。

そこにあるのは、聖書の「父なる神」の否定と、それに対する人類の側からの反逆の試みである。その試みを天照大神を持ち出して来ることによって、また、天皇皇后という「霊の父母」を持ち出すことによって正当化しようとしたのが国家神道だと言えるのである。



・「子」を守る「父」が存在せず、「子」が「母」のために命を捨てることが義務化される東洋的な「母子家庭」としての国家神道の転倒した家族モデル


そのようにしてキリスト教の父性原理の二分性を「欠点」として非難し、「霊の父母」を持ち込むことによって、キリスト教に「父・母・子」の異端的三位一体を築き上げ、それによってキリスト教に母性原理を補い、西洋思想と東洋思想との合体を試みようとする異端思想は、今までに見て来たように、必ず、途中で、「父」に対する「母」の反逆が起こり、結果として「父」を持たない私生児が生まれるだけに終わる。

以前の記事で筆者は、創造(=命を与える行為)は「父なる神」の働きであって、母性原理が単独で命を生み出す力はなく、それにも関わらず、万物の生命の根源を女性原理にあるとみなす考え方は、聖書の秩序を転倒させて、母性原理を創造者に据えることによって、父なる神の権威を否定して、母性崇拝を肯定する聖書に敵対する反逆の思想である、ということを述べた。

フェミニズム神学もそのように聖書の秩序を転倒させるべく生まれて来た思想の一環であり、「母性原理」を万物の生命を生み出す根源として父なる神以上に高く掲げる思想は、どれも最終的には「父なる神」の否定と、その結果としての「母子家庭」と「父なし子」の発生という悲しい結末を生むだけに終わる。

聖書の父なる神は、ご自分の子らを守るために、自ら人類に必要な救済を全て用意された神である。主イエスが、「人の子が来たのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」と言われたように、多くの人々を命にあずからせるために、父なる神はその独り子の命をも惜しむことなくお与えになったのである。

しかし、このまことの命である方を否定して、神による唯一の救済を退けて、人類にとって脅威とならない別の「愛と慈悲の神」を提唱する思想は、必ず、その偽りの神を「救済」するために、信者が命を投げ出すことを要求する残酷なものとならざるを得ない。

そのためにこそ、鈴木大拙氏が述べているように、「父を持たない宗教」である東洋思想の根源には、「(子が)母を守る」という転倒した家族関係が義務づけられているのである。最終的には、「子」が「親」のために犠牲となって死ぬことが、「子」の「親」に対する義務として説かれるのである。

その点で、国家神道も全く例外ではない。
 

第一 大日本国体、三、臣節、忠君愛国 より抜粋

我が国は、天照大神の御子孫であらせられる天皇を中心として成り立つてをり、我等の祖先及び我等は、その生命と流動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。それ故に天皇に奉仕し、天皇の大御心を奉体することは、我等の歴史的生命を今に生かす所以であり、こゝに国民のすべての道徳の根源がある。

 忠は、天皇を中心とし奉り、天皇に絶対随順する道である。絶対随順は、我を捨て私を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。この忠の道を行ずることが我等国民の唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である。されば、天皇の御ために身命を捧げることは、所謂自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。


国家神道において、臣民は天皇の「赤子」であるとされたにも関わらず、その「赤子」である臣民を天皇が守る必要はなく、むしろ、臣民こそが「絶対随順」によって「我を捨て私を去り、ひたすら天皇に奉仕する」ことが、「我等国民の唯一の生きる道」であって、「あらゆる力の源泉」であるとされた。さらには、臣民が「天皇の御ために身命を捧げる」ことこそ、「国民としての真生命を発揚する所以である」とまで説かれたのである。

こうして、臣民が天皇に仕えるために自ら命を捨てることは、「自己犠牲」ではなく、「小我を捨てて大いなる御稜威に生き」ることであるから、断じて「犬死」などではなく、「真生命を発揚する」ことだとして美化されたのである。

一体、母胎の中にいる「赤子」に過ぎないような無力な者が、どうやって「親」を守ることなどできようか。「赤子」こそ守られるべき存在であって、「親」がその生命を絶やさないように注意して見守っていなければ死んでしまうような弱い存在である。

しかし、国家神道においては、上記のような詭弁によって、親子の関係は逆転され、「赤子」が「親」のために命を捨てるよう義務づけられ、「死」に過ぎないものが「真生命の発揚」にすり替えられ、勝ち目のない戦争において、若者を特攻に赴かせるような無謀な犠牲が、連綿と美化されて行ったのである。

むろん、国家神道には、聖書のように復活という概念はないので、天皇のために死ねば「神になれる」という偽りの他、死によって得られる功績など皆無である。

このように、人類に命を与えるために独り子の命を惜しみなくお与えになった聖書の父なる神を退けてまで、人間が勝手に担ぎ出した偽りの神は、人に命を与えるどころか、我が身の保身のために、臣民の命を大量に奪うことしかできなかった。もし本当に万物の生命の根源が「神秘なる母性」にあるのだとしたら、どうして天照大神の子孫である者が、臣民の命を奪うことによってしか、己を存続できない理由があろうか。一体、神を救済するために、信者が犠牲になって死ななければならないような転倒した思想において、「我等の祖先及び我等は、その生命と流動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。」という文句の根拠は、どこに求められるのであろうか。

このことは、結局、神でないものを神とすれば、その偽りの神のために、人は己の命を無駄に奪われる結果にしか至らないことをよく物語っている。まことの神は人に命を与えるが、異端の神は命を奪うのである。そのようにして、万物の生命の源がどこにあるのか、創造の力を持つ者とは誰なのかという問題の答えが逆説的に証明され続けているのだと言えよう。

こうして、親の名誉のために子が犠牲となって死ななければならず、偽りの「神」の「救済」ために「信者」が絶えず生贄に捧げられるしかないという転倒した世界が、「父なる神」を持たない「母子家庭」としての宗教である東洋思想においては連綿と広がっている。そのようなものが果たして「愛と慈悲の神」であろうはずもなく、そんな「神」と運命共同体にされることは、人間にとって不幸以外の何物でもないのだが、このような思想を信奉している人々には、「愛と赦しと受容」という優しい仮面の裏側に隠された偽りの神の残酷さが分からないのである。

国家神道も、東洋思想の系列に属していればこそ、あれほどおびただしい犠牲を人類に当然のごとく要求したのであり、それが鈴木大拙氏が「母を守る」という言葉で美化する東洋的世界観の実態なのである。

<続く>


国家神道における異端的家族モデルーキリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動⑨

④ 戦前の国家神道における天皇・皇后を「真の父母」として国民がその「赤子」となって従う「一大家族国家」という異端的理想
 

さて、前の記事では、統一教会や、プロテスタントの牧師であり、カリスマ運動指導者である手束正昭氏の提唱する教会成長論に見られるような、「父・母・子」という異端的な三位一体の解釈に基づいて、宗教指導者夫妻を「霊の父母」、信者を「子」とみなして、「一つの霊の家族」に連なる信者の家庭を地上で増やすことにより、やがて全人類を「一つの霊の家族」に結び付けて、地上天国が成就されるとみなす考えが、根本的にグノーシス主義に由来する異端であることを確認した。

このように、「父・母・子」という異端的三位一体論を基礎として、目に見える形で地上天国を成就しようという考えは、異端思想の基本理念であると言える。その点で、ペンテコステ・カリスマ運動の目指す「リバイバル」と、統一教会の目指す「全人類一家族理想」とは、名称が異なっていても、ともに異端思想の最終目的としての一つの霊の家族から成る地上天国を目指している点で、根本的に同一なのである。

むろん、異端思想の全てはキリスト教を換骨奪胎してできる疑似キリスト教なのであり、そこで唱えられる地上天国の理想も、聖書における神の国の模倣である。聖書における神の国は、人の目で見られるような形で来るものではないが、異端思想は一様に、これを目に見える地上天国という形に置き換える。

また、聖書においてはキリストによって生まれた兄弟姉妹は神の家族であり、「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。」(Ⅰペテロ2:5)とあるように、霊の家の建造というアイディアが存在するが、異端思想も「一つの神の家」という聖書のアイディアを模倣する。そして、聖書における神の家はキリストのみを土台として築き上げられるものであるが、異端思想はそこにキリスト以外のもの――「霊の父母」――などを持って来て、これを基礎に「一つの霊の家」を築き上げようとするのである。
  
さて、こ
こからは、戦前の日本の国家神道においても、上記の統一教会やペンテコステ・カリスマ運動に見るのとほぼ同様の異端的家族モデルに基づく地上天国の夢が提唱されていたことを振り返りたい。

国家神道においては、天皇を現人神として、万世一系」という「神の血統」を持つ「霊の父母」である天皇・皇后を頂点に、日本国民全体がその「赤子」となって天皇に仕えることで、「一大家族国家」を築き上げ、天皇皇后の「永遠の統治」を確立するという「聖旨」の大義を成し遂げることにあるとされた。

つまり、当時、国家神道のイデオロギーに基づき、日本という国全体が「一家族国家」という異端的家族モデルの理想を成就するための母体(実験場)とされたのである。また、その「一家族理想」のモデルは「八紘一宇」の名で、国境を超えて、全世界にまで適用されるべきと概念が押し広げられた。その点でも、これはまさにあらゆる異端思想に共通する事実上の地上天国の夢であった。

すでに幾度か引用して来た「国体の本義」にはこうある。
 

文部省、「国体の本義」、
第一 大日本國體、一、肇國より抜粋

「大日本帝國は、萬世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が萬古不易の國體である。而してこの大義に基づき、一大家族國家として億兆一心聖旨を奉體して、克く忠孝の美徳を発揮する。」
第一 大日本国体、二、聖徳、愛民 より抜粋

 天皇の、億兆に限りなき愛撫を垂れさせ給ふ御事蹟は、国史を通じて常にうかがはれる。畏くも天皇は、臣民を「おほみたから」とし、赤子と思召されて愛護し給ひ、その協翼に倚藉して皇猷を恢弘せんと思召されるのである。


 
一大家族国家」という名称は、それ自体が、統一教会の唱える「全人類一家族理想」とほとんど変わらない。そして「八紘一宇」も、全世界を一つの家とみなす思想であるから、これもまさに「全人類一家族理想」の呼び変えと言って差し支えない。結局、それは「現人神」である天皇皇后を「霊の父母」として、その下に全人類が「一つの霊の家族」として結び合わされることによって、地上天国が成し遂げられるという理念を指すのである。
 

Wikipediaによると、「八紘」とは「8つの方位」「天地を結ぶ8本の綱」を意味する語であり、これが転じて「世界」を意味すると解釈される。
また、「一宇」とは、「一つ」の「家の屋根」を意味している。
そこで、結局、「八紘一宇」とは、「世界は一つの家である」という理念を意味する。


 



・一大家族国家の理想を成就するための「家の生活」における「子が親に仕え、家を守る」という転倒した家族モデル


さて、「国体の本義」では、天皇の「赤子」たる国民の「」というものが、「一大家族国家」という地上天国の理想を実現するための重要拠点とみなされていた。

このことも、宗教指導者夫妻を「霊の父母」として崇める「子」としての信者の家庭を地上で増やすことが、全人類を一つの霊の家に結びつけて、地上天国を成就する最も有効な手段であるとみなす統一教会やペンテコステ・カリスマ運動の理念とも基本的に合致する。

そして、国民生活の基本となる「家の生活」とは、夫婦や兄弟といった横(平面)の関係ではなく、「生み生まれるといふ自然の関係」という、「親子の立体的関係」という縦の関係を中心とするものでなければならないとされた。

つまり、そこでは、「生み生まれるという」肉によって築かれる親子の縦の関係が、一生涯、動かすことのできない絶対的で神聖な序列のようにみなされ、肉によって築かれた生まれながらの親子関係が、個人が自らの意志によって選んだ夫婦や、横の関係である兄弟の関係よりも重視されたのである。
 

「国体の本義」、第一 大日本国体 三、臣節 より抜粋

我が国民の生活の基本は、西洋の如く個人でもなければ夫婦でもない。それはである。家の生活は、夫婦兄弟の如き平面的関係だけではなく、その根幹となるものは、親子の立体的関係である。この親子の関係を本として近親相倚り相扶けて一団となり、我が国体に則とつて家長の下に渾然融合したものが、即ち我が国の家である。従つて家は固より利益を本として集つた団体でもなく、又個人的相対的の愛などが本となつてつくられたものでもない。生み生まれるといふ自然の関係を本とし、敬慕と慈愛とを中心とするのであつて、すべての人が、先づその生まれ落ちると共に一切の運命を託するところである。

 我が国の家の生活は、現在の親子一家の生活に尽きるのではなく、遠き祖先に始り、永遠に子孫によつて継続せられる。現在の家の生活は、過去と未来とをつなぐものであつて、祖先の志を継承発展させると同時に、これを子孫に伝へる。古来我が国に於て、家名が尊重せられた理由もこゝにある。家名は祖先以来築かれた家の名誉であつて、それを汚すことは、単なる個人の汚辱であるばかりでなく、一連の過去現在及び未来の家門の恥辱と考へられる。従つて武士が戦場に出た場合の名乗の如きは、その祖先を語り、祖先の功業を語ることによつて、名誉ある家の名を辱しめないやうに、勇敢に戦ふことを誓ふ意味のものである。」


一体、この「家」の生活とは具体的にどのようなものなのかを説明するにあたり、「国体の本義」が、早速、「家の名誉」を守るという抽象論に没入していることにも注意が必要である。

つまり、「国体の本義」における「家の生活」とは、赤ん坊や、子どもたちや、弱い者たちを、強い大人たちが守り、支え、養い、育てるための場所ではないのである。その「家の生活」において、最も重視されているのは、生きた人間の安全や幸福よりも、「家の名誉を守る」という抽象概念である。しかも、それは「子孫が先祖に仕え、子が親に仕える」という、転倒した家族関係の中で成し遂げられるというのである。

つまり、国家神道における「」においては、先祖崇拝を盾にとって、「子孫」が「先祖」に仕え、「子」らが「親」を仕え、弱い者が強い者の名誉を立て上げる道具となることこそ、義務であるとされたのである。

国家神道は、人間を守るために家があるのではなく、家を守るために人間がいるとみなした。そして、一家のメンバーの存在意義は、「家」という集団の名誉を立て上げることにあるとし、しかも最も弱い者に最も重い義務を負わせる形で、家の名誉が脅かされる時には、先祖から伝わった家名を守るために、子孫は立ち上がって我が身を投げ出して勇敢に戦わなければならないと言う。

先祖代々から伝わる「」という集団の名誉が脅かされる時には、家族の成員は、我が身を犠牲にしてでも、「家を守る」ために積極的に戦うべきという精神が「」という名で呼ばれて、先祖に対する子孫の義務、親に対する子の義務とされるだけでなく、そのような精神を土台にして、「臣民が天皇に仕え、天皇のために我が身を犠牲にする」という「忠君愛国」が国民の義務として説かれるのである。

国家神道においては、親子の感情的・情緒的な結びつきは「慈愛」や「敬慕」などの言葉で美化される一方で、強い者(親)たちには弱い者(子)らを守り、保護する義務があり、同様に、権力者には国民を守る義務がある、ということは全く言及されることもない。

本来、家とは、親が子を守り、育てなければ機能もしないわけで、自力では生きられないような弱い子供たちや赤ん坊に親に仕え、家を守れと言っても、無理な相談である。そのような要求をすると、当然のごとく、家の中で最も弱い立場にある者たちに大変な犠牲が強いられることになり、家の健全な機能が失われ、「子」らの成長はなくなってしまう。

だが、このように、「弱い者(子)が強い者(親)に仕え、弱い者が強い者を守る」という弱肉強食の転倒した家族モデルは、これまで見て来たすべての異端思想の家族モデルにほぼ共通する思想である。

異端思想は、自力では生きる術もないような弱い者たちが、強い者たちを支え、守る義務について、いやというほど強調しながら、強い者たちには彼らを保護する義務があることには触れない。そして、強い者たちの名誉と利益のために弱い者たちが命を捨てることさえ、当然のごとく要求し、奨励する。だから、必然的に、それは健全な家族関係を壊し、「家」を搾取と弱肉強食の場へと変えてしまうのである。


記事「クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(1)」でも見たように、カリスマ運動を率いる手束正昭氏は、自らの著書において、教会を成長させるためには、「子」である信徒らが、「霊の父母」たる牧師夫妻の威厳を守るために、率先して教会内雑用を引き受け、牧師に代わって憎まれ役に徹し、泥をかぶるべきと主張していた。

また、記事「異端の教えは必ず子供を犠牲にする~吉祥寺キリスト集会の事例 リンデはなぜ亡くなったのか~」でも示した通り、この種の弱肉強食の転倒した異端的家族モデルの影響を受けると、結局、親の名誉を守るために、子供や若者が自らを率先して犠牲に捧げて死んで行くという現象が起きる。さらに、その痛ましい犠牲を美談として讃えるという異常極まりない現象が後に続くことになる。


むろん、聖書には、このように「弱い者が強い者に仕えるべき」という考え方は存在しない。聖書における家族の秩序は、弱肉強食の精神とは全く逆であり、強い者こそ、弱い者を守り、強い者こそ、弱い者のために仕えて生きるべき、というものである。

パウロは書いている、「子は親のためにたくわえる必要はなく、親が子のためにたくわえるべきです。」(Ⅱコリント12:14)

このように、「強い者こそ、弱い者を守るために蓄え、弱い者を守るために、我が身を犠牲にして投げ出すべき」――という模範を、誰よりも率先して、実行に移されたのが、聖書の神ご自身であったと言える。

世祖の父なる神は愛する独り子を地上に送って、人類のための贖いの代価としてその命を与えられることによって、人類のために自ら救済を完成されたのである。御子は、人々に仕えられるためではなく、自ら仕えるために地上に来られた。そして、信者たちもそれにならって、自らの強さにより頼んで弱い者の上に権力を振るわず、率先して仕える者となるようにと言われた。

「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタイ20:25-28)

聖書においては、「生み生まれるといふ自然の関係」、「親子の立体的関係」の意義は、地上にキリストが来られた時に終わっており、それ以後、最も重要なのは、肉によって築かれた信者の地上の生まれながらの親子関係ではなく、父なる神と、神の子供としての信者の霊的親子関係である。

聖書においては、親孝行は否定されてはいないものの、同時に、キリストが十字架の死に赴かれたことによって、アダム系列の「生み生まれる」という肉による関係の価値は、永遠に無価値なものとして廃棄されたのであって、信者の地上の「生み生まれるという縦の関係」が絶対化されるということはない。
 
今や信者にとって最も重要なのは、地上で誰を親として生まれたかという生まれながらの縦の関係ではなく、「水と霊によって上から生まれる」こと、すなわち、地上の出自によらず、キリストにある新創造として生きることである。
 
さらに、そこでは、信者にとって真の「父」は天におられるただお一人の神であり、その他にいかなる「霊の父母」も存在しない。神と人との間には、キリスト以外の仲介者は存在しない。

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」(Ⅰテモテ2:5-6)

「イエスは答えられた。「まことにまことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。」(ヨハネ3:5-7)

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)
 
だが、異端思想はこれらすべての聖書の秩序を覆して真逆のものに変え、生まれながらの肉なる関係を神聖なものとみなして絶対化し、しかも、子が親に仕え、子が親を守るべきと、親子の秩序をも転倒させて、キリスト以外の「霊の父母」を持ち出して来ることによって、偽りの「霊の家族」を築くのである。



・人を永久に「赤子」のままにとどめ、、「子」が「親」を離れ、「家」を離脱することを許さない思想

また、聖書においては、創世記において「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、二人は一体となるのである。」(創世記2章24節)という夫婦のモデルが提唱されているように、子がいつまでも子のままで親から自立せず、親に仕えて生きることを奨励する記述はどこにもない。

むろん、この記述は、何よりも、キリストと教会の結婚の予表であるのだが、いずれにせよ、信仰面においても、実生活においても、子が成長して一人の独立した人間となって、生家を離れ、自らの意志によってパートナーを見つけ、新しい家庭を築くというのが、聖書的家族モデルだと言える。

いつまでも人が精神的に「嬰児」のまま、「生み生まれるという親子の立体関係」に従属し、死ぬまで自分を生んだ父母(と先祖)の名誉を守るために犠牲となって生きよ、という教えは聖書にはない。

信仰において、人はいつまでも子供のままでいてはならない、と聖書は言う。それは信者がものの考え方において生長して、誰にも頼ることなく、独立して一人前の判断力・識別力を持った成熟した人間にならなければならないからである。

パウロは書いている、「兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼な子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。」(Ⅰコリント14:20)

「私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。」(コロサイ1:28)

「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により教えの風に吹き回されてたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」(エペソ4:12-15)

ところが、異端思想は、人が「その父と母を離れ」ることを決して認めない。「国体の本義」が唱えているように、人が生まれ落ちた家から決して離脱できないようにさせて、子を親の従属物のように貶めるだけでなく、精神的にも、「霊の父母」の支配下にからめとることによって、決して人を「成人」に生長させないのである。

すべての異端思想の原則は、信者をいつまでも目に見える指導者という「霊の父母」に依存させて、永久に「子」として半人前の状態にとどめ置き、決して「霊の父母」から自立することを許さないばかりか、いつまでも物の考え方において未熟な「子ども」であって、一人前の自己決定権を持つ「成人」には達しないようにと生長を妨げるのである。

離脱を許さない「家」の生活においては、信者は永久に「霊の親」から自立できず、一人前の判断力も識別力も養うことができず、いつまでも嬰児のごとく半人前とみなされ、指導者と一蓮托生で人生を送らねばならない。

そのような家族モデルは、もともと家族関係と呼ばれるにもふさわしくない転倒した関係であり、搾取と癒着の構図と呼ぶしかないのだが、国家神道においては、そのような転倒した癒着・支配関係の下にある「家」というものが、「すべての人が、先づその生まれ落ちると共に一切の運命を託するところである。」とされて、生まれ落ちた以上、そのしがらみから抜け出る選択肢は個人にはないものとされるのである。

これと同様に、「国」というものも絶対化され、この国に生まれ落ちた以上、臣民は「生まれながらにして天皇に奉仕し、皇国の道を行ずるものであ」るとされ、臣民(子)が天皇(親)に仕える義務は一生のものであり、そこから抜け出る選択肢や自由は、個人には事実上ないものとされた。


 
・全人類を「現人神」である天皇に帰依させることによって「神の血統」に転換し、世界救済を目指すという国家神道の歪んだメシアニズムの思想

そもそも国家神道では、個人というものが、家や、社会や、国家などに所属して初めて意味をなすパーツに過ぎないもののようにみなされ、生まれ落ちた家や国や歴史を離れての個人という概念は、幻のような抽象概念、「所詮本源を失った抽象論」に過ぎないものとして完全に退けられた。
 

第一 大日本国体、三、臣節、忠君愛国 より抜粋

個人は、その発生の根本たる国家・歴史に連なる存在であつて、本来それと一体をなしてゐる。然るにこの一体より個人のみを抽象し、この抽象せられた個人を基本として、逆に国家を考へ又道徳を立てても、それは所詮本源を失つた抽象論に終るの外はない。」

このような状況では、いわば、個人という概念そのものが存在していないに等しく、そのような中で、個人の自立、自由、大人としての精神的成熟、自己決定権、などの概念が考慮されるはずもなかった。

このように個人というものを否定して、独立した個人という概念を認めず、個人をより強い何者かの関係と常に一体とみなし、まるでその従属物であるかのように、強者との関係性においてしかとらえることができないという盲目性は、上記したような誤った親子関係という家族モデルだけでなく、誤った神と人との概念から発生して来るものでもあった。

「国体の本義」においては、日本における天皇と臣民の関係が、いかに西洋諸国と異なっているかということが繰り返し強調される。

西洋諸国においては、君主と人民の関係は絶対的なものではなく、人民を虐げる君主が追放されたり、人民が自ら君主を選ぶということも起きる。しかし、そのようなことは、我が国では決して起こり得ない、とされた。なぜなら、我が国の「国体」においては、天皇と臣民の関係は、生まれながらにして与えられるものであり、さらに、天皇の権威は「神」に由来するものであって、人民の選びにあるのではないので、従って、その関係が変更されたり撤廃されたりすることはなく、しかも、天皇は臣民の発展と幸福のために存在するのではなく、臣民を守ることが天皇の義務なのでもない、と言うのである。
 

第一 大日本国体、三、臣節、臣民 より抜粋

「臣民の道は、皇孫瓊瓊杵ノ尊の降臨し給へる当時、多くの神々が奉仕せられた精神をそのまゝに、億兆心を一にして天皇に仕へ奉るところにある。即ち我等は、生まれながらにして天皇に奉仕し、皇国の道を行ずるものであつて、我等臣民のかゝる本質を有することは、全く自然に出づるのである。

 我等臣民は、西洋諸国に於ける所謂人民と全くその本性を異にしてゐる。君民の関係は、君主と対立する人民とか、人民先づあつて、その人民の発展のため幸福のために、君主を定めるといふが如き関係ではない。然るに往々にして、この臣民の本質を謬り、或は所謂人民と同視し、或は少くともその間に明確な相違あることを明らかにし得ないもののあるのは、これ、我が国体の本義に関し透徹した見解を欠き、外国の国家学説を曖昧な理解の下に混同して来るがためである。」


一体、なぜそこまで天皇と臣民との関係が絶対的かつ不可分のものとされ、個人と国家の関係が切り離せないものとして絶対視されたのか、その根拠となるのは、天皇と臣民は共に「一つの根源」から生まれて来たという思想である。
 

第一 大日本国体、三、臣節、臣民 より抜粋

「然るに我が天皇と臣民との関係は、一つの根源より生まれ、肇国以来一体となつて栄えて来たものである。これ即ち我が国の大道であり、従つて我が臣民の道の根本をなすものであつて、外国とは全くその撰を異にする。固より外国と雖も、君主と人民との間には夫々の歴史があり、これに伴ふ情義がある。併しながら肇国の初より、自然と人とを一にして自らなる一体の道を現じ、これによつて弥々栄えて来た我が国の如きは、決してその例を外国に求めることは出来ない。こゝに世界無比の我が国体があるのであつて、我が臣民のすべての道はこの国体を本として始めて存し、忠孝の道も亦固よりこれに基づく。」

ここで言う「一つの根源」とは、要するに「神の血統」を指す。
  
第一 大日本国体、三、臣節、忠君愛国 より抜粋

我が国は、天照大神の御子孫であらせられる天皇を中心として成り立つてをり、我等の祖先及び我等は、その生命と流動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。それ故に天皇に奉仕し、天皇の大御心を奉体することは、我等の歴史的生命を今に生かす所以であり、こゝに国民のすべての道徳の根源がある。


このことから、なぜ「生み生まれるという親子の立体関係」が国家神道においては、ほとんど絶対視されていたのかが、説明がつくであろう。臣民と天皇の関係を含め、地上の「親子関係」は、「神の血統」を受け継ぐものと理解されていたからである。

このような発想は、文鮮明を再臨のキリストとみなし、文鮮明夫妻を「霊の父母」とみなして、信者が彼らに「子」として連なることによって、信者が堕落したアダムの血筋から救われて「神の血統」に転換できるとしていた統一教会の教えにそっくりである。

つまり、国家神道は、天皇皇后を「霊の父母」とみなして、全人類をこの「神の血統」に転換させることによって、世界救済を成し遂げようというメシアニズムの思想に他ならないことがそこから分かるのである。

また、それは牧師夫妻を「霊の父母」とみなしてそれに信者が「子」として連なることによって、地上に「リバイバル」が成就すると主張するペンテコステ・カリスマ運動とも全く同型の異端的家族モデルである。

統一教会が文鮮明を再臨のキリストとみなし、信者がこの宗教指導者を現人神として崇めるのと同じように、国家神道は、天皇を天照大神の子孫とみなすことで、天皇を事実上の神(救済者)とみなし、天皇に「子」として帰依する「信者」を増やすことによって、「神の血統」に属する家庭を地上に増やし、そうして「一つの根源」に連なる「霊の家族」を「一大家族国家」として日本全体に普及させるだけでなく、「八紘一宇」のスローガンの下、これを全世界にまで押し広げることによって、全世界を天皇を中心とする「神の血統」に転換して「救済」しようとする世界救済のメシアニズムの思想であったことが分かるのである。

むろん、当時の国家神道は、自らを宗教であるとみなしていなかったので、世界救済などといった用語を持ち出して、そのミッションを公に語ることはなかったが、実際に主張していた内容から判断すれば、それはまさに世界救済の思想に他ならないことが明白なのである。

つまり、国家神道における「国体」とは、そうしたメシアニズムの思想を使命として持ちながら、世界を「神の血統」に塗り替えて行くための核としての役割を担うものだったのであり、それがゆえに「世界に無比なるもの」として賞賛され、神聖視されたのであり、その世界救済の使命こそが、帝国植民地支配からの解放という名目で、当時の日本の世界征服の野望を正当化し、果てしない軍事侵略、軍国主義化を促す根拠となって行ったのである。

村上重良氏の著書『国家神道』においては、日清、日露戦争の時期にはすでに「国体の教義」の中心には、「神の血統」を持つという「世界に無比なる国体」を基礎とする「神国日本」が、「全世界を指導する聖なる使命意識」を持つというメシアニズムの思想があった様子が記されている。その「聖なる使命意識」こそ、日本の軍国主義の強化を思想的に美化・正当化し、侵略戦争を「聖戦」として美化し、正当化する根拠となっていったのである。
 

国体の教義の中心には、世界における「神国日本」の絶対の優位性の主張と、全世界を指導する聖なる使命意識があり、天皇の名による戦争は、無条件に聖戦として美化された。」(『国家神道』、村上重良著、岩波書店、1970年、p.144)

つまり、当時の国家神道は、「我が国は、天照大神の御子孫であらせられる天皇を中心として成り立つてをり」、「開国の初めより、自然と人とを一つにして自ずからなる一体の道を現じ」て来たという神話を根拠にして、日本には事実上、「神に至る聖なる血統」を有する「世界に無比なる国体」があるとみなし、それゆえ、日本は「世界救済」という使命を負うにふさわしい神聖な核となりうる存在であり、この神聖な核を(侵略戦争を通して)全世界に押し広げて行くことによって、事実上、全世界を救済できると主張していたに等しいのである。

<続く>

異端思想に共通する地上天国建設のための家族モデルーキリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動⑤

ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。」(マタイ24:38)

「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)

「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師は、ただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、すなわち、キリストだからです。」(マタイ23:8-10)

「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
人の子が来たのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。
」(マタイ20:25-28)

不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」(黙示22:11)

 



10.宗教指導者を「霊の父母」とし、これに絶対的に帰依する信者の家庭を増加させることで、地上天国を成就させることを目指す思想は異端である


さて、この論稿は、前の記事の続きとして、信者の家庭をエクレシア建設の単位とみなし、地上でクリスチャン家庭を増やすことにより、神の国が招致されるとする思想が根本的に誤っていることを、各種の異端思想と比較して明らかにすることを目的としている。

だが、同時にこのテーマは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師にとっての家族モデルとは何なのかを明らかにする目的で筆者が追究し始めたものでもあるため、まずはそこから話題を開始して行きたい。


・「霊の父母」を作ることにより、縦の関係を絶対化する偽りの教え

 
カルト被害者救済活動を率いるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師は、約十四前、同教団に属していた鳴尾教会において、当時の鳴尾教会の主監者であり、自らの義理の父であった津村昭二郎牧師と協力して、津村氏の後継者と目されていた伝道師夫妻を教会から追放した。(この事件については記事「村上密牧師による鳴尾教会への不当な介入問題 まとめ」を参照。)

伝道師夫妻の異動は、一見、彼らが自主的に異動届を出した結果であるかのように見せかけられていたが、実際には、その裏に村上氏と津村氏からの伝道師に対する圧力があったことが、後に教団が公にした伝道師らの書簡によって判明した。そのため、鳴尾信徒らの間には、教団と津村氏・村上氏に対する根強い不信感と疑惑が生まれ、これが、鳴尾教会に長く続く混乱をもたらす原因となった。

しかし、教団は津村氏と村上氏をかばってこの不正な事件をもみ消すために、教会の混乱の原因を後に鳴尾教会に赴任した山田牧師夫妻に転嫁しようと試み、かつて伝道師らを追放した時と全く同様に、山田牧師夫妻に対する異端の疑惑をでっちあげようとした。(村上密氏のブログ記事参照)。
 
鳴尾教会はこのデマを信じず、信徒らの総意により、かえってこの腐敗した教団から離脱する道を選んだため、教団側の目論見は頓挫した。教団は裁判にまで及んで鳴尾教会の教団離脱を阻止し、これを手中に取り戻そうとしたが、それもことごとく敗北に終わった。


村上密氏は、今年になってもまだ、鳴尾教会がやがてアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団とは別の教団に属することになるだろうことを見越して、これを何とか阻止しようと、負け犬の遠吠えのごとく、懸命に山田牧師夫妻の印象を貶めようと叫んでいるが、みっともないことである(村上密氏のブログ記事参照)。

こうして、自分に対する離反者には長年に渡り、容赦なく制裁を加え、教団を去る者には呪いのような非難の言葉しかかけることのできない、この牧師の自己本位で執念深い性格は、同氏の記事において十分に明らかになっている。これを読めば、
信仰を持たない一派市民でも、この教団には疑問と恐怖を感じて近寄らなくなるであろう。

村上氏率いるカルト被害者救済活動は、教会に恨みを持つ(元)信者ばかりを集めては決起させることによって、信者を懺悔させることを目的に、教会や信者を裁判に引きずり出しては懲罰を加え、諸教会の平和な信仰生活を妨害して来た。その上、教団離脱した教会に対しても、将来に渡ってまで悪影響を与えるような制裁を今も公に加え続けているわけだから、これでは教団の評判も落ちようというものである。

このようにキリストの福音を平和的に伝道するという牧師の第一義的な使命から著しく逸脱し、他の牧師の伝道を妨害することしかできなくなった牧師にこそ、しかるべき厳しい処分を下すのが、教団の本来の組織としてのあるべき姿である。

しかし、そのようなことはこの教団には言っても無駄であろう。何しろ、村上密氏のカルト被害者救済活動は、村上氏個人が率いているものとはいえ、教団そのものの理念とも、密接な結びつきがある。もともとこの教団が推進するペンテコステ運動は、聖書に基づかない弱者救済活動として始まったものであり、なおかつ、リバイバル招致による地上天国という異端的な偽りの神の国を目指している。このように、神に反逆する人類の一致を唱えている以上、その裏面として、キリスト教を内側から破壊する理念を持つ運動が現れて来ることは避けられないのである。そのことは以下で明らかにする。

 
さて、本題に戻ると、今回のテーマの一つは、なぜ十四年前から現在に至るまで、村上氏が鳴尾教会に関して、義理の父である津村氏と一心同体のようになって行動を共にしたのか、という疑問を、同氏がかつて深く関わっていた異端思想に照らし合わせて検証することにある。

つまり、村上氏にとって「父」とは何か、という問題にスポットライトを当てることによって、なぜ津村氏・村上両氏が、なぜ長年に渡り、鳴尾教会にいわれなき制裁を加え続けたのか、その理由も幾分、明らかになると考えるのである。
 
村上氏は、義理の父とはいえ津村氏とは互いに別の人間であるから、たとえ津村氏が大先輩の牧師であっても、同氏の判断に絶対服従せねばならない理由はない。まして、村上氏には自らの牧会する教会が別にあるのだから、直接の関わりのない鳴尾教会に対して、わざわざ教団や教会内規則を踏み越えてまで、内政干渉しなければならない理由もない。

にも関わらず、鳴尾文書を読んでも分かるように、村上氏は十四年前の当時から現在に至るまで、常に義理の父である津村氏の意向を忠実に体現し、津村氏と一体となって、自分ではなく津村氏の願いを実現させるべく、鳴尾教会の内政に不当に介入して来たのである。

その有様を見ると、なぜここまで父子が一つになって行動しているのだろうかという疑念が生じないわけにはいかない。


この疑問に対する答えとして挙げられるのは、統一教会を脱会して、キリスト教の牧師になった後でも、村上密氏はかつての統一教会流の、指導者を絶対化するカルト的思考を捨てられずに今日に至っているのではないかという疑惑である。

特に、統一教会には指導者夫妻を「真の父母」とする独特の「霊の家族」モデルが存在する。そして、次の論稿で示す通り、プロテスタントには、ペンテコステ・カリスマ運動の枠組みの中から登場しながら、この運動の枠組みを超えて、福音派を含む諸教会に「バイブル」のように受け入れられた「教会成長論」という異端的な家族モデルが存在する。

統一教会は、文鮮明を再臨のキリストとみなし、この宗教指導者夫妻を「真の父母様」として褒めたたえ、その教えに帰依し、合同結婚式を通して、彼らの家族モデルに加わることによって、信者は「聖なる血統」にあずかり、罪から救われて清められ、聖家族に加えられると教えている。

このような統一教会が理想とする家族モデルを、村上氏はこのカルト団体を脱会した後も、心に持ち続け、さらにそれが上記のペンテコステ・カリスマ運動において提唱されている「教会成長論」の異端的家族モデルとも合わさって、ますます補強されて行ったのではないかということが言える。


つまり、村上氏は合同結婚式にまで至ることなく統一教会を脱会したものの、その後、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の中でも相当の権威とみなされていた教職者・指導者である津村昭二郎夫妻のクリスチャン家庭の一員に加わることによって、また、津村氏夫妻を師のように仰いで、その意向に忠実に従うことによって、あたかも「聖家族」に連なったかのように、理想的なクリスチャン生活を体現でき、「聖化」が成し遂げられるかのように考えていたのではないかと推測される。
 
村上氏にとって、津村氏は単なる「義理の父」ではなく、その教えに背くことが決して許されないような宗教指導者であり、自身の「霊の父」なのである――そういう事情でもない限り、村上氏・津村氏らがそこまで長年に渡り、思想的に一致して鳴尾教会への迫害という行動を共にして来た理由が見当たらないのである。
 



・「子」が「親」を守り、「家」を守ることを要求する転倒した家族モデル

これから見て行くように、統一教会であれ、カリスマ運動であれ、国家神道であれ、異端的な家族モデルにおける「縦の関係」は、「子」に「親」への絶対的な従順を要求するという共通点がある。

本来、「家」とは、強い大人たちが弱い子供たちを守るのでなければ立ち行かない。赤ん坊や、未成年や、子供たちが自分で自分を守れるはずもなく、彼らには大人たちの保護が必要である。このような非力な子どもたちが、親を守る防波堤になどなれるはずもないし、家を守るために立ち上がって戦う戦士にもなるわけがない。家を守るのは大人たちの仕事である。

また、当然のことであるが、子供たちはいつまでも子供のままでいることが望ましいのではない。やがて親から自立し、一人の人間として独立し、生まれ落ちた家を離れて、自らの人生を切り開いていくことが求められる。

しかしながら、異端的な家族モデルは、「子」を「家」(親)を守り、支えるための道具とみなし、なおかつ、「子」の「家」(親)からの自立を決して認めない。そこでは、アジアの貧しい農村の家庭で、朝早くから子供たちが学校にも行かず、労働力として働きながら、家計を支えているのと同様に、「弱い者」である「子」が「強い者」である「親」に仕え、「子」が「親」を守り、「子」が「家」に名誉と繁栄をもたらすために生きることが義務とされ、親子の縦の関係から「子」が離脱することが許されないのである。

このようなものを筆者はアジア的な家族モデルとみなしているのだが、これを教会生活にあてはめ、指導者夫妻を「霊の父母」、信徒を「子」の立場に置いて、親子の縦の関係を絶対化するのが、異端的家族モデルである。

こうして指導者(親)が信徒(子)を守るのではなく、信徒(子)が指導者(親)を守り、指導者(親)に仕えて生きるという、転倒した家族モデルを教会の基礎とみなし、同じ家族モデルに連なる信者の家庭を地上で増やしていくことによって「リバイバル」を引き起こし、全人類を「一つの霊の家族」に帰依させて、地上天国を実現できる、とするのが、あらゆる異端の教えに共通する基礎的な型である。

村上氏は、こうした異端的な家族モデルにのっとって、義理の父である津村氏を絶対視し、宗教指導者と信者との縦の関係を絶対視すればこそ、鳴尾教会もまた指導者である津村氏に絶対服従すべきであると考えていたのではないか。そこで、鳴尾教会が、主監者であった津村牧師の不祥事を追求して告発したり、津村氏の不祥事を明るみに出すことによって、同氏を辞任に追い込んだり、村上氏と津村氏による伝道師らの理不尽な追放という事件についてもためらうことなく真相を追究し、教団と村上氏・津村氏の対応に不信感を突きつけ、こうして「弱者」であるはずの教会が、「強者」である教団や指導者に責任を追及し、物申して事態を明らかにしようとしたこと自体が、「(霊の親たる教団と指導者に対する)あるまじき反逆である」、とみなしているのではないだろうかと考えられる。
 


・全人類を「一つの霊的家族」に結びつけようとする教えは神への反逆である
  
村上氏は、一方では、「教会のカルト化の危機」を叫んで、教会から被害を受けたとする信者らを積極的に集めては、「疑わしい」牧師や教会に裁判をしかけ、教会の破壊活動にいそしみながらも、他方では、統一教会や教会成長論に見られるような異端的家族モデルに基づいて、信徒は自らの宗教指導者に絶対服従すべきという教えを振りかざし、自分たち(身内)に対する離反や告発は決して許さず、離反者に対しては長年に渡り厳しい報復行為に及んで来た。
 
この二つの運動――身内の指導者や教団の権威の絶対化――と、自分たちの集団に属さない指導者や教会の権威を容赦のない制裁によって引きずりおろすこと――は、一見、相矛盾する行動に見えるかも知れないが、ともに聖書の御言葉に基づかず、人をキリストではなく人間に従わせる異端的家族モデルから生まれて来る活動なのである。
 
端的に言えば、それらはともにキリストの霊に属さない、人の生まれながらの古き「自己」が行う果てしない「自己保存」と「自己増殖」の試みでしかない。

たとえば、村上密氏が率先して行って来た裁判による他教会の取り潰しや併合は、「他家」を容赦なく取り潰して「我が家」に併合することで、果てしなく「我が家」の拡大(自己増殖)を目指し、やがて全人類を「我が家(自己)」に同化させて、同じ「霊的血統」に属する一つの家族に帰依させることにより、地上にユートピアが到来すると教える異端的家族モデルの現実的な運用なのである。村上氏が提唱している「カルト監視機構」も同じであり、これは宗教界全体を己の支配下に治めるための試みに過ぎない。

こうした思想はすべて、異端思想が一様に提唱する「全人類一家族理想」のモデルーー宗教指導者夫妻を「霊の父母」として崇め、それに「子」として連なる信者を増やすことにより、人類全体を自己に同化させて「一つの家族」としようとする試み――から来るものであり、そのようなものは断じて、聖書の神が望んでおられるキリストの花嫁たるエクレシアの建設ではなく、それはずっと古くからある神に反逆するための建物の建設の試みである。

「さて、全地は一つのことば、一つの話ことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。
彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。

そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」

そのときは人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。
は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。

こうしては人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」(創世記11:1-9)

結局、全人類をともに「一つの霊の家族」につなげることにより、地上で「リバイバル」を呼び起こせるとしている「教会成長論」は、神に反逆するバベルの塔建設の試みに他ならない。それはどんなにキリスト教の中から生まれて来た運動のように見えても、実際には、神に対する人類の思い上がりの必然的な結果として、キリスト教界に分裂と、混乱しかもたらさないのである。

そこで、地上天国としての「リバイバル」を唱えているペンテコステ・カリスマ運動の只中から、教会に裁判をしかけては破壊と混乱をもたらしているカルト被害者救済活動が出て来たのは、偶然ではない。それらは共にコインの表と裏のように、同じ性質を持つものであり、表向きに掲げている「全世界の一致」と、それに完全に相反するように見える「分裂と混乱」――これら二つの側面は、全人類が一致して神に反逆しようとする試みに必ずや伴う両面を示しているに過ぎない。
 
このように、聖書の神に逆らう悪魔的な発想としての全人類の一致・地上天国建設の計画は、何度頓挫しても飽きたらずに、繰り返し、繰り返し、キリスト教の中に、聖書の教えを装って現れて来た。聖書を見ると、そうした教えは、失敗続きの中でも次第に肥え太り、最初は単なる小さなバベルに過ぎなかった町が、最後には「地上の王たちを支配する大きな都」(黙示17:18)バビロンにまで成長しているのを見ることができる。ちょうど創世記では小さな蛇だった悪魔が「巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇」(黙示12:9)になったのと同様である。

このバビロンこそ「大淫婦」、すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン。」(黙示17:5)である。

最初は「町」だったものが「都」になっただけでなく、それは今や性別と人格が与えられ、「母」や「女」と呼ばれている。なぜ大淫婦なのか? その理由はクリスチャンならば誰でも知っていよう。聖書の御言葉に反するあらゆる虚偽の教えを喜んで奉じ、キリストだけに従う真実と貞潔を捨てたからである。

しかし、ここでバビロンが女性の名で呼ばれていることに注意が必要である。なぜ「母」なのかは、この論稿を読み進めて行けば分かるはずである。

それは東洋思想と密接な関係がある。結論から提示するならば、これは東洋思想の誉め讃える女性原理・母性原理を人格化したものだからである。

大淫婦バビロンとは、聖書の御言葉の「二分性」を否定して、御言葉の持つ「分割」や「切り分け」という父性原理を否定して、御言葉に基づいて善悪を識別することをやめ、何でも愛して受容する東洋的な「母性原理」を高く掲げる東洋的(オリエント的・ヘレニズム的・アジア的)な思想の総称なのである。いや、堕落したキリスト教が東洋思想と相通じた結果として生まれて来た混合物を意味するのである。
 
こうした東洋思想とキリスト教とを混合させることで、キリスト教を堕落させる試みは、キリスト教の中から、あたかもキリスト教のような仮面をつけては、度々、登場して来た。以下で見て行くペンテコステ・カリスマ運動もまたその混合物の一つであることがよく分かるであろう。

ペンテコステ・カリスマ運動はキリスト教ではない。それはキリスト教と、聖書が最も憎むべきものとみなしているものとの混合である。そこで、このような運動には決して関わらないことを勧める。これに深く関わり、その教えを信じた人々は、必ずや、聖書の御言葉に対する真実性と貞潔さを失う。そして、御言葉の切り分けを曖昧にし、神と人との断絶を否定した上で、最終的には、まことの神を押しのけて、自らを神とする異端的告白へと行きつくのである。
 
<続く>