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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(4)

 

いつの間にか、横浜は紅葉して秋の美しい風情となっていた。
ついこの間まで、冷房が必要だったのに、今は動物たちのために暖房が必要である。

朝晩の寒暖の差が激しくなり、あやうく小鳥が体調を崩しそうになったので、遠赤外線ヒーターを小鳥のヒナたちのためにつけてやった。
 
言い尽くせない激戦の一年間であった今年も、もう終わりに近づいている。
 
懸命に走り抜けている間に、気づかぬうちにすっかり季節が変わっていた。
上は分厚い書類の束を抱えて幾度も訪れた裁判所の光景であるが、去り際に、思わず見事な銀杏に見とれた。

心の重荷は過ぎ去り、喜びと、平安とが訪れる。
 
我が人生の中で、類例のない大きな試練の年であったが、なすべきことを立派に成し遂げ、立ち向かうべきものに毅然と立ち向かい、守るべきものを守り通したという、形容しがたい平安と満足感が心に溢れている。

もちろん、まだ何も終了したわけではないが、それでも、本当に第一とすべきことを第一として生き、それによって、神の恵みの大きさを知り、神が愛する子供たちをどれほどはかりしれない配慮をもって守り、導いて下さるか、その一端を知ったというすがすがしい満足感があるのだ。やはり、神の国の前進のために生涯を捧げること以上に、有意義な生き方はなく、神と同労して生きる以上の満足は地上には決してないと自信を持って言える。

だが、そのために大きな犠牲が存在したことは言うまでもない。何しろ、手探りで前進し、一切、人間的な助けを受けずに、神だけを頼りとして、二人三脚で進んだのである。一人の不慣れな人間としては、言葉に言い尽くせない試練があったことは間違いない。

まさに「死の陰の谷」のような暗いトンネルを通過したと言っても良いだろう。

しかし、その間に生じた著しい犠牲さえも、神はただちに安息のうちに補償して下さった。「主が与え、主がとりたもう、主の御名は誉むべきかな」という姿勢を貫徹したときに、失われたものが、わずかなうちに前よりも豊かに回復されたのである。

これは筆者にとって、天からもう一度与えられたヨブの子供たちに等しい。

神にはこの世の経済や物流を支配することなど何でもなく、私たちが損失だと思っているようなものはいくらでも回復することがおできになる。

だから、試練があっても、筆者の人生に損失は生じなかった。そして、追い詰められて窮するということもなかった。その結果はこれから徐々に表れて来ることであろう。

しかし、目に見える結果がはっきりと現れるよりも前に、筆者自身の人間としての内なる尊厳が、完全な回復軌道に乗ったことが分かる。このことが何より最も肝心である。

たとえば、普通の人々は、脅されれば恐怖におじ惑い、いじめられれば泣いて逃げ、中傷されれば、悩み苦しむだけの、弱く、臆病な人間であろうが、そのようなどこにでもいるありふれた人間とは異なる、キリストと共に天の王国を統治するにふさわしい力と威光と尊厳を備えた真に「新しい人」が、筆者の内側に姿を現し始めているのである。

この新しい人格は、どのような試練が起きようとも、御名の栄光のためにすべてを捧げて前進することができる勇敢な新しい人格である。だが、それは勇敢な兵士のようであると同時に、言葉に言い尽くせない平安に根差した実にチャーミングな人格でもある。

それをクリスチャンの用語では「キリストが内に造り込まれる」と言う。しかし、キリストの人格が私たちの人格の内に彫り刻まれ、形作られるために、まず必要なのは、試練である、と言うと、多くの人たちがそんな苦しみは御免だと、ためらって去って行くかも知れない。

しかし、この試練をくぐりぬけずして得られるものは何もない。試練の只中で、忍耐して希望を持ち続けて信仰によって進むとき、初めて、この世のすべての有様を超越した、何によっても揺るがされることのない新しい人格が内側から生まれて来るのである。この世のどんな利益とも引き換えにならない神への愛と従順が生まれて来るのである。

だが、それは一足飛びには行かない、本当に少しずつ、少しずつの進歩である。

そして、この原則は全ての信じる者たちに共通する。当初は状況に翻弄され、きりきり舞いさせられ、四方八方に助けを求めているだけのように見えたか弱い人の中から、少しずつ、信仰によって、神の強さが発揮され始める。束縛されて苦しめられているだけのように見えた人の中から、自由と尊厳が回復される。混乱し、悩みに満ちていたように見えた人の中から、揺るぎない平安と喜びが生まれて来る。

今日が恵みの日、救いの日、日々、囚われ人が解放され、悲しむ者が慰めを得、キリストにある新しい人が、弱った人々の中に、徐々に姿を現し始める。

もちろん、キリスト者は信仰を持った時から、御霊が内に住んで下さるのだが、それだけではすべてが完了ではなく、その人自身の人格、考え方、気質、行動が、長い時間をかけて、人間的な水準から、御国の水準へと、変えられなければならないのである。

こうして生まれる新しい人格には、力と権威と尊厳が伴っている。それは幼い日のヨセフではなく、キリストの御丈まで成長し、霊的に成人に達したヨセフである。神の御心が何であり、何をすれば、神に喜ばれるのかを知っている熟練した神の僕である。

その新しい人格がはっきり姿を表せば表すほど、信仰者の内側から、キリストのまことの命の支配権が発揮され、行使されるようになる。筆者はそう確信している。
 
筆者はまだまだ御霊による支配を十分に知ったとは全く言えないが、少しずつ、御国の前進が、目に見える形で地上に及んでいることを感じつつある。そこで、この先の歩みは、これまでとはかなり違ったものになるだろうと予感する。

さて、そろそろスローテンポにしていたブログ更新をリアルタイムに戻したい。
 
これまで幾度となく述べて来たことの繰り返しになるが、神の国とその義をまず第一に追い求めなさい、そうすれば、すべては添えて与えられる、という御言葉は本物である。

「信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それらはみな、異邦人が切に求めているものだ。
あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:30-34)

この御言葉が真実であることは、筆者が生きて来た行程のすべてを振り返っただけでも、十分に分かることである。もしも神の国とその義を第一として生きるということをしなかったならば、筆者は今、ここに存在することさえきっとなかったのに違いない。

そこで、読者にも言いたい、もしもあなたがこの困難なご時世を、最後まで無事にそして勇敢に高貴な人として生き延びたいと願うならば、神の権益に関わる仕事をしなさいと。

真に御国の権益に関わる戦いを始めなさい。そのために持てるすべてを投じなさい。そうすれば、それを実現するために必要なすべてが、天から与えられる。誰にも助けを求める必要はない。このことは間違いのない教訓である。

だが、一体、何をすれば、神の御名に栄光を帰することができるのか? その方法は人それぞれに異なる。重要なのは、人間の利益のために奉仕するのではなく、神の利益のために奉仕することを第一に目指すことである。

私たちクリスチャンは、神の栄光が損なわれ、御名が傷つけられている現場を見たとき、これを素通りするのでなく、御名の栄光の回復のために働くべきである、と筆者は強く主張する。真実が曲げられ、正義が曲げられ、嘘と虐げと搾取がはびこり、何よりも神の花嫁たる教会が告発され、穢され、傷つけられ、蹂躙されているのを見たとき、これを素通りするのではなく、神が贖われた者を告発する者には、小羊の血潮に立って毅然と立ち向かうべきである。

キリストの花嫁なる教会は、キリストにとってご自分と同じほどに価値ある存在である。キリストがその命を捨ててまで愛され、贖われた花嫁である。その教会が蹂躙され、混乱に陥り、主の民が離散し、行き場を失うことを、果たして神が望まれるであろうか?
 
悪魔は立ち向かえば、逃げ去る、そう聖書に書いてある通り、そうして回復される権益は、この世のすべての利益にまさる、御国の権益である。このようにして、御国の権益を地上で拡大して行くことが、神の喜ばれる奉仕なのである。

とはいえ、各自が主の御名の栄光のために奉仕する方法は、様々に異なるので、御国の権益を守り、拡大するための戦いの方法には、決まった型があるわけではない。だが、いずれにしても、その戦いに共通している点は、一人一人が、自分が生き永らえることだけを第一目的として生きるのではなく、真に神の栄光を回復するために、御国の拡大のために、自分の人生を残らず捧げることである。

そうするときに、どんな困難が起きようとも、神があなたの人生に最後まで責任を持って下さり、平安のうちに必要のすべてが備えられる。あなたの望みを実現に至らせて下さるのは神である。明日の苦労といったものは、本当に些末な問題でしかないことが分かるだろう。もちろん、兵士である限り、戦いは激しく、厳しいかも知れないが、それを切り抜けるために必要な知恵も、助けも、慰めも、物資も、すべて天から供給される。

だから、あなたは自分が一人ですべてに立ち向かっているのでは決してないことが徐々に分かって来るだろう。それどころか、私たちを中心として、すべてのものが、やがて私たちの内におられるキリストの権威と支配に服従するようになるのである。

キリストが万物を足の下に統べ治める方であるというのは、絵空事ではなく、私たちキリスト者一人一人の生き様を通して実現する事柄なのである。だから、私たちは、キリストの支配が本当に自分の身の周りで実現するまで、彼がすべてを足の下にするのを見るまで、ずっと十字架を貫き通さなければならない。試練があったからと言って、決してあきらめて退却してはいけない。

天から竜を投げ落とすための秘訣は、小羊の血(贖いによる義認)に固く立って、試練があっても、死に至るまで証の言葉を降ろさないことである。

また、ゼカリヤ書で大祭司ヨシュアを訴えるサタンが罪に定められたように、今日も、神は、クリスチャンを訴える悪魔に対してこそ、有罪を宣告される。

そして、神は私たちの汚れた衣を脱がせ、新しい祭服を着せられ、清い帽子をかぶらせて下さる。ちょうど帰って来た放蕩息子が新しい服を着せられたように。これは私たちの人格の内なる造り変えを象徴する描写である。

そして、この造り変え、聖別は、日々行われる。このように神に守られ、愛され、義とされ、とりなされ、聖別されるために必要なことは、日々、神の戒めを守り、御言葉に従って歩み、祭司としてのつとめを果たすことである。

愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」(一ヨハネ4:18-19)

このようにある通り、全き愛は、恐れを取り除く。だが、そのような完全な愛は、神への愛、何よりも、神が私たちを愛して下さる愛の中にしか存在しない。御霊によって、その交わりの中に入れられるとき、私たちの心の中から、恐れは取り払われる。そのように神の愛を知る時、私たちは初めて、どんな試練にも臆せず、自分の残るすべての生涯を、御国の前進のために捧げることができるようになる。それは決して自分自身の決意や力にはよらない。

だが、同時にその愛は、私たち自身の人格を造り変え、私たちを神にあって、他者との関係にも、御心をもたらすことができる人へと変えて行く。ヨセフはエジプトに売られた後、自分の生まれ育った故郷とも、父とも兄弟たちとも関わりがなくなり、長い間、彼らとは二度と会うことさえないと考えていたであろうが、それにも関わらず、神はその当時から、ヨセフを通して、彼の一家に恵みをもたらそうと決意されていたのである。

私たちが本当に神に対して自分を捧げるならば、似たようなことが起きる。私たちの存在は、そのものが「キリストによって神に献げられる良い香り」(Ⅱコリント2:15)となり、私たちの自覚とは関わりのないところで、他者を生かすために用いられるだろう。私たちは自分で何かをしてやったなどとは全く思わないかも知れないが、私たちの存在そのものが、神のご計画の成就のために欠かせない一部となるのである。(しかし、滅びる者にとっては、「死から死に至らせる香り」であり、救われる者にとって「命から命に至らせる香り」である。)

* * *

「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。
神のメシアの権威が現れた。
我々の兄弟たちを告発する者、
昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、
投げ落とされたからである。

兄弟たちは、小羊の血と
自分たちの証しの言葉とで、
彼に打ち勝った。
彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12:10-11)

* * *


「時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。  主はサタンに言われた、「サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか」。
ヨシュアは汚れた衣を着て、み使の前に立っていたが、 み使は自分の前に立っている者どもに言った、「彼の汚れた衣を脱がせなさい」。またヨシュアに向かって言った、「見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう」。 わたしは言った、「清い帽子を頭にかぶらせなさい」。そこで清い帽子を頭にかぶらせ、衣を彼に着せた。主の使はかたわらに立っていた。
主の使は、ヨシュアを戒めて言った、「万軍の主は、こう仰せられる、あなたがもし、わたしの道に歩み、わたしの務を守るならば、わたしの家をつかさどり、わたしの庭を守ることができる。わたしはまた、ここに立っている者どもの中に行き来することを得させる。」(ゼカリヤ書3:1-6)

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小羊の血

「まず、『彼らは小羊の血によってうち勝ち』ました(啓示録第十二章十一節参照―筆者註)。
霊の戦いにおける勝利は小羊の血に基づきます。血は罪の赦しと救いのためだけではありません。さらに進んで、それはわたしたちがサタンにうち勝つ根拠です。

ある人たちは主にあって成長したものにとっては血はそれほど大きな価値はないと思うかもしれません。彼らは血を必要としない程度にまで成長し得るものと想像しています。わたしたちは力をこめて言わなければなりません。そんなことは決してないと! いかなる人も血の必要を超越する程度にまで成長できるものではありません。神の言葉は
『彼らは小羊の血によってうち勝った』と言います。」(ウォッチマン・ニー著、『栄光の教会』、p.144)

今回の記事では、クリスチャンがサタンに立ち向かい、勝利を得るために、キリストの御血がどれほど必要不可欠なものであるかについて話したいと思います。サタンは日夜、クリスチャンを神の御前で訴えることを職業としています。サタンは、あらゆることについて、あることないこと、クリスチャンを罪定めしようとします。可能な限りの全ての口実をとらえて、彼は私たちを訴え、有罪にしようとしています。

サタンは私たちを訴えることにおいては天才的であり、その能力は私たちの想像をはるかに越えます。私たちが犯した大小の罪が非難されるのはもちろんのこと、私たちの犯していない罪までも、非難の材料となります。私たちの過去、現在、未来についてまでその非難は及び、一瞬たりともやむことなく、まさに私たちの一挙手、一投足のすべてにサタンの非難が向けられます。私たちが良心の咎めを持つように、あらゆる状況を通じて、サタンは私たちに非難を浴びせることができるのです。

たとえば、私たちが御言葉についてちょっとでも学ぶと、その御言葉を悪用して、サタンは私たちを罪定めしようとするでしょう。私たちが、人の古き命の性質が十字架で死を経なければならないということを学ぶと、早速、サタンは私たちの古き人がまだ少しも死んでいない!と言うことを根拠に、私たちを責めます。私たちが兄弟姉妹に対して、少しでも配慮に欠ける行動を取ると、おまえには兄弟姉妹への愛がない!と、私たちを責めます。私たちのクリスチャン生活に前進がないこと、その他、ありとあらゆる材料を持ち出して、彼は私たちがしかるべき状態にない事実を強調し、責めるのです。

サタンはクリスチャンを憎悪しています。彼は人を憎み、殺し、破壊し、誘惑し、偽証し、罪に陥れますが、クリスチャンを非難することも、彼の主要な活動の一部です。

「クリスチャンに敵対するサタンの主要な活動は、彼らを訴えることです。サタンは人殺しですか。そうです。彼は偽りを言い誘惑する者ですか。そうです。彼はわたしたちを攻撃する者ですか。そうです。しかしそれだけではありません。彼の主要な働きは訴えることです啓示録第十二章十節は言っています、『……われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者は、投げ落とされた』と。

わたしたちはここでサタンが兄弟らを夜昼訴えるのを見ます。彼は神のみまえで訴える者であるだけでなく、またわれらの良心のなかでも訴える者です。そして彼の訴えはわたしたちを弱くし、また全く無力にさせることができます。彼は人々を訴えて、彼らに自分は役たたずだと考えさせ、そうすることで彼らが彼と戦うすべての立場を失う程度にまで彼らを訴えることを好みます。

わたしたちはわれらの罪を対処する必要がないと言っているのではありません。わたしたちは罪に対して鋭い感覚をもたねばなりません。しかしわたしたちはサタンの訴えを受けいれてはならないのです。」(p.144-145)

私たちは、自分が犯した罪については、正直に神に告白して、赦しを乞わなければなりません。自分が犯した罪までも、それはサタンの訴えだから事実無根だと言い張ってはなりません。しかしながら、サタンによってもたらされる猛烈な非難は、私たちの考えられる範囲をはるかに越え、私たちの耐えうる限度をはるかに越えています。考えてみましょう、もしも、たとえ無実であっても、私たちが法廷に被告として立たされるようなことがあれば、どれほど自分を恥ずかしく思い、意気消沈するでしょうか。それなのに、夜となく昼となく、サタンから被告として責められ続けるということが、人にとってどんなに恐ろしいダメージとなるでしょうか。サタンは実際にそうする者であると聖書は言っています。サタンはあなたを、昼夜を問わず、人前であろうと、一人でいる時であろうと、絶えず、被告席に座っている人間のように非難し続けることができるのです。そして、このようなサタンの訴えに敗北して、消耗させられているクリスチャンがあまりにも多いのです。

「いったん神の子がサタンの訴えを受けいれると、一日中彼は自分は間違っていると感じるでしょう。朝早く起きると彼は自分は間違っていると感じます。祈るためにひざまずくと自分は間違っていると感じます。そして神は自分の祈りに答えてくださると信じることさえしません。集会でひとこと語ろうとすると、自分は正しくないのだからそれは何の役にも立たないと感じます。何か主にささげ物をしようとするとき、自分のような者のささげ物をどうして神はお受けになることができようかと思い、それなのになぜ何かをささげねばならないのかしらと怪しみます。

この種のクリスチャンのおもな関心は、主イエスがいかに栄光ある勝利の方であるかではなく、あらゆる状態のもとで自分らがいかに悪しくまた無価値であるかということです。朝から晩まで自分自身は無価値であるという思いに食いつくされます。彼らは働いていても、休んでいても、歩いていても、聖書を読んでいても、または祈っていても、いかに自分は無価値であるかと考えない一瞬間もありません。これがサタンの訴えです。もしサタンがわたしたちをこのような状態に保ち続けることができたなら、これは彼が勝利を得たのです。<…>

しばしばわたしたちは、自分自身が悪いという思いで占領されると、これがクリスチャンの謙遜だと容易に考え違いしてしまいます。しかしそれはわたしたちがサタンの訴えの有害な効果を受けているにすぎないことを知らないでいるのです。わたしたちが罪を犯したときは、それを告白して対処しなければならないことは真理です。しかしわたしたちの学ばなければならないもう一つの学課があります。わたしたちは自分自身を見ないで主イエスだけを仰ぎ見ることを学ばなければなりません。朝から晩まで自分を意識することは一つの病的な状態です。それはサタンの訴えをわたしたちが受けいれた結果です。<…>

 こういうわけで、わたしたちはサタンの訴えを軽く見積もってはなりません。彼のおもな仕事はわたしたちを訴えることです。<…>ついにわたしたちの良心はすっかり弱くされて、強くなることができなくなります。」(p.145-147)

今日、自分は完全に無価値であるという病的な思いに占領されてしまっているクリスチャンは多数います。これは彼の良心がサタンによって汚され、弱くされてしまった結果です。クリスチャンは、神の御前に、何のとがめもない、清い良心を持っていなければ、神にまっすぐに向かうことができません。もしも良心がつまずくならば、私たちは自分が神に向かってもはや頭を上げることができない者であると感じ、カインのように、御前で顔を伏せます(創世記4:5)。また、自分は神にまっすぐ向かう資格のない人間だから、祈っても聞き届けられるはずがないと感じ、神から遠く切り離されていると感じるようになります。私たちは罪を犯した時に、良心のとがめを感じますが、サタンは、私たちがたとえ罪を犯していなくても、事実無根の訴えをいくらでも作り出して、私たちに良心のとがめを感じさせ、つまずきを与えることができるのです。

「クリスチャンの日常の生活と働きにおいて、彼の良心は非常に重要です。使徒パウロはコリント人への第一の手紙第八章で、もし良心が汚されるなら人は滅びると言っています。この滅びるというのは永遠の滅亡のことではありません。ただその人はもう建て上げられることができなくなるという意味です。彼はあまりに弱くされてしまい役にたたなくなるのです。テモテへの第一の手紙第一章は良心を捨てたために信仰の破船をする人のことを言っています。破船したら航行することはできません。

こういうわけでクリスチャンが神の前に立つことができるかどうかは、彼がその良心につまずきがあるかどうかにかかります。いったんサタンの訴えを受けいれると、彼の良心はつまずきます。いったんその良心がつまずくと彼はもう神のために奉仕を続けることも、戦うこともできません。こういうわけでわたしたちはサタンのおもなわざはわたしたちを訴えることにあること、そしてわたしたちがうち勝たねばならないのは彼のこのわざであることを認識しなければなりません。」(p.147)


私たちは神の御前につまずきのない良心を持たなければなりません。そうすれば、私たちはまっすぐに神に向かい、神に心から礼拝を捧げ、喜んで御国のために働くことができます。しかし、私たちは罪を犯すことのある、間違いやすい人間です。どうすれば、聖なる神の御前に、清く汚れのない良心を維持し、サタンの訴えを退けることができるのでしょうか。

「どのようにしてわたしたちはサタンの訴えにうち勝つことができるのでしょうか。天からの声がわたしたちに告げます、『彼らは小羊の血によって彼にうち勝つ』と。血が勝利の根拠です。またそれがサタンにうち勝つ武器です。サタンはわたしたちを訴えるかもしれません。しかしわたしたちは御子イエス・キリストの血がすべての罪からわたしたちをきよめると答えることができます(第一ヨハネ一・七)。『すべての罪』とは大きかろうが小さかろうがどんな罪をも意味します。御子の血はわたしたちをそれらすべてからきよめるのです。

サタンはわたしたちが間違っていると言うかもしれません。しかしわたしたちは主イエスの血をもっています。主イエスの血はわたしたちの多くの罪すべてをきよめ去ることができます。これは神の言葉です、『御子イエスの血がすべての罪からわたしたちをきよめるのである』

 わたしたちは理由のない訴えを退けるだけでなく、理由のあるすべての訴えもまた退けなければなりません。神の子たちが何か間違ったことをしたとき、彼らは御子イエスの血だけを必要とするのであって、サタンの訴えなど必要としません。罪のために必要なのは尊い血です。訴えではありません。わたしたちが罪を犯した後訴えが必要であるなど、神の言葉は決して言っていません。ただ一つ問題はわたしたちが罪を告白したかどうかです。もしわたしたちがそれを言いあらわしたなら、それ以上何か言われるはずがありましょうか。<…>万一罪を犯したとしてもそれを言いあらわしたなら、わたしたちは訴えられるはずがありません。」(p.148-149)


こうして、神に向かって正直に罪を告白し、主イエスの血潮によって清められることを通して、私たちは、根拠のある訴えからも、根拠のない訴えからも、救い出されるのです。小羊の血は私たちのあらゆる罪を無効にすることができ、また、たとえサタンが私たちが犯してもいない罪を訴えたとしても、それも当然、無効にする根拠となります。私たちはあらゆる機会に主イエスの血による清めを求めて祈ることができます。そうして小羊の血を自分に適用したならば、私たちは神の御前に罪汚れない者とされたのですから、それ以上、サタンの訴えに耳を貸してはなりません。(それは感覚の問題ではありません。たとえ主イエスの血による清めを求めて祈った時に何の感覚がなくとも、私たちは清められたことを信じなければなりません。)

サタンは絶え間なく、私たちがいかに善良さに欠けているか、いかに欠点だらけで、未熟で、幼く、神の御前で忌むべき役に立たない人間であるかということを、繰り返し、繰り返し、強調するでしょう。サタンは言うでしょう、おまえの性格はあまりにも自己中心すぎる、おまえの古き人が邪魔になっている、おまえは傲慢すぎるゆえ、奉仕の役に立たない、あるいは、未熟すぎて、まだそんな奉仕をする力はない、等々。あらゆる機会をとらえて、サタンは私たちの振る舞いが常に間違っていると強調し、私たちが御国のための働き人にふさわしくない欠点を持っていることを非難するでしょう。そして、私たちがそういう自分のあれやこれやの未熟さや、欠点にばかり、絶えず、目を向けて、失意落胆するように仕向けるでしょう。そしてその欠点を何とか自力で克服して、もっともっと信仰的に成熟した人となり、自分の力でそれなりの義に達しなければ、人も私たちを受けいれないばかりか、まして神は、私たちを決して受けいれるはずがない、と言うでしょう。そんな訴えに耳を貸してはなりません!

「…わたしたちはどっちみち神の前に積極的な善など一つも持っていなかったことを記憶しなければなりません。神にささげることのできる善など一つもわたしたち自身のうちになかったのです。わたしたちはただ一つのもの―血―だけを神にプレゼントすることができます。わたしたちは血によってのみ義とされます。わたしたちのうちに積極的な義など一つもありません。わたしたちは贖いによって受ける義によってのみ義となります。恵みの御座に来る度ごとにわたしたちは恵みを求めて彼を仰ぎ見ることができます。それは恵みの御座です。義の御座ではありません。

わたしたちが神の前に来る度ごとに、わたしたちの唯一の資格は贖われたということです。クリスチャン生活でわたしたちがどれだけ前進したかではありません。『自分は最近かなりよくやっている、今やわたしは大胆に祈れるようになった』ということのできる段階にかりにも達することのできたクリスチャンなど一人もありません。そうです。わたしたちが神の前に出るとき、わたしたちの唯一の根拠、わたしたちの唯一の地位は血です。それは血の上に基礎づけられています。霊的成長のどれほどの量も血の効力に代わり得るものではないことをわたしたちは認識しなければなりません。霊的経験の一つだに血の働きにとって代わることはできません。<…>

 時々わたしたちが罪を犯したとき、サタンが来てわたしたちを訴えます。また時々わたしたちが罪を犯したのでもないのに、やはりサタンがわたしたちを訴えに来ます。時々それはわたしたちが罪を犯したかどうかの問題ではなく、わたしたちが神にささげる積極的な義を持っていないことが問題になります。そこでサタンはわたしたちを訴えます。しかしわたしたちはここではっきりしていなければなりません。わたしたちが神のみ前に来るのは血のゆえだけであって、他の何物にもよらないということですわたしたちが血によってきよめられ、血によって義とされた以上、わたしたちはサタンの訴えを受けるいかなる義務もないということです。

 尊き血は霊的戦争の根拠です。血の価値を知らないとしたら、わたしたちは戦うことができません。いったんわたしたちの良心が弱くされたら、おしまいです。こういうわけでわたしたちは責められるところのない、きよい良心を維持していないのでしたら、サタンを対処する道がありません。サタンはわたしたちに対抗して訴えようとしたら幾千という理由を使うことができます。もしそれらを受けいれたなら、わたしたちは倒れます。しかしサタンが語りかけてくるとき、わたしたちは血の答え一つで彼のすべての理由に答えることができます。血によって答えることのできないただの一つの理由もないのです。」(p.150-152)

 ハレルヤ! 小羊の血は全ての罪や汚れ(良心につまずきを与える全てのものを含む)から私たちを清めることができるのです。私たちが未熟でないことや、義人であろうと努力していることや、クリスチャン生活で前進していることなどが、私たちが神に受けいれられる条件なのではありません! 私たちの古き人がどの程度、十字架で死んでいるかが、神が私たちを受けいれる基準となるのではありません! 私たちがクリスチャン生活でどれくらい人に頼ることなく、自立して生きられるようになったかが、私たちが神の御前に義とされる根拠になるのではありません! ただ私たちが主イエスの血によって清められているかどうか、私たちに小羊の血が適用されているかどうか、それだけを神はご覧になるのです。小羊の血によってすでに清められたのなら、何も心配することはありません。神はキリストの血をご覧になって、私たちを義なる者として受けいれてくださるのです。

主イエスはわたしたちのための大祭司であり、仲保者であります(ヘブル二・一七―一八、四・一四―一六、七・二〇―二八、八・六、九・一五、第一ヨハネ二・一参照)。彼はいつでもこの地位―大祭司と仲保者として仕えておられます。彼の奉仕の目的はわたしたちをサタンの訴えから守るためです。人が彼を救い主として受けいれるのはわずか一瞬間のことです。しかしサタンの訴えに立ち向かうことは一生涯の問題です。

ギリシャ語の『仲保者』は『任命された弁護者』を意味します。主はわたしたちの仲保者、わたしたちの弁護者です。主はわたしたちのために語られるのです。問題はわたしたちが仲保者の側に立つか、それとも告訴者の側に立つかです。わたしたちの仲保者がわたしたちを弁護している最中に、わたしたちが告訴者の言葉を信ずるとしたら、それは馬鹿げたことです。弁護者がしきりに被告の有罪でないことを証明しているのに、被告は頑として告訴者を信ずるとしたら、それは全く馬鹿げたことではないでしょうか。

ああ、どうかわたしたちが主イエスはわたしたちの仲保者であること、また彼はわたしたちを弁護しておられることを見ますように。もしわたしたちが血の価値を認識するなら、今日地上に平安と歓喜のクリスチャンは大いに増加することでしょう。」(p.153-154)

この世で、人々は裁判で勝訴するために高いお金を払って有能な弁護士を雇います。しかし、クリスチャンには最高の弁護者がすでに任命されているのです。主イエスご自身が、私たちをサタンの訴えから守るために、私たちの弁護に立ち、私たちに日々仕えて下さっているのです! 被告席に座って、サタンの訴えを延々と聞かされるのは惨めな立場に思われるかも知れません。しかし勇気を出しましょう、私たちがどんなに弱くとも、主イエスご自身が私たちのために贖いとなられ、その血潮によって私たちを清めてくださり、私たちを弁護するために仕えて下さっているのです。これほど頼もしく光栄なことがあるでしょうか。小羊の血によって対処するならば、サタンのあらゆる訴えが無効になります。生涯、小羊の血によって、私たちはサタンの訴えに打ち勝たねばなりません。私たちは生涯、主イエスの血に頼り、キリストの御血に信頼しなければなりません。

「神はわたしたちを多くの無意味な訴えから救い出すことを願われます。神はそれらのくさりを断ち切りたいのです。来る日も来る日も訴えを受け入れ続けることが、わたしたちの謙遜であるなどと決して思ってはなりません。わたしたちはこれらの訴えにうち勝つことを学ばなければなりません。<…>勝利者は、血の価値を知らなければなりません。」(p.154-155)