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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

十字架に戻れ!(3)

補足:カルバリについてのありがちな重大な誤解について

 以下に書いてきたような十字架のより深い認識について語ると、ある人はこう反駁します、「御子はすでに十字架上で勝利を取られたのだから、もはや私たちにはすることは何も残されていないはずです。サタンはすでに敗北しているのでしょう? 戦いはもう終わっているのでしょう? 私はもうサタンから完全に解放されたので、二度と、罪は私に触れることはできなくなったのです。私は神によって聖なるものとされ、もはや罪けがれとは全く無縁の人間になったのです。なのに、どうして私がこれ以上、サタンを恐れたり、警戒したりしなければならないのですか。どうして私がこれ以上、サタンの道具となるようなことがあり得るでしょう? そんなのは嘘です。そんなのはクリスチャンに対する侮辱です。サタンは敗北しているのです。彼はクリスチャンに対して何の権利も持たないのです。

 ですから、日々サタンは状況を通して私を圧迫しているとか、私の内に残る旧創造をサタンが利用して私に何とか罪を犯させようとしているとか、その旧創造を私がさらに十字架で死に渡さなければならないとかいった類の話は信じません。十字架を信じた時に、私はそれら一切からすでに解放されて、旧創造から全くきよめられたのです。この上まだ、解放を求める必要があるとは思えません。」

 読者よ、このような短絡的な誤りに落ちてはなりません。このような言い分は、二つの点で完全に誤っています。一つ目の間違いは、このような考えは、キリスト者が生涯においてずっと、十字架にとどまり続け、絶えず十字架が彼に適用される必要があり、そうでなければ彼はサタンに勝利する力を持たないという事実を見落としていること、また、十字架には罪からの贖いに加えて、私たちの古い命の性質を対処するという、より深い意義があり、私たちがそれを理解しておらず、求めてもいないうちに、それが私たちの意志を越えて自動的に適用されることはない、という事実を見落としてしまっている点です。

 十字架は永遠に達成された事実です。私たちは信仰によって、それを信じ、罪からの贖いを受け取り、クリスチャンとされました。しかし、十字架の意義はそれが全てではありません。私たちが罪からの贖いを受け取っただけであるのに、そこであたかも信仰の歩みはすべて完了してしまったかのように思い、私たちにはもう何もすることは残されておらず、十字架のさらに深い意義を経験する必要もないと考え、自分はもはやいかなる罪なる性質とも無縁な、完全にきよめられた人となったので、サタンを警戒する必要もなくなったと考えることは、完全な間違いです。

 私たちが主イエスを信じた瞬間から、神は、御子を受け入れたのと同様に、私たちをも受け入れてくださいます。私たちは救いを得た瞬間から、神の子供たちとされ、御子のあらゆるご性質にあずかるものとなりました。しかし、それは私たちの地位を保証しているのであって、私たちの実際の経験を表しているのではありません。実際には、救いを得た直後には、私たちは幼子のようなクリスチャンであって、さらに成熟していく必要があります。この地上において、私たちが、主に従う成熟した働き人となるためには、私たちは自分の古い命の性質が何であるかを知り、それが十字架を通して対処されることを避けて通るわけにいきません。

 思い出してください。ペテロは主イエスをとても愛して従っていたので、たとえ全ての弟子が主を見捨てて逃げ去っても、自分だけは、主を裏切ることなどありえないと自負していました。しかし、その愛は、彼の生まれながらの人(旧創造)から出て来た愛であり、いわば、彼の肉による誇りでした。それは主に従うには全く役に立たないものでした。しかし、その時、ペテロは自分に自信を持っており、自分の生まれながらの肉の強さが主に従うのには全く役に立たないものであり、むしろ、取り除かれなければならないものであるとは考えてもみませんでした。そこで、イエスは、ペテロが主を裏切り、見捨て、三度に渡って主を否定するという手痛い失敗を経験することを通して、自分が頼みとしてきたものが、神の御前では腐敗したものであるという事実を知り、自分の生まれながらの命が、主に従うのには全く役に立たないことを理解するよう導かないわけにはいかなかったのです。

 主に従うためには、私たちの生まれながらの、肉による力や、生まれながらの魂から来る感情は役に立ちません。主に従うためには、ただ上から、御霊によって与えられる新しい命の力や愛がなければならないのです。しかし、私たちはその事実をほとんど知っておらず、何が肉であり、何が御霊からのものであるかさえ、区別がついていません。そして自分勝手な思いに基づいて、主を喜ばせようとして、肉に頼って歩んでいることが多いのです。そこで、主は私たちにそれらの区別を知らせ、私たちの生まれながらの命の性質が死ななければならないものであることを教えるために、様々な出来事を按配する必要があるのです。

 神はどんな事柄についても、人の自由意志を尊重されます。それは、言い換えるならば、私たちの同意なしに、神は私たちの内で働かれないということを意味します。私たちが、日々、信仰と意志を活用して、神に向かって、具体的に祈り求め、信じた分だけしか、神は私たちに働くことができないのです。たとえ私たちの内にどれほどの腐敗が残されていたとしても、神は私たちの意志を越えて私たちを対処することはなさいません。それほどまでに、神は人の意志を尊重しておられるからです。

 このことは、私たちの内の古き人が十字架で対処されることについても言えます。神は決して、強制的に、あるいは自動的に、十字架を通して、何が何でも、私たちの古い命を対処するというようなことはなさいません。それは私たちの信仰による理解と求めに応じて、実際となります。もしも私たちが、キリストと共に、十字架で自分の肉がはりつけにされたという事実を信じないらば、十字架は実際に私たちの肉の働きを殺すことはありません。もしも私たちが十字架で自分の古い命の性質が死んだという事実を信じないならば、それは私たちの古い命の性質を実際に死に渡すことはありません。

 私たちの信仰(理解し、求めること)に応じて、十字架はより深く私たちの内に働きます。私たちが理解しておらず、求めてもいないものが、自動的に、私たちに適用されるようなことはありません。私たちがただ罪からの贖いのためだけに十字架を信じているうちに、十字架を通して、私たちの古き命の性質が死に渡されるようなことはないでしょう。後者は、私たちがより深く十字架の意義を認識し、それを求めた時に、それに応じて実際となるでしょう。

 私たちは恐らく、ペテロの失敗とよく似たような体験を通して、救いを得た後になっても、様々な出来事を通して、依然として、自分の肉がまだ生きていることを知るでしょう。主に従っているつもりが、肉によって歩んでいるだけであることを、神からの光を通して、何度も、何度も、教えられるでしょう。こうして、自己の腐敗の深さを知り、十字架を通して、自己を対処される必要があることを、私たちは、幾度も学ばされます。私たちは、救いを得たからといって、決して、その瞬間から、いかなる罪や汚れとも無縁のスーパーマンになったのではないことを思い知ります。救いを得た後も、私たちの自己は、依然として生きており、常に主に従う妨げとなっており、サタンを利する機会を与えていることを知らされるのです。それが分かる度に、私たちは沈痛な思いで、以前よりもさらに深く自己の腐敗を感じるようになるでしょう。そして、深いうめきを持って、その腐敗した性質から神が私たちを解放して下さることを願い求めるようになるでしょう。その時、私たちは十字架を以前よりもより一層深く理解し、旧創造を殺す十字架の働きを求めて祈るようになります。

 もしも私たちが「自分の内には十字架で対処されなければならないような古き命の性質は何もありません」と言い張るならば、神がそれを対処されることはありません。ですが、もし私たちが様々な失敗を通して、自分の内にある古い命から来る性質が、十字架によって死に渡される必要があることを認め、それを望むなら、その時、十字架上での御子の死はあなたの内で実際となり、古い性質は死に、よみがえりの命によって、あなたは全く新しくされるでしょう。

 こうして、十字架を通して、生まれながらの命である自己が対処されることは、一瞬で終わるようなことはなく、生涯に渡って、何度も、何度も続くでしょう。それなくして、私たちがさらにきよめられて、御心を地に成すための忠実な働き人へと変えられていくことはありません。自己の腐敗が明るみに出され、私たちが主の光によって倒されることは、痛みを伴う過程ですが、このような、痛みを伴う日々の十字架を避けながら、クリスチャンが実際にキリストの似姿へと変えられていくことは決してありません。

 これは決して、禁欲主義的な自制を通して、私たちが自分で自己を抑圧することと混同されてはなりません。私たちの旧創造を対処できるのは、神ご自身だけです。十字架は確かに、私たちが全く新しい人へと変えられる権利を保障してくれています。私たちは、それを信仰によって受け取り、神の命によって、日々、新しくされる必要があります。ある日、信じたから、それで終わりということは決してありません。古き命に死に、新しくされることは、人生を通じてずっと続かなければなりません。私たちはパウロのように、自分は日々死んでいるという認識に立たねばなりません。神の命の現われを妨げている私たちの自己、すなわち、古い命は、日々、死に渡され、無効にされなければなりません。

 そんなわけで、もしも前進するクリスチャン生活を送りたいのであれば、このようにしてキリストとの結合を積極的に選び取ることは、生涯、必要です。もしも、私たちが、日々、自分の十字架を取って、イエスに従うということを自主的に選び取らないならば、もしも自分の生まれながらの命の性質を憎み、それが死に渡される必要があることを認めないならば、私たちは、(たとえ永遠の命は得ていたとしても)、キリストの似姿へと変えられるチャンスを失うでしょう。キリストの死とよみがえりの命は、私たちの信仰による日々の応答なしに、自動的に私たちに適用されません。もしも私たちが自分の中には何もきよめられる必要のあるものはないと言うならば、神はそれ以上、私たちを新しくすることはなさらないでしょう。御子の勝利は永遠ですが、私たち自身が、御子の勝利を実際に受け取るためには、日々、私たちが肉を拒んで、肉を死に渡して、御霊によって歩むことを選び取っていかねばなりません。そこに一種の戦いがあることは明白です。

 さらに、前述のような意見の二つ目の間違いは、今の時代が何であるかということを読み違えている点です。御子が十字架でサタンに対して勝利を取られたのは永遠の事実です。しかし、この時空間において、今はまだサタンが実際に滅ぼされて地上から一掃されていないことは明らかです。今は恵みの時代です。御言葉がはっきりと語っているように、この時空間の中では、サタンはいまだにこの世を占拠しており、この世の君として支配、君臨しているのです。あなたは今、地上を見渡して、地上には災いも悲惨も流血もなく、サタンはすでに滅ぼされて地上を支配する権限を失っているので、クリスチャンは安堵してよいと言うことができるでしょうか。クリスチャンの間で、サタンは全く働く余地を失っているでしょうか。神の子供たちの間にはいかなる争いも分裂も見受けられないでしょうか。地上はキリストの支配だけに満ちているでしょうか。

 いいえ。永遠においては、カルバリでサタンは滅ぼされています。その事実は決して変わることはありません。その永遠の事実は、必ずや、神の御旨に従って、この地上にも、実際の事実となっていつか成就するでしょう。しかし、私たちはまだその途上の時代にいます。サタンが事実としてこの時空間の中でも敗北し、火の池に投げ込まれるまでには、まだ時間があります。そうなるまでに、私たちは何をしなければならないと、聖書は教えているでしょうか。

 御言葉は、私たちに「目を覚ましている」ことの重要性を教えています。サタンはほえたける獅子のように食い尽くすべきものを求めて地上を歩き回っており、神からのものとみまごうようなしるしと不思議と奇跡を行って、あわよくば、選民をも惑わそうとしていると御言葉は教えています。今の時代にあって、サタンは依然としてこの世を支配しており、多くの人達を罪の虜にすることによって、自分の滅びの道連れにしています。暗闇の勢力は、人の肉や魂を拠点として、人に働きかけ、人に住み込み、悪を行わせ、人を食い物として活動しているのです。サタンは神に逆らう人達を道具として用いることによって堕落した考えをこの世に普及し、さらに、人々の好みに合わせた偽の教えを流布することによって、キリスト者の思いをさえ不信でくらまし、神の民でさえも惑わそうと、日夜、激しく活動しているのです。御言葉は、信徒がこのサタンに対して信仰によって武装し、油断なく立ち向かう必要を教えています。それは、もし油断するならば、選民でさえサタンに惑わされる可能性があるということをはっきりと物語っているのです。

 キリストが達成された永遠の事実に基づいて、この時空間の中でサタンの敗北が実際となるためには、聖徒たちがさらに祈り、教会がさらなる前進を遂げなければなりません。クリスチャンたちは「御国が来ますように」、「御心が天になるごとく、地にもなりますように」と、祈ります。また、「主よ、来たりませ」と祈ります。それは、今の時代、教会がまだ前進している最中であるからです。御心は(永遠においては不変ですが)まだ今の時代にあってはこの地上に成就しつつある途中です。キリストの支配は地上にはまだ完全に確立されてはいません。キリストはまだ再び地上に来られてはいません。ですから、私たちはそれを求めて祈りつつ、自分自身が世の光として、御国を実際にこの地に現し、流し出していく管となる必要があるのです。もしも、私たちが日々の生活において、罪と欲に溺れ、サタンを実際に敗北させていないどころか、自分が罪の虜となって、暗闇の支配の中に生きているならば、どうしてそこに教会の前進があると言えるでしょうか。もしも私たちクリスチャンが肉に従って歩み、御霊を妨げているならば、どうしてそこに御国が現れていると言えるでしょうか。

 私たちを通して、内なる聖霊が生ける川々となって流れ、御国が実際にこの地にもたらされる時、初めて、サタンは敗北して私たちから逃げ去るでしょう。そうしてサタンに占拠されていた場所が、明け渡されることによって、そこに御国の秩序が到来するのです。この働きは、霊的なものであり、決して、地理的な領土の話であるかのように誤解されてはなりません。教会の地上の領土が広がり、教会の数が増えることや、クリスチャンの人数が増えることが、御国の拡大を意味するのではありません。御国の拡大、前進は、霊的な領域の事柄であり、何よりもまず、私たちの内側でこそ、日ごとにより深く、成就しなければなりません。まず、私たち自身の古き人が日ごとに十字架上で死に、私たちが日ごとに、古い命に従って生きるのではなく、キリストの新しい命によって生かされる新しい人とならなければ、どうして私たちは神の国を他の人にもたらすことができるでしょうか。

 一粒の麦が死ななければ、豊かに実を結ぶことはありません。これが神の国の変わらない原則です。御霊の現われを妨げている私たちの天然の命が死に渡される時、初めて、御国に収穫がもたらされるようになるのです。古き命が死んで、復活の命が芽生えた場所にのみ、御国が現れることができるのです。これが御国が地に実際にもたらされることの内容であり、私たちが自分の天然の命を拒み、神の命によって新しくされるその度合いに応じて、私たちを通じて、御国が実際に地にもたらされるのです。クリスチャンは、このようにして、神の国である教会を前進させ、神の光を世の光として輝かせ、闇を駆逐する使命を負っています。私たちがそれを成し遂げるならば、すみやかに主はこの地に来られるでしょう。

 いずれにせよ、私たちはまだサタンが激烈な活動を行っている時代に生きていることを忘れるわけにいきません。それを前にしながら、「主イエスが十字架で勝利を取られたのだから、私たちにはすることはもう何も残っていないし、私たちがもはや二度とサタンの虜にされることはなくなったので、安心して良い。」と、安易に考えてまどろむのは愚かなことです。私たちは決して、サタンを恐れる必要はありません。御子がサタンをすでに打ち負かし、世に勝ったのですから、それをあらゆる状況に対して信仰によって適用することが私たちに権利として与えられているのです。しかし、私たちが勝利を得るためには、「目を覚まして」いなければなりません。サタンが信者をさえ惑わそうと罠をしかけることを知り、目を覚まして警戒し、その罠を見破り、罪の誘惑や圧迫がやって来る時には、カルバリを拠点として、サタンに決然と立ち向かう必要があるのです。

 私たちは、御子の十字架に堅く立ち、キリストの死を絶えず自分の死として受け取り、この世の古い命の性質や、罪けがれとは一切関係のない、キリストの命によって新しく生かされることによってしか、サタンに対抗できません。しかし、それは、私たちが何も考えず、目をつぶっていても、自動的に起こる勝利ではなく、私たちが日々、信仰と意志によって選び取らねばならない決断です。ある日、十字架を信じたので、その時から、私たちにはもはやキリストの死と復活に自分を同一化することは二度と必要なくなったと考えるのは愚かなことです。

 神は人を通してサタンの敗北がこの地で実際となるよう願っておられます。そのために、神は御子の御血によって私たちのために道を切り開かれたのです。私たちは御子が開かれた道を通って実際に進んで行かねばなりません。御子によって永遠に達成された事実を、日々、信仰によって、自分自身に、また、実際の状況に適用しなければなりません。もし私たちが絶えず、キリストの死を自分の死とみなし、キリストの復活を自分の復活とみなさないならば、私たちはキリストとの結合から切り離されます。キリストとの結合から切り離されれば、御子の勝利は私たちには無関係なものとなり、私たちがサタンに勝利できる根拠はもはや何一つなくなるのです。

 十字架の意義は、罪からの贖いだけには終わりません。私たちはこの地上を生きている限り、さらに深く十字架を理解し、実際に経験していく必要があります。そのことを通して、私たちは御霊に従って歩むとは何であるかを理解し、神から賞与を得られる生き方を地上で送る秘訣を学ぶでしょう。旧創造から解放されて、罪の痕跡を一切持たない、御子の似姿なる新しい創造へと限りなく近づいていくことができるでしょう。神が人を通して実現しようと願っておられる素晴らしい計画を実際に生きることができるでしょう。
 十字架は理論ではなく、私たちが実際に経験していく必要があります。それは一歩、一歩、信仰によってたゆみなく続けられる歩みとなるでしょう。十字架はクリスチャンの生涯に、いかなる瞬間も、もはや要らなくなったとは言えないものです。十字架だけが、私たちをキリストへ結合し、私たちに、サタンに支配される旧創造に対する勝利の力を与えます。私たちが日々、目を覚まし、意志を活用して、常にカルバリの立場に立ち続けるならば、サタンは私たちから逃げ去り、主イエスが取られた勝利は、この地に実際としてもたらされるでしょう。
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十字架に戻れ!(2)

ここ数日、サタンの放つ火矢に私は連日のように悩まされていました。その戦いの中で私は徐々に後退していました。十字架について語りながらも、私自身が、その十字架にとどまることが困難となっていたのでした。
 サタンは、アダムから今に至るまで、常に人間を研究して来ました。彼らは人の弱点を把握するプロと言って良いでしょう。ですから、私のどこをどのように攻撃すれば効果的なのか、暗闇の勢力が知らないはずがありません。

 サタンとのその軍勢の目的は、神の子供たちを十字架から引き離すことです。十字架を離れては、私たちには悪魔に打ち勝つ力がないことを暗闇の勢力はよく知っています。神の子供たちが十字架のもとを離れるようにと、敵が仕掛けてくる攻撃や作戦は数え切れません。

 暗闇の勢力は、人の中にある、まだ十字架で対処されていない「古き人」を足がかりにして攻撃します。彼らは私の弱点に対して一斉に火矢を放ち、私が霊的な穏やかさを完全に失うように仕向けます。私の願いが踏みにじられ、私が自尊心を傷つけられ、過去の悲しい出来事を思い起こさせられ、極度の悲しみや、疑いや、憤りで心がいっぱいになるような出来事を引き起こし、私が圧迫されて、それらの感情に完全に落ち込んでしまうように仕向けるのです。

 一例を挙げるならば、しばらくの間、私にはどういうわけか、まるで、会う人、会う人のすべてが、私の過去の心の傷を再び思い出させ、それを生きたものとするためだけに特別に派遣されて来たかのように見えました。耳に入って来る会話という会話のすべてが、私に特別な惨めさや、むなしさや、孤独を味わわせました。私は外から負わせられる重荷にどのように対処すべきか、まだ学んでいませんでした。その感覚があまりにも強く押し迫ってきたので、私は耐え切れないほどに圧迫され、魂は混乱の渦に投げ出され、ただ耐え切れない思いで、そこから逃げ出し、主の御許で涙を流すという他になすすべがありませんでした。

 その惨めな印象が覚めやらぬうちに、さらに、私が傷ついていることをよく知っている暗闇の勢力は、今度は私に自分を憐れむようにとささやきかけて来ました。「あなたには、未だに対処されていない心の傷があるんだよ。そんなにも心の傷の多いあなたが、すぐに十字架を負って、神の召しに応じるなんて、とても無理。あんまり高度な話題にふけらずに、今は自分の弱さを十分に考慮して、自分をもっともっと大切にした方が良いですよ。今は傷ついた感情をいたわり、神と人に十分に憐れんでもらうことだけを考えなさい。」

 連日のように、こうして、私の「心の痛み」が強調させられる事件が重なり、私はへとへとになりました。一体、このような場合、どうやって自分を憐れまないでいられるでしょうか。十字架は、こういう事柄に対処するには、あまりにも漠然としており、一般的すぎて、特に、私のような特殊な事例には当てはまらないように思えてきました。十字架の他に、もっと人の心の傷を早急に思いやりをもって癒すために、個別の、温かい方法がないものでしょうか。だんだん私はそのように思い始めていました。

 しかし、そんな考え方こそが欺きなのです!
 神は私が過去に立ち戻って、再び自分の心の傷を温め返し、自分を憐れみ、いたわるようにとは、全く命じておられません。神が命じておられるのは、私がそうした生まれながらの命に基づく思いや感情に従って歩むことではありません。むしろ、神が私に願っておられるのは、それらすべてがすでにキリストと共に死んだのだという事実を私が信仰によって受け取り、それらの圧迫が押し寄せてくる時に勝利すること、たとえ私自身は弱く未熟であっても、主によって「強くなる」秘訣を学ぶことでした。

「神がわたしたちの中で働かれるのを妨げるものの一つに、邪悪な生まれながらの命の活動があります。それは絶えずわたしたちをその霊(聖霊―筆者注)から引き離し、その霊の中を歩けなくさせます。わたしたちの霊は、絶えずこの邪悪な影響を受けています。そして、わたしたちは自分の霊を支配できず、神の静けさの中を歩くことができません。

この十字架につけられていない邪悪な性質はまた、サタンとその邪悪な霊が利用して、燃え立たせることができる道具でもあります。それゆえ、それはわたしたちとやみの力との戦いの多くの原因となるものであり、彼らが絶えず攻撃するための『土台』となるものです。<…>彼らはそこに『土台』がある限り、繰り返し戻ってきて戦いをいどむのです。」(ウォッチマン・ニー全集第一巻、「クリスチャン生活と戦い」、付録1、チャールズ・アシャー、「十字架に戻れ!」、p.244-245)

 何と恐ろしいことでしょうか! 私たちの中にある十字架にまだつけられていない古き人の性質、アダムに属する生まれながらの肉なる性質(旧創造)は全て、知らず知らずのうちに、サタンに用いられ、サタンが私たちを攻撃するための土台となっているのです! たとえば、もしも私が過去に受けた心の傷、そこから来る痛み、悲しみや孤独といったものに固執し、それらが十字架を通して死んだことを認めようとせず、未だ生きた傷とみなすならば、それは絶えずサタンと邪悪な霊たちが戻って来ては、攻撃をしかける足場となるのです。神の子供たちの多くは、神を信じた後も、なおもこうしてサタンの道具とされています!

 この他に、私たちの怒りっぽさ、疑り深さ、自己憐憫、妬み、恨み…数え切れない性質がサタンの道具となります。たとえば、私たちは人から自尊心を傷つけられる時に、何と容易に自制心を失って、怒り出すでしょうか。そういう時に、どれほど口にすべきでない言葉を容易に発するでしょうか。また、一旦怒り出すと、どれほど長く、怒りから抜け出せないでいるでしょうか。それがサタンに機会を与えることであると知っていながら、私たちはそれでも怒りを捨てようとせず、死の毒に満ちた言葉を吐き続けるのです。また、私たちは自分が傷つけられたと思うと、死をきたらせるような悲しみにさえ簡単に溺れてしまいます。

 他にも、私たちの名誉欲、自己愛、競争心、妬み、高慢などがどれほど私たちの生活を害して、絶えず、キリストとの結合を失わせているか知れません。さらに言うならば、否定的な性質だけでなく、一見、肯定的に見える性質でさえ、それが生まれながらの命に属する性質であるならば、私たちを神の御心から引き離してしまう障害となり得るのです。

 サタンと邪悪な霊たちは、私たちの弱さと欠点を知りつくしています。ですから、彼らは私たちが肉に従って歩むよう、絶えず、私たちの十字架につけられていない肉なる性質に攻撃を仕かけ、その性質を燃え上がらせようとするのです。たとえば、もしもあなたが自己憐憫を十字架に渡さないならば、闇の勢力はそこを拠点として、あなたが四六時中、自己憐憫に溺れるよう攻撃してくることは避けられないでしょう。

 私たちはそれぞれ、自分の中で対処されなければならない肉なる性質が何であるかを、ある程度、知っています。どうすればそれに打ち勝ち、肉によってではなく、神から与えられた新しい命によって歩むことができるのでしょうか。そうするためには、まず、あなたは自分はキリストと共に十字架につけられ、そこであなたの古い命は彼と共に死んだ、という事実に堅く立たねばなりません。

「カルバリは、キリストがあの木の上であなたの罪を担われただけでなく、罪人たちを木へと連れて行ったこと、すなわちあなたをそこへと連れて行ったことをも意味します。あなたが、神は古い命につぎ当てをするのではなく、あなたがそれを十字架につけられたと見なして、彼から新しい命を受け取るよう要求されることを認識するようになる時、あなたは新しい命の中には、それに属するすべての特質があることを見いだすでしょう。古いアダムの命にはそれ自身の特質があり、新しいアダムの命にもそれ自身の特質があります。<…>

 さらに、人の代表としてキリストは、あのカルバリの十字架へと罪人を連れて行かれただけでなく、その十字架の上で、またその十字架の死を通して、サタンを徹底的に征服されました(コロサイ二・十五)。こういうわけで、クリスチャンの側では、サタンを恐れる必要は全くありません。サタンは、カルバリの勝利を知っている魂にとっては、完全に征服された敵です。」(付録4、ジェシー・ペン-ルイス、「勝ち得て余りがある」、p.283-284。以下は全てペン-ルイスからの引用。) 


 サタンが私たちを肉なる性質に従って歩ませようとする時、私たちはカルバリに立って、自分の古き人そのものがすでにキリストと共に死んだという事実を、信仰によって自分に適用し、再び肉によって歩ませられることを断固拒否する権利があります。それでも、ある人々は言うでしょう、「私のかれこれの性癖はもう何十年間と続いているのですよ、これを直すためにはきっと特別長い訓練が必要になるはずです」、「私の心の傷は特別に深いのです。どんな方法によっても、それを癒せるとは思えません」。

 しかし、私たちが自分なりの方法で古き命の性質を対処しようとしている限り、それは何の解決にも至りません。私たちの肉に改良の余地が全くないからこそ、神は人の肉を一切、キリストと共に十字架につけられたのです。
 私たちは罪と完全に訣別する決意を持つべきです。もしも私たちが何らかの悪癖(または性質)を手放そうとせず、それを大目に見続け、それを甘やかそうとするならば、神はその罪(性質)を対処することができません。私たちは、自分を絶えず支配しようとしている邪悪な生まれながらの命の性質が何であるかを知った上で、主によってそれと全面的に訣別するという願いをはっきり持つ必要があります。そして、その古い命の性質はキリストと共に十字架ですでに死んだのだという事実に信仰によって立ち、その性質に、これ以上、支配されない権利を私たちは持っていることを覚え、古い命の性質が活動しようとする時、その権利をいつでも行使する必要があります。

「…キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。」(ローマ六・十―十一)

キリストの死を通して救われた罪人は、罪との関係を絶つ権利を持っています。彼は、勝利を得るイエスの御名において、『罪にはわたしを征服する権利はありません』と言うことができます。
また例えば、あなたはローマ人への手紙第六章六節の立場に立って言うこともできます、『疑いを抱かせる習癖は、わたしに対して何の権利もありません。わたしはそれによって縛られることを、わたしのために死んでくださったかたの御名において、絶対的に拒みます』。

あなたは贖われた魂として、こう言う権利を持っています。なぜなら、十字架上でみわざがすでにあなたのために成されたからです。あなたは、キリストがあなたのために獲得されたすべてを捕らえ、それを自分のものとすべきです(ローマ六・十三)。このような罪に対する勝利はあなたの栄光ではありません。なぜならそれは<…>十字架上で成就されたキリストのみわざを通して獲得されたものだからです。<…>

 カルバリの勝利の事実と、サタンは征服された敵であるという真理をつかみましょう。キリストは敵をカルバリで征服されました。あなたがローマ人への手紙第六章に立ち、古い命は十字架につけられたと見なす時、あなたの霊はキリストへと結合されます。

『主に結合され、一つ霊となる!』。あなたは一人で出て行って、強くて恐ろしい霊の敵と戦うのではありません。『主と結合された』あなたの霊は、彼と『一つ霊』です。キリストは征服者です。そしてあなたは、一つ霊の中でこの征服者と結合されています。

 神は、あなた自身によってあなたに勝利を賜るのではありません。彼は、あなたが霊の中で勝利者に結合されることによって、あなたに勝利を賜るのです『あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである』(Ⅰヨハネ四・四)。<…>わたしたちは征服者に結合され、勝利者に結合され、一つ霊の中で結合されているのに、敵の前ですくみ、震えるのでしょうか?」(p.285-286)

 あなたの古い命の性質がキリストと共に十字架につけられたという確信に立つ時、初めて、あなたの霊はキリストに結合されて、キリストという征服者を通して、あなたは古い罪なる性質に勝利する力を得るのです。圧迫がやって来る時、あなたは自分の怒りや、悲しみや、憐れみなどによってそれに対抗しそうになるかも知れませんが、生まれながらの古い命から出て来る思いや力をもって戦うべきではありません。キリストとの結合の中にとどまるべきです。キリストとの結合のない戦いはあなたを勝利に導かず、かえって、あなたを肉によって歩ませ、サタンに支配させることにつながるのです。

「…あなたがカルバリへとやってきて、古いアダムの命がキリストと共に十字架につけられたという事実に堅く立つ時にはじめて、その『結合』がわかるでしょう。なぜなら、『古い命』は邪魔をして、何らかの『戦い』をしてしまいますが、それは敵に対して何の役にも立たず、むしろあなたを支配する立場と力を敵に与えてしまいます。

こういうわけで、古いアダムの命は十字架につけられたと見なされなければなりません。なぜならそれはサタンにとって道具であるからです。もし古い命が絶えず死の立場にとどめられるのでなければ、それはサタンが『火の矢』を放つ道具となります。サタンは、旧創造すべてを支配する全き権利を持っています。彼は、あなたの中にある古い命のまだ『十字架につけられていない』部分を知っています。そして、すべての火の矢をその部分に向けてきます。これらの矢には、その先端に地獄の火(ヤコブ三・六)がついています。そして、それがあなたの中に入ると、燃え上がり、炎を上げて燃え、あなたを『炎』にしてしまいます。
 あなたはクリスチャンの中に『炎』を見る時、それがどこから来るのかわかります。それは、古い命からやってくるのです。」(p.286-287)

 私たちの旧創造、私たちのアダムに属する部分、私たちの内で十字架につけられていない古い命の性質は、サタンに打ち勝つ材料とならないどころか、むしろ、サタンに利用される絶好の足がかりとなってしまうのです。サタンはあらゆる機会をとらえて、私たちの古い命の性質を燃え上がらせようと、地獄の火のついた矢を放ち、もし私たちが十字架の立場に立ってそれらの古い命の性質が死んだものであることを認めないならば、私たちの全身がその炎に飲まれてしまう結果になるのです。(自尊心をひどく傷つけられた人が、しばしば、制御できない怒りや悲しみ、恨みや嫉妬などにとらわれて「燃え上がって」しまうことを思えば、このことはよく理解できるでしょう。そして彼らは間もなく自分を不義の道具として捧げてしまうことになるのです。)

「舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。」(ヤコブ三・六)

 このような炎で全身を燃え上がらせてはなりません。私たちが自分の身体を不義の道具とするようなことがあってはいけません。しかし、それを避ける方法は、ただ十字架にのみあります。

「神の子よ、あなたは『かっとなって』、言うべきでないことを言うことがあるでしょうか? あなたは不親切な事柄にすぐかっとなって、サタンによって『火で焼かれる』のでしょうか? これは、勝利を得ることができる『戦い』ではなく、常に敗北する戦いです。あなたは、ローマ人への手紙第六章の重要性を見ているでしょうか? もしあなたがローマ人への手紙第六章に立たないで、サタンを攻撃しようと企てるなら、何と彼はあざけり笑うことでしょう!

 彼は、『なぜわたしに属する『持ち物』がそこにあるのか。彼らはわたしの『物』をたくさん持っている』と言うでしょう。あなたは『強い人』を縛り上げることはできません。なぜなら、彼の家財は、あなたの中にあり、またあなたに関するものだからです。こういうわけで、あなたはカルバリの立場を取り、絶えず古い命が十字架につけられていると見なさなければなりません。それは、地獄からの火があなたに降りかかり、『生存の車輪』を燃やすことがないためです。それにはすでに、サタンがエデンで人に対して勝利を得たことを通して、蛇の毒があります。

 この黄泉のししとの戦いのためには、小羊の霊、しし―小羊、イエスの霊がなければなりません。火の矢がやってくる時、あなたの中に小羊―霊のおられることが見いだされるのでなければなりません。しかしながら、多くの人々はあなたを踏みつけ、虐待し、苦痛を加えるかもしれません。あなたの中には、『義の憤り』と呼ばれる炎があってもいけません! カルバリの解放が、そしてカルバリの小羊―霊が、必要となります。」(p.287-288)


 アダムの堕落以来、この世だけでなく、人の旧創造に属する部分も全て悪魔の家財となってしまいました。私たちは救いを得る前には、ただ罪にそそのかされて暗闇に生きるだけであり、存在そのものが悪魔の持ち物であったと言えるでしょう。しかし、救いを得た後でさえ、私たちの古き命の中で十字架につけられていない性質は、まだサタンの「家財道具」となって、敵に利用され続けています。

 「…まず強い人を縛りあげなければ、どうして、その人の家に押し入って家財を奪い取ることができようか。縛ってから、はじめてその家を略奪することができる。」(マタイ十二・二九)

 サタンの支配下から、捕われている家財を取り戻すためには、誰かが「強い人」(サタン)を縛り上げねばなりません。そうしてサタンを征服されたのは、カルバリにおける御子イエスだけです。ですから、サタンを征服したカルバリの立場に立つことによってしか、私たちにはサタンの道具とされている古き命の性質に打ち勝つことはできないのです。
 たとえ人からどのように侮辱され、自尊心を傷つけられたとしても、生まれながらの命から出て来る義憤などによってそれに対抗してはなりません。肉の力によって戦おうとすれば私たちは炎に焼かれなければならず、ただ敗北が待っているきりなのです。サタンに立ち向かうためには、獅子のように強い小羊の力によって、霊的に武装する必要があるのです。
<つづく>

十字架に戻れ!(1)

今日、神の子どもたちに対して、サタンは何と巧妙に彼らが直面している霊的な戦いの実際と、その唯一の解決方法である十字架を隠そうとしていることでしょう。今日のクリスチャンたちの弱々しい様を見ればそれは明らかです。今や、クリスチャン同士が各地で互いに争い、傷つけ合い、教会は目を覆いたくなるほどの邪悪な事件に見舞われています。

 幼いクリスチャンたちは、十字架についてのより深い認識が欠けているため、神を信じた後になっても、自分の内に残る古き人(旧創造、肉と魂)を十字架で死に渡す経験がありません。そこで、彼らの全く対処されないままの古き人は、サタンにとってどれほど絶好の作業場となっているでしょう!
 たとえば、私たちの魂の持つ怒りっぽさや、性急さ、頑固さや、妬みや、自己憐憫、自惚れ、功名心などを考えてみるだけでよいのです。私たちの内側に残る数え切れないほどの利己的な性質が、外側からの邪悪な勢力の働きかけによってあまりにも簡単に敵に利用されています。その時、ほとんどのクリスチャンは、自らがサタンによって利用されていることを知るよしもなく、心の赴くままに従って、互いに裁き合い、互いに挑み合い、噛み合って、虚栄に生きているのです。

 サタンはこうしてクリスチャンたちの内側にある、十字架で対処されていない古き人の領域を足がかりにして働くことにより、クリスチャンを罪に陥れようと絶え間なく試みているだけでなく、外側からも、邪悪なこの世的な空気を用いてクリスチャンを汚染しようとしています。堕落した映像や言葉、価値観が、私たちの目にひっきりなしに飛び込んで来ます。また、日常生活にも、あらゆる困難を降り注ぐことによって、サタンはクリスチャンを消耗させます。私たちが暗闇の勢力に対する戦いに積極的に踏み出すならば、困難や誤解がひっきりなしにやって来ることを経験するでしょう。

 これら光の子らをひっきりなしに襲っている困難が、どこから来たのかを明確に見分け、また、どのようにしてその試練に立ち向かうのかを知らなければ、私たちはそこで訳が分からずに、ただ消耗し、絶望し、意気消沈する他なく、敗北を避けられません。
 チャールズ・アシャーは「十字架に戻れ!」のメッセージの中でこう言います。

「イエス・キリストは十字架へと行かれた時、わたしたちの罪のために償いをされただけでなく、わたしたちの霊的な敵であるサタンを打ち破られました。これは、カルバリにおけるキリストの働きの最も重要な部分です。

なぜなら、人は内側で罪に縛られているだけでなく、外側でサタンにも縛られているからです。イエス・キリストの働きのこの面を見失うことは、悪との戦いにおける立場を非常に弱めます。カルバリの勝利においてのみ、神の子供は、今日広がりつつあるサタンの力の現在の活動に立ち向かうことができます。

 サタンは、教会が天に向かって前進する道を彼の力によって遮り、こうしてキリストが地上で王として支配するために戻ってくるのを遅らせています。これらの力は霊的で、邪悪なものであり、霊的武具によってのみ対抗することができます。」(ウォッチマン・ニー全集第一巻『クリスチャン生活と戦い』、付録一、p.249-250)

 クリスチャンをいかにしてサタンが弱体化させ、キリストの再臨をいかにしてサタンが遅らせているか、その真の原因を、今日の聖徒たちは、ほとんど理解していません。クリスチャンは、むしろ、本質的な原因とは何の関係のない地上的な事柄に熱中することによって、再臨を早められるかのように誤解しています。たとえば、ある人たちは、地上にまだ教会の数が少なすぎることが、再臨を押しとどめているのだと思い、もっと多くの教会を建てようと運動に励んでいます。ある人々は、クリスチャンの小規模な集まりが必要であると思い、家庭的な規模での集会を増やそうと励んでいます。ある人々は、信徒を弟子として訓練することによって成熟させることが必要であると思い、弟子訓練プログラムを導入することに熱中しています。ある人々は、聖書の勉強会を開き、ある人々は、カウンセリングによってクリスチャンの心の傷を癒すことに熱中し、ある人々はカルトを取り締まり、キリスト教界を浄化することに必死です。

 しかし、これらの人為的な方法は、いずれも、私たちの地上の持ち物や、魂の知識を増し加えることはあったとしても、クリスチャンが敗北している真の本質的な原因には触れていませんし、それに対する何の処方箋ともなっていません。教会が天に向かって前進し、地上にキリストの支配をもたらすために、このような人為的な方法は何の役にも立ちません。なぜならば、再臨を遅らせている本質的な原因は、クリスチャンとサタンとの霊的な戦いにおいて、クリスチャンが勝利が得られていないことにあるからです。

 さらに、もっと悪いことに、暗闇の勢力との霊の戦いを主張している人々でさえ、その多くは欺かれて、無意味な戦いに時間をむなしく費やしています。ある人々は、ただいたずらに他宗教に敵対して、宗教の霊に対して戦いを挑んだり、悪霊追い出しの祈りに熱中していますが、これらの方法は正しくありません。

 クリスチャンはまず、私たちに敵対している勢力とは、あれやこれやの特定の霊力に限られたものではなく、その背後にいて彼らを操っているこの世の君(サタン)であることをまずはっきりと認識しなければなりません。そしてサタンと戦う方法はただ一つしかないこと、十字架を離れて私たちは敵に勝利できないことを認識すべきです。

「しかし、ある人は問うことでしょう、『どのようにして悪魔は、キリストが戻ってこられるのを遅らせることができるのでしょうか?』。
 それは、教会を敗北させておくことによってです。<…>

 神の民の多くは地的な事柄に注意を奪われているため、霊的な領域の事柄は彼らにとって全く聞きなれないことです。
 もう少し霊的な思いを持っている他の人も、絶えず打ち破られています。なぜなら、邪悪な力との戦いに立ち向かうための装備が貧しいからです。悪魔は、彼らの働きを絶えず侵害し、その労苦において彼らを悩ませることができます。そして彼らは、その攻撃がやってくる源がわからず、屈服し、こうして打ち破られてしまいます。
敵は彼らの働きを妨げるだけでなく、彼らの個人的な生活もまた敵の憎悪の対象となります。家庭問題、不和、誤解が次から次へと起こり、ついには彼らが絶えず消耗させられる状況が生み出されるに至ります。<…>
 わたしたちがそれらに抵抗しない理由は、その攻撃の真の原因を認識していないからです。わたしたちは、わたしたちの問題のひそかな、巧妙な源であり、わたしたちの考えの及びもつかない者であるサタンをそのままにしておきました。

しかし、わたしたちの目が開かれて敵を見いだす時、わたしたちはやみの力との個人的な霊的戦いへと召されたことに気がつきます。わたしたちはまた、教会に反対し、この世を支配している邪悪な力について、より広い幻と神聖な理解を得ます。そして、それらが超自然的で、サタン的なものであり、よみがえられた主との結合の中にある神の子供が抵抗しなければならないものであることを認識します。」(p.250-251)

 そうです、教会と個々のクリスチャンをあらゆる面で消耗させ、敗北させている真の原因はサタンであることをまず知らなければなりません。私たちはよみがえりの主を信じた瞬間から、望もうと、望むまいと、そのような戦いの中にすでに一歩を踏み出しているのです。では、その戦いに打ち勝つためにはどうすれば良いのでしょうか。「サタンよ、出て行け!」と大声で叫べばよいのでしょうか。悪霊追い出しの祈りに何時間も、熱中すれば良いのでしょうか。家の隅々の暗い一角に向かって悪霊払いをすればよいのでしょうか。そのような考えは完全に誤っています。

「しかし、どのようにして神の子供は、悪魔とその軍勢を征服することができるのでしょうか?
 ただイエス・キリストとの生き生きした結合を持つことを通してであり、サタンが完全に屈服される場所であるカルバリを霊的に認識することを通してです。

何と敵は注意深くこれを隠そうとしてきたことでしょう! また彼は何と巧妙に、自分が辱められ、敗北した場所から信者を引き離そうと企てていることでしょう!
」(p.251-252)

 そうなのです、今日、キリストの十字架こそがサタンの敗北の場所であるという明らかな事実が、クリスチャンの目から巧妙に隠されています。多くのクリスチャンが霊的な戦いを完全に誤った角度からとらえ、十字架の外にある誤った方法でサタンと対決しようとしては、敗北しています。それは敵による欺きなのです。クリスチャンが悪魔とその軍勢に打ち勝つことができるのは、ただ御子の十字架、すなわちカルバリだけなのです。

「ヨハネによる福音書第十二章三一節と三二節では、キリストが上げられることがサタンを追い出すことであることを、はっきりと教えています。
『今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう』。

どこに上げられるのでしょうか? 御座にでしょうか? 違います! 十字架にです。三三節は明白に告げています。『イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとしていたのかを、お示しになったのである』。<…>
 キリストの死は、サタンとその軍勢を完全に屈服させます。しかし、その勝利がわたしたちの中にもたらされるためには、わたしたちは十字架に戻り、やみの力に対抗してそれを行使することを学ばなければなりません。そのやみの力は、この世でサタンを王座に着けるために熱心に労しているのです。」(p.252)

 クリスチャンは、十字架におけるキリストの死に常に立ち戻り、御子の十字架の死と復活の命へと自分自身を常に結合することによってしか、闇の力に打ち勝つことはできません。御子イエスは、地から上げられ、彼の十字架へと私たちを引き寄せて下さっているのです。私たちは彼の十字架の中に住まなければならないのです!
 もしも私たちが、自分はすでによみがえりの命をいただいたので、もはや十字架のキリストの死は必要ないと考え始めるならば、それは私たちに敵に勝利する力を失わせます。

「『わたしたちは十字架を離れて、よみがえられたキリストとの結合へと進むのでしょうか?』とは、神の民の多くが尋ねる質問です。そして、キリストの死を継続して生活に適用する必要があることを告げられると、彼らは言います、『しかし、わたしはよみがえられたキリストの中にいます。そして、わたしが必要とするのは生けるキリストであり、死んだキリストではありません』。

このような誤解の多くは、この祝福に満ちた真理を霊の中ではなく、文字の中で取り扱うことによります。『文字は人を殺し、霊は人を生かす』(Ⅱコリント三・六)

 キリストの霊はカルバリの霊です。十字架上のキリストの死は、キリストの命の最高の表現でした。あなたが彼の命にあずかる時、キリストの十字架の霊は、あなたの命の原則となります。
 パウロはよみがえられた主とのさらに深い結合を求めた時も、十字架を越えて進むことはしませんでした。生けるキリストとの結合が深まれば深まるほど、さらに深くキリストの死の中へと沈み込まなければならないことを、彼は見ました(ピリピ三・十)

 キリストと共によみがえらされ、生ける信仰によって彼の中に住むことは、あなたがキリストの死にあずかることを意味します。
 勝利を得るクリスチャン生活の条件は、キリストとの結合です。
 罪に打ち勝つ唯一の方法は、イエス・キリストと結合した生活によります。
」(p.240-241)


 わたしたちは、信仰によって、主の死と復活とに自分自身を結び合わせなければなりません。キリストの死だけでなく、復活だけでもなく、絶えずキリストの死と復活に結合されなければならないのです。これは私たちが一時的な過程として通り過ぎることのできるものではなく、日々、継続的に行われなければならない永遠の霊的な結合です。「主につく者は、主と一つの霊になるのである」(Ⅰコリント六・十七)。私たちは日々、この永遠の結合へと絶えず戻って行く(その結合の中にとどまる)必要があるのです。

サタンの願望は、信者を十字架から引き離すことです。そして彼は、よみがえらされた主と結合した生活を求めるよう人を駆り立てて、しばしば最も大きな成功を収めます。悪魔は、十字架を外にしては、また十字架から離れては、真の結合がないことを知っています。それで彼は、その代わりとして偽物の経験を与えるのです。

 パウロはローマ人への手紙第六章で、生ける信仰によってよみがえらされたキリストに結合され、彼の中に住むことは、わたしたちが彼の死にあずからなければならないことを意味すると、はっきりと教えています。『キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである』(ローマ六・三)
 彼はまたわたしたちに、キリストとのより深い結合は、わたしたちがより一層深い十字架の認識を持つ時にのみ可能であることも教えています。
ピリピ人への手紙三章十節を見てください。『すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり』

これが、わたしたちの知る必要のあることです。それは神学や感情においてではなく、実際の経験においてです。そしてその結果は、力に満ちた生活であり、罪、サタン、病、死、この世に対する勝利の生活です。これは、わたしたちが十字架に戻る時にのみ可能です。」(p.243)

 私たちは十字架のより深い認識を持ち、それを実際に経験する必要があります。神学的に十字架を知ることや、思いや感情、知識の中で十字架を知るだけでは、役に立ちません。私たちは十字架の経験を実際に持つことによって、個人的に、十字架をより深く知らなければならないのです。私たちの古き人が十字架によって実際に死に渡されるという経験を持つ必要があります。十字架のより深い認識について、次回に見ていきましょう。
<つづく>

キリストを着なさい

「わたしは耐え忍んで主を待ち望んだ。
主は耳を傾けて、わたしの叫びを聞かれた。
主はわたしを滅びの穴から、泥の沼から引きあげて、
わたしの足を岩の上におき、
わたしの歩みをたしかにされた。

主は新しい歌をわたしの口に授け、
われらの神に捧げるさんびの歌を
わたしの口に授けられた。
多くの人はこれを見て恐れ、
かつ主に信頼するであろう。

主をおのが頼みとする人、
高ぶる者にたよらず、
偽りの神に迷う者にたよらない人はさいわいである。
わが神、主よ、あなたのくすしきみわざと、
われらを思うみおもいとは多くて、
くらべうるものはない。」(詩篇40:1-5)

自分の力では絶対に這い上がれないほどの深い深い滅びの穴、罪の汚辱と汚泥の沼に落ちて、そこでもがき苦しみ、悲しみ、打ち砕かれ、絶望した経験のない人には、この箇所を心から理解することは難しいかも知れません。
しかし、神のご計画に従って召された者のために、万事を益として下さる神は、私たちがもしへりくだって、心から主に助けを叫び求め、己に頼らず、主に信頼し、主を信じて従うならば、どんなに深い罪の泥沼からでも、私たちを引き上げてくださり、どんなに取り返しのつかない失敗、どんなに赦されないほどの罪をも、御子の十字架を通して赦し、御子の御血によって私たちを罪から清め、愛によって私たちの恥を覆い、どうにもならない過去でさえ、主の栄光を証する機会へと変えてくださいます。

そして、御霊が私たちの内に宿り、働くようになる時、主は私たちの足取りを確かなものに変えて下さいます。私たちの歩みは、それまでのように、一歩、二歩、歩いては、またすぐに暗闇の中でけつまずいて、罪の泥沼に転落していくような、頼りないものではなくなり、まことの岩なるイエスをしっかりと土台とし、地ではなく、天をまっすぐ見上げて、サタンが足元にしかける罠を見抜いて進んで行けるほどに、堅固にされます。

御霊によって、私たちには新しい思いが与えられます。それまでのように、暇さえあれば、自分を憐れんで愚痴や不平不満を言い、心ふさぎ込んで悲しみに暮れ、あるいは、他人への妬みや陰口に明け暮れていたような汚れた思いが取り除かれ、主を思う新しい清い心が与えられます。
それと同時に、私たちの言葉も清められます。もはや以前のように日がな汚れた言葉ばかりを口にすることはできません。御霊が、私たちに神を賛美する新しい歌を授け、私たちに与えられた新しい心が、その歌を口ずさむよう促すのです。私たちは自分の心が、どういうわけか、いつも主への賛美へと戻って行くのを見て、自ら驚くでしょう。

そして私たちの周囲にいる人も、私たちを見て驚くのです。私たちの治りようのない欠点をよく知っており、私たちを見て、すでにあきらめていた人々、このような人間だけは、神でさえも、変えることはできないと、心ひそかに思っていた人々でさえ、私たちの思いや行動が、全く清められていくのを見て、目を見張り、神が確かに生きておられるのを知って驚くのです。

私たちは復活の主の証人です。私たちの口にする言葉、私たちの思い、私たちの人格、歩み、生きざまそのものが、十字架の死を経て、新しくされていなければ、それはクリスチャンの本当の歩みではありません。もしどの点から見ても、私たちが世人と何ら変わりなく、私たちの内に十字架の死の跡がなく、全く独りよがりな考えに導かれて歩んでいるだけだとすれば、そのような生活は明らかにキリストにならうものではありません。

しかし、私たちの古き人が対処され、私たちが内側から新しくされることは、決して、一瞬で済まされる事柄ではありません。回心は、ひょっとすると、一瞬で起こったかも知れません。しかし、私たちの古き人が対処されるためには、私たちが、生涯かけて続いていく十字架の深い働きに従わなければなりません。
私たちは、主を信じ、罪の汚れから救い出された後でも、自分が多くの点で、まだ古き人の特徴を引きずっていることに、きっと気づくでしょう。私たちは性急で、自分勝手で、主に従おうと思っても、少しもできないことを知り、苦闘します。主に従うと言いながら、その内実は、自分を喜ばせるために生きているだけであることを知って、落胆します。私たちの心の内に、汚れたぼろ服のような古き人にとらわれている自分自身に対する不満と、それを脱ぎ捨てて、キリストにふさわしい新しい人になりたいという切なる願いが起こらなければなりません。しかし、自力で自分を新しくすることはできないために苦しむのです。

私たちは、深いうめきをもって、主によって新しくされることを願わなければなりません。私たちがもしも、現在の自分の中には神への反逆となる要素は何もないと考え、少しも嘆くこともなく、自分に満足していられるのだとしたら、そこには神が働かれる余地は全くありません。ですが、もしも私たちが、心から、古き人から解放されて、キリストを着た新しい人となることを切に願い求めるなら、そして、そのために必要なもの全てを喜んで捧げ、主に従う決意を固めるならば、神はそこから本当に、私たちを新しくするための働きを開始されるでしょう。

私たちが喜んで従いさえするならば、十字架は、生涯、私たちの中で根気強く働き続けます。神の子供たちは、十字架を通して、永遠の命を受け取っただけに終わらず、十字架のさらなる深い働きを通して、肉体という幕屋の中にあるこの地上の歩みにおいても、主によって新しくされることを経験できます。地上にある間、この死の身体から完全に解放されることはできませんが、それでも、あなたがたはキリストを着なさいと、御言葉が教えているのですから、私たちはそれが十分に可能であると信じ、熱心に神に願い求めて良いのです。

世の多くの人たちでさえ、人間の自己があまりにも惨めなものであることを知って、何とかして自己から解き放たれ、自己を超越する方法がないかと探し求めています。古き自己から解放された、新しい人間たちの理想郷を作るために、人類は様々な社会理論をさえ考案しました。しかしそれらのものは一度たりとも人間を改良したり、新しくすることに成功したためしがありません。
キリストにある私たちは、古き人は改良することも、超越することも不可能であり、古き人はただキリストと共に十字架上で死に渡されなければならないことを知っています。私たちは、自己を改良することや、自己を超越することを求めているのではありません。キリストの死によって古き人が死に、キリストの復活の命によって新しく生まれるのでなければ、人間は誰一人、新しくされることは不可能であることをクリスチャンは知っています。

クリスチャンは、十字架の働きを生涯に渡って経験し続けるべきです。それによって、この地上にいる間にも、私たちが新しくされることが十分に可能であり、またそれが憐れみに満ちた神の御心によって、クリスチャン一人ひとりに与えられている大いなる特権であることを知るべきです。古き人を取り除くことは、神の働きです。私たちは主に信頼して、我が身を祭壇に横たえ、大祭司であられる主イエスが、御言葉の剣によって、私たちの肉と魂を刺し通し、私たちの内で、御霊を閉じ込め、御霊の妨げとなっている古き性質を徹底的に取り除かれることを願い求めなければなりません。そうすれば、日々、私たちは何が取り除かれねばならない古きものであるか、それが神に従うことのどれほどの妨げとなっているかを、御霊によって教えられ、それらのものから、一つ一つ、十字架を通して解放されていくでしょう。そうして古き人が十字架で死に渡されるごとに、私たちの内から、まことの命なるキリストの芳しい香りが外に向かって放たれるのです。
どうか、私たちが日々、この十字架の働きを経験することができますように! 私たちの中で十字架の働きがやむことがありませんように! 

「…あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しい人を着るべきである。」(エペソ4:22-23)

「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。」(ローマ13:14)


復活の命を生きる特権

この道を歩んでいて、本当に素晴らしいと思うこと。
それは全ての人の自己が、主の御前に、同じように死ななければならないという事実。

生い立ちが幸せであろうと、不幸であろうと、
金持ちの家に生まれようと、貧乏な家に生まれようと、
立派な教育を受けようと、教育を受ける機会がなかろうと、
健康であろうと、病に苦しんでいようと、
美しかろうと、醜かろうと、
人から認められていようと、蔑まれていようと、
全ての人の肉を、神は一様に憎むべきものとみなし、十字架につけて完全に呪われ、滅ぼしてしまった。

人は神の目から見て、現在置かれている様々な状態によっては評価されない。
主がOKを出されるのは、古き人がキリストの十字架で死に、復活の命をいただいた者だけ。
ああ、もしもその事実を知らなければ、私はきっと自分を不幸とみなしていたでしょう。

世の人々には、例外なく、自己を誇るために拠って立っている「何か」がある。
ある人は、自分の持ち物を誇る。
ある人は、自分が人から愛されていることを誇る。
ある人は、自分に与えられている高度な知識や優れた才能を誇り、
ある人は、自分の容姿や運動能力を誇り、
ある人は、自分の仕事が順調で、社会から認められていることを、
ある人は、子宝や、善良な夫や妻を、家庭的な幸福を誇る。

クリスチャンでさえ、どれほど熱心に聖書を読み、奉仕したかを自慢するものだ。
人々は互いに品定めし合い、人と自分を比べて喜んだり悲しんだりしている。
全ての人に、自己を立てるために拠って立っている「何か」がある。

しかし、主はそうして互いに誇り合っている私たちの肉を、忌まわしいものとして全て十字架で退けられた。
十字架は、幸福な人も、不幸な人も含めて、あらゆる人の肉を、神の目に忌まわしいものとしてはりつけにしてしまった!!
美しい人も、醜い人も、性格の良い人も、悪い人も、賢い人も、愚かな人も、強い人も、弱い人も、すべて十字架上で完全に否定された。
そして、私たちは、今生きている天然の命によって、これからも生き延びようとするのでなく、新創造へとつながるイエスの復活の命によって生きるようにと、招かれている!

私たちは、肉によって、肉に打ち勝つことは出来ない。
どんなに肉を頼みとしても、自分ひとり、救うことは出来ない。
しかし、主イエスは十字架を通して、私たちの古き人の問題を終わらせて下さった。
主と共に、私たちはこの十字架の死に立ち、その死にとどまりつづけよう。

御子イエスの十字架は、どのような問題にも間に合う。
御子イエスの十字架は、どのような問題にも十分である。
御子イエスの十字架は、人の現在の状態に全く左右されない。

十字架は今日も私たちに語りかけている、
自分の義、自分の方法論、自分が頼みとしてきた術策の全てを捨てて、キリストと共に十字架上で己に死んで、神の与える新しい命によってだけ生きなさいと。

神はあの罪なき尊い独り子をさえ、十字架上で、肉において、滅ぼされたのだ。
御子の清さに比べようもない私たちが、どうして肉を頼みとして誇ることなどできようか。
どんなに肉の強さにより頼んだとて、私たちのうち誰が、罪のない御子さえも死ななければならなかった、あの十字架を経ないで生き残れよう?

主イエスの十字架を通して、古き人に死に、自分の力によらず、
ただイエスの復活の命に生かされるようになる時にこそ、
私たちは十字架があらゆる人・問題に対して十分な解決であることを知る。

あれやこれやの術策はもう要らない。
人に誇るためのアイテムも要らない。
優れた才能、社会的地位、成功も、財産も、家族も要らない。
私の古き人は死んだ、御子イエスと共に十字架の上で。
私の過去も、私の願いも、共に死んだのだ。

今、私を生かしめているのは、御子があれほどまでの犠牲を払って、用意して下さった尊い復活の命。
復活の命だけが、私のあらゆる問題の解決である。
クリスチャンに与えられているのは、イエスの復活の命を実際に生きるという絶大な特権。
どうか主が私たちをあわれんで下さり、私たちが、その特権の果てしなく深い意味を、残された人生において十分に知ることができますように。