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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

キリストを着なさい

「わたしは耐え忍んで主を待ち望んだ。
主は耳を傾けて、わたしの叫びを聞かれた。
主はわたしを滅びの穴から、泥の沼から引きあげて、
わたしの足を岩の上におき、
わたしの歩みをたしかにされた。

主は新しい歌をわたしの口に授け、
われらの神に捧げるさんびの歌を
わたしの口に授けられた。
多くの人はこれを見て恐れ、
かつ主に信頼するであろう。

主をおのが頼みとする人、
高ぶる者にたよらず、
偽りの神に迷う者にたよらない人はさいわいである。
わが神、主よ、あなたのくすしきみわざと、
われらを思うみおもいとは多くて、
くらべうるものはない。」(詩篇40:1-5)

自分の力では絶対に這い上がれないほどの深い深い滅びの穴、罪の汚辱と汚泥の沼に落ちて、そこでもがき苦しみ、悲しみ、打ち砕かれ、絶望した経験のない人には、この箇所を心から理解することは難しいかも知れません。
しかし、神のご計画に従って召された者のために、万事を益として下さる神は、私たちがもしへりくだって、心から主に助けを叫び求め、己に頼らず、主に信頼し、主を信じて従うならば、どんなに深い罪の泥沼からでも、私たちを引き上げてくださり、どんなに取り返しのつかない失敗、どんなに赦されないほどの罪をも、御子の十字架を通して赦し、御子の御血によって私たちを罪から清め、愛によって私たちの恥を覆い、どうにもならない過去でさえ、主の栄光を証する機会へと変えてくださいます。

そして、御霊が私たちの内に宿り、働くようになる時、主は私たちの足取りを確かなものに変えて下さいます。私たちの歩みは、それまでのように、一歩、二歩、歩いては、またすぐに暗闇の中でけつまずいて、罪の泥沼に転落していくような、頼りないものではなくなり、まことの岩なるイエスをしっかりと土台とし、地ではなく、天をまっすぐ見上げて、サタンが足元にしかける罠を見抜いて進んで行けるほどに、堅固にされます。

御霊によって、私たちには新しい思いが与えられます。それまでのように、暇さえあれば、自分を憐れんで愚痴や不平不満を言い、心ふさぎ込んで悲しみに暮れ、あるいは、他人への妬みや陰口に明け暮れていたような汚れた思いが取り除かれ、主を思う新しい清い心が与えられます。
それと同時に、私たちの言葉も清められます。もはや以前のように日がな汚れた言葉ばかりを口にすることはできません。御霊が、私たちに神を賛美する新しい歌を授け、私たちに与えられた新しい心が、その歌を口ずさむよう促すのです。私たちは自分の心が、どういうわけか、いつも主への賛美へと戻って行くのを見て、自ら驚くでしょう。

そして私たちの周囲にいる人も、私たちを見て驚くのです。私たちの治りようのない欠点をよく知っており、私たちを見て、すでにあきらめていた人々、このような人間だけは、神でさえも、変えることはできないと、心ひそかに思っていた人々でさえ、私たちの思いや行動が、全く清められていくのを見て、目を見張り、神が確かに生きておられるのを知って驚くのです。

私たちは復活の主の証人です。私たちの口にする言葉、私たちの思い、私たちの人格、歩み、生きざまそのものが、十字架の死を経て、新しくされていなければ、それはクリスチャンの本当の歩みではありません。もしどの点から見ても、私たちが世人と何ら変わりなく、私たちの内に十字架の死の跡がなく、全く独りよがりな考えに導かれて歩んでいるだけだとすれば、そのような生活は明らかにキリストにならうものではありません。

しかし、私たちの古き人が対処され、私たちが内側から新しくされることは、決して、一瞬で済まされる事柄ではありません。回心は、ひょっとすると、一瞬で起こったかも知れません。しかし、私たちの古き人が対処されるためには、私たちが、生涯かけて続いていく十字架の深い働きに従わなければなりません。
私たちは、主を信じ、罪の汚れから救い出された後でも、自分が多くの点で、まだ古き人の特徴を引きずっていることに、きっと気づくでしょう。私たちは性急で、自分勝手で、主に従おうと思っても、少しもできないことを知り、苦闘します。主に従うと言いながら、その内実は、自分を喜ばせるために生きているだけであることを知って、落胆します。私たちの心の内に、汚れたぼろ服のような古き人にとらわれている自分自身に対する不満と、それを脱ぎ捨てて、キリストにふさわしい新しい人になりたいという切なる願いが起こらなければなりません。しかし、自力で自分を新しくすることはできないために苦しむのです。

私たちは、深いうめきをもって、主によって新しくされることを願わなければなりません。私たちがもしも、現在の自分の中には神への反逆となる要素は何もないと考え、少しも嘆くこともなく、自分に満足していられるのだとしたら、そこには神が働かれる余地は全くありません。ですが、もしも私たちが、心から、古き人から解放されて、キリストを着た新しい人となることを切に願い求めるなら、そして、そのために必要なもの全てを喜んで捧げ、主に従う決意を固めるならば、神はそこから本当に、私たちを新しくするための働きを開始されるでしょう。

私たちが喜んで従いさえするならば、十字架は、生涯、私たちの中で根気強く働き続けます。神の子供たちは、十字架を通して、永遠の命を受け取っただけに終わらず、十字架のさらなる深い働きを通して、肉体という幕屋の中にあるこの地上の歩みにおいても、主によって新しくされることを経験できます。地上にある間、この死の身体から完全に解放されることはできませんが、それでも、あなたがたはキリストを着なさいと、御言葉が教えているのですから、私たちはそれが十分に可能であると信じ、熱心に神に願い求めて良いのです。

世の多くの人たちでさえ、人間の自己があまりにも惨めなものであることを知って、何とかして自己から解き放たれ、自己を超越する方法がないかと探し求めています。古き自己から解放された、新しい人間たちの理想郷を作るために、人類は様々な社会理論をさえ考案しました。しかしそれらのものは一度たりとも人間を改良したり、新しくすることに成功したためしがありません。
キリストにある私たちは、古き人は改良することも、超越することも不可能であり、古き人はただキリストと共に十字架上で死に渡されなければならないことを知っています。私たちは、自己を改良することや、自己を超越することを求めているのではありません。キリストの死によって古き人が死に、キリストの復活の命によって新しく生まれるのでなければ、人間は誰一人、新しくされることは不可能であることをクリスチャンは知っています。

クリスチャンは、十字架の働きを生涯に渡って経験し続けるべきです。それによって、この地上にいる間にも、私たちが新しくされることが十分に可能であり、またそれが憐れみに満ちた神の御心によって、クリスチャン一人ひとりに与えられている大いなる特権であることを知るべきです。古き人を取り除くことは、神の働きです。私たちは主に信頼して、我が身を祭壇に横たえ、大祭司であられる主イエスが、御言葉の剣によって、私たちの肉と魂を刺し通し、私たちの内で、御霊を閉じ込め、御霊の妨げとなっている古き性質を徹底的に取り除かれることを願い求めなければなりません。そうすれば、日々、私たちは何が取り除かれねばならない古きものであるか、それが神に従うことのどれほどの妨げとなっているかを、御霊によって教えられ、それらのものから、一つ一つ、十字架を通して解放されていくでしょう。そうして古き人が十字架で死に渡されるごとに、私たちの内から、まことの命なるキリストの芳しい香りが外に向かって放たれるのです。
どうか、私たちが日々、この十字架の働きを経験することができますように! 私たちの中で十字架の働きがやむことがありませんように! 

「…あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しい人を着るべきである。」(エペソ4:22-23)

「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。」(ローマ13:14)

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復活の命を生きる特権

この道を歩んでいて、本当に素晴らしいと思うこと。
それは全ての人の自己が、主の御前に、同じように死ななければならないという事実。

生い立ちが幸せであろうと、不幸であろうと、
金持ちの家に生まれようと、貧乏な家に生まれようと、
立派な教育を受けようと、教育を受ける機会がなかろうと、
健康であろうと、病に苦しんでいようと、
美しかろうと、醜かろうと、
人から認められていようと、蔑まれていようと、
全ての人の肉を、神は一様に憎むべきものとみなし、十字架につけて完全に呪われ、滅ぼしてしまった。

人は神の目から見て、現在置かれている様々な状態によっては評価されない。
主がOKを出されるのは、古き人がキリストの十字架で死に、復活の命をいただいた者だけ。
ああ、もしもその事実を知らなければ、私はきっと自分を不幸とみなしていたでしょう。

世の人々には、例外なく、自己を誇るために拠って立っている「何か」がある。
ある人は、自分の持ち物を誇る。
ある人は、自分が人から愛されていることを誇る。
ある人は、自分に与えられている高度な知識や優れた才能を誇り、
ある人は、自分の容姿や運動能力を誇り、
ある人は、自分の仕事が順調で、社会から認められていることを、
ある人は、子宝や、善良な夫や妻を、家庭的な幸福を誇る。

クリスチャンでさえ、どれほど熱心に聖書を読み、奉仕したかを自慢するものだ。
人々は互いに品定めし合い、人と自分を比べて喜んだり悲しんだりしている。
全ての人に、自己を立てるために拠って立っている「何か」がある。

しかし、主はそうして互いに誇り合っている私たちの肉を、忌まわしいものとして全て十字架で退けられた。
十字架は、幸福な人も、不幸な人も含めて、あらゆる人の肉を、神の目に忌まわしいものとしてはりつけにしてしまった!!
美しい人も、醜い人も、性格の良い人も、悪い人も、賢い人も、愚かな人も、強い人も、弱い人も、すべて十字架上で完全に否定された。
そして、私たちは、今生きている天然の命によって、これからも生き延びようとするのでなく、新創造へとつながるイエスの復活の命によって生きるようにと、招かれている!

私たちは、肉によって、肉に打ち勝つことは出来ない。
どんなに肉を頼みとしても、自分ひとり、救うことは出来ない。
しかし、主イエスは十字架を通して、私たちの古き人の問題を終わらせて下さった。
主と共に、私たちはこの十字架の死に立ち、その死にとどまりつづけよう。

御子イエスの十字架は、どのような問題にも間に合う。
御子イエスの十字架は、どのような問題にも十分である。
御子イエスの十字架は、人の現在の状態に全く左右されない。

十字架は今日も私たちに語りかけている、
自分の義、自分の方法論、自分が頼みとしてきた術策の全てを捨てて、キリストと共に十字架上で己に死んで、神の与える新しい命によってだけ生きなさいと。

神はあの罪なき尊い独り子をさえ、十字架上で、肉において、滅ぼされたのだ。
御子の清さに比べようもない私たちが、どうして肉を頼みとして誇ることなどできようか。
どんなに肉の強さにより頼んだとて、私たちのうち誰が、罪のない御子さえも死ななければならなかった、あの十字架を経ないで生き残れよう?

主イエスの十字架を通して、古き人に死に、自分の力によらず、
ただイエスの復活の命に生かされるようになる時にこそ、
私たちは十字架があらゆる人・問題に対して十分な解決であることを知る。

あれやこれやの術策はもう要らない。
人に誇るためのアイテムも要らない。
優れた才能、社会的地位、成功も、財産も、家族も要らない。
私の古き人は死んだ、御子イエスと共に十字架の上で。
私の過去も、私の願いも、共に死んだのだ。

今、私を生かしめているのは、御子があれほどまでの犠牲を払って、用意して下さった尊い復活の命。
復活の命だけが、私のあらゆる問題の解決である。
クリスチャンに与えられているのは、イエスの復活の命を実際に生きるという絶大な特権。
どうか主が私たちをあわれんで下さり、私たちが、その特権の果てしなく深い意味を、残された人生において十分に知ることができますように。

十字架に戻れ!(2)

ここ数日、サタンの放つ火矢に私は連日のように悩まされていました。その戦いの中で私は徐々に後退していました。十字架について語りながらも、私自身が、その十字架にとどまることが困難となっていたのでした。
 サタンは、アダムから今に至るまで、常に人間を研究して来ました。彼らは人の弱点を把握するプロと言って良いでしょう。ですから、私のどこをどのように攻撃すれば効果的なのか、暗闇の勢力が知らないはずがありません。

 サタンとのその軍勢の目的は、神の子供たちを十字架から引き離すことです。十字架を離れては、私たちには悪魔に打ち勝つ力がないことを暗闇の勢力はよく知っています。神の子供たちが十字架のもとを離れるようにと、敵が仕掛けてくる攻撃や作戦は数え切れません。

 暗闇の勢力は、人の中にある、まだ十字架で対処されていない「古き人」を足がかりにして攻撃します。彼らは私の弱点に対して一斉に火矢を放ち、私が霊的な穏やかさを完全に失うように仕向けます。私の願いが踏みにじられ、私が自尊心を傷つけられ、過去の悲しい出来事を思い起こさせられ、極度の悲しみや、疑いや、憤りで心がいっぱいになるような出来事を引き起こし、私が圧迫されて、それらの感情に完全に落ち込んでしまうように仕向けるのです。

 一例を挙げるならば、しばらくの間、私にはどういうわけか、まるで、会う人、会う人のすべてが、私の過去の心の傷を再び思い出させ、それを生きたものとするためだけに特別に派遣されて来たかのように見えました。耳に入って来る会話という会話のすべてが、私に特別な惨めさや、むなしさや、孤独を味わわせました。私は外から負わせられる重荷にどのように対処すべきか、まだ学んでいませんでした。その感覚があまりにも強く押し迫ってきたので、私は耐え切れないほどに圧迫され、魂は混乱の渦に投げ出され、ただ耐え切れない思いで、そこから逃げ出し、主の御許で涙を流すという他になすすべがありませんでした。

 その惨めな印象が覚めやらぬうちに、さらに、私が傷ついていることをよく知っている暗闇の勢力は、今度は私に自分を憐れむようにとささやきかけて来ました。「あなたには、未だに対処されていない心の傷があるんだよ。そんなにも心の傷の多いあなたが、すぐに十字架を負って、神の召しに応じるなんて、とても無理。あんまり高度な話題にふけらずに、今は自分の弱さを十分に考慮して、自分をもっともっと大切にした方が良いですよ。今は傷ついた感情をいたわり、神と人に十分に憐れんでもらうことだけを考えなさい。」

 連日のように、こうして、私の「心の痛み」が強調させられる事件が重なり、私はへとへとになりました。一体、このような場合、どうやって自分を憐れまないでいられるでしょうか。十字架は、こういう事柄に対処するには、あまりにも漠然としており、一般的すぎて、特に、私のような特殊な事例には当てはまらないように思えてきました。十字架の他に、もっと人の心の傷を早急に思いやりをもって癒すために、個別の、温かい方法がないものでしょうか。だんだん私はそのように思い始めていました。

 しかし、そんな考え方こそが欺きなのです!
 神は私が過去に立ち戻って、再び自分の心の傷を温め返し、自分を憐れみ、いたわるようにとは、全く命じておられません。神が命じておられるのは、私がそうした生まれながらの命に基づく思いや感情に従って歩むことではありません。むしろ、神が私に願っておられるのは、それらすべてがすでにキリストと共に死んだのだという事実を私が信仰によって受け取り、それらの圧迫が押し寄せてくる時に勝利すること、たとえ私自身は弱く未熟であっても、主によって「強くなる」秘訣を学ぶことでした。

「神がわたしたちの中で働かれるのを妨げるものの一つに、邪悪な生まれながらの命の活動があります。それは絶えずわたしたちをその霊(聖霊―筆者注)から引き離し、その霊の中を歩けなくさせます。わたしたちの霊は、絶えずこの邪悪な影響を受けています。そして、わたしたちは自分の霊を支配できず、神の静けさの中を歩くことができません。

この十字架につけられていない邪悪な性質はまた、サタンとその邪悪な霊が利用して、燃え立たせることができる道具でもあります。それゆえ、それはわたしたちとやみの力との戦いの多くの原因となるものであり、彼らが絶えず攻撃するための『土台』となるものです。<…>彼らはそこに『土台』がある限り、繰り返し戻ってきて戦いをいどむのです。」(ウォッチマン・ニー全集第一巻、「クリスチャン生活と戦い」、付録1、チャールズ・アシャー、「十字架に戻れ!」、p.244-245)

 何と恐ろしいことでしょうか! 私たちの中にある十字架にまだつけられていない古き人の性質、アダムに属する生まれながらの肉なる性質(旧創造)は全て、知らず知らずのうちに、サタンに用いられ、サタンが私たちを攻撃するための土台となっているのです! たとえば、もしも私が過去に受けた心の傷、そこから来る痛み、悲しみや孤独といったものに固執し、それらが十字架を通して死んだことを認めようとせず、未だ生きた傷とみなすならば、それは絶えずサタンと邪悪な霊たちが戻って来ては、攻撃をしかける足場となるのです。神の子供たちの多くは、神を信じた後も、なおもこうしてサタンの道具とされています!

 この他に、私たちの怒りっぽさ、疑り深さ、自己憐憫、妬み、恨み…数え切れない性質がサタンの道具となります。たとえば、私たちは人から自尊心を傷つけられる時に、何と容易に自制心を失って、怒り出すでしょうか。そういう時に、どれほど口にすべきでない言葉を容易に発するでしょうか。また、一旦怒り出すと、どれほど長く、怒りから抜け出せないでいるでしょうか。それがサタンに機会を与えることであると知っていながら、私たちはそれでも怒りを捨てようとせず、死の毒に満ちた言葉を吐き続けるのです。また、私たちは自分が傷つけられたと思うと、死をきたらせるような悲しみにさえ簡単に溺れてしまいます。

 他にも、私たちの名誉欲、自己愛、競争心、妬み、高慢などがどれほど私たちの生活を害して、絶えず、キリストとの結合を失わせているか知れません。さらに言うならば、否定的な性質だけでなく、一見、肯定的に見える性質でさえ、それが生まれながらの命に属する性質であるならば、私たちを神の御心から引き離してしまう障害となり得るのです。

 サタンと邪悪な霊たちは、私たちの弱さと欠点を知りつくしています。ですから、彼らは私たちが肉に従って歩むよう、絶えず、私たちの十字架につけられていない肉なる性質に攻撃を仕かけ、その性質を燃え上がらせようとするのです。たとえば、もしもあなたが自己憐憫を十字架に渡さないならば、闇の勢力はそこを拠点として、あなたが四六時中、自己憐憫に溺れるよう攻撃してくることは避けられないでしょう。

 私たちはそれぞれ、自分の中で対処されなければならない肉なる性質が何であるかを、ある程度、知っています。どうすればそれに打ち勝ち、肉によってではなく、神から与えられた新しい命によって歩むことができるのでしょうか。そうするためには、まず、あなたは自分はキリストと共に十字架につけられ、そこであなたの古い命は彼と共に死んだ、という事実に堅く立たねばなりません。

「カルバリは、キリストがあの木の上であなたの罪を担われただけでなく、罪人たちを木へと連れて行ったこと、すなわちあなたをそこへと連れて行ったことをも意味します。あなたが、神は古い命につぎ当てをするのではなく、あなたがそれを十字架につけられたと見なして、彼から新しい命を受け取るよう要求されることを認識するようになる時、あなたは新しい命の中には、それに属するすべての特質があることを見いだすでしょう。古いアダムの命にはそれ自身の特質があり、新しいアダムの命にもそれ自身の特質があります。<…>

 さらに、人の代表としてキリストは、あのカルバリの十字架へと罪人を連れて行かれただけでなく、その十字架の上で、またその十字架の死を通して、サタンを徹底的に征服されました(コロサイ二・十五)。こういうわけで、クリスチャンの側では、サタンを恐れる必要は全くありません。サタンは、カルバリの勝利を知っている魂にとっては、完全に征服された敵です。」(付録4、ジェシー・ペン-ルイス、「勝ち得て余りがある」、p.283-284。以下は全てペン-ルイスからの引用。) 


 サタンが私たちを肉なる性質に従って歩ませようとする時、私たちはカルバリに立って、自分の古き人そのものがすでにキリストと共に死んだという事実を、信仰によって自分に適用し、再び肉によって歩ませられることを断固拒否する権利があります。それでも、ある人々は言うでしょう、「私のかれこれの性癖はもう何十年間と続いているのですよ、これを直すためにはきっと特別長い訓練が必要になるはずです」、「私の心の傷は特別に深いのです。どんな方法によっても、それを癒せるとは思えません」。

 しかし、私たちが自分なりの方法で古き命の性質を対処しようとしている限り、それは何の解決にも至りません。私たちの肉に改良の余地が全くないからこそ、神は人の肉を一切、キリストと共に十字架につけられたのです。
 私たちは罪と完全に訣別する決意を持つべきです。もしも私たちが何らかの悪癖(または性質)を手放そうとせず、それを大目に見続け、それを甘やかそうとするならば、神はその罪(性質)を対処することができません。私たちは、自分を絶えず支配しようとしている邪悪な生まれながらの命の性質が何であるかを知った上で、主によってそれと全面的に訣別するという願いをはっきり持つ必要があります。そして、その古い命の性質はキリストと共に十字架ですでに死んだのだという事実に信仰によって立ち、その性質に、これ以上、支配されない権利を私たちは持っていることを覚え、古い命の性質が活動しようとする時、その権利をいつでも行使する必要があります。

「…キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。」(ローマ六・十―十一)

キリストの死を通して救われた罪人は、罪との関係を絶つ権利を持っています。彼は、勝利を得るイエスの御名において、『罪にはわたしを征服する権利はありません』と言うことができます。
また例えば、あなたはローマ人への手紙第六章六節の立場に立って言うこともできます、『疑いを抱かせる習癖は、わたしに対して何の権利もありません。わたしはそれによって縛られることを、わたしのために死んでくださったかたの御名において、絶対的に拒みます』。

あなたは贖われた魂として、こう言う権利を持っています。なぜなら、十字架上でみわざがすでにあなたのために成されたからです。あなたは、キリストがあなたのために獲得されたすべてを捕らえ、それを自分のものとすべきです(ローマ六・十三)。このような罪に対する勝利はあなたの栄光ではありません。なぜならそれは<…>十字架上で成就されたキリストのみわざを通して獲得されたものだからです。<…>

 カルバリの勝利の事実と、サタンは征服された敵であるという真理をつかみましょう。キリストは敵をカルバリで征服されました。あなたがローマ人への手紙第六章に立ち、古い命は十字架につけられたと見なす時、あなたの霊はキリストへと結合されます。

『主に結合され、一つ霊となる!』。あなたは一人で出て行って、強くて恐ろしい霊の敵と戦うのではありません。『主と結合された』あなたの霊は、彼と『一つ霊』です。キリストは征服者です。そしてあなたは、一つ霊の中でこの征服者と結合されています。

 神は、あなた自身によってあなたに勝利を賜るのではありません。彼は、あなたが霊の中で勝利者に結合されることによって、あなたに勝利を賜るのです『あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである』(Ⅰヨハネ四・四)。<…>わたしたちは征服者に結合され、勝利者に結合され、一つ霊の中で結合されているのに、敵の前ですくみ、震えるのでしょうか?」(p.285-286)

 あなたの古い命の性質がキリストと共に十字架につけられたという確信に立つ時、初めて、あなたの霊はキリストに結合されて、キリストという征服者を通して、あなたは古い罪なる性質に勝利する力を得るのです。圧迫がやって来る時、あなたは自分の怒りや、悲しみや、憐れみなどによってそれに対抗しそうになるかも知れませんが、生まれながらの古い命から出て来る思いや力をもって戦うべきではありません。キリストとの結合の中にとどまるべきです。キリストとの結合のない戦いはあなたを勝利に導かず、かえって、あなたを肉によって歩ませ、サタンに支配させることにつながるのです。

「…あなたがカルバリへとやってきて、古いアダムの命がキリストと共に十字架につけられたという事実に堅く立つ時にはじめて、その『結合』がわかるでしょう。なぜなら、『古い命』は邪魔をして、何らかの『戦い』をしてしまいますが、それは敵に対して何の役にも立たず、むしろあなたを支配する立場と力を敵に与えてしまいます。

こういうわけで、古いアダムの命は十字架につけられたと見なされなければなりません。なぜならそれはサタンにとって道具であるからです。もし古い命が絶えず死の立場にとどめられるのでなければ、それはサタンが『火の矢』を放つ道具となります。サタンは、旧創造すべてを支配する全き権利を持っています。彼は、あなたの中にある古い命のまだ『十字架につけられていない』部分を知っています。そして、すべての火の矢をその部分に向けてきます。これらの矢には、その先端に地獄の火(ヤコブ三・六)がついています。そして、それがあなたの中に入ると、燃え上がり、炎を上げて燃え、あなたを『炎』にしてしまいます。
 あなたはクリスチャンの中に『炎』を見る時、それがどこから来るのかわかります。それは、古い命からやってくるのです。」(p.286-287)

 私たちの旧創造、私たちのアダムに属する部分、私たちの内で十字架につけられていない古い命の性質は、サタンに打ち勝つ材料とならないどころか、むしろ、サタンに利用される絶好の足がかりとなってしまうのです。サタンはあらゆる機会をとらえて、私たちの古い命の性質を燃え上がらせようと、地獄の火のついた矢を放ち、もし私たちが十字架の立場に立ってそれらの古い命の性質が死んだものであることを認めないならば、私たちの全身がその炎に飲まれてしまう結果になるのです。(自尊心をひどく傷つけられた人が、しばしば、制御できない怒りや悲しみ、恨みや嫉妬などにとらわれて「燃え上がって」しまうことを思えば、このことはよく理解できるでしょう。そして彼らは間もなく自分を不義の道具として捧げてしまうことになるのです。)

「舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。」(ヤコブ三・六)

 このような炎で全身を燃え上がらせてはなりません。私たちが自分の身体を不義の道具とするようなことがあってはいけません。しかし、それを避ける方法は、ただ十字架にのみあります。

「神の子よ、あなたは『かっとなって』、言うべきでないことを言うことがあるでしょうか? あなたは不親切な事柄にすぐかっとなって、サタンによって『火で焼かれる』のでしょうか? これは、勝利を得ることができる『戦い』ではなく、常に敗北する戦いです。あなたは、ローマ人への手紙第六章の重要性を見ているでしょうか? もしあなたがローマ人への手紙第六章に立たないで、サタンを攻撃しようと企てるなら、何と彼はあざけり笑うことでしょう!

 彼は、『なぜわたしに属する『持ち物』がそこにあるのか。彼らはわたしの『物』をたくさん持っている』と言うでしょう。あなたは『強い人』を縛り上げることはできません。なぜなら、彼の家財は、あなたの中にあり、またあなたに関するものだからです。こういうわけで、あなたはカルバリの立場を取り、絶えず古い命が十字架につけられていると見なさなければなりません。それは、地獄からの火があなたに降りかかり、『生存の車輪』を燃やすことがないためです。それにはすでに、サタンがエデンで人に対して勝利を得たことを通して、蛇の毒があります。

 この黄泉のししとの戦いのためには、小羊の霊、しし―小羊、イエスの霊がなければなりません。火の矢がやってくる時、あなたの中に小羊―霊のおられることが見いだされるのでなければなりません。しかしながら、多くの人々はあなたを踏みつけ、虐待し、苦痛を加えるかもしれません。あなたの中には、『義の憤り』と呼ばれる炎があってもいけません! カルバリの解放が、そしてカルバリの小羊―霊が、必要となります。」(p.287-288)


 アダムの堕落以来、この世だけでなく、人の旧創造に属する部分も全て悪魔の家財となってしまいました。私たちは救いを得る前には、ただ罪にそそのかされて暗闇に生きるだけであり、存在そのものが悪魔の持ち物であったと言えるでしょう。しかし、救いを得た後でさえ、私たちの古き命の中で十字架につけられていない性質は、まだサタンの「家財道具」となって、敵に利用され続けています。

 「…まず強い人を縛りあげなければ、どうして、その人の家に押し入って家財を奪い取ることができようか。縛ってから、はじめてその家を略奪することができる。」(マタイ十二・二九)

 サタンの支配下から、捕われている家財を取り戻すためには、誰かが「強い人」(サタン)を縛り上げねばなりません。そうしてサタンを征服されたのは、カルバリにおける御子イエスだけです。ですから、サタンを征服したカルバリの立場に立つことによってしか、私たちにはサタンの道具とされている古き命の性質に打ち勝つことはできないのです。
 たとえ人からどのように侮辱され、自尊心を傷つけられたとしても、生まれながらの命から出て来る義憤などによってそれに対抗してはなりません。肉の力によって戦おうとすれば私たちは炎に焼かれなければならず、ただ敗北が待っているきりなのです。サタンに立ち向かうためには、獅子のように強い小羊の力によって、霊的に武装する必要があるのです。
<つづく>